もうひとつの現実、を織り込むこと



 19世紀末から20世紀にかけて、当時の近代化先進地域から始まった「大衆社会」へと向かってゆく様相というのは、それまでの社会にあたりまえにはらまれていた「違い」――個々の人間の持ち前の性質や体質から、その出自来歴、地縁血縁含めた逃れようのない規定要因、さらにそれらをとりまとめてゆく地域の風土や習慣、いわゆる文化の水準から、もっと社会科学的な文脈での「家族」や「階層」、果ては「政治」「法」「国家」といった、さらに大文字度合いの高くなってゆくたてつけに至るまで、縦横無尽にはりめぐらされている〈いま・ここ〉の内側の、それらさまざまで多種多様な「違い」を、とにかくまとめて一足飛びになかったことにすることができる程度に、とんでもないものだったようです。

 そのとんでもなさ、がどのような痕跡を、われわれの意識にあたえてきたのか。それが近年もうずっと、自分の中の問題意識としては、ある種基調低音のようになっています。「盛り場」と「モダニズム」をめぐる話や、それらが「市場」という広がりを相手取ろうとせざるを得なくなってゆく時に必然的に介入してきた「広告・宣伝」をめぐる話、そこからその「広告・宣伝」というのが、どうやら同時代的に意識されにくいステルス属性を持って、眼前の事実としての〈いま・ここ〉に、さまざまなかたちで潜伏していったらしい過程や、それらが「うた」のありようにも陰に陽に影響を与えていたらしいこと、などについて、あれこれ考えをめぐらせてきましたのも、背後にあるのはひとつ、そのような問いでした。そして、そこに「消費者」という、それまであまり表沙汰にならなかったような、新たな主体のありようが、〈おんな・こども〉という属性と共に、等しくわれわれに憑依してきたらしいことも、その基調低音に加わるもうひとつの音として。

 ただ、こういう方向での、いずれ茫漠とした問いを考えてゆこうとする時、本当に厄介なのは、これまでわれわれが「社会」を、そしてそこに必然的に関わってくる「歴史」や「文化」を考えようとする時に、当たり前にあてがってきた認識枠組みの類を、「そういうもの」として自明にそのままにしておいては、問い自体の輪郭自体、どうやらうまく浮び上がらせることすらできないらしいことです。

 たとえば、「情報環境」という言い方を、自分はかなり前から、応急処置的な意味あいも含めて、補助線的に使っています。それは、具体的なモノや個々のコトをベースにした、それまで自明にあってきたわれわれの現実理解のルーティンとは少し違うところで、それらルーティンを介して認識される現実を、われわれはどう見ているのか、感じているのか、意味づけているのか、といった、われら人間の等身大の認識のありように合焦した「もうひとつの現実」の側も、自明のものになっているわれわれの現実に対する認識枠組みの裡に、もうひとつ新たに意識的にでも組み込んで認めてゆく、そのことでわれわれの認識できる限りの「現実」というのも、おそらくこれまでとは少し違うありようで、より〈リアル〉なまるごとの〈いま・ここ〉として認識できるようになるのではないか、そんなささやかな目算に立ってのことでした。

 それは、もう少し違う言い方をするなら、「主体」と「客体」との明確な分離を前提とした認識のありかたを少し括弧にくくってみることで、「客体」もまた自分事として「主体」の裡に組み込まれてある、いわば入れ子のような構造としてわれわれの現実というのはあるのかもしれない、という問いを、手もとでできるだけ離さないようにすることでもありました。そして、それによって、これまで「そういうもの」として自明の相に置かれていた、だから本当に対象化され、自省されることも少なかった、これまであたりまえになってきたわれわれの現実に対する認識枠組みに、ささやかな留保を自ら試みてみる立場でもあります。あまりこのような大文字な能書きを振り回すことは、もうなるべくしないようにしてきていますが、敢えて言いましょう。人間存在とそれに関わる領域を対象としてきた、いわゆる人文系の営みの中で、ある時期からおそらく同時代的な必然としても前景化してきた、現実と記述に関わる問い、〈いま・ここ〉を認識し記述してゆく営みについての自省のモメントと、そこから発されるようになってきたその営みの主体そのものに対する留保と問いとも、それはおそらく同じ地平に立っているもののはずです。

 いわゆる自然科学的な意味での科学的認識の上に存在している、生身のわれら人間の存在のありようと共に、広義のことばと意味の綾なす水準の「もうひとつの現実」にもまた、われわれは存在せざるを得ないらしい。その二律背反的な宿命について、単なる認識論としての哲学的な、形而学的水準での大文字の考察にとどまらずに、実際の眼前の事実を介した現実認識、それらに立った「社会」や「歴史」、「文化」などの見方についての「もうひとつの選択肢」を敢えて示してゆこうとすること。おそらく、そのような留保の試みを意識的に方法として選択してみることで、それこそ「うた」のような生身に関わる曖昧模糊とした、しかし間違いなくわれら人間存在のある本質に関わっているはずの領域についての考察沙汰もまた、これまでの「客観的」とだけ片づけられてきた、全て他人事の整理箱に一律に、きれいに収められたようなものから、〈いま・ここ〉を生きるわれわれひとりひとりにとってのいきいきした自分事に、もう一度差し戻してゆけるようになるはずです。そしてそこからさらにもう一度、何らかのより大きな、この先生き延びてゆく上で必要になってくる、新たな現実認識の枠組みへと向かってゆくこともまた、できるかもしれません。

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 もちろん、人の身の考えること、こういう問いの立て方、認識枠組みも含めた本質的なものに至る作業にしても、これまでやられてきていないわけではない。たとえば、あの吉本隆明なども、半世紀以上前、まだ若い頃の粒々辛苦の中、おそらく同じようなことに気づいていたらしい。例によっての、こんなわかりにくい言い方ではあれど。

「日本の社会が、自己を疎外した社会科学的な方法では、分析できるにもかかわらず、生活者または、自己投入的な実行者の観点からは、統一された総体を把むことがきわめて難しいことを意味しているとかんがえられる。」

 これは、「転向」について彼が悪戦苦闘していた頃、どうして本邦では思想的な「転向」がどこか他人事の整理整頓、解釈沙汰にとどまり、本質的な意味での自分事としての自省や反省、主体も含めた知識人総体の共通の問いになってゆけなかったのか、といった自身の問いから発して、その理由や背景について考え詰めていった果ての一節です。この直前の部分には、「近代日本の転向は、すべて、日本の封建制の劣悪な条件、制約にたいする屈服、妥協としてあらわれたばかりか、日本の封建制の優性遺伝子的な因子にたいするシムパッシーや無関心としてもあらわれている」という前振りがされています。

 「日本の封建制」に対して、「劣悪な条件」や「制約」といった負の方向での表われに対しては正面から認識して意識できたので、「屈服」「妥協」といった具体的な反応となって現われてもいたのだが、しかし、それとは逆の方向での「優性遺伝子的な因子」については、どうやら正面から認識できていなかったらしい。なので、「屈服」であれ「妥協」であれ、そのような主体として意識的な反応の結果としてではなく、「シムパッシー」や「無関心」といった、主体としては無意識、無自覚に導かれる反応として現われている――ここでの彼の言っていることは、ほどいてみるならばこういうことでしょう。

 これはなぜか。「自己を疎外した社会科学的な方法」を「そういうもの」として自明の認識枠組みとしているからだ。だから、「分析」はできるけれども、そのような認識枠組みによってとらえられる対象としての「日本の封建制」は、おそらく全体ではない一部分に過ぎないらしい。〈まるごと〉≒「統一された総体」としての「日本の封建制」、さらに言えば「日本の社会」は、そのような「自己を疎外した社会科学的な方法」を「そういうもの」として自明の認識枠組みとしていない、そういうすることから「疎外」されている「生活者、または自己投入的な実行者」にとっては、「分析」する「対象」としてでなく、それ以前にまず否応なしに自明の「そういうもの」としてしか存在しないからだ。だから、その「統一された総体」としての「日本の社会」を、〈まるごと〉として把むためには、「自己を疎外した社会科学的な方法」自体を、「そういうもの」という自明の地位から切断し、カッコにくくっておく作業が主体の裡で必要になってくる。

「分析的には近代的な因子と封建的な因子の結合のようにおもわれる社会が、生活者や実行者の観念には、はじめもおわりもない錯綜した因子の併存となってあらわれる。(…)もちろん、けっして日本に特有なものではないが、すくなくとも、自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔りが、日本におけるほどの甚だしさと異質さをもった社会は、ほかにありえない。」

 独自の術語や論理展開によって素直に読み解きにくいのは吉本の仕事の通弊ですが、ここで言っているのはつまり、他人事として分析や考察の対象にだけなっている「社会」(「歴史」「文化」なども含めて)という客体は、主体としてそれら分析や考察を行なう側の自分事にならないままであり、だからこそまた、常に自分事としてまるごとの〈いま・ここ〉を生きている、そうするしかない世間一般その他おおぜいの人がた≒「生活者、または実行者」の現実認識のありようとは決定的に違うものになったままだ、だから、「日本の近代的な転向は、おそらく、この(現実認識の枠組みについての……筆者註)誤差の甚だしさと異質さが、インテリゲンチャの自己意識にあたえた錯乱にもとづいている」。

 うっかり文字の読み書きを身につけ、そしてその結果、接触するようになってゆく情報環境において、ある閾値を越えたあたりから半ば否応なく編制されていっただろう、それら「そういうもの」としての「自己を疎外した社会科学的な方法」が、自明の認識枠組みになっていることで、われわれにとっての現実もまた、その枠組みに制限されたものになっている。それらを介した現実は、「分析」されたものであり、その限りで明晰で整理されたものではあるだろうけれども、しかし、同じ同時代の〈いま・ここ〉の、〈まるごと〉としての現実というわけでは、どうやらない。なぜならば、そのような一定の閾値以上の切実さで文字の読み書きによって編制されてしまう「そういうもの」としての「自己を疎外した社会科学的な方法」を自明の認識枠組みにできない、していない世間一般その他おおぜいにとっての現実は、いくつかの因子に分節され、明晰で整理された像としてでなく、「はじめもおわりもない錯綜した因子の併存」として認識されている――だから、ということなのでしょう、吉本はその後、しつこくその「生活者」という言葉によって、その〈まるごと〉としての現実、自分の語彙での〈いま・ここ〉を、繰り返し巻き返し、ある時は溌剌と闊達に、そしてまたある時は、老いと共に訪れる解像度の低下やぼやけ具合などと共に、それでも常に、倦むことなく指し示そうとしていました。



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 「今日、人間の精神形成に参与するのは、何も読書に限られてはいない。昭和にはいってから、とりわけ戦後になって、ラジオ、テレビなどの電波媒体の普及はめざましく、いわゆるマスコミという和製英語の名称に包含されるマスコミュニケーションの包囲の中では、読書の人間形成力は相対的に弱まり、その有効範囲は狭められている。したがって、人間とは、その読むところのものであるに止まらず、その視るところのもの、聴くところのものである、と言い直すべきではないか、という文句がそれである。」

 そのように、文字・活字と手に手を取った紙媒体が先行して、「大衆社会」の幕をあげてゆきました。新聞であり、出版であり、いずれそれら文字・活字の紙媒体が、大量生産と効率的な流通の組み合わせによって、そしてそれらを「読む」ことのできる人たちを「学校」を介して産み出してゆく状況とあいまって、それまでと違う現実の意味づけかたを引き出すようになりました。

 しかし、それら文字・活字と紙媒体の組み合わせによる新たな現実の引き出し方よりも、さらに異なる飛び道具として「電波」媒体が出現してきました。それは、われわれの現実に対する認識枠組みを、それまでと異なるたてつけに期せずして変容させてゆくものでもありました。

「マスコミ」という丸め方をされるようになり始めた「マス・コミュニケーション」のイメージも、当初、ラジオやテレビなど新たな電波媒体の威力に規定されたものだったようです。それは「視聴覚媒体」といった言い方で映像的かつ音響的な、いまどきのもの言いに治すならば「ビジュアル」情報の圧倒によって印象づけられていったらしい。それはもちろん、文字・活字と紙媒体によって認識枠組みを形成されてきた意識にとって、ストレスフルなものになってきましたし、まただからこそ、その抑圧を足場にして、改めて自分たちのその認識枠組みについて留保してみることも始まったりした。

「それにもかかわらず、やはり私は「人は、その読むところのものである」という命題を、心の底ではうべないたいという思いを捨てきれない。というのは、読書という知的・精神的ないとなみが、当事者の心の襞に切りこんでゆく可塑力は、視聴覚メディアの一回・一過の影響力よりも、はるかに深く、永続的で構造的な性質をもっていると思うからである。」美作太郎『戦前戦中を歩む――編集者として』日本評論社、1985年、p.50

 ラジオやテレビ、映画やレコードなどが、一回性と一過性をその属性としていたことから、それに対して活字メディアを「読む」行為にまつわる記録性と反復可能性によって優越されるという考え方は、しかしその後、「視聴覚媒体」もまた記録され、反復可能性を持つようになることで大きく変わってゆくことになります。

 それまでの広告、不特定多数のその他おおぜいに大量に効率的に伝達されるような形態においては主に紙媒体、特に新聞主体であり、それらが「家庭」「お茶の間」に入り込んでくることはあり得たことでした。概ね明治の半ば頃から発現し、その後大正期にかけて新聞の販売部数の伸びと共に露わになっていった現象でしたが、とは言え、当時はまだ新聞を「読む」ことのできる層は限られていて、それは経済的な理由などだけでなく、何よりそれら文字を紙媒体で「読む」ための能力、いわゆるリテラシーの普及が追いつかないことには社会的な規模での影響というのはそれほど大きなものにはなりませんでした。

 それがラジオという電波媒体、話し言葉で「耳」から「聞く」ことが可能なメディアが普及してゆくことで、「読む」能力よりもずっと広汎にそれら不特定多数のその他おおぜいへの何らかの情報を受けとる能力が問われるようになった。当然、そこに宿ってゆく主体のありようは、それまでとまた違う意識や感覚を宿してゆくものにもなっていた。たとえば、こんな風に。

 「海太郎は何よりもまず和歌のスタイル(文体)を愉しんだ。その形式で遊んだ。それに盛込まれるべき情感なり内容などは、実は二の次であった。」

 長谷川海太郎です。大正末から昭和初年にかけて、谷譲次林不忘、谷逸馬と、三人三様の筆名とそれにふさわしい異なる才能の発露を、ひとりの主体の制御の下に成し遂げた、稀有でけったいな書き手。これは彼の評伝を書いた室謙二の評言ですが、こういう軽薄さ、ある意味での敏捷さみたいなものが、ものを書くという行為に向かう時に何らかの影響や痕跡を与えないはずもない。柳田國男が言ったように、vivaciousな感覚が近代の情報環境の変貌と共に、われわれに宿るようになった。それは確かに、「快活」で、「活発」で、「陽気」ではあるだろうけれども、しかし同時に、移り気で、落ち着きがなく、次から次へと関心を移してゆくようなものでもありました。それは、いわゆる近代文学の「内面」をうっかりと削り出してしまう文体と遭遇してしまったことでもたらされていった「懊悩」なり「葛藤」なりといった「心理的」なあれこれと生真面目、かつ自閉的に取っ組み合って七転八倒してきた過程とは、おそらく本質的に違うところから出てきた感覚であり、そのような生身の主体であったのだろうと、改めて思います。

 モダンとは、モダニズムとは、そのような軽薄で、敏捷な主体によって、深く考えることなく受容され、拡散されてゆくようなものだった。それは「流行」や「世相」「風俗」といった言葉で表現されるような、それまでの「社会」という言葉によって囲われていた手ざわりの領分とは少し違う、もっと不定形でいい加減でとりとめないものとしての局面を露わにしてくるようなものだったはずです。そしてもちろん、「うた」もまた、生身の人間の、そのような主体によって担われるようになってゆかないはずもありません。