雨情は必ず「うた」にした

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 詩が「うた」であり、「うた」である以上、それは実際に声に出し「うたわれるもの」であったということは、今のように活字・文字を介して詩を「よむ」のがあたりまえだという認識になっていると、すでに気にかけることすらないままに忘れられている。同じく、詩を作る人という意味での詩人もまた、それら「うたう」ことをあらかじめ想定しないのが普通だろう。「吟遊詩人」といった、どこかなつかしい響きを含んだように思えるもの言いもまた、ある歴史的な文脈においてしか通用しなくなって久しい。気ままに、自在にうたい、時に楽器を携え自ら奏でもしながら「詩」を「吟遊」していたと言われる彼らにとって、詩は自明に「うた」であり、肉声を介した音や響き、リズムなども含めた「節」の属性も当然に含まれているものだったはずだ。

 とは言え、詩人がそのように当然に「うたう」ものでもあったことは、本邦においても、書き言葉を介した散文が音読、朗読されるのがあたりまえだったのと同じように、ある時期までそう異例のことでもなかったらしい。

 たとえば、野口雨情。北原白秋西条八十と共に、童謡界の三大詩人などと呼ばれる御仁だが、いわゆる大正期の「童心主義」系のムーヴにおいて、これまで言われてきた文脈とは少し違うところで、「うた」をめぐるもうひとつの歴史の相に関わる重要な位置を期せずして占めていた気配のあることを、かつて朝倉喬司が鋭敏にも指摘している。

「雨情が童謡を書くにあたって、対象として想定した子どもは、まずなによりも「境界」上に心身をあそばせる存在としての「子ども」だった。このことは、ひとり雨情に限らず、大正童謡の形成全般のキーポイントであり、(…)北原白秋においては、彼以上に自覚化された、表現の問題だった。異界から、あるいは民俗の古層から境界域ににじみ出してくる、容易にはコトバにならぬ信号、これが雨情における「声」だった。それにその「声」は、あらかじめ歌に連動すべきリズムと抑揚を内包した「声」なのである」(朝倉喬司「民俗の古層からの「声」」、『流行り唄の誕生――漂泊芸能民の記憶と近代』所収、1989年)

 わかったようでわからない文章、と微妙な顔をするなかれ。これは朝倉の文章が難解というのではなく、もともとこれら民俗レベルまで深入りするイメージや想像力の水準での人のココロのささやかな動きや気配を察知するためのことばやもの言いとは、輪郭確かな概念や術語による規矩明らかな細工もののようなわけにはゆかない、それゆえの読み取りにくさ、なのだから、しばしご辛抱を。

 こういうことだ。この世とあの世、というのは常にそんなにはっきり線引きされたものでもなく、日々生きて棲んでいる眼前の現実とは異なるもうひとつの現実の手ざわりや確かさも含めて、初めて〈リアル〉である、と感じられるような事態が、どうやらわれらニンゲンには訪れるものらしい。その程度に現実とは〈それ以外〉と隣り合わせになっていて、だからこそそれらは、「境界」と仮に言いならわしておくしかないようなあいまいな領分をどこかに隠し持っている。そのような意味で、子どもは〈それ以外〉に半身を浸した存在であるし、ゆえにうっかりと「異界」や「民俗の古層」とでも呼ぶべきもうひとつの、水準の異なる〈リアル〉の気配をこの世に伝える媒体ともなり得る。だが、それは明示的で理にかなった表現、意味のたてつけに収納され得る範囲を越えた向こう側の「声」や「音」、生身の「気配」やそこにある「感じ」などの融通無碍な領分を自在に駆使して迫ってくるようなものになる。「あらかじめ歌に連動すべきリズムと抑揚を内包した」という部分は、そのような意味で読まれるべきなのだ。

 そのように「雨情の詞のコトバがもともと「声」をひきよせ“内在的に”歌を成りたたしめる方向に成立していたこと」からの一点突破で、ここでの彼は「当時の童謡(詞)にはかならずしも歌がついてなかった」こと、そしてそれら活字・文字として表現された「よまれる」べき詩として作られていたはずの童謡が、読み手の側で勝手に気ままに「節」をつけて「うたわれる」ものになっていたらしいことなどと共に、雨情とその作物が当時の「童心主義」系ムーヴにおいてうっかりと占めていた独特の立ち位置について、果敢にほどこうとしている。おお、その志やよし。及ばずながら自分もそれを受け止めて、先へ行こう。


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 近代的な文学作品としての詩の脈絡に「童謡」は現われた。とは言え、「当時、「童謡」という語は一般人のほとんど使わない特殊なタームであり、もっぱら子どもが歌う歌をさすコトバとしては(学校)唱歌とわらべ歌の二つが一般的だった。」(朝倉、前掲書) 「よまれる」詩の形式として「童謡」は、少なくとも作者においてそのように意識され、実作されるもので、だからこそ「児童文学」の脈絡で当然のように「評価」されることにもなってきている。

 それら児童文学史の標準的な「童謡」理解は、たとえばこんな感じになる。

「大正期童謡は、その詩精神において、そしてそのメロディーにおいて、前代の唱歌を完全に克服し、その新しい芸術的開化のゆえに、限られた階層の子どもたちにだけでなく、およそ同時代に生きる日本のすべての子どもたちに迎えられたのであった。〈国民的児童文学〉というのがわたしの理想とする児童文学の在り方であるが、大正期童謡のいくつかは、その概念にもっとも接近していたと言って過言ではない。」(上 笙一郎「「赤い鳥出身の童謡詩人――赤い鳥童謡会から「チチノキ」へ」、『赤い鳥研究』、1965年)

 「よまれる」詩としての童謡という形式は、文字で表現されるものとして理解され、また実際、だからこそ普及した。雑誌『赤い鳥』を主宰していた北原白秋は、彼を師と仰いで自分たちも実作したいという全国の読者たちを組織し、運動的なムーヴを起こそうともしていた。それは同じ時期、雑誌を介して読者を組織し、ある種の歴史認識の改革を運動として画策していた柳田國男の初志とも共通する、同時代の情報環境に足をつけた内実をはっきりと持っていたはずだ。だが、それは「流行り唄」としての「うた」が「流行る」メカニズムの、民俗レベルも含めた来歴とは、また別のものだった。

 一方、雨情はというと、「童謡」というたてつけで詩作をしながら、同時に「民謡」にも意識を開いている。

「それまでの雨情は、札幌や小樽の新聞社に転々と籍をおいたり、故郷にもどってまた出奔したりの“放浪生活”を送っていた。在来の俗謡や俚謡からモチーフやコトバを詩にくりこんだ「民謡」(当時にいう俗謡、俚謡が現在民謡といいならわされている)を主体にした彼の詩は、自然主義象徴主義隆盛期の詩壇、文壇の主流からはずれざるをえなかった。大正期に勃興した『赤い鳥』『金の船』などによる童謡運動、あるいは、時期的にほぼ併行した流行歌の台頭がなかったら、詩人としての雨情はおそらく無名のまま、その生涯を終えただろう。」(朝倉、前掲書)

 この雨情に才能を見出され、戦前から戦後高度成長期にかけて活躍した作詞家に時雨音羽という御仁がいる。フランク永井の「君恋し」の作者と言えば、作風含めて何となく、ああ、と思われるかも知れない。この音羽氏、北海道は利尻島の出身で日本大学卒業後は一時、大蔵省に勤めたという経歴の持ち主。先に触れたような「児童文学」系ムーヴとは、おそらく縁の薄いところで自己形成されていた人と考えていい。

 その彼が書き残した、雨情との出会いの場。大学法科を終わろうとする時、関東大震災に遭遇、落胆している時に友人から同人誌に誘われた。だが、下宿の女主人が「自分に天分があるかないかを見きわめないで文学になどに手を出すことは危険である。幸い私は有名な人を知ってるからその人に作品を見て貰って自分を確かめてからにしなさい」と説教の上、添書きまでしてくれ、草稿を持って雨情のもとを訪れたとおぼしめせ。時は大正13年、春3月の東京は巣鴨

巣鴨宮仲にあった雨情さんの宅を訪れたのは夜であった。格子戸の玄関のある平家で古い借家らしかった。若い奥さんに案内された六畳ほどの部屋でかしこまっていると、やがて和服姿の雨情さんが現われた。四十がらみの小柄な人で、きれいな目にいいしれない光があった。「えらい人だから……」と下宿の女主人にいわれたが、ちっともえらそうでない。しきりに武田さん(下宿の女主人)と私の関係をきく。わけを話して私は持参の風呂敷包から、自作の短章、四、五十篇を出した。雨情さんはそれを幾度も繰り返しみていたが、その中の一篇を指して「これはあなたが本当に書いたものですか」と私の顔を見た。目がキラリと光って射るようであった。そうですと答えると、どこで着想を得たかという。駒込から下って私の下宿先初音町へのぼる途中の料亭にその札が貼ってあった。女の人がそれを見上げていたのが印象的だったので、それを素材にしたと答えると、雨情さんは大きな目でふたたび私を見詰めてから、うなずいてやがて鼻のつまったような声で歌い出した。」

はすかいに 貼るものですよ うり家札
わらうでしょうね 待合の
おかみが男に だまされて
家を売ったと きいたなら

 その時の「うり家札」の一節。小唄か都々逸のような調子だが、音羽自身がこれを「詩」として同人誌に出そうとしていたとこと、さらにこれらの詩作が雨情の紹介で同名の「民謡集」として出版されたということにもひとまずご留意の上、再度経緯を確認。

 見て欲しい、と持参し示された文字の詩編を、最初は「みていた」雨情が、その詩編の着想をどこで得たかを尋ねる。音羽が遭遇した場面を説明することで、おそらく雨情の裡に何か具体的なイメージとしてその詩の宿った情景が合焦してゆき、ある確かな情感と共に〈リアル〉なものへとみるみる変貌してゆくことで、何か感じ入るものがあったのだろう、次には自ら「歌い出した」。

「何回も何回も繰返し低い声で歌ってから奥へ向かって、「酒もってコウ」とどなった。やがて六、七歳の女の子が銚子を捧げるようにして現われた。(…)のちに雨情ぶしといわれた雨情独特の節まわしは、えんえん、めつめつとして銚子四本をひとりで空けるまでつづいた。」(時雨音羽『人生流行歌』、1972年)

 すでに「船頭小唄」などで流行歌の作詞家として名声を得ていた雨情だが、このように「うたう」のは習い性だったようで、その「船頭小唄」にしても「(作曲者の)中山晋平は、この曲について「野口さんが気分まかせの節をつけて歌っていたので、その節を土台に、少し修正を加えただけですよ」と語った」由。「童謡」と「流行歌」の間をつなぐ「作曲」は、その頃にはこのようにあり得るものだったらしい。