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「さうだ。私達は、酒を呑むといふと、肩を怒らせものをぶッ叩きつゝ放歌高吟した高等學校時分の習慣を、再び完全に取りもどした。左翼思想に熱中すると共に、私どもの間には飲酒高吟の風が廢れ、そのかはり、眼にものを言はせたり耳語したりすることが流行した。そして私達が思想から離れて行くとともに、また復活したのだ。――「漢の高宗も秀吉も天下とらなきァ、ただの人」。この歌が、わけても、菊坂の酒宴で愛され、よくうたはれた。(…)ベロンベロンになると歌ひ、歌ひつつ女を賣つてゐる街へ押しかけた。」(高見順「菊坂ルムペン會」『描写のうしろに寝てゐられない』所収、信正社、1938年、p.251~2) *1
旧制高校の絵に描いたような等質な日常。寮生活も自明に組み込まれ、もちろん男だけのホモソーシャルかつミソジニーな空間での、常住坐臥共にする共同生活。ある意味軍隊であり工場の寄宿舎であり、あるいはまた、それらの下地としてはムラの若衆宿や娘宿での体験なども大きく見ればあったのでしょうが、しかし、当時の高等教育までたどりつくような者たちにとってそれはひとまず距離ある他人ごと、出身地の「故郷」の間尺を越えた規模での母集団から抽出され、学力という一枚岩なものさしで選抜された「群を抜く」存在、まさに選良つまりエリートとしての自尊心やプライドでふくらんだ自意識を抱えた、でも生身としてはまごうかたない若い衆でしかないような個体が集められた場所ではあったはず。そのような「関係」と「場」において「うた」はあたりまえに、そして酒と共にもたらされる昂揚、興奮と共に宿ってしまうものではありました。
ただ、それは「ひとり」ではなく、その場の「みんな」と共に蛮声張り上げうたうものでした。「合唱」と言ってしまえば、なるほどそうではある。でも、それは学校の教科としての音楽の間尺でのそれとも違う、むしろ制御の効かない絶叫や雄叫び、何らか戦いに赴く際のウォー・クライの類にも近い熱狂ごかしな状態にある集団での表現で、同じ気持ち同じ気分を「関係」と「場」において共有しながら初めて現前するようなものでした。
思えば、短歌や俳句の朗詠でも、あるいは漢詩漢文脈での詩吟でもいい、それらは概ね個人で「ひとり」でうたわれるものでした。同じ歌なり作品なりを「合唱」のようにみんなであわせて声にしてゆくことがあったとしたら、プロの僧侶の集団での読経などを別にすれば、日常においては、たとえば御詠歌や念仏のような形になった。
昨今ではそのように酒を呑む席で歌をうたう、それもカラオケのような「ひとり」で歌ってみせる「独唱」ではなくみんなで、それこそ高歌放吟、大声で叫ぶように共にうたう、そういう生活習慣自体、もう廃れて久しいようです。あるとすれば、そう、学校の校歌やそれこそ君が代の「斉唱」くらい。とは言え、あれはもともとユニゾンの訳語で、パート別になり、時にハーモニーをも伴う「合唱」、つまりコーラスとの違いを明確にするための語彙でもあったらしく、いずれにせよ西洋音楽由来、学校の教科としての音楽の間尺で規定されるものでしたから、酒も伴うような日常ならざる興奮、それこそ「ハレ」の場における共同性に裏打ちされた「場」に宿る何ものかの表現としての「うた」とは違うものだったでしょう。あるいは、これもまた昨今すっかりされなくなったあの万歳三唱などが、「みんな」で蛮声あげる、その高揚感も含めてのかろうじての残映なのかもしれません。
ともあれ、ここで注目しておきたいのは、「左翼思想に熱中すると共に、私どもの間には飲酒高吟の風が廢れ、そのかはり、眼にものを言はせたり耳語したりすることが流行した」という部分です。
高見順の経歴からすると大正末年から昭和初年にかけて、まさにマルキシズムの昂揚が当時の学生界隈にも熱く伝わり始めた時期ですが、それら思想沙汰に「かぶれる」ようになるにつれ、それまであたりまえにやっていた旧制高校生的な身ぶりとしての蛮声張り上げての高歌放吟をしなくなっていったというあたり、その思想沙汰が「ひとり」のものであり、その限りでまさに「内面」に内攻してゆかざるを得ないものだったことの表現に、奇しくもなっている。
活字の書物を「読む」ことによって構築されてゆくそのような「内面」というのは、彼ら当時の選良予備軍にとってはすでに実装されていたはずですが、マルクス主義的な「左翼」の思想沙汰を介した「内面」のつくられ方は、それともまた少し違うありようを示すものでもあったらしい。このあたりもう少していねいな考察が必要でしょうが、ひとまずこの場で走り書き的に言っておけそうなことは、彼らの日常生活の全ての領域においてそれら思想沙汰が制御の手を伸ばすようになっていたこと、たとえば「実践」という言い方で至高化されはじめていた運動の実務が、フラクションからビラ貼り、街頭連絡から会議、そしてオルグやデモ、といったように四六時中を通して彼らの日常に浸透してゆき、それこそ酒を飲み、高歌放吟するような、当時の旧制高校生として自明の「そういうもの」、言わば「自然」として包摂されていたはずの日常の時空に埋め込まれていた「ハレ」の時間や場が実質存在しない、してはいけないものにまでされていたことでしょう。日常生活全般を覆い尽くしてゆくような一律の、一枚岩な囲い込みをしてゆく思想沙汰。「運動」としてのマルクス主義というのは、活字を介した文字ヅラ字義通りの意味を効率的に摂取することで自意識を鎧いつつ装い、またまわりに向かう何らか衒示的なひけらかしのアイテムとしても使い回される「意匠としての思想」になっていたというだけでなく、それらを持ち回る生身の共同性においても、それまでと異なる不連続を知らぬ間に身の裡にうっかり刻みこんでしまうものだったようです。
「眼にものを言はせる」「耳語する」というのは、言葉にせずに眼つき顔つき表情を介して意思疎通しようとしたり、まわりに聞こえないようにひそひそ声で耳打ちすることですが、言うまでもなくそれらはその「場」に開かれた言葉のやりとりの作法ではなく、ある限られた「関係」においてのみ流通することを意識したやり方でしょう。それが日常生活全般を覆ってゆく意思疎通のありようにまでなってゆけば、その限られた「関係」とその上に限定的にあらわれる「場」においてしか「内面」もまた輪郭を整えられないままになる。当然、それに応じて感情や感覚の領域もまた、ある抑圧がかかった状態が日常化してゆくのでしょうから、「うた」に託した解放感などはあらかじめあってはならないものにもなってゆく。
ところが、弾圧されたり検挙されたり、何らか外部からの力が日常に加わってそれら「運動」の「関係」や「場」から離れてゆくことになるにつれて、また「うた」は戻ってきます。蛮声はりあげての高歌放吟、それも共に一緒に歌うというスタイルが、ひとまず自然に回復されてきたらしい。
最初は時代の空気、まわりの流れのおもむくまま、あまり深く思想沙汰として自分ごとにもしきれぬままにそれら「運動」に関わっていたところのあった高見順が、検挙・拘留されて「転向」表明したことで釈放、投獄されることなくやりすごすことができたその経緯は当時からすでに韜晦まじりにその作品などに、戦後はより大上段に構えた「文壇史」的な視点からの自省を含めた一連の仕事にまでさまざまに反映されていったわけですが、この「菊坂ルムペン會」は、彼ら当時の旧制高校生の仲間意識の共同性が、同時代的な流れとしてのそれら「運動」へ収斂せざるを得なかった思想沙汰とそれぞれつきあうことでどのように変化し、またその後大学生活を経て社会に出てからの世渡りも含めた個々の「個人」のありように影を落としてゆくものだったか、その経緯を当時の都会派的な、おそらくは商業媒体にあわせた軽い調子の「ユーモア」含みの文体――「饒舌体」などとも呼ばれていたようですが、そのような体裁で淡々と描いてくれている分、悪い意味での「文学」的な内攻や過度の沈潜といった、かつて橋川文三が言ったような意味での「「私小説」に典型化された意識の形」(「「戦争体験」論の意味」1959年)が表に出ていないので、自明の「そういうもの」という意味での「自然」としての日常のありようを探ろうとする場合、〈いま・ここ〉からの「読み」を介した細部への合焦がしやすくなっている印象です。
「三年ほど前のルムペン會創始の当時は、春日町電停前、「壱圓均一」で名のある牛肉店に於いて開かれたものであるが、漸く出世して各所の料亭で持たれるに至った。」
すでに社会人となり、語り手である主人公は「少壮有為な國文學講師」、他もそれぞれ「某大新聞社の外報部記者」「某生命保険會社」「理化學研究所員」「三井鑛山社員」「農林省米穀局米政課の役人」「△△病院耳鼻咽喉科の科長次席」となったかつての旧制高校から大学にかけての友人たちが、往時は「親分」と呼ばれ「高等學校端艇部のマネージャー」で「どこの學校でも見られる豪傑的名物男の随一と仰がれ」ていた仲間のひとりの「見るに見られぬ窮状を、みんなして救援したい」という趣旨で、かつて「ルムペン會」と自嘲も含めて自称していた仲間の集まりを、再び企てるという話。
「アンコー」とも呼ばれていた、まずは明治以来のバンカラ的気風の、当時としてはおそらくいささか時代錯誤な残存物のような「親分」の彼が、「高等學校卒業前後に、その所謂豪傑的な邁進性でモリモリと左翼思想のなかにはいつて行き、大學になると新人會解散前後には既に錚々たるメムバーの一人」になったことで、「運動」の実践に埋没して地下に潜ることになった。同じように旧制高校から大学にかけての「そういうもの」としての日常を安穏に生きていた中から、そのような者が出たことで、「實行運動に飛び込めない意氣地無しの俺のやうなルムペン」といった自意識を共有する「デカダン的空氣」で同病相憐れむ的につるんでつながっていた彼らの「友情」に微妙な亀裂が入る。大学を卒業しても「彼は私どもがいづれも百圓内外の給料を取ってそれぞれ幸な家庭生活を營んでゐるなかで、一日五十銭から壱圓どまりの筆耕稼ぎである。」「運動凋落の現在となつてみると、情熱に驅られ危く深入りするところだつたのを、うまく自分をおさへてよかつたと、お互にお互の要領のよさを頷き合ひ、今日の安泰を祝福し合ふ風」にしかならない。結果、「アンコー」こと、かつての「親分」は、おそらく転向せぬまま胸を病み、痩せ衰えた姿を復活したルムペン會にあらわしたものの、その後二度と参加せず、仲間が集めた救援資金の受け取りも拒絶したまま縊死してしまう。
作中、その仲間意識をあらわす語彙として「友情」が何度も出てくるのですが、それは旧制高校から大学まで、当時の高等教育のたてつけで初めて何か実感を伴う内実を持つものだったはずです。そして、「そういうもの」として自明に担保されていた日常が、思想沙汰経由の「運動」が浸透し介在してくることによってもたらされた不可逆な変貌と無関係ではいられない。共に高歌放吟し、うたうことから、「眼にものを言はせる」「耳語する」へと「関係」と「場」を紡いでゆく仕組みが変わってゆき、それまでと異なる「内面」と「自分」がうっかりつくられてしまった以上、「運動」含めた思想沙汰から距離を置いて高歌放吟の習い性を取り戻し、その場の昂揚や興奮は戻ってきたとしても、その共同性にかつてのようなまるごとは戻ってこない。たとえ、「ベロンベロンになると歌ひ、歌ひつつ女を賣つてゐる街へ押しかけ」ることまで、往時の「そういうもの」のままなぞってみたとしても。
「うた」というもの、それがどんなありようであれ、ひとり吟じられたり上演されたりするものでもなく、共に歌われるものであった限りではなおのこと、そのまるごとの〈いま・ここ〉を編制している「関係」と「場」、そして共同性が背後にあって現前化するものでした。そして、それは酒を介した昂揚や興奮が、おそらくは最もわかりやすく、かつ手軽なトリガーとなっていた。さらに、それらの昂揚や興奮に支えられた共同性によって初めて、また「女」にも向かってゆけるものだったらしい。生身を伴ってこの世を生きているわれわれの「自分」とは、その程度に「個人」でも「ひとり」でもなく、どこかで必ずそのように「関係」と「場」を介した共同性に――別の言い方をすれば「みんな」に向かって開かれた回路を常に背後に引きずりながら、ようやくかろうじてその輪郭を維持してゆけるもののようです。その頃も、そして今もおそらくそうは変わらず。
「「歴史」とは常に現在の立場から語り直すしかないものです。だからこそ、現在の立場からだけ断罪してはいけない。そのためには、「歴史」の中に介在しているはずのさまざまな日常の感覚や文字に残らない印象といったものに対して謙虚になる必要がある。」(拙稿「「歴史」の回復のために」、1997年)
誰もがあたりまえに見聞きし、体験している日常。まさに〈いま・ここ〉と、自分などでさえ柄にもなく敢えて〈 〉つきで表記して、ことさら意識化するようにもしている、ことばによって意味づけて取扱い可能なものにしてゆく手続きからは常に逃げていってしまう厄介な領域。しょせん、たかだか個体の個人がひとりことばによって分節した断片経由でたまさか認識できるようなものでもなく、それらを野放図に超えたところにあるはずの、いわば総体としてのまるごとの現実の水準。それは誰にとっても等しくあたりまえにあったがゆえに、普通に暮らしている限りは敢えてことばにし意識的に対象化して認識してゆく必要などまったく感じないもの、つまり「そういうもの」という自明の相において常にきれいに穏やかに収納され、日々変わらず安定し、持続してそこにあり続けているようなもの。「うた」もまたそこに必ず足つけて現前するものであったような、われわれの生身の身体が宰領する領分とも不即不離なありようで。
それはどうやら、本邦われら日本人同胞の意識や感覚に根深く横たわってきたとされる「自然」に対するものの見方や感じ方とも地続きのものだったらしい。山川草木、花鳥風月と漢語四文字にもくくられ、収納されてしまうことにもそれほど違和感を持たないですんでいたような、その程度にあたりまえの「そういうもの」としてあり続けていた身の回りの風景。「そういうもの」として自明の相に常にあり続けている日常。
「うた」というのも、まさにそのような日常の「そういうもの」の裡に常にひそんでいる何ものか、が、ふとしたきっかけでうっかり現前してしまう、そんなあらわれのひとつのようです。
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