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AIだのChatGPTだの、見慣れぬアルファベットの語彙がこの自分のまわりにさえも遠慮会釈なく飛び交うようになった昨今、乗り遅れるな、これからはそういうAIの時代なんですよ、と開いた瞳孔丸出しに煽ってくれるいまどきキラキラ目線な若い衆あんちゃんおねえちゃんらも例によってうそうそと簇生、こんな無職隠居の年金暮らしの身にまでそんな売り込みかけてくるほどには、そうか、世の中やっぱりカモやムクドリ見境なしに探して歩かにゃならん、そんな世知辛さはいつの時代も変わらず横溢、いずれ身すぎ世すぎの詮無き話とは言え、かつての押し売り、刑務所帰りやテンプラ学生がゴム紐半襟洗濯ばさみを玄関先で開陳するのと選ぶところなし、ただ、それが顔つきあわせた関係でなく、単にこの手中の四角い今様飛び道具、スマホのインチ画面の間尺に繰り広げられるだけのことかいな、と老眼鏡ずらしつつ眺めてはひとりごちる世に遠いすみっコぐらしな日々。
とは言え、実際の顔も姿も見知らぬままの親しい知己もうっかり増えてゆくのも、そんないまどき情報環境のありがたさ、世の現役として日々頑張って生きている人がたからのいろんな示唆や耳傾けるべき提言の類も、同じそれら飛び道具を通してこの手もとに勝手にやってくる。このへん、かつての縁側、所在なく日向ぼっこの年寄りに垣根の向こう、往来を行く見知らぬ人から気やすく声がかかってきていたようなものかも。
「シソーだのキョーヨーだのゲンロンも、コマンド入力のDOSからGUIに進化して間口が広がったと捉えていますよ。カジュアルに楽しく。」
なるほど、この比喩に乗っかって言うなら、いわゆる本や雑誌の類など、いずれ活字の文章でつむがれているものだけをひたすら生身を介して読んでゆくなどということは、かつてパソコン普及のまだごく初期段階、自らプログラムを組むまで至らずとも、少なくともDOSのコマンド入力を見よう見まねでキーボード叩いてポチポチ打ち込んでいったのと同じようなもの。その後OSが一般的な共通窓口として設定され、それも見てくれ一発で誰の眼にもわかりやすいGUIへと「進化」してゆくことで、あら不思議、眼前のパソコンという謎の箱がどういう理屈どんなからくりで動いているものか、など全く知らないわからないままでも、そのパソコンの一部であるモニターの「画面」を「見る」こと、見てそこに表示されているアイコンと単語程度を日常の言葉づかいと理解度で「わかる」ことができるなら、そしてさらにマウスを動かして画面のカーソルを動かしクリックすることまでもできるなら、うっかり眼前にやってきていたパソコンという謎の箱はうまく「動いて」くれるようになった。それは、自動車の動く仕組みや理屈をまるで知らない、わからないままでも、ちょっと慣れれば誰でも「動かす」ことができて便利に「使える」ようになったのと同じこと。一部の特殊な趣味によって「勉強」することで獲得した知識や技術で動かすことのできた機械であったパソコンが「誰にでも」動かせる便利な道具になっていった。それと同じように、かつて世間一般その他おおぜいの凡俗にとっては敷居の高いよくわからないものだった「思想」や「言論」沙汰もまた、ということなのでありましょう、いまどきのこのご時世、情報環境のもたらしつつある事態というのは。
思想であれ教養であれ、あるいは文学であれ哲学であれ、いずれそういう「ものを考える」ことを決められたやり方で艱難辛苦やり続けていった結果ようやく門口にたどりつくことができるとされていたそれまで一応「偉い」「値打ちのある」ものになっていた領分へ参加できる、その間口が飛躍的に拡がった。
何も文字の文章が活字でびっしり地模様のように詰め込まれた、あのいけ好かない紙の媒体と正面から取っ組み合うことだけを難行苦行、何かの修行のように心得て若い時代の貴重な時間をあたら食い潰してゆくような「勉強」の過程に闇雲に突っ込んでゆかずとも、それ以外の方法で、それこそ音楽や映画やマンガやアニメから、いまどきならばYouTubeやInstagramの類のプラットフォーム、しかもそこに乗っかってくるコンテンツがAIごかしのまがいものめいたつくりもので、その見てくれの向こう側が文字通り人外魔境の「異界」であるような場合までもあたりまえに含み込みつつ、いずれそのような多様に幅広く、安価かつ「平等」に商品として提供されるようになっていった無慮厖大な娯楽を「消費」することを介して、ひとり本と活字にばかり執着しているよりはるかに「わかりやすく」また「手軽に」思想なり教養なり、そういう「偉い」「値打ちのある」ものをそれこそ「コスパ/タイパ」よくひと通り味わえるようになった。カジュアル、とはそういうことでしょう。だとしたら、そりゃもう活字の文章との難行苦行へ敢えて赴くような人がたは後を絶つ。特に、先行きまだ前途のある若い衆世代ならなおのこと、水が低きに流れるようなもので自然のなりゆき、ことの必然ではあるのでしょう。




確かに、抽象的なことば――つまり個別具体から遠い一般的で普遍的な語彙をうまく、もっともらしくあやつれるようになってみせることが、それら活字の書物を「読む」、そしてそのようなことばで文章を「書く」ことの目標になっていました。そして、そのような「読む」「書く」ことばの能力が、「勉強」とその果実である実利としての「立身出世」のわかりやすい証しとして世間に理解されていた。
それは今でもなお、何らかの式典や儀礼、冠婚葬祭など「公」の場で何かものを言わねばならない場合の式辞や祝辞、挨拶の類が見事なまでに書き言葉、それもふだん日常の話しことばではまず使わないような語彙やもの言いで固められていて、しかもそれをあらかじめ書かれたものにして読み上げる、どうかすると暗記までして、といったたてつけになっているのを思えばよくわかる。「偉い」「値打ちのある」、だからそれら「公」の場において好ましいと考えられているそれらのもの言いは、それがいかに日常〈いま・ここ〉の生身に即した話しことばの水準とかけ離れたものであっても、いや、むしろかけ離れているからこそ、その使い手が「偉い」「値打ちのある」地位にあることの証明になっていますし、また、そのような二重の言語生活、異なる〈リアル〉を「一身にして二生を経る」ように生きることが、「勉強」をして「立身出世」をした「偉い」生身の人生であり、逃れられない宿命になっていました。
とは言え、ある時期までそれら抽象的で一般的なことばやもの言いの典型のように考えられてきた、そしてそれらを駆使してあたかも空中楼閣の円天井に壮大に描き出されるフレスコ画のごとくイメージされてきたあの思想や教養、哲学といったいずれ抽象的で観念的な、そしてその分だけこの世のものならぬ美しさすらうっかり備わっていたりもする大風呂敷であっても、それを書き、かつ読むそれぞれの主体のありかにおいては個別具体の生身としての実存が必ず介在してくる。だから、それらの表現としての文章もまた、そのように人のつむいだものである以上、身の丈等身大の個別具体の水準との関係を無視して成り立っているはずがない。たとえそれら一見よそよそしい、多くの場合漢字によるいかめしい熟語がそこここに散りばめられた書きことばであっても、この日常の生身のありようは必ず話しことばの水準に紐つけられて介在していて、それはこの世に在る生身の生きものである限り、誰であれ否定しきれるものではないらしい。
だとしたら、それら大文字のもの言いを使い回す主体というのもまた、この生身を介した話しことばの水準と必ずどこかで通底していることになる。たとえ、文字や活字の書きことばが日々の〈いま・ここ〉とまるで別もの、何か得体の知れないこの世ならぬ呪文のように見えるようになって久しく、その結果いまのわれらが日々、十全に生を生きることを希うこの〈いま・ここ〉の現実が干からびたものになってしまっているのだとしても、生身に宿る話しことば本来の闊達が、それら書きことばの「読む」や「書く」との懐しい縁まで忘れてしまったわけではないはずです。


文字や活字を介することで〈いま・ここ〉から分離されてしまった「読む」と「書く」を、同じ生身の土俵でもう一度手もと足もとに、話しことばのあの闊達に帰郷し得た現在の切実な表現として取り戻すことはできないか。「上演」をひとつ足場にしながら、これまで「うた」と漠然とくくられてきたさまざまな表現、いや、その表現のさらに根元に常に〈いま・ここ〉としてしか現前しないあのとりとめなくもなまめかしい生身のまるごとを、もう一度この手もと足もとにうまくとりおさえられるような活きたことばの水準に引き寄せる可能性もまた、あるべきわれらの日々のまるごと、この世の生の全体性の失地回復のために開かれてはこないだろうか。
「それって、資本主義そのものを相手にすんのに手もとの万札眺めまわしてさ、いやぁこの図柄がきれいですねぇ、とか、よく刷れてますねぇ、スカシがいいですねぇ、ってやってるようなもんじゃない」
かつて、亡くなった朝倉喬司兄ィが言っていたこのことばが、いつの頃からか、こういうことを考えている時にはいつも、どこかで必ず記憶の底から意識の表面に知らぬ間にぽっかり浮かび上がって顔を出す。そして、その資本主義そのものを相手にしようとすることを曲も芸も身につけぬまま馬鹿正直にうっかり煮詰めすぎたあまり、自分たちをとりまく時代、情報環境や言語空間がみるみるうちに変わってゆくことさえうかうかと見過ごしてしまい、ついにはこの自分の手もとにあるのが万札なのか何なのか、いや、そもそもどのような個別具体を伴う実存だったのかさえも見失ってしまったらしいわれらの〈いま・ここ〉を、静かにかみしめています。


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「あらかじめ自明の所与として存在する「自然」としての日常や生活という現実の水準は、おそらく日本人にとって「民俗」レベルの桎梏と共にあり続けてきたものらしい。その意味で、自ら主体的に関わってそれら「自然」としてのみあり続けてきた日常や生活≒「暮し」を編集してゆくことができる、という感覚のもたらした鮮烈さや風通しの良さは、確かに「戦後」的なものだったと言えるかも知れない。」(拙稿「生活・暮し・日常――開かれた民俗学へ向けての理論的考察③」 2014年)
10年以上も前の古証文ですが、戦後間もなく花森安治の提示した「美しい暮し」というマニフェストや、当時の家政学が今和次郎によって「生活学」へと戦後的変貌をとげてゆくことなどを下敷きにしての言明。敗戦をはさんだ「戦後」の過程に、それまでとは少し違った位相での同時代的なあらわれとして、誰もが等しくそこに生きる現実の水準があらためてのっぴきならない〈いま・ここ〉として広汎に可視化されるようになっていたらしい、その未だうまく言語化されていない「歴史」の相の微妙な連続/不連続にこと寄せたものでした。
「それはさらに視野を広げてみれば、敗戦後の「現実」をとりとめない現在のまま何とか把握したい、「わかる」へ向けて何とかしたいという同時代の世間に宿った焦燥にも似た感覚にも通底していました。「生活」であり「暮し」であるような水準の現実。衣食住にひとまず象徴されるような、誰もがそこから逃れられない日々繰り返される具体的でささやかで、とりとめのないルーティンの連なり。それまでも「世相」と呼び「風俗」と名づけていた表層の現実ともそれは重なる領域ではあったけれども、ただもはや「世相」や「風俗」といったそれまでも使われていた通りいっぺんのもの言いでは気分としておさまりきれない何ものか、が膨らみ始めていました。」
教科書的な「戦後」史の記述だと、たとえば「肉体による自己主張が、生命力をたぎらせ、抑圧を解き放っていった」(『占領期雑誌資料大系・大衆文化編』(岩波書店)のオビの惹句)といった風に、戦後の「民主主義」がもたらした空気がそのような「解放」を可能にしたのだ、といった具合にあっさりとひと筆描きに説明されてしまうような世相ではあります。まあ、その水準での理解としては間違いでもない。ただ、間違いでもないというだけで、それがそのまま眼前の〈いま・ここ〉を生きる手もと足もとの〈リアル〉すら実感できなくなっているいまのこのわれわれにとっての「わかる」に果して身にしみて繋がり得るものか、言い換えればそのように「役に立つ」ものかというと、それはまた別の話です。その程度に、岩波のような折り目正しい文字の「読む」「書く」に寄り添ってきていたはずの「偉い」「値打ちのある」実利というのも、いまどきのこの情報環境の煮え湯の中にとうに煮崩れてしまっているらしい。
たとえば、あの吉本隆明などはこんな筋道で、まずその手前の昭和初年、つまり「戦前」における日常の来歴から、同じ「戦後」に期せずして口を開けていったそれまでと異なるとりとめない〈リアル〉へと向かう軌跡を語り起こしています。
「満州事変(昭和6年)をひとつの転機とし、ついで日華事変(昭和12年)をつぎの転機とし、さらに太平洋戦争(昭和16年)をひとつの転機として、現代詩人たちの運命は(…)実生活の意識としてだけ問題にするとして、ぐんぐん変わっていった。もちろん変わってゆくことを求めたものたちが戦争を起こしたからである。」(吉本隆明『戦後詩史論』大和書房、1978年、p.25)


合焦されている主体は「詩人」であり、その限りで「うた」を自身の〈いま・ここ〉の必然として表現につなげようとしていた人がた。それまで「昭和初年の日本の社会が、多量にうみだした、下層庶民社会にその日ぐらしを強いられた不定職インテリゲンチャ」であった彼ら詩人たちが、戦争によって「職もなく社会からおちこぼれる境涯から脱してゆく機会の出現」につれて消滅していった。「かれらのあるものは、職をえて大陸へ出かけて文化宣伝に従事し、あるものは南方へでかけて軍報道の一翼をになった。またあるものは戦争による戦争拡大につれて定職をえ、それにつれて社会にたいする不定意識をいつか消失し、いわば日常社会人に転換した。かつてのルンペン的反抗や無頼的彷徨のかわりに日常の生活がおとずれた。」 つまり、戦争によって、詩人にとってさえも人並みの日常が初めて連続するものとして経験されるようになった、と。
戦前、定職について月給取りになるということは「立身出世」のひとつのシンボルでした。そのように月給取り的な暮らしに奇しくも紛れ込めるようになったことで、彼らは初めて、その生活の先行きをそれまでよりずっと遠くまで見通せるようになり、社会をそれまでと違う内実を持つ自分ごととして意識できるようになった。それによって彼ら「現代詩の底辺を構成した不定職インテリゲンチャ群は(…)社会にたいする不定の意識を消失させられ、一個の庶民にまでその生活感覚を還元させられた。」 その結果、それら総力戦体制下の戦時において初めて、彼らは当時の本邦世間一般その他おおぜいと地続きの意識で彼ら自身の「うた」を紡ぐことができるようになり、「戦争の詩を、あたかも大衆の意識を代表するような足場でかいた。」しかし、その「戦争詩をよんで、戦意を昂揚された大衆などおそらくひとりもいなかった。それらは詩としてきわめて貧弱であり、現代詩人たちが、庶民大衆とすこしも別のことを考えているわけではないことを、自分で証明する手形としての意味しかもちえなかったのである。」
詩人たちの自意識が大衆社会の側に組み込まれてゆくことで暮しが安定し、日々の生活が確かにこの先も続くものと感じられるようになり、その結果、世間一般その他おおぜいと同じ地平で「一個の庶民」として、ものを見たり感じたりするようになった。そのような彼らがつくる創作物も世間一般その他おおぜいと地続きの意識や感覚に依拠したものになった。
その一方、「戦争をひとつの自然秩序の変化としてとらえた」詩人たちもいた。
「近代資本主義社会と資本主義社会の利害の矛盾であり、高度の生産力のたたかいであり、近代意識と近代意識の社会的な争いである戦争は、いわば原始的な自然人の呪術であり、呪術に示唆された首狩りや部落間の争いのように、自然信仰のカテゴリイでとらえられた。そのことによって日本の庶民が根源的なところでもっていた呪術的な戦争観を、よく詩作によってメタフィジックにまで高めたのである。」
この後者に、吉本は高い評価を与えています。でも、「戦後」の過程で現実に進行していったのは、前者のような主体のありようからつむぎだされる「うた」が時代に即した〈リアル〉を獲得してゆく、そんな見知らぬ新たな〈いま・ここ〉が編制されてゆくはるかな遠い道行きだったようです。