「速記」の力、「おはなし」の生産点



 立川文庫の生産点における速記の役割に着目しながら、さらに執拗にそれを微分し、「創作」の要素へと解き放ってゆくことで、猿飛佐助や霧隠才蔵など、下敷きにされていた講談・講釈由来の「おはなし」には含まれておらず、またそもそも宿りようすらなかったような荒唐無稽なキャラクターを闊達に生み出してゆくことになったらしい点に鋭く合焦し、指摘していた橋本治の知的腕力の剛直さについては、少し前に触れました。それを足場にもう少し、そこにはらまれていた問いをほぐしてみます。

 速記を介して記述され、紙の上へと変換された「記録」は、しかしそのままではその速記者以外にはまず読むことのできない、そういう書きものらしい。それを広く開かれた一般的な「読み」に耐える文字にするには、他でもないその速記者自身が自ら速記した記述をもう一度読み、その上であらためて一般的に使われる書き言葉の文字へと変換しなければならないようなのです。

 しかし、そのように速記の記録から速記者自身の手によって文字へと変換された記述であっても、そのままではまだ普通の人がそのまま読むことのできるような書き言葉にはならないらしいから、話はややこしくなります。

 普通、速記による会話や談話、座談の記録というと、その場の話し言葉を「正確に」記録したものである、という風にわれわれはイメージします。その場で速記されたもの――よく「ミミズののたくったような」といった形容もされていたあの独特の書体による記号の群れですが、あれを解読して文字にしてゆくに際しては当然、そこに何か明快な法則やルールが文法のように介在していて、それが「速記術」を根底から支えている、と。

 でも、速記の「記録」というのはそんなテープレコーダーのような「正確」さを伴うものでもなく、その場で実際に音声としてしゃべられた話し言葉を「そのまま」に、時間的な経過も含めてその流れの通りに「記録」したもの、というわけではないらしい。

 その速記した書きものを文字へと変換してゆく過程では、必ずその速記者自身が手がけるたてつけになっている。なので、時には自分が実際の文字におこして「反訳」する時のために便宜的に添えた覚え書きや補足的な情報の類までも、創意工夫で差し挟んであったりする由。これはパソコンのモニタ上のWordで文章作成の作業をしながら「コメント」をバルーンにして挿入してゆくような、ああいう感じなのか、あるいは古本などに見かける行間や余白に記された書き文字による雑多な「書き込み」、さらに不審紙や付箋の使われ方などとも、どこか通じるものがあるのかもしれませんが、いずれにせよそのようなわけで、自分以外の者の記した速記は、たとえ同じ師匠から同じ流儀で習った速記者によるものであっても、おいそれと簡単に反訳できるものではない、それくらい速記者自身の個性が強く関わってくるものだったのだそうです。

 このへん、単にいまさら知った自分のもの知らずのせいかもしれませんが、現場で速記を手がけるだけでなく、あの「ミミズののたくったような」記号をとりあえず文字に変換してゆく反訳までも含めて、基本的に同じひとりの生身の個人の手作業に属人的に規定される部分が大きいということは、「速記」の内実についての理解がそれまでと変わる、ちょっとした驚きではありました。


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 絵や画像といったいわゆる「映像」系情報と、それに附されるキャプションや説明といった文字情報との関係、あるいは映画の字幕や、昨今だとwebを介した動画コンテンツに附される「弾幕」と呼ばれるコメント群など、あれこれ想起されます。あるいは、かつて中学校あたりの教室で流行った、授業中に教師の眼をはばかりながらその教師や授業内容についての落首ないしはツッコミ的な内容を記した紙つぶてを廻しあうやりとり(「手紙まわし」とか呼ばれてましたっけ)の光景なども。いずれわれわれ生身の個人が眼前の現実に接する際の情報解読の仕組みの同時並行性と、それらが複合しつつ身の裡に〈いま・ここ〉の〈リアル〉があやしくもふつふつと宿ってゆくからくりについての、おいそれとはとらまえにくい〈まるごと〉の「歴史」の問いにも滔々とつながってゆくように。

 もちろん、テープレコーダーに記録されたテープを再生しながらのあの「文字起こし」――いや、今だともうICレコーダーやスマホ介してのデジタイズされた録音ならぬ「音声データ」をそのまま自動的に文字化してくれるアプリに通したり、さらにはAI任せに丸投げしたりで、いきなりモニタ上に可視化させるのも半ばあたりまえになりつつあるようで、話し言葉を文字化してゆく過程に生身の手作業が直接介在できる余地すらなくなってきているみたいですが、とは言え、たとえそれらいまどきの話し言葉から書き言葉への変換作業においてさえも、音声そのままを機械的に文字に置き換えたところで、それがそのまま書き言葉として可視化の一丁上がりにならないことは、誰しも経験的に思い知っているはずです。その程度に、生身の日常においてやりとりしている耳を介した話し言葉と眼を介して「読む」ことのできる書き言葉の間には、同じ言葉とは言え相当な違いがあることはすでにわかっている。なのに、いざ「速記」と聞くと、どこかテープレコーダーのような機械的な「記録」と、それを一定の文法や規則によって粛々と「解読」してゆく作業をひとくくりにイメージしてしまう。思えばこれもまた、〈まるごと〉の現実と、言葉によって再編制された〈リアル〉の関係についての、音声を記録する過程を外在的な機械に依存することがあたりまえになって以降の体験に規定された想像力のありようの一端なのかもしれないのですが。


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 「日本に速記術が誕生したのは明治十五年である。「日本傍聴記録法 楳の家元園子」という見出しの記事が九月十九日の時事新報に掲載された。創案者は岩手県田鎖綱紀で、当時たまたま麹町元園町に下宿していたため「元園子」という戯号が使われた。」

 この田鎖が講習会を開催し、自身の創案した速記術を広めてゆく。「開講式は十月二十八日、日本橋の小林茶亭というところで行われ、十一月一日から六ヶ月の日程で講習が始まった。会場は、朝が神田の東京法学院、夜が麹町の三橋家で、毎日二時間ずつ予定どおり進行した。翌年五月五日には、神田の多摩川茶亭で卒業証書授与式が行われている。」 受講生の数は正確には不詳で、二十から三十人前後、朝晩あわせてせいぜい六十から七十人内外だったと推測されていますが、その中から「定期試験の結果卒業した者は二十四人というのが速記界の定説」とは言え、「実際に速記者として実務に携わった証拠の残っているのは、若林酣蔵、林茂淳、市東謙吉、酒井昇三の四人に過ぎない。」 速記術を身につけ速記者になるのは、当時それくらい狭き門だったようです。

 「筆記のための記号を覚えることはできても、実際にその記号を使ってなまの会話を書き取ることができなければ、運用の術󠄂を身につけたということにはならない。そのために、卒業生たちは、若林を中心に筆記法研究会を組織し、田鎖から学んだ記号をあれこれいじくりながら、音の書き取り方の研究を続けた。」

 若林酣蔵以下、いずれも本邦の速記の歴史をたどると必ず記されている斯界のビッグネーム。国会開設を期して「議会」の「議事録」というそれまでと違う公的な意味を附与された「記録」の必要が切実に眼前の問題となりつつあった時期、彼らもまたそのような新たな公共、国民国家的な目新しい〈リアル〉を背後にした権威への上昇志向やそれに伴う実利も期待しつつ、同時代の「立身出世」の道具として速記術を身につけようとしていました。

 彼らの出自来歴に没落士族や江戸や大阪の近郊農村部に宿った商業資本家の子弟が多く見られることは、速記術を現実に使い回す現場においてもそれら出自来歴ゆえの仰角の視線とモティベーションとが、なにがしかのルサンチマンと共に必ず切実に介在していたであろうことを示唆しています。このことは、あの「言文一致」とあっさり呼ばれている、リテラシーの国民的規模での一大変容過程においても陰に陽に影を落していたように思えるのですが、そのへんはまた別途、展開しなければならない大きな問いになります。

 速記を介してしか、講談の文字化はできないと速記者は考えていたようです。そのような認識は、講釈師による実際の上演こそが「本物」であり、速記を介して文字化し複製化された商品である読みものとしての講談は「にせもの」ないしは「代替物」であるという序列の感覚に裏打ちされたものでした。あくまでも寄席における上演、実演こそが講談である、という確信は、当時の講釈師の大方とも共有するものでした。

 と同時に、そこには速記に携わる速記者たちの自意識の特権性も、さらに上書きされてからんでいたようです。

 「議会」や「法廷」の「記録」を作る新たな手技を身につけた特殊技術者である、といった自意識が、半ば必然的に特権的な意識を醸成していったらしいことは、講談や落語の速記に携わることを「軟派」と称してどこか見下した調子があったことからもうかがえます。速記の先行きが未だ見通せず、「硬派」の正業としての公的な仕事ではとても喰えない状況で、収入からいえばそれら副業――講釈や落語など芸能だけでなく、政談演説や講演会、作家の口述筆記や芝居の上演記録など、速記術そのものの目新しさやその実際の効用が重宝されてさまざまに声がかかる雑多な手間仕事からの方がはるかに多いのが実情だったのにも関わらず、です。

 加えて、その「記録」が「正しい」こと、現場で話された通りの「記録」であること、という絶対的な正義の基準があらかじめ共有されている分、本質的に融通無碍な話し言葉の語りを文字化してゆくことに対する自省や相対化がうまく働かなくなる限界もまた、現場にはらまれていました。速記のための記号をまず機械的に覚えること、そして、耳から入る話し言葉を音声として認識し、それを手指のなめらかな動きに連動させて書きとめてゆく作業を繰り返しながらひたすら身体に叩き込んでゆく修業過程の苛酷さも、それら自省へと向かうモメントを意識化させぬ方向に働いたようです。

「あとは、自分の筆記した記号が正しく読みとれるように書けているかどうかの確認作業である。演説会や説教を書きに行くこともしばしばだった。(…)自分自身筆記ができる自信を得たとしても、今度は、記録を必要とする立場の人に向かって、これこのとおり立派に記録ができますというところを、実物によって立証してみせなければならない。そのためには、勝手に講演会に臨んで筆記したものを後援者その人に贈呈することまでやった。」(竹島茂『速記曼荼羅鉛筆供養――大河内翠山と同時代の速記者たち(上)』STEP、2004年)

 「音の書き取り方」は、講習会で覚えた「筆記のための記号」だけでは実際の運用の役に立たない。だから、それを「なまの会話」、つまり現場で流れる融通無碍な話し言葉の〈いま・ここ〉のやりとりをその「筆記のための記号」を使って手もとに書き取ることができるようになるのが、まず第一。その上で、さらにそれを自ら読みとって文字へと反訳、変換し、その場に臨場していた現場の当事者によっても妥当な内容であると評価し、承認される過程をくぐった後に初めて、速記原稿として実用に供される。

 これはつまり、現場に赴き取材し、メモをとり、それを起こして素材にして何らか草稿にまとめて、さらにそれを第三者的な立場の文字表現の専門家――かつての新聞において「記者」と名乗っていいのはこの立場にある、一定以上に読み書きのリテラシーのある者だけでしたが、そんな彼らに監修、編集してもらって初めて成稿になるという、当時の新聞報道の記事の生産点における作業過程とほぼ同じ。眼前の現実をどのように文字化し可視化してゆくか、という、当時さまざまに求められ始めていた同時代的な需要に対する対処の手立てをそれぞれ模索してゆく大きな動きの中にプロットしてゆけるものでもありました。


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 語られた落語や講談の速記をそのまま起したところで、それは「読みもの」になっていないことは、速記講談の制作現場においても、当初から自明に了解されるものでした。口演された話し言葉そのままを速記を介して書き言葉に変換しただけでは読まれるべき文章にもなっていない。だから、そこにさらに手を入れて読むことのできる文章にして、商品としての「読みもの」の体裁を整えなければならなくなる。

 そのような最終的に書き言葉として最終的に整えてゆく作業は、「議会」や「法廷」の速記記録を作ってゆく速記の作業過程においても「校閲」「編集」などの手順によって担保されていたのですが、彼ら主流派意識の強い「硬派」の速記者たちには、それが「軟派」の速記者たちが稼業として必然的に遭遇せざるを得なかった「読みもの」としての書き言葉による文章に向けて「校閲」「編集」を意識的、かつ方法的にしなければならないという認識には向かいにくかったらしい。彼らにとっての速記術󠄂とは、話し言葉を「正確に」「記録」にしてゆく技術が経験と共に下支えする素晴らしいものであり、それはまた「議会」の権威に裏打ちもされた誇らしいものでした。

 話し言葉は書き言葉とは違う。話されている言葉は、そのままでは読まれるに足る書き言葉の文章にはならない。けれども、その同じ話し言葉は、耳を介して「聴く」限り、聴くべき話し言葉の語りとして、「おはなし」として受け取られる。しかし、とは言うものの、それを速記を介してそのまま書き言葉に移したところで、それが眼を介して「読む」に値する書き言葉の「おはなし」に自動的になるわけではない。

 落語や講談の速記(と称される文字化され文章化されたもの)を「読む」ことで、まるで演者が実際に語っているように読めると〈リアル〉に感じたらしい当時の読者たちの不思議な認識のからくりにしても、うまく「語っているような響き方をする」感覚を読者の内面に起ち上がらせるフィルター、あるいはコンバーターのようなものが、その書き言葉の「おはなし」の生産過程にもどこかで共通して介在していなければ、そのような〈リアル〉としては結像し得なかったはずです。

 「講談速記は下卑たものだ俗なものだと攻撃される、下卑たものには違ひない、嘘もある法螺もある、併し民度の上から今の社会には丁度講談速記が適当して居るのだ、大声は俚耳に入らず、名家の小説よりは講談本が売行の多いのでも分る、東北地方では貸本屋の六分は講談本ばかり、房総の海岸あたりになると八九分まで講談本で店を飾って居る。」(佃與次郎『速記の話』佃速記塾、1937年)

 それは、円朝なり伯山なりの口演に実際に触れていたから、その声なり語りなりが耳の底に残っていたから、といった実経験を下地とした再現性が担保する〈リアル〉であったという聴き手側だけの解釈では説明がつかない。もう少しゆるく拡げて考えて、実演の口演、上演というもので語られる話し言葉を聴くという経験がある一般的な変換プロトコルを準備して共有されていた、と考える方が自然でしょう。そしてそれは、速記録から反訳したものをさらに「校閲」「編集」の過程をくぐらせたのち、ようやく書き言葉の文章へ整えてゆき得る一連の作業の当事者たちの裡にもまた、同じく共有されていたものだったのではないか。

 耳で聴くことと、眼で読むことの間を、そうと自覚しなくても同じ「おはなし」としてスムースに変換してつないでゆける仕掛け。ごくゆるやかな意味での言文一致的な、書き言葉の文章に寄せたところでの「おはなし」文体がすでにある程度できていて、それを眼にして「読む」ことで、耳で聴く話し言葉での語りに接した際に感じる〈リアル〉もまた身の裡に現前的に喚起される、という過程。

 耳と眼が、おそらくそれまであったようなつながり方ではない、それらと少し違う感覚や意識を喚起するような新たなつながり方をしていった過程が、近世末期にはすでに始まっていたのでしょう。それは、「目に一丁字ない」ような人たちの生身の身体にはそれほど速やかには宿らなかったけれども、ある程度文字を「読む」ことを覚えてしまったような人たちの眼を多く介するようになったことで、耳で「聴く」ことを主にしながらそれまで身の裡に宿っていた〈リアル〉にも新たな「編集」「脚色」が介在するようになる。それは生身の感情生活のある種の序列化であり、情報環境の変貌に応じた再編制であり、いずれ何らかより大きな整序へと向かうような力の加わり方ではあったのでしょうが、しかしそれがあったからこそ、「おはなし」的な感動の〈リアル〉もまた、文字読む眼を実装した生身たちを介しながら時空を越えて現前する/できるようにもなってゆきました。

 眼の放恣、と言われてきたような、近代の伸張、拡大に伴う生身の感覚の転変。とは言え、眼で「読む」ことのできる「おはなし」というのは、音読でも言わずもがな、まして黙読でそのような読み方が概ね誰にとっても可能になるためには、そうなれるだけの条件が日々を生きる生身の呼吸する情報環境によほどうまく揃って伴わなければ、現実にはむつかしいことだったように思えます。

 橋本治が合焦してみせた、立川文庫の生産点における自由闊達で荒唐無稽な想像力を宿した山田阿鉄の生身に宿っていたらしい「監修」「脚色」「編集」といった創作的な色合いの濃い作業の内実についての言及、その重心のかかったあたりをあらためてもう一度示しておきましょう。

 「彼は、玉田玉秀齋の講談を一々速記したのではなく、一々筆記して行くだけの腕はないから、要約して筆記してしまった。既にここでアレンジ(脚色)というものが出て来る。ここのアレンジですごいのは、速記能力はないからアレンジしちゃったという、そのところ。そして、ここのところで重要なのは、何故そういうものが平気で通用したのかというと、速記にはシロートであった山田親子は、講談というものをよく知っていたということ。(…)「大体のところは分っている」という、その知り方ですね、重要なものは。(…)講談が話されているのを聞いて大体のところは呑みこめてしまうだけの能力(“素養”と言いましょうか)、それがあれば、文章としてまとめ上げることは出来るんですね。そのまとめ上げたものを“速記”と唱えればいい訳で、こうして玉田玉秀齊の一家の中では速記の質というものが変えられて行った。」」(橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』、徳間書店、1986年) 

 このような作業はしかし、当時の速記が話し言葉を書き言葉へと変換してゆく過程そのものに、すでにあらかじめ埋め込まれ、胚胎していたものでもあったらしい。速記に携わっていた速記者たちが、自分たちが仕事としてやっていた作業にはらまれていたそのような内実にどこまで気づいて、かつ方法的に自覚していたのか、それは正直わからない。おそらく大方は無意識に、そうと思わず「そういうもの」として、ただ日々の仕事としてやっていたのでしょうが、しかし、そのような個別具体の事情とは別に、速記と速記術というのはその程度に創作的な、敢えて言えば社会的な「おはなし」を編み出してゆく上でのそれなりに切実な役回りを、同時代の情報環境の変貌の過程において、期せずして果していたようです。