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もう40年近く前、還暦直前の年回りで出張帰りの羽田空港、到着ロビーの公衆電話で「これから帰るから風呂沸かしとけ」と家に連絡した後、その場で斃れてそのまま昇天したオヤジは、いま言うところの突然死、もしかしたら過労死だったのかもしれませんが、救急車で運び込まれた先の病院で警察立ち会いの下での検死医は、荷物にあった常用薬と取り寄せたカルテから解剖の要なしと判断、本当の死因はわからないままでした。大学は一応出ていたけれども絵に描いたような体育会系、おのが馬力ひとつを頼りに高度成長期を駆け抜けた本邦サラリーマンのひとり、ではありました。
学生時代がちょうど終戦後間もない頃で、とにかく喰うことに手いっぱい、戦時中の食糧増産で芋畑になっていたグラウンドから芋を掘り出し、バイトもとにかく食いものがあるところとて信州の牧場にまで出かけて牛乳をたらふく呑んでは逆に腹をこわし、貴重な酒が手に入れば一気にあおって鼻をつまんで全力疾走、素早く酔いが回るように工夫、寮から通学の電車も学帽かぶって体育会の顔パスで通し、卒論もデキのいい仲間を脅してむりやり代筆させたような、まずはその頃なりの地方出身困窮学生。神戸の旧制二中を喧嘩沙汰に明け暮れるバラケツぶりのあまり退学を食って、その頃軍需工場で儲かっていたという養父がカネにものを言わせて大阪の浪商の卒業証書を買って格好つけたというのが、「あのままやったら絶対どこかの組員になっとった」という生みの母親の証言と共に、数少ない親戚の間で語られているファミリー・ロア。終戦直前に糖尿病で亡くなったというその養父の残した養母、これが実の母親の姉でつまりは子のなかった叔母にもらわれて養子になっていたのですが、それをとにかく喰わせにゃならんとて先輩の手づるをたどって大手企業にもぐりこんでは、折りからの高度経済成長期の上げ潮に遮二無二働きまくり、東京オリンピックの年に大阪に転勤になってからは万博景気に沸きかえる界隈の土建屋にセメントその他の資材を売りまくっていたという御仁。子どもの自分が家の中で見たのは概ね週末、トドのように横になって大いびきかいている姿くらいのもの、いわゆる「蔵書」の類はほとんどなく、それが教養と思っていたのか『文藝春秋』と『オール讀物』は毎月本屋から取り寄せていたようでしたが、とは言え、実際にそれらを読んでいるところは身近に見たことがありません。
テレビはその世代の都市型勤め人のこと、割と早くから頑張っておそらくは月賦で買ったのでしょう、電気冷蔵庫も電気釜も人並みに頑張って揃えるのが働く励みで、高度成長が本格的に波に乗る前、会社勤めでも早く帰って家族と一緒に夕食を食べるのがあたりまえだったその頃なら、オヤジがたまたま連れて帰った会社の若い衆、チョンガーだからとメシを喰わせてやるのが目的だったのでしょうが、その彼と一緒に始まったばかりのテレビ漫画(「アニメ」というもの言いはまだ一般化してない)、白黒版の「鉄腕アトム」を見ることだってあった。実際、これは写真として残っているから証拠がある。オヤジ自身もプロ野球の中継は上半身裸のステテコ一丁、ビールを呑みながら観戦していることもありましたし、こちらもその脇にいて「SBO」のスコア表記の意味やおよそのルールも何となく見覚えたようですが、でも、オヤジから特に手とり足とりじかに教わったという記憶はない。もっとも、自身がやっていたラグビーとなるとこれは格別、年末年始に大学対抗戦の中継があると人が変わったように大声あげて熱狂、母校がピンチだと「ああ、もう見てられへんわぁ~」と庭に出て動物園の熊よろしくウロウロするようなありさまでしたが、と言って、ドラマでも歌番組でも、ふだんから何か特に目当ての番組とかがあったようにも思えません。つまり、その頃のおとなであるオヤジが楽しみにしていたものは、テレビから定期的に提供されてはいなかったようです。
だから、平手打ちのようにいきなりいなくなったからだけでなく、あのオヤジが実際、何が好きで何を楽しみにして、ひとつの個体、ひとりの人間としてどういう私的で個的なココロをその裡に抱えながら当時、自分のすぐそばで日々生きていたものか、いま、あらためて振り返って合焦しようとしても、そのためのよすが自体が拍子抜けするくらいに乏しいことにいまさらながら気づかされます。


実際、家の中、いわゆる「家庭」という空間で、おとこが気を許してなんでもしゃべるようなことは、実はそうなかったのではないか。家族である〈おんな・こども〉に対して、今普通に考えるような意味での「プライベート」で「私」の「自分」をゆるめてさらけだすようなリラックスの仕方は、それを表現する言葉の作法からまず持ち合わせていなかった可能性も含めて、本邦のおとこは自分のものにできていなかったのではないか。
いつも概ね不機嫌そうにむっつりしていて、それこそ「メシ」「フロ」的な単語でしかものを言わない父親像、というのは、実態としてのありようとは少し別に、定型的にすでにさまざまに語られ、表現されてきています。昨今は無条件に否定的なニュアンスと共にだけ使い回されるようになっている、あの「家父長」と名づけられるような実態の側もまた、概ねそのような定型のイメージから逆算されて輪郭を定めてきているようなところがある。そのような意味では、かつて少し前までの、戦後の高度成長期まであたりまえにあったらしい本邦の「イエ」的現実の裡の「おとこ」「父親的なるもの」という存在は、実態としてどのようなものであったかとはすでに別なところで、あらかじめ共有されてしまっている何となくの「家父長」「オヤジ」的イメージの側から先廻り的に規定されて身動きとれなくなっているようです。


〈おんな・こども〉と話す――言い換えれば社会的存在でない、だからこちらが庇護して守るべき立場の者たちと自ら言葉をかわす、その場合の作法というのが、本邦にっぽんのおとなのおとこの間でどこかで滞っていった経緯があるのではないか。それは「家庭」という現実が世の中にうっかり登場し、法や制度といったたてつけの水準だけでなく、日々の日常、われらの暮らしの実際に「そういうもの」として浸透していった過程ともあたりまえに関わっている、なのに未だ可視化されていない経緯来歴――敢えて陳腐な大文字を使って言うなら、民俗的な水準も含めてのまるごとの「歴史」の一端ではないのか。
世間一般の庶民層――大文字ついでに「常民」と言い換えてもいいですが、そういうその他おおぜいの水準でならば、それなりのおしゃべりの作法も普通にあったのかもしれない。近代以前、近世の日常生活空間のありようについての洞察がうまくできない捨て育ちのもの知らずゆえ、そのへんは留保したまま他の人がたの手にゆだねるしかないのですが、ただ、少なくとも近代以降、明治このかたに限って言えそうなことは、その常民の間でさえも、「家庭」という日常での〈おんな・こども〉に対する「おとこというおとな」のつきあい方に、その間の経緯がどのようなものであれ、それまでとは少し違う種類の、それなりの自覚も意識もできないままの不自由や懸隔の類が知らぬ間に宿るようになっていたのではないか。

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家の中、「家庭」というのがお題なら、もう一方の〈おんな・こども〉、そのうち子どもの自分ではなくおんなであった母親のありようも考えておくのがフェアというものでしょう。
十数年前からアルツハイマー系の痴呆を発症、いまはもう要介護5で特養暮しになっていて、ほぼ寝たきりで食事その他も全介助、会話もとっくに成りたたず声も滅多に出ず、顔を見に行ったところでこちらから声がけして一方的にしゃべるだけが関の山、まるで半ば即身仏にお詣りに行くようなものながら、それでもいまどき介護保険制度のありがたさ、細々といのちは繋いでいるものの、さすがにそろそろお迎えもやってきそうな気配の濃い当年とって95歳、北九州は八幡育ちのおふくろはというと、当時の高等女学校出、それなりの読書習慣くらいはあったようで、事実、吉川英治全集や復刻版の日本文学全集、それとなぜか筑摩の現代漫画のシリーズなども、おそらく百科事典を揃いで買うような感覚もあったのでしょう、自ら注文して買ったりしていたし、早くにオヤジが亡くなって以降は自分の好きな小説、隆慶一郎や宮城谷昌光、京極夏彦などを買ってきては、テレビをつけっぱなしにした茶の間でひとりめくっていたりはしていました。
ボケ始めてからは、同じ文庫本を何冊も、タマネギや牛乳をやたら買い込むのと同じような調子で買ってくるようになって、あれ、こりゃまずいかも、と気づかせてくれるきっかけになったのですが、それでも、自分自身の幼い頃を思い返してみても、家の中に彼女の本棚というのも特になく、手もとに置いて管轄すべき本があったとしてもせいぜい料理や編物といった実用書の類か、あとはずっと講読していた『暮しの手帖』くらい。自分自身、小さい頃の読書の原体験に、この『暮しの手帖』の商品テスト以下、日々の暮らしのあれこれ個別具体をつぶさに言葉にし、また誌面のビジュアル含めて見せてくれる半ば図鑑、半ば読みものといったその「おはなし」の〈リアル〉があるらしいのもこのおかげで、また実際、高度成長期あたりに生まれ育った同世代にも似たような原体験は結構横並びにあるようなのですが、それはともかく、両親いずれのものであれ、書棚に並ぶ親の蔵書を好き放題選んで読んでいた、といった、よくある折り目正しい中流家庭の子弟がたにありがちな、その後まっとうな「教養」の方向へすくすくと伸びてゆくような幼少時の筋のいい読書体験といったものは、案の定、自分にはなかったようです。
とは言え、本を買ってもらうこと自体は、それほどハードルは高くなかった。もっとも、マンガ本は自分のこづかいでしか買えなかったし、だから一緒に暮らしていたばあちゃん――先に触れたオヤジの養母と一緒に買い物に出かけた時などに、こっそりねだって買ってもらうようなことが多かった上、母親からは戦記ものや戦争関連の本にはかなり難色を示されもしましたが、ただ、そのように買ってもらうなり何なりして、何かの縁でたまたま自分のものになった本とは「つきあう」ように繰り返し読む、半径身の回りの手もとに置いておいて、ことあるごとにめくったり持ち歩いたりしながらいつしか自分の記憶にまで刷り込んでゆく、そんな接し方を童話やマンガなども含めての書籍、いわゆる本だけでなく、その後のレコードなどにまでどうも持ち越していったようです。それは、思えばものごころつくかつかないかの頃、与えられたさまざまなおもちゃとの接し方と地続きの習い性だったのかもしれませんが、そのへんはまた別途、考えてみねばならない問いの枝葉に繁ってゆきます。


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このような日常、「家庭」という場に生きてきたことの等身大の経験は、正しく生身の身体を伴うこのわれわれひとりひとり、それぞれ微妙に異なってはいても、「自分」という意識をそれなりに実装してしまった「個人」の〈リアル〉の宿る土壌としてあり続けている。と同時にそれは、われわれが否応なく生身であるという部分、常に言語化され対象化され意識の銀幕上に合焦されているわけでもない、そんな〈それ以外〉の領域をあたりまえに背後に包摂しながらでもあります。
だからこそ、それは「歴史」という、いまある語彙ひとつで何か眼前に広げられた年表のように、あるいはモニタに映し出されるいまどきの映像コンテンツのように、いずれリニアーで単線的な時間をこの上なく一見わかりやすく現前させてしまう働きとはまた別な水準において、生身をひきずり日々呼吸し生きているわれわれの「自分」を逆に規定し続けてもいる。そんな「自分」も決してひとつの個体、ひとりの個人というだけでなく、同時に必ず何らかの「関係」と「場」を介して同時代の共同性の裡にあたりまえに開かれている存在でもあるらしい、そしてそこには必ず言葉本来の意味での〈まるごと〉の「歴史」が介在している――そんな認識を少しずつ確かにしてゆく迂遠な道程。
「うた」の領分というのも、われわれのこういう実存に決して離れぬ影のように寄り添っているこころの領域、内面や心理や精神などといった言葉で指し示されてきたような部分の、それも最もかたちにならない、刹那的で不定形でつかみどころのないところに根ざした何ものかであるらしいことを、最近また、いまさらながらに思い知らされているところです。
そういう意味での「詩」――つまりこの場合は「うた」を喚起してくる足場としての表現一般ということですが、それも音楽であれ絵画イラストであれ、はたまた文字を介した各種の表現であれ、受け手の側がそれら「うた」に向かって開かれた意識や感覚を持ってしまっている限り、どんな表現、どんな媒体であってもそのような発露の契機になり得るらしい。その限りにおいて、かたちは何であれ、あらゆる表現は「詩」としても現前し得るのだし、そこから「うた」はこちら側の生身の実存の側に宿り得もする。
そうやってうっかり喚起された「うた」――何らか情緒的で情動的なこころの動きを、ただその動きにまかせるだけでなく、自前で身の裡で折り返して何とか外へ向かって可視化したいという、おそらくは自然な欲望が、果して具体的にはどのような表現へと向かうものか。単にその場限り、たまたま訪れてしまったその「こころの憂さ」を晴らす程度でいいのなら、それこそ酒でもあおって「酔い」にまかせて高歌放吟するのもよし、あるいはその勢いで巷にさまよい出て女を買うもよし、いずれ「あそび」とひとくくりに呼ばれていたようなおとこ衆の、つまり社会的な存在として良くも悪くも公認されて/させられていたおとなのおとこの当時の立場にとってのそれら発散の仕方は、ある定型としてもあったのでしょう。少し前まであたりまえに語られていた「のむ・うつ・かう」という、おとこの「あそび」についての理解もまた、そのようなおとなの誰もが便利に利用できる定型としてありました。
ただ、それがそのような刹那的で一時的な発散という心ゆかせで昇華し切ることができず、何らか言葉による表現へと向かうのなら、声を介した話し言葉から記録を旨とした媒体である文字を介した文章表現へ誘導されるのもあり得る流れでしょう。そういう意味での創作としてならば、何も小説や詩といった形式だけでもなく、たとえいわゆる評論や批評といった分類に納められる類のもの堅い表現でさえも、その背後に「うた」が濃厚にわだかまっているものにもなってゆくはず。事実、妙な言い方ですがそれら「うた」濃度の濃淡によって、形式的な論理などとは別に表現の良し悪し、「読む」を介した文章表現としての質は、たとえ無意識裡にせよ知らぬ間に読み手の側に計測されているものでもありました。「論理」の明晰さや精緻さ、その結果導き出される結論のゆるぎなさなどの、巷間普通に考えられているようなそれら表現の価値とは別に、そうと気づかれぬ間にしっかりと。
そのように「文学」も「詩」も、すでに日常茶飯半径身の丈のあたりまえの暮らしの反復の裡に、それと思わぬようなかたちとありようとで広く浅く溶け込まされてしまっているのではないか。そのような日常内存在として呼吸し、棲息しているわれわれの生身の抱く意識や感覚の水準においても、おそらく同様に。敢えて距離を置くためのカタカナ表記で記せば、うっかりとブンガク的で、無自覚におポエムで、いずれそのような自意識のありようが濃淡の差はあれど、〈いま・ここ〉を生きるわれわれの生身に宿ってしまっている。
かつて80年代に猖獗をきわめた、あのポストモダンと称した同時代言説の流行とそれを支えた気分にしても、その内実にはかなりの程度そういう意味での「うた」がうまく処理されないまま、漠然と当時の「場」に共有されていた不始末によるものだったのではないか。いまやすでに昔話、そんな時代もあったね、と、それこそ中島みゆきばりの陳腐な朗詠っぽく年寄りの間で語られるだけのものになりつつありますが、しかしそれでも、当時あの時代、あの〈いま・ここ〉においてあのポストモダン的な言説がどのように読まれ、流行の熱気において受け取られていたのか、そしてそれがどのように当時の〈いま・ここ〉を生きていた生身の裡に何らかの「うた」をうっかり喚起してしまうものだったりもしたのか、他でもない自分事としてくぐり抜けてきた体験がある身の上としてはなおのこと、ただ年寄りの昔話、無自覚な「うた」まかせの朗詠沙汰で流しておいていいものではないはずです。
「この時代の生活の多様さを求める気持は、続けて現われたいくつかの合言葉で要約されていた。そのひとつはニュー(あたらしい)という言葉だった。ニュー・デモクラシー、ニュー・ナショナリズム。ニュー・ポエットリー、ニュー・クリティシズムといった言葉が流行した。『ニュー・リパブリック』という雑誌も1914年に発刊された。」
これは本邦ではない、海の向こうはアメリカの話。それも半世紀も前に書かれたものですが、〈まるごと〉の歴史に対する〈いま・ここ〉からの視野の開け方という意味では、むしろいま、このような情況の本邦の言語空間の内側からこそ、これら古証文にしか見えない文字・活字の群れからこそ、穏当な「読む」から豊かな滋味が引き出し得るだろうことを、日々ますます確信しているところです。
「だが、多分反逆の辿る運命とはこういうものだろう。十年もたたないうちにこの消費中心主義は、資本主義にとりこまれていった。そして資本主義は、意識してか意識せずにか、自らニュー・キャピタリズム(あたらしい資本主義)と名乗るようになった。この呼び方には、かすかに反逆反抗反権力のにおいが残っているように見える。」(ダニエル・ベル/林雄二郎・訳『資本主義社会の文化的矛盾』講談社、1976年)