記録する情熱と「おはなし」の関係


 わだかまっていた厄介事に、とりあえずの決着がつきました。

 とは言えその間、2年9ヶ月という時間が、それもおのれの還暦60代という人生終盤、予期せぬめぐりあわせの裡に過ぎ去っていました。

 大学という日々の勤めの場が、たとえ北辺のやくたいもない小さな私大であっても存在し、そこで学生若い衆に対して一定の頻度で向かい合うことで再び生活するようになって十数年、予期せぬ切断が平手打ちのように訪れて、あっぱれ一個の無職老害化石脳となったことは、しかし逆に、自分にとってものを読み、考えることについての意味や効能について、立ち止まって考えざるを得ない経験につながってもいるようです。そしてそれは、歴史・文化・民俗レベルも含めた拡がりの裡での「うた」の来歴について、あらためて自前の千鳥足であれこれ落ち穂拾いしつつたどってみる、という迂遠な試みにおいても、また。

 「うた」へ向かってゆく生身の内面、こころやきもちといった領分も含めた部分は、常にその生身の自分の外からもたらされるさまざまな刺激との関係で宿ってしまう、その意味で本質的に融通無碍なもののようです。それは、たとえば「芸能」という語彙でくくられるような領分ともあたりまえに重なりますし、何でもいい、その他いずれそのようなもの言いやことばでこれまで意味づけられ、あれこれ切り分け整理を試みられてきたさまざまな生身本来の発露、生きてある以上必然な何らかの生の闊達の〈いま・ここ〉に必ず収斂してゆくものでもありました。その本質として、本来的にことばに変換できない、言語化のはたらきの〈それ以外〉としてそれらは現前化し続けてきたのでしょうし、おそらくそれはいまも、そしてこれから先も、まさに生身の本質、人間の本来として変らない。

 それら「うた」と生身の表現という意味でなら、素直に想起される音楽の領分だけでなく、演劇や踊りなどの直接的な身体表現一般にも地続きになってきますし、そのような意味でなら運動やスポーツなどにまで敷衍して考えることも無理なことでもないでしょうし、あるいはまた、あらわれ方は違えど、手わざとしての「描く」その他の修練を介して成り立つ領分、つまり絵や彫刻から工芸といった美術一般の方向にもまた開かれているものでもあるのでしょう。これまでなにげなく語ってきているこの「うた」とは、生身を伴う人間の天然自然の本態と切り離せない何ものか、その程度に決してないがしろにできないあらわれ、でもあるようです。

 ……と、例によってとりとめない風呂敷を広げてはみるものの、ああ、思い返せばその音楽や美術という表現は自分にとっては初手からアウェイの領分、少なくともこの自分が自分になっていった過程においては、ほとんどわが身と関係のないものではありました。自分にとって何ほどか表現と言うべきものにつながり得る手わざは、やはり文字を読み、そして書くということしかなかったようです。

 けれども、まわりにはそのような文字の読み書き以外、音楽でも絵でも自分のものにしている人がたは、いなくもなかった。ものごころつかない頃はともかく、大学へ入って再び東京で暮らしだしてからは間違いなく。

 まあ、なぜか当時やたら隆盛だった小劇場の現場、その頃は敢えて「芝居」と称するのが流行っていましたが、そんなものにうっかり首突っ込んでいた、そのせいもあるのでしょう。にしても、そんな学生時代、自分のまわりにいた人がた、それも少し年上にあたるような場合には、それが役者であれ照明大道具その他裏方であれ、いずれ手なぐさみ程度にせよ絵を描いていて、呑んで泊めてもらった風呂なし四畳半の下宿になぜか粗末なイーゼルがあって、部屋にはかすかに油絵の具の匂いもあってひそかにびっくりしたり、いずれそのように「描く」について何らかの感受性を持っている人が少なくなかった。いや、絵だけでもない、広い意味でのイラストやグラフィックデザインといった方面にも器用に対応、台本の片隅にイラストやマンガを書き込んでみたり、あるいはちょっとしたチラシやポスターなども自分の手でこさえてみるような御仁も、その頃はそのような「文弱」な手作業が得意とされていた女の人がただけでもなく、むくつけな長髪髭ヅラな青年若い衆にも、案外いたものです。しかもそれは何もそう特別なことでもなく、文字を介した自己表現としてすでにあった小説や詩、あるいは戯曲やシナリオといったものを自らちょっと書いてみるといったことと、基本的に同じ衝動に支えられていたものだったように思います。

 音楽についても同じで、趣味としてそれを聴くことは、ラジオからラジオカセット、安価なステレオコンポなどの普及によって、すでに若い衆の間で珍しくなくなっていましたが、それだけでなく、自分で楽器をいじり、音を出し、時に他人と共に演奏をする、そんなことのできる人がたもまた、それまでよりずっと増えてきていた。その多くがギター、それもアコースティックのフォークギターだったりしたのは、まあ、そういう時代ゆえですが、鍵盤楽器にしても、まだ大方は女の子たちだったとは言え、機会あれば難なく弾いてみせる程度の素養を持った「お稽古ごと」の果実もまた、割と身近にあるようになっていました。少し後、80年代の半ばあたりからバンドブームが起こったことが世相・風俗的に語られるのも、そのような自ら楽器をいじる経験が同時代的に広まっていった結果の必然でもあったでしょうし、またそれは、高度成長期のエレキブームなどとはケタ違いの大衆的な後ろ楯を持ったものだった分、その後も含めて、本邦の音楽をめぐるリテラシーにも眼に見えない大きな影響を与えていたはずです。

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 そのような背景や下地があって、自分たちの手で自前で何かを表現する、言葉本来の意味での「文化」的な拡がりは担保されていたのだし、そのような手仕事やそれを可能にする技術が、戦後それまでの過程でうっかりと達成していた「豊かさ」によって、巷間意識されている以上に広汎に、ある世代以降に色濃く宿るようになっていたようです。そのことの意味やその後にもたらしていったものなどまで含めて、改めて立ち止まって振り返ることがいま、われわれの現実、そしてそこに宿るようになっている〈リアル〉について合焦しようとする際に、必要になっていることのひとつなのだと思います。

 このようなものの見方をしてゆくと、文字の読み書きもまた、音楽や絵などと同じように、寄る辺ないひとり、できるだけ自由に束縛されずに生きたいと思うようになった戦後の新たな大衆社会状況下でのわれら同胞個人にとっての得手勝手でわがままな、何より手軽な自己表現のための武器へと変転していった経緯があったのだろう、ということに思い至ります。誰もが「学校」で刷り込まれるようになっていた、だからこそ「学校」に紐付けられていた、その分良くも悪くも「勉強」や「試験」や「立身出世」などにもまた、根深くからめとられていたそれまでの特別な立ち位置からだけでなく、絵を描いたり歌ったり踊ったりすることなどと正しく同じ、そのような横並びの「自己表現」の手段のひとつへと新たに転変していったらしい文字のリテラシー。そうなっていった経緯も含めてその問いを視野に収めようとすることは、「情報環境」とその裡に生きる生身の個体が自ら主体となって多様化した表現手段を選択してゆくことで「自分」の輪郭をそれぞれうっかりと整えていった同時代の過程について、〈いま・ここ〉からの歴史として気づいてゆくことでもあります。

 それはわれわれの日々生きる現実を、それらを生身で感知し受け止めて転変しながらも宿り続ける〈リアル〉の水準も含めてどう考えるか、に関わってきます。少なくとも「身にしみる」「身につまされる」といったもの言いにある時期まで確実に対応していたような、「他人ごと」「ひとごと」ではなく感じることのできる、そのような意味での〈リアル〉としての現実。それこそ、柳田國男がある時期、割と好んで使っていたあの「同情」にもあたるような領域も含めての、生活世界として共有される〈リアル〉がおぼろげにせよ見えてくる局面なのですが、そのためにはやはり、何のための「おはなし」、という問いを改めて設定してみる必要があるようです。


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 「おはなし」とは、つくりもの、です。われら人のつくりしもの、です。

 ならば、日々の現実を「自分ごと」として感じ取ってゆくための足場として、いまどきの情報環境でわれわれは何をそのようなつくりものとしての「おはなし」に求めているのか。

 旧来の小説や文学でなくラノベが、映画やドラマでなくアニメやゲームが、いつの間にか「おはなし」の主要な媒体になってきて久しいらしいこと。そのような「おはなし」摂取の経路がある世代以降にとってはあたりまえになっていて、それはこれまでのような意味での世代差とは異なる「違い」を、この同時代を生きる日本語を母語とする同胞の間に平然と宿すものになっているらしいこと。さらに、その「違い」とは、眼と視覚を介して読み取られる「おはなし」の位相のみならず、耳と聴覚を介して聴き取られてゆく音声を介した「おはなし」の位相においても、どうやらのっぴきならないズレをすでに生じさせているらしいこと。その上で、それらを統合する生身の「自分」の裡に立ち上がるであろう意識や感覚が、少し前までのわれわれの現実認識、およびその上にあった〈リアル〉と果してどれくらい違うものになっているのかいないのか、そのあたりの連続と不連続をも共に立ち止まって視野に収めようとすること。

 われわれは、文字や活字を「読む」経験を下敷きにしながら現実を認識しようとしてきたし、その上で〈リアル〉もまた宿り得るものだったらしい。だから、かつては限られた特定の時空における生身まるごとの特別な体験としてあったそれら「おはなし」との接触も、文字のリテラシーが広汎に浸透してゆき、「おはなし」もまた社会的な生産の「余暇」の「慰安」「娯楽」として位置づけられるようになっていった近代以降、文字の読み書きを下敷きにした生身のリテラシーを介して接触する作法が「そういうもの」として浸透してゆきました。そのようにわれわれはマンガを読み、音楽を聴き、映画を観てきた。良くも悪くも「そういうもの」、わざわざ意識することもない自明の営みとして。けれども、どうやらある時期からこっち、そのような文字や活字ベースの「読む」の自明の優越性には知らぬ間に鬆が入り、疑われることもなかったその効きがあやしくなり、ひいてはわれわれの現実認識の確かな足場としてあってきた「そういうもの」の自明もまた、大きく揺らぐようになってきていたようです。

 ラノベにせよアニメにせよゲームにせよ、あるいはすでにダウンロードして単発の楽曲として刹那的に消費されることが主流になってしまった音楽商品にせよ、いずれ〈いま・ここ〉に眼前の事実として存在している「文化」事象として相手取ろうとするのならば、その相手取るこちら側、他でもない自分自身がどのような情報環境の裡にいまある現実認識を育んできたのか、そしてそれがどのような時代性や社会性と関わってきていたのかなどについて方法的に自省してゆくことを同時進行で行っておけるだけの余裕なり迂遠さなりを担保しておくことが求められます。

 たとえば、かつてテレビ番組を「記録」したい、と熱望したわれらガキどものあの情熱。音声にはカセットレコーダー、映像には銀塩カメラしか機材のない時代とは言え、そもそもなぜあそこまで「記録」したいと熱くなった/なれたのか。ならばそれ以前、テレビがなくラジオしか放送媒体がなかった時代、人気のラジオドラマなどの番組を「記録」しようと、一般の聴取者がそこまで熱くなっただろうか。手段としては手もとで文字のメモをとるくらいしかできないにせよ、ラジオに対してそのような「記録」はさて、実際にはどれくらい試みられたものだったのか。

 映画ならばあり得たらしい、というのは、かつての映画好きの中にはひたすら映画館のくらがりでメモをとり、それらをもとに同人誌的な媒体を自らこさえて、といった経緯から、ファンジンのはしりみたいな活動をしていた御仁たちがサイレントの無声映画、あの活動写真の頃からすでにいたようです。一方、ラジオとラジオ番組について、そのような挿話はまず見かけたことがない。映画館というくらがりの中の「個的」な「おはなし」体験と化していった映画と、本質的に「家庭」ベースの開かれた聴取体験だったラジオとの違いもあるでしょうが、同じ「家庭」向けのマス・メディアとして出現したテレビの番組に対しては「記録」したがるガキどもが簇生したのは、それを可能にする技術と道具の出現に刺激されたという下部構造由来の理由と共に、視覚的な映像と聴覚的な音声とが「家庭」という開かれた場において〈いま・ここ〉化した「おはなし」媒体になるという属性も大きく作用していたように思われます。

 つまり、それがどのようなものであれ「批評」的な視線、「おはなし」を受け止めると共に対象化する方向へと向う情熱も宿るような場において初めて、それら「記録」への情熱もより輪郭確かに宿るということらしい。だとしたら、それらの情熱はもしかして、文字・活字の読み書きによって下地が作られた上に初めて、生身の裡にスパークするようなものだったのではないか。〈いま・ここ〉の体験をバラして対象化し「記録」してゆきたいという欲望も、やはりどこかで映像も音声も共に、つまり「絵」も「ことば」も一緒に生身の裡にまるごとの〈いま・ここ〉として上演される場があり、そこに生身が接することで、「おはなし」は「記録」へ向かう情熱を主体に喚起してゆく媒体にもなってゆく。

「草双紙式に絵入にしなければ読者が喜ばない、挿絵を入れようと古くは挿絵が独立して画報であった時代があります。その結果「錦絵新聞」が始り、絵と絵の説明の新聞が発行され、そこに閃く知恵者の考えから芳年や芳幾の錦絵をこしらえ、新聞の雑報を絵にしたものでした。」

「この「錦絵新聞」は、一説に江戸土産は錦絵に極っていて、田舎から来た見物人は必ず錦絵を買って帰るから、錦絵屋の繁盛を極めたものでした。新聞ができて珍しいので新聞を錦絵の代わりに帰国土産にする田舎人があることから、それなら「錦絵新聞」にしたらよいお土産になろうという趣向でした。」(篠田鉱造『明治新聞綺談』 1947年)

 そう言えば、かつての写真アルバムの既製品には、「おもいで」とか「おもかげ」とか、そういうタイトルがすでにつけられた商品が多かったような記憶があります。いずれそういうポエム的なキーワードを散りばめる手法というのは、それによって喚起され得る何ものかがすでに定型的なものになっていることを前提にして成り立つ手法ではあったのでしょう。あるいは、アルバムに貼られるスナップ写真だけでもなく、絵葉書や雑誌グラビアの切り抜きなどにも自分の手でちょっとした「キャプション」を添えてみる習い性なども、また。

 「旅情」なんて言い方ももう忘れられつつあるようですが、旅行に出て何かきもちやこころが動いた時、つまり「うた」につながるような感情の常ならぬ波立ちやざわめきがあった場合、あたりまえに「うた」を「詠む」ことにつながっていた時代もあったらしい。もうずいぶん前、まだいたいけな三流大学院生だった頃、あの折口信夫ご一統のフィールドノート的なものがそのような「うた」の形式で「記録」されるものだった、というのを知った時の衝撃は、いま思えばそのような生身に近い手わざによっても「記録」が成り立ち得た情報環境がかつて平然とあったことにいきなり出喰わしてしまった、そういう種類の「生活の古典」との出会い頭の遭遇のもたらしたものだったように思います。

「全面勝訴」ご報告

 まずはご報告から。

 2020年6月末、勤め先の大学をいきなり「懲戒解雇」されて、あまりの理不尽に地位確認と損害賠償を求めて札幌地裁に民事訴訟を提起していた件、2年9ヶ月ほどの審理ののち、先日2月16日に判決が出ました。結果として「全面勝訴」と言っていい内容でした。本誌読者の集いでもお話させてもらったこともあり、ご心配おかけしていた向きもあったかと思いますが、一審地裁段階とはいえ、まずはたいへんありがたい判決だったことをご報告させていただきます。


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 もともと、定員充足率を満たして補助金を獲得したいために、日本語能力の問題のある外国人留学生までも見境なく入れる全入方針の施策をとるようになったことで授業が成り立たなくなり、それを何とか是正しようと現場の教員有志らとあれこれ動いていた当時の学長を大学法人側が事実上解任に等しい形で追い出したついでに、その学長が任期最終日に北海道庁で記者会見を開いて内情を告発した場に同席していたという理由で、自分も「懲戒解雇」処分にされた、というお粗末。いやはや、やることがあまりに滅茶苦茶なので人に説明してもにわかに信じてもらえないくらい、むしろこちらがお恥ずかしくなるような事態ではありました。

 判決は、「懲戒解雇」の無効と教員としての地位確認、および損害賠償を求めていたこちらの主張をほぼ全面的に認めた内容で、大学側の「不法行為」とまで認定。これまでの対応ぶりからも大学側はおそらく懲りずに控訴してくるだろうとは思いますが、少なくとも裁判所がこの「懲戒解雇」が不当で「不法行為」であることを、関連の証跡および事実認定と共に判断した以上、一審地裁段階とは言え、これを引っ繰り返すだけの理路を改めて構築して高裁に持ち込むこと自体、現状かなり難しいのではないかとは思われます。

 留学生を入れることで定員充足率をあげる、という、経営難に瀕する私大がある時期からとってきた窮余の策を文科省自体が黙認してきたところがあったことが、今回の事態の背後に横たわる問題でもあります。今回の裁判の過程でも、留学生の日本語能力の基準その他について、専門学校や高校とは別だてで、こと大学に関してだけは法令や規則にいわば「抜け穴」を敢えて作っていたとしか思えないことが見えてきました。事実、審理の過程でもこのあたりは争点のひとつになりましたし、その意味では判決の内容次第では文科省の責任問題にまで波及しかねない事案でもあったのですが、しかし、裁判所は判決ではそこには触れず、あくまでも「懲戒解雇」の是非についてだけ判断するという形になっていました。

 中国の日本語学校にこちらの大学の看板を貸し与え、そこを介して学生をかつ集めた上に、実質不正入試と言ってもいいずさんな入試を行い、日本語のまるでできない留学生も含めて入学させていたという事態は、10年ほど前まであちこちで流行っていた私大経営のやり方ではありました。それをいまどきなお考えなしに追随するあたりがまずもって経営センスのなさなのですが、ただ、それを後押しする文科省OBが陰に陽に介在、未だにそれをありがたがって唯々諾々従うだけで、大学としての、そして公益法人としてのコンプライアンスもガバナンスも見失った大学法人側の一連の迷走は、監督官庁であるはずの文科省からも結果的にお墨付きをもらった上でのていたらくでもあった事実は、今回の裁判においてさえも直接司法の舞台にあげられることなく、したがって文科省の「黙認」の責任も問われることなく、形式的には幕が引かれようとしていることになります。

 むろん、大学側が控訴するとして、自分たちで適切なやり方をしてきたと主張していたその留学生関連の施策について、改めて高裁に持ち込んでの審理を要求することはあり得る。何も間違ったことはしていなかったし、文科省その他公的機関から問題を表立って指摘されたこともなく、今回の判決でも是非を判断されなかったその施策について事実誤認に基づいて誹謗中傷をした前学長とその一派の行為について再度、判断してほしい――ざっとこんな理屈を繰り出して控訴に訴えることは、まあ、ないではないかも知れない。

 ただ、それをやると、「黙認」という形で都合良く運用してきた文科省の留学生政策と、それをいいことに好き放題の運用をしてきた大学側、共に司法の場に引き出され、責任を問われることになります。「暗黙」前提の運用で、その施策の実際の許容範囲をうまく塩梅しながら自らの利権を確保してきたお役所の論理、官の手口は、「暗黙」前提である限りこのような掟破り、考えなしのやりたい放題によって、うっかり破綻を垣間見せることになる。もちろん、それをも織り込んだ官僚的対応のスキームというのもありますし、事実、今回の判決内容もそれらのシナリオに沿ったものと見えなくもないですが、単にこの事案だけでもなく、本邦「戦後」に醸成されてきたそれら「暗黙」前提の管理手法自体、あちこちで迂闊な綻びを呈し始めているようにも見えます。

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*1:以下、関連ご参考(´・ω・)つ
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地裁判決に際して (記者会見リリース)

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 2020年6月29日付けで、札幌国際大学より「懲戒解雇」を申し渡されました件、また、それに対し同年7月13日付けで、札幌地方裁判所に対して地位保全及び賃金仮払いの仮処分命令の申し立てをした件に続き8月28日付けで札幌地方裁判所に民事提訴した件、「懲戒解雇」から2年9ヶ月近く、本訴提訴から2年半ほどかかって、本日ようやく判決までこぎつけました。

 まずはこれまで代理人として弁護していただいた房川・平尾法律事務所の房川樹芳弁護士、平尾功二弁護士、また、陰に陽にご支援いただいた北海道私大教連や北海道大学教組、京滋私大教連他、全国の大学教職員組合の方々、さらに、直接間接問わず、さまざまな機会に激励していただいた教え子たちや、未だお眼にかかったことのない方も含めた全国の多くの方々に、この場をお借りして深くお礼を申上げます。本当にありがとうございました。

 この件は、ひとり札幌国際大学のみならず、全国の中規模以下の私大に共通する問題として、いま、教学と法人の健全な緊張関係に基づいた、本来のコンプライアンス遵守とガバナンスが保証できる環境がいかに毀損されているかが、如実にわかりやすく可視化された事案だと考えています。

 いま、これを書いている時点で、どのような判決になるかまだわかりませんし、被告大学側は裁判当初から「憲法違反」の文言をちらつかせて最高裁まで争う姿勢でしたので、完全な解決まではまだまだ時間がかかると思いますが、最後まであきらめず戦いたいと思っていますので、今後も引き続き、よろしく注視し、関心を持続させていただくよう、お願いいたします。

 本日、お配りしてある資料は、以下の3点です。

  ① 2020年10月27日 第1回口頭弁論における冒頭意見陳述の草稿
king-biscuit.hatenablog.com
  ② 2022年3月29日 裁判期日における陳述書の草稿 「現在の心境」
king-biscuit.hatenablog.com
  ③ 「留学生の不適切入試の疑いで混乱する札幌国際大学
    (田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)より、該当箇所抜粋・抄録)
king-biscuit.hatenablog.com

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*1:札幌地裁、記者会見時の配付資料。

*2:その他、ご参考。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

留学生の不適切入試の疑いで混乱する札幌国際大学

田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)から、札幌国際大学の留学生をめぐるワヤについての部分。取材を受けたし、また内容の細部についての説明やコメントもした。自分自身の書いた仕事ではないが、札幌国際大学問題についての一連のエントリー関連ということで、アップさせていただいた。為念。

■ 不適切入試を学長が告発、理事長は反論

 「運営法人側が助成金を得る狙いで不適切な入試を行った」

 札幌国際大学の当時学長だった城後豊氏は、二〇二〇年三月三一日に札幌市内、北海道庁記者クラブで記者会見を開いた。大学を運営する法人が、日本語能力が不十分な学生外国人留学生を多数入学させたと主張したのだ。私立大学の現職学長が大学の法人を告発した、極めて珍しい会見だった。城後氏はこの日をもって学長を退任することが決まっていた。

 関係者の話によると、問題が起きたのは次のような経緯だ。大学には二〇一九年度、三九一人が入学した。そのうち留学生は六五人で、前年の三人から大幅に増えていた。ところが、授業を始めてみると、日本語がほとんど理解できない学生がいるなど、日本語能力のレベルに大きなばらつきが見られた。そこで大学が独自に日本語能力の試験を実施したところ、日本語能力試験で大学入学相当とされるN2のレベルに満たない学生が三割から四割を占めたという。

 ちょうど同じ頃、二〇一九年三月に東京福祉大学では約一六〇〇人の留学生が所在不明になっていることが判明した。文科省はこの事態を受けて、学部研究生も含め、N2相当の日本語能力があるかどうかを確認するなど、留学生の在籍管理の徹底に関する新たな対応方針を示していた。

 これらの事態を受けて理事会も、新たに留学生を大量に導入する方針を決定していた関係から、同様の問題を懸念して、学長である城後氏に留学生の現状を説明するよう求めた。城後氏は、その独自の試験結果などの資料を基に、留学生の現状を二回にわたって理事会に説明した。

 すると、理事長の上野八郎氏ら法人側は、そのような調査をしたことについて「聞いていない」と激怒する。さらに、提出された資料は城後氏が外部理事と結託して、法人の体制をひっくり返そうとしている「怪文書」だと断じた。

 その後、理事会理事長を中心とした大学法人側では学内に知らせないまま一一月に次期学長選考委員会を設置して、城後氏の退任、事実上の解任と、次期学長を、不透明な手続きによって一方的に決めていた。

 城後氏は二〇二〇年一月に学内の全教職員に対し、留学生の受け入れをめぐる問題を説明し、さらに「大学内部で何が起きているのか、是非を含めて第三者に判断してもらう材料を提示するため」と、退任する三月三一日に会見を開いた。これが前述の告発会見だ。会見で城後氏は「定員充足によって定員割れを防がないと助成金が出てこない仕組みになっている」として、法人が不適切な入試を行ってまで留学生を大量に入学させようとしたのは助成金を得ることが目的だったと指摘した。また、「全員受かるようにしろ」と指示されたことも明かした。

 これに対して法人側は、理事長の上野氏らが城後氏と同じ日に会見を開く。二〇一九年四月時点でN2相当に満たない学生がいたことは認めたものの、「補習などで授業についてこられるようになった」と主張した。

 上野氏は「うちの大学が国際化する上では外国人留学生が必要不可欠」として、厳正な入試で基準を満たした学生を留学させていると反論し、学長が告発した内容を否定している。一方、このような学内での動きとは別に、三月には文科省が法人側と教学側の双方から事情聴取を行ったほか、出入国在留管理庁も別途、調査を進めていた。

■ 記者会見に同席していた教授を懲戒解雇

 会見の日を最後に、城後氏は退任した。しかし、問題は解決したとは言えず、学内の教員の間には、留学生の受け入れ問題をめぐる懸念や大学側への不信感は依然くすぶっていた。

 すると、ある教員に、突然火の粉がふりかかる。人文学部教授で、民俗学を専門としながらマンガなどのサブカルチャーや競馬論についての著書もあり、メディアに登場することも多い大月隆寛氏だ。

 大月氏は二〇二〇年四月、来年度の学部や学科のパンフレットの制作に取りかかっていた。すると、新たに学長に就任した蔵満保幸氏から差し替えの命令がきた。大月氏が当時のことを振り返る。

 「ゲラの校正の段階まで来ての突然の差し替え命令の理由を聞くと、学長は『言えない』としか言いませんでした。なぜ言えないのかと聞くと、『大月先生の個人情報にかかわるから』と答えました。この時点で、自分を追い出そうとしているのではないかと、うすうすは感じましたね」

 五月に入ると、大月氏に対する懲罰委員会が立ち上がる。大月氏は「悪いことをした覚えがない」として出席を拒否すると、検討するという懲罰の内容も理由も具体的に示されないままなので回答を留保していたが、最終的に六月末に突然呼び出された際、そこで突きつけられたのが懲戒解雇だった。

 大月氏が憤慨したのは、その理由だ。

「懲戒解雇は本来ならお金を使い込んだとか、刑法に触れるようなよほどの辞退事態がなければ出ない処分のはずです。しかし、私の処分の理由の一つは、城後前学長が三月三一日に実施した記者会見に同行していたというものでした」

 その他の理由には、留学生の問題についての資料を、城後氏が教授会の決議などに基づくことなく「教授会一同」の名前で外部理事に渡すことに同調したことや、Twitterで複数回にわたって大学の内部情報を漏洩したことなどが挙げられていた。

「簡単に言えば、城後前学長と一緒に行動していたから懲戒解雇だということです。当然ながら納得がいきませんでした」

 大月氏は処分が出たあとすぐに、札幌地裁に地位保全の仮処分を申し立てる。この申し立ては最高裁で却下されたため、続けて二〇二〇年八月に法人を相手取り、損害賠償を求める訴訟を札幌地裁に起こした。

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■ 玉虫色の結論と文科省OBの存在

 留学生の不適切入試自体は、調査をしていた関係機関によってどのように処理されたのか。出入国在留管理庁は二〇二〇年九月に調査報告書を提出した。その内容は、法令違反はないと結論づける一方で、三点の指導を行ったというものだった。

 法人側は、外部の人間による第三者委員会を立ち上げて、出入国在留管理庁が調査報告書を提出した翌月の一〇月に委員会は結論を報告した。

 「大学が二〇一九年四月に入学を許可した外国人留学生の受け入れ(入学試験及び合否判定を含む)は、城後前学長の下で、大学教員の自主的判断に基づいて行われ、入学後の外国人留学生の在籍管理も適性に行われており、法令に適合し、不正その他のコンプライアンス違反は存在しない」

 つまり、留学生の受け入れは学長以下、教学側の判断でなされたことで、法人側に責任はないし、問題はもなかったという報告だ。

 出入国在留管理庁からは指導があったものの、事情聴取まで行った文科省からは何のアクションもない。法人が第三者委員会を立ち上げた背景には、文科省とやりとりがあったことも推察される。それにしても、文科省の態度は城後氏や大月氏、教員からは「玉虫色」と見られてもしようがないのではないだろうか。

 実は、城後氏が退任した翌日の四月一日には、新たな理事に文科省OBの嶋貫和男氏が就任している。第五章で改めて触れるが、嶋貫氏は二〇一七年に発覚した文科省の組織的な天下りのあっせんで、中心的な役割を果たしていた人物だ。留学生問題が表面化した数年前から、法人が非公開で立ち上げていた経営戦略委員会に対して、嶋貫氏がコンサルティングを行っていた。大月氏は、留学生の不適切な受け入れについても嶋貫氏が関与していた可能性が高いと指摘する。

 「経営戦略委員会の議事録には、嶋貫氏が日本語能力N2は大学の解釈によって相当伸び縮みをするのでそれは裁量範囲です、といったことを示唆する記述があります」

 留学生の不適切な受け入れ疑惑の背景に、嶋貫氏の存在があったことは否めないのではないだろうか。しかし、嶋貫氏の存在が、何の処分もしないという文科省の判断に影響を与えたとしたら、大いに問題があると言わざるを得ない。

 大月氏が訴えた裁判は、二〇二二年七月時点でも一審の札幌地裁で続いている。訴え自体は「正当な理由と手続きがないまま職を追われた」として、地位保全と賃金の支払いを求めるものだ。法人側も全面的に争う姿勢を見せている。

 札幌国際大学の留学生の不適切な受け入れは一定の結論が出てはいるものの、大月氏が訴えた裁判の中で改めて問われている。

「私小説的読み方」の習い性、について



 晴耕雨読、と言えば何やら優雅にも響く日々、すでに死語になっている「悠々自適」「楽隠居」といった語彙と共に、馬齢を重ね、紆余曲折を経てきた果てにおのれを知った身の、ある意味理想としての日常を想起するでしょうが、当然、昨今はそんな呑気なものでもなく、長年性懲りもなく貯め込んだ古書雑書やくたいもない資料紙切れ備忘の類も含めて、いまは訴訟係争中の大学に拉致されたまますでに二年と八ヶ月、致し方なく手もと寓居にたまたま囲ってあったものを日々の求め、おのが気分に応じて手にとっては、ためつすがめつ拾い読みしてゆく蝸牛の歩みが実際。それでも、当面どんなに目算の立たない、おのれですら何をやっているのかいまひとつ明確に意識もできにくい営みでも、淡々と続けていればそれなりの功徳はあるもので、たとえば、かつておそらく眼を通したことのある本、どこかで記憶にひっかき傷くらいは残していた一節などが、たまたまの邂逅からあらためて新しい「読み」を引き出してくれることもあれば、そこからまた、〈いま・ここ〉の自分を介して無碍無体に引きずり出されてくる問いの風景の新鮮というのもあったりする。なるほど、「読む」という営みは、その程度には未だに何かの武器になり得るもののようです。少なくとも、まだそう信じる者にとっては。

 かつて確かに読んではいた、そのはずなのに、〈いま・ここ〉だからこそまるで初めて読んだかのように合焦してしまう、たとえばそんなちょっとした断片、何でもない個所。

「その人は鳴りもんが好きでね。わたしも今は歌うたったりラジオ聞いたりするのが好きですけど、その頃は鳴りもんは好かんやったんですよ。好かんというよりも生活に余裕がないもんで、気持ちにも鳴りもんを聞くくらいの余裕がなかったんでしょうね。」

 「鳴りもん」というこの言い方。いわゆる楽器、音の出るもの一般にあたる言い方ではありますが、その「鳴る」という表現のされ方にもおそらくは、かつての身体、ある時期まで確かに生きて〈いま・ここ〉にあった生身の感覚の気配が込められていたはず。それは人が関わり、扱うことで初めて「鳴る」ものではあっても、でも、そこにもの言いとして込められているものの中には、そのもの自体が自ら「鳴る」、そんな感じも確かにはらまれているような。

「その男は三味線、二丁太鼓、ハモニカ大正琴、尺八、バイオリン、なんか弾くんですよ。なんでも弾きこなしよりましたよ。三味線は二日ならい行って三つ覚えてきました。安来節、さのさ節、木曽節。琵琶がないだけでね、そんな鳴りもんをつぎつぎに集めます。古ぼけたのをどこからか手にいれてよろこんでかえってくるのですよ。」

 とある婆さんの、大正初年から半ばにかけての記憶の聞き書き。通俗楽器として市中に流通していた「鳴りもん」が、すでにこれだけ多様にあったらしいことと共に、それらが「古ぼけた」中古品として「どこからか手にいれ」ることも可能だったらしいこと。舞台は北九州、福岡県中間市は深坂炭鉱。「その男」というのは、十五の時から母親と一緒に坑内で働いていた彼女が、十九の時に「いっぺんも会うたことも見たこともないひとといっしょになった」その相手。坑内の仕事からあがって「上におるときはしょっちゅう弾いとる」ような、まあ、ヤマの道楽者の類だったようです。

「わたしがおこりよったとですよ。「やかましい。土手のほうさへいって鳴らしない。やっと坑内からあがったとおもたらベンベンベンベン鳴らして。頭がいたいわい。鳴りもんどころじゃなかろ」」

 「趣味」というもの言いが、いまのようになめされた一律の手ざわりでなく、ある限られた境遇の恵まれた条件と環境にある「個」を前提にようやく許される個別の誂えものでしかあり得なかった時代。炭坑夫が「鳴りもの」にうつつを抜かすことは、たとえ課業外の時間ではあっても「道楽」でしかなかった。ああ、そういえば「余暇」という語彙もまた、そのような課業外の時間について言われ得るようになっていったのも、まだそれからしばらく後のことだったはず。「労働」は最初に輸入、翻訳されて使われるようになっても、そしてその新たな言葉を道具として、ある水準で言語化され、理解されるようになり始めてはいても、それ以外の領分についてはまだ意識はされていなかったし、何より、それまで世間で使われていた「しごと」や「はたらき」といったひらたくもささやかな語彙との間の連絡まで考えをまわしてもらえませんでした。

 「労働」の外、〈それ以外〉としての「余暇」もないところに「趣味」などあるはずもなく、「娯楽」や「慰安」でもなかなか難しい。まして「レクリエーション」や「レジャー」など、まだはるか異世界の話。せいぜいがゆるく「あそび」か、でなければ「道楽」とだけくくられ呼び捨てられるようなものだったはずで、そして、その枠組み自体も、おとこやおんな、こどもや若い衆、それぞれの社会的な立ち位置と役まわりに従って、割と窮屈に決められていました。

 「金がなくなるとそれをすぐ質にいれてね。なんもかもいれてしまって、もうなんもないと、ひしゃくに三味線の糸をつけてそれはうまいぐあいに弾きよりましたよ。誰でも鳴りもんの天才じゃというとりました。いまのわたしだったらよろこんだでしょうにね。祭りのときなんか、二丁太鼓たたくのにやとわれていきよりましたよ。ぎゃっともいわずに一日中たたいて気持よさそうでした。碁は一級で炭坑の青年に教えよったし、野球は選手でキャッチャーしてました。」

 種類を問わない「鳴りもん」の収集、それを使った素人演奏だけではない、碁や野球まで嗜んでいたこの道楽者の炭坑夫。おそらく、彼にとって「鳴りもの」は、「うた」を自分の代わりに現実化し、響かせてくれるものだったのでしょう。ひしゃくに三味線の糸、の創意工夫は、あのウォッシュタブ・ベースと似たようなもの。いや、単に発想が似ているというだけでもなく、発祥の時期もまた大きくは同じ頃、20世紀初頭。ああ、「近代」とはかくも平等に、分け隔てなく、ある種の普遍を、その最も切羽に立ち至るしかなかった地上の生身にうっかりもたらすものでもあったらしいことの例証、ここでもまたひとつ。

 そしてまた、同じその「近代」がうっかりともたらす運命もまた、同じある種の普遍を規矩とされながら唐突に訪れます。

「ひょいとその男は水非常(水没事故)で死にました。若死ですたい。二年しかそうとりませんでしたね。それじゃあ情も深くはならんですよね。十九やそこらじゃね。男がうるさいくらいのもんでしたから。」

 この婆さんにとって、この最初の夫はそのような縁でしかなかった。もちろん、年老いてその記憶をたどってみるがゆえに、当時許せなかった「鳴りもん」道楽の所業に対しても、その老年の生身を介して「かわいそうなねぇ、二十三の青年でしたからね、上にあがってほっとして鳴らしよったのでしょうに。しんから好いとったとでしょうね」といった回想譚のたてつけで語ることもできたようですし、またそれを何度も「同じ話」として語ってみせたことを、聞き手自身、別の場所でこう言っている。「同じ話を私はこの人から何回もきいていましたが、話のたびにその頬を涙がつたいました。」

 けれども、このもうひとつの機会での彼女の語りは、同じ細部を散りばめながら、また異なる響き方をしています。なんでも器用にできる男で炭鉱にゃ珍しい男だった、音楽きちがい、鳴りもんはなんでも上手、三味線からバイオリンまで弾きよった、キャッチボールの選手、唄も天才じゃったね……等々、同じ細部を連ねながら、「けれど、女あつかいが下手たい。女をあつかいきらん。悋気ばっかりして、いっときもわたしをひとりにしきらん」とつけ加えている。

 父親の手慰み、要はこれも「あそび」「道楽」で作った30円の借金のために「ただ親を助けたいが腹いっぱい」「親孝行したいの一心しかなかろうが、泣く泣く盃した。」「わたしは男のこと考えたこともないおくてじゃ。30円借銭した相手はヤモメの人だった。二十四を頭に男ばかり子が三人おった。二十四の頭息子の嫁になった。なって、たまがった。なし、こんなことするんじゃろうか。」加えて、嫁ぎ先のやもめの父親も夫の弟たちも、共に彼女に「おんな」であることを求めてきた。でも、そのことを誰にも伝えず、夫にも言わなかった。「逃げて帰りたかった。ほんに、うぶだったとばい。今どきの人がきいたら、あほか、というばい。けど、体ができとらん。」

 二年しか一緒に暮らせず、坑内の出水事故で突然いなくなった道楽者のこの夫は、そのような日常の昏いしがらみの中、だからこそ「鳴りもん」にかろうじて託してもいただろうその自らの「うた」への傾きについて、彼女と共有することはできなかった。彼女も、晩年にいたってようやく「かわいそうなねぇ」と感慨を抱けるようにはなってはいました。でも、と同時に、当時その頃の自分の記憶を介せば、「女をあつかいきらん」「悋気ばっかりして、わたしをひとりにしきらん」という、おとこの道楽者に対するもうひとつの〈リアル〉もまた、確かに手放せない。その一見矛盾するかにも聞こえる同じ生身から発される双方を、書き手は重心をずらしながら、ふたつの場所に別の記述として現前化していました。

 書き手は森崎和江。初版1961年6月の『まっくら』からの断片。いまからもう60年以上前、実際の聞き書き作業はそれ以前、昭和20年代後半から30年代始めにかけての時期とおぼしき記述群。19世紀末、明治の後半に生まれただろうこの話し手の婆さんは当時、60代半ばから70代そこそこ。いまとは違う「年寄り」のものさしだった時代、「近代」は生身の記憶としてそのようにたどれるものだったことの手がかりとして、文字の記述は〈いま・ここ〉に、「読む」の器量にしたがってそれなりになお、つながり得るもののようです。

 ただ、注意深くあらねばならない、と思うことも同時に、また。

 ここにあげた『まっくら』にしても、書き手の森崎和江にしても、すでにそれらにまつわるさまざまな記述が蓄積しています。それらは「評価」であり「批評」であり、「感想」であり、あるいはまたそれらを横断的に自在につむぎなおしたいわゆる「二次創作」という意味での考察や研究の類も含んだものになっています。まして、書き手自身がこの世を去る時期にあたり始めてからはなおのこと、生身の書き手とのつながりごとこの世から縁が切れてしまうことによってさらに、それら蓄積されてきた記述類もまた別の意味をそれぞれ発し始める。そのような事態はまごうかたない〈いま・ここ〉において、記述の背後に当初控えていたものとはまた別の異なる情報環境において、現前化しています。

 もとの記述、書かれたものは全く同じ文字列のままでも、その後に蓄積されてきたさまざまな言わば「二次創作」の類が別途独自に相互に連関しながら存在してきていることによって織りなされている「読み」のモードがある。それは言わば見えないヴェールのようなもので、それを介して初めてもとの記述は「そういうもの」として自明に、そうと意識しないまま読まれるようになっている。そのたてつけは言葉本来の意味での「歴史」へと連なってゆくはじまり、初発の萌芽のはずなのですが、しかし、ここで敢えて注意深くあらねばならないというのは、その「歴史」へと連なってゆくはじまりのたてつけ自体が、〈いま・ここ〉を生きるわれわれの「読み」にとってはまるごとノイズとして働き始めるものでもあるらしい、そのことです。

〈いま・ここ〉の情報環境の内側で自明化しているそのような「読む」から自ら「おりる」ことを方法的に仕掛けるという、それが何であれ、この世をより良く生きてゆく上での何らかの武器を取り出そうと志して文字を読もうとするほどの者ならば、概ね誰もが自ら課していたはずの「読む」作法について、もはや立ち止まって顧みる余裕すら失われつつあるらしい昨今の日本語環境をめぐる現状からすれば、このような留保はなおのこと、切実に求められるものになっているように思います。

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 日々このような「読む」を飽きず続けているうちに、ひょっとして、という程度ではあるのですが、このところ新たに宿ってきたまだ茫漠とした、でもかなり大きな問いがまたひとつ。走り書き程度ですが、今後のための覚え書き代わりに書きとめておきましょう。

 世の中に対する見方や考え方、起こったできごとや事件、あるいは日々身の回りのありふれたよしなしごと、つまりは〈いま・ここ〉の現在についてどのように見たら、考えたらいいのか、といった角度から書かれたものを読む習い性というのが自分にはいつの頃から身についてしまっているらしい。それは相手が小説であれ随筆であれ、コラムやエッセイ、新聞や雑誌の記事などのいわゆる報道ものであれ、基本的にそう変わらないようなのですが、そのような「読み手」としての習い性を省みると、どうも書かれたものに対してはまずその背後に必ず何らかの生身の書き手を想定し、その書き手がどのような人間か、どういうものの見方や考え方をするのか、何のために何を思ってそのようなことを書いたのか、などといったことを併せて考えながら「読む」ことが習い性になっていて、それは同じ生身の自分、〈いま・ここ〉を生きる読み手としての意識や感覚と紐付けられて、その間に眼前のその書かれたものと対峙しているといった感じ。これをいま仮に、記述を私小説的に読む習い性という意味で、「私小説的読み方」とでも呼んでおきます。

 言うまでもなく、この私小説をめぐる議論というやつも、主に書かれた「作品」をめぐって推移してきていて、それは当然ではあるのでしょうが、ただ、同時に読み手の側がどのようにその書かれたものを「私小説」と意識、ないしは自覚した上で読んでいたのか、といったあたりの考慮は、未だ薄いままなようにも思えます。ざっくり言ってしまえば、読み手のその「読む」ことの習い性がもうすでにある段階から「私小説的な読み方」一択になっていた可能性はないのか、殊に「作品」としての私小説のあり方が固まってゆく過程ですら、もしかしたらそのような「私小説的な読み方」の習い性の広がりの方が先行していて、そのような「読み」が逆に書かれた「作品」のあり方を、つまり書き手である作者の側も含めて規定していった面もあったのではないか。

 こういう場合、書き手もまた読み手である、という視点が含まれるわけで、書き手の側にもそのような「私小説的な読み方」が習い性的に実装されていったことで、そのような自分自身の「読み」を足場にしながら「書く」へと向かっていった経路はあり得たでしょう。自分がものを書く時にどんな「読み」を想定して「書く」に向かっていったのか。その際、すでに自分の裡に「私小説的な読み方」を自明に発動してしまう、そのような習い性を身につけた読み手がひそんでいて、そしてそれはその書き手だけのことでもなく、ある程度同時代の情報環境の内側に広汎に宿り始めていた「読み」のひとつのモード、「民俗」的なレベルも含めた意味での何らかの集合的な意識や感覚を規定する習い性として宿り始めていたのではないか。

 あらゆる「書かれたもの」は「私小説」である――こういうと端折りすぎ、かつ言い過ぎだとするならば、あらゆる「書かれたもの」は「私小説的な読み方」にさらされることを前提にうっかり生産されてしまってきたものである、でもいいかも知れません。少なくともある時期からこっちの〈いま・ここ〉の裡においては。

 散文とそれ以外、詩や短歌などの場合はどうか、文字ではなくビジュアル表現、さらにはそれこそ「うた」などの身体的表現だとどうか、など、さらにいくつもの補助線や仮説は必要ですが、同時代の情報環境に良くも悪くもそのような「私小説的な読み方」があたりまえな「書かれたものに対する読み方」として宿り、広汎に実装されていったかもしれない過程というのは、単に文学史や文芸批評その他、タテ割りタコツボ化が極相化している現在の日本語環境における「専門性」の不自由自体から自ら解き放たれようとする意志が生身に伴わないことには、おそらくうまく意識すらできないものではあるのでしょう。