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「『大衆文藝』とは人間の娯楽を取扱ふ文学ではない、人間の娯楽として取扱はれる文学である。文学を娯楽の一形式と仕様と企画するなら、今日の如く直接な生理的娯楽の充満する世に、人間感情を一たん文学に回収して後、文字によつて人間感情の錯覚を起させんとするが如き方法は、最も拙劣だ。而も今日『大衆文藝』が繫栄する所以は、人々は如何にしても文学的錯覚から離れ得ぬ事を語るものである。」
小林秀雄、昭和4年は1929年の有名なデヴュー作「様々なる意匠」の中の、でもこれはそれほど表だって言及もされてきていない一節。それはそうでしょう、かなり長い論文のその最後の最後に何か申し訳のように付け加えられたようなものでしたから。
その前段で延々と展開されていたのは、ご存知マルクス主義経由の社会主義リアリズムに拠ったプロレタリア文学的なるものと、本邦流外来自然主義解釈のなれの果てとも言える私小説に代表されるような芸術市場主義な既存の文学潮流を、えいやっとばかりに同じ俎板に乗せて等価かつ等距離に裁断してみせ、さらに返す刀で当時あらわになり始めた大衆社会化の流れに対応した新しい文学的潮流でもあった新感覚派なども同じくあっさり相対化、そのあとにようやく「これに凡そ反對な方向をもつと少くとも私に思はれるものは「大衆文藝」といふものである」という前置きに引き続いてつけ加えられた形になっている。
ちなみにこの論文、はるか後年昭和末期の1980年代的な価値相対主義、当時「ポスト・モダン」などと称してもてはやされてもいた同時代気分の背後に伏流していたものとの思わぬ通底の可能性、といった視点から読み直してみると、いろいろとまだいいダシが新たにとれそうな素材のようにも以前から感じているのですが、それはまた別のお題として、ここはひとまずこの「娯楽」としての「大衆文芸」という見方が当時、どのような内実を抱えていたか、というあたりからです。
当時の一般の感覚として、この「娯楽」という一語に込められていたのは、以前にも触れたように、そもそも文学などとは縁のない、卑俗で権威も格式もなく日々のとりとめない生身の感覚と不即不離な、いわば身体性の下半身のごとき領域である、といった軽侮した意味あいでした。だから、この「人間の娯楽として取扱はれる」「文学を娯楽の一形式と仕様と企画する」ことをこのように逆説的な仮説としてでも設定することは、相当に思い切った印象を同時代の読み手に与えたでしょう。たとえ、ここでの文脈では、文字を媒介とした表現である文学は大衆の娯楽としてはあまり有利なコンテンツにならない、という、おそらくは映画やラジオ、レコードなどの新興のマス・メディアの隆盛と、それらを介して大きな変貌を目の当たりにしていた当時の大衆社会化があらわになってきた世相を念頭に置いた行論であったとしても。
「「娯楽」というもの言いも、そのような局面において初めて、それまでの「慰安」とも「趣味」「道楽」とも違う、まさに新たなその他おおぜいとして前景化してきたマスとしての「大衆」を主体とした消費行動としてあらわれる眼前の世相風俗に対する分析的な作業に寄与する記述の枠組みという脈絡で、あらためて意識されるようになったようです。「余暇」などというもの言いも同じ頃、同様の経緯で新たに使われるようになっていますし、また、「盛り場」という問いも、それまでのような世相風俗的な興味関心、あるいは都市計画や建築といった俯瞰的で大文字の水準の視線からの把握とは少し異なる、いわば個別具体の生身の人間の「日常」「生活」の側の微視的な文脈から、新たな視線を向けられるようになってゆきます。」(拙稿「「娯楽」と「ジャーナリズム」の関係、その他」、本誌2023年7月号)
文学だけではない、芸術や各種の学術研究、いわゆる学問などにしても、その頃までの一般的な見方では「娯楽」とは関係ないもの、という認識だったでしょうし、そのように考えることすらあり得ないほどに、それらの枠組みは自明で「そういうもの」と化してはいたようです、少なくともそれら予備軍含めた知識人の世間においては。
それは、「娯楽」が、文字/活字ベースの知的な言語空間からすれば〈それ以外〉の領分にあるものであり、と同時にまた、日常的な生身の身体性から疎外されていたそれら言語空間の「そういうもの」からすれば意識されざる部分に常に追いやられたままの、ゆえにその分うっかりと自由で放埒で、制御の効かない剣呑な蠢き方にもつながり得るようなもの、ということでもありました。つまり、ここでしぶとくこだわってきているような意味における「うた」にとっては、それが期せずして宿り得るような初発の場所として。
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戦前以来の本邦の高等教育が「哲学」、少なくとも現在とはすでに相当に違う意味になってしまっているそれを基礎的教養の柱として扱ってきたことが、その後、戦後の新制高校や大学教育にまでさまざまに揺曳していました。それは活字ベースの「読書」を介した情報の摂取を自明に前提としていたわけですが、そこで読まれるべきものは複数の外国語教育――思えば、「第二外国語」という言い方ももう過去のものになりましたが、それらを必修として外国語の「原書」から直接に、ということを第一義にしながらさらに「翻訳」をくぐった日本語の文体を経由して次々と生産されていった同様の情報環境で知的形成した同胞たちによる「解釈」が二次的に加えられた結果までも広く含み込んでの、いずれ当時の日本語を母語とする言語空間における知的な上澄みとしての文字/活字ベースの素材とそれに対応したリテラシーによる「読む」の対象になっていました。
批評や評論、それらの上での議論や対話、互いの意見のやりとりにしても、それらの情報環境を共有する者たちの半径で「そういうもの」化していた語彙や話法での、しかも主として書き言葉の語彙や文体を介してなされるものでした。それは現実的には話し言葉での対話や議論といった作法も介して複合的にしつらえられていた言語空間であったとはいえ、それでもその同じ彼らの日常に即した、より直截で身体的な話し言葉の共同性、生身を介したことばのありようとは良くも悪くも乖離していたものだったようです。そのように知的なたてつけにおいて議論し、対話する際の輪郭確かに整えられたことばと、それ以外のごく日常的な関係や場においてゆるく開かれたことばとの乖離。当人たちがそれをどこまで意識し、自覚していたかどうかとは別に、そのような二重の言語空間を同じひとりの生身の裡に抱え込み、場に応じて的確かつソツなく使い分ける技術を実践的に身につけてゆくことが、その頃の知識人予備軍にとっては最初のレッスンのひとつになっていたらしい。
そのような二重の言語空間において、「うた」は知的な対話や議論の作法の側には、そのものとしては宿りにくいものでした。それは前回触れた高見順の挿話に即して言えば、蛮声をあげ共に高歌放吟する身体と、声をひそめて耳語しあう身体との間の乖離に対応していました。前者の側に「うた」が明示的に、身体的になめらかに無意識のうちに現前できていたとすれば、後者の側の「うた」は生身の身体の内側にくぐもらされたまま別の回路を求めてゆかざるを得ないような硬直や鬱屈と共に暗示的にとどこおっていたようです。
そのように考えれば、ひとまず行儀よく守られ、言葉遣いはもとよりそれに伴う生身の立ち居振る舞いまで含めて制御されるべきものとされていた知的な言語空間において、文字や活字を介しての批判や論難の応酬が往々にしてヒートアップし、さまざまに飛び火して拡がってゆくという、同人誌や雑誌といった小さなメディアからある種の商業媒体まで含めてあちこちで生起、連鎖していった「議論」「論争」の過程というのも、そのような意味では、硬直や鬱屈と共にくぐもりとどこおっていた「うた」へと向かうべき生身の裡のある種の熱がはけ口を求めていった結果という部分があったのではないか。紙媒体の文字を介してやりとりしてゆくうちにどんどん過激化し、そのあげくの果てには時にうっかり勃発もしていた肉体的な殴り合いや喧嘩、乱闘といった暴力沙汰にしても、日常的な位相における「うた」の衝動の発露としての蛮声や高歌放吟へと向かうべき熱が、同じ生身が当時生きて抱え込んでいたもうひとつの異なる言語空間と何らか連絡のついたことによる現前化だったのかもしれません。
実際、その頃の知識人予備軍としての旧制高校生や大学生、それら若い衆たちにとっては、そのような二重の言語空間を生きることが今日考える以上にあたりまえのことでした。だから、それらのさらに外側にある現実というのも、それら二重の言語空間の内側からしか合焦、認識し得ないものだったようです。寮歌の一節「栄華の巷低く見て」のその「栄華の巷」というのは、選良としてのエリート意識の優越感からする世間のイメージというだけでもなく、その彼らの生きていた言語空間の側からは、たとえ実際に眼に入ってはいても構造的に〈リアル〉の水準で合焦、認識し得ないものとして存在していたらしい。言い換えれば、当時の彼らにとって、世間とその裡に生きるその他おおぜいの人がた、彼らの知的言語の水準での〈リアル〉のたてつけからはあらかじめ裏返しに疎外されていた。だから、同じ生身の人間であっても、自分たちのそのような共同性からは一線を画した別の現実に存在しているものであり、言わばヴァーチャルな実存でしかなかったし、また、そのような距離感を介した別の手ざわりで実感できていたからこそ、それこそヴ・ナロード的な前のめりの正義感、浪漫主義的な昂揚にドライヴされたセツルメント的な寄り添いに至るまで熱と勢いまかせに趣いてしまうような情熱も一方的に、悪く言えばひとりよがりに宿ることができた――どうも概略、そのようなたてつけの内面になっていたようなのです。
「学生は懸命にヨーロッパの書籍を研究し事実またその知性の力で理解している。しかし彼等はその研究から自分たち自身の日本的な自我を肥やすべき何等の結果をも引き出さない。彼等はヨーロッパ的な概念――例えば意志とか自由とか精神とか――を、自分たち自身の生活思惟言語にあって、それらと対応し乃至はそれから食違うものと、区別もしないし比較もしない。即自的に他なるものを対自的に学ぶことをしないのである。(…)二階建の家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そしてヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子は何処にあるのだろうかと疑問に思う。」
唐木順三の「近代日本の思想文化」(1953年)の中で紹介されていた一節、昭和11年に東北大学に招聘され昭和16年にアメリカに脱出するまで教えていたユダヤ系ドイツ人哲学者カール・レーヴィットの言だそうですが、まさにここで的確に言い当てられているような「二階建ての家」のような言語空間が、それぞれ日常生活空間での生身と、知的に仮構された環境での生身とに引き裂かれたまま、それでも〈いま・ここ〉においては単にひとりの生身の個体として統合されることを強いられていたのが、当時の高等教育における知識人予備軍としての学生の身体性含めた〈まるごと〉の実存ではありました。そして、身体的な位相も含めた本来の原初的な「うた」もまた、それら二階建ての言語空間に規定された生身に見合ったありようで、それぞれ一見全く別の現前化を状況に応じてしてしまうものだったようです。
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つまり、文学というのも、そのような二重の言語空間を生き始めていた知識人とその予備軍にあたるような人がたにとってこそ、最も切実なものでした。
その「文学」には、いわゆる小説の類だけでなく、詩や戯曲、そして哲学や思想といった領域に配分されていた翻訳ものから、さらには文字・言語表現以外の絵画や彫刻などの美術に含まれるものから音楽や舞踊などまで、いわゆる芸術一般をゆるく含めても構わなかったでしょう。要は、そのような二重の言語空間があって初めて、ある確かな輪郭と共に、知的な〈リアル〉としてあり得るようなものだった。それらが文字化され活字になって紙媒体として流通するようになり、その市場的開かれ方によってたまさか〈それ以外〉の人がたの眼に触れる機会も広くあり得るようになっても、それらのいわば野生の「読み」、世間一般その他おおぜいの水準でのリテラシーを介したとりとめない解釈の拡がりまでをもその二重の言語空間の内側に連絡させて自分たちの〈リアル〉の裡にうまく反映させてゆくような回路は、理念として、あるいは言葉の上での理屈としてはともかく、現実的な実践としてはかなりか細いものでしかない時期が長く続いたようです。いや、もしかしたらそれは、時代と情報環境の転変に応じてその後さまざまに形を変えながらも、その本質的な構造としては、実は未だに変わっていないままかも知れない。
小林秀雄自身、他の場所、これは座談会ですが、「小林さん、大衆小説は好きぢやありませぬか」と、司会役の記者に振られた際、「読みませぬ、つまらないです」とにべもなく応じたあと、このように続けています。
「今の純文學を讀めば本當に今の世間を書かうと思つて書いて居るからどんなにまづくても、今僕達が生活して居る世間に對していろいろの空想が描けるんです。さういふ文學的イリウジョンをこしらへてくれる點ならば、まづい純文學の作品の方が僕には面白い。大衆小説といふ物は僕にさういふ空想を一寸も呉れないんです。大衆小説はそれを讀んで其の中に入ってその中で樂しまなくちやならぬ、その點がつまらぬ。」
「大衆文學で立派な歴史小説はあるかも知れない。だけれど本當に立派な代表的な現代小説を書いて居る人はない。」
「僕は大衆小説の旅人物とか、侠客物とか、あゝ云ふものは讀者を毒すると思ふなあ。(…)皆んな頭が惡くなると思ふね。(…)侠客ものや現代小説を讀む人は時間潰しに讀むんだからね。」(「文藝復興座談會」『文藝春秋』1933年11月、より抜粋)
何も彼だけではない。たとえば、平野謙などにしても同じようなものだったらしく、こちらは戦後もだいぶたってからのことですが、かつて『新思潮』の同人だった福田清人に「これからの新しい人はプロレタリア文学か大衆文学をめがけなければダメですね」と言ったという昭和5年頃の川端康成の挿話を枕にして、「大衆文学という言葉は、純文学という言葉とおなじように、人それぞれによってそのイメージがちがうだろう」と慎重に前置きしながらも、こう正直に告白しています。
「おお根のところ、私は今日でも吉川英治や源氏鶏太の作品をハイ・ブロウの文学とは認めがたいのである。(…)吉川や源氏が第一級の文学者として通用するのなら、私は文藝批評などというしがない商売は明日からでも廃業したいと思っているくらいだ。今日でも内々そう思っている私が、もし青年時代に川端康成の教訓をきいたなら、即刻座を立ったことだろう。(…)つまり、私は今日でも大衆文学のことを本気では考えにくい尾骶骨を持っている。」(平野謙「昭和文学の意味」『文学・昭和十年前後』所収、文藝春秋、1972年、p.211)
小林秀雄も平野謙も、いわゆる近代文学という枠組みでの「批評」「評論」を仕事とする書き手という意味で「文芸評論家」と認識されてきました。それゆえ、彼らの仕事は小説や詩といった各種の「創作」とはまた別の「評論」という枠に収納され、「文学」というたてつけにおいては一段落ちる、いわば二次創作的なものとして扱われてきたところもありました。けれども、批評や評論もまた「読みもの」であり、ある意味「おはなし」として等価に等価値に読んでしまうようなリテラシーを、本邦の世間一般その他おおぜいはこの一世紀ばかり、遍く実装していった過程もあった。少なくとも「文学」とその周辺に「読む」こと陰に陽に育まれてきたような自意識にとっては、批評や評論文であっても小説や詩と同じように、いわばある種の散文詩として読み、その結果として「うた」へと向かうべき内面の衝動のようなものと期せずして連絡させてゆくような回路を育んでいました。そのような外道で斜め上からの視点から、いわゆる近代文学や思想まわりで縷々繰り広げられてきたさまざまな「論争」の痕跡をもう一度読みなおしてみることで、いまやわれら同胞の大方がその生身の身体性の上半身のごとき領域、あの知的な言語空間の裡に硬直し鬱屈したまま封じ込めてしまっているらしい未だ見えざるもうひとつの「うた」のありようを、眼前の〈いま・ここ〉に忽然と浮上させてゆくことも、またいつの日か、可能になってくるかも知れません。