オウム以後30年、の〈いま・ここ〉

 オウム真理教、と聞くと、自分などの世代にとってはそれだけでもう、ああ、という嘆声と共に、あの一連の事件をめぐる報道を介しての、当時のさまざま場面や映像、挿話などが一連の画像・映像リールのように思い起こされてきます。あれからもう30年。1995年3月に勃発したあの地下鉄サリン事件から数えての年月ですが、思えばあれは「宗教」というもの言いが「カルト」に取ってかわってゆくようになった、その大きなきっかけだったということも、今だからこそひとつ、言えることなのではないでしょうか。

 もちろん、戦後に興った各種新宗教も「宗教」というたてつけで語られてきましたし、それは下地に仏教やキリスト教など既存の大看板としての「ザ・宗教」があってのこと、だからこそ「新」なり「新興」という冠がつけられていたはず。なのに、あのオウム以降、それらもひっくるめて何となく全部まとめて「カルト」的なイメージの方向に引きずられて、それら言わば「宗教」的なるもの全般に対する本邦世間一般その他おおぜいの意識までもが、どこかなしくずしに変わっていったような気がします。たとえば、直近だと統一協会をめぐるあの一連のすったもんだにしても、「宗教」というより「カルト」とレッテル貼りして勝手に理解して片づけてしまうような気分が、そうと表だって口にせずとも、世間一般その他おおぜいの胸の裡には案外わだかまっていたのでは?

 「カルト」だから胡散臭い、カネ集めの何でもありの体質やそれにまつわる各種のやり口があるようだし、時には失踪まがいのこともささやかれるし、だってほら、あの安倍さん殺した若い人だってそういう「カルト」の被害者みたいなもんだったらしいじゃない――ざっとそういう気分の連鎖の中では、かつてある時期までならそれらあやしげな「カルト」とは一線引けていて、事実世間からも一応それらとは別物と思ってもらえていたはずの由緒正しい「ザ・宗教」でさえも、昨今ではどうも似たようなもの、一緒くた地続きのどんよりとした違和感、不信感に包まれて、結果それ以上考えずに流されてしまうところがすでにある印象。

 何となくカジュアルでポップで、どうかしたらサブカルっぽくすらあって、いずれそれまでの「宗教」ベースとは違うイメージで、その分どこか気楽になじんでしまえそうで、でもあらわれとしてはやはり何らかの信心、信仰らしきものがベースになっているようで、だからその限りでは「宗教」と言ってもいいんだけれども、でも……といったあたりの何とも微妙な躊躇と距離感。そんなあいまいな「宗教っぽいけど宗教じゃなさげな目新しい何ものか」が、あれこれ姿かたちを変えながら少しずつ、ちょっとした商売や芸能沙汰、あるいは昨今だとネット介した小さなコンテンツの類などまでを糸口にして身の回りに浸透してゆくようになっていった30年。それは、あのオウムがちょっとヘンでゆるいいまどきっぽい世相風俗のネタとして取り沙汰されるようになってゆき、でもその結果、地下鉄サリン事件を起爆装置にあまりにも強烈な「カルト」の印象を世間の意識の銀幕にみるみる刷り込むことになっていってしまった30年でもあったらしい。

 なるほど、身の回りでにわかにおいそれと説明できないような現象に直面した際、「宗教」という言葉に託して何か考えようとする、そういう以前からある作法によって結果的に宗教のありようから隠されてきた何ものか、というのも確かにあります。たとえば、「政治」という位相との関わり方などはひとつわかりやすい例でしょうし、そこからさらに「経済」の問題、むくつけに言えばゼニカネの流れがどうなっているのか、といったあたりの問いも含めた、いずれ「宗教」という語彙によって示されるべき眼前の現実、いわば宗教の〈いま・ここ〉におけるまるごと全体像は、皮肉なことにまさにその「宗教」という語彙によって世間の眼や意識からうまく隠されたままになっていたところがあります。

 つまり、オウム以降、身の回りにじわじわ浸透してきた、どこか宗教っぽくないカジュアル化の現実に対して、既存の「宗教」ではしっくりこない分だけ、新たな「カルト」という語彙に置き換えて何とか〈いま・ここ〉に着地させようとしてきたのではないか。とすれば、考えるべき問いは、すでに既存の「ザ・宗教」をも呑み込んでしまったらしいそのハレーション気味ですらある「カルト」の内実、ということになるわけですが……。

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*1:このあともっと展開せにゃならんお題なんだが、分量の関係で……なので関連しそうなお題がらみで、たとえば(´・ω・)つ king-biscuit.hatenadiary.com