「SEALDs的なるもの」について

―――政治とは、単なる政治思想、イデオロギー、政策沙汰から党派や派閥の離合集散といった要素だけで解釈してしまっていいものでもない。誤解を恐れずに言えば、そんな表象と解釈、さらには芸能の範疇に含まれ得るような領域までまるごとひっくるめて、政治という〈リアル〉は〈いま・ここ〉に埋め込まれている。



 「若者」と「政治」が露出してきている。

 昨年6月、戦後70年ぶりに選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法等の一部改正が行われた。これは憲法改正が具体的な政治課題として考えられるようになった過程で、それに関する国民投票法その他、各種の既存の法律法規間の整合性をとるための言わば副産物といった経緯で実現した面もあったようだが、それらの経緯はともかく、いずれにせよこの夏に予定されている参議院選挙から、実際に18歳以上の「若者」が新たに選挙権を行使することができるようになった。

 人口統計によれば、18歳19歳の日本人人口は男女あわせて240万人ほど。一方、現在日本の有権者数は一説には1億人ちょっと。ここに240万人規模の「若者」が新たに加わっでも有権者数全体からは現状、僅かなものかも知れないが、しかしこの絶賛進行中らしい少子高齢化社会の現在、しかも有権者のうち60代以上の高齢者の比率が40%ほどを占めると言われる現状で、現実にこれから先何十年もの間生きてこの国を支えてゆく若い衆世代の240万人というのは、今後の選挙のあり方を考える上で、実際に彼ら彼女らが示すであろう目先の投票行動とは別に射程距離の長い、言わば社会的・文化的な意味での影響をさまざまにわれわれのこの国この社会に与えてゆく可能性があるだろうこともまた否定できない。世代人口としてはその程度の「票田」でしかないにせよ、いずれ政党政治のリアリズムからすれば何らかの手当てを講じねばならないのは必定。若年層の構造的貧困などと共に「若者」をターゲットにした政策的提言も玉石混淆、保守革新問わずに眼につき始めている。

 と同時に、それらの流れを作り出すメディアの手癖にもまた、合焦しておかねばならない。「若者」と「政治」をめぐってわれわれの社会にすでに刷り込まれてしまっているらしいある意味づけや解釈、それらを下敷きにした語り口が、いまどきの情報環境を介してどこか過剰に演出され、メディアの舞台を介して日々のわれわれの意識の銀幕に、見てくれよろしく麗しく、派手にきれいにきらびやかに投映されるようになっている。それはすでにいつの間にやら知らぬ間に眼に馴れ耳になじんだ、その意味では世代を超えて受容される国民的演目のようであり、ゆえにどこか民話のようななつかしささえまとっている上演コンテンツになってもいる。そのことは、おそらくは巷間考えられているよりもずっと切実に、〈いま・ここ〉で「政治」を考えようとする上での重要な焦点のひとつになっている。


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 SEALDsという「若者」団体がある。「政治」に関わっている。20代前半から半ば過ぎ、現役の大学生がとりあえずは表看板として活動しているように見える。そう見せているということも含めて、そういう「若者」ぶりが売りになっている。

 昨年の夏頃から、街頭でのアピール活動やデモの様子がテレビや雑誌、新聞などを介してメディアの舞台に繰り返し取り上げられるようになっていた。9月には、参院平和安全法制特別委員会の安全保障関連法案に関する中央公聴会で意見表明する「公述人」として複数のメンバーが招かれ、この時の様子も例によってテレビその他に大きく、概ね好意的に紹介されていた。その後もそういう流れは続いている。

「SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。


 私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の3分野で、明確なヴィジョンを表明します。
                    http://www.sealds.com/ (彼らのホームページから。以下同じ)

 もともとは一昨年、「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」として立ち上がったものの由。「ムービー・文章による情報共有や、新宿・渋谷に集まった学生デモや施行日での官邸前抗議行動など」を行い、その後は「沖縄、辺野古基地問題に関するアクション」にも関わってきている。政治的な立ち位置としては明らかにいわゆる「左」、昨今よく使い回されているもの言いだと「リベラル」ということになる。事実、彼ら自身そう自認している。

 リベラル勢力の結集にむけて


 私たちは、現政権の政治に対抗するために、立憲主義、生活保障、平和外交といったリベラルな価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます。この野党結集は、市民の政治参加を促し、機能不全が嘆かれて久しい代表制を活性化させる、新しい政治文化を創出する試みです。

 「学生」有志の組織と言いながら、短期間で東京、大阪、沖縄など全国に複数の拠点を展開、中心的な活動メンバーは一説には約400人、それらを中心に各地でさまざまな抗議活動や反対運動を迅速機敏に繰り広げられるのには何か背景や後ろ楯があると見るのが自然なわけで、実際に現場には各種既存の政治団体や組織の姿が入り交じっているのは政治的立ち位置の如何を問わずこの種の運動のお約束の光景。もちろん、webを介した情報環境がここ10年ほどの間にまた一段と異なる様相を呈し始めている分、彼らが具体的にどういう「若者」なのか、出自や背景、生まれ育ちなどは、といったいわゆるゴシップ的で下世話な、しかしだからこそある種本質的な世間の側の興味関心まで含めてリアルタイムに匿名性を伴いながら襲いかかるのがいまどきの情報環境。しかも24時間途切れることのない常時接続環境で、ほぼひとり1台と化したスマホ系端末を実装した匿名の「個人」の海が拡がっているわけで、、このSEALDsもみるみるうちに丸裸にされ、昨今「リベラル勢力の結集」を唱える界隈の別働隊、ありていに言ってそのようなオトナたちに踊らされる操り人形であることが、webを中心に露わにされていった。それらの経緯や個々の断片については、この場ではとりあえずどうでもいい。ことが「政治」であれ何であれ、いずれ〈いま・ここ〉の〈リアル〉とはとにかくそういうものになっている、良くも悪くも。

 考えておきたいのは、にも関わらず表のメディアの舞台ではそのような背景や事情については見事なまでに「隠されている」、そのことだ。「若者」のやむにやまれぬ問題意識から「自発的に」発生してきた「政治」運動という装いを、まるで何か申し合わせでもあるかのように横並び一律に守った報道に終始している。それは何も「リベラル」界隈だけでない。取り上げ方に濃淡はあれど、政治的な立ち位置如何を問わず、「若者」と「政治」の組み合わせがうまく発動できるような事例であれば基本的に一律に発動されてゆく、何かそんな文法や方程式のようなものがメディアの舞台に埋め込まれているらしいのだ。


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 それにしても、既視感が強い。それも、「若者」のやることだから、と好意的に前向きに解釈できる余地の乏しい、一瞥するだけで心萎える心象風景としての。とにかく一部始終、見事なまでに可愛げがないのだ、あまりにも。

 個人的な見聞などからは、かつてのピースボートがまず思い浮かぶ。そしてその後の「反原発」運動から天安門事件に際して盛り上がった一連の流れなど、80年代に顕在化した当時としては「新しい」「若者」の「政治」的動きが思い起こされる。それらはその後、冷戦構造の崩壊と国内経済のいわゆる「バブル」崩壊などを境にして、オウム真理教のあの騒動などへへともつながっていったものだ。もちろん、もっと引いて見ればそれまでのいわゆる「学生運動」の系譜やそれらと地続きの大衆的な政治運動のあらわれなどにもつながってゆくことは言うまでもないが、しかしとりあえず問題は眼前のこの「SEALDs的なるもの」と、それらを淡々と複写し追認してゆくかのごとき何ものか、だ。

 そのように「若者」を「政治」に導いてゆく道筋はなにも今に始まったことではない。何らかの政治的関心を抱いた「若者」たちが路上に出る、運動に関わる。デモをしアピールし何らかの政治的主張を社会に訴える。昨今はさまざまな仮装コスプレ、音楽音曲パフォーマンスの類まで「自由」に組み込みながら「イベント」としての融通無碍さを獲得、そういう方向での「親しみやすさ」を前面に押し出すのがひとつの型になってもいる。「若者」と「政治」という組み合わせでそれらを意味づけてゆくメディアの文法も基本的に変わりはない。「若者」の代名詞としての「学生」が「政治」に積極的に発言し行動する、ということ自体が無条件に考えなしに「希望」として良いこととして解釈され意味づけられてゆく過程が、すでに半ば自動的なからくりとして稼働して久しい。おおざっぱに言ってそれは「戦後」の過程で、60年安保からその後の全共闘、あるいはベ平連的な「市民運動」などに下地を作られ、その後は先に言ったピースボートなどに連なる同工異曲の劣化コピーをたどりながら、いまなお綿々と眼前に繰り広げられている光景ではある。

 「若者」というもの言いが、そのままで何か「未来」「将来」「明日」を表象するものとして通用してきた経緯。「戦後」という時代自体がそもそもそういう経緯をはらんできたし、そしてそれはそれ以前、「戦前」からすでに、たとえばあの学徒出陣から特攻隊に至るまでの空気の中にも胚胎していた。さらにもっと焦点距離を引いてみれば「民俗」レベル、ムラの若衆宿が既存のオトナを凌駕するチカラを持ち始めた近世後期にまで淵源しているのかも知れない。いずれ「若い」ということはそのように、ニッポンの世間に意味づけられる定型が根深くあったらしい。

 だが、型としては連続していても、それらの背景となる社会のありよう、時代状況はさまざまに変わっている。たとえば、まずその「学生」の意味が違う。大学への進学率が50%を越えた事実上全入に等しい現状、それでいて奨学金という名の学費ローンを数百万円の単位で卒業時に背負わされる者が増え続けている現実。そんな現在を生きる彼らの立場にとつての「政治」とはどのような認識、どのようなことばを介して眼前の社会と、そしてそれらを解釈し理解してゆくためのこれまでの「教養」とつながってゆかねばならないのか、そういう下ごしらえとそのための方法や目算から静かに顧みる必要が「運動」の現場であればなおのこと切実に求められるはずなのだが、しかし当事者である彼ら彼女らはもとより、それらいまどきの「運動」の背景にいる人形遣いたるオトナたちの側からさえそういう見識も失われているらしいことは、他でもない彼らSEALDsのたたずまいや身振り、言動のひとつひとつが何よりも如実に、具体的に証明している。たとえば、こんな具合に。

 日本の政治状況は悪化し続けています。2014年には特定秘密保護法集団的自衛権の行使容認などが強行され、憲法の理念が空洞化しつつあります。貧困や少子高齢化の問題も深刻で、新たな生活保障の枠組みが求められています。緊張を強める東アジアの安定化も大きな課題です。今年7月には集団的自衛権等の安保法整備がされ、来年の参議院選挙以降自民党改憲を現実のものとしようとしています。私たちは、この1年がこの国の行方を左右する非常に重要な期間であると認識しています。


 いまこそ、若い世代こそが政治の問題を真剣に考え、現実的なヴィジョンを打ち出さなければなりません。私たちは、日本の自由民主主義の伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます。そして何より、この社会に生きるすべての人が、この問題提起を真剣に受け止め、思考し、行動することを願います。私たち一人ひとりの行動こそが、日本の自由と民主主義を守る盾となるはずです。

 ああ、なんと見事なまでの型通り。大文字の政治状況を語るその語り口から平板で無味乾燥で、それらに続いて語られる「私たち」もまた全く変わらぬのっぺらぼう。背後にどんな生身があるのか、どんな生まれ育ちをしてきて何をどう悩み、考え、たとえ舌足らずだったり稚拙だったりしながらもどんな「ことば」を、自前で何とかみつけようとしているのか、そういう気配がきれいさっぱり感じられないまるであらかじめ漂白されたような白々しさ。このようなパッケージ化された「若者」をそのままに受け入れる生身が、これまてそのようなパッケージに梱包された「政治」と紐つけられ、さて、果たしてどんな〈それから先〉があり得るのだろう。

 かつてなら、専従の「運動」家になってゆく道もあるにはあった。労組全盛の頃ならば組合事務専従、そうでなくても食い扶持稼ぎとして大学生協の職員や図書館司書、学校事務などに押し込んでもらうといった人生行路はあり得たし、その後も含めて現実の政治の過程に学んでゆく可能性も、結果はともかくそれなりにあったはずだ。今、現役で働いている地方の議員や団体職員、公務員などの中に、そのような経緯でひとかどのオトナになってきた人がたは少なからずいるだろう。だが、このSEALDsたちはどうだろう。

 露わにされた断片などから見ると、彼らの親は概ね50代あたり。ということは、かつて「新人類世代」と呼ばれた80年代に「若者」だった者たちの、彼らはその子どもたちにあたる。それこそ、あの辻元清美香山リカ宮台真司の息子や娘であり得るような、そんな「若者」たちなのだ、とりあえず世代的な枠組みとしては。

 少し前「就職氷河期世代」ということが言われた。バブル経済崩壊後から今世紀に入って2000年代半ばに雇用景気が好転するまでの時期に概ね社会に出なければならなくなった、かつて「団塊ジュニア」と名づけられた世代のその後ということになっている。いまの時点での30代前半から40代はじめあたり。この「団塊ジュニア世代」に対して、SEALDsの世代は言わば「新人類ジュニア」ということになる。つまり、今回の新たな選挙制度の下、18歳で選挙権を行使し始めるのは「かつての新人類の子どもたち」ということなのだ。このことの意味についてはまた、もう少し深めてみる必要があるだろう。

 いずれにせよ、眼前の事実、〈いま・ここ〉の事象としてのこの「SEALDs的なるもの」の上演のありようは、好むと好まざるとに関わらず大きく変わってゆかざるを得ないこの国のかたちをこの先、どのようなオトナたちが構想し支えてゆくのか、そしてそのためにどのような後生の育み方をしてゆけるのか、などの課題を静かに考えようとする時、表層のけたたましさや雑駁さなどとは別に、かなり根の深い問いを投げかけていると思う。

 思えば、かつて自民党、というのは、正しくオヤジ政党だった。


 オヤジでありイナカであり、地縁血縁であり、義理人情のどうしようもないしがらみであり、ミもフタもない利権共同体であり、土建屋であり不動産屋であり、さらに当たり前だが高度経済成長を具体化させた政策を後ろ盾に突っ走った財界そのものであり、何にせよそういう「日本」、少なくとも高度経済成長期までそうであったような一次産業中心、稲作至上の農業基盤、だから当然「百姓」が国民の心性の中核に位置していたような、まずはそんなものを代弁している盤石の何ものか。


 「政権与党」というもの言いにはそういう、うっとうしいけれどもにわかにはさからいがたい、言わば未だに「家長」としての威厳が揺曳しているオヤジの雰囲気がしっかりこってりとまつわっていたのだ、少し前までの、あの「戦後」という空間においては。


 だから野党というのも、イデオロギーとして革新であれ何であれ、常にそういうオヤジに対抗する存在=若者、という属性を引き受けざるを得ないところがあった。冷戦構造下の保守と革新という対立構造には、オヤジ対若者、という、「戦後」の空間においてデフォルトとして仕込まれてしまった“もうひとつの対立”が必然的に重ね合わされていた。