マンガの「危機」について

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 マンガが危機? そんなもん20年も前から言われとりますがな。

 『少年ジャンプ』がとうとう200万部を切った、確かに四半世紀ほど前の全盛時600万部と言われとった頃からすりゃ三分の一以下、雑誌のみならず単行本も長期低落が止まらず確かにえらいことではあるんですが、まあでも、いずれそれらは紙の媒体のこと、何もマンガに限らず週刊誌にせよ月刊誌にせよ、あるいは新聞なども含めていわゆる旧来の紙媒体の落日はもはや構造的なもの。マンガとて、紙媒体が売れなくなることはとうに予想されていたことで、もちろんそれで喰ってる業界当事者の人がたも予測の上、電子書籍化その他あれこれジタバタしてきとらすわけで、このニュース自体は今さら何を、という感じは否めません。

 ただ、そういう「マンガはもうダメかも知れん」的危機論にまつわって、案外まだきちんと問題にされてないらしいことを、ここはひとつだけ。 マンガを「読む」という習慣、 もはや国民的規模であたりまえになったかのように思っているその習い性自体が、実は静かにそのありようを変えてゆきつつあるらしい、そのことです。

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 かつて子どもの頃、退屈しのぎのそれこそ「おもちゃ」としてマンガを与えられることからマンガを「読む」作法を身につけた人がたの多くは、オトナになってゆく過程で自然にマンガから離れてゆき、実際には読まなくなるものでした。その中で一部、10代も半ばを過ぎてもなお、マンガを読む人がたが一定の量で出現し始めたのはおおむね60年代半ば、いわゆる団塊の世代がそれら青年期にさしかかるようになった頃でした。それに見合って、それまで子ども向けの少年誌・少女誌しかなかったマンガ専門誌に『ビッグ・コミック』など青年向けの媒体も生まれ始める。オトナになってもマンガを読む人がたが増えてゆき、またそのような人がたの「読む」に耐え得るマンガ作品が求められるようにもなり、かくて戦後ニッポンマンガの市場はこのような経緯で、その読者層の成長と共に大きく拡がるようになってゆきました。アニメ(当初は「テレビ漫画」でした)にしても、子どもだけでなく青年/若者のものに、さらにはオトナのものにもなってゆく過程もまた、それらマンガ市場の拡大と概ね軌を一にしていました。今の日本人、概ね60代から下の世代ならばおおよそ誰もがマンガを「読む」ことができる、そういうリテラシーを実装するようになっている背景には、すでにそのような「歴史」の過程が横たわっています。

 もちろん、昨今の青年/若者もまたあたりまえにマンガを「読む」ことができる。それは確かなのですが、ただ、だからと言って、少し前までの青年/若者たちが読んでいたように「読む」のかというと、どうやらそうでもないらしい。その「読む」の内実が変わってきていると共に、それ以前にまず習慣としてマンガに接する機会自体が少なくなってきているようでもあります。

 半径身の丈の見聞に限ってみても、親がマンガを読み、お気に入りのマンガ本を揃えているような環境に育った若い衆は早くからマンガを読むようになる、それも親から勧められた昔の作品なども糸口にしながらマンガリテラシーを実装している印象があります。彼らは「読む」だけでなく自分自身で「描く」ことにも開かれている。マンガを(というかビジュアルの表現を)実際に描く技術の進展とその広汎な拡がりは、紙媒体のマンガが売れなくなっていったこの20年ほどの間に、逆にそれまでと違う能力を若い世代の間に与えてもきたようです。このへんは商品音楽の聴き方、受容の仕方などとも共通している面がある同時代的現象でもあるでしょう。

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 ただ、そんな彼ら彼女らいまどきの青年/若者は、マンガ「だけ」を切実に読んでいるわけでは全くない。生まれた時からアニメがありゲームもあり、それら新たに出現したメディアと共にそれまでと異なる情報環境に育って社会化してきた彼らにとっては、マンガもまたそれら情報環境における多様化したメディアコンテンツのひとつに過ぎません。マンガ「も」読めるし、機会があれば読むけれども、だからと言ってマンガを特別なものとして読むわけでもない。また、何よりもかつてのような「教養」として、活字/文字を自明の前提として成り立っていたような「文化」として受け取る素地自体、すでに希薄になっています。近年「マンガはもうダメかも知れん」論を深刻に語る人がたの口吻には、この「かつて切実な表現としてマンガを読んできた」世代感覚ならではの、どこか「教養」や「文化」として活字/文字の補助線を自明の前提にしながら解釈しようとしてきた、その習い性ゆえの現状に対する根深い違和感みたいなものがどこか必ず含まれているような印象があります。

 かつてマンガを青年に、さらにオトナになっても読むような習慣を身につけ始めた世代が育った情報環境は、活字/文字が良くも悪くも中心になり立っていました。当時、ラジオはすでにあり、その他おおぜいの世間(つまり「マス」)を直接相手取ることのできる新しいメディアとしてテレビが出現するようになってきてはいたものの、それでもやはり情報環境における第一次的なメディアは良くも悪くも活字/文字であるという現実が、それを支える価値観や約束ごとと共に厳然として生きている環境でした。だから、それら活字/文字を「読む」ことこそが、彼ら彼女らにとっての「読む」という作法の根幹を形成してきたところがありました。「視聴覚教育」などと言われ、大衆社会化と共に活字/文字「でない」〈それ以外〉の媒体がその社会的意味と共に意識されるようになっていったのも概ねその頃。いわゆる映像/画像系「ビジュアル」情報についての意味が、それまで標準設定とされてきた活字/文字との関係で改めて問い直され始めるようになったのも、思えばようやくその時代からだったわけで、マンガを「読む」こともまた、それが「読む」という動詞と共に人々に意識されるようになっていったことに象徴されているように、やはり活字/文字の「読む」を前提に身につき、かつ社会的に浸透していったと考えていいでしょう。

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 けれども、そのような活字/文字前提の「読む」習い性自体が昨今、もう決してあたりまえのものではなくなってきています。マンガに限ってみても、自分で描いた作品が同人誌も含めた紙媒体でなくweb経由の発表手段が一般化してゆく中、そちらから読者を獲得してゆく事態はそれなりに起こってきていますし、そこから紙媒体へと「進出」してゆくことも珍しくない。先日、第21回手塚治虫文化賞(短編賞)を受賞した『夜廻り猫』(作・深谷かおる)や、web経由で読者を獲得し自費出版までこぎつけたweb『巻きシッポ帝国』(作・熊谷杯人)など、すでにプロの描き手として実績ある作家も同人作家や駆け出しのアマチュア作家などと等しく、同じ土俵で作品を発表して広く世間に問うてゆくことができる、そういう「開かれた」環境が準備されるようになってきていることの恩恵は大きいわけですが、同時にまた、それら新たな環境経由で生まれてくるマンガ作品には、これまでのマンガを「読む」作法からはなじみにくい、活字/文字前提の「読む」とは別のところで成り立っているような質のものも静かに増えてきているように思えます。

 このへんの問題、限られたこの場で大きく展開するわけにもいかないのでざっくり要点だけ示しておきますが、これまでの活字/文字前提の「読む」にとって自明だったはずの「文脈」がそれほど重要でない、言い換えれば「おはなし」についてのリテラシーが活字/文字前提で成り立ってきていた近代このかたのありようが、ここにきてむしろ近代以前、話しことば的な意味での「非」活字/文字的ありように立ち戻りつつあるような、そういう「読む」を想定しないことにはうまく受け取れない、少なくとも活字/文字前提の「読む」で生きてきたわれわれにはそういう敷居の高さが厳然とある作品が眼につくようになってきています。思えば、マンガとアニメ、ゲームにしても今やソシャゲなども含めた状況になっていて、そこに以前からのその他キャラクター商品群など、「マンガ」とひとくくりにする現象が成り立っている商品/市場環境自体、初手から複合的なものになってすでに久しいわけで、それは当然、そのような環境でそれらメディアコンテンツと接して社会化してきた世代にとってはまた別のリテラシー、異なる質の「おはなし」の作法を要求してきているのでしょう。読み手であり消費者であり、いずれそのようなメディアコンテンツとしての「マンガ」とつきあい、そこから何か〈いま・ここ〉なりの切実な何ものかを受け取っているはずのいまどきの青年/若者若い衆にとっての「教養」というのもまた、われわれの既存のことばやすでに貯えられてきている道具立ての向こう側に、すでにたたずみ始めているのかも知れない、そう感じています。*2

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*1:ちとあれこれあって掲載されたのはこんな感じに(´・ω・)つ「少年ジャンプ200万部割れ」を深刻に語るオトナたちへの違和感 - オピニオンサイトiRONNA http://ironna.jp/article/6644 #iRONNA 比べていただければそれはそれでまた一興かと。

*2:末尾部分、担当編集とのやりとりで手入れました、こんな感じで………「このへんの問題、限られたこの場で大きく展開するわけにもいかないのでざっくり要点だけ示しておきますが、たとえば、これまでの活字を「読む」作法にとって重要だったはずの「文脈」に配慮しない読み方でないと対応しにくいだろう、単なる場面(シーン)を漠然と並べただけのような作品がどうやら確実にひとつの流れになってきているらしい。そこで立ち動く登場人物たちも、それらをいきいきとした存在に感じるための要素のはずの生い立ちや生活背景その他の書き込みや設定が希薄で、いまどきのもの言いで言うところの「キャラ」としてだけ存在している印象。こういう傾向はマンガに限らず、ラノベ(ライトノベル)などによりあからさまなのですが、敢えて言えばかつての歌舞伎のような、かつての虚構のありようが紙の上の「おはなし」表現に、この21世紀の眼前の事実として立ち現れているかのようにすら感じます。つまり、「おはなし」を受け取る上での、これまで活字を前提として蓄積されてきた近代の常識がここにきて役立たずになり始めていて、むしろ近代以前、話しことば的な情報環境でのありように立ち戻りつつあるような、少なくともそういう「読む」を想定しないことにはうまく受け取れないであろう作品が、マンガであれラノベであれ、若い世代の支持を得ているジャンルの表現に眼につくようになってきています。思えば、マンガだけではなく、アニメやゲームにしても今やweb環境介したソシャゲなども含めた状況になっていて、そこに以前からのその他キャラクター商品群など、「マンガ」とひとくくりにする現象が成り立っている商品/市場環境自体、複合的なものになってすでに久しいわけで、それは当然、そのような環境でそれらメディアコンテンツと接して社会化してきた世代にとっては、これまでとはまた別のリテラシー、異なる質の「おはなし」の作法を要求してきているのでしょう。読み手であり消費者であり、いずれそのようなメディアコンテンツとしての「マンガ」とつきあい、そこから何か〈いま・ここ〉なりの切実な何ものかを受け取っているはずのいまどきの若者たちにとっての「教養」というのもまた、われわれが抱えている既存のことばやすでに貯えられてきている道具立ての向こう側に、すでにたたずみ始めているのかも知れない、そう感じています。

*3:結局、手を入れたバージョンも間に合わなかったようであります( ノД`)