「団塊の世代」と「全共闘」②――昭和30年代ブームの不幸

●昭和三十年代ブーム――豊かさの影の不幸

――その六十年代から七十年代にかけての文化的断層、というのは、実感としてもよくわかりますね。


 教科書的に言ってしまえば、高度経済成長がもたらした果実が具体的な日常生活の局面に形として現れ始めた、そういう時期なんだと思うんですが、と同時に、ただ単に経済とその反映ってことだけじゃなくて、それらによって変貌してゆく「暮らし」とその中に巻き込まれて生きているわれわれニッポン人の意識や感覚、気分などまでひっくるめてうねるように変わってゆかざるを得なかった、そういう時期なんじゃないか、と思っています。問題は、それをそのうねりに巻き込まれながら言葉にして語る、記述してゆくスキルを持てないままだった、と。まあ、それくらいあわただしい疾風怒濤の日々だった、と言えば言えるんでしょうけど。

 そういう「豊かさ」というものが同時に持つ陥穽というのは、いつの時代にも問題になるんだけどね。古くはローマ時代の豊かさのなかの爛熟、退廃があるけれど、ただ、そういう矛盾を克服するノウハウを実は人間は持っていないんじゃないか、と私は思ってるんだ。

 映画『All Ways 3丁目の夕日』ってあったじゃない? あの映画のヒットに典型的だけど、このところずっと昭和三、四十年代がブームといわれ注目されているよね。それは若い世代には、単にノスタルジアというキーワードで捉えられているようだけれど、私たちがあれを見て涙を流したりするのは、実際に自分たちが体験した過去にタイムスリップしているからなんだよね。で、その瞬間に何を考えているかというと、映画には部分的にしか出てこないけど、やっぱり「不幸」の問題、なんだよ。具体的には貧困、病気、差別……そんなものが当時は身近に、実際にあったわけでさ。たとえば、嫁姑の問題でも、お袋とおばあちゃんが喧嘩しているんだけど、それは単なる女同士の争いではなくて、住居環境が悪いとか、汚いとか、そういうことが家庭の不和をもたらすとか、とにかくそういう個人の能力を越えたどうしようもないもの、誰が悪いわけでもない逃れようのない「不幸」を見ていたところがある。その原体験というか、既視感は大きいよ。

*1

――その「どうしようもないもの」の領分が、宗教の管轄になっていた、というのは、かつてオウム事件の後で呉智英さんとやらせてもらったシンポジウムで、橋爪大三郎さんなんかも言ってましたね。創価学会が急激に勢力を伸ばすことができたのもそういう「不幸」が厳然としてあったからでしょうし。現実は否応なしに平等でも何でもなくて、明らかに生まれ育ちによって幸不幸はあるし、ほんのちょっとしたはずみで人生、どうなるかわからない落とし穴がいくらでもあいている、というのが当たり前だったわけで。まただからこそ、平等も自由も、単なるお題目じゃなくて輝かしいものになれていたんでしょうし。

 そうそう。ところが一方で、そういう世界に対して、確かに「懐かしさ」もあるんだよね。同世代の友人同士で話していて「オレたちいい時代に生きていたよな」と話すことが今でもあるけど、それは実は昭和三○年代のことを言っていることが多いね。

 つまり、それ以前の昭和二○年代だと、同じ「不幸」でももっと悲惨で実際、シャレにならないんだよ(笑)。子供の頃、祭りで神社へ行けば、カタワの人なんかに混じって、癩病患者が見世物になってたし、それは癩病で苦しんでいる四、五十歳の人が、祭りでさらし物になっているんだ、くらいのことは子供たちだってわかっていたよ。でも、その自分たちの同級生に癩病患者は、まずいないんだよね。それが昭和二○年代だと、同級生が急にいなくなったりして、あれ、どうしたんだろ、と思ったら、癩病院に連れて行かれてたとか、あの子は頭がいいけど義務教育の途中でタコ部屋に売られちゃった、といったことが実際にあり得たし、あったんだけど、昭和三○年代になるとさすがにそれはもうない、と。自分たちのまわりはそこまで貧しく不幸ではない、適度に何とかやりすごしてしまえるくらいの世界になっていて、ちょうどいい具合に貧困や病気、差別などの不幸があったから、私たちは昭和三○年代が懐かしい、と感じるし、そう言えるんだよ。そういう意味で、私たちの世代にとって昭和三○年代ブームというのは、実は根深いものだったりするね。

――オキュパイド・ジャパン(占領下日本)、と、それ以降のスペクトル、みたいなものですね。焼跡闇市から、土管の転がる原っぱへの移行というか。だから高度成長や昭和三十年代を語るのも大事だけど、そことの関係というか落差を見極める上で、昭和二十年代論、ってのもちゃんとやらなきゃいけないよな、ってずっと言ってるんですよ。言い換えれば、「戦後」の原風景をもっと描き込むような発掘作業ってことなんですが。

 ひとくちに「戦後」って言っても、その中にはそういう微妙な彩みたいなものが常に込められているわけだからさ。「不幸」にも文脈があれば時代背景もあるってことだよ。

 でも、さっきの話につなげて言うと、そういう「不幸」に対する距離感や遠近法さえももなくなってしまって、常にぬるま湯の中に浸かっているそれ以降の世代にとっては、「なにを、どういうスローガンで克服したらいいか」を学ぶ場がない、ということなんだよね。

 だって、政治家はこんな時代になってさえも、まだ「豊かな時代を築きましょう」、「差別のない世の中にしましょう」、「貧困がないようにしましょう」と言っているじゃない。どんな政治家でも代議士でも「私が政権を取った暁には貧困をつくります」とは言えない。「すこしは貧乏も必要です」とか、「病気も適度にある社会を目指しましょう」とは絶対に言えない。ネガティブなものをスローガンに掲げて進みましょう、ということは人間は出来ないんだよ。たとえそれが小さなものであったとしてもね。人とは必ず前よりもよく、さらによく、と欲を出すものだからさ。労働組合も、いくら会社が豊かになってももっと賃金上げろ、と要求する。「賃金が上がりすぎると緊張感がなくなり、労働意欲も下がる、すると会社の競争力が落ちるから、経営陣は給与を下げろ」といってストライキを打つことはあり得ない。

 だから、さめた言い方してしまうけど、こういう「豊かさ」の中の爛熟、退廃、快楽、といったものは、指導者が食い止められるといった類いのものじゃないんだと思うよ。

(……おそらく不定期&細切れに、つづく)