「気分」と「選挙」の関係、その現在

 このところ、「選挙」が立て続けに行なわれているなぁ、という印象があります。

 夏の東京都知事選や自民党の総裁選、衆議員総選挙から、県議会全員一致の不信任案可決からの兵庫県知事選。なにせ国や地域、社会の行末を左右する大事な催しですから、新聞やテレビなどで日々大きく取り上げられる。だからそれだけ強くこちらの意識に刷り込まれるわけですが、と同時に、それだけ注目を集めるコンテンツに「選挙」がなっていて、広告媒体としての商業メディアとしては、いわば見世物や芸能、興行ものとして取り上げざるを得なくなっているという面もあるようです。

 政治とは芸能でもある、というのは、自分の年来の持論のひとつ。なるほど、そういう意味で、選挙はまさにその現実をわかりやすく見せてくれる檜舞台。「民主主義」という大文字のタテマエを良くも悪くもこの上なくわかりやすく眼に見えるかたちにしてくれる絶好の機会であり、またそれによってわれわれの生きるこの社会、世間の気分を、うっかりと思い知らされてしまう人気投票に等しいものにもなっています。

 そもそも、しょせん政治なんて何か思惑や具体的な利害があって動くもの、議員さんなんてのも役所や警察、税務署など、いずれややこしい方面のからんでくるような厄介ごとを解決してもらう時に働いてもらえばそれでいい、そんなむくつけな損得勘定が世間にはありました。世のため人のため、と言われながら、地元の選挙区最優先、関わる業界や商売のため、わかりやすい具体的な損得のためにおのが一票を行使する、時にはそれをとりまとめて圧力もかけて利益誘導させるもの、というのが、良くも悪くもわれらその他おおぜいにとっての「政治」理解。ひとりひとりの「個人」それぞれの考えと判断で「清き一票」を投じるのが「民主主義」なのだ、と表では言われつつ、実際はその裏で「衆を恃んで」なにごとか自分たちにトクのあるように動かしてゆく――「民主主義」というのもそんなものとして認識されていたところがありました。

 けれども、中選挙区から小選挙区へ、また比例代表制などという新たな仕組みも併せて「選挙」に採用されてきて以降、そのような「民主主義」の体現のされ方もまた、それまでと違う様相を示してきた。選挙区という地元のありようそのものもぼやけてきて、具体的な利害だけでまとまれるようなものでもなくなっている。議員や政党の「後援会」や「支持団体」にしても、眼に見える組織や団体が背後にあるという形が崩れてきて、どんな界隈のどういう利害がからんでいるのか、よく見えなくなっています。事実、共産党公明党といった、組織と共に盤石と言われてきた政党の退潮が、このところの選挙でははっきりと、おそらくは不可逆的に可視化されてきています。

 「選挙」によって表現された「民意」というのも、結局は実際に一票を行使した限りにおいてのもの。投票に行かず「選挙」に関わらなかった「民意」は、常に表沙汰になることがないままです。その〈それ以外〉の「民意」は、それこそ「声なき声」として現実の政治の過程からは疎外されるしかないわけですが、ただ、昨今のように既存のマスメディアだけでなく、各種SNSその他web環境を介した〈それ以外〉のメディアが日常的にさまざまに張りめぐらされるようになった情報環境では、投票率に反映されなかった、気分としての「声なき声」というのも、実際に表現された選挙結果と全く無関係のまま疎外されっ放しというわけでもない。その程度に、表現されざる気分もまた、「選挙」を介したいまどきの「政治」の表現に陰に陽に関わってこざるを得なくなっている。このところ立て続けに行われた選挙で、既存のマスコミの選挙報道や結果についての予測などが、蓋を開けてみれば全くアテにならないものだったことが立て続けに起こり始めているというのは、実にそういう事態なのだと思います。

 「「気分」はすでにある部分でのわれわれの現実なのだ。少なくとも、その「気分」を新しい常識を作ってゆこうとする時の重要な素材として繰り込んでゆく穏当な手立てをどこかで講じようとしなければ、われわれの社会もまたたかだかその程度のものでしかないことになる。

 28年前、『東京新聞』に書いた記事の一部。「気分」が単なる〈それ以外〉のままではないことを、実際の「政治」の表現に思い知らせることができるような環境が整えられるのにも、やはりそれくらいの時間は必要だったようです。