「読む」の射程距離

 自宅はもとより仕事場その他の古本雑本の類の片づけ、をせにゃならんならんと思いながら、まるで作業が進まぬままいつもそのことを意識しないようにしないようにしてる、そのことがまたストレスの元になってたりするから、ああ、ほんとに何やってんだか、と。

 それでも、手のあいた時や気の向いた折に少しずつでも散乱混乱錯綜しとる本や紙の山を手掘りでいじっていると、自分でももう忘れていたようなあんな本こんな資料が「発掘」されたりするから、それはそれでありがたかったりする。

 引っ越しでも大掃除でも、身の回りの「片づけ」を始めると何か昔の記憶や回想につながるブツにぶつかってしまい作業が頓挫するというのは誰しもあるある、だろうが、しかし考えてみたらこの現象、実は記憶や体験とそれを自ら整理して使えるようにしてゆく方法意識とからめて少し考えてみる余地はあるような気はする。

 本を、活字を「読む」ということについて、とにかく効率的に合理的に生産的に読むこと「だけ」を律儀に誠実に叩き込まれてきた世代というのがあるらしく、ざっくり今の40代そこそこくらいから下、俗にアラフォーと呼ばれるあたりの人がたに特にわかりやすく実装されている習い性のように感じている。一冊の本なり資料をためつすがめつ、手もとのそれこそ実際に手の届く範囲に置いておいて、何かの拍子にふと手にとって開いてみる。必要があって読むのでなく、だからあらかじめ何か目算をつけて「探す」ように読むのではなく、気まぐれにパラパラと「めくる」、そういう散漫と言えば散漫、ゆるいと言えばゆる過ぎるくらいの読み方なのだが、しかし実はこれ、方法的にちゃんと目算つけて位置づけておく必要があるらしい。少なくとも、そういう意味づけをしてやろうとすることで、先に触れたようないまどきの効率的合理的な「読む」を実装した人がたの仕事のありかたから、ひいてはそれらをなしくずしに正義にしてきているかのようないまどきの情報環境と、そこに過剰に適応する/させられている日本語を母語とする環境に宿っている「知」のあり方についてまで、まるっと相対化して射程にとらえることができるようになるかも知れない。