「団塊の世代」と「全共闘」⑲ ――「同棲」の破壊力、と「うた」

 

● 悩み深き高校時代の団塊

◎ 「同棲」の破壊力

――話の流れがそういうことになってるんで尋ねちゃいますが、呉智英さんのヰタ・セクスアリスはどんなものだったんでしょうか。

 高校は男子校だったからさ、女のことはほとんどわからなかったなあ。全く交流がなかったわけじゃないけれど、提携校や、近所の女子高の文化祭に行ったり、共同の研究会をサークルでするくらい。一対一で深い関係になるのもいたけど、そんなのは例外で少なかった。

 そういう意味じゃ団塊の、とくに初期世代はわりに純真だったかもしれない。六○年代後半から七○年にかけてはフォークソング・ブームがあって、男女を対等に恋愛の対象としてみるようになったし、同棲が流行ったのも同じ時期だよね。それらサブカルチュアは一連の地平、土壌の上に成り立っていたわけだ。上村一夫の漫画『同棲時代』が七二、三年、かぐや姫の『神田川』が七三年。でも、それらはその五年前だと明らかにネガティブ、否定されるべきものだったんだよ。


――ふしだら、って感じですかね。同棲は。

 「ふしだら」というよりも、当時同棲するとしたら、その相手がいわゆる「お水系」だったりしたんだよ。っていうか、そういうクロウト相手の想定しか普通はあり得なかった。設定としては、男は地方から東京の大学に来ている。この場合たいてい慶應なんだけど(笑)、そこにたまたま飲み屋の女で色っぽいのがいて、男はそういうのは初めてだったからウブで、いいように転がされて親にも言えずに同棲しちゃう、というのが、いちばんありがちなケースだ。実際、私より二年上の早稲田の学生で岐阜の良家の坊ちゃんがいてね、彼のうちに行くと奥さんが料理を作ってくれて、夕方になると奥さんは店にご出勤、というのがあったよ。


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――うわあ、それはまたベタな……なんか、かつての日本映画か、劇画の設定そのままのような。

 いや、そう言うけど、当時はそういうのが実際にあったんだよ、これが。たとえば、地方の坊ちゃんが、東京の大学を受験するにあたり、東大、慶應、早稲田と受けて、ようよう受かったと思ったら、都会の女に絡めとられる、といったケースだな。で、高校の頃は、みんなそういうのに憧れたものなんだ。

 当時流行っていた歌にが平岡精二作の「爪」(歌・ペギー葉山)ってのがあって、「二人暮したアパートを/一人一人で出てゆくの/すんだことなの今はもう/とてもきれいな夢なのよ」。最後に、女は年上らしく世慣れた感じで、あなたが嫌いになった訳ではないけれど、親や世間のことなどを鑑みて「もう一緒にはいられない。私が最後にあなたにいうのは、悪い癖、爪を噛むのはよくないわ」、と。この曲はねえ、当時ものすごくモダンに聞こえたものだったなあ。


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――うはははははは……あ、いや、笑っちゃいけない。

 とにかく、こっちは地方の高校生だったから、何年かしたら東京へ行って、そういう学生生活を真似したくてたまらなかった。実に衝撃的だったね。まず、同棲をしている、都会的である、しかもちょうど流行り出した赤坂、六本木界隈、その盛り場の少し向こうに文化住宅、今でいうマンションがあって、そこにいっしょに住んでいるわけだ。女が少し年上で仕事を持っている。ものがわかっていて、しゃれてもいる。仕事は水商売のクロウトかもしれないけど、根は純だ、と。それで、男の方は実はどこか甘えっ子的なところがある。だから爪を噛む。しかしお姉さんから見ると「あんた、その癖やめて、いいとこの坊ちゃんなんだから、田舎に帰ってお父さんの跡をついで、県会議員でもやりなさい」となる。なんか、そういうのが当時のフランス映画のストーリーにもありそうでさ、曲がダブって聞こえたんだよ。

――なるほど。その少し後だと、「また逢う日まで」になって、さらにくだると沢田研二の「勝手にしやがれ」みたいにそういう主人公がそのまま学生、って印象は拡散してきますね。続いてもうキャンディーズの「ほほえみがえし」になって主体が女の側になって、80年代に入るともう、「そして僕は途方にくれる」、と(笑) なにしろ男の側が置いてきぼり食って途方にくれてるという始末ですから。昔ながらのもの言いだとコキュとか寝取られ男ってのにつながってくんでしょうけど、そういう「去ってゆくオンナ」から放り出された男の側の心象みたいなものの系譜、ってあると思うんですよ。地味だけど、山下達郎の「ターナーの汽灌車」なども同類かなあ。とにかく、そういう具合に放置される男の側に根深い「おんなぎらい」というか、それまでと違ってひとめぐりしたところに突き放した視線と感覚が宿ってくる、っていうのがあるかも知れないというのは、ずっと思ってます。



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 でも、その大学生ってことに当時は、そういう性的な解放みたいな意味も実は背後に宿っていたってところは、案外これまで見過ごされてませんか?

 まあ、十五、六の時は、「二十歳になったらそういう大学生をやるぜ、おれはやるぜ」と息巻いてたもんだけど、二十歳も過ぎると、これはちょっとやり過ぎかな、学費出してくれている親に対してもまずいかな、という考えになる。それに、この歌に出てくる女性は明らかに「お水」だな、というのもわかるようになる。ところがその頃同時に、しかし「お水」ではないものとして出てきたのが、これが同棲だったわけだ。

――ああ、「恋愛」幻想がまたぐっとせり出してくるんですね、シロウト相手の「同棲」になると。

 そう。それまで同棲といえば、ネガティブなものと決まってたんだよ。都会の軽薄才士が、お水系の女と若気の至りでアバンチュールをする、というものだった。男はシロウトで相手の女はクロウト、って設定だな。ところがそれから五、六年たつと、シロウト同士の「同棲」が新しい形で始まる。それこそ、あの「神田川」や「赤ちょうちん」の世界だよ。早稲田の近くなら神田川沿いの周辺。地方出身の学生同士や、高卒でもデザイン専門学校を出てイラストレーターを目指しているような若者が、知り合ってあちこちに部屋を借りる。貧しいけれど、寒い中二人で銭湯へ行くのがうれしい、不安なのは将来ではなく、あなたの優しさでした、というような暮らしを本気でしていたわけだ。


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――本気で、ってあたりが今さらながらにすごいな、と思うんですが、でも、言われてみれば、何となくそういう雰囲気の残り香くらいはまだ、あたしなんかが学生やってた頃もありましたね。もう少し後になるともう、下宿ってのはそれ自体二十四時間ラブホテル、みたいな認識になるんですが。いや、「下宿」じゃないな、すでにもう。「下宿」はまだホモソーシャルな空間が前提になってたわけで、考えたら「下宿」ってもの言いが後退してゆくのと、そういう同棲から発していったような性的なドロドロもひっくるめた空間になってゆくのとは重なってるような気がします。


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 フォークというとみんな「神田川」を言うけど、あれは七○年代の始めだな。でも、多くの人が勘違いしているんだが、最初のフォークソングというのはそれより少し前の六六年、マイク眞木(フォーク歌手・俳優/一九四四│)の「バラが咲いた」だったんだよ。あれをまず聞いたときに、私はたまげたんだけどね。何が、って、何よりもまずあの内容のなさ(笑)だってそうだろ、バーラが咲いた、バーラが咲いた、真っ赤なバーラーがー、って、だからどうなんだ、って。さみしかった僕の心にバ-ラが咲いた-、って、おまえたかがそんなことでそんなにうれしいのか、と(思わず力説)。


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――ほとんどもう、人生幸朗師匠みたいなことに(苦笑)

 だから、あまりのバカバカしさにそれ以来、フォーク自体に興味がなくなって、少し後に評判になった「チューリップのアップリケ」なんかも聴かなかったな。後で聴いてみたら、あれは当たり前だけど、岡林信康(フォーク歌手/一九四六│)の一種社会的な主張で、要するに、部落民の父ちゃんが靴をトントン作っている描写があった、ってことがすごかったってことなんだけど、それはそれでまあ、当時、意味はあったんだろうとは思う。でも、私は別に感動しなかったな。


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――それはまた、どういう理由で?

 そんなもの、ならば「がんばろう」はどうなる、共産党のやった歌声運動はどうなんだ、と、そのへんが深く疑問だったんだよ、私は。そういう意味じゃフォークソングなんかよりも歌声運動の方をむしろ評価したいんだな。だって、歌声運動によって、一般の政治意識が目覚めた、その目覚めたことの善悪は別にして、とにかく政治的な有効力は明らかにフォークソングなんかよりもそっちにあったわけだからさ。


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 基地反対運動にしても、当時は住民運動なんかまだなかったから、みんな荒木栄(作曲家・歌手/一九二四│一九六二)なんかが作った歌を覚えて歌って、そのことによって身の回りにある矛盾や問題に気づいて、それが結果として政治運動になっていったわけだからさ。「沖縄を返せ」で、本当に何十万、何百万の人が動いたんだよ。「がんばろう」、「沖縄を返せ」、「おれたちは太陽」とか、当時そうやって歌われた歌の多くが荒木の作曲によるもので、音楽の素養のない普通の人たちがあの手の歌から実際に歌うようになる、オクターブの音域の幅があるからそれに合わせて親しみやすい力強いメロディーだし、また歌詞もわかりやすいものだったしね。決してあなどっちゃいけない。それに対して、あの「バラが咲いた」とか「チューリップのアップリケ」を歌っても、どこに政治運動があり、何をプロテストしたのか、ということだよ。



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――まあ、そのへんは今の若い読者が100%真に受けるかも知れないんで、呉智英さん一流のギャグ、というか諧謔という意味も含めて、少し補助線引っ張っときますが。


 でも、真面目な話、あたしでさえそう思いますよ。うたごえ運動と言えば、そりゃ関鑑子ですが、学校や職場でサークル活動の一環としてコーラスだの合唱だのを革命運動を組織するツールとして、戦後のあるタイミングで使った日共ってのは、そりゃ政治としてたいしたものだったな、と。なにしろ、未だにやってるんですよ。日本のうたごえ全国協議会なんてのがあって、講習会やって全国まわったり。なんかこのへんは民俗学が全国組織つくっていったやり口と微妙に重なったりして、個人的に鬱なんですが。


 歌って踊って恋をして、革命もやって、でも婚前交渉はなし、というのが理想の「進歩的」青少年像、だったわけじゃないですか。少なくとも代々木共産党というか、民青的には。あたしらの頃にはもうそういう民青的なるもの自体、ギャグにしかならなくなってましたけど、でも考えたらそういう理想像って「戦後」の価値観にしっかり裏づけられたものでもありますよね。それこそ「寅さん」のさくら夫婦(笑) 


 

 まあ、歌声運動自体は戦後直後からあったわけだ。民青の前身だった青共に中央合唱団を設立し、まさにさっき大月君が言った関鑑子(歌声運動創始者/一九××│)が指導者となって運動を広めた。

  

ただ、これも案外混同されるんだけど、歌声喫茶共産党の歌声運動は、ダブりながらも一応別の問題なんだよね。歌声喫茶は市民生活の中で楽しめるという場ということで、東京では、新宿のカチューシャ、灯(ともしび)、それに有名などん底なんかがあって、そこは文化人と身近に接することができる場でもあった。どん底の歌集などを改めて見ると、そこにメッセージが出ていて、たとえば、三島由紀夫なんかもメッセージを寄せているんだよ。あの右翼で切腹した三島由紀夫が歌声運動の「がんばろう」とか「母さんの歌」とか「沖縄を返せ」とかに手を貸している、なんてのは後の三島からは考えられないかも知れないけど、でも、実際に彼はその歌集に、おれの青春はどうのとか、大真面目で書いてるわけだ。

 

――ああ、それはおそらく舞台、演劇の関係で入ってきたんじゃないですか。

 そうだと思う。それと、今では別の意味で有名な三輪明宏、当時は丸山明宏だけど、彼もそういう歌集にメッセージを載せているんだよ。当時、あそこで無茶をやるのは相当大変だったろうと思うけど、とにかく共産党の歌声運動の市民版である歌声喫茶の中で、丸山明宏や三島などまでもいわば党派を越えてメッセージを載せるような、そういうところだったってことだ。

  

――確かに「歌う」ということ自体の意味、ってのがあったんでしょうね。それも「みんな」で「一緒」に。そう考えれば、少し後の新宿フォークゲリラなんかにも、そういう「みんな」で「歌う」ことの共同性みたいなものは揺曳してたんじゃないですかね。


 基本的に日本人には、集団で、みんなで歌うという習慣はなかったんだよね。歌は個人空間で歌うものだった。当然、和音、ハーモニー(和声)という発想もない。明治になって、西洋人が初めて合唱を持ち込むんだけど、それは軍隊とか学校で歌うというのがせいぜいだった。それまでの歌舞音曲ってのは、たとえば座敷で芸者の三味線に合わせて端唄を歌うとか、あるいは櫓の上で誰かが音頭を取ってドンドコやると、「ああ、どっこい」と間の手を入れながら歌って、その周りを回る、というものだったりしたわけだ。日本以外のアジアやアフリカなんかへ行くと、いまだにそういうのがあって、やはり太鼓を打ったりマリンバを叩くのがいて、周りがみんなでワーワー歌う。つまりはこれ、盆踊りじゃないか。

 日本には、鑑賞する音楽性をもちながらも、声を合わせて集団で歌う習慣はなくて、近代以後、西洋から入ってきてようやく普及したわけだ。西洋音楽の洗礼を受け、軍隊で「万朶乃桜」を歌い、学校では校歌を歌い、文部省唱歌を歌うようになったわけだけど、でも、戦前はせいぜいそこまでだった。それが学校の授業や軍隊の演習といった公的な空間ではなく、個人が自分の心を楽しませるために、しかも集団で歌うこともある、という経験を組織したのが、戦後に起こった歌声運動だったんだと思うよ。

――今じゃPTAのおばさんたちがコーラスのサークルで頑張ってますけどね。あれも学校や職場のサークル活動の一環として、当たり前のように「コーラス」「合唱」が導入されていった来歴があるわけで。そういう風に考えてゆくと、あのデモなんてのもある種の身体的表現として見てゆくことができますよね。

 そこで当時、公的なものとして、デモ行進があったわけだよ。デモで歌った歌をそのまま個人の空間の呑み屋に来て、みんなで肩を組んで歌っていいんだ、となってくる。それが六○年代の後半になるとさらに変わってきて、それぞれ自分で作詞作曲をするようになってきた。それは、それまでの近代百年の音楽教育の蓄積があってのことなんだけどね。というのは、だいたい六○年までは、何か自分の中のエモーションを歌にするときには、替え歌というものしかなかったんだよ。だからたとえば、旧制一高の寮歌「アムール川の流血」が、幼年学校の「万朶乃桜(「歩兵の本領」)」になり、今度は「聞け、万国の労働者」という労働歌の替え歌になってくる。メロディというか節は同じで歌詞が変わるだけだよ。つまり、学校とか軍隊で習った歌にそれぞれ違う言葉を載せて、替え歌という形で自分たちの心情を吐露するしかなかった。なにしろほかに音源を知らないんだからさ。五線譜は読めないし、かといって黒人奴隷から始まったジャズのようなものを作る能力もない、と。あるとしたら、三味線の何とか節とか、それこそ浪花節浪曲のたぐいでしかないわけだ。


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――あ、浪曲をそういう風にバカにされるのにはちょっと異議をさしはさみますが(笑) 浪曲ってのはニッポンの近代における最初の「個」的な大衆音楽、とまで言えなくても表現手段ではあったんですよ。三味線が伴奏についた語りもの、ですが。でも、三味線とのコラボレーションで「語る」ことで近代に直面する気分や感覚を期せずして表現する形式を発見していった、というのが、あたしの浪曲浪花節理解の大枠です。「うなる」ことで不特定多数の、具体的には千人くらいの規模までの「聴衆」に向かって表現する「ワタシ」=「個」、ってのがまずもって快楽だったわけで、だからこそレコード産業の基礎も奈良丸と雲右衛門で作られた、と。それくらい「近代」を生きる新たな勃興してきた常民=流民も含めたプロレタリアート、の生活感覚にどこかでシンクロするものがあったんですよ。

  

 ところが六○年代になると、戦後音楽教育が二十年蓄積されて、まあ、音符くらいは読めるやつが結構混じるようになる。それから、豊かな家庭の子供は、ピアノを買えないまでもエレクトーンとかオルガンを買ってもらって、そうじゃなくてもハーモニカとか縦笛など学校の授業でやるものだから、簡単な音楽はみんなおよそわかるようになった。それこそ「宮田ハーモニカ」がハーモニカを広めてくれたおかげで、私は今でも音符なんかろくに読めないけど、普通にハーモニカをやればだいたい自分の好きな曲が適当に吹けるぐらい、誰でも吹けたわけだ。


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――宮田東峰、ですね。ミヤタハーモニカ。大正時代に盛んになった楽器ですが、本格的に普及したのはやっぱり昭和に入ってからですかね。小沢昭一さんじゃないですが、「ハーモニカが欲しかったんだよお~♪」というのは、当時の街育ちの男の子のある部分、共通感覚だったのかな、と。

   



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 これがもう少し高度になってくると、今度はギターになる。ギターで弾いて、自分が歌う。ハーモニカは小さいから、携帯に便利なんだけどね。ギターはやはり戦後の社会が安定してきて余裕が出来てきたということだ。ウエスタンとかジャズとか、さらにロカビリーとかに広がっていく。

 当時の世相で、映画の中でも『ギターを持った渡り鳥』とか、風俗の一部にもなる。自民党の先日亡くなった代議士・原健三郎も実は渡り鳥シリーズの原作を書いてたんだよ。後に大臣や衆議院議長をやった保守の大物が、実はそういう深いところに絡んでいるんだよね。だから、日本の保守というのは単純に侮ってはいけないんだな。


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――弦楽器系の洋楽器は、戦前だとせいぜいマンドリンで、あれはでも古賀政男明治大学にこさえたマンドリン倶楽部に象徴されるように、やっぱりクラシック経由ですし、「大学生」のエリートカルチュアだったんだと思いますね。明治期の演歌師なんかにまで普及したバイオリンがいくらか大衆化・通俗化した弦楽器と言えるかもですが、範囲は限られてたし、昭和初期に編成されてくるいわゆる“ボーイズもの”の漫才でもギターは入ってきてますが、中心とは言いにくい。ワカナ・一郎にしても鍵盤系のアコーディオンですし、それ以前の無声映画の伴奏にしてもギターって選択肢はまずないですね。



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もともと軍楽隊の木管金管系の楽器を扱った連中がサーカスに流れて「ジンタ」になり、さらにはちんどん屋のあのアンサンブルにも派生してゆくわけですが、マーチングバンドはやっぱりブラスが中心なわけで、弦楽器ってのはそれこそ街の流しなんかが出てくるまではなかなかなじみはなかったんじゃないですかね。兵隊の慰問袋にハーモニカや明笛は結構つきものだったようですけど、さすがにギターを抱えた二等兵、ってのはわが帝国陸軍ではあり得ない(笑)『兵隊やくざ』のカツシンもギターつまびくより、やっぱり物干場で「紺屋高尾」のさわりをひと節うなってくれた方がグッとくるわけで。



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 考えたら、ひとりギターをポロンポロンやる青年、っていうイメージは、どうしても戦後の、それも都会の単身生活者、学生だけじゃなく場合によっては労働者だったりもするわけで。それだけ「個」にまつわる楽器、ってイメージがありますね。これがスチールギターが戦後になって入ってきて、ハワイアン経由ですけど、そこから電気ギターが国産で作られるようになる。最初にこさえたのが麻布・一の橋の建具屋で、だからブランドが「グヤトーン」だった、なんてのはこれはもうトリビアになりますが。でも、電気ギターは進駐軍が持ち込んで、おそらく基地まわりのバンドマン連中などから演芸関係に結構早くから広まってたようですね。河内音頭鉄砲光三郎藤井寺球場で電気ギター持ち出した、ってのはあれは確か昭和二十年代後半じゃなかったかな。ましてや、オンナが弦楽器を手にする、なんてのはかなり珍しかったんでしょうね。


 

 弦楽器と言っていいのかどうかわからないけど、いいうちのお嬢さんが琴を弾く、というのはあったよ。地方の旧家で。料理と裁縫と琴を習わせる、みたいな。事実、私より一歳上の従姉妹などはやってたよ。百姓の地主の娘は、琴とお茶、あと学歴は戦後だったら短大出、ってのがステイタスになってたりしたけどね。

 まあ、それはともかく、戦後の十数年に培われた、音符を読んで場合によっては自分がアレンジしたり一から音楽を作ったりもするという、そういう種類の素養は小・中学校の授業で、○○のような気持ちで音楽を作ってみましょうとか、台詞のない音楽を聞いて、「これについてどう感じましたか、感想を言いなさい」といった情操教育があったから、それによって音楽を作る才能も、まあ、それなりには芽生えた、ってことだと思う。それまで、私たちがちょうど全共闘とか反戦とかという一九六五、六年以前には、基本的に自分の感情、情緒を発露していく手段は、さっき言った替え歌しかなかったんだよ。荒木栄なり、一部の才能を持っている人たちが労働運動の中で歌を作って、それが浸透して大衆運動に変わってくる。そのうちに、自然発生的にギターを弾く年代が出てくる。前に言った「バラが咲いた」(一九六六)なんて、まさにその世代の典型なんだな。「これは自分で作った歌だ、ゼロから作った。だから、大人から与えられた歌じゃない!」と、それが彼らの主張だ。だから、内容もゼロなんだよ。

――おお、なるほど! そうつながってくるわけですね。わかりました(笑)「戦争を知らない子供たち」、みたいなもんですね。あの歌も小学校の頃に歌わされた記憶がありますが、子供心にも、だからどうした、みたいな感覚はどこかにありました。あれ、今このご時世に大声で歌え、って言われたらとてもじゃないけどできませんね。拷問ですよ。というか、見事な放置プレイ。



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 まあ、だから当時のフォークソングの類は、結局のところ、みんな「おれたちは若者だ」と言っているようにしか聞こえなかったな。私は、自分が若者であることが嫌で嫌で仕方がなかったから、若者ってことはそんなに偉くないだろう、おまえら何がうれしいんだよ、と、ほんとに不思議だったんだよ。

 だから今、「ちょい悪オヤジ」なんてのを見てても、そんな彼らが年を取り、中年になっても「若者だ」と言っているようで、老いるという自覚がないんだろうな、としか思わない。結局「ちょい悪オヤジ」というのは、昔は不良青年だった連中が、今は不良親父がいいんだ、と言い張っている主張に過ぎないんだよ。