1989-01-01から1年間の記事一覧

「まるごと」の可能性――赤松啓介と民俗学の現在

*1 *2 ―― 形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、ひとつずつ他のものと無関係に考察されるべき、固定した、硬直した、一度あたえられたらそれっきり変わらない研究対象である。形而上学者はものごとをもっぱら媒介の…

あなたはそんなにも手をふる

一枚の写真がある。モノクロームの、少し粒子の荒れた写真だ。 左から右へ、鼻面合わせて疾駆する馬が三頭。左手前、ひとりの男がちぎれんばかりに右手をふっている。手には手拭いかタオルとおぼしき布きれ。長靴に作業服、頭には後ろ前の「ベットウ帽」。腕…

ハタのなびいた日

かつて盛んだったハタ競馬のプログラムが手に入った。群馬県に住む、先輩の民俗学者が「おまえが興味あると思って」とわざわざ送ってくれたものだ。 近頃、地域の歴史について書かれた「市町村史」と呼ばれる本がたくさん出版されている。だが、それらの中で…

場外の英雄

以前より場外を使うことが多くなった。競馬場に足を運んだ上で馬券を買うのが競馬本来の姿であり、場外馬券は馬に失礼である、ゆえに場外で買った馬券が外れても文句は言えない、という僕の考え方からすればこれは堕落である。だが、だんだんとヒマのなくな…

ランボーのいない資本主義

))*1 ● 白状する。映画はまともに見ていない。 せいぜいテレビで放映されるフィルムか、ごくまれにレンタルショップのビデオ程度。もちろん、人並みに映画館をのぞくことくらいあるにはあるが、それもまぁ何かのはずみでというくらいのこと。情報誌をめくり…

別冊宝島

「場」の可能性について・ノート――「調査」と記述の間に横たわる病いを超えるために

*1 *2 *3 「場」とは何か。 それは、ここからここまで、というように常に均質な距離や範囲として計測器具で測定可能な具体的な領域のことではない。 また、それぞれ独立した単体の物質として分節された「もの」たちが凝集して形づくられている可視的なまとま…

上州草競馬の記憶――稲葉八州士『競馬の底流――侠骨二代の風雪――』(1974年 実業之日本社)萩原 進『群馬県遊民史』(1965年初版/1980年復刻 国書刊行会)

競馬がとことん面白くない。武豊は設計図通りのアイドルになった。テレビでは小林薫が人の良さそうな顔で馬券の楽しみを思い入れたっぷりに語る。競馬場に行けば行ったで家族連れやアベックの花盛り。場外馬券売場(最近はWINSとか言うらしい)もラブホ…

本の雑誌

北の競馬

今年のダービーを勝ったウイナーズサークル。彼は、茨城県生まれのサラブレッドだった。 競走馬の多くは北海道で生まれる。もちろん、青森県や千葉県、あるいは九州の鹿児島県などでも競走馬の生産は行なわれている。だが、競走馬生産は近年ますます北海道に…

電話の方へ――それは「伝言ダイヤル」から始まった――

橋川 あのころはお互いのグループ、あるいは個人同士のあいだのコミュニケーションもさまざまな形をとったけれど、電話がものすごく使われたね。そして不思議な情報の広がり方というか速さというか、量的広がりが、ちょっと考えられないくらい大きかったとい…

『伝言ダイヤルの魔力』所収

音の自我、耳の快楽――電話の引き出す資本主義について

*1 0. 多言は無用。のっけから言いっ放す。 電話とは、社会というまとまりをドライヴするために最低限求められるある種の共同性を編み上げてゆくことばが失われた現在、誰もが平等に、修練という名に値する過程を経て獲得するもののほとんど何も必要のないま…

大きな生きもの

厩舎にはいろいろな馬がいる。そして、いろいろな場所から、いろいろな経路で、いろいろな人間たちもまた、馬のそばにやってくる。そんな場にいると、たまにはびっくりするようなこともおこる。顔見知りの厩務員ケンちゃんの場合もそうだった。 ケンちゃんは…

遠乗りの記憶

*1 競馬場の厩舎を歩いていて、ふと、なつかしくなり、立ち止まった。 砂ぼこりが立つ。風に砂が舞い上がり、乾いた寝藁屑が走る。ちょっと強い風が吹くと、馬も、人も、眼を細め、うつむき加減に歩く… どこかで、こんな光景を見たような気がした。穴ぼこと…

「ヤツら」は街にたむろする――語られた「異質なもの」について①

*1 浅草には“血桜団”という不良が二人ずつ組んで道をあるいていて、その一人がうしろからスカートをまくれば、他の一人がハンドバックをもって疾風のように逃げ、 一人が針金で帽子をつれば、その隙にもう一人がぶつかっていって財布を抜く……それがアサクサ…