
総選挙が終わりました。
選挙権と共に市民的な自由が一応それなりに保証されている民主主義政体下での普通選挙というのは、良くも悪くもその時その社会の「民意」を、通り一遍の理屈や賢しらぶった能書きなどの予期し得ぬ水準も含めてうっかり反映させて眼前の現実として可視化してしまうものであるという、いまさらあたりまえすぎるくらいあたりまえのことをあらためて淡々と示してくれました。
たとえば、こんな感じで。
「高市さんを守ってあげてくださいね」――今回の総選挙、異例に短かったという選挙戦の間、各地で辻立ちをし、街頭演説を繰り返し、地元選挙区で日々駆けずり回りながら必死で支持を訴え続ける候補者たちの間から、有権者からこのような声をかけられたという話がちらほら聞こえてきていました。

いずれ型通りの選挙報道、映像画面の断片や切り取られた音声、雑感として整えられたエピソードなどかたちはさまざまでも、日々対面し、声をかけ、握手をしてまわるその先にいる無数と言っていいほどの匿名の有権者たちの中に、言い方は異なれど、そのような「お願い」を候補者に託す人がたが混じっていた。そのことがお定まりの情報の洪水の中、その片隅であれ確かに複数回、異なる背景で報じられているのに接しました。
熱心な支持者や、何らか利害関係のある組織や団体の関係者などはいざ知らず、とにかく手当たり次第に声をかけ、にこやかに愛想をふりまき、「いい人」「信頼できる人柄」を懸命に演じ続けねばならない選挙期間中の候補者の立ち居振る舞いに対して、ただ無視して足早に通り過ぎるのでない何らかの反応を示してくれるくらいの人であっても、わざわざ候補者に声をかける人は、現実にどれくらいいるものか。仮にいたとしても、その候補者の熱心さに応じて「がんばってください」くらいのあたりさわりのない言葉をかけるのが関の山、それが大方ではないか。なのに、「高市さんを守ってあげてくださいね」とはっきり「お願い」をする。もちろん自民党の候補者に対してではあるにせよ、個々の候補者の代議士としての信条やそれまでの政界での立ち回り方などあれこれの事情など無視した上で、高市さんを守って欲しいという、ただそれだけのことをわざわざ声にする。それがたまたまでなく、異なる選挙区や街宣の現場で似たような挿話として伝えられていた。
支持政党がどうとか、公約がいいとか人柄が信頼できるとか、投票所の出口調査のお定まりの質問項目におさまるような表層の「政治」の話ではない、民主主義政体での普通選挙がうっかりと反映してしまうような、言葉本来の意味での「民意」のある深度に感応しているささやかな、でもどこか「民俗」的な根の深さを感じさせる挿話ではあります。そして、このような挿話がうっかり転がり出してくる程度に、今回の総選挙が結果としてあぶり出した「民意」のその想定外にくっきりとした輪郭は、ある意味「信心」や「信仰」とくくられてきたような世間一般その他おおぜいのこころの動き方、「願い」へと収斂してゆくダイナミズムと連動しながら、期せずして描き出されたもののように思えます。
「高市さん」という親しい呼び方に込められたそれらの「願い」の背後には、どこかであの「世直し」への希求のようなものの気配すら揺蕩っている。こんな名もないわたしたちは何も力になれないけれども、あなたは当選すれば国会という晴れの舞台であの「高市さん」を手助けして、お守りすることもできるのでしょう、ならばそれをお願いします、このわたしたちに代わって――世の中が変わる、いまより少しはましになる、そう思わせてくれる人のかたちがもしかしたら見えているのかもしれない、だからこそ「願い」を原動力に参政権は投票として行使され、「民意」をあのような具体的な結果として示すことになりました。
戦後80年、本邦の「政治」を規定してきた枠組みが最終的に終幕を迎えた、と評する向きも出始めた今回の総選挙。「失われた30年」などと自嘲気味に言われることもあった「冷戦崩壊」後の本邦の停滞の時間は、しかしこのように「戦後」を終わらせてゆく力となる「信心」や「信仰」を熟成し、「世直し」を下敷きにした漠然とした「願い」を「民意」として可視化させてゆく、その仕込みのための時間でもあったのなら以て瞑すべし、なのかもしれません。
