歳をとって大人になるにつれて、自分以外の人間がふだんどういう暮らし方をして、どうすごしているのか、日常生活での立ち居振る舞いについて具体的に目の当たりに確かめる機会がなくなってくるものらしい。いまさら何を、でしょうが、実質無職隠居の日々になると、そんなこともまたあらためて気になり始めるもののようで。
子どものうちなら、学校で一緒に過ごしたあと、帰りに友達の家に上がり込んで遊ぶこともありましたし、学生時代も意味なく「つるんで」一緒にいる仲間うちというのは必ずあった。メシの喰い方やタバコの吸い方、歩き方や表情の変化、女の子に対するからかい方や、ちょっとした口の利き方など、そいつ個人にまつわるそういう癖や習い性などを介して、どういう奴かを見知りながら見極めてゆくものでしたし、またそれらの過程をひっくるめての関係を積み重ねてゆくことが、自分以外の人間と「つきあう」ということでもありました。
けれども、世に出て大人になるというのは味気ないもので、たとえば仕事でそれなりの時間一緒にいても、子どもの頃や学生時代のように「つきあう」ことはできなくなっている。単に共有する時間の多寡でもない。仮に出張などで日をまたいで共にいることがあっても、宿が昔のように相部屋ということもまずなく、それぞれ個室。食事も下手したらコンビニで好きなものを買ってそれぞれに、になっていて、一緒にメシでも、と誘ってみたところで、年下や部下だといまどきのこと、ひとつ間違うとハラスメントにされかねない。いずれ至近距離で具体的に「つきあう」ことで見えてくる人となりや育ちの良し悪しなど、その人自身にまつわるそういう「個人」のたたずまいを身近な距離でまるごと見知ってゆくような機会は、公私共に、われわれの日常から少なくなっているようです。
ということは、生身の人間、個体としての個人に対する読解力もまた、鍛えられる機会がなくなっているわけで、そういう能力もまた、同じく衰えていると考えていいのかもしれない。「接客」や「営業」といった、生身の人間相手の局面が否応なく必須になってくる仕事はどんどん拡がっていても、昨今はそれすらリモート機器を使う環境が整備されて間接的にもなってきていて、またコロナ禍でその傾向が加速され、そんなこんなでマイクとスピーカー、映像モニター類の組み合わせで提供される相手のたたずまいを分解された「情報」の束として読解してゆく、そんな能力は高められてきている可能性。
たとえば、コールセンターの仕事に従事する人がたの話など聞いていると、耳からの音声のやりとりだけで相手の性格や人となり、生活背景などまである程度推測できるようになってきている由。もちろん、それに対応するこちら側にはマニュアル化されたもの言いがきっちりあって、それに従って対応するわけですが、その際も相手を不必要に刺激しない、つまり感情をうっかり波立たせることのないような声やもの言い、しゃべり方などに制御するよう、仕事として訓練されているらしい。なるほど、ハラスメントだのクレーマーだのとカタカナ表記で表現される昨今の対人関係がらみの問題にしても、生身の人間そのものに対する読解力というよりも「情報」の束を現実の側に投映して理解する、そしてその理解に対してこちらも「情報」を上演的に出力してゆく――これまでの「つきあう」が涵養していたものとは違うそんな能力が、すでに現役世代の若い衆たちを中心に実装され始めているのかもしれません。
それはそれ、適応のひとつのありようかもしれませんが、気になるのは、これが異性同士でも同じことなのかどうか。何も恋愛どうこうでなくても、性の異なる個体同士の「つきあう」場合には、対人読解力にまた独特の調整というか匙加減も必要なのが当たり前だったと思うのですが、そのあたりの機微や知恵もまた、同じようにフラットに「情報」の束ベースの読解力介した「つきあい」に取り込まれて忘れられてゆきつつあるのだとしたら、晩婚化や少子化、おひとり様問題などもまた、その場そのぎな場当たり小手先の対策でどうこうなるものではなさそうです。