芸能
● さて、話は浪曲へと赴きます。そう、あの浪曲、つまり浪花節です。*1 フシとタンカが浪花節の骨組みであるということが、これまでも言われてきました。このフシとタンカの組み合わせは、もしかしたら前回少し触れたような意味での「会話」と「地の文」に対応す…
● 性懲りも無い、手もとに散らばる古書雑書書きつけの類をあれこれついばみながらの千鳥足な道行きの日々の身の上。今日もまた、ふと目に留まったこんな断片から、身の裡にくぐもるささやかな問いの数珠つなぎのさらなる紐解きを例によって。 「地の文を三行…
● 「文学」とか「芸術」とか、言葉にし、口にすること自体、どうも気恥ずかしく気おくれがする。と言って、「アート」とか「クリエイティヴ」(これ、形容詞のはずが、なぜか名詞みたいに使われているようですが)とか、横文字をそのままカタカナにしてわかったよ…
● 「アニソン」というのがあります。要は、アニメ作品に付随する主題歌や挿入歌のこと。テレビであれ映画であれ、いわゆるアニメーションの映像作品に人心を集め注目を集めるためのフックとしてつけられる楽曲の総称、と言っていいでしょう。 商品音楽として…
● 読み手であり書き手でもあるような主体、それが行なう実践としての「読む」も「書く」も、同じ生身の個体によって行なわれる営みであるがゆえに、「私」の個的なものであると同時に、「公」の社会的なものとしてもある。そして、そのような実践に際して彼なり彼…
● 「うた」は、ことば抜きに成り立ち得るものか――ああ、こういう問いはいつも、おいそれとすぐに片づけて始末してしまえるものではない分、どんなに脇の見えないところに取り置いて忘れたつもりにしていても、何かの拍子にひょい、と眼の前に転がり出てきて…
● 「書く」と「読む」、その同時進行の過程においてこの生身の裡に宿るものは、この場で縷々執着してきているような「うた」の本質および本願、言葉本来の意味での人間的な、生身を生きねばならぬ存在ゆえの営みにうっかり根をおろしているものでもある。「読む」…
*1 *2● 1月10日のスポーツ紙朝刊、八代亜紀の訃報が、まるで阪神優勝の勢いで特大の色刷り活字の見出しの乱れ打ちと共に右へならえ、横並びの潔さで躍っていました。 ああ、それほどまでに、本邦スポーツ紙の想定読者層にとっての八代亜紀、いや、より丁寧に…
● 前回、「美術」「芸術」に対して、ずっと抱いていた敷居の高さのようなものについて、少し触れました。せっかくなので、そのへんからもう少し、身近な問いをほどきながら続けてみます。 あらためて思い返してみれば、同じような敷居の高さ、距離感といったも…
● 同時代のうた、眼前の〈いま・ここ〉に流れている最新の、いや、そうでなくても、ある程度いま、商業音楽として市場に流通しているいまどき流行りの楽曲に、おのれの耳もココロも反応しにくくなってしまうことは、加齢の必然と半ばあきらめてしまっていま…
● 鼻歌をうたう、という身ぶり、あるいは日常生活上のちょっとした癖みたいなものでしょうか、いずれにせよ、そういうしぐさもまた、昨今見かけなくなったもののひとつかも知れません。 たとえば、『あたしンち』という、けらえいこのマンガに出てくるおかあ…
● 歌は世につれ、世は歌につれ、というもの言い、玉置宏の発案と言われてますが、その真偽はともかく、そこで言われているような、世の中と「うた」とが自明にがっちりからみあい、共に存在するという認識自体、もしかしたらすでに静かに歴史の向こう側に退…
*1 元競走馬に約2メートルの土壁を駆け上がらせる三重県桑名市の「上げ馬神事」について、動物愛護法違反の疑いがあるとして6月、県警に刑事告発された。 5月の神事で1頭の馬が脚を骨折し、その後殺処分とされたことなどからSNS上で批判が噴出。奉納先の多度…
*1● 馬を2mほどの高さの、ほとんど「壁」に等しいところ駆け上がらせる。というよりも、人間たちがまわりで寄ってたかって囃し立て、無理にでも押し上げるのが見せ場になっているという神事が、警察に告発されたという件について、言っておかねばならないこと…
● そう言えば、 「盛り場」という言い方も、最近はあまりされなくなったようです。 飲み食いから夜は酒やオンナなども、そしてそれに伴いさまざまな興行もの、その時その場所での「上演」を属性とするような「消費」が、場合によっては24時間体制ですら準備され…
● かつて――と、もう言ってしまっていいのでしょう、「アカデミズムとジャーナリズム」という対比で語られるのがあたりまえに「そういうもの」だった、そんな言語空間と情報環境が本邦の〈いま・ここ〉にありました。 それがもう「かつて」と呼んで構わない程…
● 視覚と聴覚、という話から、もう少し続けてみます。情報環境の遷移とその裡に宿っていった生身の意識や感覚について、情報化社会と視聴覚文化、といった補助線から、例によっての千鳥足でゆるゆると。 情報化社会を語ることは、映像情報の大量化を語ること…
● とある体育系の某教員談。授業で身体動かすBGMに嵐のオルゴール曲を流してたら、学生が「センセ、嵐の声聞きた~い」と言ってきた由。 歌詞を、ではなく、だから「ことば」ではない。あくまでも「声」、音響としての音声を聴かせて欲しい、という意味らし…
*1 先日、三浦小太郎さんが、かつて自分の書いた「無法松の影」という本をとりあげて、えらくほめてくださっていたんですが、それを受ける形で、今日はその素材になった「無法松の一生」の話をしろ、ということなので、少しお話しさせていただきます。 というの…
● わだかまっていた厄介事に、とりあえずの決着がつきました。 とは言えその間、2年9ヶ月という時間が、それもおのれの還暦60代という人生終盤、予期せぬめぐりあわせの裡に過ぎ去っていました。 大学という日々の勤めの場が、たとえ北辺のやくたいもない…
● 晴耕雨読、と言えば何やら優雅にも響く日々、すでに死語になっている「悠々自適」「楽隠居」といった語彙と共に、馬齢を重ね、紆余曲折を経てきた果てにおのれを知った身の、ある意味理想としての日常を想起するでしょうが、当然、昨今はそんな呑気なものでも…
● 渡辺京二が、亡くなりました。敬称や敬語の類を使うのはこういう場合、自分としては理路の調律にさわるところがあるので、敢えてそれらは割愛します。 渡辺京二とは、「最後の人」でした。これは、自分が勤めていた大学で、彼が晩年、全国区の固有名詞として…
● 大正12年の秋、というと、あの関東大震災が起きた年の、まさにちょうどその頃、ということになります。ただし、これは被災地東京ではなく大阪でのこと。当時、朝日新聞社企画部にいた高尾楓蔭が、ひとりのアメリカ人を会社に連れてきました。この高尾楓蔭…
● いわゆる作家が自分の書いた作品を同人誌の仲間に披露する時、自ら原稿を朗読する習慣が、かつてあたりまえにあり、そしてそれはずいぶん後まであったらしいことは、以前も何度か触れました。それは小説であっても、それこそ流行歌の歌詞においても、それ…
*1 *2●教養願望とオタク的情報量の集積 ――でも今、浅田彰や宮台真司がアニメ語るとカッコ悪いでしょ(笑)。もちろん、当人はそう思っていないんだろうけど。 それは、教養になり得ていないんだよ。 ――マンガでも一緒ですよ。浅田が岡崎京子を語ったら、ほん…
● 阿久悠と都倉俊一の「出逢い」が、どれだけ互いに異質なもの同士の遭遇だったか。それは後世の後知恵でごくあっさり言ってしまうならば、「育ちの違い」というひとくくりな言い方に還元してしまっても、ひとまずいいようなものではありました。 だがしかし、と…
● 前回、最後に阿久悠の名前が出たので、彼の仕事を足場にもう少し、〈おんな・こども〉の領域が「うた」とそれに伴う日常の身体性とでも言うべき領域にどのように関わってきていたのかについて、続けてみます。 阿久悠という名前は、「作詞家」という肩書きが…
先日、ヘンな夢を見ました。ふだん、あまり夢は見ない方なのですが、だから余計に印象に残ったらしい。 手もとの紙に書かれた詩のようなものがあって、それらを実際に「うたう」ことを求められている場に自分が居合わせていて、しかもそれをカラオケのように…
● 戦前の「盛り場」、それも大正末の関東大震災以降、復興してゆく東京を「尖端」として現出されていったようなあり方は、それ以前の「市」的な、どこか近世以来の歴史・民俗的な色合いに規定された賑わいとは、どこか違う空気をはらむようになっていたようで…
● ラジオが「ナマ放送」であることの「臨場感」を大事にしていたこと。そしてそのような初期のラジオの媒体としての自覚が、すでに巷に出回っていたレコードを放送に乗せることをどうやら忌避していたらしいこと。 その一方で、ラジオは「家庭」というたてつ…