「隠し芸」の射程、繋がってゆく力


 「竹本三坑太夫義太夫「安達ヶ原三ノ切」をうなった。酒井委員が浪花節神崎与五郎東下り」を、上野委員が同じく「塩原孝子伝」を、目黒委員が「勇敢活発なる所の新劇浪花節」を語った。」

 義太夫浪花節、この「新劇浪花節」というのは正直、正体不明ではありますが、それはともかく、これは「一九一五年(大正4)の九月、磐城炭鉱小野田鉱で「友愛会」の磐城第三支部の第3回娯楽会」でのこと。「会場は会社の建てた剣道場で、四〇〇人も集まった」そうです。

 「竹本三坑太夫とは、よくつけた名前で、小野田鉱の第三斜坑あたりのどこかの現場で働く坑夫か職人かで、義太夫がメシより好きな人だったのだろう。ヤマにはこんな芸達者が多い。磐城炭鉱、入山炭鉱、その近くの煉瓦工場や銅鉱山に友愛会支部や分会が作られはじめたころである。支部、分会は競って娯楽会、家族慰安会、茶話会などを開いたから、これらの喉自慢たちの出番はたくさんあった。」

 明治末から大正初期、浪花節が一気に全国区の「国民芸術」へとのしあがっていった時期、東北のヤマに流れてきた「芸達者」たちのレパートリーの中でも、やはり浪花節は人気だったようです。

 「出し物は浪花節が多かった。……「義士銘々伝」、「南部坂雪の別れ」、「岩見義勇伝」、「塩原太助馬別れ」、「血染めの連隊旗」などなど。落語は少なく、「来々坊主」や「子はかすがい」といったところ。ほかに筑前琵琶、手踊り、長唄、清元、新内に壮士踊り、剣舞までが出た。蓄音器をまわし、バイオリンを弾いて聞かせる人もいた。「大阪浪界の花形柳家松子嬢」の「小楠公河内の宿」を聴くなど、たまには本職の芸人も呼んだ。」(呑川泰司『光と風の流れ――山代吉宗の道』いわき地域学會出版部、1993年)

 当時の友愛会ですから、要はのちにさまざまに展開されてゆく労働組合のごく萌芽形態。底辺の「持たざる者たち」ならではの素朴な互助の精神をよすがに、まずは実利的な目的でつむがれていた集まりではあります。とは言え、文字通り草の根の素朴な組織力は時代背景を後ろ楯にしてなかなか旺盛で、それにはこれら「芸」を介した小さな集まりの「関係」と「場」がそれぞれ連鎖してゆくことで、大文字の主義や思想などには未だ浸透されない、生身の民俗レベルの身体性に駆動される闊達な仲間意識が醸成されていました。


 「隠し芸」という言い方が、本邦世間一般その他おおぜいの間の語彙として広まっていったのも、概ね同じ頃。普段のつきあい、世間の表沙汰としての社会的な「関係」においての人となりからは「隠されている」何らか別の側面があらわにされることで、その表沙汰のつきあいに対する動かし方の選択肢をお互いに立体的なものにして「役に立つ」よう造り変えてゆくための道具として、「芸」が必要になっていった。それは、毎度恐縮ですが、柳田國男が「酒の飲みようの変遷」として、明治以降の近代における「社会的なつきあい」のありようが変貌してゆく過程で、飲酒がそれまでの民俗社会としてのムラにおけるのとはまた違う、互いに出自背景や来歴の全く異なる者たちを都市的な空間、つまり「市場」的な暴力が公然化せざるを得ない環境において互いになじませてゆく上で大きな役割を果たすようになっていったことを、あの『明治大正史・世相篇』でことさらていねいに説いてみせたのと同じような意味において、これら表沙汰からは「隠された」さまざまな「芸」もまた、そのような飲酒を伴う「関係」と「場」において上演されることで、等身大由来の生身な共同性の賦活剤として重要な役割を果たしていました。

 こういう宴会、互いの関係をより親密なものにして懇親を深めるために開かれる文字通りの「社交」の場における高歌放吟、酒の力も当然あった上での興奮や昂揚があたりまえのように「うた」を宿すものであったことは、これまでも折りに触れ、それぞれ入射角を変えながら何度か語ってきたことでもあります。ここで義太夫は「うなる」で、浪花節は「語る」と表現されているのは、単にこの筆者の持っていた語彙とそれに従う手癖ゆえだったかもしれませんが、だとしても、「うなる」も「語る」と共に同じ位相で、その場に何らか自己表現を行う上での動詞として使われていることには違いない。そして、このような懇親の場、慰安会や娯楽会においては、自己表現という意味で政治的な主張を込めた演説も平然と織り交ぜられるものでしたし、それらもまた、まさに同じ「隠し芸」の一環として何ら不自然でもない形で「演目」のひとつとして受け取られるものでした。近代の装いをまとった演説(テーブル・スピーチ)もそのような場においてはまた節談説教の末裔であり、生身の身体を介した「芸」として理解されるものだった。大事なのは、ひとりひとりの「個」がうなり、語り、うたい、舞い踊り、そして弁じ、時に荒ぶり暴れることなどまで含めて上演することであり、それらすべてを「芸」というたてつけにおいて許される場がそこに現出する、ということでした。

 表沙汰の世間づきあい、「社会的な存在」として通用している人となりとは別の、もうひとつの人格といったあらわれ方をその場にわかりやすく現前させるための触媒としての「隠し芸」。それが「個」の表現として行われるための選択肢が多様に、何でもありに増えていった過程もまた、われらのくぐり抜けてきた「近代」の一端でした。浪花節義太夫も、落語も長唄も清元も剣舞も、路上の演歌師の身ぶりの引き写しも加えての楽器演奏つきの演歌も、そして何らか政治的な意味あいでの主義主張の熱弁ぶりでさえも、そのような「関係」と「場」においては全て「芸」として認められるようになってゆく。それがその頃なりの「自由」の、そうと意識されていない領域も含めてのあらわれであり、まただからこそそれは、それまでとは地続きながらも少し異なる不連続もはらみつつ未だおぼつかない千鳥足で輪郭を整えつつあった「個」のありよう、そしてその裡に宿る「うた」の普遍の水脈にまでも、おいそれとは気づかれぬかたちでの爪あとを残してもいったようです。


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 とは言え、浪花節というのは、やはり敷居のそれなりに高いものではあったらしい。少なくとも、文字の読み書きをわが身につけ、その習い性によって日々の現実を生きるようになっていた、いずれ濃淡さまざまではあるにせよ、いわゆる知識人やインテリの類として世渡りの舞台に身を置くほどの立場にあるくらいの者たちにとっては。

 前回少し引き合いに出した尾崎士郎にしても、ご紹介したような浪花節の本質に対するその的確な理解とは別に、自分自身が上演するそれは「うなる」とも「語る」ともつかない、実際にはかなり得体の知れない代物ではあったようです。

 たとえば、戦争末期、「報道班員で戦地へやらされた作家ばかりで文学戦友会を作ることになった」、要は陸軍報道部との懇談会でもあるのですが、その集まりにおける尾崎の浪花節についての寺崎浩の追憶の一節。

 「その日、本郷の鰻重だったと思うがみんな集った。その日は惜しみなく酒が出て、鰻を喰べた。浜松の鰻の肝を強壮剤に使っているか何かでそのおあまりがくるのだが、軍用に少ししか入らない模様であった。その夜、尾崎さんは得意の喉で浪花節をやった。二十分くらいも壮大な文句を語っていたようである。やんやの拍手だった。」

 そこで尾崎が確かに浪花節を語ってはいたことは認識されていても、「ようである」という距離感にとどまっていて、具体的に何が、どんな内容が語られていたのかは詳らかにされていない。これは意図的にではなく、そもそも筆者の寺崎も含めた尾崎のまわりの文学の仲間たちも、ほとんどは浪花節についてそれ以上の解像度を持っていなかった、つまりその程度の距離感をあたりまえに持っていたということなのでしょう。ちなみに、寺崎は詩を西条八十に、小説を横光利一にそれぞれ師事して年季を入れたという御仁。徳田秋声の娘を嫁にしていたそうですから、まあ、当時のいわゆる「文壇」環境における純粋培養な、悪い意味だけでもない量産型の通俗的文人のひとりと言っていい。

 その解像度は戦後になっても変わりません。「辰己会という呑んで話をする会」ができて、「心おきなく、何でも話せる会でこれは楽しかった」そうなのですが、その集まりのある日の二次会でも尾崎の浪速節は披露されている。しかし、ここでも何を語ったのか、演目なりその内容なりについては一切触れられず、ただ素っ気なくもこれだけ。

 「多分その時は尾崎さんの長い浪曲が続いた時であったと思う。片手を帯の間に入れて、例の癖のあるしゃべり方で読むのである。機嫌がいい時は朗々といつまでも続くのである。」(寺崎浩「浪曲」、尾崎清子・編『飄々録』所収、私家版、1965年)

 このような酔って口ずさむこと、「うた」を外部に流れ出させる生身の習い性は、ある時期まで本邦の世間一般その他おおぜいにとってあたりまえに共有されていたものでした。尾崎士郎などはある意味、そのわかりやすい見本のようなもので、そのような「微酔中の微吟」の類は、彼にまつわる思い出話の類の随所に出てきます。その場合に「浪花節」とだけ記されてきたものも、実際の上演としては浪花節のフシに乗せての自らの「述志」、それもその場に応じての即興の語りでありうなりだったらしい。だから興に乗ればいくらでも続けられ、内容についても外題としてまとまった筋や結構があるわけでもなく、要は即興での自由詩、ないしはある一定のテーマに沿って気ままなソロを好き放題ブロウし続けるジャズのアドリブのようなものだったと考えるのが、現前としてはおそらく当たらずとも遠からずの実態だったのでしょう。それは浪花節でなく、相撲甚句漢詩の一節であっても同じこと。フシや朗詠など乗せる調子は違えど、その表現の背後に流れ続けるのは演者としての主体の意志であり、感情であり、情熱やパトスであり、いずれ身の裡に宿る「うた」が源になった身体ごとの流出であることには変わりはない。酒に酔うことでその流出の回路が開かれることと併せ技になり、そのあらわれはさまざまでも、同じ上演の〈まるごと〉においてそこに立ち現れてしまう〈リアル〉はゆるく通底するものでした。


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 尾崎の浪花節好きを語る際、定型のようにして引き合いに出される彼が好んで唸っていたという「さわり」もありました。 「青きは鯖の肌にして、黒きは人の心なり」というものですが、その一節だけがすでにひとり歩きすらしているところもあるらしいあたり、これもまた興味深い。

 「伝説によると、尾崎君がまだ名をなさない学生の頃、小遣いに窮して当時売出しの桃中軒雲右衛門のために浪花節を作って送ったという、その冒頭の名文句だということである。無論それは雲右衛門のとるところとはならなかった。しかし尾崎君は酔うとその一節を自分でうなった。」(平野零児「寡作流行作家」1962年)

 もともとは雲右衛門に書いたもの、という尾ひれの部分はともかく、この「さわり」が彼自身の手によるオリジナルの節だったという設定はあれど、それが何らかまとまった外題として、一連の浪花節の文句として定まったものがあったという記述は寡聞にして目にしたことがない。

 つまり、大事なのは自分たちの仲間である尾崎士郎浪花節を語り、読んだ、上演したということであり、それは「壮大な文句」を「朗々といつまでも続」けることのできるようなものであり、彼らの耳を介してはそのようにしか記憶されないようなものだった、でもそれこそが、まわりの「目に一丁字ある」読み書きを習い性としてしまったような人がたの記憶の裡に「浪花節」がくっきりと刻み込まれる際の輪郭になっていたようです。

 このような浪花節の上演に対する記憶のされ方、それを元にした記述のスタイル、語られ方というのは、何も尾崎についてだけでもない。孫文の盟友として支那革命に奔走した後、尾羽打ち枯らして深く韜晦、国民芸術としての浪花節中興の礎であった桃中軒雲右衛門に敢えて弟子入りしたあの宮崎滔天の実際の上演にしても、残された新聞記事その他の記述をあらためて眺めなおすと、彼がただ浪花節を懸命に語ってみせていた、ということが眼目になっています。もちろん、元が不平士族の大陸浪人、芸事にはまったくの素人のことゆえ芸人としてのクオリティはあらかじめ不問に付されるのが当時の約束ごとだったようで、その意味ではそれもまた仕掛けの壮大な「隠し芸」的な解釈にもなっていた気配もあるのですが、いずれにせよ、ならば彼が実際に何を、どのように上演したのかについての描写は薄く、伝わる内容も乏しい。

 ここでもまた、「浪花節」という当時にわかに熱っぽさを帯び始めていた新しいスタイルで、あの滔天が何らか上演してみせた、それが何よりも大事なことになっていました。そういうスタイルによってその頃韜晦していた彼の腹の裡、わだかまっているものを芸人というたてつけにおいて吐き出していた、まさに「述志」のひとつのあたらしい形としての上演であったことが、新聞その他に活字として伝えられるべき最も重要な情報になっていたということだったのでしょう。先の言い方に沿って敷衍するなら、「個」の表現としての新たな形式がひとつ、その頃の世間一般その他おおぜいのある層にとってもわかりやすいものとしてあらわれ、それが滔天という本来それら芸事とは関係のない出自来歴の者にまでもあっぱれ影響を及ぼし、よくわからないまでも彼自身がその見慣れないスタイルでクラシックな「述志」をやってのけた。そこで語られた題目でも中身でもなく、文句の筋書きや結構でもない、「うなる」その声の響きなどもひっくるめてのそのような見慣れぬスタイルでの〈まるごと〉の上演に身を任せた鮮やかな自己表現の現前こそが、「桃中軒牛右衞門」宮崎滔天浪花節の組み合わせによって立ち現れた上演の〈リアル〉、すなわち当時の新聞その他の文字/活字メディアの伝えるべき価値ある事実、という認識だったようです。

 そんな浪花節に真っ先に熱烈に反応、理屈抜きに全身で同調し、軽挙妄動自ら真似てやってみることも含めて身体ごと前のめりに呼応してみせたのは、都市部のいわゆる雑民、下層民や当時、地方から大量に流入してきていた寄る辺なき単身労働者たちでした。あるいは同じ頃、発明されて間もない輸入ものの焼き玉エンジンを積み込み自らの創意工夫で容易に扱えるよう仕立て直して世界を一気に拡げてゆくメディアとしておのが漁船を飛び道具に変え、その活動領域を拡大してゆき始めていた西南日本由来の漁民衆も、また。

 いずれそれら未だ見慣れぬ新しい「個」――市場的な拡がりがそれまでと違う野放図な規模を獲得し、あっけらかんと暴力的なものにまでみるみる変わってゆく環境の、その最も尖端でなじもうとしてゆかざるを得なかった彼らの自意識や感覚、価値観や世界観なども含めた生身の実存に最適化された斬新な自己表現のスタイルとして、浪花節は受け入れられてゆきました。そして、それら身体ごと浪花節という自己表現に投企していった者たちとは離れたところにいたはずの文字の読み書きを実装したような層においてもなお、同じ「近代」に等しく足つけて生き延びねばならなくなった状況にある以上、自己表現の新たなスタイルとして輪郭だけでもなぞってみたい、その程度には魅力あるものとして手に取ってみるような手段になっていたらしい。滔天から尾崎士郎に至る、それら文字の読み書きの習い性の側に囲繞されていた者たちにとっての浪花節のありようの系譜は、「近代」が同時代の自己表現のスタイルを多様化させてゆく過程においては、たとえ出自来歴もその後の経緯も異なり、社会のどのような場所に配置されていようとも、うっかりと「自由」に「平等」にその表現のための機会が開かれていったことを期せずして反映してくれています。


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 さはされど、であります。

 このように風呂敷のひとつも広げてみるものの、やはりわれら人間にまつわる事象についての考察沙汰は、どのように誠実に運んだところで、どうしても視点によって、問いの入射角によって、またこちらの抱えた素材、手にする道具にもよって、そのアウトプットはまたさまざまな立ち現れ方をするもの。前回から少し立ち止まってあらためて手繰ってみているこの浪花節にまつわる問いにしたところで、近世の俗曲や音曲の経緯来歴や、そもそも三味線にまつわる民俗レベル含めて醸成されてきたであろう本邦の耳の習い性、などなど、何にせよおのれひとりの脳みその間尺では到底始末のつけられようもない問いばかり、次から次へととりとめなくまろび出てくるわけで、このへんのことを本気で思い患い始めると、いつもながら呆然と立ち尽くすばかり。

 そんな中、また別の、こんな補助線も引けることを、日々新たに教えられたりもする。

 「演説に至ては、其行はるゝ日猶浅く、弁士最巧なるものと雖も、能く流滑にして語句を錯まらず、即ち雅馴を失はずと云ふに過ぎず、其筆記を読み文章として称美すべき者は、恐らくは有ること無し、(…)是れ独り未だ習熟せざるのみならず、其中心に燃ゆるが如き熱誠と、至剛の気と無きの致す所なる可し」

 中江兆民が演説について評した文章の一部の由。これを踏み台に、「明治二二年、自由民権の主唱者達が大阪で一同に会したとき、兆民は印半纏に腹掛け、紺股引といった恰好で演壇に上がり、大工、左官の名において民主主義に関する講演をしたという逸話」を引っぱり出し、かの『三酔人経綸問答』における「豪傑君」のキャラクターをこれまで通説的に言われてきた北一輝でなく滔天に擬して、彼が雲右衛門に弟子入りまでして韜晦してみせた身体的な上演の背後の主体の内実との通底をほのめかしながら、ならば、兆民のその際の「演説」の上演もまた、「ちょうど文楽の語りのように、激しい所作と気概と音声が入り交じった口説ではなかったか」と、あくまで生身の実存とそれを介した上演の〈まるごと〉から目線を切らぬよう力技での制御を利かせて語り流してゆく言説の結構を目の当たりに見せられたりすると、ああ、なるほど、たまたま自分の邂逅し得たものとはまた別の来歴を持つ素材、素姓からして異なる道具を手にした仕事の丹精は、こちらの予期せぬ問いを想定外の奥行きと方向とでこのように現前化してくれるものではあるのだなぁ、と嘆息しながら片手拝みに付箋をつけ、よれた大学ノートにまた備忘する。

 「人が胸裡に抱懐したり紡ぐ思想や観念の内実が、その個体が抱く音に対する感受性や好悪とは別なものであるとすること自体、そもそも粗雑な考えであるとしか言いようがない。前者が優位で、後者が劣位であるとするのはおかしなことである。しかし、(…)日本近代の「思想」は、この自覚のなさにおいて、非常に拙劣、否、陋劣であった。同じことは、音楽以外に、文学、美術いずれの面においても固有な問題として出現した。」(樋口覚『三絃の誘惑――近代日本精神史覚書』所収、人文書院、1996年)

 〈いま・ここ〉の〈まるごと〉としての上演――こういうお世辞にも読み手の側に親切とは言えない表現を、なるほど、これまでもしてきました。それは、とにかく時間も空間も限定された「関係」と「場」に初めて宿る何ものかの、あのあやしくもなまめかしいありようにどうしてもこだわりがあってしまうことがひとつ。そして、文字の理屈や言葉の端正、意味の綾なす理路の裡に決して回収してしまえないその現前というのも必然的に生身がそこに「ある」ことに規定されているという、この限りある生を生きざるを得ないわれわれにとっての逃れようのない現実をうっかり忘れないようにしたいがためがもうひとつ。それはまた、ともすればたやすく文字と言葉のもたらす他人事の水準に舞い上がりかねないこの自分自身の軽佻浮薄、ついうかうかと軽挙妄動に奮迅してしまう性癖に対する戒めという意味あいが大きいものでもありました。

 文学であれ、音楽であれ、絵画や彫刻、あるいは芝居や舞踊の類であれ、いずれ「創作」と認められる営みの結果というのも、そのような上演の現場からいったん切り離されたところに初めて「作品」として想定されるようになる。そしてそのことによって「作者」もまた、別個の輪郭で切り出されるようになり、その結果、「作品」と「作者」があたりまえのように紐つけられてゆく。でもそれは、生身の営みに必ず下支えされた、この人の世の〈まるごと〉からは疎外された約束ごとであり、いかに自明のものとして透明化され、もはや確固とした制度にまで硬直してしまっているのだとしても、ことの本質として、所詮はその程度のものにすぎません。

 ですから、自分の手にあるおぼつかぬ語彙としての〈いま・ここ〉の〈まるごと〉とは、それら「その程度もの」の側から疎外されたままの上演の現場、最も切実な生の場所に宿る〈リアル〉と共に、穏当に失地回復され、あるべき歴史と現在とが共に織り込まれた位相に生身の上演を介して正当に帰還する権利を留保していることも強く含まれているという、ある種のマニフェストのための旗印でもあるようです。