「うた」と言葉について

f:id:king-biscuit:20201126140912j:plain
 「木綿のハンカチーフ」にしても「ウエディング・ベル」にしても、未だそこまで自分の内面、やくたいもないこのココロの銀幕に鮮烈な印象を残しているらしいのは、単にその「歌詞」、言葉としてそこで歌われている言葉の意味内容においてだけでなく、それが具体的な「声」として、肉声として生身のたたずまいを否応なく伴って現前していたからだろう。*1

 肉声を伴った言葉は、文字や活字と異なり、その向こう側に生身のたたずまいを察知させざるを得ない。それは聴き手であるこちら側が生きている現在、〈いま・ここ〉に共にピンポイントで現前し、こちらの生身である部分に感応し、その裡に何らかの情動、ココロの動きといった不定形であやしい領域を不断に生み出してゆく。そして、その〈いま・ここ〉であること、時間と空間が限定された「現在」の上演であることを引き受けて初めて、「うた」もその場にゆくりなく宿ってゆく。前回ほどいてみた「カバー」ということもまた、オリジナルの元の楽曲の別のヴァージョンというだけでなく、それらが元の楽曲が宿っていた時代や情報環境とはまるで違う〈いま・ここ〉にまた、その都度新たに「うた」として宿ってゆくということになる。その意味で、「うた」のヴァージョンとは、実はそれが耳にされるたびに常に更新され、それぞれの場で新たな現在として立ち上がり続けるものではあるらしい。*2

 とは言え、さはさりながら、それでも「うた」は言葉である。少なくとも、いまの自分たちにとっての感覚と、それに依拠した「そういうもの」という水準では。ただ、同時にそれが本当に普遍的な感覚なのかというと、どうやらかなりあやしくなってくる。

 たとえば、これは少し前から気づかされていて、自戒していることでもあるのだが、いまどきの若い衆世代、少なくとも20代から下くらいの人がたにとっては、「うた」とは必ずしもそのように言葉が最も前景にあるものでもなくなっているのが、むしろ普通の感覚ですらあるらしい。

 どんな楽曲でもいい、流行りのJポップであれアニソンであれ、いずれそこに歌詞として言葉が含まれている音楽の、その歌詞に耳が合焦しない。自ら好きといい、ダウンロードをしてスマホに入れて持ち歩いては繰り返し聴き、あまつさえこのCDがほぼ売れなくなっているご時世になお、ブツとしてのCDを買い求めて手もとに置いてあるような贔屓の歌手やバンドの楽曲であっても、そこに歌われている言葉としての歌詞を意識して聴いたことはほとんどなかった、とうっかり白状した学生若い衆に遭遇したのは、今からもう10年ほど前のこと。歌詞を糸口にしてある楽曲を語ろうとするこちらの言葉に耳傾けていた果てに、「なるほどねえ、彼ら、そんな意味の歌を歌ってたんですねえ」と表明した素直な驚き方に、こちらは違う意味で驚かされた。楽曲を構成している「音楽」としての要素、メロディなり、リズムなり、ビートなり何なり、そういう狭義の「音」と地続きに歌詞の言葉は聞こえているし、それ以上でも以下でもない――かいつまんで言えば、そういうことらしかった。同じくその頃、突出して現象化してきていたアニメの声優にだけ自身のフェティッシュを鋭敏化させてゆくような性癖などと共に、いまどき若い衆世代の五感のまとまり方とその結果否応なく現前しているらしい生身のありかた、身体性の現在を眼前の問いとして痛切に思い知らされた次第。

 しかし、そういう意味でなら、自分たちもかつて「洋楽」と呼ばれる音楽に初めて接した時、英語なりフランス語なり、いずれ「外国語」としてそこに含まれている母語の日本語ではない言葉によって発声されている歌詞の中身を理解できないまま、それらを音として、「音楽」の要素としてフラットに聴いていた。そんな中から、辞書をめくってそこで歌われている歌詞の意味を探る者も出てきたけれども、でもその一方、大方はそんなこととは関係なく、それでも、やれビートルズがどうのJBがこうのと、あれこれ能書きを言いあうくらいには素朴にそれら「洋楽」を楽しんではいた。まして、言葉による歌詞の介在しないジャズやクラシックなどになると、そのような言葉に耳が合焦することもなかったから、まずそこにある「音」だけを生一本で受容することにならざるを得なかった。戦前の旧制高校生などに代表される「教養」としての「音楽」にまずクラシックがあげられていたのは、それが学校教育としての「正しい」音楽とされていたからだけでなく、同時にそれが言葉が介在しない、しかも母語として即座に耳が合焦してゆき、いきおい意味がそこに生じてくるような聴き方をしなくてすむ、そんな種類の音楽だったからという面もあったのではないか。逆に言えば、母語としての日本語が即座に介在し、それに伴う意味の場が生成されてしまうような空間は「通俗」であり、それら「教養」が宿るべき場所ではないという、当時の生活文化的な文脈による棲み分けによるものだったということでもあるのだろう。

 歌詞という形であれ何であれ、楽曲を構成している「音楽」としての要素に、言葉が含まれるか含まれないか、どうやらそれは音楽を聴いて楽しむ上で、何も本質的で普遍的なものではないらしい。とすれば、音楽を聴く時にそこに含まれている歌詞、言葉の要素にまず耳が、意識が合焦してしまうような今のわれわれの習い性こそ、広い意味での言葉にあらかじめ縛られたものであり、むしろそちらこそが人間の本性、本質からすると、例外的で少数派なのかも知れない。



 「うた」と言葉の関係。殊に、その「うた」に関わってくる言葉が文字や活字であるのか、それとも生身を介した肉声という意味での「声」であるのか、その間におそらく孕まれ、埋め込まれている亀裂のようなもの。「うた」を考えようとする時に、考えるこちら側の生身に常に問いかけてくるおそらくは言葉の向こう側、この生身の昏がりに滞っている何ものかの気配の拠って来たる場所。

 たとえば、自分ごととして振り返ってみれば、「詩」と「短歌」がわからないという感覚がずっとあった。今でもある。これはもう拭い難いもので、いまさらどうしようもないらしい。だがしかし、これらも共に「うた」ではあるはずなのだ。だとすれば、詩や短歌がわからないということは、自分には「うた」がわからない、ということになるではないか。「うた」の宿らぬ生身のつづる言葉に、この世のほんとの広がりは見通せない。

 もの書きの肩書きに「詩人」というのもあった。いつの頃からか廃れた。少なくとも恥ずかしくて自ら名乗ることがはばかられるようになった。いや、そもそもその「詩」自体、恥ずかしいものになって久しい。最近では「ポエム」などとまで言い換えられ、ただ揶揄、嘲笑されるべきものにまでなっている。それが「うた」でもあったような境遇からすでにはるか遠く、「ポエム」にまで落魄した「詩」は、すでに21世紀のわれら同胞のことばの作法の裡に、その居場所を失っているかに見える。

 そのような「詩」とは、少し前までまだその姿かたちが見えていた頃までは、概ね口語の自由詩であり、時にその延長線上の散文詩でもあるようなものだった。思えば「短歌」もまた「和歌」と呼ばれて、「俳句」や「川柳」などとひとくくりに「五・七・五」「五・七・五・七・七」といった定型だけを暗記させられ、教室の机の上を「そういうもの」として通り過ぎるものだった。戦後の学校教育の文脈で取り上げられる「詩」とは概ねそんなものであり、散文による表現の代表として理解されていったらしい「小説」と共に、広い意味での「文学」として合切袋に放り込まれ、「国語」というさらに大きな箱の中に詰め合わせになっていた。そこに「うた」の居場所はなかった。

 学校教育での「うた」は、「音楽」という別の箱に納められていた。それは「唱歌」であり、言葉を楽曲のしらべに乗せて発声し、「歌う」ことを課せられていた。「唱」の文字に込められていたものは、そのように「人に先立って」声に出し、節をつけて歌うことだった。学校における音楽教育の来歴をあれこれひもといてみると、もとは当時の欧米、殊にアメリカの流儀で「音」そのもの、人間の音声のみならず自然天然にある「音」まで視野に入れ、それらの「感情」「情操」への影響などにまでお堅く真面目に考えていたようなのだが、しかし、ここでもわれら凡俗の理解の中心はなぜか「歌詞」であり、あらかじめ文字として与えられた言葉を間違いなく教えられた通りに「歌う」ことが自明の目的になっていったようだ。なので、ここ「音楽」においても「うた」は、本邦の世間にそれまであったかたちに沿った居場所を安堵されないままだったことになる。

「様々な音楽の効力は、「徳性の涵養」というただひとつの目標に収斂されてしまった。その理念を実現するための唱歌教育とは、音あるいは音楽よりも、歌詞の意味内容の伝達に重点を置くものではなかっただろうか。新しい音楽を創るという強い決意のもとで始められた唱歌創作において、音楽が決してなおざりにされたという意味ではないが、少なくとも音楽はことばの意味を運ぶ乗り物のような役割しか担っていなかったと言える。響きとしての音楽自体が人間の感情に喚起させる感動、「人心に感動力を発せしむ」という伊沢や目賀田の音楽観は完全に姿を消してしまっている。(…)こうした歌詞のみへの関心は、明治20年代から盛んになる、俗楽一掃の手段として唱歌を利用しようとする動きと表裏一体であり、俗楽への非難も、やはり歌詞の卑俗さに集中しているのである。」
(石田陽子「唱歌教育と童謡復興運動にみる初等科音楽教育への提言についての一考察」 2007年)

 文字や活字と、生身の肉声と、言葉のまとまりがそれぞれに引き裂かれてゆく中、「うた」もまた、それが本来宿っていた場所であるはずの生身の〈リアル〉から引き剥がされ、ひからびた標本のように水気も色気も枯れていったらしい。

*1:「うた」と「うたう」の現在 - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/10/01/000000

*2:「カバー」ということ - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/11/01/093855