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前回、「手工業を越えた資本の要求に応じるために半ば無自覚に繰り出されるようになった立川文庫の生産点での書き飛ばし」といった言い方で走り書きしておくしかなかった部分がありました。そこから立ち止まってもう一度、拡げてゆかねばならなかった方向に、示唆しておいた問いをほぐしておきたいと思います。
書き言葉と話し言葉の関係が、同時代の情報環境の変貌とそれを根底で規定している社会と経済のからくりによって、どのように変わっていたのか、という話です。
明治末年から大正初期にかけての、「精神史的時期としての大正時代は日露戦争後の明治三十八年に始まり、関東大震災の生じた大正十二年に終わりを告げる。大正十二年九月以降は精神史的には、そのまま昭和時代と地続きである」(堀切直人)という認識は、娯楽や大衆文化、通俗文芸などの経緯来歴を枠組みとして「むかし」を〈いま・ここ〉に繋いで「わかる」へと抜けてゆくことを志す視点にとって、まず素直に共有し得るものです。それら「大正的なるもの」が時代の表層にはっきりと前景化されてゆく過程での象徴的なあらわれ、言わば結節点のようなものとして、立川文庫の文体が期せずして反映させていた何ものか、があったらしい。
「立川文庫の企画者たちは作者――それも家内手工業的、職人的制作の立場を脱け出すことをせず、また、やがて乱作することによって堕落の道をたどった。立川文庫が売れ出すと、玉秀齊と山田一家には他の出版社、新聞社からの注文が集中し、彼らはそれにも応じたので講談製造は多忙をきわめた。酔神があらすじを立てると、筆者に二十二字詰二十行の原稿用紙三百枚が渡される。それが文庫本一冊の分量で、書きつぶしはそのうち十枚しか認められない。筆者は『武鑑』と『道中地図』を広げ、一日五十枚から七十枚という猛烈なスピードで書きまくる。重さの違うペンじくを何本もならべておいて、とりかえとりかえ書くことで、単調な仕事にわずかに変化を与えたりした。原稿料は一冊十二円(のちに十四円)で、そのうち五円を玉秀齊がとってかれの生活費と経常費にあて、その残りが筆者の収入となった。だから重労働のわりに収入は乏しかった。それに創意や工夫をこらすゆとりがなく、構成も筆調も形式化し、バリエーションにすぎなくなった。」
スピードつまり「速度」を否応なく強いてくるような環境と、それに対応しようとしてゆくことでおそらくは必然的に変容してゆく文体。それらの背後にはもちろん「市場」が、それもそれまで文字表現がむき出しにさらされることのなかったような拡がりと規模を伴いながら、同時代精神の水平線上に姿をあらわし始めていました。経済の水準も含めた情報環境の新たなありようが加速し、唸りをあげつつ、本来は半径身の丈間尺のささやかな、それこそ一銭天ぷらなど細民窮民の露店かそれに近い規模での喰い物商売と同じ、生き延びるための日銭稼ぎと選ぶところのなかったはずのそれら文字を商材とした小商いの生産点をも容赦なく囲繞するようになり、ひいてはそこに生きる生身の人間たちの意識や日常感覚も含めて抗いようのない〈まるごと〉の現実として巻き込んでいった過程。
「立川文庫は一冊二十五銭の定価のうち、制作費は十銭以下だったし、それに重版が多く、印税を支払う習慣がなかったから、その巨利のほどは察しられる。立川はたちまち出版成金になり、後には借家街を建て、別荘二軒を建てたりした。(…)その成功も、野間清治の講談社が「新講談」(創作の書き講談)から「大衆小説」へと雑誌を介して発展させ、出版資本の論理で押し潰してゆく時代の流れに抗うことができず「昭和にはいると、立川文庫の中心人物真田幸村や、文庫が創造した猿飛佐助も講談社版「少年講談全集」「講談全集」に納められ、消化吸収されてしまっているのだ」。(足立巻一「立川文庫の誕生」、『思想の科学』10、中央公論社、1959年)
ほぼ同時代と言っていい時期、高揚し変貌してゆく時代の気分の中に、かたや社会の下層で、かたや前回触れたパンの会のような恵まれた選良の子弟たちのサロンめいた乱痴気騒ぎの中に、およそ同じ社会の中で隣り合わせになりようのない人がたの間にさえ共に感じられていたらしい「速度」と、それを強いてくる情報環境の圧力。その程度に時代は、というか世の中という仕組みは、どのような場所でどのように生きていても、等しく平等に等価に、避けようのない影響を知らず与えてくるものだったようです。


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とは言え、立ち止まってつぶさに眺めてみれば、それら避けようのない同時代の必然の下でもなお、個別具体の生の創意工夫、生き延びるためのなけなしの知恵の出し方の細部もまた、その手技と共に見えてきたりもする。
「彼は、玉田玉秀齋の講談を一々速記したのではなく、一々筆記して行くだけの腕はないから、要約して筆記してしまった。既にここでアレンジ(脚色)というものが出て来る。ここのアレンジですごいのは、速記能力はないからアレンジしちゃったという、そのところ。そして、ここのところで重要なのは、何故そういうものが平気で通用したのかというと、速記にはシロートであった山田親子は、講談というものをよく知っていたということ。(…)「大体のところは分っている」という、その知り方ですね、重要なものは。(…)講談が話されているのを聞いて大体のところは呑みこめてしまうだけの能力(“素養”と言いましょうか)、それがあれば、文章としてまとめ上げることは出来るんですね。そのまとめ上げたものを“速記”と唱えればいい訳で、こうして玉田玉秀齊の一家の中では速記の質というものが変えられて行った。」」(橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』、徳間書店、1986年) *1
速記は、田鎖綱紀以来、いくつかの流儀を含めて明治期の早くから成立していましたし、それが三遊亭円朝以下、落語や講談の「速記本」を生む下地になったことは、その話し言葉由来の文体からいわゆる言文一致体が生まれてくる過程への影響などと共に、すでによく知られています。
実際、立川文庫にしても、先に触れたような量産至上の態勢をとるようになる以前は、それら速記本としての講談本のひとつでした。「速記講談を不純な芸と考え、あくまで高座で張り扇をたたくことを望んでいた」売れない講釈師であり、婚家からの駆け落ち沙汰の片割れでもあった玉田玉鱗(のち玉秀斎)の尻を叩いて速記による講談本を作らせたやり手の女傑、山田敬が、当時の大阪で速記講談業界の牛耳を執っていた一人である山田都一郎を、出奔した婚家に残した娘をあてがうまでして籠絡して、売れる速記本市場に参入させたもの。けれども、その後に成立した立川文庫の生産点においては、その「速記」と称されてきた作業のありようが、それら西欧の速記術を前提に苦心して構築された正統な体系ではなく、もしかしたらそれとはまた別の内実をはらんだ過程としてうっかり現前してしまったものかもしれない――この橋本治の指摘はなにげに重要です。
語られた話しことばを「そのまま」文字に引き写す技術としての速記、というのが一般的な理解でしょうが、ただ、立川文庫の生産点においてはそれがそのまま成り立っていたわけではない。元の講談を語り、演じるのは講釈師の玉秀斎であっても、「速記」を介してその口演を文字に変換してゆく仕組みがそこにそのまま介在していたわけでもなく、もう一段見えないコンバージョン、つまり「脚色」が加えられていた可能性に鋭く合焦、それら文字に変換してゆく際の書き手(たち)の「脚色」があったからこそ、立川文庫の生産点に宿った想像力はそれまでの講談の速記本とは異なる方向、それも予期せぬ効果を伴いつつ「自由」になることが可能だった、そしてそれこそが、立川文庫における「速記」の内実だった、と。
「こうして速記というものは玉田玉秀齊の家の中では“まとめ上げてサッサと納期に間に合うように書くこと”というように変り、講談師というものは、口演するものであるというところから微妙に“監修者”へと変る。(…)講談師が話したことをまとめ上げて、それを講談師が「これでチャンとした講談になっている」と判定した結果が講談本であるならば、講談師が話していなくても、それが講談としてまとめ上げられて講談師がそれを講談だと判断すれば、それもチャンとした講談であるということになる。」
生身の上演による口演であることが芸能としての講談の前提にあり、まただからこそ速記ベースの講談本は、好んで読まれ得る文体を書き言葉の表現として新たに獲得していました。話し言葉をそのまま書き言葉に引き写した、読み手にとっても実際そう思える、感じられるようになっていた文体は、「読む」に際してそれまでの書き言葉と違った生身の親しさ、日々の暮らしの中であたりまえに抱いている水準と地続きの意識や感覚を生起するようになっていた。むろん、それまでの書き言葉を読むことの習熟度の違いによる個人差などはあったでしょうが、それでも時代の赴く先として、速記による講談本の文体が引き出したであろう読み手の側の日常との地続き感は、それまでの「読む」に伴っていた、読み手側の〈いま・ここ〉感覚との距離感や疎外感とは異なる身近さ、親しさを、日々の生身の生きるまるごとのリズムやテンポとも同調しながら喚起してゆきます。
「読む」という行為に、どこか上演や口演といった生身の感覚に根ざした〈まるごと〉の〈いま・ここ〉が流れ込むようになってくる。同じ書き言葉の文字列が、それまでと違う表情で身の裡に浸透してくるようになり、テキストとの新たな相互性が宿り始める。
当時のこと、学校においても音読や朗読を介して「読む」へと誘導してゆくやり方がまだ一般的だったでしょうが、それでも、同じく声に出して文字を読むにしても、教科書と講談本ではその結果、身の裡に起ち上がる感覚の違いがあったはず。学校という空間で教えられる「読む」、書き言葉の文体を介して日常とは異なる身体技法として「教えられる」読み方によって引き出される意識や感覚と、それら講談本の文体を読む際に喚起されただろう日々の実感との地続き感における違いは、そもそもの「読む」行為から遠いところにいた者はもちろん、学校の初等教育段階で刷り込まれるようになっていた書き言葉を「読む」作法が多少なりとも下地にあればなおのこと、より鮮烈で切実な体験として生身の裡に刻まれることになっていたでしょう。


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速記者を身内に取り込むことで、駆け落ち相手である売れない講釈師玉鱗の講談本商売を安定させようとした山田敬の術策は、しかし、速記者に逃げられることで一旦、破綻します。そこで出てきたのが敬の子どものひとりで長男の阿鉄。母親出奔後は郷里の今治から大阪へ出てきて歯科医になっていましたが、もともと「たいへんな空想家で、ホラを吹くのを楽しんだ」「奇人に分類される一種の戯作者」、「郷里では郡役所に勤めながら自由党の政談演説に加わったり」もし、「歴史書、文学書を乱読し、寄席に入りびたった」ような御仁で、速記屋がいなくなったのなら自分たちで書けばいい、と言い出して、自ら「酔神」の号を名乗り、あっさりと速記者に。
この酔神の「速記」というのは、もちろん正規の速記者のそれではなく、おそらく見よう見まね、まさに「一々筆記して行くだけの腕はないから、要約して筆記してしまった」でやってのけたものだったのでしょう。だが、これが彼自身の「脚色」というか、それまでの口演前提の芸能としての講談の約束ごとなど知ったことか、とばかりに持ち前の何でもありの想像力を存分に解き放つことになり、またそれが当時の大阪の講談本市場に受け入れられて結構な人気を博した。すでにして「市場」はそのように、玉田一家が追い詰められた結果、酔神を介して共同的にうっかり現前化させた「おはなし」リテラシーと素直にシンクロする「読み」を共有するようになっていた、ということだったのでしょう。
「上演」を前提にして構築されてきていた速記を介した講談本の文体が、この段階ではすでに複写的に異なる過程に転生され始めています。ということは、語られていないことでもそのような文体を介してしまえば、あたかも語られたことのように、口演と同じ〈リアル〉の水準に等価に滑り込ませてしまうことができるようになっていた、ということです。これを可能にするためには、もちろんそれら講談本的な文体を大枠で真似ることのできるリテラシーと、それを宿し得るだけの「関係」と「場」がその生産点に必要だったことと共に、その背後では「納期に間に合う」ための「速度」が否応なしに要求されるという「市場」主導の条件もまた、本質的な駆動力として働き始めていました。
「講談というものが“事実”で、“面白き処を抜萃して”しまうもので」「平気で“全くその行き方を変へ”てしまえるのも“事実”というのには“周囲の事実”という、何やら妖し気な“事実”もある」と、例によって一筋縄ではわかりにくいレトリックをお構いなしに駆使して講談における上演の本質を認識しておきながら、しかし同時代環境における立川文庫の生産点で起こっていたことについての橋本治の合焦力は、しぶとくもゆるぎません。それは「おはなし」と〈リアル〉の関係についての弁証法、相関のからくりについての半径身の丈の間尺に根ざした懐の深い認識に裏づけられている。このあたり、実にもう民俗学的知性だなぁ、といつも感嘆するばかり。
「なんかの拍子に一行、一語でも“記録”されていれば平気で想像力が“充分取調べ”てくれる、と。“いま迄”とは“全くその行き方を変へ”た真田幸村の“周囲の事実”の中に猿飛佐助という部下がいた――いたならばもう、この“周囲の事実”は平気で“中心の事実”にもなるだろう。(…)猿飛佐助は斯くして、一人の武芸者、一人の勇士となって、実在の“立派な人”となる。これが子供達にウケて、尾上松之助の忍術映画となり、立川文庫は似たような“武勇伝”“漫遊記”を続々と生み出して行くようになる。」
「立川文庫に猿飛佐助という、全く架空の忍術使いが登場して来るのはこれです。筆の勢いが「こういうのがいたっていいでしょう?」でそういうものをうっかり存在させてしまったら、それはもうそれで、実在の人物となってしまう。(…)大体“忍術使い”“妖術使い”というようなものは、江戸の歌舞伎、草双紙が生み出したもので、児雷也はその一つの典型ですが、それが明治以後も持ち越しで生き延びていたのと違って、この猿飛佐助(あるいは霧隠才蔵)というのは、全く明治のひょうたんから駒です。(…)猿のように飛ぶ身の軽さだから“猿飛”だ、あるいは霧が隠すように姿を消すから“霧隠”だという合理的な命名は江戸にはないものですね。こんな即物的な命名法は、主役のものではなく下ッ端のものであったのが江戸の命名法ですから、“猿飛佐助”というのは全く明治以後の近代の発想です。」
橋本治だけでもなかった、先に引用した足立巻一も、ほぼ同じ地点に問いを正確に着弾させています。
「この猿飛佐助の出現は、立川文庫の大きな特徴をつくる。それまでには、そんな透明なホラふきのおもしろさ、ナンセンスは語られなかったからだ。「豪傑児雷也」、「白縫譚」、「天竺徳兵衛」、「伊達騒動」の仁木弾正など、妖術、幻術、忍術が講談でも語られてはいたけれど、その背後には因果応報があり、その忍術使いたちは多く悪玉で、グロテスクで陰惨な雰囲気を持っていた。それが佐助になると野放図に楽天的なスーパーマンとなり(…)道徳以前の奥深い欲求から生まれていたので、ことに少年たちの空想力を誘い出したようにみえる。」
口演される講談の上演としての特質、いわば芸能性は、速記による話しことばの文字化「だけ」で書き言葉の側に担保されるものではなく、そこに何らか「脚色」が加えられることでようやく、その芸能としての飛び道具性も含めて紙媒体の上に転生してゆくことができた。それは、それまでの講談本の生産過程から本職の速記屋が介在しなくなって初めて可能になった――大衆文学史においてよく知られる「書き講談」誕生の経緯であり、教科書的な記述ではそこから野間清治と大日本雄弁会講談社資本が雑誌を介して出版「市場」を独占してゆくという、マス・メディアと大衆社会化の複合する新たなひと幕へと連なってゆくわけですが、しかしここはそのような俯瞰的で単線的な大文字目線ではない、それら大規模な変化が起こってゆく過程でもなお身の丈の局地戦を全力で戦いながら斃れていった、それら言わば「立川文庫的なるもの」の側が束の間現前させていた〈リアル〉から、今はなるべく離れないようにしておきましょう。


同じ頃、浪曲もまた、その隆盛を迎えつつありました。これもまた、同時代のできごととして偶然ではない。上演された場における話し言葉を書き言葉に変換してゆくたてつけにおいて、浪曲も立川文庫も基本的に同じ時代の大きな動静、情報環境も含めた社会の変化に奇しくも敏感に反応していたという意味で、同じ位相にありました。
たとえば、その当時、一世を風靡しつつあった桃中軒雲右衛門の上演の背後にあった、このような速記と書き言葉の文脈。
「福岡にある九州日報社の主筆で、そのころ、洛陽の紙価を高からしめた『元禄快挙録』の著者である福本日南の監修のもとに(…)数人の新聞記者たちの協力によってできあがった『義士伝』の台本を入手」し、『九州日報』の小林陶雨、『福本日日新聞』の芝尾入真、南部露亭、『長崎日の出新聞』の鈴木天眼らは、桃中軒雲右衛門の口演の速記を土台にして、誤りを訂正したり、敷衍したり、削除したりしたものを、もう一度、かれに語ってもらい、その結果を待って、さらにもう一度、口演に適するように、文章を書きなおした。」
雲右衛門の上演も速記を介して記録され、書き言葉に起こされた段階で、文字の読み書きに長けた新聞記者たち――それも当時の知識人としては旧来の漢文脈のリテラシーに育まれた武士階級あがりの者たちの手によって「監修」「脚色」されることで、同時代の雄弁の文体を上演において獲得していった。一方、立川文庫は、講釈師の上演を速記を介して記録した文字の文体の、その骨法を「大体のところは分っている」という書き手たちの濃密な「関係」と「場」を介した共同作業的な把握と理解とによって、書き言葉に縛られない「脚色」を加えてゆくことで、新たな想像力をかたちにしていった
「それは、少々、大げさないいかたをするならば、近代以前からあった視聴覚文化が、まがりなりにも近代以後の活字文化の成果をとりあげ、さきにあげた松林伯円の講談のばあいなどよりも、はるかに本格的に、浪花節の雄弁を、演説のそれのレベルにまで、はじめてひきあげることに成功したことを意味する。」(花田清輝「桃中軒雲右衛門、」1963年、『乱世今昔談』所収、講談社、1970年。)
なるほど、一見似たように見えるこの過程。しかしその結果の創作物の「商品」としての質の違い、それを「読む」ことを担保するであろうと想定された相手側の違いにもまた、ここはさらになお敢えて立ち止まらねばならないのでしょう。雲右衛門的な浪曲が「雄弁」の方向に、新たに励起し始めていた近代的な国民国家における新たなその他おおぜい、つまり大衆的主体としての「国民」に宿りつつあった草の根ナショナリズムの集合的心性を「うた」の貫通力と共に結晶、現前化させていったのに対して、立川文庫は主に若年層を相手にして、同じ新たな大衆社会状況下での年少者のそれまで通りではうまく身の裡に収納されなくなった生活感情に即した内なる「おはなし」世界を涵養していました。それらはいずれ間もなく「市場」の側からひた押しにもたらされる情報環境の大きな変貌とそれに伴う国民感情の整備過程に呑み込まれ、あるいは押し潰されてゆく運命ではあったのですが。
とは言え、立川文庫もまた、しぶとくも「本」ではありました。「当時、講談本はほとんど貸本屋向きに大型で、いまのA5判ぐらいだった」のに対して、読み手に常に同伴できる持ち歩き可能な、いわばモバイル媒体としての特性を意図的に採用した「袖珍本」というかたちの。そしてその発想もまた、先の「酔神」山田阿鉄からだったらしい。
「読者はデッチあるいはコゾウとよばれる大阪商家の少年店員たちであった。彼らは大八車に商品を積んで得意先を回るのを主な仕事としたが、アッシとよぶ仕事着にこのちいさな文庫本をしのばせては、余暇をぬすんでこっそり読みふけった。ほとんど自由と娯楽を持たない少年たちに、痛快で甘美な慰楽としてしみこんでいったのだ。そして、それが小中学生へ広まり、農村の青少年層へ延びていった。一冊二十五銭だったが、旧刊に三銭をそえると新刊と取りかえる仕組みになっていたので、少年店員や小中学生の乏しい購買力でも継続的に求めることができた。」(足立、前掲書)
上演から一歩離れたところで、「本」という媒体を介して育まれ始めていた、子どもを主体とした読み手たちの想像力の共同体。それは、レコードや無声映画が新たな拡がりをもたらしてゆくのと入れ替わるように立川文庫がみるみる衰微していったそののちに、それがやはり「本」であったことの意味を思わぬかたち、予期せぬあらわれ方でさまざまに思い知らせることになったようなのですが、それもまた、別の話になります。
「映画、ラジオ、テレヴィジョンが演ずべき役割をもたないというのではない。まったく逆で、それは知らせ、目を醒させ、本よりうまく問いを提出する。しかし、人が自らに与える解答を発見することを許すのは本だけである。それは、本が各人の時間を尊重するからである。読者は時を支配し、自分の尺度と自分のリズムに応じて世界を再創造する。それゆえに、いかに謙虚なものであれ、読みとは、怠惰の最高の形態なのである。」(R.エスカルピ「悪魔への公開状」1972年)