「団塊の世代」と「全共闘」㉓ ――快適なシングルライフ、の尖兵

●快適なシングルライフ

 ひとり者=シングルの始まりは団塊世代か、ということについて、友人の山口文憲が『団塊ひとりぼっち』という本で書いていた。これはさっきちょっと触れた七○年以降の社会インフラの整備と関係することだけど、地域の共同体は崩壊してすでに隣の人の顔さえ知らなくなっててても、家にはインターネット、近所にコンビニがあって、電話一本で深夜でも救急車を呼べる、そんな環境が全国的に広く普及した。だから、その意味では一人暮らしは今や快適になってしまったわけだ。

 戦前は、旦那に子供がいなくても、奥さんが結核ででも死ぬと「ご不自由でしょうね」と、何となくそういう人が来たものだったわけだ。シングルは「ご不自由」、つまり不便と同義語だったんだな。で、それ以上でも以下でもなかった。だから「取りあえず、身のまわりのお世話する女でも置いたらどうですか」という紹介の仕方で、女性が来る。そのことに何の不思議もなかったんだよ。

 当初は正式の後妻でなくても、食事を作ってその辺を掃除したり、時々セックスもあり――まあ、あるいはそんなものなくてもいいんだけど、とにかく隣近所から時間を決めて通ってくる。一種のヘルパーなんだけど、でも実際にはそこらの長屋のおばさん風の人が「じゃ、私はこういう世話好きだから、すこし、掃除だけやりますよ。洗濯物もあれば」となればそれに対して「ちょっと小遣いを」となるし、またそれを世間も認めていたんだよね。

 ところが今は、家事労働からの解放が女性に限らず、家事一般からの解放になってしまった。だから今、キャリアウーマン志向で家事が不得意だという女は多いよね。また結婚しても、家事は電気製品がやるわけだから生活スタイルは独身時代とそうは変わらない。相手が独立した女なら、「おれはこいつが好きだから、とにかく一緒にそばにいたい」と男が言わなければ、二人が分かれて住んでいても同じことになる。別居夫婦、って形だって必ずしも不自然じゃないんだよ。

 逆に独立した女がよく言う「ああ、あたしも奥さん欲しい」も、実際同じことだよ。やはり仕事を持っている女友達で、私の五倍ぐらい稼いでるようなのがいるけど、その彼女はヘルパーを使っている。マンションの部屋に月・水・金と時間制で呼んでいて、二、三時間掃除をしてもらう。食事はたいてい外食だから、料理は問題ない。立派にひとり暮らしをやってるわけだ。


――どだい、結婚なんてのも、これまでだって足入れ婚やら通い婚やら、民俗社会レベルでもほんとにいろんなヴァリエーションがあったわけで、それを今、一律にひとつ屋根の下で世帯をひとつにするのだけがまっとうな結婚、ってことにしすぎてるような気もします。先に出た同棲、なんてのもそういう風に位置づければ、また違う意味があったのかも知れないですが……あれ、なんかフェミっぽいこと言ってますかね、あたし。

 私は、最近父親を亡くしたんだけど、でも、その時いろいろな経緯を経て、世間で一番頼りになるのはやはり金だ、と実感したね。父親に対しては、全く孝心はなかった。でも、病気で倒れたもので、しかたなく私は東京から地元の名古屋へ帰ったわけだけど、その時役に立ったのは、やっぱり父親の貯金だったんだよねえ。

 たとえば、危なくなれば病院に入院させる。空いていれば個室を選んで、ヘルパー資格のある付添婦を一人つければ、家族も病院に詰める必要がなくて具体的に助かるわけだよ。父親は十日ほど入院して容態が悪くなってうちへ帰されたんだけど、うちは母親の方もまたあまり動けないから、改めてまたヘルパーをつけるわけだ。

 介護保険というのは時間単位だから、規定以上は受けられないんだけど、もしこれを二十四時間つけられればそりゃ、非常に楽なわけだよ。その間、私は短期の海外旅行にも行けたし、東京との往復も週に二、三回はできた。父親の容態が変われば、ついているのがヘルパー資格のある人だから、救急車を呼ぶことも慣れている、と。つまり、家族の中に重病人がいても、普段の生活がそんなに変わらなくてすむわけだ。

――そうできるだけの蓄えがあれば、ということでしょうけどね。

 もちろん、それは私の家にたまたま多少の余裕があったから、ということはある。親父はサラリーマンとしては大関クラスまで行ったから、まあ、その程度の貯金はあった。浪費家でもなかったし、子供(私)を育て上げるまではカネも手もかかっただろうけど、でも、その後私は、金銭的な意味では親に迷惑をかけていないしね。

――そのお父さんの財産、ってのはいくらかは残ったんですか?

 貯金は、遺産として残った。で、母親は、財産を私に残す、と、例によってバカなことを言うんだけど、でも、私は親の面倒を見るのは嫌だから「全部使え」と厳命してるんだ。たとえば、仮にいま二、三千万もらっても、私にとってはそれはとても割に合わない。確かにヘルパーを雇えば、年に四、五百万程度かかるけど、それが四年分でも二千万円だろ。だったら、それを生きているうちに母親自身が使い切ればいいじゃないか。

 母親のカネの使い途は年寄りの趣味で、たとえば檀那寺の屋根葺きに三十万寄付するか、五十万にするか、といった程度の話なんだよ。そんな瓦葺きはせいぜい五年か十年に一回の話だから、一年に換算したらたかだか十万程度の出費だ。だったら、それならば、ヘルパーは、それをやってる人には社会的に恵まれない人もいることだし、むしろどんどん雇ってカネを社会に還流させればいい。そういう意味で「残すな」と言ってるんだよ。

――ああ、それはわかります。うちもひとりっ子で兄弟とかいなくて、オヤジは二十年ほど前に過労死の突然死やらかしちゃったんで、今やおふくろひとり、年金その他で食べてく分にはまあ、困らないわけで、ある意味一番、戦後の「豊かさ」を享受できている世代なんだと思いますが、でも、いくらかあるオヤジの財産(ったって、持ち家くらいですが)をこっちに残してくれなくてもいいから、ってのは言ってますよ。ただ、でもそれもまた、たまたまそういうある意味恵まれた環境にいられるから、ってのはありますけどね。

 つまり、当たり前のようだけど、今の私たちのこの社会で、いかにカネが助けになるか、ということなんだよ。同時に、そのあたりが新たに商売に、カネになると見込んで参入してくる者もいる。それは資本主義の原理で、カネをどこかに投資し、回転させることで現在のシステムは成立しているんだから、これも当たり前だ。ただ、こういうのもまた一九六○年代、私たちの学生時代から広がりだした流れだとも言えるね。

 いま、町にはコンビニ、スーパーが余るほどあって、老いも若きも利用してるだろ。そのスーパーが登場したのは七○年頃だ。西友なんかが一気に普及して、閉店時間も今は九時半、十時は当たり前。名古屋あたりの近辺でやっている小規模なチェーン店でも、二十四時間営業の店がいくつかある。少し田舎だと家族経営のコンビニなんかは午前一時に閉めちゃうところがあるけど、これはこれでエネルギー効率の点では逆に正しいんだよ。だって、そういう店は二十四時間開けていても夜中の二時、三時に客なんか入らないから、照明、空調の無駄な出費なわけだ。

 

 ただし、終夜開いていたほうが一人暮らしには便利ではある。冷蔵庫や洗濯機も手軽に安く買えるようになったし、高度経済成長とそれに伴う「豊かさ」によって主婦の家事労働が軽減された、とよく言われるけど、これは同時にひとり者でもぐっと生きやすくなった、ってことだよ。

 となれば、ひとり者、単身者にとって残る問題は、思いっきりざっくばらんに言ってしまえば、心理的な慰安とセックスだけだ。それさえ自分がクリアするか、我慢すれば、もうずっと独り者で生きてゆくのに困らない、そういう社会になってしまっているってことだ。

――まあ、状況としてはその通りですね。だから、少子化社会とか言って、三十代でも結婚しないのがどんどん増えてる、って言われてますが、ある意味必然という気がします。具体的に「困らない」んですから、男もオンナも。


 結婚の嗜好品化、ってことを言う向きもありますね。これはネットで語られていたことなんですが、これまで、結婚は必需品で絶対に手に入れる必要があった。必需品である以上パフォーマンスは無限大になるわけで、いくらコストがかかっても、手に入れなきゃならなかった。でも、現代においてはそうじゃない。便利になり、結婚しなくても生活はできる。価値観も多様化して、結婚しないことによる社会的な圧力は以前よりは遥かに弱まった。そのため、結婚を単にコストパフォーマンスで測ることができるようになって、コストパフォーマンスが悪ければ、その財を購入しないという選択をすることができるようになった。これが、現代の若者が結婚「しない」理由だ、というんですが、確かに大枠ではその通りだよなあ、と。実際、ネットや携帯を介した「出会い系」とかもう信じられないくらい広まっちゃってるようですけど、一面ではあれ、男女共に安定してひとり者でい続けるためのセックス処理(「恋愛」含めての)装置として必然的かも知れない、って思うところがあったりします。それはニッポン人はやっぱり文化として好色なんだ、とか、下半身にルーズだ、とかいうありがちな「説明」とはまた別に、高度経済成長以降の「豊かさ」のもたらしたものでもある、という角度からの理解がもっと必要なんじゃないかな、と思いますね。

 実際、そうやってセックスの問題が消えれば、あとは心理的な慰安が確保できれば、もう独りでいても一向に構わないわけだよ。ただ、この心理的な慰安については、セックスよりもずっと一筋縄ではいかない問題で、社会的風潮を越えた文化、宗教、教育を含むからまた改めて語ってみたいんけどね。

 とりあえず、以上は団塊世代の場合で、若い世代ではいわゆるパラサイト・シングルという手だってあるわけだ。親と同居し、家事など生活条件を親に依存する、いまどきのひとり者の形なわけだ。

 六○年代までは、狭くても安い住宅が欲しいという庶民の要望に応えて、住環境の悪い「団地」が大量につくられてきた。私たち団塊世代が若い頃は、五人くらいの家族でも団地に肩寄せ合って暮らしていたもんだ。

 ところがその後、人口が頭打ちになると、金の流れは住環境自体をよくする方向に向かった。たとえば、夫婦と子供二人、婆さんの五人家族の場合、婆さんが死に、娘一人が嫁に出れば同居者は三人に減る。余った部屋を広く改修すれば、住環境が充実して、息子のパラサイト生活は快適になり、結婚する必要もなってしまうだろ。

――そういうことですね(苦笑) 息子だけじゃない、娘だとかえって今度は親の方がありがたがったりしてますから。以前は「早く嫁に行かないと」とか言ってた親が、年を重ねて病気になったり弱ったりしてくると、「よくおまえが家に残ってくれた」くらいのことになったりする。三十代で嫁に行ってないオンナの人のある部分は、むしろそういう実家住まいが長くなって、逆に親の方から今度は頼られるようになっちゃってる、ってケースも案外あると思いますよ。

 まあ、何でも世の中すべてそうだけど、先頭を切る者には覚悟が必要なんだよ。かつて、街のインフラも住環境も世間の理解もない中で、シングル生活を始めた者は覚悟を決めなければならなかった。一方、そういう先行する者の後ろを金魚の糞でついていくやつは、既得利権を享受できる。なんでもそういうもんだよ。反体制活動でも労働運動でも同じこと。会社で、最初にストライキをやろうと言った人間は弾圧され、馘を切られる。会社は、馘を切った代わりに給料を月額五千円上げようという。この昇給は、首を切られた者には当然いかない。「ストなんかやりやがって」と笑っていたやつの方の給料が、月額五千円上がる。犠牲者、殉教者だと褒めてもらっても、浮かばれないだろ。

 つまり、風よけ、弾よけになる人間はいつの時代も必ずいたはずで、この意味で言えば、団塊の世代がこれまで整わない環境でひとりで生きてきていて、それを今になって後ろ指を指されても「いや、おれたちはこれでいい」と言った先頭組だったんだと思うよ。それは、社会的な信用という意味においても、なまやさしいことじゃなかったんだよ。

 たとえば中野翠は、「女で物書きで独身だと、クレジットカードを持てなかった」と書いている。それは私も同じだったよ。男でも、自由業で独身じゃ、社会的信用なんてものはまずない。カードは便利だから欲しかったけど、とにかく審査に通らないからしょうがない。私がクレジットカードを持てたのは、東京理科大の非常勤講師になってからだよ。一九八八年、大学に勤務している、という証明書を出して、やっとカード会社の審査に通ったんだからさ。

――僕も、大学に勤めていた頃にクレジットも保険も入ってますが、今だとおそらく審査が通らないでしょうね。仕事場借りるんで保証人探す時もえらく苦労しましたし。それに勤めてたのが私立じゃなくて、幸か不幸か国立大だったじゃないですか。文部教官助教授、って肩書きの社会的な流通性ってやつは、大学辞めてから、ああ、こういうことか、って思い知る局面が結構ありましたよ。

 もしカードを遣いすぎて残額不足で返済できなくなり、カード会社に「大学の給料を差し押さえます」と言われても。講師手当てが一万八千円だったので、「どうぞ」と答えただろう。クレジットで三○万円遣い、一万八千円差し押さえられても二十八万円の得だったんだ。だが、そういう問題ではなく、勤め先が社会的信用を意味するということなんだ。私の場合、そのときは大学教師という肩書。本業は評論家だが、そちらの方では大学教師ということにしておく。その信用で、独身でもオーケーが出た。中野の場合、女で自由業で独身となると「こいつ、何だろう」、「水商売かな」となる。顔を見て「横浜の場末あたりかな」と。

――あ、またイエローカードですよ、それ(苦笑)


●ライフスタイルの転換期

 そもそも、時代が変わる、って言うけど、これまで日本史の中でそういう文化、生活形態が大きく変わった時期というのは、必ずしも政治権力が交代した時期でもなくて、そういう政治のレベルでの変化が本当に生活の局面まで浸透してくるには少しずつタイムラグがあったんだと思うんだよ。

――ああ、それは民俗学的な視点からすればまさにその通りですね。大文字の政治史、制度史や法制史の水準じゃなく、日常生活の歴史、ゆるやかな変遷をつぶさに眺めてゆくと、日々の暮らしぶりの変わり目というのは年表のような歴史とはまた違ったフェイズを持っているわけで。上部構造の変動が下部構造に波及してゆく過程というのは、常にそういう時間差をはらんでいるんだと思います。

 まず最初の転換点は、よく言われるようにまず、応仁の乱。ここで日本人の生活形態はがらりと変わった。それまで地方や下層の庶民たちなんかは、ほとんど弥生時代の竪穴住居に住んでいた人と違わないような生活だったはずだよ。その次の大きな転換点が明治二十年代。ちょうど日清戦争の前後の頃だ。そしてその次は昭和の戦後だ。これは他でもない、かの柳田國男センセイが言っていることなんだけどね。

――ですね。応仁の乱前後、っていうのは近年また、戦国時代の再評価などもからんで改めて注目されている時期でもあるようですが、ただ、柳田がそれを指摘し始めたのは「木綿以前の事」のあたりからでした。後に、聞き書きから過去を再構成してゆく彼の民俗学の手法では、リニアーな歴史としてさかのぼれるのはせいぜいその応仁の乱あたりまでが限界だ、といったことも言ってます。明治初年生まれで近代化の黎明期に青年期を過ごした柳田の世代性を考えると、昭和初年くらいの時期を足場にそういう感覚を持っていたはずですから、今だとむしろ、近世の末期くらいまで再構成して追体験してゆくことがギリギリかなあ、なんて思ってます。このへん、真面目な歴史学者なんかにかかると、民俗学の方法的限界、なんてすぐ馬鹿にされたりするんですが、あたし的には逆に強みだ、と思ったりしてるんですけどね。

 柳田は一九六二年に死んだ。しかし、彼の死後に、もう一回大きく変わっている節目があったはずなんだ。それが、一九七○年前後だったんだと私は思ってるんだけどね。

 こうしてみると、後になるほど変化のスパンが短い。まず応仁の乱は、それ以前の何千年を経た後の一四六七年。その次が明治二十年代(一八八九~九八年)だから、この間が約四百年。その次は、約七十年で戦後になるわけだ。さらに次は、二十五年か三十年。変わり方のサイクルがぐっと短くなる。その分だけ生産も消費も人口も増えているから、この分、厚みを持って変化がぐっと詰まって体験されるようになってきたんだと思うよ。

――密度としての「歴史」、って視点ですかね、それは。日常生活の中で経験される「歴史」というものさしをひとつ持たないと、なかなかうまく理解もできないし、ましてや方法化もしにくいような気もしますが、でも、感覚としてはなんか解るところがありますね。

 そういう歴史の落差とか、世代間の経験の違いがはっきり意識されるようになってくるから、これを残さなければいけない、という意識も芽生えてくる。篠田鉱造の『幕末百話』(岩波文庫)や、高村光雲の『幕末維新懐古談』(同)とか、あの頃の岩波文庫から出ていた石橋湛山のものとか、そういう記録はどれを読んでも面白いよね。しかも当時でさえ、もう忘れられかけているから忘れられないうち、消えないうちに書きとめておこうと思って、必要から記録に残したものだから、今の私たちにとっては貴重も貴重、ほんとにに面白い。だから、そういう意味で現在もまさにそういった志に立った記録が必要なんだと思うよ。

  

――それは全く同感です。というか、民俗学というのが今この状況でなお、何か同時代の知の水準に貢献できることがあるとしたら、まずそういう記録に地道に資することからですしね。白状すれば、長谷川伸の言う「紙碑」のようなテキストをそれぞれの目線の高さでつむいでゆこうという草莽がうそうそとわいてくることを、まだ夢見ているところがあります。

 ある時点から用語系が変わり出す、思想の枠が変わり出す、そういうあらゆる分野での変化が一気に台頭してくる時期があるとすれば、それがやはりあの六○年代後半から七○年代初頭だったんだろう、と私は思うね。とにかく、高度経済成長というそれまで日本史の中でもあり得なかったようなとんでもない経済的な変化が短期間に起こった時期だ。だからこそ、その時代を体系化し、そこに若者とか社会を考える上の重要な基軸として左翼思想があって、当時どういう意義を持っていたのか、これをきちっと言葉にして書きとめておかないと、この先困ったことになるんじゃないかと思うよ。