「作詞家」と「作詞」の今昔



 「作詞家」という肩書きも、もうあまり見かけなくなった。

 いや、商売としては現存しているのだろうが、それが仕事の肩書きとして眼に触れる機会が少なくなったというだけのことなのか。web検索を叩いてみると、それら「作詞家」志望をあてこんだとおぼしきサイトや広告の類はまだたくさんヒットするし、オーディションやコンテストの類もそれなりにあるらしい。また、昨今のこととて「資格」商法の一環に取り入れられていたり、あるいは専門学校のコースになにげなく組み込まれていたりと、ふだん気づかないものの、「作詞」という言葉自体はある種の創作として、それこそ「クリエイティブ」な仕事として、本邦の世間一般その他おおぜいに向けて、今なお夢を与えるものになってはいるようだが、ただ、よく見ると様子が違う。

「ひと昔前には、作詞家を目指す若者はレコード会社や音楽制作会社を直接尋ねていくことがデビューへの登竜門でした。自分が作詞を担当した曲のデモテープを売り込み、プロデューサーやディレクターに聞いてもらい、デビューや仕事のチャンスをうかがっていたのです。しかし現在のように音楽がデータ化され、メール添付でデータのやりとりができる時代になると、こうした持ち込みはほぼなくなりました。」(ある職業紹介サイトの「作詞家の仕事」)

 「作詞家」になる道としてデモテープの持ち込みが、それもすでに過去のこととして語られている。要はシンガーソングライター、楽曲と一緒に歌詞も作るのが自明の前提で、最初から「歌詞」だけを売り込むようなかつての「作詞家」のルートは、もう想定すらされていない。つまり、言葉としての「歌詞」を「うた」として創作し、文字にするという作業を商売に繋げることは、今の時代、考えること自体もう現実的ではなくなっているということなのか。事実、いま「作詞家」という肩書きですぐに思い出せる名前は、たとえば阿久悠だったり、松本隆だったりする。また、それが昨今、世間の大方のはず。現在第一線で活躍中の作詞家の名前など、誰も気にしなくなっている。

 逆に、曲を作るということ自体、すでにデジタル機器を介したデータ上の作業になって久しい。五線譜にオタマジャクシを書き込むのでなく、キーボードでモニタ上に打ち込む、それも手指と身体で楽器を操ることをせずとも、各種デバイスを使ってひとりで何種類もの楽器の音を作り出し、かつそれらをひとつにとりまとめて編曲さえしてかたちにしてゆくといった段取りがあたりまえというご時世。「歌詞」にしたところで、今世紀に入ってあのボーカロイドが普及してこのかた、半ば自動的に「うたわせる」ことは同じくデータ上で容易になった。仮に歌詞が必要でも曲が先にできていて、それにあわせてつけるのが「作詞家」の、もしもまだあり得るとしたら残された分担らしい。

 だが、かつては必ずしもそうでもなかった。「歌詞」と「曲」とは一心同体、むしろ「歌詞」が先にできて、それにあわせて曲をつける過程が、商品としての「流行歌」の現実の制作現場にはあった。そしてそれは、戦前は大正末から昭和初期、レコードを介して「流行歌」が商品として市場に流れるようになった頃からの、言わば業界の習い性のようにもなっていたようだ。

 とは言え、当時の日本人にとって、曲を作ることと歌詞を書くことの間は大きかった。いかにラジオやレコードを介して「流行歌」が世の人がたのこころをうっかり刺戟するようになっていたとしても、だからと言って誰もがおいそれと曲を作って五線譜に転記することができたわけでもない。なのに、紙媒体としての楽譜は、「十銭楽譜」と称され、レコードと共に爆発的に売れるようになってはいた。

「一方楽譜出版はすさまじいものがあった。当時の楽譜は現在のレコードに比較されるほど有力なものであった。「ハーモニカピース」と呼ぶハーモニカ用の楽譜(ピアノ楽譜とちがうところは、ビアノは本譜、ハーモニカの方は123の数字で書く略譜)と、ピアノ用の大きな版のものと、二種出たがこれまたすごく売れた。(…)当時の大衆の多くは、このハーモニカ楽譜で、ハーモニカを使って流行歌をおぼえたもので、これは現在のギターに匹敵する役割を果した。」(時雨音羽『人生流行歌』有隣書房、1972年)

 大衆楽器としてのハーモニカの役割や、その略譜を介した「うた」の浸透過程などは別途また俎板に乗せたいが、この場でひとまずおさえておきたいのは、紙媒体としての楽譜にもまた、そこに「歌詞」が共に印刷されていたということだ。このへん、レコードに歌詞カード(当時は「文句カード」と呼ばれていたらしい)が附されるようになっていった経緯など含めて、本邦同胞の「うた」がやはり言葉で、それも眼にする文字を介して記憶されるようになっていったという、リテラシーに関する新たな経緯が重ね焼きされている。言葉に曲が、「ふし」がつけられる、それは明治期の演歌師が一枚二銭程度で実演しながら売っていたという歌詞だけのザラ紙の紙片が、より立体的な、身体的な躍動を導き出す媒体になってゆく過程でもあった。


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 言葉で、うたの「文句」をとりあえず自在に考える、そしてそれを「作詞」と考えることの方が、いきなり曲を作ることに挑むより敷居は低かった。だから、その「流行歌」からの刺戟は「自分でもうたってみた」から「作詞してみた」という方向での発露がなされてゆくことになる。もちろん、「ひと山当てたい」「儲けたい」という、「流行歌」ならではの広がりを獲得し始めた市場に向けて、これまたうっかりと解放されるようになった欲とふたり連れで。

「私のところへ、いろいろ歌詞を書いて送つてよこす人がある。みんな、レコード會社へ紹介してくれといふのである。一人で十篇二十篇と書いてよこすなかには、かなりいいものを發見することもある。が、私は、その一篇がよかつたからと云つてすぐその人を紹介するといふやうな輕い考へ方をしたくない。」

 こう言うのは高橋掬太郎。北海道は根室の漁師の子として生まれ、地元の新聞社で記者をやりながら各種創作を手がけた当時よくあった地方の文筆系趣味人で、自身もレコード会社への投稿をきっかけに、昭和6年にあの「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー、戦後も後進の指導に邁進して星野哲郎や石本美由紀などを育てたという、まずは本邦職業的「作詞家」の濫觴のひとり。とは言え、文字のリテラシーからの出自は争えず、作詞は「詩」であり「文学」だ「芸術」だ、と実に調子高く、諭してゆく。

「レコード小唄の眞似は出来ても、文學とはどういふものか、詩とはどんなものか判らないやうでは困る。(…)歌謡の勉強をすることはいいけれど、レコード歌謡の眞似だけではいけない。もつと廣く、もつと深く、文學を學び、藝術を識り、人生を究めなくては、本當に力の入つた作品が描けるものではないと、常に説いてゐる。」(高橋掬太郎「歌謡研究」 佐藤惣之助・髙橋掬太郎『民謡と歌謡研究』所収、1943年)


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 彼は、当時から「歌謡詩人」という言い方もしている。その「歌謡」の部分に込められた内実は、いわゆる「うた」の既存のジャンルなど越えたところにあった。それを可能にしていたのは、「大衆」に向けて「受け入れられるもの」を作るということ。眼前の聴衆ではない、その場にいない顔も見えない、でも確かに自分の作ったものを買ってくれる不特定多数の茫漠とした、新たに現前し始めた広がり。だから、「歌謡」というもの言いも無限に間口を広げられてゆき、定義や枠組みといったたてつけは事実上意味をなさなくなる。耳にするものすべてが「歌謡」であり、それに携わる「詩人」という自意識のたてつけが完成する。そうなると、浪花節もあっぱれ、その「歌謡」になる。

「「唄入観音経」の作者として知られてゐる畑喜代治君の如きは歌謡詩人の出であり、その他秩父重剛君にしろ、水野草庵子君にしろ、此の方の作者のなかには、歌謡も書くといふ人々が多い。いや、歌謡も書くといふよりは、歌謡を書ける人でないと、浪花節の名文句は書けないと云った方が本當かも知れない。」


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 流行歌だから「売れる」ことが目的で、間違いなく「通俗」ではある。しかし、それだけを目的にすることは許されない。そういう感覚がまだあたりまえに理屈抜きに標榜される程度に、時代はまだ大衆社会化の現実に対して、うぶでおぼこで青臭かった。

「このやうに歌謡の種類は多いのであるから、はやり言葉の片鱗を拾ひ集めて、ネー小唄の一篇やハー小唄の一篇を書いたところで、これで歌謡詩人に候とは、世間が認めない、一角の歌謡詩人となるには、特別の天才でまづ五年位、普通は十年以上、みつちりと勉強しなくてはいけない。それも、レコードの文句カードなどを蒐めて、獨り勉強をしてゐる程度では、何時までやつてどの程度に成長するか判らない。」

 一方、同じ時代に「歌謡詩人」になっていた、われらがサトウ・ハチローは、こうだ。

「作詩家は詩人ではない、レコード屋にたのまれて、唄をでつちあげる職人である。」

「「やあ、チクオン機屋さん、いらつしやい」
僕はそのコーヒー店へ這入ると、そこの主人である早大の生徒は必らず、かう聲をかけた。僕は詩人ではない、いままさに立派なポリドールの一員である。僕はチクオン機屋さんと呼ばれてゐる方が、詩人だと言はれるよりずつと嬉しい。」

「僕は、現在蒲田のテーマソング屋の一人である。」

 韜晦しつつの、昂然たるマニフェスト。だが、志は同じ。「作詞」も当初は「作詩」だったようだ。少なくともサトハチにとっては。だから当然「詩人」だったし、そういう前提での扱いをされるものだった。そしてそれは「作曲家」と対等、あるいはそれ以上の関係でもあった。作曲する方も「詩」としての言葉を存分に尊重するし、その上で自分の曲作りの肥やしにもしていた。いい「詩」ができたからこちらもいい「曲」が書けた、といった同志的感覚。「詩」だから当然「文学」である、「芸術」である。そういう権威が「文学」にはあったし、流行歌の制作現場にも「作詞家」を介して色濃く揺曳していた。

 サトウ・ハチロー、戦前昭和初年の浅草徘徊時代のものを眺めていると、とにかく「詩」が次から次へと湧いて出ている。ただ、それを書いたものとして見せるのと、自らうたってしまうのと、表現と伝達については経路が複数あったらしい。「書いた」ものはいわゆる「文学」的な、おそらくは「読む」こと前提の形式の「詩」。人に見せるのも紙に記した状態だったが、ただ、当時の盟友エノケンですらそういうのには素っ気ない。

「僕は、こんな詩を書いて、「どこかに木下杢太郎の匂ひがござるでせう」と鼻をうごめかし(…)エノケンにしめした。エノケンは、「それがいゝんですかね」と、わからねぇが七分、わかッたが三分みたいな顔をした。」

 だが、そういう「書いた」詩とは別に、それを容易に「うたう」ことも彼は日常、あたりまえにやっている。全身で「詩」を生きる、それが習い性となっている中から、流行歌にも小唄にも、あるいは現代詩にもなり得るようなものが日々、湧き出ていた。

「あの頃はよかッた。僕の神経も、いつもたのしくピリピリとふるへて、何でもかんでも詩になつた。唄になつた。ピツコロを聞けば――寒さうな音をお出しなさるなピツコロ殿 そのたは、やつがれのふところ具合をあまりによくごぞんじで――とやるし(…)詩はノートへ書き、友達に聞かせ、節をつけて歌ひ、その日その日にうれしかッたものである。」(サトウ・ハチロー「浅草詩抄」 『昨日も今日も明日も』所収、草原書房、1947年)