「団塊の世代」と「全共闘」・余滴①――呉智英かく語りき・断片


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 一連のエントリー、上記であらかじめ経緯来歴について説明した通り、2005年から6年にかけての頃、呉智英夫子との対談本というか、インタヴュー本的な企画がお流れになった、その概ね9割方かたちになっていた作業中の草稿データを発掘してきたものをアップしたのだが、その後また例によって、作業途中での素材がいくつか出てきたので、補遺としてあげておく。テープを起こしたものから、モティーフやお題に従っていくつかの塊にいったんバラバラにしてゆき、それらの素材をもう一度、ある流れに沿って配列しなおし、全体を整えてゆくという作業の工程の中で、うまく本体に織り込めなかった、しかしモティーフ的に面白い内容が含まれているものを、ノートないしは備忘録的な断片として手もとに残していたものだと思っていただければありがたい。言うまでもなく、主な発言主体は呉夫子である。……221224


● 教養としての小説、理科系の教養書

 教養小説が消えてしまい、「青春と読書」というフレーズも聞かなくなった。理科系でもしかりだ。

 今、一部子供に理科離れがあるから実験をさせようという動きがある。悪いことじゃないからやってくださいとしか言いようがないんだけど、ただ私たちの頃は、中学三年頃になれば、たとえばポアンカレーの理論書を読んだ。教師に煽られて読んだわけだが、教師自体が今の教師とは違う。化学の教師とか物理の教師というのは、ボアンカレーとか、アインシュタインを読んでいた、そういう人たちだったんだよ。

 彼らは、アインシュタインは面白い、ボガーは面白い、と大きく影響を受けて自分もなれるかなと大志を抱いたが、就職できる研究施設が限られていたので、高校、中学の先生になった。その頃、私たちは普通に、文科系のフランス文学とか、アメリカの文学を読んでいた。ところが、物理の教師に授業で、「君たちの中で読書が好きな者は、漱石とかヘミングウェイとか読むだろうが、僕らは理科系だから、そういうのは読まなかった。でも、ボアンカレーの『科学と仮説』は読んだな」とか言われると、あ、これは読んでみなきゃと思って、帰りに本屋へ寄って買う。化学の教師には「ファラデーの『ろうそくの科学』は普通、高校生は読むよね」と言われる。「読むよね」と言われたら、読んでいないことがそれこそ恥になるんだよ、当時は(笑)。同輩同士の論争じゃないが、教師に「普通、気の利いた子はこのいうの読むんだよ、読んだ?」なんて言われると、読まなければプライドが傷つく。見栄なんだけどね、でもそれが原動力になって勉強したわけだ。

 翌日、学校へ行くと、本の話になる。うちは中学・高校が受験校だったこともあるが五十人中三、四人は読んでいた。机の上に置いて、おまえも買ったか、おれも買った、という話になる。

 中高生が教養のために読む本として、理科系教養書というのが確かにあったんだよ。寺田寅彦、宇宙物理の学者だが夏目漱石に弟子入りもしていた、野尻抱影、この人は今では大学生も読まないが、星の名前で有名な大佛次郎の兄、そして草下英明などなど。

 私が決定的に影響を受けたのは、ジョージ・ガモフ博士だ。『ガモフ全集』は白揚社から出ていて、相対性理論からビッグバン宇宙論の提唱にまで関わる物理学者の亡命ロシア人だ。つまり思想的には反共産党系なのだ、が、たとえば「共産ゲリラが機関銃を三百丁、輸入しようとしています」という例題など、表現も面白い。まだ高校一年頃で、闘争はあまり関係なかったが、この本は専門書ではなく、素人のための科学啓蒙エッセー集で本質的な部分に影響を与える内容だったから、将来物理学者になるかな、と考えたりさせられた。

 物理はもともと好きで普段からやっていたから、試験の前になるとノートとか本は読まず、ガモフ全集を読んだ。自分の中でエンジンの空ブカシ、アイドリングをバンバンやって、翌日、試験に臨むと、これが不思議とできてしまうのだ。読書によってエネルギーがどんどん膨らみ実力に変わる。それが私の試験対策だったんだよ。



● 活字の「教養」

 団塊関連の知識人像を何人か挙げてみたが、現在は魅力ある像がない。*1 また時に、若者がそれにオーソライズされなきゃいけないと思わないほど自我が肥大していいた。だから、以前の若者には見栄があって、それで戦わなきゃいけないという風潮だった。それがインターネットで一気に検索をかけて、情報がこれだけありましたよ、で勝ち負けが決まってしまう。そこには生き方としての魅力もなくなってくるし、ユニークな生き方自体を許容する柔らかさもなくなってしまうような気がするな。

 たとえば、「読書と青春」といった本が以前はたくさんあった。知識人論の本もあった。簡単に読める『寂聴般若心経 生きるとは』(瀬戸内寂聴中央公論社)からレベルの高い、たとえばサイードの講演をまとめた『知識人とは何か』(平凡社)などまで。

 でも、知識人自体に信頼性がもうない。すると若者は、自分がその予備軍であるかもというようなことを考えないですむ。そのほうが楽だからだね。かつては、吉本隆明といえば、一応、読まないまでも、買わなきゃ、というのがあった。買わなきゃいけないで出版社は支えられていた。

 出版人にも問題がある。出版業界が、実は見栄と強迫観念で支えられていたという認識がないんだよね。岩波書店なんかあれ、絶対にない。自分たちが正しいことをやっているから受け入れられた、と本気で思ってるよ。でも、それは違う。みんな見栄なのだ。情けないことだが現実だ、九割の人は見栄で本を買う。ブランド産業なのだ。しかし、その自覚はない。

 ただ、同じ商品でも、やはりブランド品はブランド品なりに手が込んでいるものでね。

 たとえば、ライカのカメラ。ライカを買っている人は、コレクターで見栄やブランド志向、金持ちだから買うのが八割か九割で、本当にライカを使っているのは一割しかいない。でも、プロが使えば、確かにライカは素晴らしい。頑丈で、戦場に行っても壊れないとか、映りがいいとか、やはりブランドを支える老舗、暖簾の力がある。だから、それは岩波もそうだが、九割はブランド信仰の見栄で売れていることを自覚し、その中で上手に客を満足させながら、本来のライカのボディをつくる技術を伝承させていくことが必要だ。その技術、ネジの精密さ、レンズの設計のよさを残す。

 ところが出版界は、全然それをやっていない。中途半端な岩波文化人でも、たとえば丸山眞男だったら今から三十年、四十年前のピーク時には(いろいろ批判もあったかもしれないが)、それなりに意味があった。今の岩波文化人たちは、何も考えていない、世代的に言えば、文学系の小森陽一高橋哲哉、政治の姜尚中とか。彼らはもう五十歳前後になっているわけで、今から四十年前だったら丸山眞男がやはり四、五十歳代だったわけだが、やはり思想的に意味を持っていた。当時、批判の基軸になり得た。

 最近、彼ら出版界の考えているところでは、小熊英二大塚英志たちが、一種の朝日、岩波文化人・サブカル系の今後の安全パイなんだよね。アカデミニズム系だったら、たとえば、政治学だったら姜尚中、文学なら小森陽一になり、サブカル系だと大塚英志香山リカになる。つまりはその手のものを、今なおサブカルチャー、マスカルチャーが重要であるといって、それを押さえている。要は誰であっても、椅子が埋まればいいんだからさ。この辺りが、ポップカルチャーの椅子、こっち五つはアカデミズムの椅子となっているわけだ。あとは社会派ルポルタージュ鎌田慧斎藤貴男。しかし、この手の人材が知的ヒーローでは、旧来の知識人像という感じにはならなくなるよね。しかも、彼らには蓄積、教養がまったくない。

 岩波新書は、私は現在に至るまで追いかけてモニタリングしているが、岩波新書が当初売れなかった頃でも、戦前の旧赤版が、終戦直後まで中谷宇吉郎の『雪』や、沼田多稼蔵の『日露陸戦史』などがまだ残っていたわけだ。

もちろん戦前のものの中で、それもふるいにかけて残った名著だが、そのほかに青版が出る、戦後の昭和二五、六年頃に。青版もずっと続くものは名著だった。それに対抗して、六○年頃から講談社現代新書中公新書が出てきて、やはりそれらも自分なりの良いものを出していた。青版がずっと続いて、次に黄版になった。それから、次、新赤になった。なるたびにレベルが落ちてくる。

 しかし、軟弱にするなかからベストセラーが出る。たとえば、永六輔の『大往生』。永六輔は、私は必ずしも嫌いではないが、そういうものが岩波で出版されて、当時、岩波は実はどんどん売り上げが落ちていたから、カンフル剤になる。あれが百万、二百万出るわけだ。

 売れる本を出さないと、もう駄目ですとなるわけだ。やがてそれが常態になってくる。レベルはどんどん落ちる。やはり名著だから、いまだに青版の五○、七○年代の半ばまでの本は、いまだに古本屋でも二千円ぐらいになっている。だから、青版の五百~七百番台は当時の名著の宝庫だ。

 最近、岩波新書で学生時代から三十代までに読んだものを、古本屋で買っては読み直したのだが、あの頃の岩波新書を十冊読むと、本が一冊書けるなと思った。それぐらい密度があったのだ。十冊読んで、オイシイところを取って、柔らかくパラレルにすれば、その辺のへなちょこ本なら一冊楽に書ける。それぐらいの値打ちがあった。今のシリーズはもう見る影もない。全然スカスカだ。

 それこそ知識人像が崩れているから、若い人が買わなくなってしまった。みんな長いのを読めなくなったが、その中で健闘しているのが、中公新書と現代新書。そういうのを目指した編集者がいるのか、時々いいのを出して、むしろ岩波よりも歩留まりがいい。

 結局、主力の本格的な単行本は読まないから、各社本が売れなくて簡単に読めるような新書の方にどんどん参入する。するとそこに負のスパイラルができて、もう新書以外、みんな読まなくなる。つぶし合いになって、クオリティはさらに下がる。

 同工異曲のどうでもいいものがまた出る。著者が、原稿用紙五百枚の本を出そうと思うと、編集から「もっと圧縮して、同じテーマで二五十枚の新書にしてください」と言われる。先生がこれをどこかでお出しになるならそれは結構です。でもそれでは、うちじゃ売れませんから、これをもう少し易しく、この辺を省いて、ここにイラストを入れて、みたいなことになる。

 書店に至っては、もうハードカバー書籍を置かない。NHKブックスも講談社メチエも講談社ブルーバックスさえ、ほとんど置かない。以前は選書があったが、選書も売れない。中公選書などもう二十年前から全然出ていない。角川選書だって、今五年に一冊ぐらい、思い出したように出る。時々間違って三年に一度ぐらい。ということは、選書として死んでいるということだ、五年に一冊出したって。ほかに棚がないから、角川選書の箱で、話が来たら出さなきゃいけないかなという程度。

 結論からいうと、もう出版社は駄目なのではないか、また物書きも厳しい。知識人像が崩れてくるわけだから、その知識人像を前提にして成り立っていた産業というのは全部駄目になった。今まで自分の産業がどう成り立っているか、考えないですんだというのは、まさに戦後の問題。

 それは甘えといえは、甘えなんだよ。偉い知識人が、東大教授だろうと在野だろうと、知識人でございますと言っていると、岩波なり何なりが、それをもてはやして「おまんまのことはご心配要りません。われわれがやります。文化を担う先生方はお金の心配などしないで、象牙の塔の中で研究に没頭してください」。それがよかったかどうかは別として、そういった構造があった。やはり普通の業界に比べると鎖国状態だったわけでね。

 今、データを集めようと思ったら、いくらでも集められるけれど、それと森銑三なんかが資料を収集するのとは違うんだよ。迫力、深みがぜんぜん違う。今はネットで調べれば、パーッと大量に、古文書でもなんでも出てくるかもしれないけどさ。食い付きの態度が違うんだよ。森銑三は、どこかのうちの土蔵から古文書などが出たと聞くと、出かけていって、ノートにすべて書き写したという。それによって自分の血肉となる回路が出来る。覚悟としては全体的な作業で、目も、耳、あるいは感触も含めて駆使し、資料を見ながら、手で、書いた人と同じ速度で書き写していくわけだ。そのときに文体のリズム感が伝わってくる。



● 辞書、塾、予備校

 私は辞書に関しては、パソコンは非常に便利だと思う。検索機能、項目の並べ替え機能にしても。しかし、そういう時代でありながら、いまだに大槻文彦の『大言海』が広く使われている。実は、大言海に書かれていることは、全部小学館の『日本国語大辞典』に全部入っている。『大言海』ではこの説であると。つまり辞書としては、『日国』を読めば『大言海』は必要ないのだ。なのになぜみんなが『大言海』を使うのかというと、大槻文彦の一つひとつの言葉の手触りを味わうのだ。というのは、そのエッセンス、大槻説によればこうであるという引用情報は、今言った『日国』にも出ているのだが、それは要約、凝縮されている。その説ではこうだと。そうではなく、なぜそうであるかということを、そこを大槻文彦は書いているわけだ。そこが読んでいて面白い。大槻文彦の言葉、発している発露がわかる。

 それは、大槻文彦に限らない。吉田東伍の『大日本地名辞書』もそうだ。今こんな分厚い県別の『角川日本地名大辞典』や『平凡社日本歴史地名大系』が出ている。それにもかかわらず、吉田東伍の『大日本日本地名辞書』は、いまだに名著として残っている。

 吉田東伍が山形県に行ったら思いがけない地名があった、その言葉と葛藤していく過程が滋味になって、行間にこぼれ出ているのが読み取れる。書き手の固有名詞との緊張関係に情報価値があるのにもかかわらず、辞書とか情報を写した作品になると、それらは全部捨象される。誰が書いても同じになれば正しいとなるわけで。それとは違う世界で活字文化が華開いたわけだから、そこから固有名詞が消え去ってくると成り立たない。

 極端に言えば、『大日本地名辞書』も角川の『地名大辞典』も要らない。たとえば○○という地名、これを引こうと思ったらネットの検索サイトで拾い、これは青森と高知にありました。長野ではここに三カ所、とわかる。論文は無理でも、学生のレポートくらいなら充分すむだろう。しかし機械も辞典もない時代に、吉田東伍先生があらゆる資料を集め、あちこち足を運んで必死になって情報を集めた、その格闘が紙面に見える。それが魅力なんだよ。

 今は逆に、そんなものは関係ないという理屈になっている。それは要らない。それは純粋論理で正しいことなのだという誤った考え方がむしろ今は普通になっている。だから、言葉は人格と関係ないんだ、と。そんなわけがあるはずはないじゃないか。それは、本として売られれば、個人から離れて、印税にしか過ぎないかもしれない。だけど、どこかにそれがあるだろうという、それが結局知識人像だ。知識人の姿が、固有名詞で自分の個人性がそこに刻まれてくる。

 そうすると、逆に今後、知識人像をつくり上げていく、あるいは、知識人たらんとするのは、ものすごく難しいことになってくるんだよ。

 昔なら、近所で竹棒を振り、スズメを捕って遊んでいたガキが、このままではおれは田舎のはな垂れで終わってしまう。これではいけないと思って、尋常小学校六年のとき親に、「父ちゃん、おれ、中学というところへ行ってみたいよ」と言う。親は、しかたないから勉強しろと言って、中学に入り勉強しました、と。図書館で、藤村読んだら感動したとか。そういう感じで行く。

 今なら、何の素養もない小学校四年生ぐらいで親に「四谷大塚(進学塾)へ行け」と言われ、最初からAは三とか、Bは一とか線で結ぶ。それをやっていると、自分の中で、知識人像って生まれにくい。

 困ったことに、四谷大塚の方が学校よりなじめる。そういう子供を見ていると、学校に帰属意識を持てない。数が多いし、気持ちはわからなくもないんだけど。塾が母校みたいになる。以前、予備校がそうだという話があったが、学校へ行くという言葉は、聞いていると彼らの中で決していい言葉ではなく、どうも塾へ行く方が楽しいらしい。

 予備校に関しては、また少し別の考えがあって、以前、河合塾がいろんな試みをやっていた。今から十五、六年前、河合塾牧野剛と付き合いがあった。言っていることはおかしいが、私は決して嫌いじゃなかった。教育の場合、基本は見識よりも情熱だから、往年の日教組の熱血教師と同じことなんだよ。たとえばグレそうになった生徒を励ますのも、日教組の教師だ。体制的な教師は、あんな生徒は早く退学させた方が学校のためだと考えるが、そこで「一人でも救わなきゃいけない」と、生徒にいろいろ聞いてみる。別に資本主義の矛盾でも何でもない、ただの家庭内不和だけど、「お母さんの気持ちもわかってやれよ」「この本読んでみろよ」と立ち直らせたりする。駄目になりそうなやつを、職務を離れても支えてやる、その多くは日教組の教師だった。

 それが、私ら団塊全共闘で、正規の道からドロップアウトしてしまった牧野みたいな人間が、知識人では食っていけないから、予備校へ流れ込んでいった。そこでやつらは予備校生をあおる。あおった内容はいろいろで、どうかというものも多いが、河合塾の連中だと、吉本や柄谷行人(文芸評論家・思想家 一九四一│)の本を紹介して推薦したり、とにかく青年たちに○か×かとか、Aと一を結ぶ技術とは違う世界があることを教えていたんだよ。

 もう一つには、受験という枷があった。受講者は全員、大学に受かるため必死で学ぶわけだ。当時、日本で一番知的な年代層は予備校生だと、よく言われたし、今もそうかもしれない。これは当然で、高校までの勉強を七十パーセントしかしていない生徒が、予備校では八十パーセントなり九十パーセントに上げる。高校の勉強を百パーセントやれば、日本で最高の知識人になれる。なぜなら日本史、世界史、現代国語、漢文、数学、物理と全部やるからだ。もし点数競争で十科目なら、千点取ればそれは日本で最高の知識人だというわけだ。しかも教師たちが、成績のいいやつには「勉強は基本でやっておけよ」と、授業を漫談に充てる。「おまえら、学校の勉強をやるのも大切だが、大学に行ったらどうする。こういう芝居は今観ておけ」とあおったんだよね。

 今では大学そのものの間口は広くなりすぎて予備校が駄目になっているから、予備校もそれをやる余裕がない。団塊には、そういう熱血予備校講師たちがいる一方で、金ピカ先生というのがいた。これは予備校で「東大へ行って、偉くなれば金がもうかる。おれみたいにプラダの時計をしてみろ!」と煽る講師で、どちらを選ぶのかも、子供たちの人生観の選択だったのだ。それがだいたい八五、六年頃、今から二十年ぐらい前、バブル経済前後だ。それさえ今はいないようだけどさ。



● 詰め込み式受験勉強

 詰め込み式受験勉強に対する批判は、私たちの頃からあったよ。たとえばプリントを配布して、左に「石川啄木夏目漱石森鴎外」と作家名、右には作品名が列挙されていて、それらを線で結ばせるようなものだよね。『蟹工船』の作者を記せとか、選択肢の中から選ぶ問題とか。そういう問題に対する答え方というのは訓練次第でできるんだよ。実際、今だと四谷大塚の小学生コースの段階からそういうことをやってるわけで、小学校の六年生にでもなれば名前を見ただけで『蟹工船』=小林多喜二、と線を結べるようになるだろうけど、でも、それは単なる反射神経の育成にしかならないよね。

 また小さいときからパソコンを使うから、インターネットの検索でファイルにアクセスすることは非常に得意で、ファイルの中身は見なくても、線を引くのと同じ感覚で情報を得たという感覚になってしまう。

 これはまずいのではないか。かつては、たとえば小学校六年で『蟹工船』を読んでも何もわからない、何か難しいことが書いてあるなと投げてしまうが、二十歳になって読んでみたら、あ、面白いではないかと思ったとか、やはりつまらなかったとか、自分がそういう対決をして、自分の中にそれを構築していかなければいけない。それが知識人の像だったんだよ。

 子供は無知でも仕方がない。成長に伴って、自分にとってどうかという判断をその場その場でしていって、その積み重ねで、人間像ができていくんだしさ。各人、情報の質も量も違うから百人百様の像が出来る。その意味では、情報が民主主義になって、全部等価になっている。それはネットと同じ、全部等価の社会、平準化社会になっている。それがクリエイティビティの水源に深刻な打撃を与えることに、いずれなるだろう。しかし私は、この五年、十年では影響がないと思う。五年、十年の場合は、日本の場合はアメリカと違って、資本主義がまだアメリカに比べれば甘いから、このビジネスが儲かればいいというカネ儲けの原理で何とかなると思う。

 金の力というのは、意外とばかにできない、金をつぎ込むと言えば、金をばらまけばみんな来ると思う、取りあえず。しかしそれは三十年たつと駄目だろう。つまり収奪農業と同じで、荒らしちゃうから根絶やしになって、次へ移れない。だけど、三十年は、取りあえず焼き続ければ、次にパイナップルができる。でも、未だそのツケはまわってはいない。だから未だに焼き畑農業をやっている連中がいて、出版界なんかにはほんとにそれが顕著だと思うよ。



●大人になれない子供たち――児童文学

 独り暮らしが可能になったシステムも、一般化したのは団塊の世代からで、その後ずっとベルトコンベアーのように進み続けている。今の若い人だってその上に乗って暮らしているわけだ。それはこの団塊論の大テーマ「そこからターミノロジーは変わっていない」と同じこと。

 「大人=気持ち悪い」を最初に言いだしたのも団塊だよ。それも完全に同じパラダイムで、「Don't trust any one over 30. 大人(三十歳以上)を無条件に信ずるな」。「無条件に」は「信ずる」じゃなくて、「な」の方にかかる。絶対に信じちゃいけない、ということを言いだしたのは団塊で、六七、八年頃か。アメリカから入ってきたスローガンで、ヒッピーなどの系統だ。

 その英語のキーワードが、今に至るまで残っていて、しかも大人というとき、当時は三十以上だった。今はもう変わってきているだろう。今は三十ってまだ子供みたいなものだ。

 その感覚自体もやはり女につながってくると思う。少し違うか。今のところ、違うな。いずれにしても大人を信じちゃいけないと言われて、私はもう全共闘の頃から、そういう考えに違和感を持っていた。私は、子供の頃、大人の方が好きだった。子供であることが嫌で、早く年寄りに見られたかった。

 別に子供に対して、深い思い入れもないが、六○年代後半、今ちょうど版権切れで問題になっている『星の王子さま』辺りとの絡みで、よく聞く「少年のような瞳、無垢な美しい心」とかが出てきた気がする。サン・テグジュペリをどう評価するかは、フランス文学の中で考えるべき、一つの課題だ。

 サン・テグジュペリを、私は中学時代に読んだ。最初に読んだのは『夜間飛行』(一九三一)、そして『戦う操縦士』(一九四二)で、『星の王子さま』ではない。新潮文庫だった。リリシズムのある格好よさみたいな、詩のような感じで読んでいた。六○、六一年頃の話だ。そのうち同じ人が『星の王子さま』(一九四三)を書いているのを知り、読んだのが大学時代、二十歳か二二の頃。『星の王子さま』は最晩年にアメリカで書かれたが、日本で翻訳されたのは、今版権がどうのこうのって言っているから、そのころだろう。


 当時だと、多少早熟な子供はアルベール・カミュサルトル、そういうのを読む。実存主義が入っているから、ドイツだったらヤスパース哲学書とか。それにあの頃は、ハンガリー実存主義から生まれたルカーチとか、今の学生は読まないが、でも、今もまだ専門家のために本が出ていると思う。そして、とにかくその流れの中で読むわけだ。新潮文庫の目録などでフランス文学のくくりに目を通し、現代作家として読むべくして読んだんだよ。

 しかし日本で『星の王子さま』は、作者のある一部門が異様に肥大した、別の読まれ方で定着してしまった。サン・テグジュペリの異色作とは言えないし、実際『星の王子さま』の中にも「子供のような心が」とか「人はみんな最初少年だった」というような文句はあるが、その部分だけが、拡大されて読まれている。児童文学の作家とさえ思われている。

 児童文学には、戦前戦後を通して、また別の流れがある。日本の場合、生活綴り方運動があって、自分の足元を見つめ直しましょうという、自然主義的な発想がある。その後、『にあんちゃん』(安本末子)などの系統に流れていくが、あれは、児童文学ともまた違う。明治末から大正以来の、たとえば小川未明とか「赤い鳥」の、そっちが伏流水になって上がってきた。子供の童心主義が曲折を経て、そこにつながる。


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 赤い鳥でも先頭を切ってやった人たちは、それなりの覚悟があった。つまり当時は、それこそ徒弟制度で、子供は十五、六になれば職人になるような日常に、突然夢みたいな話が出てきて、「子供はいつも夢を見ながら生きている」、「無垢な犬の中に生命がある」という本が出る。しかし実社会は、犬殺しもいて、犬の生命は飯のタネでもある。それを「すべてのものに小さな慈しみを持って」と、金子みすゞ(詩人/一九○三│一九三三)のような作家が声を上げる。金子みすゞを、みんな今になって素晴らしいと言うが、実際若くして自殺しているわけで、原因はほかにあるのだが、つまり辛いのだ。彼女も先頭切ってやって来たのだし。それを「金子みすゞの本を読んで癒やされました」ではない。癒やしている方は、それは百倍辛い。

 児童文学は、戦後また変な伸び方をして松谷みよ子(一九二六年)の民話運動などに絡んだりもするが、とにかくここで、いわば子供・少年純粋主義が生まれてくる。生まれてきて、しかも強調され、増大する。それが、あの頃のヒッピー文化、また団塊文学になって、たとえば「戦争を知らない子どもたち」という歌ができる。みんな大合唱していたが、私は、あんな屈辱的な歌はないと苦々しく思っていた。

 だいたい戦争を知らないことが、なぜ偉いのか? 自慢になるのか? 自分で戦争を知り、敵を憎んで殺すか、または軍人に対して平和を唱えるか、この二つしか選択肢はないはずだ、それでこそ大人だと思っていたから「戦争と戦いました」、あるいは「戦争に行きました」は、これはどちらも自慢になる。しかし「知らない」ということが自慢になるか。しかも「僕らは子どもたちだ」って、当時二十七、八歳で、恥ずかしくないのかと思っていた。

 彼らは「きれいな子供」と「汚れた大人」という線を引き、自分たちを子供の側に置いたわけだ。しかし私は、大人が正しいと思った。

 当時、野坂昭如も、フォークの歌詞はひどいと怒っていたが、野坂は、焼夷弾が落ちてくる中を逃げまどい、妹の持っていたお菓子を取り上げて、それで餓死させたという状況まで知っているから「何が子どもたちだよ、知らないって何だ、それですむのか」はあるだろう。