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世の中のこと、社会のありようについて何か疑問を持ったり、わからないことがあった場合、それについてそれなりの「答え」を求めようとする。わからないからわかろうとする、そのための作業はさまざまにあれど、ごくおおざっぱに「しらべもの」と言っていいでしょう。
その「しらべもの」の結果、必ず納得ゆく「答え」に到達できるとは限らない。多くの場合はさらに問いが問いを呼び、とめどなく枝分かれをしてわけがわからなくなったりするものです。まただからこそ、「しらべもの」は面白かったりもするのですが、ただ、たとえ満足ゆくような結果は得られなかったとしても、少なくともどこかで納得したい、あ、そういうことなんだ、と「わかる」になっておきたいという欲望だけは、ある種の人間にとってその後も身の裡に熾火のように宿りつづけるものらしい。
そういうところに「わかる」ための秘訣、といった代物がうっかりと手招きしてきます。「思想」だの「哲学」だの「文学」だの、いずれ大文字で抽象的で、またそれだけ大風呂敷で世界まるごとひっくくって包み込んでしまえるかのように思わせてくれる、そんな「わかる」へ早上がりするためのさまざまな言葉たちが各種取り揃えられ、しかもそれらは概ね本のかたちで待ち受けていて、そこへ導き寄せられてゆくことは、たとえ予後がどのようなものになったにせよ、人が人となっていまどきの世の中に出てゆく上で、大なり小なりくぐり抜けねばならない通過儀礼のようなものではありました。
そういう秘訣を出会い頭にいくつか拾って見よう見まね、格好つけられそうな程度にまで何とか身につけて、さて、あらためて世の中を見回してみれば、あら不思議、それまでとりとめない個別具体のモノやコト、いろんな利害や思惑や権謀術策、欲と本能とが生身を介してドグラマグラに絡み合いつつあたりに充満して蠢いているばかり、いずれそのどこかに身を置かねばならぬ運命らしいにせよ、あまりに茫洋、ただ漠然として、とにかく始末に負えない厄介な混沌としか見えなかった眼前の風景が、一気に何やら整理がついてすっきりくっきり見えるようになっていた。そうか、こういう「わかる」が自分にも宿るようになるんだ、とそこはそれ、若気の至りとは言え、まずは素直に感動したりもするのであります。
けれども、厄介なことに、そういう「わかる」は直ちに自己増殖し始める。早上がりできるだけの飛び道具的な射程距離の長さと足の速さを兼ね備えている言葉だけに、それに見合った似たようなタチの言葉たちをたちどころに呼び寄せて、みるみるうちに互いに手を組み、仲良く結びつきあって、何やら透過膜のようなものを頼みもせぬのにこの身のまわりに分泌、生成し始める。その内側から見透かしている限り、世界は常に明快で理にかなった造りになっていて、パースの狂わぬ見事な像をそれこそ解像度高く目の当たりに合焦、現前させてくれるという次第。

たとえば、それまでさまざまに論われていた個別具体の事象なり眼前の世相風俗なりの多くも、要は「資本主義」によってそうなっているのだ、と決め打ちされれば、その透過膜を介して見る限りすべて一律「資本主義」に粛々と収斂してゆく明快かつ鮮明な映像として映し出されもする。
しかし、それは要するに通俗凡庸その他おおぜいの問題、つまり大衆社会化状況に伴って必然的にもたらされる現象のこと、だったりもするのではないか。ここは資本主義社会における大衆社会化状況と、定石通りに言い換えてもいいですが、要はそのうしろの部分、大衆社会化状況によってもたらされている部分が大きいようなものなのではないか。それを資本主義の問題、経済をまわしてゆくたてつけの問題としてだけ見てしまうことが、もしかしたら間違いの元だったのではないか。なんの、何を言う、それでは下部構造と上部構造のたてつけが逆、その大衆社会がそもそも資本主義(的な生産様式)に規定されて初めて出現し得たのではないか――ああ、ないかないか、の張り手の応酬、確かに問いは問いを呼び、いつ果てるともわからぬ言葉の無限連鎖に巻き込まれてゆくばかり。こういう大文字の問いの空中戦もまた、あの透過膜を介してあたりまえに生成され、その内側の世間に流通してゆくものでありました。

だが、これもまた、「資本主義」というくくり方からではなく、むしろ「市場」という〈リアル〉の問題として考えた方がわかりやすいのではないか。この自分がおのが生身を抱えて日々棲んで生き永らえている世界は、「意味」を介して編制されている現実でもあるのがわれら人間の宿命であるらしい。である以上、それは生身の器官を介して直接に認識できている範囲にとどまらず、眼によって見る、耳で聴く、それらあまたの感覚によって引き寄せられる個別具体の間尺を越えた〈それ以外〉の現実も、「意味」という共通の土俵においていくらでも編制されてゆくことができる。そのように、「市場」という身の丈を越えた拡がりの現実もまた、同じ生身の裡に〈リアル〉としてひとまとめに宿してゆける。それは、カミやホトケといった超越的で普遍的な形象およびそれに付随するイメージ共々、シームレスかつ融通無碍に融けあってもゆくものになり得ます。要は、われら人間にとっての想像力というのは、そのように本質的に飛び道具、実にあやしくもうっかりと胡乱な厄物らしい、ということなのですが。


そうなってくると、日本語の語彙としての「大衆」よりも、もともとのmassの内実にまで問いの射程を伸ばさねばならない。
mass――つまり「たくさん」「大量」という意味あいになりますが、これはそれこそ数の認識が人類に宿るようになっていった過程でも意識されてきていたことなのでしょう。しかし、われらがいま生きるような大衆社会段階での「たくさん」とは、単に無機質でフラットな数の認識においてというだけでなく、この「自分」と同じ存在がこの世の中に「たくさん」あるらしい、という認識、いわば自分自身を対現実認識の基本におく態度が自然に介在できるようになって初めて、いかにもいまわれわれが日々感じ、そして考えるような大衆社会における「大衆」の内実に近いものになってゆけます。
自分のような「個」が横並びに「たくさん」存在する、しかも間違いなくこの自分ではない別の異なる存在として、という認識のありよう。つまり、「個」としてのこの自分自身が明確に「自分」という輪郭を、まず獲得できるようになっておくこと。それとの対抗的な関係で「たくさん」もある種の不気味さや恐ろしさ、自分自身との関係における根源的な不安のようなものを伴って立ち現れる。「自分」を確立してゆくに伴い、〈それ以外〉としての「他者」もまた顔の識別できる等身大の個体として存在する、という認識と共に、同時にそれは不特定多数の、かつ顔の見えない匿名性を伴った「たくさん」「大量」としても立ち現れてくるという、それこそ弁証法的な認識のからくり。「存在の根源的不安」などと賢しらにまとめてしまえばまたそれまでのことでしょうが、それでも身の裡に宿るこの何やら底知れぬ不気味な感じは、透過膜になじんだそのような言葉や文字にきれいに収まりきるものではないし、まただからこそ、思想だの哲学だの文学だのという、世の中の割り切れぬ残余、〈それ以外〉としか言いようのない部分を受け止めるたてつけの養いにもなってゆける。なおその一方でまた、そのような不気味な「たくさん」は、同時に信頼するに足る「みんな」だったりもしてきたのではないか、という問いも姿を現します。このように、「市場」的な拡がりの〈リアル〉というのも、その本質としてそのように両義的で、突き詰めてゆけばそれこそ「聖/俗」の属性を表裏一体として備えているようなものになってもゆくようであります。


家族親族から半径身の丈、顔の見える範囲での日常接触する間尺程度のあつまり、それは「ムラ」でも「身内」でも共同体でも何でもいいのですが、いずれそのような範囲の「みんな」に対する信頼は、「マス」「大衆」的な「たくさん」とはまた別のカテゴリーになっていたのではないか。だとしたら、その場合の「みんな」とは、数量としての意味あいならば地続きであろう「たくさん」とはむしろ対抗的なカテゴリーにもなり得るはず。数でカウントするなら同じものさし、数字の多寡でだけ測って連続的にプロットすることもできるけれども、でも、その間にはどこかで決定的な不連続、生身の認識としては越えられない違いも確実にはらまれている。これは、どこまでを「みんな」という切実な「身内」「内輪」と認め、どこから先を〈それ以外〉の縁無き衆生、つまりひとしなみの「大衆」「マス」「その他おおぜい」と認識するのか、という線引きの問題にもなってきます。そして、あのhumanity という語彙が歴史・文化的に宿してきた、常に一定の熱っぽさをはらんだ内実にも、おそらくはまた。
「自分(たち)」と〈それ以外〉、という対抗図式。これもまた、言語の基本構造などに規定されているという、あの「パンツをはいたサル」としての本質的な認識の枠組みかもしれません。ただ、それでもその図式の「自分(たち)」のスケールをどのへんまで自然に、それこそ資本主義経済が成立して拡散浸透してゆく以前の社会において、人は拡大してゆけるものだったのか。そしてまたその場合、想定されている「たくさん」なりの側はどのようにイメージされ、あるいはまたどのように〈それ以外〉になっていたのかいなかったのか、などがまた次なる問いとして連なってくる。「その他おおぜい」という雑でひとくくりな想像力もまた、それら〈それ以外〉の中には「自分(たち)」もまたまごうかたなく含まれ得る、という自己認識のありようと背後で秘かに通底しています。複製技術の進展が大衆社会状況を下支えしていた、というのは例によってベンヤミン経由の能書きになりますが、それはわれわれの現実認識、殊に自分も含めた人間認識にもどれくらい影響を与えていたのか。そう、人間もまた複製できるかもしれない、「科学」の力によってそれが可能になる「未来」があり得るのかもしれない。「自分」は確かに他でもないこの自分自身ひとりだけれども、だとしてもある意味で同じ人間、同じ個体という意味での自分なら世の中にいくらでも、それこそ無尽蔵に近い規模で存在しているらしい。
ただ、いまどきの若い衆世代、そう、ざっと30代くらいから下、概ね平成生まれと言ってもいいあたりの同胞にとって、こういう類のしちめんどくさくも逃れがたいある種の「教養」によって刷り込まれた自意識の自覚というのは、すでにもうかなり他人ごと、ありていに言って「昭和」「戦後」にたまたま生まれ、折りから降って湧いた「豊かさ」にあぐらをかいて好き勝手な能書きや思い込みを気分次第にまき散らしながらうかうかと世を過ごしてきた年寄り老害世代のやくたいもない繰り言としてしか響きようのないものになっているようです。彼ら彼女らにしたらそれこそ、ああ、それは結構なご身分でしたねぇ、と口もとのひとつもひん曲げながらうしろ向きに吐き捨てるしかなくなっているような類の、自分たちがこの先、生きてゆく上ではすでに役に立たない過ぎ去った過去のめんどくさい作法として。

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たとえば、先日ふと目にした、とあるブログの一節。おそらくはそんな若い衆世代のひとりであろう書き手による何でもない書評めいた内容の一節に、こんなコメントがつけられていました。
「小難しい書き方をされている文章を頭の中で変換したり、読み返して咀嚼しなきゃならないのでほんとに疲れます。内容は、よく調べてあると思うところもありますが、自説に合わない事例を無視して論を進めているところが散見されるので大変モヤモヤします。」
この「モヤモヤします」という部分に、さて、どういう違和感が宿っているのか。それが気になって立ち止まった。
評されているのはオカルト番組についての本らしいのですが、そこに取り上げられている70年代や80年代、かつて放映されていたテレビ番組の評価や、当時確かに存在して人気もあった番組が拾われていないことなど、同時代として見聞してきた体験からしても、資料の偏りや抜け落ち、視野の狭さや決めつけが気になる、どうしてこんなことに――ざっとまあ、こういう文脈での「モヤモヤします」でした。
ありがちな「おたく」気質、個別具体の細部へのマニアックな執着ゆえの違和感とだけ見ればそれだけのことになりますが、ただ、どうもそれだけでもない違和感の気配、書き手自身もうまく言語化できていないようだけれども、他でもないこの自分の裡でも日々鈍く感じていた根深い問いと共通する何ものかが、その「モヤモヤします」の背後にちらり、垣間見えたような気がしたゆえの敢えての立ち止まり。
「よく調べてあるところもある」と前向きな評価もしています。「よく調べてある」になるにはそれなりの能力が必要ですが、しかし、その能力は、文字に限らず映像でも音声でも一律に「情報」化されデジタイズされてなめらかに水平化、フラット化してゆくいまどきの情報環境においては、少し前までの情報環境において求められ、ある程度まで否応なく生身に宿らされていた能力と比べて、〈知〉のありようとして本質的に別のものと言うしかない不連続をはらんでいるのかも知れない。その程度に、およそ今世紀にさしかかるあたりからこのかた、ざっと30年ばかりの間に日々少しずつくぐもり続けてきていた、身の丈の「読む/書く」に関する所作、「そういうもの」としてあってきたはずの作法の変貌についての、とろ火にかけられゆるく煮崩れてゆくような違和感は、自分ごととしても根の浅からぬ問いになっています。
そう、「よく調べてある」と言う、その「調べる」の内実とは?


「自説に合わない事例を無視して論を進めている」と感じているのは、その「自説」に向かってきれいに整序されているのとは別の、〈それ以外〉の「情報」も持っているはずなのに、それらをあらかじめ除外することで「よく調べている」が成りたっているように見えた(と、評者であるこの書き手が感じた)からでしょう。眼前の「自説」に反映されてはいないけれども、そのような〈それ以外〉の「情報」もまた背後に持っているはず、という何らかの気配がその直感を裏づけているからこそ、彼はそのように感じたのだろう、ということと共に。
もちろんいまどきの情報環境のこと、それらもまた同じように等しく「コンテンツ」化された「情報」であるのでしょう。それらは共に一律にフラットに平面的に「情報」として一望できるようになっている(と感じている)がゆえに、それらを同じ水準で「資料」として、つまり「自説」のための「パーツ」「素材」としてどれだけきれいに整理し、取捨選択した上で「自説」を完成形として見せることができるか、という結果が、その本の紙面上に示されている。そして、その著者の手もとにあるだろう実際には使われなかった「資料」もまた、眼前に現前する「自説」を組み立てている「資料」と同じ水準、フラットな「コンテンツ」「情報」として存在しているだろうことも、この評者も共に前提にしている。そのようないまどきの情報環境における「資料」のありようについての認識はすでに自明に共有されていて、いわば互いの手の内を舞台裏の道具立てごと素通しに見透かすことのできるという認識は、ひとまず地続きになっているようです。
でも、この評者の書き手も、同時代を生きて見聞し、体験してきた生身の領域も抱えて〈いま・ここ〉を生きている。その本に取り上げられた「情報」としてのかつてのテレビ番組たちの多くを当時の〈いま・ここ〉で彼は見ていたし、そのことのかけがえのない感覚、まさに “I was there”――「自分はその時、間違いなくそこにいた。いて確かにこの身で見聞きし体験した」と昂然と宣言したいほどの主体感の確かさは、単なる「情報」としての字ヅラに立体的な遠近感を即座に与えてくれます。紙の上の理路、「情報」としてのフラットな平面においてそのようにうまく処理されている限りの印象がなめらかで整っているものであればあるほど、おのが身の裡の〈いま・ここ〉感覚、それを介して立体化した同時代的な手ざわりを回復し、紙面からそれこそ地湧の菩薩のように平板な文面のそこここから立ち上がってくる〈まるごと〉の記憶や印象にドライヴされての「情報」の変容は、おそらく彼の裡で切実だったのでしょう。しかし、その切実さをそのまま言葉に変換する回路は、評者の彼にあってもすでに自覚されないものになっているらしい。だからこそ、それは「モヤモヤする」違和感として、ぶっきらぼうに放り出してみせるしかなかった、と。


これは、前々から言っている「情報」化「コンテンツ」化や、それらを前提にしたいまどきの「しらべもの」――「調査研究」でも「取材」でも構いませんが、それらの作業に特徴的になっている「スキャン」的、2次元的かつ平面的な検索の視線など、近年の情報環境の変貌とそこに宿る〈知〉のありようの変質に直接関わってきます。そこで自明の前提になっているのは、同じ水準で素材を「情報」として共有する/できる状態で、それらを取捨選択してどれだけきれいに整った「自説」を生成してゆけるか、という種類の「競争」のイメージです。マウンティング前提での勝ち負けでしかものごとを考えられないゲーム感覚の上での「論破」こそが正義であり、言葉をやりとりする目的である、といった感覚が薄く広く実装されているらしい事態と共に、これはいまどきの本邦同胞の間に静かに浸透し、支配的になってゆきつつある情報環境の変化に伴う社会相らしい。
しらべものの結果、自分の手もとに資料として立ち現れたものは、しかし自分以外の誰かにとっても同じように役に立つ資料になるとは限らない、という感覚はおそらくここにはない。「コンテンツ」化された「情報」は誰にとっても等しく意味を持ち、平等にアクセスすることが可能なものである、という新たな情報環境の前提からは、しかしそのように処理される手前の段階、いずれ生身の主体が時間をかけ、手間もカネもかけ、図書館に通ったり古本をあさったり、事情を知る者を探して会いに行き、アポをとって話を聞き、必要なら写真や映像、音声もまた記録し、資料としてフィルムやテープ、何らか具体的なブツとしての媒体を紙の文書資料と同じように手作業でハンドリングしてゆき、いずれそのような一定の問いの文脈と必要とに応じたあれこれ試行錯誤の結果の雑多で多様でそれ自体は客観的にはやくたいもないガラクタの集積である、という前向きなあきらめを伴う理解が、その過程へのつぶさな認識と共にきれいに抜け落ちています。



昨今眺めている限り、このような世の趨勢に対する素朴な違和感や不信感の類を感じたそのままに表明することは案外少ないようで、むしろそれを「しない/できない」ように抑制されている印象すらある。いや、さらに一歩進んで、そのような違和感などはらみそうになった瞬間から即座にキャンセル、「自説」とは別の自前の「自説」を手もとの〈それ以外〉の「資料」含めて駆使して即座に構築、とっとと体裁整え勇躍反撃に向かうという、まさに「ロンパー」モード、表面的な「論破」だけを第一義のミッションと心得た言語活動の即時始動が半ばプロトコルとして「しらべもの」に従事する生身の間に実装されているようにさえ感じられます。「モヤモヤする」ことなく、常に明快かつ鮮明に隅々まで見通せる素通しになったつもりの同じ土俵でどのように反撃するか、という悪い意味でのゲーム的な認識と感覚にドライヴされた半ば自動的で反射的なやりとりの連続。もちろん、その結果はそれらの過程で生成されるそれぞれの「自説」の横並び半自動生成の連鎖という、ある種ヴァーチャルな「正義」のぶつけあいによる不毛なものにしかならないのも含めて、言うまでもなく。
そういう意味ではこの書評めいた一文の書き手、「モヤモヤする」と言語化して表明できる、その程度に「立ち止まる」「おりる」という手続きがとれるという一点において、ひとまず貴重なのかもしれません。それらいまどきモードの対話なり議論なりのプロトコルに従った結果がロクなものにならない、という認識も漠然とであれそれなりにあった上で、自分が見切ったそれら〈それ以外〉の「資料」についてはどう考え、どのように扱ったらいいのかなどの〈そこから先〉も含めて、当面は「モヤモヤする」というあたりで立ち止まるしかないことも含めて。
他の誰でもない、この自分との関係において初めてその資料はある特定の意味を持つようになる、という感覚の後退。これはおそらく、紙やその他媒体を介して、さらにはそこから「デジタイズ」化された「情報」として、現在の情報環境における極限にまで客体化された「データ」としてしか資料を考えられなくなったことにもどこかでつながっている。それは、「科学」「論理」「データ」「客観的」といったもの言いの組み合わせで何となく理解されている〈知〉に対するある種通俗的な認識としても、また。これは、「コックピット的一望監視感」の全面化とそのような環境での「個」という意識のありようなどとも当然、関わっているはずです。
取材や聞き書きなどで得られた資料は単にそういう「データ」ではない、ということ。他でもない自分がその日その時その場所で取材し、話を聞き、その関係と場において解釈し理解した、その〈いま・ここ〉のまるごとの感覚が否応なくわが身の裡にあって初めて、それら取材や聞き書きの結果としての「データ」も資料として十全に存在し得る、といった感覚の留保ができなくなっている状況。昨今、すでにバンザイクリフの如き状況を呈しつつある本邦日本語環境におけるいわゆる人文社会系の「教養」としての守るべき一線というのも、煮詰めてゆけば、しょせんこのような留保による「おりる」の方法化を介してしか存在し得ないはず、なのですが。
























































