
「公」に対する信頼、というやつが、どうやら急激に地を払いつつあります。少なくとも本邦の世間一般その他おおぜい、ありていに言って「民意」と呼ばれるような意識や気分の水準においては。
先の参院選の結果などはひとまず、その最もわかりやすいあらわれでした。
自民党だけでなく、公明党も立憲民主党も共産党も日本維新の会も、とにかく軒並み総崩れの退潮、議席減。その一方で、ここ数年で頭角を現してきた新興政党群、今回にわかに台風の目となった参政党や国民民主党、さらに日本保守党その他、それら新しい政党に「民意」が概ね雪崩を打った――その理由や背景などについては、別途またあれこれ「専門家」と称する人がた含めての分析沙汰もいくらでも出ているようですが、しかし、いま本当に必要なことはそんな「分析」ではない。何よりもまず、「これまであたりまえになっていた、われわれがそういうものだと思っていた政治」のありようが一気に雪崩のように崩れ始めたらしい、その認識を謙虚に穏当に共有しようとする、そういう態度こそが求められており、そしてその態度を、個々の年齢性別、社会的な立場や思想信条などの個別具体の膨大な違いを越えて、同じその「民意」の裡にどこまで身にしみて幅広く、同時代を生きる者たち共通の問いとして宿らせてゆくことができるか、です。


これまで何度も言われてきて、またそれなりにその兆しを感じ取る節目もここ20年ほどの間でいくつもあった、でも、それがどのような現実を招来するものかまでは本当に思い知ることまではなかった、あの「戦後パラダイム」の終わりというお題目が「政治」の水準において、しかも大方の想定していたような形とはまた違うありようで、およそ身も蓋もない眼前の事実としてごろりと放り出され、むくつけに可視化された、ということでしょう。しかも、奇しくも維新から敗戦までと、その先、今日までの「戦後」の時間の尺がほぼ等しくなった、この「戦後80年」というタイミングで。
とは言え、それは何も「政治」などという、どうしたって普段の日常とは関係の浅いよそゆき大文字のもの言いの水準においてだけでもない。新聞やテレビの報道を介して、あるいは昨今のこと、手もとのスマホ経由で刻々とよどみなく流れてもくるweb上の雑多な情報などもよすがにしながら日々仄聞する「世の中の動き」、それらに含まれている個別具体のささやかな事件や事故、問題化している事案などのあれこれにおいても、心静かに省みるなら、その「政治」の水準の雪崩現象とおそらく根を同じくする機序を背後にしているできごとが、すでにそこここで起こっています。
たとえば、物議を醸している高校野球の名門、広島は広陵高校野球部の「不祥事」をめぐっての、当の監督や高校校長から甲子園の興行を仕切る高野連の居直り方。あるいは、いまや市街地にまで出没するようになった熊の「駆除」の是非をめぐって、「熊を殺さないで」というクレームを地元の行政当局に延々投げ続ける一群の人たちや、無謀な作業やはた迷惑な生活態度が目にあまる在留外国人に対して苦言を呈する地元住民に対して、「排外主義だ」と逆に居丈高に口を塞ごうとしてくる「意識の高い」運動家たち……個々の事例は全く別のできごとであり問題であっても、意識の焦点深度を深くして眺めてみると、それらの背後に横たわる何か共通の鬱屈、同時代の「民意」の屈託の共通項が浮び上がってきます。


「公」であり「公共」と言い換えてもいいような、いずれそのような社会的な拡がりにおいて必ずどこかで担保されるべき「われわれが共に生きるための共通の地盤」という約束ごと、皮肉に言えば虚構であり「おはなし」でもあるそれらの現実が、少し前までのように「そういうもの」という理解に委ねてうまく役に立つこともできなくなり、と言って手もと足もとからそれを修復する手立てもおいそれと見つけられず、互いに顔見合わせお手玉している間に、もはやそのような「おはなし」を誰も信じようとすることさえできなくなっている。
自分が雇われ働いている「会社」や「組織」、日々暮らしている地元の行政を司る「役所」や「警察」「消防」から都道府県というまとまり、さらにそもそも大元の「国」に至るまで、半径身の丈の間尺を越えたところにさまざまに想定され、設定されているそれら広義の「公」「公共」のたてつけが、たとえ「おはなし」としてでさえ、この自分や自分の家族、大事な隣人などを守ってくれない――そんな鈍い不信感が「民意」のうしろにどんよりと、しかし地下茎のように根の深いつながり方を確実に伴いながら広がってきています。そして、それはその対極にあるはずの「私」の領域の深刻で切実な危機感にも連動していることもまた、確かです。