●
創作物とは――小説であれ詩であれ、ひとまず文字表現としての「作品」とは、それを書いたはずの作者やその具体的な生身の存在の態様、さらに同じような位相にこちらは無慮広大な多様性と匿名性を伴って出現するはずの読者の読み方との関係その他、周囲にまつわる具体的な背景や社会的な文脈などとは一切関係なく、ただそこにある文章として――つまり「テキスト」としてだけ読まれるべきである、といった考え方が、ある時期から文芸批評なり評論なりの世間から説かれるようになってきていました。
それは文字や文章をただそのような記号としてのみ、もっともらしく言えば「表象」としてのみ扱おうとする、それによっていわゆる文学研究、文芸沙汰を扱うガクモン領域に必然的にまつわってきていたどうにもほぐしようのないあれこれ――要は社会だの歴史だの文化だのといった「現実」の文脈なのですが、それを気合い一発、えいやっと切り離して、その結果うまくすればあの「科学」的な、折り目正しくもっともらしい理科系っぽい学術研究の装いを獲得しようとする流れから出てきたものだったようでもあります。まあ、それだけ「科学」的なものに引け目を感じていたそれら日本語を母語とする本邦環境での文学ないしは人文系界隈、というだけのことなのかもしれないのですが。
でも、ぶっちゃけそれは、「めんどうな部分は全部ひとまずなかったことにして切り離しちまえ」という明快な「処理」の欲望に駆動されていたところもあったように思います。だって、情報環境やそれとの関係で宿っている言語空間、それらを編み上げているさまざまに絡み合った現実の網の目の裡に存在せざるを得ない「テキスト」のありようから発して、「読む」につれて次から次へととめどなく生起してくる眼前の問いをそれこそ「科学」準拠な「学術研究」の周到さや精緻さだけで本気でつぶさにひとつひとつ潰しながら詰めてゆこうとすれば、それは確かに「めんどうな部分」と放り出してしまいたくなるのも人情ではあったでしょう。そして、なるほど間違いなくそれら「めんどうな部分」は、そのような気合い一発の切り捨てを思い切った結果、「全部ひとまずなかったこと」にしてしまえてはいたらしい。
加えて、そのような「学術研究」的な枠組みからの「作品」への接近の作法というのも、良かれ悪しかれ海外の、主に欧米での仕事から翻訳を介して「いま流行りの新製品」として輸入されてくるという本邦近代このかたの習い性に素直にのっとっていたところもありました。まただからこそ、そのような「めんどうな部分」を「ひとまずなかったこと」にする思い切りも、まずそれら半径「学術研究」の世間においては説得力をいや増すことになり、それら世間における「そういうもの」としてあまり考えなしに自明化してゆくことにもなりました。
そういう切り捨てによる処理を適用されるようになった範囲は、何もいわゆる文学や文芸界隈だけでもなく、その他の各種の創作から、まずは広く芸術表現一般にまで拡張して考えられるようにまでなっていったらしい。その程度にそれは、ある種の同時代的な流れとして、特にそうと意識されずともさらに大きな「そういうもの」となって、まさに半ば同時代的自然として現前化していったもののようです。
だから、その反動も同時に色濃くあらわれてくる。さまざまな分野、多様な領域において、その思い切って切り捨てた「めんどうな部分」をあらためて意識し、そこに合焦することで新たな創作への足場を発見してゆくような、新たな世代に共通した気分として。
「現場の文学性とは、演出家と役者との日常の人間関係をも含めた演劇的昇華可能な相対関係、つまり役者の言語化できず、ニュアンスとしてだけ記憶されている感性と、肉体それ自体が時代への批評性となる存在との距離を正確に相殺し、劇的に還元する作業のことでしょう。(…)彼は役者の日常性をすべて掌中に収め、そこを越えてくる感受性を「芝居」と認識していることなのです。」つかこうへい「懐かしの鈴木忠志」『新劇』1972年10月号、p.41.
「言語化できず、ニュアンスとしてだけ記憶されている感性」「肉体それ自体が時代への批評性となる存在」「役者の日常性」……あのつかこうへいでさえも、と言っておいていいでしょう、その初発の表現衝動の現場においては、このようにそれまでの演劇、芝居における新劇由来の西欧の近代劇に根ざした「戯曲」≒文字のテキスト前提な舞台表現のたてつけに対する異議申し立ての足場として、暗黙のうちに切り捨てられてきた「めんどうな部分」を、芝居の創作現場の〈いま・ここ〉に即した個別具体のもの言いを介しつつ言挙げすることを昂然とやっています。


それは「既存の権威」に対する「反抗」といった方向でひとくくりに理解されて片づけられるようなものでもあり、また突き放してみれば、いつの時代も常にあたりまえに現れる、今ある眼前の「そういうもの」に敢えて異議を唱え、更新をかけてゆく文明史的なダイナミズムの一環にすぎなかったもので、たまたま本邦の戦後において活発に確認されるようになった動きだったとも言えるわけではありますが、それでも当時、その時代その情況下において起こっていたことやそれを支えていた気分などは平然と一回性であり、そのような意味において「歴史的現在」の初発の地点を刻み込んでもいました。
あるいは、こんな場所にも、こんなあらわれ方で。
「僕にはもともと左翼的良心なんかありませんから、挫折なんかしっこない。たしかに革命派ではあったけれど、左翼でも、進歩派でもなかった。僕にとっては、全共闘運動は〝一瞬の生のきらめき〟を求めていただけであって、組織のオルガナイズはこの〝生のきらめき〟を具体化するためにセットで考えていたに過ぎません。(…)連合赤軍事件などで組織の末路が、ああいうことになるなかで、僕にとって組織が終わっていきました。昔の仲間で、のちに組合運動をする人も、また〝闇一族〟のように運動を続ける人もいるけれど、僕にとって必要だったのは、あの〝生のきらめき〟を自分の内部だけで持続することでしかなかったのです。」
これは笠井潔。『アサヒグラフ』1979年4月13日号掲載の取材記事における発言の由。これは、SNS「no+e」(ノート)の「年間読書人」子の記事 ( https://note.com/nenkandokusyojin/n/n9bbd0d6e92e4 ) から、たまたま教えてもらったものですが、この「一瞬の生のきらめき」という、あまりにもあっけらかんと素朴な棒ダマの表現に対して、苦笑しながら遠ざけておく感覚からもはやすでに遠く、むしろいまとなっては裏返しの誠実さを感じたりもする、それくらいにこれはすでにもう「逝きし世の面影」へと織り込まれつつある「歴史的現在」の記述として、〈いま・ここ〉から穏当に読まれるべきものだと思います。


「あの時代、全共闘はキャンパスではいちばんかっこよかった。へルメットにネービー・ルック‥‥‥。僕の賭けたのは、いつも先端でピリピリふるえている緊張感と華麗さだった気がします。」
「左翼」だの「全共闘」だのに引きずられての「読み」しかしない、発動できないのも、「そういうもの」化した言語空間に安住しているゆえの、自ら思索する回路の動脈硬化でしかない。そうじゃない、合焦すべきは「いつも尖端でピリピリふるえている緊張感と華麗さ」という、これまたあまりにも通俗凡庸、臆面なく平板な語彙ともの言いでしかないいまや正しく陳腐に感じられる一節こそであり、そこから引き出されるべきは、ならばなにゆえそのような語彙ともの言いでしか表現しようとできなかったのか、という問いです。でなければ、「左翼」「全共闘」から発した「読み」はいまや一律にその通俗凡庸、平板で陳腐の水準にだけ一方的に呑み込まれてゆき、それらの「読み」がすでに獲得して定型化している話法・文法に従って、たちまちひとしなみに「そういうもの」へと同化されてゆくしかなくなる。
そうすると、同じそのような陳腐も平然と含まれていた当時の同時代的な何ものか、に反応したこのような記述もまた、その歴史的事実の内実と共に、眼前の「そういうもの」の自明な紗幕の向こう側へと淡々粛々と見失われてゆくしかない。
「いや大学ノート二冊にびっしり、立て看の字のような角張った字で書かれた草稿を読んだ時には、新鮮な衝撃を受けました。ついに〝七〇年〟を小説の形で総括できる人があらわれた、と。とにかく、七〇年を書ける人がいれば商売になる、とは前々から思っていましたし、その一方でフィーバーめいていた七〇年世代の人たちが、何がしか思い入れた心情を誰か書かないか、と心待ちしていました。彼の持っている、青春の致命的な暗さと輝き、は間違いなく反響を呼ぶし、スターになります。ある意味で開かれていること、これは読者を限定しない商業性を兼ね備えたことになります。地方で教師をしたり、大企業で沈黙を守ったり、あるいは野良仕事をしている、あの世代の人への、確かなメッセージと言えませんか」
この 「最初に草稿を読んだ「野性時代」の編集者、見城徹氏二十八歳の熱っぽい言葉」は、笠井が商業的な書き手になってゆくきっかけをつくることになった接点の証言。ここでも、すでに歴史的過去となっていることを書きとめた記述であることだけを前提にするのでなく、あらためて歴史的現在として「読む」を稼動させてみる。そうすれば、たとえば「大学ノート二冊にびっしり、立て看の字のような角張った字で書かれた」という部分にも、同じように規格外な密度の手書き原稿を持ち込んだという中上健次の挿話などと共に、当時の、少なくとも文字の読み書きをそれなりに切実な自己表現の手段としていた若い衆世代がある程度共通のものにしていたらしい「書く」作法の独特の傾きや、そのような密度の高さを「文字」と「文章」に込めるようになった社会的な文脈も含めた情報環境的な背景の必然の気配などへと問いは伸びてゆくし、ならばそこから、当時若い世代にとってなじみのあったガリ版印刷における原紙を「切る」際の文字の書き方やそれに最適化された書体のありよう、それらを駆使した印刷物のデザインの仕方などが当時の彼らの普段の「書く」作法に逆に反映されていたかもしれない可能性、さらには当時の若い世代に受け入れられ始めていたラジオの深夜放送の番組に送られてきた投稿ハガキの書体やイラストなども含めたビジュアル的なデザインのさま、などにまで問いの枝葉はいくらでも繁ってゆける。


●●
そう、最初に合焦すべき場所を「そういうもの」任せにさえしなければ、そんな「コスパ/タイパ」のよい「合理的」な早上がりの手癖から一歩「おりる」ことを心がけ、意識の身じまいを手もと足もとの間尺にまずとどまろうとしさえすれば、「読み」はいくらでも可能性を拓いてゆくし、それに従い同じ文章もまた新たなありようを見せてゆく。それはもう、すでにあの「テキスト」――さらに拗らせれば「テクスト」とフランス語風味の表記にもなるものらしい、いずれそんな最も痩せた意味での即物的で唯物的なだけの対象物などから遠く、常に〈いま・ここ〉においていきいきとこちらに向かって働きかけ続けるなまめかしい「いきもの」として現前するものになっています。そしてその限りで、切り捨ててきた「めんどうな部分」もまた、異なる様相を伴って新たに立ち現れもする。
本邦のいわゆる人文系、まさにhumanitiesと呼ばれてきたような領域の仕事は、本来そのような「めんどうな部分」にこそ良くも悪くも否応なく関わってくるもののはずでした。なのに、にもかかわらずそれを早上がりに「なかったこと」にするたてつけありきにいつの間にかしてきた、そんな得手勝手な地盤の上にかりそめの安眠を貪ってきました。そのような意味で、文芸批評や文学研究など、「学術研究」分野での言説は、ある時期からこっち、そのように自明化してゆく環境にあらかじめ安住する/できる限られた人たちだけの間で構築され流通する特殊な方言を駆使した閉じた繰り言、それこそできそこないのAIのようにしか見えなくなって久しい。それは何も自分のような外道で行儀知らずな野良渡世の本読み、活字馬鹿だけの感慨でもないらしいことは、ほれ、たとえば最近、千鳥足のしらべものの日々の中、たまたま行き会ったささやかな資料の、すでにこの世の人でなくなっているらしいある先達の手によるこんな記述にも。
「実は私がこんなものを書く気になった理由は、今日われわれの日本語が、あまりにも言葉の音声面を無視して、そのために言葉が言葉であることをやめて、単なる符牒になって、ということは言葉としての生命を失っているとつね日ごろ感じているからである。近ごろの文章を読んで、何か内から語りかけてくるような感じを味わうことは、きわめてまれになった。その理由の最大なるものは、文章が符牒である文字を連ねただけで、書き言葉といえども当然もっていなければならない話言葉の要素を欠いていることにあると私は思っている。だから、かつては読むといえば音読に決まっていたのですよと、言っておきたかったのである。」(柳沼重剛「音読と黙読」『大妻女子大学紀要――社会情報系』1、1993年)


思えば昨今、ようやくその世間離れして蠱毒化した言語空間の異様な自閉ぶり、そこに安住しながらそのことに全く無自覚なまま居丈高に上から目線での説教を世間の耳に届かぬ言葉、響かぬもの言いで得々と垂れ流すばかりのいまどき人文社会系の専門家と称する大学教員、テレビや新聞でその場限りの「コメント」沙汰の切り売りに忙しい文化人や知識人属性を附された人がたの存在の疎ましさが世間一般その他おおぜいの素朴な気分にも感じられるようになってきたようです。それはそれで全く喜ばしいことであり、その程度に昨今の情報環境は世の匿名の批判力を豊かにしてきた、そのひとつの雄弁な証左でもある。
けれども、そのような自閉した言語空間に安住しているというのなら、本邦の知識人やインテリの類、いや、もっとゆるく拡げて言えば文字や活字になじみ、それによって人となっていってしまったようなそこらの本読み、世に棲む無名の読書人といった人がたまでも含めて概ねそんなもの、近代このかたは言わずもがな、どうやらそれ以前の近世のある時期において、すでにそのような自閉とそれに規定される意識や感覚を共有する「もうひとつの世間」は成立し始めていたようです。
「人の社会的な価値が先祖の軍功によって決定されたまま、二世紀にわたって固定されていた軍政的または門閥的な封建社会で、べつの価値評価の原理がささやかながら現われてきたのである。知識と言葉の所有が人の社会的な価値評価の基準になった。別言すれば、知識と言葉が社会的に交換の対象として認められたということだ。そしてこのことを現実に可能にする諸条件も十八、十九世紀の交にほぼ出そろっていた。(…)第一に知識と言葉とが、儒教漢学の普及によって、一世紀以前の気のぬけた芸事から思想へ脱皮したこと。(…)そして第二に、漢学であれ国学であれ、知識と言葉が交換の対象として社会に投げだされるとき、この交換の場で売手と買手のどちらの側にも、武家にまじって多くの、むしろ武家を凌駕する多数の農家と商家の活動が目だったこと。(…)知識と言葉も商品であるから、しかもこの商品は日常的には不要不急のものであるから、買手はいきおい富裕でなければならず、具体的には民間にあっては豪農富商があって、官においては諸藩がこれに該当した。そうして官辺でも民間でも、十八世紀も末にいたれば、いわばそれぞれの内部に知識と言説を、芸でも道楽でもなくて、学問もしくは思想を、各自の存続あるいはさらなる成長のための不可欠な方法ないし与件として求めた。これが第三の条件にほかならない。」(大室幹雄「新しい知識人たちの風景――十九世紀三〇年代小考」、『月瀬幻影――近代日本風景批評史』所収、中公叢書、1992年)
この「もうひとつの世間」がその後の有為転変を経て、どのように、そしてなぜ、いまどき眼前に惨状を呈しているような蠱毒化の果ての頽廃にまで至ったのか。その経緯来歴もまた別の問い、新たな「歴史的現在」として〈いま・ここ〉から言語化され、選ぶべき未来のための共通の素材としてほぐされてゆかねばならないでしょう。
ただ、いかに巧妙に編制され、万事遺漏なくめでたく運営、維持されているようにみえるそのような空中楼閣めいた人文社会系「学術研究」の王国も、いずれ生身の人間、人の手を介してできあがるものを扱い、またその扱う側もまた生身の作法に縛られざるを得ない存在である以上、いかに自己弁護的なたてつけをうまく構築したように見えていても、その「めんどうな部分」としてなかったことにされた側、つまり〈それ以外〉からの復讐にどこかの時点で必ず見舞われる。この世に生を享けた限りある存在としての限界や宿命も内包した節理に対する畏れや敬意といったものも含めて、その「なかったことにする」仕掛けもまた生身ゆえの前向きな諦めと共に発想されてきたもののはずなのに、いつしかその実存に根ざした弁証法自体をうかつにも忘れてしまえるほどに、「そういうもの」化の呪いもまた、人としての宿命という意味で根深いものではあるようです。
だから、「うた」というのもまた、それら人としての宿命をわれわれがうっかり忘れてしまえない存在であることの証し、この世に生きてある限り必ず鈍く響きつづけている〈それ以外〉からの存在証明の要求としてとらえようとしなければならないはずです。言い換えれば、われわれ人間という厄介でめんどくさい存在についての自省や考察、自己確認の営みが言葉を介しておこなわれざるを得ない、そういう逃れようのない宿命についての認識から安易に逃げないようにするために、ということでもあります。
それは正しく生身の身体を伴うこのわれわれひとりひとり、それぞれ微妙に異なってはいても「自分」という意識をそれなりに実装してしまった「個人」の〈リアル〉の宿る土壌としてもあり続けている。われわれが否応なく生身であるという部分、常に言語化され対象化され意識の銀幕上に合焦されているわけでもない〈それ以外〉の領域をあたりまえに背後に包摂して初めて〈まるごと〉として存在して/できている、そのことを忘れないためでもあります。
そう言えば、先のたまたま行き会った資料の中には、こんな断片も含まれていました。この部分にふと合焦してしまったような「読み」というのは、やはり良くも悪くも、先のとりとめなく大きい問いを自分にとっての「わかる」へと収斂させてゆくための、なけなしの武器のひとつにはなっているようです。
「修道院に関するかぎり、ただ単に「他人の妨げにならぬよう」に黙読を命じたとは思えない。修道院での読書といえば、通常の読書であるlectioとは別に、ひとり思いをつめ、心を静めて神の言葉と対話をするという意味でのmeditatioという読書が行われていて、これは絶対沈黙のうちに行われた。」