「恐妻」とその周辺・ノート 



 「恐妻」というもの言いがあった。昨今ではもうあまり使われなくなっているようだが、敗戦後、昭和20年代半ば過ぎあたりから、当時の雑誌やラジオその他のメディアを介してある種「流行語」になっていたとされる。

 この種のもの言いを糸口に何か考察を始めようとする際の常として、言いだしっぺは誰で、またそれはいつのことだったのか、といった方向での「起源」の詮索が始まる。いまどきの情報環境のこと、デジタル化されたアーカイヴスを利用してこの「恐妻」というもの言いの経緯や来歴についても比較的容易にある程度の見通しがつけられるようになってきている。*1

 ここではそれらを前提にしながら、その「恐妻」というもの言いが当時の同時代の情報環境においてどのような受け取り方をされ、どのような気分を醸成させていったのかについて、それらが増幅されてゆく過程でのメディアと情報環境のありようを補助線にしながら、今後「民俗」レベルも含めたより大きな「歴史」の問いとしての「恐妻」論に資するはずの論点を、今後の考察の足がかりとして示してみたい。


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 「恐妻」が戦後、ブームになっていった経緯にはいくつかの発信源が認められる。ひとつは、活字メディアである新聞や雑誌を介して拡散していった阿部眞之助や大宅壮一の界隈。もうひとつは、源氏鶏太の小説『三等重役』とそれらの映画化を契機にした経緯である。これらはいずれも昭和20年代半ば過ぎの時期に、それぞれ複合しながら当時の情報環境において「恐妻」というもの言いを新たに拡散、増幅してゆく主要な経路となった。*2

 もともとは、漫画家近藤日出造のまわりで起こったちょっとしたできごと、仲間うちでの挿話に過ぎなかった。それがたまたま「新聞」のゴシップ欄に紹介され、それについて当時すでに老境にあったジャーナリスト阿部真之助が「週刊誌」のコラムで触れた。この時点で「恐妻」というもの言いはその字面と共に当時の同時代の気分に何ほどかの刺激を与えたらしい。各方面からの反響も含めてこの「恐妻」に敏感に反応した大宅壮一が持ち前の「宣伝力」であちこちに吹聴して歩き、それがさらにあちこちに予期せぬ反応を招いてあれよあれよという間にブームになっていった――活字メディアとジャーナリズムの間尺で「恐妻」が注目されるようになった経緯は、とりあえずこのようなものだったらしい。*3

「民芸」という新劇団体がある。この団体の後援会ができた。5年ほど前のことだ。新橋の「蟻屋」という喫茶店の二階で、民芸同人と後援会員の集りがあった。その席上、新劇団体がいかに経済的に苦しいか、というような話が出、ことのついでに「団員のまさかの場合のために共済会をつくる必要がある」と話題が進んだ。その時である。「この顔ぶれを見ると、共済会よりは、恐妻会の方が先にできそうだ」と誰かが一座を笑わせたのは。この席に出席していたのが一期の不覚。生真面目な共済会の話よりは笑い話の恐妻会の方にみんなの口が集り、さしづめ誰を恐妻会の会長にするか、とめいめいの顔を眺め合い、結局一番ツラの大きいボクに一同の視線が止って、初代会長近藤日出造、と名誉職に祭りあげられた。それまで一切の名誉職というものから見放されていたボクは周章ろうばい、「とにかく、家に帰って女房とも相談の上御返事をする」と思わず口走ったのがまずかった。「その一言で、日本恐妻会会長たるの資格がイカンなく確認された。まずはめでたし」と一同拍手。このいきさつが翌々日あたりの毎日新聞ゴシップ欄に発表されたのを見て、人の口の端の軽々しさに一驚したのである。*4

 この時、同席していたのは森雅之宇野重吉服部良一藤浦洸杉浦幸雄、富田英三、岡倉士郎など。5年ほど前、という文中の記述に従えば昭和25年頃。「恐妻」が本格的なブームになったとされる昭和27年よりも早い。このへんはその後の拡散浸透、増幅の過程に時間がかかったということかも知れない。当時、劇団民芸は第一次民芸がGHQ占領政策の転換に伴うレッドパージのあおりを受けたこともあり解散、第二次民芸へ向けての再編を画策していた時期にあたり、この蟻屋の二階を劇団の稽古場にもしていたという。後援会というのは、同じくこの蟻屋によくたむろしていた漫画家杉浦幸雄が名付け親になった「民芸の仲間」のことか。彼ら当時の漫画家、近藤や横山隆一らを中心にした「漫画集団」系の者たちは、近藤も含めてこの店のできた敗戦直後、昭和21年当初からの常連客だった。

戦争直後、新橋と土橋との中間に「蟻屋」という喫茶店があった。戦後の混乱時代、ここには宇野重吉滝沢修森雅之、細川ちか子らの新劇俳優、石川達三邦枝完二北条誠らの作家、吉村公三郎渋谷実山本嘉次郎高峰秀子らの映画人、そのほか服部良一、石川滋、宮田重雄藤浦洸らの画家、詩人、それに横山、杉浦、近藤以下の集団の面々が集まり、文化人の社交場のような場所であった。やがてここに集まった新劇人が、劇団「民芸」を創立し、ここに集まった文化人が、「民芸の仲間」という後援会をつくり、初代会長に杉浦幸雄がなった。*5

 阿部が明治18年(1884年)、大宅が明治33年(1900年)の生まれで、当時それぞれ60代と50代。一方、近藤は明治41年(1908年)生まれの40代。まわりの人間にしても、杉浦と森が森が44年(1911年)、宇野が大正3年(1914年)、岡倉が明治42年(1909年)と、みんな40代かそれ以下。同じ「恐妻」というもの言いは、阿部や大宅など明治生まれの、当時としてはすでに老年に達していた世代にとってのそれとまた異なった調子を伴いながら、彼ら蟻屋にたむろしていた、大正期にものごころがつき、その後昭和初期にかけて青年期を過ごした者たちの耳には響いていたはずだ。*6


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 ブームになると言い出しっぺ的な先陣争いめいたことも起こってくる。「恐妻」というもの言いの「起源」沙汰ですでに名前の出ていた徳川夢声が、本格的に流行語になったとされる昭和27年(1952年)にこのようなことを言っている。ちなみに夢声明治27年(1894年)生まれ。同席の辰野が明治21年1888年)、林髞明治30年(1897年)と、いずれも当時すでに還暦前後の世代である。

 恐妻組合ということを言い出したのは私なんです。7年ばかり前でしたかね。いやもっと前かも知れませんよ。当時、阿部真之助さんと小林一三さんの夫婦の話から、共済組合にひっかけて言い出したんです。奥さんのほうがどうも強い。奥さんの強い人は家じゃしょうがなくて、そとへ出ると強い。(…) 強い奥さんを持っていることは誇るべきことである、よろしくここに強妻組合を組織して……なんていう冗談を言ったんですな。それがだんだんに内容が変わって来て恐妻組合てえことになったんですな。*7

 冒頭、辰野隆が「この間火野(葦平氏)と旅行をしましてね。その時に“恐妻会”ということを聴きましたよ。(…)あれは火野君の主唱じゃないらしいですね」と口火を切ったのに応えての発言である。どうやら火野が「恐妻会」の首魁説というのも、一部であったらしい。
 その火野葦平は戦後、追放が解除されて以降の精力的な執筆活動の中で、「艶笑もの」と分類されるような小品や随筆、雑文を書いているが、その中のひとつにこんな一節がある。

 オンテレ・メンピン――この符牒のようなことばは、私たち友人の間に広汎に浸透している。ということは、そのことが悲しくも肯定されているということであって、ほとんど人間の宿命のごとくに抵抗感を喪失せしめているのである。女に勝たうと思うな――こういう不文律に屈している者に、女房を教育する力などあるわけはない。*8

 「オン」はオス、「メン」はメスで、「ピン」は、ぴんぴんしている、はげしい、勇ましい、「テレ」はてれっとしている、だらしがない、ぼんやりなどの略語の由。「私たち友人の間に広汎に浸透している」と言うのだから、これはこれで火野の周囲の文学系の内輪で共有されていた気分に対応していたのだろう。

 ただ、火野はここで「恐妻」というもの言いは使っていない。このような夫婦関係が「平和で文化的」であるという「女房教育」という観点からの方法的効用を述べたもので、それもいわゆる「九州男児」などに対応するおんなのタフネスとそれらを前提とした主体性への憧憬、といった彼ならではモティーフが前面に出てきている分、オトコとしての主体のあり方についての自省からは距離があり、まただからこそそれまでの花柳小説や随筆などに共有されていた価値観や女性観との間が、その読まれ方も含めて、良くも悪くもスムースに連続する言説にもなっている。 *9

 女房の方は亭主は浮気するものと定めているらしい。(…)女は幻覚を作り出す名人だから、どんなに弁解しても駄目だということを私は知っている。弁解はかえって疑惑を大にする。沈黙に越したことはない。(…) このごろでは、私は沈黙こそ最大の教育であると信じないでは居られなくなった。*10

 「家庭」の外でのオトコの行状≒「社会的な領分」が「家庭」の側からどのように見られるのか、殊にその「家庭」を裁量する女房=オンナの側からはどう見られ受け取られるのか、という問いが当のオトコ=亭主の側に宿ってくる。その過程で「家庭」をうまく制御し操縦するという課題が、オトコにもオンナにも共に意識されてこざるを得なくなる。オンナの側からは、たとえばある時期から増えていった「家庭読本」的な実用本の中身に象徴されるような「主婦」を前提にしたノウハウとして示されていったのに対し、オトコの側からは、「家庭」そのものよりもそれらを経済的に維持し支える(と考えられていた)「社会的な領分」をいかに確保し維持してゆくかという、「世渡りの秘訣」的内実を伴ったものとして現れていったフシがある。それは、給与生活者である都市部の中間層的ライフスタイルにおいては明快であり、切実なものとしてとらえられることになっていった。「恐妻」というもの言いもまた、そのような「家庭」というまとまりが自明に存立するものでなく、意識的かつ主体的に関わりながら安定を保つよう制御せねばならない存在として意識されてゆく過程で、その「家庭」を直接に具体的に意識してゆくことへの葛藤や戸惑いをオトコの側から期せずして表現するものとして現れてくる。「家庭」の個別具体として認識向かい合うことから逃げる、その表現としての「恐妻」というのは戦後の過程でブームになってゆく以前、「家庭」というもの言いが意識されるようになってゆく経緯の裡にすでに宿り始めていたと言えるだろう。


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 このように戦前にまで焦点を広げた視野で「恐妻」の系譜をたどろうとする時、ひとつ見逃せないのは、昭和初期から新たなコンテンツとして輪郭を整えていった漫才の中に早い時期から成立していた「夫婦漫才」という形式である。漫才が戦前の京阪神の情報環境を背景に新たな芸能、モダンな都市中間層の感覚にフィットした「話しことば」の〈リアル〉を体現した表現としてその輪郭を現わし始めた当初の段階ですでに、この「夫婦」という形式が確立されていたことは興味深い。*11

 「強いオンナ」とそれに振り回され右往左往するオトコ、という構図。そのオンナの「強い」というのも腕力や体格など身体的な優越に根ざしたものではなく、むしろ体格では「小さい」ことになっている。そんな彼女が武器とするのは概ね「ことば」であり、相方のオトコはそのことばに「やりこめられる」。そのように右往左往し翻弄されるオトコの側は当然、オトコは自明に優位にあり「えらいもの」という当時の通念を前提に性格づけられている。このような関係が、当時の初期の漫才の、友人や顔見知りという関係を前提にしたものでなく、はっきり「夫婦」という形式を要求していたこと自体、性別の異なるオトコとオンナが対等に、友人のように「立ち話」をすることが、未だ芸能というつくりものの定型としてでも、いやだからこそかも知れないのだが、いずれにせよ受け入れられにくかった当時の同時代感覚がうかがわれる。

 大阪を背景にしたそれら「夫婦漫才」の形式は、後の「恐妻」にもゆるやかに連なってゆくような、男女関係についてのある種のイメージを人々の間に定着させるものになっただろうし、またそれは「家庭」という新しく姿を現し始めた単位が、都市部のモダニズムという文脈の中で、たとえ芸能というつくりものの定型を介したものだとしても、共にひとりの「個」であるような、そしてある程度まで対等であるような「夫婦」というひとつの具体的な形を伴って提示されたものでもあっただろう。

 「フェミニスト」というもの言いも、この頃から一部で使われ始めている。もちろんそれは今日言われるような文脈とは大きく異なり、オトコという主体の側から単にオンナを大事にする、尊重するといった程度の意味に過ぎなかった。だが、たとえそうだったせよ、その「大事にする」「尊重する」こと自体がひとつの態度表明になる程度にそれは間違いなく「新しい」オトコのあり方を示すもの言いになってもいた。それ以前ならば「軟派」と片づけられ、軽侮されてもいたようなあり方から少しずれたところに現れたオトコのありよう。それは「恋愛」という、あらかじめ現実離れした幻想として立ち現れざるを得なかった近代化の過程における男女関係のありように対して、ようやくひとつの具体的な定型を示し得るものとしても受け取られていったはずだ。

 とは言え、それは同時にそのようなオトコの側の自省、少なくとも韜晦という装いを伴った自己相対化を伴わざるを得なかった。概ね大正期から昭和期にかけて、「笑い」や「ユーモア」といった要素を伴った表現が、メディアコンテンツとして都市部の中間層を中心に受容されていった過程には、そのような「恐妻」を半ば苦笑いと共に自覚せざるを得ない感覚が必ず貼りついていた。たとえば、こんな風に。


       何か言おうと 思っても
       女房にゃ何だか 言えません
       そこでついつい 嘘を言う


       朝の出がけの 挨拶も
       格子を開けての ただいまも
       なんだかビクビク 気がひける

       
       姿やさしく 美しく
       どこがこわいか わからない
       ここかあそこか わからない *12


 「うちの女房にゃ髭がある」という唄の一節。作詞者の星野貞志はサトウハチローペンネームと言われている。同名の日活映画 (監督・千葉泰樹 1936年)の主題歌として、レコードなどを介して流行したものだが、原作というか原案は当時、東京日日新聞の記者で人物評論や漫画探訪その他で活躍していた和田邦坊のユーモア小説。*13 映画化された際の主題歌だったこと、メディアの増幅力という意味で圧倒的にサトウハチローの名前が残ってしまったフシは否めないものの、いずれにせよ当時の「漫画」経由での「映画」プラス「流行歌」というメディアの複合により広まり、受容されていったイメージということになる。

 昭和初期の都市部を中心に進展した都市化と大衆社会化状況の下、伸張していった「新中間層」的サラリーマン層のモダンな生活意識に対応する新たなコンテンツがさまざまに姿を現わし始めていた中、「漫画」もまたある種の新しい価値観、世界観を敏感に反映していた。それは「ナンセンス」「ユーモア」などの新たなカタカナのもの言いと相まって、当時としては突出した相対化の意識のもたらす自省を前提とした「恐妻」を裏打ちしていた気分の重要な構成要素のひとつでもあった。

 それは、たとえば小林一三が新たな娯楽の受容主体として想定したような「家庭」というイメージが、ようやく期せずして具体化したという一面もあっただろう。「家族揃って楽しめるような」娯楽の提供を志した小林一三と彼の東宝が、大正期の初期中間層の醸成に伴い、有力なメディア産業になっていったように、関東大震災以後のそれまでより一段と強まった大衆社会化の流れの中で姿をはっきりと現した漫才という芸能において、その「夫婦漫才」的な定型において初めて、人々はオトコとオンナの「関係」を自分たちのそれぞれの日常と地続きの水準で、参照し得る雛型として認知できるようになったのではなかったか。「恐妻」というもの言いに対応する気分や意識の浸透も、そのような「家庭」に見合ったオトコとオンナの関係のあり方を仰視するその他おおぜいの人々のココロの視線に附随して起こっていったことではなかっただろうか。*14

*1:服部このみ「流行語「恐妻」について」『金城学院大学大学院文学研究科論集』21,pp.54-39,2015年。国立国会図書館デジタルコレクションを用いた調査により、三田村鳶魚佐々木邦平山蘆江の作品から「恐妻」の用例を示しながら、鳶魚の記述を根拠に「1924年には使用されている言葉であったことがわかった」と明言している。デジタイズされたアーカイヴスを介したこのような検索作業とその結果の「わかる」のつながり方はそれ自体、近年の日本語環境での人文系の手の内に当たり前に宿っているものらしい。捨て育ちの経歴のまま古書雑書を「趣味」任せに遊弋しつつ千鳥足のしらべものを長年たどってきた筆者などの手癖や習い性とは良くも悪くも違う、整然としたフラットな情報環境を前提にした効率的アプローチではある。ただ、この彼我の「違い」についての方法的な意味も含めた検討は、外国人研究者による「日本研究」を介しての課題「発見」の経緯表明などと共に、また別の大きな問いを引き出してくるものにもなるだろう。

*2:服部は、源氏鶏太の研究を手がけていたためか、この源氏鶏太の『三等重役』を介して増幅された1952年以降の過程が「恐妻」が流行語となってゆく経緯の主流だったと見ている。

*3:この経緯については、主に以下の文献に収められたものに依っている。1964年に阿部が没した後、遺族によって改めて編まれたものなど、収録内容の重複しているものもあるが、晩年NHK会長職などにあった阿部の当時の情報環境における立ち位置や、メディアを介したそのキャラクターの受け取められ方なども含めて、今後別途考察してゆく必要がある。阿部眞之助『恐妻一代男』文藝春秋新社、1955年。近藤日出造『恐妻会』朋文社・プラタン叢書、1955年。阿部眞之助『現代女傑論』朋文社、1956年。大宅壮一『女傑とその周辺』文藝春秋新社、1958年。 大宅壮一木村毅・浅沼博・高原四郎・編『阿部眞之助選集 全一巻』毎日新聞社、1964年。阿部幸男・阿部玄治・編『恐妻――知られざる阿部眞之助』冬樹社、1965年。阿部幸男・編『恐妻一代――阿部眞之助の横顔』角川書店、1976年。

*4:近藤日出造「恐妻会覚書」『恐妻会』所収、朋文社、1955年。

*5:峯島正之『近藤日出造の世界』青蛙房、1981年、p336。また、この蟻屋については、佐貫百合人『蟻屋物語――戦後新劇の青春』(早川書房、1979年)に詳しく描かれている

*6:「ところで、天下に雷名とどろきながら、何のかげんか一向名誉職にありつけないという人物がいるもので、その範チウに入る阿部眞之助、大宅壮一の両氏は、まだ小僧っ子と思っている僕が、次第によっては全日本の全亭主をその傘下に糾合する可能性ある日本恐妻会々長の住職に就任したことをいたくシットし、当方に一言のあいさつもなく、ジャーナリズムのあらゆる面で、安倍氏が恐妻会々長、大宅氏が副会長であるが如くにいいふらし、書き散らし、遂に、実質的に僕の栄誉ある肩書きを奪い去ったのである。無念とはこのことだった。老獪とは彼らのことだった。」(近藤、註4に同じ)もちろん、芸風としての諧謔味も含めてのことと言え、「老獪」といった表現を使っていることは、当時の彼らの側にあった微妙な違和感の表現として、「恐妻」というもの言いの受容のされ方を考えようとする時にも、案外見逃せない補助線になってくると思われる。

*7:辰野隆林髞徳川夢声による「原爆戦争の次に来るもの、他」と題された座談会における徳川夢声の発言。(『随筆寄席』所収、日本出版共同株式会社、p.29,1954年) 初出は雑誌『随筆』昭和27年(1952年) 2月号掲載とクレジットされているから、その時点から7年前ないしはそれ以上以前のこととなると終戦前後、あるいは確かに戦前の時期になる。先の服部によれば、このへんは夢声自身が各所で何度か語っていることで、これらの夢声の「証言」を尊重して「恐妻」というもの言いの「起源」を「昭和13年春頃」としている事典もあるという。いずれにせよ、戦前すでにある種の界隈で「恐妻」とそれに類するもの言い自体は使われていたことになる。

*8:火野葦平「オンテレ・メンピン女房学」『女房学・帝王学』所収、自由国民社・特集文庫2、1953年、P.26。

*9:この火野のような視点は「恐妻」を認めながら、しかしそれによってオトコ=社会的な領分を否応なく持つ存在としての自分という主体のありかたについての自省は、本質的なものになり得ていない。主体はあくまでも明確にオトコとしての自分にあるままで、それを根本的に疑うまでには至らないし、だからその主体性が手放されることもない、通俗的な処世術の範疇にとどまっている。小説においてはそのような気配も十分はらんでいた書き手火野葦平にしても、随筆的な雑文であることも関係するのか、そこまでの昇華した主題性はここでは感じられない。

*10:火野、註醞に同じ、P.29。

*11:「漫才」以前の「萬歳」の段階でも男女の組み合わせはあったとされるが、ミスワカナ・玉松一郎のような「漫才」の形式が整って以降のそれとは意味が異なる。「背広を着た友人同士の立ち話」とも言われた「漫才」の定型が異性間のそれとして成り立つためには、ひとまず「夫婦」という形式にならざるを得なかったらしいことも含めて、夫婦漫才のあり方とその変遷は「恐妻」の民俗史/誌の視野においても、ひとつ重要な足場になり得るだろう。

*12:「うちの女房にゃ髭がある」作詞・星野貞志、 作曲・古賀政男、歌・杉狂児美ち奴。1937年1月発売。

*13:和田邦坊は1899年(明治32年)四国の琴平生まれ。父は和田菊所という四国新聞主筆だったという。旧姓高松中学から画家を目指して上京、本郷洋画研究所に学んだ後、岡本一平と出会って漫画に興味を持ち、父の関係で東京日日新聞に。「東京日日新聞の大正15年から昭和13年の約14年間、和田邦坊の漫画は縦横の活躍をした。東京日日新聞専門(社員)だったが雑誌は講談社の数種、実業之日本社の各雑誌、婦人雑誌、綜合雑誌などありとあらゆる雑誌に一枚ものから、長編絵入り小説などを書きまくり朝日新聞岡本一平と双璧をなしていた。(…) 似顔絵、議会スケッチ、社会風刺漫画、スポーツ漫画なんでもござれとばかりこなしていたが、コマ漫画のパイオニアでもあった。」(伊藤逸平『日本新聞漫画史』造形社、P.99,1980年)退社後、故郷に戻ってからは表舞台からは姿を消した形になったが、終生地元香川県に根ざした画家・芸術家として生き、2008年に亡くなっている。

*14:これらの「問い」とそれを配置してゆく前提が共有できたならば、この先はたとえばオトコを主体とした「独身」「チョンガー」論などと併せ技で展開することも必要だろう。その際にも「漫画」とその周辺から発信されていった「笑い」「ユーモア」「諧謔」の類の感覚が、たとえば「男やもめの厳さん」(作・下川凹天、読売新聞連載、昭和8年〜9年)や「ますらを派出婦会」(作・秋好馨、大阪の月刊誌(誌名不詳)、昭和21年〜31年頃)などを産み出していたこと、そしてそれらが戦前から映画化され音楽なども伴いつつ、時には舞台化なども施されながら、当時の情報環境に拡散、増幅されていったことなども視野に入れて、性的存在としての領分を穏当に留保した「個」を「公」の〈リアル〉にしてゆく表現・表象の過程として、広義の現代「民俗」論の脈絡で考察してゆく必要がある。