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桃中軒雲右衛門というのは、つまり「矢沢の永ちゃん」でした。
それは、あの「矢沢の永ちゃん」、かつてキャロルの一員として本邦世間一般その他おおぜいの共同的認識において、「ロック」ないしは「ロックンロール」をおそらく初めて、この上なく具体的でわかりやすくミもフタもない形式を伴う表現、表象としてまるごと理会させていったのと同じような意味において、「あたらしい時代のあたらしい気分」を「カッコいい」の正義ごかしに勝手に引き受け変換、増幅し発散し、また世間へと打ち返してゆく稀有なノズルとして機能していました。カルチュア・ヒーロー、大衆社会化に伴い、勝手にうっかり宿ってきてしまう新たな「英雄」の、おそらくは本邦におけるそのはじまりの形象として。


雲右衛門の登場によって全国に●右衞門と称した浪花節語りがたくさん出現し、その多くがスタイルとして総髪、羽織袴という威儀を正した装いで、演じる外題も雲右衛門の名を一躍高めた一連の義士銘々伝、そういうまがいものや偽者がそれほどまで一気に増殖、流通して罷り通ってゆくこと自体、同時代現象としての雲右衛門、つまり浪花節がそれまでとは違う次元の「流行」現象になっていた証しでした。
「浪花節は聞くと同時に見るべきもの也、其の演ずる節調と演者自身の態度と相待って其處に人物は活躍するもの也と云ふ、然り演者の演中人物と同化が藝の真髄。」
「大石内蔵助を演ずるの人、態度野卑ならんか聴衆誰か内蔵助を眼前に髣髴するものあらんや、態度表情は演者の最も注意を要する處たらずんばあらざるなり。」(「浪界 匕首一閃」 『駄々子 藝界の友』 24、1915年)
そのような形式でありスタイル、モード、つまりは見てくれこそが大衆表現のある本質であり、世間一般その他おおぜいという、それまでとは質量共に異なる「市場」的な現実に宿る匿名性をまとった「聴衆」「観客」の方にはっきりと向いた表現の方向性を持っていたということが、寄席とそこに集まる範囲の客を前提にした近世以来、それまでの「話芸」群とは明確に異なる、そんな「異質」さだったようです。
同時にまた、「個」の表現としての「うた」、という鋭い意味あいが、それら一連のスタイルと共に、世間一般その他おおぜいの意識の銀幕に、ハレーション気味に焼きつけられました。
ならば、落語であれ講談であれ――いや、かつての言い方ならば、ここはむしろ講釈、でしょうか、浪花節がちょんがれ、うかれ節の流れでの口語的なもの言いから、いつしか浪曲と漢字二文字に凝縮して固められてゆき、その分、いらぬ裃をつけさせられもしたのと同様に、講釈と身近に呼ばれていたものが講談になった、それもまた同じ維新このかた、明治の御代のことだったそうですが、それはともかく、それらいずれ近世以来の「話芸」群の上演に携わる落語家や講釈師が、果して浪花節のようなあたらしい「個」の表現を担う主体として固有名詞と共に受け止められていたか。三遊亭円朝であれ松林伯円であれ、その時期その時代における、そのジャンルでの名人上手としての評価はあったし、それに見合うだけの人気も共感も獲得していたにせよ、でも、やはり浪花節が雲右衛門を介してうっかり現前させてしまったような、そのスタイルをこそ本質としたような「矢沢の永ちゃん」的な「異様」を伴う貫通力や起爆力は持てなかった、そう評価していいでしょう。


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そんな雲右衛門に至る過程、というのも、もちろんあった。
明治初年、10年代あたりは「政治の季節」でした。議会開設に向けて自由民権運動に代表される政治的な運動が盛んになり、そこに参加する不平士族ないしはそれに準じた属性を良くも悪くも身につけた、そしてその分こってりとルサンチマンや懊悩、葛藤も腹いっぱいに抱え込んでいたであろう一群が中心となって、それら同時代のある部分において切実な表現としての「政治」が「運動」と共に現前していました。そして、その場において「演説」がひとつ、あらたな表現の形式としてもてはやされるようになっていた。「政談演説」が「講談」の形式を借りて、あるいはそれを隠れ蓑として、不特定多数としてのその他おおぜいに向けて共感を組織するために、意識的かつ方法的に駆使されるようになりました。
かの板垣退助曰く、「このごろのように、言論の圧迫がひどくなっては、到底政談演説の形式によって、一般の人に政治論を聴かせることはむつかしいのみならず、人民の政治思想が低いから、まずもって之を養ったうえでなければ、政府と対等に戦っていくことはできまい。」

「このごろ吾輩が考えたのでは、こういう一策がある。今の軍談読みは、昔の太平記読みで、多く軍書を講じたものであるが、演説がいけない、といふなら、軍談をやつて見たら、よからう。諸君は口から先に生まれて舌の滑らかな連中であるから、講談師に化けて、表面はどこまでも軍談をするように見せかけ、その間にいろいろな譬喩や警句をさしはさんで、だんだん政治知識を一般の人に吹込むようにしたならば、どうであろうか。材料には、虚無党の銘々伝であるとか、または仏蘭西の革命史であるとか、近頃行われて居る経国美談というようなものに話材をかりて、その間に諷刺を加えてやれば政談演説以上の効果を奏するにちがいない。」

日本語は座談には向いていても、公共に向けて主義主張を弁ずるような作法はなじまない、だから「演説」というこれまでにない表現の形式を学ばねばならない――一方で、福沢諭吉以下、明六社に集ったほどの開化主義者たちも、そう考えていたようです。その稽古の一環として、まずテーブル・スピーチが称揚され、それも同じく「演説」と文字化されて広まっていったわけですが、しかし、本来めざした「政談演説」とは、議場のような開かれた場の聴衆に向かって、おのれの主義主張を訴え、説得してゆく、そのための表現の形式として理解されていたものでした。
当初は「演舌」とも表記されていた、その「舌」と「説」が同じ音であることを介した敢えての短絡のさせ方に、自分などはかねてよりいたく感嘆、まさに話し言葉が半径身の丈、日常の間尺での雑談やおしゃべりの射程を越えて、何らかの貫通力や起爆力を伴い得る剣呑な「力」の媒体となり得ることがはっきり意識されるようになった、そんな時代相が反映された表記であることを強く印象づけられたものです。そう、誰もがその気になればやれてしまう、やれるかもしれない、だからやってみたい、そのように腰を上げてしまうようなあやしい熱気をその他おおぜいにうっかりと与えてしまう表現として、「演説」は当時、新たな言葉の作法として世に現われ始めました。
横浜の薬種商の息子だった伊藤仁太郎は、そんな「演説」の魅力にわずか14歳で巻き込まれ、その後、政治的な運動を続けながら芸人伊藤痴遊として講釈師の生を歩むことになります。孫文に肩入れして支那独立運動、つまりは「革命」に挫折して深く韜晦、自ら雲右衛門に弟子入りを懇願して桃中軒牛右衞門を名乗って浪花節語りとなった宮崎滔天にしても、生まれ育ちや出自背景の違いはあれど、世代的には幕末から明治初年生まれのほぼ同世代、伊藤痴遊と相通じる同時代人でした。


彼ら政治的な人間がうっかり心をとらえられてしまった表現としての政談演説や浪花節というのは、たまたまそうであったというだけで、要はそのような「個」の表現、自らの想いや考えるところを表現し、広く世間一般不特定多数のその他おおぜいに向けて伝え、耳傾けてもらい、あわよくば共感し理解し、さらに同じように心動かしてもらえればありがたい――そういう希望と共に身を投じた表現の形式であり、そのような性格においての「芸」ではありました。
それは、それまでの漢文脈の語彙で言うなら「述志」であり、そのための上演的な芸能として受け取られ、機能していたと言っていいのかもしれない。素朴で直線的な英雄崇拝や悲憤慷慨、熱血あふれる至誠などへの一見浪漫主義的とくくってしまわれがちな傾きも、それら漢詩的な素養に裏づけられた彼らのリテラシーのありようゆえの特性というところは、おそらくある。
ただ、それまでの「述志」と違うところがあったとすれば、たとえば、それが必ず説得し、共感させ理解へと導いてゆくべき相手を何らか眼前に具体的に想定した上での表現でした。そして、その相手は生身の聴き手であるだけでなく、彼らの背後にも同じように拡がりを伴って存在していることを想定される説得対象としての、つまり自らのその「芸」を伴う表現を受け止めてくれる聴き手としてのその他おおぜいという、不特定多数の潜在的な聴衆イメージも含めての所作になりつつあったことでした。このあたりが、近世以来の寄席を足場としてきた落語や講釈との違いになっていた。
「八丁荒らし」というもの言いが、その時代に人気を浚った芸人の通り名としてつけられていました。それは円朝や伯円から、のちの春団治などに至るまで、落語や講釈はもとより、〈それ以外〉のジャンルの演しものを架けていた色物の寄席から、浪花節や女義太夫、万歳などの新興泡沫扱いされていたような端席までも含めて、およそ寄席と名のつくような小屋ならばお構いなし、「八丁」ほどの地理的拡がりにひしめく興行ものの客を軒並みかっさらってしまうほどの人気を博した、ということの表現ですが、まさにその半径「八丁」程度の範囲に生活している人々を具体的な観客、眼前に引きつけ魅了させてゆくべき聴衆として想定していたのが、近世以来のそれら寄席に拠った芸能の「市場」の射程であり、上限でした。八丁、つまりざっと800mあまり。その程度の間尺の「地元」に根ざした、言わばホーム・グラウンドのはっきりした遠近法を聴き手を想定する距離感の裡に内在させた、良くも悪くもそういう上演を標準設定にして輪郭整えてきた、まあ、そういう芸能だったということになります。
なので、地方をめぐる巡業というのは、落語はもちろん、講釈にしたところで得意ではなかった。地場を離れたそんなアウェイの旅興行には「地元」に紐ついた良い聴き手がいるはずもなく、そもそも落語にせよ講釈にせよ、聴き手のリテラシーや出自階層などを選ぶところがある。そして、そのような良い聴き手がそれなりの密度で遍在し得るような社会的な条件、交通その他のインフラも含めた情報環境は、明治期以前の近代未満の社会にはまだ整っていませんでした。
ゆえに、寄席など屋根のある小屋に収容されない、別の言い方をすれば「地元」に認知され受容、包摂されることのない、路上をさまよう寄る辺なき芸人たちは、いずれ実態は乞食や物乞いと同じ困窮した貧民、雑民、下層民であり、たまたま何らか「芸」とみなされ得る立ち回りをしてみせることで、それと引き換えにいくばくかの銭や食べ物を「恵んでもらう」存在としてしかありえなかった。それは巡礼や遊行者、僧形の流民などと同じ〈それ以外〉の存在なわけで、なるほど節談説教や口寄せといった信仰を表沙汰にした表現の類もまた、世渡りの方便としての「芸」の一端に納められるだけの理由もあったわけです。


一方、政談演説は、地方への巡業も好んでやった。というのも、なにしろ「政治」ですから、自分たちの主義主張を広く訴え、支持や共感、理解を広めてゆくことが第一。加えて、元が不平士族かそれに準じる近世知識人由来の漢文脈のリテラシーを実装していた層が主体になっていた分、良くも悪くも「啓蒙」という意識も強かったわけで、寄席に拠る「地元」ありきの実存を抱える芸人たちと違い、最初から開かれた「市場」意識を伴っていた。その意味でも、彼らの巡業、地方興行は伝道と同じでした。事実、雲右衛門の浪花節が九州から再上京してブレイクし始めていたのとほぼ同じ、日露戦後の明治40年前後に、それまで国会開設期成の運動の頃から政談演説を「自由講談」と称して政治的な広報宣伝の手段として東奔西走していた社会運動家たちは、その頃の牛乳屋の使っていた箱車を曳いてパンフレットを売り捌きながら地方をめぐっていたことを「思想伝道行商」と自ら称していた。それが「伝道」であると同時に「行商」であった以上、何らかの売り言葉もまた、彼らの話し言葉を介してのやりとりとして当然なされていたはずで、その場もまた、演歌師などの稼ぎぶりと地続きの、ささやかな「芸」を伴う路上の現前の一端であったに違いありません。


「荒畑寒村によれば「宣伝と商売とを結合させた新しい運動形式」であるが、「当時は宣伝という語がほとんど使われず、つねに伝道と称せられていた」という。実際に平民社にかかわりを持っていた木下尚江や内村鑑三はキリスト教信者として知られていたし、大杉栄すら、この時期は海老名弾正門下であった。まだ充分な社会主義理論が紹介されていなかったこの時期において、「社会主義」は信仰に近いメタファーを用いて表現されることが多かった。」(高栄蘭「「平民」行商たちの情報戦」 JunCture 06、名古屋大学超域文化センター、2015年)
浪花節も同じこと、こちらはもともと野外でやっていた乞食芸に等しい大道に生きてきた芸能でしたから、売るべきものは自ら身体を張って上演することのみ、その場の投げ銭をかき集めて日々生き延びる露天の「ヒラキ」や門付けこそがなけなしの舞台だったわけで、人目を引いて関心を集めて懐から何らかお鳥目を得るためなら、あらゆる手立てを理屈も文脈も関係なく取り入れるのが身上。政談演説などよりはるかに何でもありの猥雑さを身につけていったのも、ある意味必然でした。浪花節の「異質」の根源は、この何でもありの猥雑さを平然とあたりまえのようにとりいれてしまう、淡島様や「童夢」のチョウさん、あるいは「千と千尋の神隠し」の腐れ神のような、民俗レベルと強く通底する禍々しさにあったはずです。


「そこえ行くと手軽なのは浪花節だ。長髯と肩書でヲドかすのなら幾何でも転がってゐる。引抜き早替りをやる虎吉、衣冠束帯で唸る宮川中納言、横綱の土俵入りと甚句踊を余興にやる綾瀬川、日清戦争の勇士、玄武門十吉と名乗る原田重吉、その他図々しく独演をやる先生方なら数え切れぬ程ある。(…)法学士の浪花節語りさへある世の中だから不思議ではない。」(「法学士の浪花節語り」 『都新聞』 大正2年5月3日/芝清之・編 『新聞に見る浪花節変遷史 大正編』 浪曲編集部 所収)」
「早替りに衣冠束帯に相撲に日清戦争の勇士英雄……出自も文脈も本来異なるさまざまな芸能、雑芸、見世物の素材が分解され、都市の浪曲の周辺に蝟集し始めているさまが見てとれる。「法学士」とて例外ではない。それらインテリ/知識人の世界観において序列化されていた素材もまた、このように並列に「何でもあり」にフュージョンされてゆく。浪曲勃興期の草の根ナショナリズムとは、このような「何でもあり」の空間としての寄席や劇場、上演場の「気分」を下支えにして成り立っていた。その程度に、同時代の「路上」――物理的空間としてではなく、文化的空間として「都市」のフュージョンを可能にしてゆく「場」とは、正しく〈いま・ここ〉だった。」
20年近く前の拙稿古証文のこんな表現も、「矢沢の永ちゃん」的な意味でのスタイル、モードの越境的な突破力、起爆力が芸能としてのジャンルの区分けなど平然と飛び越えて、それこそ「カッコいい」という気分の触発性ひとつでいくらでも同時代のあらゆる局面に憑依、伝染してゆくようなものだった、とでもさらにほぐしておいていいのでしょう。*1

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「善助はまた歌舞伎通、講釈通、落語通だった。どこかへ用達しに行く時、よく私を手招きして一緒に連れ出してくれた。(…)寿司の立ち食いなんかも、善助に仕込まれた。(…)屋台の天婦羅屋へもよく連れて行ってもらった。寿司やてんぷらで腹ごしらえをしてから、寄席へ連れて行ってくれるのだ。寄席の帰りに、小腹の減っているときに食べる蕎麦のうまさ。寒い晩などに、フウフウ言って食べるカメチャブという一杯一銭五厘の牛ドンブリなども、善助に連れて行かれて味わった。思えば、芝居、寄席、相撲、チャリネという曲馬団、どれもこれもみんな、もし善助がいなかったら、私は知る機会なしで終ったろう。(…)雲右衛門の浪花節だって、二円の木戸を払って善助が連れて行ってくれなかったら、恐らく聞かずじまいだったろう。」
小島政二郎が書いた、彼の生家の呉服屋に長年勤めていた通い番頭、善助という男の追憶です。
子どもの頃から奉公してきて、暖簾分けをさせてもらうまで勤め上げた際、暖簾分けの代わりに貸本屋を開きたいと申し出て、一日一銭程度の見料で本を貸す、言わば副業としてそれを女房にやらせ、自分はその後も通い番頭のまま。とは言え、その貸本屋というのも、全て一から新規で始める了見でもなかったらしいのは、彼の開いた店の中を見れば、商売道具にする本があらかじめすでに貯め込んであった形跡が明らかだったこと。
「その頃のベストセラー、例えば尾崎紅葉、川上眉山、小栗風葉、村井弦斎、村上浪六、幸田露伴、広津柳浪、江見水蔭の小説類をはじめ、講談本、落語集、文芸倶楽部、新小説のような雑誌の類まで、呉服屋で使う文庫という厚い紙で綴じた本が、畳から天井まに届くように書棚に何百冊となくギッシリ詰まっていた。私の母に骨をむしってもらわなくては、おかずに魚を食べられなかったほど小さな頃から奉公に来ていて、どうしてあれだけの文字の素養を身に付けたのだろう。」
俳句もひねる、紅葉や小波の参加していた筋の通った旦那衆の運座にも顔を出す、当時の文壇ゴシップも詳しく教えてくれるし、とにかく多方面に興味関心、「趣味」を持っていた市井の通人、当時のマチにいたありふれた趣味人のひとりだったようですが、そんな彼は、子供の政二郎が病気をすると、枕許で講談本や落語の本を読んで聞かせてもくれた。「その読み方が、とてもうまかった。地の文は勿論のこと、登場人物のやり取りの間のよさ、別に女の声を出したりはしないのに、ちゃんと若い女、年増、お婆さん、それぞれの人物を彷彿とさせた。」
講釈と地続きの上演の形式。「本」を「読む」という所作は、音読がまだあたりまえに日常にあった時代においては、声を出して読む以上、地の文とセリフ、フシとタンカの演じわけもまた、自然に「芸」から見聞きし覚えたかたちをなぞらえてゆく。
「落語を読んでくれる時など、善助は三代目小さんを張ってニコリともしないのに、聞いている方は、病気を忘れてくッくくッと腹をよじって笑いこけた。気がつくと、母やねえや達までコッソリ障子の向うへ聞きに来て、そこで笑い転げていた。」(小島政二郎「もう一人」、『風景』1965年12月号、『明治の人間』所収、鶴書房、1966年)
眼前に具体的に「聞かせる」相手がいることによる上演の制御は、たとえば同じ時代、「お伽のおぢさん」と呼ばれて愛された巌谷小波の「お伽」、つまり童話や児童文学といった類も含めた「おはなし」文芸の口演などとも、おそらくそう無理なく重なってゆけるものだったでしょう。「家庭」にいる〈おんな・こども〉を相手に想定したこのような上演のありようは、寄席におおっぴらに顔を出すことが憚られていたその頃の〈おんな・こども〉にとって、寄席的な「公共」空間を出張的に体験させてもらえるものでもあったはずです。「芸」を介した話し言葉の「上演」の現前もまた、ある種の「公共」を構成する要素のひとつだった可能性。その程度に、本邦の「公共」空間というのも、杓子定規で無味乾燥な西欧由来の翻訳を介した術語だけで十全に描き出せてしまうようなものではなかったようです。
この善助、その他にも村上浪六の「三日月次郎吉」や「奴の小万」、黒岩涙香の「噫無情」と「巌窟王」なども、政二郎の祖母からのリクエストで出張って読んできかせたりして、その際には褒美に金一封が出た、と自身自慢していた由。半径「八丁」間尺での寄席の良い聴き手、「地元」に根ざした無名の観客のその他おおぜいの典型のひとりとして、その背後に勝手に蓄積されていた多様で融通無碍な、何でもありに取り込んできただろう「教養」のありようがうかがえます。と同時に、落語や講釈などの「おはなし」が「読む」と「聞く」がセットになって日常空間であたりまえに上演されるようなものだったということ、そしてそれはその後「異様」を宿して転生してゆく剣呑さの胚であり、また幼生でもあっただろう雲右衛門の浪花節でさえも、この善助的リテラシーにとっては等しく横並びに受容し、「芸」を介して呑み込み、消化してしまい得るものだったこと、などなど、明治後半から大正期にかけての本邦の情報環境は、このような微細で具体的な現実の相を多様にはらみながら、それまでと異なる「市場」の広がりを確実に準備し始めていたらしいこともまた、目の当たりに垣間見えるようです。