「読む」がなければ「書く」もない、主体もない


 使うべき言葉やもの言い、道具としてのそれらをひとつひとつ丁寧に意味と紐付けて「定義」してゆき、その上であたかも煉瓦やブロック、機械の部品を手順に沿って組み立ててゆく、そんな言葉の作法、少なくとも書き言葉において文章としてつむいでゆくことが、文字を介してものを考えることの基本形である――ざっとまあ、そんな感じで教えられてきましたし、そんなものなんだろう、と、なぜかここは柄にもなく割と素直に受け入れてもきました。少なくとも、大学にうっかり紛れこんで以来は。

 まさに「そういうもの」として、あまり深く考えることなく書き言葉としての文字とつきあい、意図や目的はその折々でさまざまなれど、まあ、それなりに何とか操ってきたつもりではあるわけです。その結果、やくたいもない文字列の山が具体的なブツとしての本だの雑誌だの新聞だの、切り抜きだの書きつけだのメモだの何だののいずれ紙媒体から、昨今はそれどころか電脳空間に宿る電子媒体としてまでも、とにかく馬齢を重ねてきた度合いに従って否応く眼前に「ある」という現実。

 昨年暮れ、この場でも何度か触れてきたそれまで3年半係争中だった大学との「和解」が一応成立、この3月末の定年退職まで教員として雇用関係にあることが裁判所から認められたのですが、それまでに大学に拉致されたままだった古本雑本の類から、ありとあらゆる文書書きつけその他をまとめて持ち出さねばならず、その作業の過程で自分がこれまでこさえてきたそれらを具体的なブツとして、あるいは何らかの電子媒体として、あらためて手もとで取捨確かめた上で右から左に梱包しては持ち出すことをしなければならなくなり、それら他でもない自分自身がこれまで書きつけ、入力してきたものを、あらためて〈いま・ここ〉において「読む」という営みをもまた、たとえ斜め読み走り読みであれ、期限の定められた棚卸し的にする羽目になった数ヶ月。

 すると、もともとほったらかしていたのに短期集中でそんなことを続けていたせいなのでしょうか、そもそも「書く」と「読む」との間に果たして何ほどの違いがあるのか、といったとりとめない、でもうっかりと根源的でもあるらしい問いもまた、なまった老体に時ならぬ手作業で筋肉関節その他、まんべんなく悲鳴をあげるおのれの身の裡に湧いてきたりもしたのであります。

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 芸能であれ演芸であれ芝居であれ何であれ、何らか生身を介した上演に必ずまつわってくるあの雰囲気。上演そのものだけでなく、それらを取り巻き、見る側も含めて、まさに「演」が現前化する場に、そしてその場を成り立たせている関係の複合においてなぜか必ず宿ってくる何ものか。その場限りのなまものであり、その日その時その場所という時間と空間の限定の上に初めて成り立つものらしいそれら生身の上演的表現の妙味の不思議は、絵画や彫刻に代表され、のちにはそこからさまざまな拡がりを持つようにもなっていったいわゆる美術や芸術の、いずれ何らか具体的なブツとして持続的に存在する物象を相手に語られる作法と共に成り立つ審美的領域とはまたひとつ別の、記録され固定化されざるはかないなまものゆえの限界と共に、同じ審美的領域として考えようとする場合であっても、その上演であることの独自性に過剰に合焦されるようにもなっていました。

 文字を介した創作表現も同じこと、文字によって書かれ、最初は木石パピルス、のちに紙へと媒体は変われど、いずれ記録され、その時点で固定化されるという意味では絵画や彫刻などと同じ系列の営みである以上、そこに動かず「ある」ものとして対象化される、そのことによって審美的な語りもそこからいわば一点透視的に放射されてゆくたてつけを伴うものでした。「書く」と「読む」にしても、そのような「ある」ものを軸にして考えられる行為であって、文字によって書き、それを読む、という関係も、具体的なブツとしての創作物が「ある」ことを前提に考えられるのがあたりまえでした。

けれども、です。「書く」の結果そこに残るブツ、その具体的なブツに働きかけて「読む」、「書く」「読む」をそのような位相においてだけとらえることの不自由というのも、実はすでにわれわれの裡にあるのではないか。

 「書く」は同時に「読む」でもある。自分が書いたものは、書きながら同時にまず自分自身が読むという意味で、同じひとりのこの自分自身、まさに生身の裡で同時進行してゆく過程でもあります。書いた結果そこに残って「ある」ものは、その「書く」「読む」同時進行の過程からはある意味疎外された結果の存在。紙の原稿であれ、そこから先、可搬性や流通性、商品性などにあわせて印刷、冊子化書籍化されたものであれ、初発の「書く」「読む」過程の〈いま・ここ〉からはすでに別の過程にあるものです。もちろんそこから新たに始まる「読む」、自分自身が書きながら読む同時進行過程とはひとまず全く別の、他人が関わり読んでゆく、いわば社会的過程としての「読む」が始まるのですが、しかし、そちらの社会的過程としての「読む」ばかりが普通は想定されていて、初発の「書く」「読む」の現場で起こっている過程については、その主体である生身の裡に生起しているものも含めて、十全に言語化され自省的考察の対象には未だなっていないのではないか。

 つまり、こういうことです。自分ごととして読むこと、つまり自分自身が書きながら読む、「書く」と「読む」とを同時進行の過程として体験しながらという意味においてならば、その限りにおいてそれも芸能と何らか地続きの上演的な、時間と空間とに限定された場においてこそ成り立つ営みであり、さらに言えば「うた」の宿り始める初発の地点とも、もしかしたら遠い縁を結んでいるのかもしれない。ゆえに、「書く」「読む」というのは、その初発の時点で分離されたものでなく、同じこの生身の裡で行われる同時進行のまるごとの過程であり、体験であるらしい――まあ、例によってとりとめないあれこれ枝葉を好き勝手に繁らせながらの妄想沙汰ではあるのでしょうが、そしてこの程度のことはおそらく、これまでもどこかの誰かがもっと理知的に論理的に言語化していることでもあるのでしょうが、でも、それがたとえ「車輪の再発見」に過ぎないにせよ、それもまた他でもない自分ごととしてこの歳になって想起した/できたことというのは、また別の意義もあるらしい。

 というのは、かつて自分自身が書いたものを〈いま・ここ〉現在のこの自分があらためて「読む」という体験には、今の自分がそのかつて書いたものを内容含めて「忘れている」ということもあるわけです。歳を喰う、ボケや痴呆があからさまになっていずとも、長い間生きていることの結果としてそれは普通にあり得る。仮に忘れていなかったとしても、ここは文字に限らず記録された表現の特性でもありますが、かつてそれを書いた時の意図や方向性などとはまた別の読み方、〈いま・ここ〉の自分を介したがゆえの新たな姿をまた平然と現わしてくれたりもする。さらに加えるならば、かつてそれを書いた時の「書く」「読む」混然一体の上演的意識や感覚をいくらかでも覚えていたり、あるいは当時書かれたものに〈いま・ここ〉の自分を介して接することで記憶の裡から引き出したりすることもあり得るわけで、そうなればそれらと現在〈いま・ここ〉で「読む」を発動している自分の裡に現前している上演的意識や感覚とをつきあわせながらの補助線構築、多様で重層的な時空を越えた「読む」の創造的現場を仮構的に生み出すことすらあり得ます。

 ですから、「書く」「読む」同時進行の過程においてこの生身の裡に宿るものは、この場で縷々執着してきている「うた」の本質および本願、言葉本来の意味での人間的な、生身を生きねばならぬ存在ゆえの営みにまで、うっかり根をおろしているものでもあったりするのではないか。つまり、あらかじめ個的で、ある意味自閉的で排他的で、だからこそ私的でもあるといった方向にだけ考えられてくる習い性にどうやらなっていた「書く」「読む」という営み、それがひとくくりに「読み書き」と「読む」先行で言い習わされてきていることの社会・文化的な機微なども含めて、実は初発の地点においては上演的な何ものかを伴う〈いま・ここ〉の行為、時間と空間の縛りの裡に生身を介して宿るあの不思議な雰囲気とそれに伴う意識や感覚などを同じく共通項として持つものだったのではないか。

 いわゆる「文学」と呼びならわされてきている多様な表現の形式――とりあえず話し言葉も含めての言葉を介してのものに限っておきますが、それが「個人」の「創作」としてあたりまえに認識され定義されるようになってゆく過程のその外側、「そういうもの」になってきてほぼ自明化している枠組みの〈それ以外〉の部分をどのように包摂して考えてゆけるのか、という問い。それは「文学」だけでなく「芸術」一般、日本語環境での術語に変換される以前の初発のすがたをもあらためて視野に収める努力もしながら、例によって日々粒々辛苦で淡々と自身、問い続けてゆくことからしか先行き見えてこない道のりではあるようです。

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 「読む」ことも「書く」ことと同じように、この生身を介した往還的な過程の裡に、しかも必ず〈いま・ここ〉の事態としてある。とは言え、先にも触れたように、常用的なもの言いとしては「読み書き」ですから、やはり主になるのは「読む」なのでしょう。

 「読む」がなければ「書く」もない。その双方が共にひとりの生身の裡に可能であるからこそ、人は主体となり得る。

 だから、あの自動筆記の「書く」などは、その意味では「読む」と分離、切断されたところでの「書く」のありようとして「異常」と認識されていたはずで、それは神がかりや憑依状態での「うわごと」的な託宣などとあわせて、主体の制御のきかない――この場の文脈に即して言うなら「読む」と切断された状態での現前的上演的言語表現というものは、それが書き言葉であれ話し言葉であれ、日常的な生活世界を編制している社会的な「読む」とは接続し得ないものであるという理解の筋道に立っていた。逆に言えば、「読む」ことこそが、そうと意識しない/できない水準もあたりまえに含みながら、われわれの日常を本質的な意味で支えているものらしい。そして、その「読み書き」が共に生身の裡に〈いま・ここ〉に現前して何らかの表現に向かおうとしている状態というのは、ことの本質として「うた」の原初的ありようにもとても親しいものでもあるらしい。とすれば、「読む」はまた、どこかで「うた」を内包している営みである、と。

 なるほど、そのように考えてゆくなら、本邦のマンガを「読む」ことなどは、ある意味「うた」の発露といった意味あいもあるかもしれません。またわけのわからないことを、という顔をするなかれ。というのも、絵の巧拙がそのままマンガ作品としての良し悪しに直結しているわけではないという、マンガ読みにとってはいまさら自明なことを、最近のAI技術の発達があらためて広く思い知らせることになっているようでもあるからです。

 本邦のマンガと称される表現は、戦後の手塚治虫以来のいわゆる「ストーリーマンガ」をひとつの定型として認識されてきているわけですが、それはどうやら本質的に「動き」を反映された紙の上の表現という意味あいがあり、またおそらくはだからこそ、そこに動く人物やその他主体の背後に「心理」「内面」が読み込みやすくなっていて、それらが共に複合しながらひとつの表現の形式が整っている――本邦のマンガ表現というのは、ざっとそのようなものであると認識されてきています。

 マンガが「動き」を反映した表現である、というのは、それが紙の上での映画である、といった言い方などで当初から言われてきてはいました。あるいは、マンガを描こうと志す者たちの中に、映画に魅了されて映画を創りたい、映画監督になりたい、といったモティベーションからマンガを手がけるようになった者が少なからずいたことなども、同じ意味あいで語られてきました。だから、いまさらそれが何?という反応にもなりがちですが、ただ、その「動き」というのは二次元の表現としてのマンガ作品にだけ、対象物として内在しているのではなく、読み手との関係、相互性の裡に宿る「読み」を介して初めて立ち上がるようなものでもありました。紙媒体に描かれ、印刷された作物としてのマンガ作品に創作物として「動き」が表現されている、というだけでなく、それらマンガ作品としての「動き」の表現というのも、そこで閉じられているのでなく、読み手の側の、それもそのマンガ作品と同時代の〈いま・ここ〉を生きる無数の生身の「読む」リテラシーを介してようやく、十全な表現としての「動き」を「読む」場に現前させることができる。もちろん、そのような同時代の無数の生身を伴う読者たちとの関係や場を濃密に取り結べるようになっているのも、あくまでも商品として市場を形成できるようになったからこそ、という側面も含めてです。

 コマ割りや視線誘導といった、マンガ表現の特性を分節し言語化するようになった近年の研究から、それら「動き」の内実もだいぶ光が当てられるようになったようですが、そのようなマンガ表現の文法を的確に「読む」ことのできるリテラシーが読み手の側にもあって初めて、その作品性というか、創作物としての本質に理会することができる。というか、マンガ表現の革新や進歩といったそれなりに急激だった変化の相も、単に描き手の側の創意工夫というだけではもちろんなく、そのような読み手のリテラシーとの相互性の裡に起こっていったイノベーションでした。昭和30年代前半あたりから簇生していった週刊誌ベースのマンガ専門誌の市場は、そのような描き手と読み手の間の濃密な相互性の場にもなっていったわけです。それは、ある意味舞台表現と観客の関係にも喩えられるものかもしれない。とすれば、本邦のマンガとは、舞台表現における戯曲にも近いところがあるとも言える。

 戯曲を読む、という行為もまた、いまひとつピンとこないまま、この歳までうかうかと生きてきてしまっていますが、戯曲の本質はせりふにあり、書き言葉でなく話し言葉としてのそれは、実際に発声され上演されることで初めてその美的意義を十全に表現することができる。その限りにおいては詩と同じであり、ゆえに戯曲もまた詩と同じように読まれるべきである――ざっとこういう考え方も、折り目正しい演劇史ではひとつの考え方としてあったことくらいは、いつかどこかで聞きかじり読みかじった程度の知識としてあります。

 「科白が韻文である事と、散文である事とは如何にして異るのであろうか。」

 「韻文の科白が過去に於て伝統であり、慣習であつた事は、現在に於ける散文の科白に就ても同様である。然し伝統とか慣習とかを離れて何故科白は韻文でなくてはならないのか、何故散文でなくてはならないのか、と云う問題を考えなくてはならない。」

 こんなことを言うのも誰あろう、織田作之助であります。織田は当初、戯曲を志していて、しかもそれがランボーヴァレリーマラルメといった翻訳介した詩と共に彼の創作へと向かう意欲を醸成する土壌となっていたことは、のちのあの文体などを生んでいった背景としてもっと考えていいことだと思いますが、それはともかく。

 「文学」とひとしなみに呼ばれる表現にも、そのように生身の身体性が必ず貼りついてあった。それは当然「詩」や「短歌」などのいわゆる詩歌の類から、芝居などの上演系の舞台芸能などにも拡がりを持つような、その程度に融通無碍なたてつけの裡にあったようなのです。だから、それらを「読む」こともまた、単に文字/活字の散文と対峙しての営みというだけでなく、詩歌や芝居、演説などにも同じ生身を介して身を躍らせ得るし、だから「うた」も必ず潜在的に宿っていたのだと考えておいていい。「うた」を身の裡にはらみ、宿らせながら「書く」のだし「読む」もまた、いずれそんな生身の状態。その頃の総合雑誌や文芸誌の目次の上で、おそらくは便宜的という側面が大きかったのかもしれませんが、「評論」「詩」「創作」などと区分けされて割り付けられたそれぞれの作物にしても、「読む」に際しては「書く」のと同じ活力、同じ「うた」を宿した生身が介在していたのでしょう。だから「戯曲」もそのように「読む」を求めたし、実際そのように接するものだったということのようです。

定年退職、の弁

*1

 この3月末日をもって、札幌国際大学を定年退職することになりました。ここ数年、裁判沙汰であれこれお騒がせもしましたが、まあ、これでひとまずの区切りということになります。*2

 まず、真っ先に考えてやらねばならなかったのが、この間、大学に「拉致」されていた本や資料のその後の身の振り方でした。

 大学教員が定年になる、たいていその少し前から、ふだんはたまに遊びにくる程度だった古本屋のオヤジがマメに出入りするようになり、研究室の蔵書の処分に目星つけてくれるようになって……といった話は先輩がたから聞かされてましたし、実際、そういう光景もいくらか眼にもしてきましたが、でも、そんなのはもうすでに昔話。若い世代なら電子化された文献や資料ベースの日常になっているようですし、年寄りは年寄りで、実務家系の特任教員で年金の足しになれば、程度の了見で大学にやってきたような人たちなら、日々の講義くらいはそもそも新たに本を読む必要もなく、だから研究室に蔵書がほとんどない人もいるくらい。なので、大学教員がためこんだ蔵書などには、いまどき三文の値打ちもありません。

 とは言え、おのが仕事で必要な本だけでなく、学生たちに読ませたい本、講義や演習で役に立ちそうな本、そんなのも山ほどためこんでいたわが身のこと、いきなり喰らった懲戒解雇でその後まるまる3年半、それら本たちの顔を見てなかったので、今年の1月、久方ぶりに大学に立ち入ることができるようになって書棚の背表紙の見慣れた並びを見た時には、生きとったんかいワレェ、と叫びたい気分でした。まあ、向こうの本たちにしても同じ想いだったでしょうが。

 いわゆる大学教員としては相当に外道、規格外の余計者であることは十分自覚していましたし、その経歴の結末としては、まあ、こんなものなんだろう、という程度には前向きにあきらめているところはあります。

 思えば、大学院重点化で「入院」する学生が激増し、いわゆる「課程博士」あたりまえの天下の大愚策な大号令がかかる、まだそれ以前のこと、それも民俗学などという本邦のガクモン世間の隅っこのそのまた辺境、もともと大学から始まったガクモン沙汰でもない「野の学問」だったのが戦後の「豊かさ」の上げ潮にうっかり波乗り、いっぱしのガクモンのような顔をするようになった程度の新規造成地の、しかも右も左もわからぬまま私大の大学院に横から迷い込んだような筋違いのくせに、これも時代のめぐりあわせか、最初は1989年、国立大学に助手として着任、その後、共同利用機関に助教授として転任、思うところあって1997年に辞職してその後10年ほど「野良」をやってたわけで、肩書き的には一応「民俗学者」を使わせてもらってましたが、実態はせいぜい「ライター」「雑文書き」、いわゆる「もの書き」程度だったでしょう。もともと専門分野というか、馬をめぐる仕事の現場、それも地方競馬とそのまわりにはこの40年ほど関わらせてもらっていましたから、地方競馬場がドミノ倒しにたて続けて潰れてゆく時期には東奔西走、及ばずながら支えるようなことをあちこちでそれなりにしていましたし、だから風変わりな競馬もののライターという印象を持っておられた方もいるらしい。また、売文以外にテレビやラジオなどの仕事も何でもありに引き受けていたので、その頃流行っていた「朝生」その他の討論系番組のいっちょ噛みや、10年以上断続的かつ散発的にせよ130回ばかり続いたNHKの「BSマンガ夜話」の司会者としての印象が強い向きもあるようです。あるいはまた、ようやく整い始めたインターネット環境、黎明期のネットメディア界隈の片隅で、荻窪のステーキハウス「まるり」から奪ったフォークにくくりつけたICレコーダーふりかざし、いずれ騒動や事件の現場に予告もなく出没しては、いたいけな当事者に「吐け!吐け!吐け!」と臆面なく強要する取材沙汰を売り物にしていた「暴力でぶ太郎」の悪名を思い出して眉ひそめてみせるような良識ある人がたも。そういう界隈は、ああ、小林よしのりに一時期くっついて「あたらしい歴史教科書をつくる会」に関わり事務局長までやっていたはねっかえりの「右翼」分子、何もわからぬ若者たちを無責任に煽っていまどきの「ネトウヨ」につながる悪しき流れを作った元凶の一角、といった認識を持っておられるようですが、それはともかく、そんなこんなで日々疾風怒濤、波瀾万丈、当人はとにかく生きのびることに必死だっただけで、えい、知ったことか、悪評も評判のうちだ、とうそぶきつつ、なけなしの心意気だけを頼りにあらゆる毀誉褒貶を一身に引き受けながら、でも、傍目からは国立大学助教授の職を放り出した馬鹿の自業自得、いずれのたれ死ぬこと確定のくだらぬ道行きにしか見えない、そんな30代から40代ではあったはずです。

 まあ、いずれあの煮え立つような昭和末期から平成初期、1990年代だったからこそ可能だった大雑把な世渡りでしょうし、何より東京にいたからこそできたことだったでしょう。実際、2007年に縁あってこちらに来てから、そんな仕事はほぼなかったですし、何より、それまでそれなりの点数出していた自分の著書はもとより、「他人の本を出すと売れる」と陰口叩かれていたような自前の企画持ち回っての裏方仕事も含めて、そのように本や雑誌を出版する機会も、そのための関係や場も全部なくなり、そもそもまわりは自分のそれまでをほとんど知らない、何をやってきた人間なのかもよくわからない、興味もない人たちばかり。そういう意味ではあらためて普通の大学教員を淡々とやり直せるようなところはありました。そのことには素直に感謝しています。

 北海道で生まれ育って、できれば北海道で就職して機嫌よく生きてゆきたい――そんな学生たちがほとんどでしたから、そんな彼ら彼女らにとって役に立つ高等教育、大学で学ばせてあげられることってなんだろう、そんなことをずっと考えさせてもらいました。「地元」がまだ確かにある、彼らの意識の中にも彼らの望む人生のイメージにも、ですが、そのことが自分にはあらためての発見でしたし、だからこそ彼ら彼女らから教えてもらったことはたくさんあります。

 結局、在職したのは17年。とは言え、2020年の6月、前期の講義の真ん中でいきなり懲戒解雇されたわけですから、最後の3年9ヶ月は予期せぬ空白になりましたが、でも、裁判沙汰になった時、ゼミのOB・OGたちが音頭をとって大学側に抗議の意味で公開質問状を、保護者の方なども含めた署名を添えて出してくれたことは教員冥利に尽きるものでした。自分のゼミは基本、来る者拒まずのオールカマーにしてましたから、学生の彼氏なども平気で遊びにくるようになり、当人よりそっちがしょっちゅう出入りするようにまでなって、その彼氏はたまたま職人さんだったのですが、「いやあ、大学っておもしろいところだったんですねえ」と言ってくれるようになってたり、また、社会人のクラスもあったので、そちらでいろんな経歴の方々とも知り合うことができ、夏は札幌競馬場に一緒にエクスカーションに出かけたり、また全学展開で門別と帯広の競馬場につれてゆく講義を10年ほど続けたり、とまあ、それなりに再出発の大学教員としてできることは精一杯やってきたつもりです。*3

めぐりあわせで学部長や学科長、学生部長なども務めましたし、折りからの少子化で減少する学生数を食い止めようとあれこれいろんな工夫もして、実際、数字的に少しは上向いてきたところだったのですが、それら十数年の力戦も積み重ねも全部、いきなりの懲戒解雇で全部なかったことにされたばかりか、自分のいた学科まで即座に廃止した大学側の仕打ちなどには、一応「和解」が成立したとは言え、個人的には許すつもりはありません。それは、あの公開質問状に大学から未だに何も返事をもらっていないOB・OGたちも同じでしょう。あれこれ含めて、自分に関する一件とその顛末について、学外に対してだけでなく、学内的にも「なかったこと」にされたままなのは、公益法人である大学として果たしていかがなものでしょうか、くらいのことは言っておいてもバチはあたらないと思います。

 定年なんです、という話をすると、これからどうされるんですか? とよく尋ねられます。「第二の人生」としてどこかに再雇用されるのか、といった意味あいと共に、もうひとつ、どこか北海道以外に「帰る」んですか、という意味もあるらしい。前者は、裁判で裁判長からもそういう前提で話をされたこともありましたし、行き会った人たちからも普通に挨拶代わりにそういうことを言われるので、大学教員で定年になるとその先、再雇用でまたなにか「老後」の隠居仕事をするのがあたりまえ、といった考え方が世間にはあることをいまさらながらに知りました。また、それ以上にあとの方、北海道じゃないどこかにこのあと「帰る」のだろう、と言う前提での問いかけには、ああそうか、やっぱり「よそ者」で「内地」からたまたまやってきた人と見られていたんだ、と気づかされました。そうだよな、「よそ者」だったんだよな、と。

 残念ながらもともとそういう根っから外道の余計者、故ナンシー関にも「めくるめく不幸を呼び寄せる男」と太鼓判を押された身には、そのどちらもあるはずがない。もちろん、こんな自分でも何かお役に立てるような機会があれば、腰を上げる構えはいつでもしておきたいと思っていますが、もうひとつのどこかへ「帰る」ことについては、残念ながらもう住んでいた埼玉の家も処分した上、親類もほとんどいない身、近くの介護施設にいる母親をこの先、見とってやることくらいが残った仕事ですから、よほどのことがない限り、自分もこのまま北海道で土になるのだろうと思っています。

 よくあるような最終講義も、また定年退職の挨拶も、何ひとつさせてもらえないまま、おそらく退職者として名前も出されぬままいなくなることになりましたが、それでも、身体張って筋を通そうとして4年近く、自分なりの「義」を足場に抗い続けたことを記憶してくれる人はどこかにいるだろう、そのことは信じています。

*1:加筆改稿しました……240405 赤字部分を主に加筆。その他ちょこちょこと。『財界さっぽろ』の依頼原稿だったのですが、紙媒体の方でなくweb媒体の方での掲載・公開ということで、それにあわせて編集部の方からいくつか注文がつけられたので、それに応じたような次第。

*2:king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*3: こんなこともやってたり。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

解説・村上元三「ひとり狼」

 長谷川伸のまわりからは、戦後の中間小説から歴史小説などの新たな読みもの文芸の市場が拡がってゆく中、何人かの書き手が巣立ち、羽ばたいていった。巷間「長谷川部屋」などとも呼ばれていたという彼のまわりの勉強会だが、のちの新鷹会、もともとは雑誌『大衆文芸』に拠る同人的な関係から始まった集まりではある。

新鷹会そのものは、昭和十五年(一九四〇)作家長谷川伸先生を中心にして、新しい文学の創造と開拓をめざした当時の新人たち村上元三山岡荘八大林清山手樹一郎長谷川幸延氏らが結成した十五日会がその始まりである。後に十五日会は村上元三氏の発議により大空にはばたく若き鷹のイメージから新鷹会と改称され、その前年の昭和十四年(一九二九)に発刊された雑誌「大衆文芸」(第二次)と共に、新人の発掘、創作の研究を目的として活動を開始し今日にいたっている。」

 村上元三はその創立以来の重鎮のひとりで、山岡荘八池波正太郎らと共に戦後の歴史小説を支えた作家の有力なひとりと言っていい存在だろう。だが、申し訳ない、この人の一個の書き手としての仕事やその質についてまとまって云々できるほどの見識は、いまの自分には備わっていない。

 ただ、戦前、その後の新鷹会に至る『大衆文芸』の創刊当初、はじめの一歩の時点で、このようなマニフェストがあったことはひとつ、この場で自分が語れるだろうことと関連するので留意しておきたい。

「今日までの所謂(いわゆる)、大衆文芸はたいへん広範な読者層を掴んでいると云っても、賢明な読者大衆からは見離されている。ジャーナリズムの商業主義が大衆に媚を呈するのに汲々として、文学、芸術と唱えるには余りに丁重卑俗なものに堕落させてしまったためである」

 その「大衆文芸」という言い方に当時込められていたように、商品として大量に流通し、市場を介したその他おおぜい≒「大衆」に好まれ、読まれるようになった「おはなし」たちは、それらの書き手を持続可能な商売、世渡り稼業としての「創作家」≒「作家」へと仕立ててゆくことに貢献したわけだが、昭和10年代半ばという時代背景、社会的条件などと共に、それら通俗的な商業主義一辺倒の風潮に対する異議申し立ての気分もまた、前景化してきていた。そういう立ち位置から始まった集まりであったことは、戦後の歴史小説、時代小説のありようを規定していった、ある気分なり同時代感覚なりの原点みたいなものだと思う。

 それは、当時すでに「そういうもの」になっていたような意味での大衆文学、明治期の書き講談以来の大日本雄弁会講談社的な世界観・価値観での商業的な「おはなし」文芸に対する違和感であり、と言って、いわゆる「文学」の側からでもない、読み手を市場の向こう側にそれまでと違う容貌と共に合焦しようとしていた意識と共に宿っていたものだった。例によって突飛な発想になるのはご容赦だけれども、同じ頃、柳田國男と民間伝承の会が合焦しようとしていた「常民」の「歴史」に向かう意識とも、それは同時代的な精神史としては重ね合わせて考えてみることもできるのだろう、と思っている。

 歴史小説とか時代小説、あるいは捕物小説や剣豪小説などとさらにくだけて呼ばれるものなども含めて、いわゆる「歴史」を素材にした、あるいは素材そのものでなくても書き割りとして設定した「おはなし」文芸というのは、単に文字/活字を介して印刷を介して複製、流通されてゆく商品形態が確立されていって以降だけでなく、会えて視野を広く構えるのならそれ以前、それこそ語りものなどの演芸、上演系の表現のありようまでも包摂してゆかざるを得ない、いずれ広大な創作表現の沃野につながってくる。

 もちろん、マンガやアニメ、ゲームからラノベなどに至る、いわゆる「文学」が事実上枯死してしまって以降、近年の情報環境の転変の裡に多様に簇生してきた創作表現のジャンルにおいても、それら「歴史」は融通無碍に転生しながら、素材としても、また「世界観」と昨今呼ばれるような創作作品世界の特性とからんでくる部分においても、未だわれら人間の想像力と創造の間に強固で本質的な紐帯を提供してくれている。たとえば、ファンタジーやSFと呼ばれるような、一見「歴史」とは直接関係の薄そうに思える分野においても、いまどきの読み手のリテラシーを介した「読み」の水準においては、すでに少し前までの「歴史」を素材とした創作に対するのと同じような読まれ方をされるようになっているところもある。そのような意味では、想像力と創作の間の関係を規定する「歴史」という素材というのは、われわれの生きる現実、ことばと意味を介したある意味ヴァーチャルな水準も共に生きざるを得ない人間存在のある本質と切り離せない何ものか、に常に関わってこざるを得ないものらしい。

 戦後、「おはなし」文芸としての読みもの、大衆的な市場に投じられ商品として流通してゆく小説類の幅が、ジャンルや領域を越えたところでそれまで以上に拡がってゆき、それに応じて新たな読み手を開拓しながら広範に準備してゆくことになった。そのことで、戦前以来の髷物、捕物帖、股旅物といった言い方でくくられてきた形式の作品だけでもなく、推理小説や探偵物、ミステリーなどといった眼前の現代社会を舞台とした創作もまた、それまでにないジャンルとして次々と現れていったわけだが、現れ方は違えど、読まれ方としてはそれら新しい領域の作物たちも、既存の歴史小説や時代小説などと基本的に同じリテラシーによって読まれていた。たとえば、社会派推理小説などと呼ばれる新たな領域を開発したとされる松本清張にしても、あるいは今だと歴史小説のスタンダード的に受け取られるようになっている司馬遼太郎にしても、共に〈いま・ここ〉の現代、眼前の現実とその作品世界とを、同時代の読み手のリテラシーを介して結びつけてゆくことで幅広い支持と、その支持を裏打ちするだけの〈リアル〉をそれらの読み手の「読み」との間に宿していったところがあるのだと思う。それは、個々の作品や書き手、それらを前提にしたジャンルや領域などの仕分けを自明の前提にして考えようとする、既存のいわゆる文学研究や大衆文化論的な枠組みとは少し違う角度から、それら「おはなし」文芸と、商品市場を介した消費者である読み手のリテラシーとの関係を軸に情報環境の社会性や歴史性を補助線として考えてゆこうとすることから、改めて課題として見えてくるものでもある。

 この「ひとり狼」も、今回このアンソロジーを編むに際して、あらかじめ編集部から提示されていた作品だったのだが、ある定型としての流れ者、寄る辺なき一匹狼的な主人公のキャラクター造形が、かなりくっきりときれいに示されているあたり、それら戦後の大衆文芸、商品としての「おはなし」創作物をお好み次第に手にとり、読んでゆくことができるようになった当時の同時代のリテラシーにとって、「歴史」を素材にした舞台設定とは言いながら、そこに同時に期せずして抽象化されたそれら市場的な「おはなし」商品における望ましい英雄像、ジャンルが何であれそのような「おはなし」空間で闊達に動き回ることのできる標準的なキャラクターとして屹立し始めていることが見てとれる。

 主人公は追分の伊三蔵と呼ばれる博奕打ち。年の頃なら二十二、三、何の変哲もない顔つきだが、実は彼ら渡世人の世間ではそれなりに名の知られた男。

「諸国を歩く旅にんの中に、追分の伊三蔵という男がいて、人づき合いは嫌いだが、ひどく腕が立つので、喧嘩だというと、どこの親分も、伊三蔵の居所を探して、助っ人を頼みに連れて来る、という。もともと凶状持で、ほうぼうに敵を作っているので、喧嘩のあと、兇状を背負って、そのまま旅へ出て貰うのに都合がいいからでもあった。バクチにかけても神業のような手並を持っているというが、親分から乾分の盃を貰って、一つ処に落着いているのが嫌いで、いつも旅から旅を歩いているという。」

 もうこれだけで、流れ者の一匹狼というキャラクターが、股旅物の書き割り、舞台設定の中にくっきりとわかりやすく立ち上がる。初出は『オール讀物』昭和31年2月号。このような「流れ者」の「一匹狼」キャラの淵源がどのあたりからのものか。師である長谷川伸の股旅物の主人公で、新派の舞台や映画なども介して戦前から人口に膾炙していた沓掛の時次郎や番場の忠太郎といったキャラクターと結びつけることはもちろんできるし、わけありで関わった女と生ませた子供に対する想いが「おはなし」の縦糸になっていることなどもまた共通のモティーフになっていることも容易に指摘はできる。あるいは、キャラそのものとしてなら、「天保水滸伝」の平手造酒に代表されるような、渡世人の仲間に身を落としている尾羽打ち枯らしたやさぐれ浪人の剣客像などにも紐つけてゆけるのだろうし、また、この少し後、戦後のそのような時代小説的なたてつけに新しい色合いを付け加えることになった書き手でもあった笹沢佐保の「木枯し紋次郎」が、70年代の初めに市川崑の手によってテレビ映像化され、「あっしには関わりのねえことでござんす」というその口癖ともあいまってブームにまでなったことなど、それはそれでいろいろと考察沙汰の枝葉を繁らせてゆくことはできるだろう。


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 ただ、ここでは、それらの「おはなし」を語り手として駆動しているのが、冒頭からいきなり話し言葉の問わず語りの態で読み手の前に現れる眼前の茶屋のおやじであること、実はかつては上松の孫八という渡世人だった人間のなれの果てらしいのだが、そのおやじによる回想の形をとって、かつてのその孫八がまだ駆け出しの頃に行き会い、その後、渡世の旅の途上で何度か交錯し一緒について歩く時期もあった、言わば仰角視線で仰ぎ見る兄貴分的な存在として追分の伊三蔵像が提示されていることがひとつ、この作品の読まれ方にあらかじめある入射角を与えていたかもしれないことに注目しておきたい。

 孫八という駆け出しの修業時代の追憶があらかじめのたてつけとして「おはなし」にしつらえられていることで、読み手はその孫八の目線でその作品世界に入ってゆくことになる。ただの名もない「若者」であり、未だ一人前になっていない未熟な者でもあるれれども、しかしその先、何らかの未来を夢見てもいる孫八にとって、自分の将来をある程度見通せるようにするための雛型として、すでにひとかどの者としてその世間で知られ、評判もされていた伊三像という存在が見えてくる。戦後10年、「すでに戦後ではない」と言われるようになっていた当時を生きていた読み手たち、殊に敗戦を自分ごととして受け止める必要がなくなっていた若い世代にとっては、このようなたてつけは古い革袋に新しい酒を盛った「教養小説」的な読まれ方へと、抵抗なくすんなり誘導されるところがあったのではないか。

 そう言えば、西部劇でありながら、同じようにどこか「教養小説」的な受け止められ方もして人気を博したた映画『シェーン』の公開がその少し前、昭和28年10月。一匹狼的な主人公像という意味でなら同じ頃、私立探偵フィリップ・マーロウの活躍するレイモンド・チャンドラーの一連の探偵小説などが邦訳され、ハヤカワ・ミステリなどのシリーズ(創刊は同じ昭和28年)と共に受け入れられ始めてもいた。


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 いずれそれら戦後ならではの新たなモダニズム、大枠としては戦前以来の大衆文芸の枠組みを継承しながらも、しかし新たに拡がりを獲得し始めた「おはなし」商品の市場とそれを介して前景化していた同時代の新たな読み手のリテラシーの前に、同じ歴史小説、時代小説の装いを持つ創作であっても、それら市場の側からのフィードバックは、それら商品の生産点に当時関わっていた人たちの意図的なものだけでもなく、まさに同時代の気分、その頃の〈いま・ここ〉のもたらす作用としても否応なく影響し、反映されていただろう。村上元三の何でもない短編というだけでもない、そういう意味での同時代性を、この追分の伊三蔵というキャラクターの造形は存分に吸い込んでいる。「ひとり狼」という題名もまた、そのような気分を期せずして受け止めるものになっていただろう。

解説・織田作之助「競馬」

 競馬を題材にした創作は、何も小説の類に限らずそれぞれのジャンルにすでにそれなりにあるけれども、ギャンブルとしての競馬に合焦したものが多く、また多いがゆえに定番でそれだけ陳腐な定型になってしまっているところがある。織田作のこの作品などは、それら競馬ものの古典のように語られることもあるけれども、その内実はともかく、それら競馬ものの創作という意味では、確かに早い時期のものであることは間違いない。少なくとも、大衆娯楽としての側面から見た競馬という意味では、ある種の原風景みたいなところはあるだろう。

 織田作は言うまでもなく、武麟、安吾に太宰、ええい、檀一雄田村泰次郎火野葦平林芙美子に、いずれそんな固有名詞の道楽きわまりない並び方で勝手気ままにおのれにとっての小説、文学を啄んできたに過ぎない身の上、それでも織田作の描いてみせたこの競馬の原風景のような肌合いは、その後同じ競馬をしつこく題材にして一世を風靡したと言っていい新橋遊吉や、短歌や芝居など世間的に表芸とみなされていたあれこれより書きものとしてはむしろ一連の競馬ものにずっとコクがあったかもしれない寺山修司、同じく「草競馬」と呼ばれるのが相当だった頃の地方競馬の現場を経巡って『草競馬流浪記』をものした山口瞳から、競馬にはあまり縁がなかったようではあるものの同じ公営競技の競輪を足場に「賭けごと」の場の公共化、大衆娯楽化を「芸能」の視線含みの手練れの技ですくってみせていた阿佐田哲也などに至るまで、いずれそれらの書きものから映画やドラマ、劇画などの「おはなし」商品において、どのような形にせよ競馬が取り上げられる場合の、世間一般その他おおぜいから見た競馬、の描かれ方の骨法に脈々と通じるものがある。

 初出は『改造』の昭和21年4月号。手もとの講談社版織田作全集の青山光二の解説によれば、「昭和21年3月中旬頃、著者は、お互いに不幸だった声楽家笹田和子との束の間の結婚生活から脱出するかたちで、兵庫県川辺郡小浜村米谷(現、宝塚市米谷字児石)の笹田家を出て、京都に移っている。そして、ちきりや別館、鷗涯荘等の旅舎を転々とする」といった時期だった由。大喀血したのが翌年1月、亡くなるのが6月だから、戦前の仕事ぶりからかなり地続きに敗戦後の世情、世相に対応できた書き手として、新たな注目を浴び始めた頃だったといえる。

 「野坂昭如奥野健男をふくむ一ト世代若い読者が、織田作之助の作品に共感したのは、端的には、彼らの追いこまれていたニヒリスティックでデカダンスな精神状況が、付け焼刃ではない作之助の虚無とデカダンスに共鳴して喝采をおくったという事情だったとおもわれる」と、先の解説で青山光二は分析しているし、それは総論として間違いではなかっただろう。野坂自身、戦争末期に神戸で空襲にあう頃に子規を、そして敗戦をはさんだ10月頃にたまたま古本屋で戦前の婦人雑誌と共に織田作の作品が掲載された雑誌を買い求め、石屋川の土手でそれをめくるうち、のめりこんだことを述懐している。

 「ただ、身内にしみこむような、その行間からエキスの如きものがにじみ出て、ぼくをからめとり、それは一種のエクスタシーを与え、しごくはっきりと、いつまでもその小説が終わらなければいいなとねがったのを、覚えている。」

 その個人的印象をそのままに流さず、そこからさらにほどいてゆくのが野坂らしいのだが、「いわばぼくだけの古典」という言い方で、こう説明している。

 「これほどくりかえして読んだ小説はないので、しかもそのつどびっくりしているのだ。ことさら織田作の小説の中に、焼跡を探し求めるのは、決していい読者とはいえないのだが、書かれた時期、描かれた時代の、焼跡とはまったく関係ない小説であっても、ぼくは、特有の匂いをかぎ当て、その理由はしごく簡単なことで、織田作を知ったのが、焼跡の只中においてであり、その申し子として、こっちが受けとめたからに過ぎない。(…)これからは生きのびなければならぬ、その途方に暮れた気持が、小説中の人物、それをあやつる作者の精神に、共感させたのではないか。」

 読み手の置かれていた環境、背後の同時代気分などが同じ作品の読み方をいくらでも多様にふくらませてゆく。「織田作之助の小説に描かれた気の弱いぐうたらな男、能なしのしゃあない奴は、少々甘ったれた感じながら、すべてが我が身であった。」だから、単なる「おはなし」文芸、消費財としての読みものの書き手として以上に、ある同時代気分を反映し、演じてみせてくれる表象としても作者自身が機能するようになる。

織田作之助を、市井風俗活写する小説の達人、人情の機微を描いてならぶなき名手と、そう評価されともとより当然の才能だろうけど、ぼくはどうも、それよりみんなパアになってしもた焼跡から、ケケケと笑いつつ、ジャンパー姿で踊り出た、戦後精神、すなわち焼跡魂の体現者として、仰ぎ見る気持が強い。だからこそ織田作は、焼跡の消滅する予感をいだいた時、さっさと死んでしまったのだろうと考えている。」

 戦前からの日本競馬会による国営競馬が敗戦後、再開されたのは昭和21年10月。この「競馬」の発表の後になる。宝塚界隈に身を置いていたという作者だが、今の仁川の阪神競馬場もまだできる前。なので、ここで描かれている競馬と競馬場の描写は、戦前の見聞に裏づけられたもの、小倉での開催まで追いかける旅打ちの場面が幕切れになっているとはいえ、作中示されている淀の京都競馬場での体験が主になっていると見るのが自然だろう。当時、馬券の購入単位が20円と高額で、だから場内で相乗りしてくれる仲間を求めて探す様子や、「駅で売っている数種類の予想表」に「太字で挙げている本命」という、未だ◎○▲などの印が普及する以前、黎明期の予想媒体のありかたの断片など、それら細部を織り込みながら世相として描きとる腕はなるほど、確かなものだ。

 とは言え、「おはなし」の結構自体は、それほど競馬と直接関係があるわけでもない。

 まじめで特に取り柄もない京都帝大は史学科出の、昭和初期から増えていった都市型新世代インテリのひとりである寺田。「小心な律儀者で、病毒に感染するのを惧れたのと遊興費が惜しくて、宮川町へも祇園へも行ったことがないというくらい」の、もとは中学教師で二八歳。もちろん、競馬など関わったこともない。これが、たまたま無理矢理連れてゆかれた地下室の酒場、つまり当時のカフェーだろうが、そこに勤めていたナンバーワン女給でふたつ年下の一代にいれあげてしまい、十八の時からそのような夜の稼業を生きてきた彼女もなぜか情にほだされ一緒になろうとするが、寺田の実家が反対して、駆け落ち同様に同棲を始めたものの、勤め先の中学にバレて素行不良のかどで彼は免職、そこから暮らしの歯車が狂い始め、一代が乳癌を発症、学校時代のツテを頼って雑誌の編集などで食いつないでいた寺田は献身的に治療を施すものの、その甲斐なく亡くなってしまうのだが、その病没する少し前、彼女宛に飛来した一通の速達葉書が、彼を競馬へと引きずり込むきっかけを作ることになる。

 「明日午前十一時、淀競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待っている。来い」と簡単な走り書きで、差出人の名はなかった。葉書一杯の筆太の字は男の字らしく、高飛車な文調は何れは一代を自由にしていた男に違いない。去年と同じ場所という葉書はふといやな聯想を誘い、競馬場からの帰り昂奮を新たにするために言ったのは、あの蹴上の旅館だろうかと、寺田は真蒼になった。一代に何人かの男があったことは薄々知っていたが、住所を教えていたところを見ればまだ関係が続いているのかと、感覚的にたまらなかった。」

 一代の死後、編集者として作家に原稿料の前借りを頼まれ、それを競馬場に届けなければならなくなった、その作家につきあって買ってみた馬券がそこそこの大穴に。絵に描いたようなビギナーズラックだったが、それで何かがはずれたのか一気に馬券にのめりこみ、連日の競馬場通いに。一代にちなんだ「1」にばかり賭けるうち、たまたま穴馬券ばかり連続して当たった日、払い戻しの窓口で何度も一緒になった「皮膚が女の肌のように白く、凄いほどの美貌」の男と会話をかわす中、その男が「僕は番号主義で、一番一点張りですよ」と言う。

 この微妙にフェミニンで倒錯的なありようがいい隠し味というか、大衆社会状況における大衆娯楽としての競馬というギャンブルの場の匿名性、言わば「都市」としての属性を持つ空間でのある意味逢魔が時の気分を肉感的にも際立たせる効果を持っている。それは、惚れた女の「過去の男」という秘密とからんだミステリー仕立ての舞台装置ともなって、世相風俗世情を描写する名手と思われている書き手織田作の、期せずして体得していたらしい身体性も含めた〈リアル〉の特質を反映している。野坂の評した「焼跡魂」というのも、そのような「都市」空間の原体験があって初めて律動できるものであり、だからこそ彼も、織田作の載っている雑誌と共に、焼跡と化してしまう前の「都市」の暮らしをたどるよすがとして、そうはっきり自覚しつつ婦人雑誌を手にとっていたということなのだろう。焼跡以前を見知っている、そこに根ざした日常の〈リアル〉を身ぐるみ知っているからこそ、眼前の現実となった焼跡に生きのびねばならなくなった読み手の間に感応し、共鳴してゆける何ものか、もつむぎ出してゆける。だから、ここでの「競馬」とは、そのような「焼跡以前」の「都市」のありようを敗戦後間もない昭和21年の、奇しくも生き残ってなお、〈そこから先〉を生きのびねばならなくなっていた読み手たちの間に、あらためて喚起する触媒だったはずだ。

 その男に触発されて、また「1」に賭け続ける魔力にも魅せられながら、次の小倉の開催にまで競馬を追いかけて出かけた宿の風呂場で、寺田はまた、あの男に再会する。その背中には「一」という刺青が。

 「一――1――一代。もしかしたらこの男があの「競馬の男」ではないか、一の字の刺青は一代の字の一字を執ったのではないかと、咄嗟の想いに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも忘れていた。」

 「一」 の刺青の由来を尋ねた寺田に、男は身の上話も交えて語ってみせる。

 「生れつき肌が白いし、自分から言うのはおかしいが、まァ美少年の方だったので、中学生の頃から誘惑が多くて、十七の歳女専の生徒から口説かれて、到頭その生徒を妊娠させたので、学校は放校処分になり、家からも勘当された。木賃宿を泊り歩いているうちに周旋屋のひっ掛かって、炭坑へ行ったところ、あらくれの坑夫達がこいつ女みてえな肌をしやがってと、半分は稚児苛めの気持と、半分は羨望から無理矢理背中に刺青をされた。」

 それをきっかけに不良生活に。インケツの松と名乗って京都や千本の盛り場を荒らしてまわる人生になったが、「自分の一生を支配した一の番号が果たして最悪のインケツかどうかと試す気になって、一番以外に賭けたことがない。」

 そんな男だから四条通も知っているかもしれない。一代の勤めていた交潤社の名を寺田が出すと、「あそこの女給で競馬の好きな女を知っている。いい女だったが、死んだらしい。よせばいいのに教師などと世帯を持ったのは莫迦だったが、しかしあれだけの体の女は一寸めず……おや、もう上るんですか。」

 「おはなし」がどこへ行き着くのか、この時点でもう明らかだ。翌日、小倉競馬の初日、朝から負け続けの寺田は最終競走であり金全部を「1」ハマザクラに賭ける。「これを外してしまえば、もう帰りの旅費もない」 だが、ハマザクラはゲートでヘグって二馬身出遅れ。取り残されたように一頭、ぽつんと最後方から馬群を追走。

 「ハマザクラはもう駄目だ!と寺田は思わず叫んだ。すると、いや大丈夫だ、あの馬は追込み馬だ、と声がした。ふと振り向くと、ジャンパーを着た「あの男」がずっと向う正面を睨んで立っていた。」

 ここからあと、ゴールに入線するまでのわずかな描写も含めて、まさに映像的、映画やドラマのシーンをある種の絵コンテの構成のような割り付けと呂律とで描いてみせているあたり、川島雄三とも親交を持ち、それ以前には戯曲書きをめざしていたという織田作の面目躍如だ。

 「無我夢中に呶鳴っていた寺田は、ハマザクラが遂に逃げ切ってゴールインしたのを見届けるといきなり万歳と振り向き、単だ、単だ、大穴だ、大穴だと絶叫しながら、ジャンパーの肩に抱きついて、ポロポロ涙を流していた。まるで女のように離れなかった。嫉妬も恨みも忘れてしがみついていた。」

 「女のように」離れなかった――「都市」としての競馬の上演現場である競馬場において、匿名の不特定多数の視線と身体とが雑多に交錯する坩堝において、常に未確定の現実に何らかの輪郭を与えて刹那的にせよ確かなものにしてゆこうとする、そのような営みこそが大衆社会状況における主体の不安を乗り越えてゆく手立てにならざるを得ないのだとしたら、主体の確立を渇望する意識はどこかで「女のように」何らか頼りになるべき存在、すでに確かな輪郭を持つ実存へと同一化してゆく心の傾きを必然的に宿してゆく。そしてそれがまた、現代的な「おはなし」文体、通俗小説からミステリーや探偵小説なども含めた大衆社会状況に即した新たな「おはなし」文芸の読み手に連なるリテラシーを育む土壌でもあったらしい。だとしたら、そのような意味で織田作之助も、それらモダンな「都市」的リテラシーに投じる資質と背景とを持っていたことで、戦前と戦後を地続きにまたぐことのできた書き手だったのだと思う。

解説・野坂昭如「骨餓身峠死人葛」



 およそ「文学」と正面切って掲げられているものやこと、いや、はっきり言えばそのあたりに好んでへばりついているとしか思えないような人がたそのものもだが、いずれ、そういう界隈に縁のないまま生きてきた自分にとって、それでもなお、いいよなぁ、と、ぼそっと素直につぶやくことのできる、そんな書き手。「作家」でも「小説家」でも何でもいい、とにかく文字を書いて世に出すことで世渡りしている、売文稼業のステキな先達。

野坂昭如がお手本だった。何が、って、ほれ、とにかくおのれの書きたいようにものを書いて食ってゆく、そんな夢のような世渡りの、だ。」*1

 あれはさて、どういうきっかけだったのか、もうほとんど忘れかけているけれども、国書刊行会の「野坂昭如コレクション」の企画に立ち上げからいっちょ噛みさせてもらい、なおかつ、厚かましくも解題まで書かせてもらって、それをご縁にご本人とも何度か親しく話をさせていただいたのは、紆余曲折転変未だ定まらぬおのれの生の、およそやくたいもないこれまでの来し方においても、ちょっとは誇らしいささやかな思い出になっている。

「作家野坂昭如の本領はやはり短編から中編、前シリーズの「野坂昭如コレクション」の解題を担当させていただいた時にも、企画段階からそのことは強調していた。

「テンポとリズムがねえ、やっぱり身体にねじこまれるっていうか、特に西日本、関西弁の文化圏で社会化した人間にとってはほんとにもう骨がらみになってる生活感覚というか、そのへんが否応なしに引き出されるところがあって、あれはおそらく言語を共有していないことには十分には味わえない感覚なんじゃないかなあ」

 うろ覚えだが、担当編集のS氏に打ち合わせの時にそんなことを言った記憶がある。」*2

 その時、絶対に入れて欲しいと、まず何よりも懇願したのが「1945・夏・神戸」「騒動師たち」「てろてろ」「水虫魂」だったのだが、この「骨餓身峠死人葛」もまた、コレクションの第2巻にしっかり入れてもらった。初出は1969年。直木賞受賞後まだ間もない頃、しかし新進気鋭の「作家」としての前途洋々、すでに「エロ事師たち」で小説と見られるものを書いてはいたものの、まさに「エロ」が主眼で、それは書き手自身の「黒メガネ」の「プレーボーイ」(「プレイ」でなく棒引きの「プレー」が当時の気分らしい)という鬼面人を驚かす態でのメディアの舞台への登場の仕方とあいまって、こやつ小説「も」書くらしい、程度のおよそキワモノ的扱いを受けていたのが、直木賞受賞で評価が一変、得たりや応とばかりに、自身もそれまでの「雑文書き」から明らかに「作家」として世渡りの居場所をひとつ定めにかかり始めた頃、と言っていいだろう。

 それはまた「文学」の側も大きく変貌してゆく時期でもあった。出版社系週刊誌の乱立、テレビに代表される新たなメディア・ネットワークの伸長、そして「文学」プロパーの業界においても、中間読物誌と呼ばれたような新たな文芸雑誌の相次ぐ創刊しそれらに伴う「もの書き」稼業の市場拡大……などなど、「民主主義」が中心に据えられた「戦後」という価値観によってようやくそれまでにない広範な市民権を獲得し、最も無難な「教養」としても承認されていった「文学」は、高度経済成長の「豊かさ」を背景に急速にその翼を拡げ始めた新たな大衆社会の中に、少しずつ埋もれるようになっていった。(…)同時にまた、1960年代を通じて通低音としてあった「左翼」思想の無謬性そのものが徐々に解体され、後にたとえば「土着」といったキーワードによって語られる自らの文化的、歴史的背景といったものが、新たに問いなおされる機運が盛り上がる頃でもあった。

 映画界でも「土俗」「土着」への回帰を前のめり気味に追求、それなりの評価も、商業的反応も共に引き出していた頃。思えば、劇画が全盛になりつつあり、それまでの手塚治虫由来トキワ荘系統の「児童まんが」的健全さに対する異議申し立てが同時代の読者にも受け入れられるようになっていたり、なるほど「高度経済成長」へと世を挙げて離陸し始めていた時代というのは、人々にとって〈リアル〉を現前化させてゆくたてつけ自体もまた、大きく変わりつつあった時代でもあった。

「映画では大島渚の『青春残酷物語』が1960年3月公開。イタリアのG・ヤコペッティの映画“Mondo Cane”が『世界残酷物語』という邦題をつけられて1962年9月に公開され大ヒット、その他、同工異曲のような形で『陸軍残虐物語』が1963年2月、『武士道残酷物語』が1963年4月、果ては書籍と同じタイトルの『日本残酷物語』が1963年6月、と国内映画界を中心に立て続けに「残酷物語」ものが制作されています。その他、マンガでも永島慎二の『漫画家残酷物語』が1961年から3年間にわたって貸本劇画誌に連載され、これもまた後に戦後マンガ史上に大きな位置を占める作品になったことで「残酷物語」のもの言いを世に知らしめる一端を担うことになりましたし、新聞や雑誌などの企画でも「○○残酷物語」というリードや惹句の類はあちこちで使い回される、今で言うバズ・ワード的なもの言いになっていました。」*3

 そんな時代の空気を吸いながら、彼もまた書き手としての生存理由を新たな方向に求め始めていた。というか、もともと「作家」「小説家」になろう、という欲が特に優先的にあったわけでもなく、素朴に喰うためにものを書いてカネに換える、何でもありの「雑文書き」であるという自覚と自意識から始まっていたことを何度も明らかにしているくらい。「アメリカひじき」と「火垂るの墓」の併せ技一本であっぱれ直木賞をかっさらってしまうのが1967年、昭和で数えて42年だけれども、その前からそういう何でもありの「雑文書き」としての仕事は実に旺盛にこなしている。で、実はその頃の「雑文」にこそ、未だちゃんと合焦されていない野坂昭如のある本領が、のちの「作家」野坂昭如へと至る舞台裏的な部分に光を当てようとする際にはなおのこと、埋もれていたりする。

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 直木賞受賞に至るこの頃、週刊誌や月刊誌などの雑誌企画で「黒メガネ道中記」といった現地取材ものの連載をやっている。

 掲載誌によって原稿の仕上がり、調子が違うし、それは企画の狙いどころが読者層などと関わってそれぞれになる上、何より「雑文書き」のお座敷感覚、勧進元と観客衆のお歯にあわせて舞文曲筆、匙加減を塩梅するのも商売ならではだろうが、しかし、文芸誌から「小説」の注文がまだそうそうない分、いずれそういう「雑文」でしのがせるのも当時のそういう「文学」世間の編集者の仕事だったとは言え、地方をめぐる文字通りのドサ廻り気分でストリップだのお座敷ヌードだのを眺めてまわる「黒メガネ」キャラにあった仕事と並行して、女性誌や新聞社系週刊誌に企画としては同系統の現地ルポ的なものを書いていて、しかしそれでも、それら異なるお座敷の間にも複数回、筑豊の炭坑地帯を訪れているのは書き手として何らか琴線に触れるものがあったということだろう。上野英信が現地の先達的に道案内をしてくれたこともちゃんと言及しつつ、しかしそれでも、東京からやってきた野次馬雑文書きとしての野坂昭如の眼と身体とで察知してみせている当時のすでに煮崩れ、荒廃しつつある炭鉱暮らしの〈リアル〉の断片は、たとえばこの「骨餓身峠死人葛」など、いくつもの仕事にそれぞれ結晶していったのが見てとれる。

 「H鉱業所を以前おとずれた時、別のヤマで坑道が川底をぶち抜き、それは、古い坑道が上を走っていると知らず堀りすすんだための悲惨事だが、九死に一生を得て、またここで働く人に話をうかがった。傾斜している坑道に水が流れこみ、それが深さ二十センチなら、炭車のレール枕木を支えに、はい登ることができるという、坑道を支える枕木の、底が洗われて次ぎ次ぎなぎ倒され、もとより暗黒の中を、キャップランプだけたよって、ようやく川の水の噴き出す地点へたどりつき、その上にいる者に、綱を投げてもらう、これをたよりに地獄から脱け出すわけだが、三人に二人は水の勢いに押され、丁度、スーパーマンが空を飛ぶような姿で、奈落へ流されていったという、坑道のすべてに水の行き渡ったところで、まあ、事故は落着したわけだが、百数十人の遺体は、地下の水の中を、今も漂っている。」

 単なる世相風俗的な表層もおさえながら、その地その現場のたたずまいや肌合いといったものを、当時の雑誌ジャーナリズムが商品として要求している速度と気分とに沿った文体に盛りつけてゆく手技はさすがなのだが、それでも、何度か訪れるたびに紹介されたり行き会ったりしたのだろう、狙い定めた取材の相手、聞き書きの対象に肉薄してゆく執拗さも垣間見え、売文渡世の「雑文書き」の東奔西走のうちにも、それらをかいくぐりつつ何らかおのが肥やしにしようとする構えになっているのは、やはり言葉の本来の意味での「作家」としての身のこなし、なのだと思う。

 「筑豊K地区、閉鎖された炭坑の炭住街、八軒長屋が十二棟あって、しかし、それぞれ住人のいない部分は、燃料にかわったか、それとも裏日本沿岸と同じという激しい気候に風化したのか、壁も柱もなく屋根のみ残り、みたところ五十世帯ばかりなのに、(…)瓦葺きの店屋があって、これはかつて鉱員の地底の労働とひきかえに、この鉱山でだけ通用する金券を渡し、またその金券によって、割高な食料品衣類を提供していたとこ、今はなんでも屋、といっても煙草でいえばピース、ウイスキーなら一級品は置いてない。」

 すでに炭坑の全盛時代は過ぎ、縮小から閉山が相次いだのち、筑豊の象徴だったボタ山すら姿を消しつつある、言わば地域まるごと高度成長の変貌に置いてゆかれる廃墟と化しつつある時期、しかしそこに新たに「生活保護」をあてにして生き延び方を探るしかない、新たに流入してきた窮民たちの姿や、それらと入り交じりながらさらなる追い詰められ方をしている炭坑の最後の人たちの〈いま・ここ〉に、文明批評的な視線に裏づけられた筋の通ったジャーナリズムの生身が息づいている。

「炭住の近くで目につくのは、金融とホステス募集の看板、それにその生活保護に寄生といってはわるいけれど、保護と共存しているのがアパート業者に医者。(…)生活保護世帯用に、家賃四千円くらいのアパートを建てれば、この家賃は国が保証しているのだから絶対確実、こわした炭住の古材木をつかい、うわべ文化めかしたアパートが続々と新築されていて、これはまあしかし、住む人が炭住よりいくらかましな家にうつれるのだからよろしい。そして医療費も親方日の丸、医者たちはよろこんで、たいした病気でなくても保護家庭の人には、その範囲内でさまざまな薬を投ずる。医師会は生活保護法にかぎっていえば革新系なので、もし医療費がきびしくなれば、たちまち収入が減るのだ。」

 「たずねたのは今年七十七歳、炭鉱一筋に生きてきた老人で、七十二歳の奥さんと二人暮らし。ご両人とも五つ六つの時から坑内に入り、大手の山から小山まで、数え切れぬ山を転々として、ついに三十七年某日、ここが閉山となり、その時はすでに年で、風呂番をしていたのだが、退職手当は名のみ翌日からの食いしろに困り、もちろん転職のあてはない。「わしら明治の人間ですもんね、お国に迷惑ばかりかけることようしよらんですたい」だから夫婦で心中するところケースワーカーの手で保護された。」

「老人のお声がかりで、炭住の人たちがやってきた。まず、腰はまがってしわだらけ、六十前後とふんだら、じつは四十七歳の小母さん、亭主が酒乱で、精神病院から出てきたばかり。子供は十六歳の男、目下傷害事件で少年院入所中。(…)亭主は生活保護の金すべてを飲みしろとし、酔えば人に喧嘩を売り自分も傷つき、その差し入れのため、小母さんはこそ泥を重ねて、もちろん子どももまともになるわけはない。」

 西鶴や織田作などに擬せられて語られることの多かったその独特な饒舌の文体も、ここでは話しことばの呼吸や呂律、それもいわゆる関西弁のそれに裏打ちされていたものに加えて、九州なまりの会話が新たな味わいを添えることで、その文体がもとから持っていた眼前の事実をくまなくとらえ、細部を連ねてなぞってゆくことによる「語りもの」めいた味わいを読み手の裡に引き出してくるだけでなく、さらにまた少し違う効果をここではもたらしている。

 たとえば、これも書き手野坂に根深くあるモティーフのひとつ、兄妹相姦の設定から発して、作中中盤から後半にかけて、戦時中から戦後の葛抗の集落をめぐって繰り広げられるおよそ酸鼻を極める外道なありさまと、避けられぬ運命のようにそこに陥ってゆく過程の描写に際して、その「語りもの」とシンクロしている文体がここでは書き手である野坂の裡にある想像力の羽ばたきをさらに刺激したような印象、いわば文体が文体を、個別具体の事実に即した言葉を足場にしながら跳躍しつつ自ら自律的につむぎ出しているような、敢えて言うなら呪文やマントラのように、書き手の想像力をその奥底にひそんでいる水準まで含めてうっかり引き出し、駆動させているように見える。それは、先に触れたような取材の過程で身に吸い寄せた細部の個別具体が、絶妙な比率で書き手野坂の持ち前の想像力のまだ十全に開かれてなかった部分と混ぜ合わされた結果なのだろう。

 「徴用坑夫、流れ者、生き残ったものの半ば狂った朝鮮人、それに以前からの坑夫も、潮のひくように山を降りた後、たかをは、いたるところに打ち捨てられている朝鮮人の死体、それは行くあてもないまま残った古参の坑夫たいていのみじめな死にざまにはなれていても、手を出しそびれるほどのすさまじいものだったが、娘に手伝わせ、母の以前使っていた古いスラに乗せては、墓場に運び込む、ざっくり割れた傷口に無数の蛆がたかり、スラ引くにつれて、腸がずるずると紐ほどくようにこぼれだし、脳味噌には豆粒大の山蟻がとりついていたし、梢に烏が蝟集して鳴きかわす……」

「残った連中は、老人それにいまさら下界へ下りても使い道のない片輪、さらに半ば気のふれた女房、たよる身寄りもなく、ここならばとにかく当座の雨露しのげると気力なえた夫婦者、海外引揚者、原爆罹災者、それに朝鮮人……」

 生と性に執着することにより自閉してゆくことである極相を迎えた共同体が、その後定めのように禍々しい穏やかさと共に自壊してゆくイメージは、「エロ事師たち」の頃から書き手野坂の原初的な想像力の核にあるものらしいが、ここでも、未曾有の事故を契機に自閉してゆく葛抗の集落の内部は、それこそあの「楢山節考」などにも通じるかもしれない、ある種の民話的、民俗的な水準も含めた「おはなし」空間における抽象を、その「語り」の文体によって施されているように見える。