餃子と「革命」



 「革命」という言葉が、かつてありました。いや、今もまだ「ある」と思ってはいるのですが、それはともかく。

 漢字二文字で構成される単語という意味では、かの福沢諭吉とそのご一統が明治初年は文明開化の上げ潮にそれまで見慣れぬけったいな横文字を若気の至りも含めての気合い一発、とにかく目になじみの漢字の組み合わせ、タテ文字パッケージに力任せに押し込めちまった。それが結局、なんだかんだ言いながらもわれらポンニチからすれば、かの西欧のものの見方や考え方、この世の骨組み、背後のからくりを言葉を介して手もと足もとでとっつかまえて再編集してやろうという傲岸不遜でステキな彼らの大風呂敷ごと、まるっと何とか自前の言葉の間尺に納めなおして使い回せるようになるための下ごしらえだったわけで。また事実その結果、同じ漢字を使っていた半島や大陸の同文世間にもそれなりに便利に活用してもらうことができた19世紀このかたの結構な発明であり、ちと大げさに言えば本邦発の文明史的な貢献事案のひとつにもなったわけですが、それもまたともかくとして。

 それらの言葉たちの中でも、この「革命」というやつ、最初に横文字から置き換えられてこのかた、いわく因縁つきの格別な内実をはらまされつつ、本邦近代のわれら同胞のココロの習い性の裡に、うたた転変してきた経緯があったりするようです。

 もともと、フランス革命やら何やらあちゃらの歴史、西欧が西欧になってきた経緯来歴から何とかうまくわかりたくて無理やりこさえたもので、福沢諭吉だか中江兆民だか、そういう横文字由来の自由主義思想に脳を灼かれた明治初年のハイカラ若い衆新世代界隈のやむにやまれぬ七転八倒の一端。それがその後、辛亥革命からロシア革命にいたる洋の東西不問での物情騒然が連鎖的に眼前の同時代に繰り広げられた今世紀入ってからの世界的なムーヴで一気にいらぬブーストをかけられちまったのも、同時代状況に巻き込まれつつ生きるしかない歴史内存在としてのわれらニンゲンの宿命、致し方ないことでもありました。

 ただ、この「革命」、本邦の世間一般その他おおぜいの想像力にとっては、そのお行儀よさげな漢字の字面由来、四角四面な意味あいだけで納得、咀嚼されてきたわけでもない。むしろそのたてつけの〈それ以外〉、余白というかバリというか、正面からはそれと意識し自覚されることは普通ないにせよ、でも、実際に使い回される段では影のように寄り添いながらまつわりついてくる領分が必ずあって、それもひっくるめてのセット販売でようやくうまく認識されるような言葉だったらしい。そのあたりの味わい、生きた歴史としての言葉の経緯来歴の機微もまた、昨今ではないがしろにされてきてすでに久しいようなのですが。

 たとえば、唐突ですが、餃子で言うならあのハネと呼ばれる部分。近年あらためて意識されるようになり、わざわざ「羽根つき餃子」と称して売り物にもなっていて、やれ発祥は蒲田の街中華だ、いや、たまたま冷えた餃子を焼き直す際に溶いた小麦粉の混じった水を流し込んだのが偶然に、と例によっての考証沙汰もあれこれ流れているようで、このへん捨て置けない話でもあるのですが、言いたいのはそんなことではない。少し前まで「餃子」という単語で想起されるイメージでは特に意識されなかっただろうあのパリパリのフリルのごときハネも、単に言葉としてではなく実際に具体的な食いものとして眼前に現れる局面では、われらの内なる餃子の内実にとって決してないがしろにできない不可分の要素にまでなっている、そのことです。

 つまり、単なる記号としての言葉、効率的な意味伝達の媒体としてではなく、われらの想像力の地平に宿り、茫洋かつ広大無辺なこの不特定多数その他おおぜいの意識の銀幕に合焦されてくる〈いま・ここ〉の〈リアル〉としての餃子というやつは、意味や理屈以前、ミもフタもなく具体的で直感的で直截な、そんな〈まるごと〉として「ある」形象として初めて餃子として十全に、その言葉の本願に適うようめでたく認識されるようになっている。言葉と実存、といったもっともらしい問いと、それに見合うと信じられてきたかろやかで見てくれ整えられた空中戦仕様の文字で綴られる能書きの類も、手もと足もとでほぐして身の丈の「わかる」の方へと開いてゆくなら、要はそういう話。それは、書き言葉と話し言葉の本質的な関係にもどこか通じる、普段はおいそれと意識せず自覚もないまま「そういうもの」としてその裡に生きているわれらの現実の成りたちそのものにも関わってきます。

 「餃子」がそうなら「革命」も、言葉としてなら同じこと。単なる思想、考察、分析、研究沙汰のために特化された便利な道具、かつ机上のアクセサリーとしての言葉でなく、〈いま・ここ〉を日々生きている生身を介した実用第一、変幻自在なサバイバルツールとしての言葉なら、書き言葉としての意味や理屈の内実だけでなく、それをあやつる身の裡に必ず想起され連鎖してゆく想像力も含めた動態である話し言葉的な相――われらが生身である以上必ず否定し切ることのできないあやしくもとりとめない終わりなき活劇としての生と、それを意味づけ自ら認識してゆくための血湧き肉躍る「おはなし」のリテラシーを介してこそ、より切実にいきいきと受け止められてきた経緯というのが、この「革命」という言葉に関しては実は大きかったのではないか。いや、むしろそっちこそがことの本質、〈まるごと〉の歴史においてただならぬできごとをうっかり導き出してしまう呪文として躍動してきた、その言葉としての力の本体というのは、書き言葉としてではなく話し言葉的な相において、「おはなし」のリテラシーを介した想像力にこそ秘められていたのではないか。

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 そもそもの話、あの「革命」という字面が、すでによろしくない。

 たとえば、本であれ雑誌であれその紙誌面、はたまたどこかの街頭、マチの雑沓で不意に出喰わす何らか看板や広告、ビラやチラシ、昨今だとフライヤーとか言うのでしょうか、いずれそういう出会い頭にたまさか目にしてしまう文字としてだけでも、この「革命」にまつわるどうにも場違いな感じというのは、もはや致し方のないこととは言え、やはり不自由は不自由、存分に使い回して日々の現実を言語化するための手もとの道具箱に入れておくことすらご遠慮願いたい雰囲気が拭い難くつきまとう。

 聞けば、あの「人間革命」が書き始められたのが高度成長真っ只中の1964年とのこと。「人間」と「革命」という、「戦後」の価値観世界観のキンタマを袋ごとがっちり握ったキャッチコピーを臆面なくふたつ重ねて堂々正面突破してみせたあたりは、さすが当時、怒濤のような折伏の波状攻撃で本邦世間、寄る辺なき恒産持たざるその他おおぜい相手の信者獲得合戦であっぱれ共産党と覇を競い合った創価学会、と唸らせられますが、思えばすでにその頃から、「××革命」といった惹句はあれこれ使い回されるようになっていた。「消費革命」「余暇革命」「レジャー革命」「マネー革命」「エレクトロニクス革命」……およそ社会的な局面での何か大きな変化を強調して煽ろうとする場合にその出番が回ってきていたらしい。このへんは大御所定番の「産業革命」から引っ張ってこられた重厚長大的「学校」「教養」系の文脈も重なっていたのでしょうが、政治的や政策的なたてつけで好んで使われてきている「改革」と比べると、同じ「革」の字が入っていてもやんちゃで弾けた印象が、どこか漂う胡散臭げな路上の詐欺師的気配と共に、ある時期まではまだありました。ただ、それも「IT革命」あたりが最後だったか、今世紀初頭にはすでに「革命(笑)」的なニュアンスと共に消費されるモードが一般的になっていたような印象ではあります。

 一方、「改革」の方はというと、例の「構造改革」が何度も変奏、都合良く転調されて、そもそもはかつての左翼界隈、未だソ連社会主義の先進国、明るい未来のお手本として呑気に奉っていられたところにいきなり喰らった国際的規模でのスターリニズム批判と、政府のかけ声だった高度経済成長が結果として具体的に日々その姿を身の回りにあらわし始めたことに起因して国内政治にもたらされた民意の地滑りに面食らっての迷走から、当時流行りのイタリアン左翼経由であわてて輸入してきたお助け舟の縋り藁的な語彙だったはずが、存外使い勝手が良かったのかその後イメージとして割と大きなものとして広く定着していったこともあって、「革命」よりはまだ現実的な確かさを感じさせることのできる、その程度に信頼してもいいかも、な語彙になったらしい。このへん、戦前それらと並んで使われていて、戦後はひとり忘れられていった「改造」などと併せて比べてみる必要がありますが、いずれにせよ何やら一発逆転、今ある仕組みをより良い方向に一気に変える、といった都合の良いイメージだけがどんどん水増しされて通俗化、安全にカジュアルに受け取られるようになっていった。このあたりもまた、「革命」という語彙にあらぬフリル、あの餃子のハネが考えなしにまとわりついてもゆく広角の歴史という意味での経緯来歴の一環、別途展開しておくべきお題にはなります。

 そのように「改革」の方が勢力を増してきた近年なのに、活字メディアの生産点におらす人がたは、編集者であれ記者であれ、なぜか今なおその「革命」というのを本の表題、雑誌記事のコピーや引札腰巻きの惹句などに案外するっと入れ込んだりする。まあ、それだけいまどき現役世代にとっては、「革命」にあれこれまつわりついてきたそれらフリル、餃子のハネの部分を切実に感じられなくなっていて、まあ、それはそれ、過去からめでたく自由になったあらわれなのかもしれませんが、ただ、同時にそれは知的な鈍感さのあらわれでもあるわけで、それらいまどきさらっと屈託なくあしらわれる文字面の「革命」は、昨今よくあるカタカナ表記の「カクメイ」がウォーターマークとして刻印されていて、カオナシのようにいまどきの情報環境にデジタル変調で最適化させられているようにも見えます。

 かつて、「革命」という字面を下敷きに「革田命作」というベタな筆名をでっちあげたのは、「ああ、革命は近づけり」のリフレインで知られる労働歌の作詞者、築比地仲助という御仁だった由。明治末年、その頃の大阪の熱気をはらんだ社会主義気分にうっかり反応した多くの名もない工場労働者のひとりだったようですが、文語体ベース七五調の月並みな路上演歌調とは言え、「起てよ白屋襤褸の児、目覚めよ市井の貧窮児」と、自分も間違いなくその中のひとりである世間一般その他おおぜいに向けてのアジテーションに特化した確信犯ぶりと、その作者名の字面に「革」をあしらったあたりのセンスには、漢字二文字の「革命」の辞書的定義と意味内容だけに収まり切れない得も言われぬ何らかの気分、それこそあの餃子のハネに通じるような余白に敢えて投じる生身の心意気もどこかにはらまれていたように感じます。少しあと、同じ大阪から爆発的な人気を博していったあの桂春団治、本名「革(皮)田藤吉」のようなどこか浮かれた「いちびり」気分の同時代感覚が、「革命」の「革」の字を介して二重写しに焼き込まれていた可能性。われらが日本語の漢字使いゆえのイメージ喚起力というのも、その程度に字面を介して眼から入るものだった部分はあるはずです。*1


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 ならば、話し言葉ならどうか。「かくめい」と、口にしてみる。なるほど、書き言葉の「革命」よりは、縛りはまだ薄いかも。にしても、やはりこれも日常普段使いの手軽な語彙というわけには、ちょっといかない。

 記憶の底をさらってみれば、こういう話し言葉の「かくめい」にまつわって思い起こされるのは、あれは学生時代、ということは70年代の終わり頃、いまからもう半世紀近くも昔のことになりますが、とある芝居の舞台、ズダボロの作業服を着た役者がひとりよろめきながら登場してきての絶叫一発、「かくめいやでぇ~」というその響き。定かではないものの確か黒テント、寒い季節は一橋大学の構内での興行だったと思うのですが、演目はすでにさだかでない。冒頭いきなりではなかったにせよ、何らかシーンの始めにカマされた鮮烈な印象も、何にせよすでに往時茫々、アテにならないことおびただしいのも今さらですが、ただ、その絶叫の続きが「ほんまもんの武装蜂起やでぇ~」だったことまで含めて、なぜかそこだけくっきりと、すでにおぼつかぬ過去の記憶のおのが引き出しにしまわれてはいるらしい。

 なまじその頃、芝居なんてものにうっかり首突っ込んでしまっていたせいもあるのでしょう。実際、アングラなどとも呼ばれた小劇場運動そのものが、そのように「革命」に格別な意味を込められるような言語空間によって支えられていました。政治運動としての学生運動を自分ごとの当事者として体験していた世代ではすでになかったけれども、彼らがその生身を介して自分たちの〈リアル〉を制御するそれなりに切実な語彙やもの言いとして使い回していたのとひとまず地続きな言語空間を、自分ごととしては一歩遠くなっていたとは言え、年上の生身を介してその一歩の距離感をまだ直に感応できる程度には彼らと「関係」を持ち、「場」を共有する半径に身を置いていたこちら側もほぼそのままに支えてしまう構造が、現場の「先輩/後輩」というタテの約束ごとと共にまだ生きていた。先の餃子の比喩で言えば、ハネはまだついたままだったかもしれないけれども、しかしそのパリパリ感はすでに焼き立てのものではなく、澱み始めたまわりの空気を吸収してしんなりと頼りないものになり始めていた状態。いや、冷めかかった餃子を焼き直す際に足した水に混じった小麦粉が偶然ハネに、というハネ創生譚を信じるなら、「関係」も「場」も、そのはらんだ初発の熱が冷めてきたゆえにハネの部分を意識的に作ろうとして作らねばならなくなっていた、だからこそそれら「革命」に象徴される一連の語彙やもの言いによって編制されていた言語空間をあの手この手で支えようとする必要もあった、ということだったのかもしれません。上演そのものよりも言葉によって語られる上演がさまざまに複製、増殖されてゆき、それらが上演の現場の周辺に厚く堆積することで、上演もまたそれに規定され返してゆく連鎖のはじまり。エコーチェンバーという昨今よく使われるもの言いにも通じる、言語空間と情報環境の併せ技での自家中毒的な濃縮、蠱毒化の過程です。

 でも、それは何も芝居に限ったことではなかった。音楽ならばモダンジャズからフォークやロック、映画なら外国映画日本映画を問わず、さらに各種美術やアート、写真やデザインやグラフィックなどまで広く含めて、それまで自明に中心に置かれて権威とされていた文字・活字ベースの創作ジャンルではない、それ以外のいわゆるサブカルチュア、ユースカルチュアと呼ばれたような、いずれ上演を本体とする社会風俗的な事象のまわりからそれら蠱毒化過程は前のめりに始まっていました。その内側から当事者目線と現場感覚に寄り添いながら言語化される場合には、程度の差や気分の濃淡、質の良し悪しはあるにせよ、いずれそのような生身を介した前提が「そういうもの」として自明に共有されていたことは間違いない。だから、それらの表現に接する場合には、「革命」や「かくめい」から発されるさまざまなできごとや固有名詞その他の連なり、個々の要素の脈絡についてある程度まで自前で見知ったものにしておかないことには、つまり「勉強」をしないことにはそれらを「ほんとうに」楽しむことはできない――誰に命じられていたわけでもないのに、ひとり勝手にそんな風に感じていたものです。



 そう感じさせられていた、所詮若僧時代のそういう受け身の態様だったという面も含めて、当時その頃のそれら表現沙汰には、あたりまえに知っていることが前提にされている、つまりそのような「教養」の一部としてそれら「革命」にまつわる知識や断片のあれこれが自明に組み込まれていました。そしてそれら表現を創る現場の側もまたそのことを言外の前提としながら自らの表現を造形しているのだ、という事情まで含めて、上演に接する側にも素直に察知されるようなものでした。だから、それら「教養」を知るように赴いてゆく。当時の情報環境のことですから、それも主に活字の本や雑誌を介しての「勉強」になるわけですが、いわゆる「思想史」的な「教養」の茫漠とした海にうっかり漕ぎ出してしまう、そのはじめの一歩というのも、まあ、たかだかそんな程度のこと、今で言うならサブカル体験を引き金にしたおたく化への第一歩、ではありました。*2

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「私は三十七年の一月、上京してはじめて社会主義の演説会を傍聴し、またはじめて堺、幸徳、安部磯雄、木下尚江、西川光二郎氏らの風丰に接した。閉会に当って一人の青年が演壇にのぼり、社会主義協会の入会者を募る短い演説をおこなったが、それこそ文字通り烈火のような熱弁なのに驚かされた。私はもちろんその場で入会し、マルクスの像を浮彫りにした円いニッケル製の徽章を胸につけて内心すこぶる得意であった。」

 未だ世に出る前、何者でもない名もなき若い衆だった頃の荒畑寒村、18歳の頃の追憶から。明治37年というから1904年。「演説」というのがそんな若い衆をどれほどわくわくさせられるものだったのか、その時代としてもありがちな記述といえばいえるのですが、ただ、若き寒村先生、続いて次のような視点をすんなり引き出せるあたりが、やはり書き言葉ネイティヴの「学校」量産型知性ではなかった野良育ちの証しで素晴らしい。

 「今もなお想起するを禁じ得ないのは、演説会の後で青年会館の一小集会室に開かれた新入会員歓迎会の趣きが、恰もキリスト教の大挙伝道に際して開かれる求道者の歓迎会に、いたく似通っていることであった。」

 その頃の「演説」を上演する集まりは、キリスト教の「説教」とよく似た印象だった、本筋の催しのあとで、必ず「懇親会」「歓迎会」といったその場に参集したその他おおぜいを相互に親しく「関係」を持たせる「場」が設定されていて、そのようなたてつけがとても似通っていた、と素直に認識しています。本邦近代に西欧由来の「普遍」というやつを空挺部隊の落下傘降下のごとき抗えなさで降臨させた二大打撃部隊、マルクス主義キリスト教がくっきりと合焦できていて、そしてその内実に一見筋違いに見えるものがあれこれなにげにうっかり相乗りしていたことも、また。

 「会長の安部磯雄氏から歓迎の辞とともに、会員はつねに操行を正しくし苟くも粗暴のふるまいがあってはならぬ、殊に男女間の関係において謹慎すべき旨の注意をうけたのは、いよいよもってキリスト教的であった。また一人の書生が立って藤村の新体詩『お葉』を朗吟したのなども、これまた求道者歓迎会で賛美歌の独唱などがあるのを想い出させた。後にその名を知ったのだが、この新体詩を朗吟した青年はまだ早稲田大学の文科に通っていた白柳秀湖、烈火の如き雄弁に驚かされた青年は山口孤剣その人。」

 社会主義キリスト教新体詩と賛美歌、演説や雄弁と「男女間の関係」についてのヤソ臭い説教、それらがみな混然一体、同じ教会という「場」で融合しているあたりが当時の同時代気分ではあったのでしょう。そしておそらく、そこに宿っていたのも、ここでこだわっているところの「うた」ではあったらしい。ならば問題は、その融合を当時、その現場で実際に体験していた個体の生身に、果してどのような「うた」がどのように宿っていたのか、そしてそれはどういう「関係」を互いに紡ぎあって、共に何を〈いま・ここ〉の〈リアル〉として感受していたのか、ということになってゆきます。

 ハネなき餃子は、もはや期待される餃子ではなくなっている。生身の呂律も昂揚も、刹那に腰上げるに足る一片の心意気すらも伴えなくなった言葉としての「革命」などもまた、すでにあるべき革命、時に応じて自在に引き出し眼前に立ち上がらせるべき手もと足もとの〈リアル〉とは遠く隔離された干涸らびた別ものに変成され、この眼前21世紀のデジタイズ無双へと粛々と移り変わってゆくらしい情報環境に去勢されたまま埋もれています。

 「もし私が海軍造船廠の職工とならず、或は労働生活を体験したとしても、開戦直前の過激な作業と職工の劣悪な状態とを経験する機会をもたなかったならば、私の一知半解な社会主義の知識ではただちにその信者とはならなかったかも知れない。だが、日露戦争の危機に際して起った非戦論の主張に対する共鳴同感は、私の生活体験から生じた感傷と漠然たる憧憬とを、将来の運命を決定させるに至った理想と情熱とに燃え上がらせたのである。」(『新版・寒村自伝』筑摩書房、1965年)