「世俗化」ということ

 学生時代、と言っても、すでに還暦も視野に入ってきた年格好のこと、ざっと30年以上も前のことになってしまいますが、宗教学や宗教社会学/人類学といった名前の講義で「世俗化」ということを繰り返し聞かされました。「聖」と「俗」といった図式と共に、「宗教」という日本語を眼にし、耳にするたび、未だに半ば反射的に想起されるもの言いのひとつです。

 欧米のキリスト教を前提にしたそれら「宗教」関連の冠のついたガクモン分野の枠組みは、そのままでわれらのニッポンに適用できるものではない、そもそも「聖なるもの」自体が欧米のそれとは別もので、社会のありようやそこに否応なくまつわる歴史の経緯、それらを貫く文化の態様など複雑な要素がからみあって、ひとくちにきれいさっぱり割り切れるものではない、だから「世俗化」というのもそのまま教科書めいたリクツ通りに当てはめられるものではない――ざっとこんな議論が当時、盛んだったように覚えています。

 宗教学であれ何であれ、そのような現象を「宗教」という枠組みから正面から考えるような仕事をこれまであまりしてこなかった身のこと、その後の斯界の事情はほとんど部外者のままと言っていいのですが、先日たまたま折り目正しい宗教系ガクモンの専門家とお話しする機会があった時、この「世俗化」というのは高度経済成長以降、現在眼前のできごとしてニッポン社会に生起している現象を相手取ろうとする時にずっと重要な課題であり続けている、ということをさらっと聞かされて、ああ、なんだつまりはそういうことだったんだ、とひとり納得するところがありました。

 分野や専門領域の違いなどを超え、いずれとりとめないナマものの現在、目の前で生起しているさまざまな事象や現象をどのようにことばにし、手もとで扱えるようにしてゆくか、ということが、日本語環境でものを考えようとする時の同時代的問いであり続けている。そう、問題はつねに「現在」であり〈いま・ここ〉なのであります。それらをなるべく活きた手ざわりのまま、ことばにし素材にしてゆこうとする時に、分野や専門領域の違いなどはひとまずどうでもいい。手にする術語や概念その他道具立ての違いなど以前に、素朴な問題意識としてのそのような「現在」が切実なものとして自分のものにできているかどうか、まずはその一点において信頼できる知性か否かの分岐点があらわになってくる。

 その専門家とはその時、昨今話題の「ポケモンGO!」についての印象などを軽くやりとりして別れましたが、かつて初めて「ポケモン」が世に出てきた時、「ポケットの中の野生」などと当時流行りの美辞麗句でまぶしてそれらをあげつらい、にわかに世の耳目を集めていた「宗教」専門家などとはまるで違う、淡々と眼前の〈いま・ここ〉としてそれらの現象を、ただ「そういうもの」としてまずとらえようとしてきた視線が感じられて、あたしなどのガクモン外道にとってもなかなかに心地よい印象を残してくれるものでした。「世俗化」こそが、今のわれらの日常を律する、ある種の規律になっているのかも知れません。