聞き書きは、なぜ「難しい」ものになってしまったのか――「聞き書き」という手法の本来的可能性についての一考察

聞き書き」は、民俗学の主要な手法のひとつとして認識されてきた。それは近年「インタビュー」や「取材」なども含めて、オーラルヒストリーやエスノグラフィーなど、人文・社会科学系の分野での「質的研究」領域の進展と共に改めて注目されている。その「聞き書き」が、民俗学における本来の意味や趣旨と異なり、過剰に「難しい」ものとして語られるようになっていったのはなぜなのか。方法的な自省のための前提についての考察を試みた。

●はじめに

 近年、人文・社会科学系の分野でオーラルヒストリーやエスノグラフィー、あるいはいわゆる「質的研究」が注目されてくるにつれ、「聞き書き」もまた、これまでと違った照明の当てられ方をしてきています。「インタビュー」や「取材」といった派生的なもの言いも含めて、いわゆる「聞き書き」という方法自体についての自省的言及も、それらを使い回す立場の研究者などの当事者から盛んになってきている。むしろ、そのような方法としての自省的言及をあらかじめアリバイ的にしておくのが、質的あるいは記述的研究にとってひとつの作法のようにさえなっているようなところもあります。*1

 それらの現象自体は悪いことでもないし、必要なことでもあります。それは認めるにやぶさかではない。ただ、同時に気になるのは、その手法としての「聞き書き」がその過程でどこか必要以上にものものしく、何かもっともらしく語られるものになっているらしい、そのことです。それによって必然的に、何か「聞き書き」やそれに類するインタビューや取材、ざっくり言えばそれら「現場」「フィールドワーク」系の作業自体がことさらに難しく、近寄りがたいものとしてどんどんイメージされ、不自由を伴いつつどこか特権的なものとして焦点化されてきている印象が強くあります。

 本来、「はなし」を「聞く」、他人の語る「はなし」に耳傾けるということそれ自体は、誰にでもできる営みとして想定されてきたはずでした。少なくとも、それら「聞き書き」系の作業を早くから方法として、道具として使い回してきたと昨今思われてもいるらしい民俗学においては、確かにそのはずでした。それは、同じく民俗学でかつてよく使われていた民俗「採集」というもの言いが、素朴な昆虫採集や鉱物採集などと正しく地続きの、とりあえず誰にでも楽にできるしそのように思える、そういう営みとして表象されていたのとどこか共通の想定に立ったものでした。

 別な方向から言えばそれは、たとえば「本」を「読む」ことのように、文字を読み、そのための能力を養い、それら文字の書物や資料をきちんと扱う作法も身につけ、そのような修練をある程度積み重ねた上でないと可能にならないような技術でなく、ふだんの生活あたりまえの日常を生きている中で誰もが概ね持っている「話す」「聞く」という素朴な営みに依拠した技術を使った、それゆえに広がりの期待できた「野の学問」としての民俗学という性格とも不即不離のものだったはずです。*2

 それが、どうして「難しい」ものとされるようになっていったのか。日本語環境における人文学一般での昨今の「聞き書き」への注目という現象には、その前提というか背景として、民俗学におけるそれら「聞き書き」をめぐる意味づけられ方の来歴もどこかでからんでいるように思えます。


民俗学における「聞き書き」の本来

 民俗学における「聞き書き」が「難しい」ものとされていった過程は、ある意味シンプルでした。それら「聞き書き」の対象となる地元の衆、「ムラ」に住まいする人たち=「ムラビト」≒「常民」の「ココロ」を「開かせ」た上でないと、こちらが聞きたいと思っている「ほんとうのこと」は話してくれない、という、それ自体はひとまずもっともに思える説明が介在して、聞き取るべき内容、目標としての語られる「はなし」へ到達することの困難さが意識されるようになってゆきました。その過程で、それら「はなし」を「聞く」こともまた、難しいこととして引きずられていった、大枠としてそういう流れは確かにあったでしょう。*3

 そもそも「聞き書き」の目的とは、未だ文字ないしは文字に準じる記録された資料になっていない、生身の人間の記憶や経験の水準を改めて操作可能な「資料」へと変換してゆくことでした。そこで引き出されるべき内容とは、目的によって違えど、いずれ生身の人間を介して「話しことば」として語られるものであること、いわゆる「会話」の不定形で常に〈いま・ここ〉でしかあり得ない現前の中に、目的に応じて必要な資料や素材を発見することが求められていました。とは言え、それは昆虫や鉱物の「採集」のようにあらかじめ個々に孤立したひとつの具体的なモノ、実在としてわかりやすく、主体とは別に外在しているわけではない。生身の主体との関係と場という変数を介して立ち現れるしかない「話しことば」の融通無碍の中から、聞き手であるこちら側がある意図と意志を伴いながら積極的に切り出そうとしないことには意味ある資料や素材になり得ない、そのような存在の仕方をしているものでした。*4

 そのような存在の仕方しかできない資料や素材は、具体的な「聞き書き」の現場においては、のべたらにそこにある「会話/おしゃべり」としての水準の手前にひとつ、ある意味中間の媒介項として「はなし」という水準を介して理解されてゆくようなものでした。話しことばで交わされる、それ自体はとりとめないとしか言いようのない「会話/おしゃべり」の中に、「はなし」という水準のまとまりが媒介項として現前すること。「聞き書き」を介して聞きとるべき内容がどのように想定されていたにせよ、生身の場に身を置いた「聞き書き」の主体にとってそれはとりあえず「会話/おしゃべり」とその中にはらまれる媒介項としての「はなし」というまとまりとしてしか認識できない、そのようなものでした。*5

 しかし、もう一度確認しておきましょう。そのように「聞き書き」の過程をつぶさに分解していったとしてもなお、相も変わらず「会話/おしゃべり」を、そしてその中にはらまれる「はなし」を「聞く」ことは、それ自体として決して難しいことではあり得ません。なぜなら、どのような水準どのような内実を伴ったものであれ、話しことばの「会話」を日常行うことは、ある文化の内側に生まれて社会化してゆく過程でその成員の多くが概ね身につけることを期待されている能力であり、敢えて言えばそれ以上でも以下でもない。見ず知らずの生身の人間、そのままならば決して出会うことも行き会うこともないままだったような他人と関わり、「会話/おしゃべり」を仕掛け、何か「はなし」を引きだそうとする、そんな傾きをあらかじめ持った上での「きく」という行為は、「きく」こと自体の困難さというより、そのような予断や目的意識を抱え込んだ特殊な聞き手の側であるこちらの生身の裁き方、内面も含めた屈託の仕方みたいなものが例外的なもので厄介でめんどくさいがゆえに、普通ならば自然に自明に行っているはずの話しことばにまつわる技術が、「きく」ことも含めての困難さの方へひとくくりにされていったようなところがあります。

 そしてその困難さは、そのまま容易に「聞き書き」をする対象である、眼前の話し手の生身の側にも勝手に折り返され、投影されてゆきました。たとえば、口承伝承系のそれこそ民話研究、昔話研究といった領分の人がたにこれは顕著でしたが、「何百話級の話者」といったものさしで「話者」があらかじめランクづけされていて、傍で見ているとあたかも何かゲームのステージをクリアしてゆくように、それらランクに従って自分達「はなし」を「聞く」側のステージをあげてゆくことに愉しみを見つけているようなところも、ある時期以降は当たり前にありました。少なくとも今から30年ほど前、1980年代いっぱいくらいの民俗学のありかたの中にはそういう習い性が普通に組み込まれていた。それはおそらく、先に述べたような「はなし」を「きく」ことについての聞き手の生身の内側に宿った困難さをそのまま話し手の側に投影してゆくようになった結果であり、そこに至る過程もまた「歴史」として生成されてきていたはずです。*6


●「聞き書き」と「民俗誌」

 「聞き書き」をめぐるそのような予期せぬ部分も含めた特権化、持ち上げられ方は、これまでの経緯を考えてみると、たとえば「民俗誌」「エスノグラフィー」など、「聞き書き」を介して行われる作業の最終的なアウトプットとして想定されていた記述をめぐる意味づけられ方の来歴と、かなりの程度重なっているところがあります。

 「土地の人」が読めるような水準の記述、が想定されるのが「民俗誌」でした。殊俗誌やモノグラフといった言い方をされたこともありますが、いずれそのような自然言語で、もっとラフに言うならば日常の話しことばの水準でつづられた記述。それと同様の文脈で、その「土地の人」がふだん使っていることばやもの言い、日常言語の水準にあるのが「はなし」であり、その「はなし」の脈絡を記録してゆく、メディアとしてコンバートしてゆく際の作業こそが「聞き書き」で、これまた敢えて言えばそれ以上でも以下でもなかったはずです。いずれにせよ、「土地の人」であるような普通の人々の日常的なことばと情報環境に向かってある種神話的に開かれている、そのような記述に収斂してゆくようなテキストとして「民俗誌」も、そしてまたそこに至る方法としての「聞き書き」も、当初は共通のありようを想定されていたはずなのです。*7

 「はなし」を「聞く」こと、他人の生身が語ることに同じ生身として共有する同じ場で耳傾けることというのは、そのように「誰にでもできる」こととして想定されていました。それがどこかで妙な技術信奉、ある意味「芸」「職人芸」としての「聞き書き」を特権的に祭り上げてゆく過程が介在していったらしい。それは、民俗学界隈からある時期以降、民俗学そのものを特徴づけるもの言いとしても使い回されるようになっていったあの「あるく・みる・きく」を前提として言えば、「あるく」ことを過剰に祭り上げてゆく過程ともおそらくシンクロしていたようです。

 これまでも何度か触れてきていますが、この「あるく・みる・きく」というスローガンは改めて、不思議なものです。「あるく」は移動、「みる」「きく」は素材収集の技術について言われているとして、そしてそれらを統合した行為として「旅」が、言い換えれば民俗学の「調査」「取材」「採集」があるのだと思われていたとして、ならばさて、それら全てを統合するはずの「何のために」という部分はそのものとして語られていない。まさに「あるく・みる・きく」for what なのですが、しかしその「何のために」がなくてもうっかりひとり歩きしてしまうくらいに、この「あるく・みる・きく」はどうやら魅力的な何かを宿してしまうもの言いになっていたらしい。*8

 「きく」は「はなす」に、「みる」は「みせる」に対応しています。と同時に「きく」は「きかれる」に、「みる」は「みられる」という客体との関係を前提にした裏打ちもされているはずです。そして、冒頭の「あるく」は「みる」「きく」主体を「聞き書き」の現場へ運んでゆく過程、柳田國男流に言えば「方法としての旅」を表現したものだとすれば、これは全体として「聞き書き」へと向かう生身の主体が「方法としての旅」を介して現場に赴き、その場で行われる「聞き書き」という行為自体も含めての一連の作業過程をひとくくりに表現したものだと言えます。ならば、どうしてそれが民俗学そのものを象徴するようなもの言いとして流布されるようになっていったのか。

 ここでは文字を介した「よむ」「かく」はひとまず除外されています。「みる」「きく」もまた広義の「よむ」行為であるといった解釈も可能ですが、にしても、最終的に何らかの文字を介したアウトプットに変換してゆくことが想定されるはずの知的生産の過程としては、最後の「かく」が意識されていないのは奇妙です。でもだからこそ、「聞き書き」に象徴されるような手法の独自性が突出して意識され、それがまた民俗学やそれに類する「聞き書き」を手法とする領域を過剰に表すものにもなってゆけたらしい。「かく」アウトプットを想定しない、それ以前の資料収集の段階に関わる手法のみで集約的に表象されてしまう営み。「旅」を介して「はなし」を「きく」こと、としての「聞き書き」。この代わりにたとえば「取材」をあてはめてみても、事情はどこか似てきます。ある種職人芸のような装いでもっともらしく語られる、難しい秘儀として特権的なものになっていった「聞き書き」「取材」という資料収集の段階は、その結果としてのアウトプットである「民俗誌」「エスノグラフィー」など「書かれたもの」も共に引きずりながら、ある種特別な装いをまつわらせていったようです。*9


●「問答」という形式とその本来

 「聞き書き」が前景化してゆく以前、かつての民俗「採集」の営みにおいては、質問に対する答え、という形式を想定して「調査項目」が設計されていました。一問一答式というか、ひとつの「問い」に対して答えがそれぞれ想定されている。その想定される「答え」が、実際に引き出すべき「はなし」そのものであるはずはないのですが、そしてそのような「はなし」のまるごとの中から本来、話し手の側が選んで整形しながら応答してゆくのが一問一答式「調査項目」の本来のありようだったりもするはずなのですが、いずれにせよそれら「調査項目」的方法意識ないしは発想にとって、「はなし」のまるごと、面倒なもの言いを弄せばそれら日常の語りの「会話/おしゃべり」を前提とした開かれ具合というのは、実は相性の良くないものだったのかも知れません。まただからこそ、「調査項目」的な標準化を外形的にせよ設定してゆくことで、「調査」(このもの言いも実は「聞き書き」と本質的になじみにくいものだったりするようですが)の「客観性」や「科学」としての体裁を整えようとする傾きも強くなっていたと言えるでしょう。*10

 そのように、「聞き書き」とは、まず「問答」として理解されるようなものでした。「問い」と「答え」とのやりとりの連鎖こそが「会話/おしゃべり」の基本単位であり、その過程で「はなし」を発見してゆく、いや、「発見」という言い方が誤解を招くのなら「引き出してゆく」でも構いませんが、いずれそのような話す主体と聞く主体との間に、その関係の場に間主観的に宿り共有されるであろう何らかの文脈を伴った「はなし」こそが、聞き書きによって合焦されるべき現場での一次的対象であったはずなのです。

 とは言え、それは「論理」や「文脈」を整然と、ほとんどリニアーな展開しかないかのようにたどりながらある一定の「結論」なり「到達点」なりに至る、といったものでは全くない。それこそ、たとえば宮本常一が書き留めたような「ムラの寄り合い」の、あのいつ果てるともない延々と続くよもやまばなしにしか見えないような現前だったりするはずです。そう考えれば「問答」というもの言いもまた、「会話/おしゃべり」の現前、〈いま・ここ〉におけるまるごとを理解してゆく上で、それほど適切な枠組みとして理解されていたとは言い難い。「問答」というやりとりが成り立つ関係と場において初めて「はなし」も見えてくる、そんな「はなし」を引き出すための手続きとして「問答」という形式が想定されていたはずなのですが、実際に「問答」を可視化して、複数の調査者間に共有し得る手法としてゆく際には「調査項目」的に「問答」をバラバラに、一問一答形式に収納してしまうしかありませんでした。比喩的に言えば、本来ならば「上演台本」のような使われ方、演じられ方の手引きとして想定していたと思われる「問答」という形式も、実際にはそれ自体が先験的に固定された「正解」として理解され、個々の調査者が律儀にそれらの「問い」を項目的にバラバラに、まさに〈いま・ここ〉のまるごととして現前している「会話/おしゃべり」の関係や場に還元することなど考えないままに発される、そんな不自由がもたらされていたと考えられます。*11

 これら「会話/おしゃべり」には、話す側と聞く側の「関係」の問題が抜き難く介在しています。それはありがちなラポールがどうの、信頼関係がどうの、といったレベルではもちろんなく、共に生身の人間である以上、属する社会的立場もあれば背景も文脈もあるし、何よりどのような経験を経由してそこにいるのか、そしてそれはその後の過程も含めてどのように変わってゆくのか、といった膨大な変数と共に設定されざるを得ない、いずれあれこれからみあった「関係」でもあります。

 それは通り一遍のものでなく「気の置けない」関係として、裏返しに言えば「気」を間に置かざるを得ない、「気兼ね」をせざるを得ないような関係では「ない」ような水準になって初めて、そのような「問答」もまたようやく活きたものになり、「はなし」を引き出して共に抱いてゆく媒介項になってゆける。それには間もかかり、またそれに見合った手間もかかる過程のはずでした。敢えて言えば「なじむ」といったもの言いがおそらく最もふさわしいような、生身の間尺での距離感や速度、関係のつむぎ方などに本質的に関わってくるような。

 けれども、このような「なじむ」ということについて、何も民俗学に限らずいわゆる学問の領域、いや、もっと言えば概ね文字や活字の間尺や速度をあらかじめ自明としてきた知的作法一般においては、それを「方法」として自省してくることはほとんどなかったのかも知れません。時間や回数などによって外的に「客観的」「科学的」に計測され、「合理的」「効率的」に単線的に作業を積み上げ前方へと進行してゆく、そんな過程としてしか考えられないそれら知的作法の自明性においては、そのような「なじむ」の方法性というのは、たとえばあの「遊んでゆく」というもの言いとそれに伴う感覚を前提にした時間と場所の共有をゆっくりと、ゆったりとあたりまえのものにしてゆく過程への信心や信頼がないと、おそらく本当のところには届かなかったでしょう。そのような意味で「聞き書き」とは、生身の主体を文字/活字の間尺や速度とはひとつ別なところにある言葉本来の意味での日常の流れ方の方へと橋渡ししてゆく、そのことによって文字/活字の間尺や速度の本質的な方法性をも活性化し、日常との関係をうまく整えてゆく、そういう可能性をはらんだものだったはずです。*12


●「聞き書き甲子園」という現在

 このようにうっかりと難しいもの、何か秘儀的で職人的な内実を伴ったものとして理解されるようになっていった「聞き書き」の現状は、一方でまた別の方向から新たな難儀を招来してもいるようです。

 たとえば、昨今は「聞き書き」を子どもに対する教育活動の一環として活用しようとするNPOまで出現し、実際に運動を展開していたりする。NPO法人共存の森ネットワークが主催する「聞き書き甲子園」は平成14年度から現在まで続いていますが、ここでの「聞き書き」の理解とはひとまずこのようなものです。

「「聞き書き」とは、話し手の言葉を録音し、一字一句すべてを書き起こしたのち、ひとつの文章にまとめる手法です。話し手の語り口でまとめられた文章からは、“名人”の人柄が浮かび上がり、参加高校生はこの「聞き書き」を通して、名人の知恵や技、そして生きざまやものの考え方を丸ごと受けとめ、学びます。」 *13

 「話し手の言葉を録音し、一字一句すべてを書き起こしたのち、ひとつの文章にまとめる手法」――まず前提として「録音」があり、それを「一字一句すべてを書き起こ」した後に「ひとつの文章にまとめる」という理解。これは、これまで述べてきたような「はなし」を「きく」ということの意義やそれを成り立たせている背景などを等閑視している点で、これまでの「聞き書き」の、手法としての初志や経緯をほぼ全く考慮していません。まただからこそ、昨今の「聞き書き」に対する通俗的理解の水準を垣間見られるものにもなっています。

 ここでの「聞き書き」は、ひとまず素朴な記録、誰かの話を聞いてそのまま書き写す、といった意味でとらえられているようです。この団体が高校生を対象にしていることから見ても、彼らの言う「聞き書き」は決して「難しい」ものとは想定されていない。むしろ「誰にでもできる」こととして考えられ、実際そのようなニュアンスで提示されています。

 ということは、裏を返せば、すでに「聞き書き」がむやみと難しい、職人芸的な持ち上げられ方をしてきている状況を前提にしているからこそ、そうではない誰にも可能な、決して難しくない営みとしてこのような理解が設定されてきていると考えられます。冒頭触れたような、ある程度知的な営みの文脈で「聞き書き」の類がいささか過剰にもてはやされ、その分「難しい」ものにもされてきている状況が、このような世間一般の「聞き書き」理解に対しても、陰に日向に影響を及ぼしているようです。

 ここで「録音」が重要な鍵になっているのは象徴的でしょう。「はなし」を「きく」のは生身の聞き手でなく「録音」機器であることが何の疑いもなく、むしろおそらくはそのような自覚すらないままに提示されている。高校生であれ誰であれ、生身の聞き手が話し手の生きて暮らす現場に自ら足を運び、それなりの時間と手間をかけて一定の関係と場を共有しながら「はなし」を引き出すという、「聞き書き」という手法にとって重要で本質的であったはずの部分がここでは一気にすっ飛ばされ、聞き手は単なる「録音」機器の運び手以上の意味は付与されなくなっています。なのに、どうやらそのことの自覚は持たれていないらしい。いわゆる「取材」の過程で録音機材を当たり前に使うようになり、それを「起こす」(ディクテーションの過程)ことも含めて「ライター」の仕事だという理解が一般化していることも、同時にここにはうかがえます。その反映として、それら「録音」―「テープ起こし」―「文章化≒原稿化」の過程こそが「聞き書き」の具体的作業として理解されている。

 これを最大限好意的に見れば、近年の情報環境の変貌に伴う録音機材の遍在化がなおのこと、そのような「聞き書き」は「ほんとうは」難しくない、というイメージの回復をある意味、促進させている面もあるのかも知れません。「きく」のはその場においてはまずレコーダーという機械であり、そこに記録されたものを改めて別の文脈で「再生」して「文字」に「起こして」ゆく、生身が介在するのはその間だけ、という作業に特化されている。なるほど、これならば「難しくない」わけで、高校生であっても臆さず「聞き書き」を試みる気持ちになるだろう。ただし、これまで述べてきたような意味での「聞き書き」本来の本来の可能性も内実も、共に省みられる足場すら失われた形で固められているのが、昨今のこれら「聞き書き」というもの言いの実質的中身だったりするらしいことは変わりません。

 確かに、「聞き書き」が決して難しいものではない、という認識を広める効果をこれらの運動は、善し悪しは別にして現実に、今の状況に対して持っているでしょう。それは「会話/おしゃべり」を「きく」という、もともと誰にもできることを介した問いの手法だった民俗学本来の「聞き書き」の可能性を現在に回復すること、のようにも一見、見える。けれども、そこに生身の主体は介在することが実はほとんど想定されていない。「はなし」を引き出し「きく」という過程に否応なく伴うはずの生身が見えないまま、おそらく善意と共にこれらの運動は設定され、実際に稼働しています。

 ある種の学問領域なり、それらを前提にした大学なりの場やそこに連なるジャーナリズムの領分で「聞き書き」が注目され、その分難しいものとして称揚されてきている過程と、同時にこのような運動に象徴的なように「聞き書き」を改めて誰もが可能な営みとして普及させてゆこうとする過程の、その双方が同時に進行している現在の情報環境は、しかしどちらも共に、それら「聞き書き」本来の可能性に伴っていたはずの生身の主体を「会話/おしゃべり」の、そして「はなし」の関係と場において上演的に回復してゆくという効果からは、平等かつ等価に疎外されています。


●録音機器の普及と「聞き書き

 若干の補論のような形になるかも知れませんが、録音機器の問題が「聞き書き」の現在に少なからぬ影を落としているらしいことに関連して、情報環境の変貌が「聞き書き」にもたらしている影響についても少し考えておきます。

 録音機器の普及が「聞き書き」をめぐる、資料収集の手法としての位相にどのような変化をもたらしていったか。これもまた、「聞き書き」の現在をその本質的可能性の脈絡に沿って回復してゆくことを考える場合、避けて通れない問いになります。それは録音技術の発明によって生まれた新たな機器が普及してゆくことによって、「はなし」を「きく」こと、「はなす」ことそれ自体の意味が人々の日常の意識や感覚としてどのように知らぬ間に変わっていったのか、について考えることに関わってきます。

 たとえば、レコード音盤の普及は、実際に音声がそれに記録「できる」ということについての認識を広めてゆきました。具体的なモノとしてのSPレコードを介して、眼前の具体的なモノに「音声」が込められている、という見方考え方感じ方が、理屈や背景はともかく現実にそういうものだ、という圧倒的な説得力で人々の間に広められていったはずです。

 けれども、それだけではまだ、音声を実際に記録「できる」ということ、その行為自体が自分たちの生身の実感の根ざした手もと足もとにやってくるまでには距離があった。モノとしてのレコード音盤とは、あくまでもどこか知らないところから忽然と登場してきた見知らぬモノであり、その意味ではいきなり天から降ってきたのとあまり変わらなかったでしょう。

 天から降ってきたに等しい見慣れぬモノから、機械というブラックボックスを介して何か音声が聴こえてくる、という体験と、実際に日常そこらにありふれている眼前の物音や音声がいったんそのような見慣れぬモノに取り込まれ、時間や場所を越えたところで改めて「再生」される、という体験との違い。めんどくさいことを言っているようですが、このあたりの違いは、実は「日常」を再編成してゆく生身の自前の営みにとって、かなり本質的な部分に触れてくるはずです。

 耳を介して聞こえてくるその「音」が徹底的によそごとの、天から降ってきたに等しい異質な響きを伴っているということと、ふだん自分があたりまえに耳にしている物音、日常にはらまれているさまざまな音声が改めて眼前の異物、見知らぬモノを介して聞こえてくるということの間に横たわっていたであろう、体験としてのある本質的な違い。たとえば、蓄音機以前、さまざまな芸能という領分に附随して宿っていた生身の上演を介して聞こえてくる音声が明らかに日常のものではなかったこととも、それはどこかで密接に関わってくるはずです。妙な言い方になるかも知れませんが、そのような補助線を引いてみれば、蓄音機と音盤を介してよそごとしての音声が再生されるだけだった段階でのそれら「再生音を聴く」体験というのは、むしろ祭りの日の芸人や寄席や劇場で上演される日常ならざる声や音、あるいは時たま訪れる異人としての行乞やほかい人たちの物声の方にこそ、地続きで認識されていたかも知れません。初期の録音再生機器がそのような芸能、見世物の脈絡で披露されていったことの「民俗」的水準も含めた背景というのにも、実はそのような認識の地続きが介在していたかも知れません。

 蓄音機が、音盤が、そのような「近代」(と言っておきます)がもたらした具体的なモノが新たに出現したことだけが、「はなし」を「きく」体験なり作法なりにとっての本当の画期ではなかったかも知れないこと。それまでになかった見慣れぬ、だからこそ「新しい」という点においては間違いなく新しいそれらのモノが、しかしその「新しい」ことの衝撃や新鮮さだけを介して解釈されてゆくことは、しかしその「新しさ」任せの解釈によって、当時の同時代の情報環境でそれら「新しい」モノを介した体験がどのように生身の側、日々の等身大の日常で認識され解釈されていったのか、というその後の過程の〈リアル〉までもがその「新しい」にあらかじめ覆われ、隠されてしまいます。

 ならば、それらのモノが、たとえば蓄音機と音盤が、そのようなそれ以前の日常に埋め込まれていた芸人や行乞などの芸能と上演の場がもたらした音声を介した体験と地続きでなくなってゆくのは、果たしてどのような過程を経由してだったのか。ひとつ確実に言えるのはやはり、それら眼前の「新しい」モノが単なる外在的な具体物という意味だけでなく、どこかでこの「日常」と結びつけられるようになってくること、具体的には録音という過程が眼前で行われるようになることなどは、ひとつの重要なきっかけになったでしょう。それによって録音された音は再び手もと足もとの日常に還元されることが新たな体験として認識できるようになる。「録音」と「再生」の関係が日常の文脈で共に〈いま・ここ〉に収斂させられる体験として共有されてゆく。

 もちろん、それら眼前で録音なら録音という具体的な行為が過程として行われる、そういう体験はそれ自体でまた、奇術や手品、さまざまな芸能、上演を介した体験と一方でまた地続きの解釈を発動するものでもあったでしょう。「不思議」といったもの言いの汎用性が活用される局面はおそらくこのようなものだったはずです。たとえば、写真機が出現してそれに「撮られる」体験のように。写真に「撮られる」ことが「魂を吸われる」といった比喩で語られる事例は文化を越えた事象であることはすでに知られていますが、それは写真機がシャッターを切る、あるいはそれ以前だとしばらくの間写真機の前でじっと動かずにいる、そんな体験自体が問題となってのことでは必ずしもなかったはずです。そこから先、そのような体験を介してその後、明らかに眼前のモノとしての印画紙、実際の「写真」が眼前に現われてその中に他でもない自分がくっきりと写っているということを自ら確認して初めて、先の撮影される過程も含めた「撮られる」体験が新たな衝撃として、それまでになかった体験として意味づけられてゆく過程が発動される、そんなものだったでしょう。

 音声の場合はどうか。身のまわりにある現実から「音」だけが抽出されて外化される。されて、再び「再生」されて身のまわりの現実に帰還する。その往復の中で「音」は改めて身のまわりの現実に含み込まれていることをこちら側に意識させ、意識させることによってまた改めて身のまわりの現実のありようをそれまでと別のものに更新してゆく、そんな効果も伴っていたはずです。音声が「音」として改めて日常の内側に意識されてゆく過程もまた、録音機材が新たに存在するようになって現実のものになっていった。「会話/おしゃべり」の〈いま・ここ〉に「はなし」を発見し共有してゆく「きく」作法もまた、録音機器を介した音声が遍在してゆく情報環境の変貌の中、〈いま・ここ〉からどんどん乖離させられてゆく過程をくぐってきたようです。もちろん、それは生身も共に「会話/おしゃべり」から、つまりはそれらが宿る〈いま・ここ〉からも同時に縁遠いものにさせられてゆく過程、でもありました。


●まとめとして

 「聞き書き」というもの言い自体が文脈はさまざまなれど、それ自体が知的生産の手法としての意味からひきはがされ、いずれ特権的なものに、特別なものにさせられてきた過程は、「会話/おしゃべり」を文字/活字の水準にコンバートして資料化してゆく方法自体が、知的生産の手法から疎外されてゆく過程でもありました。それは、生身の主体が現場に身を運び、生身の客体としての話し手と対峙する関係と場に聞き手として立ち現れること、そしてその結果「はなし」を共有してゆく過程を共にしながら、聞き手にとって想定された話し手の生きる〈いま・ここ〉の〈リアル〉を垣間見てゆく素材に際会してゆく、そんなある意味上演的な現場を介した主体回復と共感をくぐってゆく、文字/活字を自明のメディアとして編成してきた知性にとっての自己治癒的な意味も含まれた「もうひとつの」異なる現実認識のやり方でもありました。

 昨今、ことさらに「聞き書き」が難しいもの、とされてきているらしい文脈と、それとの関係で裏返しのように、主体の疎外をそのままに一見開放的な「聞き書き」観を流布している「聞き書き甲子園」的な文脈と、そのどちらもが現在に至る情報環境の過程に対して、知的生産の手法としての「聞き書き」本来の可能性を調整してゆく作業を本当の意味でしない/できないままで推移してきた結果としての現象だと言えます。どちらの立場に立つにせよ、そのような「聞き書き」による生身の主体、「はなし」の可能性に耳を開いて「きく」ことの豊かさの回復は共に難しいままでしょう。

 かつて「問答」として、「質問項目」的な整理をひとまずされていた「聞き書き」の現場における「はなし」を「きく」上演のありようをもう一度、「聞き書き」や「インタビュー」「取材」といった現在のもの言いに即して回復しようとすること。時間と手間とをかけた「なじむ」過程を生身を介してたどってゆこうとすることを意識的に、方法的な自覚と共に、注意深く慎重に試みようとすること。ある時期までは言わずもがな、当たり前のことだったかも知れないこのようなことを、敢えて言葉にし、改めて自省してゆく素材にする面倒をくぐってみないことには、昨今のこのような情報環境で、「聞き書き」その他生身を介しての、文字/活字を自明のメディアとして編成してきた知性のありようの相対化とそこから先、想定されるべき生身の主体の「自由」の失地回復という本願は、その姿さえとらえにくいものになってしまっているようです。

*1:本稿は、2014年9月19日に明治大学駿河台キャンパスで行われた「科学研究費・基盤研究(B):「日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」2014年度研究会」における報告「聞き書き・現地取材はなぜ難しいものになってしまったのか」における発表草稿および手控えなどがもとになっている。当日、コメントやご意見など頂戴した方々にこの場を借りてお礼を申し上げる。

*2:「野の学問」――つまり、近代化の過程で整備された大学制度の外側から自生してきたわが国の民俗学の可能性については、たとえば「民間学」などという言い方で指摘されてきている。殊に思想史や文芸批評といった民俗学プロパー以外からの柳田國男への視線やそれを介した民俗学そのものへの批判的解釈の脈絡で、それは70年代半ば頃からこのかた、概ね共通理解となる程度には語られてきている。とは言うものの、その可能性を〈いま・ここ〉の問題状況にどう解き放ってゆくのか、については具体的な提案や実践的な運動につながる施策などはまず出てこないまま、「民俗学」という看板に新たに今日的な「野の学問」として収斂してゆけるような動きも見えずに、すでに40年ばかり推移している。

*3:この「ほんとうのこと」という設定目標には、「聞き書き」を介した作業が実際に始まった当初には、聞き手である側と話し手である側との間に横たわる「話しことば」の日常の水準の違い、が厳然として介在していた。うまく語ってくれない、少なくとも聞き手であるこちら側の理解に沿ったことばやもの言い、脈絡などでスムースに説明してくれることがない、話し手語り手である「ムラ」に住まいする人たちとの間のそのような「話しことば」の水準を介した「格差」「距離」の自覚が、「聞き書き」という方法に「ほんとうのこと」という想定されるべき設定目標の輪郭を整えることになった。とは言え、その「ほんとうのこと」も眼前にそのものとして提示されるようなものであるはずもなく、それもまた「はなし」というまとまりの中で聞き手のこちら側がさまざまに話し手に関わりながら、「きく」ことを主体的に駆使しながらようやく引き出して整形してゆけるようなものだったりもした。その後、「聞き書き」を行う主体である聞き手と話し手語り手との間の「話しことば」の水準も時代の推移と共に平準化されていったわけだが、そのような情報環境の変貌に伴う「聞き書き」という方法の戦略的射程の必然的変遷といった部分もまた、民俗学に限ったことではなく、語られてきていない。

*4:このような意味で、「採集」と「聞き書き」の間には、当初から実は埋め難い溝があったはずだ。「聞き書き」によって「採集」される「民俗」という一見自明に見える方法上の連なりの上に、「採集」が前提になって外在的な単位としての「民俗」がその輪郭を整えてゆく。それは、あらかじめ外在的にそこに、ほぼ具体的と言っていいほどまでに明らかに「ある」ものとしての「民俗」を「採集」してゆく、といった一連の過程が自明のものとして想定されてゆく経緯でもあったろう。けれども、柳田的な民俗資料の三部分類で言う、外側からの視線によって捕捉しやすい具体的なモノやコトからさらに日常の生活習慣、そしてそれらの中に生きる人々のキモチやココロといった水準にまで「民俗」の内実が深まってゆくに伴い、それは外在的に存在するものとして想定できなくなってゆく。キモチやココロといった「心意」はそのままでは「採集」できない分、どうしてもどこかでことばに、日常の話しことばを媒介にしてとらえようとするしかない。そこには、必然的に生身を介した「はなし」を「きく」作業が介在せざるを得なくなる。このような方法的自省が行われたならば、「聞き書き」というインタビューを伴う資料収集自体への内省や、「話しことば」と日常の生活経験、ひいては社会意識のありようといった方向へ、民俗学の側からもっと視線が開かれていった可能性もあり得ただろう。

*5:「はなし」とは関係に宿るものであり、だからこそ「問答」という形式も重要なものとして意識されるようになっていた、と考えるべきだろう。「問答」は「はなし」を現前させる手続きとして考えられていたのであり、あらかじめ紙の上で「項目」的に個々にバラバラに設定されるものではなかった。これは後の「調査項目」のような事前に整えられた「項目」を中心に「問答」を想定するような調査なり「聞き書き」なりのイメージとはある意味全く逆方向からの、あくまでも生身を介した現場での感覚や経験をもとにした想定と言える。

*6:この傾きは、民俗学に限ったことでもなかった。さまざまな理由でアクセス困難な調査対象地や取材対象者、あるいはそのような属性を伴った案件に対して過剰にその「困難」を強調し、それと見合う程度にその結果としての「達成」を称揚するという構造は、学問のみならずジャーナリズムの領域でも普遍的に見られるものだった。調査や取材を介したアウトプット――民俗/族誌であれノンフィクションであれ、それらが価値あるものとして意味づけられ、どこかで冒険譚や英雄譚といった趣きを伴ってゆく背景には、このような「はなし」としての構造が横たわっていた。

*7:「民俗誌」がどのような読み手を想定していたのか、という問いもこれまであまり正面から論じられていない。ごく初期の郷土会において現地調査という作法がようやく民俗学的な文脈で意識され始めた時点で、そのアウトプットとしての記述の水準を方法的かつ戦略的に想定していたのは、柳田だけだったかも知れない。彼が「民俗誌」について最終的には「土地の人たち」に読んでもらうことを想定していたのは、彼らの感覚や意識を介した批評やチェックを期待する意味もあったはずだが、しかしそれらは後の過程で「調査に協力してくれた土地の人たちへの礼儀」といったどこか通俗的で平板な人道主義的なたたずまいを伴う形骸的な約束ごとの方向に横転して翻訳されていった。「書く」過程も含めたフィールドワークなり現地調査なりの戦略的射程というのは、このような方向からも全体的かつ包括的な視野から矮小化されていった。

*8:「あるく・みる・きく」は、もともと宮本常一が(株)近畿日本ツーリストを後ろ楯に立ち上げた日本観光文化研究所から出されていた雑誌名だったが(1967年~1988年)、「観光」を介して民俗学を広く広報宣伝してゆく役割を担うことになった分、世間一般にも民俗学を理解する際の親しみやすいキャッチフレーズとして受け入れられていった。特に、「旅」という柳田以来の方法的アドバンテージを伴う営みが、「聞き書き」「フィールドワーク」「現地調査」といった種々のイメージを集約させながら当時の世間に受け入れられていったことは、同時代的な背景なども含めてさらに自省的な考察が必要である。

*9:「取材」という営みもまた、ジャーナリズムの文脈で特権化してゆく過程があった。広くは、いわゆる「社会派」と呼ばれるようなジャーナリズムや記録文学系のコンテンツに対するニーズが拡大し、それに呼応して、ある種の生々しさやアクチュアリティをテキストを介して読み取るリテラシーが読者/消費者の側にも備わっていったことで、それらの生産過程にもまた興味関心がそれまで以上に向けられるようになったこともあるだろう。「「事実」というもの言いもインフレ化してゆきました。それまでは、この国土の上をただ歩き、見、そこに生きる者たちの言葉に耳傾けていただけだった、その限りでは純朴な旅人に過ぎなかったかも知れないこの国の民俗学徒たちの前に、彼ら彼女らをその「事実」を豊饒に抱えた異人として見る視線がゆっくりと立ち上がり始めます。その背景には、週刊誌ジャーナリズムの誕生があり、それに従って翼を広げ始めた「足でかせぐ」流儀を持つ文字の生産力がありました。「事実」と「マス・コミュニケーション」とがそれまでと違った切実さで、社会と人間を語る者たちの言葉に意識されざるを得なくなってきていました。そのような中、新たな生産力を獲得していった「足でかせぐ」文字の流儀というのは、「足でかせぐ」ことにおいてはそれまでの民俗学徒たちがやってきた営みと変わらないものだったにせよ、そこで見聞きした素材を使ってある“おはなし”を提示してゆく、その手口についてはそれまでの民俗学とはかなり違うものだったし、さらにそれらを盛りつけてゆく器に至っては彼ら彼女らにまるでなじみのないものだったりもしました。」拙稿「かつて「残酷」と名づけられてしまった現実」宮本常一、他・編『日本残酷物語?〈貧しき人々の群れ〉』解説、平凡社ライブラリー、1995年

*10:戦後の民俗学が「科学」「学問」としての体裁を懸命に整えようとしていったことについては、柳田自身の個人的事情だけでなく、戦後の情報環境の変貌とそれに伴う言語空間のありように従って、いわゆる人文学の位相がそれまでと大きく異なるものになっていったこと、特にその中で「文化」論的な言説が一気に前景化していったことなどを補助線にしながら、より包括的な自省が必要である。もちろん、それによって何が「野の学問」の初志から失われていったのか、戦前の民間伝承の会に至る流れからの連続/非連続なども含めてのことであるのは言うまでもない。

*11:このあたりは、文字/活字前提で知的形成させられてきた知性のありようが、生身の上演を方法的に駆使することとの距離を本質的に持ってしまっていたことが関わってくる。「問答」が「項目」として整理され外在化されたとしても、それを上演台本的に「よむ」「わかる」生身が介在しないことにはそれは単なる断片の羅列、文脈を失った項目が標本のように並ぶテキストとしてしか理解されなかっただろう。

*12:「遊んでゆく」というもの言いにはらまれていた豊かさ、についてわれわれはもっと立ち止まって省みなければならないだろう。たとえば、日々の何でもないつきあいの中で知り合い行き会うことになった人から「よかったらちょくちょく遊びにおいで」と声かけられること、あるいは、特に何か用件がなくてもぶらりと立ち寄り「顔を出す」ような関係で「だったらちょっと遊んでゆけ」と応答されること、それらが実はどのような意味を人と人とのつきあいにおいて伴っていたのか。「はなし」を「聞く」ことのできる生身の醸成には、そのような「遊んでゆく」関係や場になじんでゆく過程がどこかで重要な役割を果たしていると思っている。それは昨今の「調査」や「フィールドワーク」というもの言いがまつわらせている硬直や不自由、悪い意味での合理的装いなどとはおそらく、本質的に相反する何ものか、と関わってくるだろう。

*13http://www.foxfire-japan.com/prof.htmlこの「NPO法人共存の森ネットワーク」が主催する「聞き書き甲子園」は平成14年度から現在まで続いている。以下は、そのマニフェストの一部である。「日本では古くから、森や川、海の自然を守り育て、その恵みを得る中で、自然と共生し、持続的に暮らす知恵や技を培ってきました。森で木の実やキノコ、山菜、動物をとり、海や川で魚をとる。木を使って暮らしの道具をつくり、炭や薪を燃料にする。草や木の繊維から糸を紡ぎ、布を織る。落ち葉をかいて田畑の肥料にする――。しかし、1960年代の高度経済成長期を境に、その暮らしは大きく変わりしました。木でつくられていた道具はプラスチック製になり、炭や薪といった燃料は石油をはじめとした化石燃料へと代わっていきました。手入れのされなくなった森は荒廃し、人と自然の関わりが薄れていった結果、海や河川の汚染、洪水などの災害、生物多様性の減少といった境問題が生じています。私たちは、森や海、川と共に生きてきた伝統的な暮らしをもう一度見つめ直し、その中から、これからの持続可能な社会を考えるヒントを得られるのではないかと考え、全国の高校生の皆さんに呼びかけて、10年前に「聞き書き甲子園」をはじめました。」民俗学がそれまで展開してきた、そして世間にもそのように理解され受容されてきたような「聞き書き」の過程だけが抜き出され、このような新たな文脈と理解に沿って「活用」されているようです。「聞き書き甲子園」には、毎年全国から100人の高校生が参加します。高校生は、造林手、炭焼き職人、木地師、漁師、海女など、自然と関わるさまざまな職種の“名人”を訪ね、一対一で「聞き書き」をします。長い経験を経て生まれた名人の言葉を受け、高校生は自然と人の暮らしのつながりや、その後の将来を考えるようになったと語ります。また、この名人との出会いを経た「聞き書き甲子園」卒業生の中には、森や海、川、名人の住む日本の農山漁村の暮らしに関心を持ち、ここで学んだ大切なことを自分たちの手で人へ伝えていきたいと、森づくりや地域づくりを継続して行っている人もいます。この一連の取り組みは「持続可能な開発のための教育(ESD)」としても注目されています。」あらかじめ準備された「名人」という「話し手」に対して、録音機器を介しての「起こし」をすること以上の作業を求められていない「聞き手」として送り込まれる高校生たちが、果たしてどのような「はなし」を「きく」ことができるのか。何よりこのような想定での「聞き書き」が少なくともグロテスクで滑稽なものかも知れない、という程度の自省の気配も乏しいこのありようそのものが、「聞き書き」という営みが今日のわれわれの情報環境において担わされている過剰な意味づけ、敢えて言えば神話性といったものまで垣間見せてくれている。