「団塊の世代」と「全共闘」④――同じぬるま湯の中からの「団塊批判」

●同じぬるま湯の中から噴出した「団塊批判」

――そのへんの「豊かさ」が日本の社会的意識に具体的に何をもたらしてきたか、については、オウム事件の総括の時から、呉智英さんとは共通の認識になってましたね。「外部」がいきなりやってきて「戦後」パラダイムを食い破った、と。オウム、震災、小泉内閣北朝鮮……ときて、でも、なかなか「戦後」パラダイムは一気に気持ちよく崩壊はしてくれずに、あちこちボロを出しながらグズグズになってきているのが世紀末をはさんだここ十年あまり、という感じなんですが。

 そんな状況を踏まえて、なぜ今、団塊批判が表面に出てきたのか、ということを改めて考えると、団塊の世代っていうの良き時代を生きて、好きなことをして、バブルの恩恵にも浴し、年金も満額もらえる(らしい)、とにかくいい目に遭った世代だ、と。ぬるま湯の中で生まれ、浸かり続けてきた側からそう見られて批判されている、そういう面はあると思うよ。畜生、あいつらだけいい目みやがって、という視線だよね。また、そう見られてしまうことについては、まあ、わからないでもない。

 今の団塊批判というのは基本的に単なる世代間葛藤、という側面がある、というのはそこなんだよ。目上の人たちがうっとうしい、単にそれだけ言い訳として団塊批判をしている人が実は多い。それは全然本質論にはなっていないんだけど、しかし、それを言うことが自分が何か知的であるということのシンボルになり、批判精神の発露だと思っている、と。団塊の世代は若い頃、体制と戦ったとか言いながらその後何もしていないじゃないか、といった言い方がお約束であるけど、そう批判する下の世代の連中にしても、でも当の自分たちは自分で何か腰上げて戦おうなんて全然思ってない。それどころか、自分たちもそば打ちやってる団塊と同じような、それこそ「チョイ悪親父」になりたい、くらいにしか思ってないんだよ。つまり、俗物という意味じゃ同じ水準でしかないところからのまさに俗論なわけで、まったく批判になってないんだよね。団塊の世代以後、ターミノロジーパラダイムが同系状態で、言わば四十二度の適温になった風呂の状態がずっと続いている。自分たちもその湯に浸かったまま、単なる世代間葛藤を団塊批判だと思い込んでいるに過ぎない、そう思うよ。

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――それもまた、以前から話題にしている、言論や言説と主体の関係の問題、ですね。エクセプトミー、で生身の自分をいきなり棚に上げたところで批判沙汰をやらかすもんだから、その主体の部分を問われるとどうしていいかわからない。っていうか、何を問われてるかも通じなかったり。オマエモナー、とやられたら立ち往生するしかなくて、またそれを見越して、オマエモナー、と言うことにだけ長けたのも出てくるし。

 批判するのはいいんだけど、じゃあなぜ、三、四十歳代くらいだと「ああ、やっぱりあいつら団塊だから」という言葉が無意識に出てきて、しかもそれだけで「やっぱりな」とお互いわかり合えるのか、そこが不思議でならないんだよ。

 おそらくそこには、「大人って嫌だね」っていう言葉と同じ構造が大雑把にいってあるんだと思うし、大きく言えば親との葛藤にも似たものがあるんだろう。私たちの世代だったら慣習に捉われてうるさい親に対して、「封建遺制だ」と批判して何でもすませてきた、それと同じだよ。「封建遺制」というのは当時、流行り言葉だったんだけどさ。

――「封建的」って言うだけで、当時はいろんなものを軽蔑できたようですからね。そこに「遺制」までついたらそりゃ決定的。そのへんのターミノロジーもまさにマルクス主義、左翼の枠組みが当たり前、って状況に支えられていたわけですけど、最近の若い衆はそのへんの文脈の斟酌すらあやしくなってますから。

 彼らが団塊という上の世代に対して違和感を抱いているのは間違いないし、気分としてわかるんだけど、ただ、その拠って来たるところとか、所以みたいなものまで掘り下げる前提がどういうわけか、ない。だからそこで終わっている、発展しない、というだけの話になってるんだよね。なぜなら、それをほんとに掘り下げ出すと、自分の生活自体、今の自分自身を否定することにつながってしまうからさ。

 さっきの「貧乏探し」にインドに行く連中と同じで、自分は小金を持ったまま、貧乏を目の当たりにして「日本の繁栄は欺瞞であり、虚栄である」と嘆いてみせることで、自分はインテリである、ものがわかっている、と勘違いできている。でも現地の人たちは、貧乏したくてしているわけじゃないんだからさ。

――開発途上国の現地民に、てやんでえ、公害でも大気汚染でも何でもきやがれ、こちとら早死にしたっていいから孫子の代には多少はましな暮らしさせてえ、高度成長ってやつをやってみてえんだ、とタンカ切られたら、実際、何も言えませんからね。BSEでもいいから牛肉腹いっぱい食いてえ、ガソリンがぶ飲みするでっかいクルマ乗り回してえ、と。そういうミもフタもない〈リアル〉に眼を開いてゆくために、「旅」ってのは確かに方法としてあり得るわけですが、問題はその方法としての「旅」を使い回す側の生身ってやつがそもそも希薄なまんまになっちまってるもんだから、せっかく遭遇した〈リアル〉の前で眼を開くどころか一気に瞳孔が開きっぱなしになっちゃって、おのれが何者かも見失って「地球市民」にトンデモ化する。ピースボートなんかに典型的だけど、今言われる「プロ市民」的な「覚醒」ってそういうものじゃないですか。

 わざわざインドやアフリカにまで行って発見するのがたかだかそんなみすぼらしい自分でしかない、っていうこと自体、情けないことだと思うんだけどね。それに比べたら、こっちはお祭りの縁日に行けば不幸が見られたから、何もインドまで行く必要がまだなかったんだよ。いや、もっと言えば、お祭りの縁日でなくてたって、そんなものは下町の家々に普通に転がっているようなものだったんだしさ。

 これも若い人はもうわかんないだろうけど、たとえば小学校低学年で、夏休みが終わり二学期が始まって学校に行くだろ。そうすると必ずクラスで一人か二人、欠席してるんだよ。椅子がひとつふたつ、ぽかっと空いてる。それは何かというと、日本脳炎に罹って死んでしまった子の席なんだよね。夏の間に蚊に刺されて、それが原因でクラスで何人か必ず死ぬ奴が出てたんだよ、あの頃は。

 日本脳炎の予防接種は、確か私が五、六年生くらいの頃に始まったと思うけど、それまではそういう友だちのいなくなり方っていうのが確実にあったんだよね。「○○君どうしたの?」、「死んだみたい」、って。

 登校してきている者の中にだって明らかにおかしいのがいたよ。何かボーッとしていて、「おーい、金森ぃ、金森、夏休みどうしてた?」と話しかけても、ただ「ほぉーっ」と言うだけ、とか。「ああ、こいつもう言葉を出せないんだ」、と。あと、白痴になってしまって足にも後遺症の麻痺がでて、びっこ引いている、なんてのもいた。夏休みの前、七月の初めまで一緒に遊んでいたのに、九月になって声をかけたらそんな姿になってる、そんなのが身の回りに普通にあったんだからさ。

――「日本脳炎」ってのは、あたしらの世代だと、もう単なる言葉になってましたね。図鑑や、保健の教科書なんかででっかいコガタアカイエカの絵と一緒に教えてもらうもの、でした、すでに。

 こっちは「日本脳炎」というのが単なる語感だけじゃなくて、実際に皮膚感覚としてほんとにこわかったんだよ。団塊の世代っていうのは、そういう「不幸」を小さい頃に、まだ目の当たりに見ていた世代である。ただ、それが本当に自分の体験として昇華できたか、っていうと、それはまた別の問題なんだけどね。