葬式が「なくなる」?

 葬式はなくなるのかも知れない、と最近、思い始めています。それも割と本気で。

 何をバカな、人間生きている限り死ぬのは必定、古今東西あらゆる文明、文化において「死」を何らかの形式で意味づけたり、またそのことで生きてる者たちの側に「あきらめ」を意識させる、そういう儀礼や儀式の伝統を持たない民族は存在してこなかった、だから今後も形は変われど葬式そのものがなくなるはずがない――ざっとこんなことを不満げにおっしゃる向きも少なくないでしょう。

 リクツとしてはわかる。というか、リクツの次元ではそりゃそうでしょう、とりあえず。でも、その「形は変われど」というところが問題で、いまのこのニッポンでこれから先どんな「形」が葬式に与えられてゆくのか、そのことについての想像力がすでにいまのわれわれには枯渇してしまってるかも知れない、そういう恐れはさて、感じないでしょうか。

 たとえば、同じ冠婚葬祭仲間の結婚式などは、すでに「陥落」し始めているようです。少子化と晩婚化という前提はとりあえず脇に置いておくにせよ、「地味婚」などと呼ばれる簡素で儀式張らない形式も、「婚活」と必死に結婚産業が連呼するその意図や期待と真逆の方向で静かに浸透し始めています。形式としての儀式、それが伝統だの文化に根ざしていようがいまいが、そんな事情や背景の縛りなどまるごとかろやかに飛び越えてしまうような〈いま・ここ〉の感覚、というのは、良かれ悪しかれ生活のあらゆる分野でさまざまな新たな形式の萌芽を見せてくれています。葬式だけが無縁でいられるとは思えません。

 それがどんなものであれ「宗教」という枠組みの中で「死」を扱う、そういう形式自体が静かに煮崩れてゆくかも知れない、という予感。関連する墓地問題などに関しては近年、マンション的な新たな形の永代墓の試みも広がり始めているようですが、ことこのニッポンに関しては「死」の前提に自明のものとしてあってきた「イエ」という歴史・民俗的枠組み自体がまた分解のどん詰まりまで来ていることもあり、地縁・血縁という本来ならば「逃げられない関係」からどんどん「個」を望んできたなれの果てに、「死」もまたそのような旧来の形式では受止められない状況が予想以上に逼迫してきているらしい。

 マンション的な墓でいいような、それも「イエ」と切り離された「個」の「死」ならば、そこにこれまでのような「宗教」はおそらく必要がなくなる。なぜなら、それは生き残る者たちの側で受止めるべき「死」ではなくなり、言わば淡々と「処理」されるべき個体の終わりという、これまでさまざまな形式で隠されてきた次元がむき出しにならざるを得ないわけですから。何より、そういう「死」をこそ望ましいとわれわれ自身が感じ始めているらしい。「見送る」という言い方も、何も「死」の局面だけでなく、普段の別れに際してもされなくなり、それもまた「見る/見られる」「送る/送られる」という「関係」という意識が人と人との間に介在しにくくなってきていることの現われのひとつだと感じています。そんな〈いま・ここ〉をさて、「宗教」というこれまでの枠組みでどれだけ引き受けることができるのか。仏教だ神道だ、はたまたキリスト教だ、といったセクト間の事情をはるかに越えたところで、事態は淡々とゆっくり、しかし確実に動いているようです。