マルゼンスキー、が死んだ

 マルゼンスキーが死んだ。心臓マヒだったそうだ。二六歳。馬としては長生きの方だ。

 このマルゼンスキー、七〇年代始めに生きた馬の輸入が自由化された後、おっかさんの腹に入ってやってきた「持ち込み」の「外車」だった。今の中央競馬の基準だとこれは「マル外」(外国産馬)にならないからダービーにも出走できるのだが、当時はまだダメだった。だからダービーの前、馬主の橋本善吉さんが「とにかく馬券に関係なしで、大外枠でいいから一緒に走らせてくれ、それでも勝ってみせる」と競馬会に嘆願したという“伝説”が残っている。*1

 生涯成績は八戦八勝。脚部不安で四歳で引退したが、とにかく当時の日本のサラブレッドに比べるとスピードがケタ違い。また、その子供たちもよく走った。ホリスキースズカコバンサクラチヨノオー……昨今の良血ラッシュの中でもなお踏ん張っている彼の一族は、もう立派に「日本の血」になっている。

 実はこのマルゼンスキー、アラブの種牡馬としても人気があった。彼の血のかかったアラブなんて地方競馬じゃ掟破りの飛び道具。タネ付け料の関係からかさすがに頭数は少なかったけれども、どれも父親譲りの快速ぶりを見せつけていた。アラブ競馬で食ってるような小さな競馬場の厩舎にとっちゃ、そりゃもうヨダレの出るような“金のなる木”。いや、サラブレッドにしたところで、たとえ中央未出走の故障持ちでも、マルゼンスキーの子供が厩舎に入ったというだけでみんなぞろぞろ見にやって来たほどだった。

 そう、馬で生きる人たちの世間で「マルゼンスキー」ってのはある時期、それくらい特別な名前だった。種牡馬として次々輸入されるブランドものの名馬と違い、「外国」のそのとてつもない「強さ」を競馬場で誰もがその眼で実際に思い知った、その「モノの違い」の記憶がきっちり焼き付けてある名前だった。

 だが、最近の急激な規制緩和外国産馬が珍しくもなくなった今、かつて「外車」というもの言いに込められていたこんな感覚も薄くなった。「マルゼンスキー」という響きがそれだけ特別なものだった時代など、もうずっと遠い昔のことのようだ。

 けれども、確固とした理念も目算もないまま「国際化」へと暴走し、国内の馬産農家を圧迫し続ける今の中央競馬会のやり口は、どんなにきれいごとを並べようと本質的に文化破壊であり、日本の馬産の歴史を侮辱するものだ、と頑固に言い続ける僕には、彼の駆けていた頃の、不器用だけど妙に一途なあの“ニッポン競馬”が無性になつかしい。 と言っていたら、九九歳の長老、大久保房松元調教師も亡くなったという知らせが入った。ああ、戦前からの日本の競馬、日本の馬産の歴史と伝統をその身で支えてきた人たちもまたこうしてどんどんこの世からおさらばしてゆく。ダビスタで競馬を覚えた若い衆が金切り声あげて騒ぐ競馬場で、なけなしの小さな歴史は〈いま・ここ〉から放り出されたままだ。