「小唄」ということ

 小唄、というもの言いがある。

 学術的な定義その他についてはあれこれ沙汰あれど、とりあえず自分ひとりにとってなじみがあるとすれば、いわゆる流行歌の中の「●●小唄」。やはり大正末年から昭和初期、震災後に流行ったと言われる新たな小唄、改めて「小唄」とひとくくりに名づけられるようになった当時の商品音楽としての流行歌、になる。それら商品音楽における題名のつけ方としては、「●●節」と並ぶ昭和のある時期までのいわば双璧で、たいていはその手前に地名などを冠していた、いずれそういう「うた」の呼びならわし方のひとつではある。

 たとえば、こまどり姉妹の持ち歌「アリューシャン小唄」。1965年(昭和40年)の発売当時は競作もので、しかも元は俚謡・俗謡の類として巷に流布されていたものを下敷きにした気配。それが証拠に競作ごとに作詞者の名前が違っていたりもする。自分の耳はこまどり姉妹の声でなじんでいたのだが、他にも三沢あけみや久美悦子(裕次郎の相方で当時、映画で売り出されていたショートヘアの美人)、後にはなんと、かしまし娘までがカバーしている逸品らしい。なるほど、出だしから三拍子で歌われる明るい曲調の、「小唄」と銘打たれている楽曲としてはいささか珍しい味わいで、「アリューシャン」という北辺異郷の固有名詞とあいまって、確かに題名からして独特の雰囲気を醸しだしてはいた。

逢わぬ先からお別れが
待っていました北の町
行かなきゃならないアリューシャン
行かせたくない人なのに


どうせあたしはニシン場の
街の夜風に咲いた花
今度あなたの帰るまで
咲いているやらいないやら


アリューシャン小唄 こまどり姉妹

 ニシンでもシャケでもカニでもいい、いずれ北方漁業、遠洋も含めた華やかなりし頃の記憶が揺曳しているとおぼしいその歌詞は、もとは北の港町にでも流れていたのだろう自生天然ものの「うた」を拾って、プロの作詞家の手を介して商品音楽の調子に仕立てたもの。そのような楽曲が、当時高度経済成長の上げ潮に従ってまた新たに都市部に蝟集させられ始めていたその他おおぜいの同胞のココロに、ここではではないどこか、を織り込んだ「小唄」として提供されるようになった。

 もちろん、それらはそれまでも本邦の巷に流れていたありふれた「うた」の定型、何度も繰返し耳にし、また自分たちも特に意識もせず口ずさんだであろう、それ自体どこといって特徴もないありきたりのもののひとつでしかなかっただろうが、それでも、いや、あるいはだからこそ、それらの記憶はその後半世紀以上たった後の今日でも、何かのはずみで眼前の電脳空間の、ちょっと立ち止まってみたくなるようなつぶやきごととして、ふと行き会うことにもなる。たとえば、こんな風に。

「1965年に大変人気のあった曲のひとつに「アリューシャン小唄」があった。他にも「お座敷小唄」「松の木小唄」など小唄ものが何曲かあったが、私の一番のお気に入りはアリューシャン小唄だった。」

 そう、アリューシャンばかりではなかった。その当時、高度経済成長が軌道に乗り、めでたく東京オリンピックも開かれて昭和元禄真っ盛りになりつつあった時代、なぜかこの「小唄」がちょっとしたブームになっていた。それまでもずっとそこらにあり続けてきたような「小唄」というもの言いが、なぜ、にわかにその時期に。

 本邦商品音楽としての流行歌を考える時、この時期の「小唄」は「ブルース」とも互換されるものだったらしい。いや、これはアメリカは深南部からミシシッピ川をさかのぼってシカゴやデトロイトなどを経由しながら輪郭整えられていったとされる、あのこってりと脂っこくもステキな本場ものでなく、あくまで本邦通俗流行歌としてのブルース、つまり淡谷のり子や森進一、青江三奈その他の声と共に、皆の衆ご存知の「●●ブルース」という、そっちの方だ。「小唄」がそういう通俗「ブルース」にいつの間にやら置き換えられていった過程というのもまた、別途ひもといてみて必ず損はないお題なのだが、まあいい、急がぬ旅のこと、とりあえず今は小唄からゆるりと手をつけてみる。



 いわゆる邦楽研究、音楽史的な分野からすると、長唄から端唄、そして小唄といった系譜的な整理はひとまずされているようだが、ことばやもの言いとしての「小唄」自体の来歴はというと正直、茫漠としてとりとめない。

 たとえば、それら教科書的な記述によれば、小唄は爪弾きが基本だとされている。撥を使った大きな音ではなく、四畳半程度の空間、つまり言い換えれば「さしむかい」が前提での「個室」モジュールでの音曲ということになる。ということは、その「うた」自体がそのような個人、ひとりである生身の半径で届くことを意図したものになる。

 共鳴させるためのうつろなホローボディなど持たぬ、たかだか猫や犬といった小動物の皮を張った木製の胴しかない、だからその本領として「響かせる」ことの苦手な弦楽器が、あの三味線だといわれている。だから、今でも録音しようとする場合、マイクをどのようにセッティングするか、ギターなどの西洋出自の「響かせる」ことに長けた楽器に対する場合と異なり、それなりの工夫が必要なのだとも。

 だが、そんな三味線程度の音量でも、その頃の本邦同胞らの生活空間にとっては大きなものであったらしい。街の稽古屋、三味線のお師匠さんと呼ばれたような稼業の家から洩れ聞こえて来るその音は、いかにそれら日常にさまざまな音が交錯しているのが当たり前だったとされる時代であっても、やはり生身の売り声や掛け声の喧噪などと違う、わけて耳に立つものだったのだろう。だから、三味線の響く界隈というのはそれだけで、あの「歌舞音曲」というくくりに象徴されたような、常ならざるものだった。その三味線を敢えて音量をおさえて、楽器としての音色をはっきり際立たせるのではなく、爪弾きで「うた」の背後の、言わば伴奏として「個室」のモジュールで響かせる、それが「小唄」だったのだ、という理解は一見、腑に落ちるし、おさまりのいいものに思われもする。

 けれども、本当にそうだろうか。おさまりがよさげな分、ちょっと立ち止まってみよう。

 すでにそれらお座敷と三味線の組み合わせがあたりまえに身近にあるような生活空間に棲むこともなくなり、このような引きごと入れごとを貼り交ぜにしながらでしかそれら「逝きし世の面影」を、たとえかすかにでも立ち上げることのできなくなっているわれわれにとって、早とちりの早上がりで「わかる」を導き出す手癖が身にしみついていることを折に触れ自省し、立ち止まろうとできる足場をわれとわが身に仕掛けながらでしか、こういう道行きの先はおぼつかない。

 実際、傍らこういう話もある。

 「小唄といっても短い唄という意味ではない、小ぶしで無造作に口ずさむ唄と考えることが正しい。(…)うた沢と端唄は三味線以後のものだが、小唄は三味線以前どころか、もっと前から日本にはあったらしい。何しろ、小ぶしを無造作につけて口ずさむのだから、聞いてもらうための唄ではなく、思うことがうっかり口からほとばしり出て唄になったという筋合いのものであった。(…)小唄は三味線をあしらいにつかって唄い、端唄は三味線にのせて歌う。小唄は唄い込まれる唄の文句の面白さを味わい、端唄は節廻しと声づかいのよさに耳を傾ける。だから端唄の三味線は撥をあてる方がよく、小唄は爪びきでなければいけないというのは行きすぎである。土台そんな窮屈な条件をつけることが既に小唄の定義をはづれている。」(平山蘆江「小唄手引――附、端唄と歌沢」、1960年)

 爪びきかどうかは本質ではない、小唄は文句が、つまり「ことば」による表現が大事であり、しかもそれが「聞いてもらうため」でなく「思うことがうっかり口からほとばしり出て」唄になるようなものだ――こういう見解である。ならば、なぜ爪びきであることが小唄であることの条件として言われるようになったのか。

 「明治の中頃に、江戸小唄中興の祖として又小唄作曲の天才として立てられた清元お葉といふ人とお葉のけい古場にあつまる小唄愛好者たちとの間に、新曲をうつしたりうつされたりする時、つい手近の三味線をひきよせ爪びきなり忍びゴマであたつて見たといふやり方が、何となしに仕来たりとなつて了ひ、やがて氣取った人たちが、小唄は爪弾でなければ野暮になりやすなど半可通を云ったのがそのまま習ひ性になつたものと思はれる。」

 このお葉というのは、明治の中頃に江戸小唄を復興したという四世清元延寿太夫の妻。清元の名手として今も斯界に名を伝えられているようだが、節附の天才でもあり、その場の誰かが気まぐれに鼻歌程度に口ずさんだ文句に三味線で節をつけてゆく即興の妙があったという。

 「作る作らせる、唄って見る、唄はせて見る、そばからそばからと批判する、やり直して見ると云ったやうなことがいつもお葉の身邊でくりかへされる時、お葉は一曲毎に三味線を弾きよせて見るが、きつと爪びきのままで当って見たにちがひない。(…)一曲が出来る移す、移させるといふほどの橋わたしがいつもいつも爪びきのままであつたらう。こうしたことが、ついつい小唄は爪びきで唄ふものときまつたものかと思はれる。」

 少なくとも明治の中頃以降、末年から大正にかけてくらいの時期に、それまでのとりとめない来歴とは少し別に新しい、今と地続きの「小唄」のかたちが改めてこしらえられてゆく過程があった。そこに即興的な創作の「関係」と「場」とが関わっていたことで、三味線の爪びきが必然的にクローズアップされざるを得なくなっていた――蘆江はこう説いている。それは新たな時代の新たな情報環境で、「うっかり口からほと走り出た」「思うこと」を「うた」に変換してゆく「関係」と「場」とが、昔ながらと見えていたはずの邦楽の世間にも宿るようになっていたことの、ささやかな証言でもあった。

 「元来、小唄ばかりに限らず清元長唄常磐津などの段ものでさへ、邦楽は芝居についたもので、邦楽だけを大勢の耳に聴かせるやり方が日本で催されはじめたのは明治末か大正のはじめ頃からのことで、それまでは各師匠の社中のあげ浚いか、あげ披露かで集まるだけのものであつた。もしお葉たちが二十年も遅れて此世に生れてゐたら、きつと小唄演奏會なり清元演奏會を盛大に催したであらうし、演奏會をやるとなれば必ず撥をあてて弾いたにちがひない。」(平山蘆江『小唄解説』、1953年)

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*1:平山蘆江、にだいぶ前から喰らいついてきていたことが、こういうところでもやはり「効いて」くるあたりの、おそらくは捨て育ちの野良ゆえの功徳が、いや、ありがたやありがたや……king-biscuit.hatenablog.com

福本日南とマクルーハン

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 言葉にまず意識を合焦させて「うた」を聴く。それが音楽であれば、歌謡曲でも洋楽でも、歌詞があるならまずその歌詞に耳がゆく。こういう性癖みたいなものは、個人差や濃淡はあれど、誰しもある程度持ってしまっているのだろう。少なくとも、戦後の本邦の教育を同時代の情報環境で受けて、人となってきた世代にとっては。

 そこには、当然「意味」が伴っている。というか、むしろその「意味」こそが耳を、こちらの意識を吸い寄せる磁場の中心にあるようにさえ感じる。言葉とはそのような「意味」へと意識を導く糸口、目安みたいなものでもあるらしい。

 ならば、いわゆる音楽ではない、言葉が音声として、あるいは文字としてでもいいが、いずれそのようにそこにあるだけの「うた」はどうだろう。「詩」であれ「短歌」であれ、そしてそれが朗読、朗詠されて耳によって受け入れられるかたちであれ、紙や短冊などの上に文字や活字として定着されたものが眼を介して認識されるかたちであれ、そのように広義の言葉としてそこに「ある」というだけのありようの「うた」は。それらいずれ言葉と、その言葉に伴う「意味」をこちらの身の裡に浸透させてくる、そのことから湧き上がる感情なり感動なりココロのありようなりは、いわゆる音楽をも含めた身体的表現一般としての「うた」と、どのように繋がり得るものなのだろう。

 まあ、柄にもない大文字のもの言いをおぼつかぬ手つきで振り回しての大風呂敷広げてばかりでは芸がない。いつだって話は個別で具体的で、そしてできれば素朴なのがいい。抽象度の高い、だからそれだけ射程距離も長く、カバーできる範囲も無駄に大きい大文字のもの言いを、日々の個別で具体的な言葉と同じように扱えるとうっかり思い込んでしまわされている多くのわれわれの意識にとって、つい忘れられがちなこと、というのは案外に、そこここにある。それも、よほど意識して立ち止まって省みようとしなければ、まず思い至ることすらないほどに。

 たとえば、文字による作品としてできあがったものは、紙を介して読まれることより先に、まずそれを朗読することが、ある時期までは半ばあたりまえだったらしいこと。近代の文学史を専門としている向きなどには、何をいまさら、と嗤われるだろうが、個別具体の相からしかものごとを「わかる」に導けないのが持病の民俗学者にとっては、その「何をいまさら」こそが新鮮で、〈そこから先〉へ赴くための大事な橋頭堡になる。

 それはどうやら小説のみならず、詩なども同じことだったという。仲間や同人による合評会というのはそのように作者筆者自らその作品を「読む」「朗読する」というのが作法だった。というか、そのような朗読という発表の場があたりまえに想定されていたからこそ、仲間や同人といった「関係」も生身を伴った具体的な「場」と共に繫がれていたところがあったらしい。これは小説など新しく成立してきた表現のジャンルよりも、それ以前からのもの、たとえば短歌などでは言わずもがなのことだったのだろうし、だからこそ「朗詠」といった「朗」と「詠」もまた、敢えて一緒にひとつの言葉になっていたのだろう。

 いま、「うた」と言った時、つい忘れがちになり、だからこそまたそれらを考えなしに「詩」などとひとくくりにして片づける習い性になっている領域ひとつとっても、そのように立ち止まって考えてみれば、結構多様で多彩な内実がはらまれているらしいことが、まだ新たに見えてきたりする。

「我國の歌は、紀・記の神詠に發して、萬葉の諸什に至るまで、歌つて其懐を述べた。それで其歌は神氣蓊鬱、泣く可く、笑ふ可く、悲む可く、喜ぶべく、世を動かし、人を感ぜしむるものがあった。それが一たび平安朝に入り、延喜の綺麗となり、天暦の繊巧となり、幾んど一定の窠窗に落ち、寄木細工かモザイツクのごとく、巧むもの、作るものとなつて歌謡の原意は何時か消失せた。されど祖先の血は一日も枯れず、繼々承々して今日に至れば、其熱情の發動する毎に、何物をか假りて、託出せざるを得ぬ。是れ其の時代々々に由り、或は催馬楽となり、或は今様となり、下つては甚句となり、都々逸となつた所以である。それで詩・賦・歌・謡の原意と其徳とは所謂俗謡に就いて見る事が出來る。」(福本日南「詩・賦・歌・謡の徳」、1919年)

 形式は問わない、何でもいい。「熱情の發動」があって、それが「うた」になる。それを自分のみならず「世を動かし、人を感ぜしむるもの」にしてゆくことまでも含めて想定している。表現はそれ自体で完結しているのでなく、それを受け取る側との相互性において初めて十全に成り立つものである、というこの認識。だから、「うた」という表現は、そのように感情を動かすこと、自分と同じように自分以外の誰かのココロをもざわめかせることが大事な目的であり、それによって「関係」とその先にあるべき「場」に、「熱情」という感情を介した何らかの共感、共同性を宿してゆくものとしてとらえられている。つまり、これはある種のアジテーションなのであり、だからこそそれは、生身を介した「関係」と「場」において直接に、〈いま・ここ〉という設定において朗読されねばならない。

 紙の上の文字や活字とひとり対峙し、しかもそれを黙読する作法では、そのアジテーションとしての効きは減衰するだろう。詩や短歌はもとより、たとえ小説であってさえも、作品として作者自身が朗読することがまずあたりまえに求められていたのは、そのような紙媒体と黙読の組み合わせで「読む」ことが、個人的で内面的な行為に切り縮められてゆく過渡期ゆえのありようではあっただろうが、しかし、逆に言えば、たとえ小説という、詩や短歌などに比べて静態的で「冷たい」表現の形式であってさえも、「うた」としての役割、「世を動かし、人を感ぜしむる」目的のためにあるという初志が未だ忘れられていなかったことの、それは現われでもあるかも知れない。つまり、表現とは、それがどんな形どんなありようであれ、その向こう側に必ずそれを受け取る側が存在する、ゆえに、あらゆる表現とは媒体であり、その目的とは「世を動かし、人を感ぜしむる」ことである――あれ? これはあの「メディアはメッセージである」という、これもまた「今さらなにを」な程度に耳になじんだ能書きにも関わってくる、そんな認識にどこかで重なってはいないだろうか。

 よろしい、ならばそのマクルーハンと福本日南を、春秋戦国の古典を縁に結びつけるというワヤを敢えてやってみる。

 マクルーハンの言ったあの「メッセージ」とは、伝えられる内容、つまり中身が前提になっていたもの言いであり、それは当時、20世紀半ばあたりのいわゆるメディア論、コミュニケーション論のたてつけだったはずだ。そしてそれは、「外見と中身」「見てくれと内実」「表層と本質」といった、いずれ人間存在の本質にまでもうっかり関わる大風呂敷な二分法の発想にも下支えされていただろう。学者であると同時に商売上手な書き手でもあった彼は、それを逆手に取って伝えられる内容、つまり「中身」だけがコミュニケーション――「情報伝達」などと、例によって本邦ならではの生真面目に訳され始めていたが――において重要なのではなく、それがどんな媒体、つまりメディアという「外見」「見てくれ」を介して伝えられるのか、という部分もまた重要なもうひとつのメッセージであり、伝えられる内容になっている、ときれいに引っ繰り返し、鬼面人を驚かすことをやってみせた。

 外見や見てくれも中身と同様、何らかの伝えられる内容に同時になっている、人と人とのやりとりとは実はそういうものだ、というこの言挙げは、まさに「コミュニケーション」communication――「関係」と「場」を介してやりとりしながら何ものかを共有させてゆくこと、に理会してゆくために重要な転轍機として作用した。本邦日本語環境においてはともかく、少なくとも彼の地ではそういう役割を当時、果たしていたはずだ。その伝でゆけば日南の、表現としての「うた」理解も、表現の形式ではなく、それによって何を共有させてゆくためのものか、というあたりの視点において、実は裏返し気味にマクルーハンと案外に近いものにも見えてくる。

 もちろん、日南は「熱情」を最重要な要素とし、それをいわばダイナモとしエンジンとして、伝えるべき内容を形式不問で伝え、共有してゆくための媒体という意味での「うた」を語っている。その意味で、中身も形式も共に伝えるべき内容になり得ているという、言わばメディア論的な相対主義に踏みとどまることで持論を全面展開していったマクルーハンとは違う。違っていてあたりまえだ。生きた時代も背景も違う。

 だがしかし、形式不問と言いながら、表現の〈いま・ここ〉における役割を先に述べたような意味での「コミュニケーション」の相において説明しようとする、その社会的な視点において、個体としての「個人」にだけ偏執的に繋ぎ止められ、それら個人的かつ内面的な桎梏に身動きとれなくなっていった本邦の近代の「作者-作品」系至上主義の貧血症状とは違う、むしろ近年ようやくあたりまえになってきつつあるかに見える、作者や作品のみならず読者との関係なども含めて言葉本来の意味での歴史社会的な文脈からとらえなおそうとする「文学」その他、われらニンゲンの表現一般に対する理解などに、むしろなじみやすいものになっていないだろうか。

 近代の小説のはじまりをどこにとるのか、専門的にあれこれ山積されてきた議論とは別に、まずは「朗読」されるのが当然というこの認識が、当時目新しい表現の形式として注目を集め始めていただろう小説においてさえも、何らかの理由や来歴によってうっかり引き継がれていたことを足場にしてみる。そこから、言文一致の文体の浸透にしてもそれら「朗読」の作法のあたりまえと関係がなかったか、詩と小説、さらには絵画や彫刻などいわゆる美術とくくられる領域との相互作用が、どのように新たな「関係」と「場」を紡ぎ出し始めていたのか、などなど、「今さらなにを」に敢えて立ち止まろうとすることで初めて、新鮮な問いは数限りなく浮び上がってくる。

 「噫『詩は志を言ひ、歌は言を永うす。聲は永きに依り、律は聲を和す。八音克く諧ひ、倫を相奪ふ無ければ、神人以て和す』詩・歌の妙用は此に在る。」

再度、「懲戒解雇」のその後

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 「懲戒解雇に処す」

 そう言い渡す顔は、気持ちゆるんで、軽くせせら笑っているように見えました。札幌国際大学理事長であり、弁護士でもある上野八郎氏、西暦2020年令和2年は6月29日の午前10時過ぎ、学内法人会議室でのたたずまいであります。

 不肖大月、北海道は札幌市清田区にある小さな私立大学、札幌国際大学人文学部で教員として、縁あって2007年春以来足かけ13年にわたって勤めてきたのですが、ここにきていきなり「懲戒解雇」という処分を受けることになりました。

 普通「懲戒解雇」というと、いわゆる法に触れるような何かをやらかした、それも軽微なものではなくよっぽどのこと、たとえばカネを使い込んだとか、オンナ絡みの破廉恥罪とか、交通事故で人身事故やらかしたとか、いずれ新聞沙汰になるような「悪いこと」をやった、その結果としての処分、といった理解が、まあ、一般的なところでしょう。実際、自分もその程度の認識でした。自分ごととして降りかかってくるまでは。

 大学側からの「懲戒解雇告知書」に記載されていた「懲戒の事由となる事実」は以下の4点。処分の決定理由として主にあげられていたのは下記①と③で、「本学の関係者全体の名誉を損なう」「本学の組織運営の健全性を損なう性質の違法行為」とのことでした。

 ① 令和2年3月31日、城後豊前学長が実施した記者会見に同行したこと。


 ② Twitterにおいて、複数回にわたって本学の内部情報を漏洩したこと及び誹謗中傷の書き込みをしたこと。


 ③ 教授会の決議や権限に基づき作成されていない「教授会一同」名の文書や教授全員の総意に基づかない「教授会教員一同」名の文書について、これら文書がその権限や総意に基づかない文書であることを認識しながら、城後豊前学長がこれら文書を外部理事に手交する行為に同調しその手交の場に立ち会ったこと。


 ④ 平成27年4月1日~令和2年3月31日までの期間において65回開催された教授会に、8回しか出席しておらず、他の教授と比してその出席状況が著しく不芳であり、その状況につき正当な理由がないこと。

 昨年度から新たに導入した外国人留学生をめぐる入試のあり方や在籍管理等、制度の運用にさまざまなコンプライアンス違反、ガバナンスの不適切な状況が学内で生じていて、それを当時の城後学長以下、学内の教員有志らと共に何とか是正しようと努力していたのですが、それが大学法人側の経営陣によってことごとく阻害され、学長は手続きも不透明なまま事実上の解任に等しい仕打ちをされるまでになっていた。なので、致し方なく外部の関係諸機関にそれら内情を訴え、報道機関などにも協力を求めて世間の眼から公正に判断してもらおうとしていた、単にそれだけのことだったはずなのですが、それら一連の行動が前述のような理由で「懲戒解雇」にあたる、という判断を、法人側お手盛りで立ち上げた賞罰委員会による強引で一方的な答申に従うという形で、上野理事長自らこちらに申し渡してきた次第。

 当然、いずれも「懲戒解雇」の前提となる事実として不当なものであり、外国人留学生の不適切な入試や在籍管理などをめぐる問題に関連した報復的な処分なので、解雇権の濫用、内部告発者と目した者に対する見せしめ的な恫喝、威圧でありハラスメントであると考えざるを得ず、地位保全等を求める仮処分の申し立てと共に、民事での訴訟も札幌地裁に提起させていただきました。仮処分の申し立ては地裁では却下、現在高裁へ抗告中で、一方、本訴の民事訴訟は先日10月末に冒頭陳述をさせていただき、審理が始まったところです。


●●
 少子化に伴う経営難で、国内の大学はいずこも大きな荒波に巻き込まれています。定員割れを補い、各種公的な助成金を穴埋めするためのあの手この手の一環で、外国人留学生を受け入れて何とかしようとする施策もここ10年ほどの間、政府の「留学生30万人計画」に後押しされて全国の大学、殊に苦境がより深刻な地方の私大では積極的に行われてきていました。それにつけ込んだ業者の類も跋扈、いわゆる留学生ブローカー的な人がたがそれらの需要を満たす構造も作り上げられてゆき、「留学生」というたてつけでの実質労働力が国内にあふれることになった。

 そのような中、昨年、東京都内の東京福祉大学の留学生が大量に行方不明になっていることが発覚、これら留学生をめぐる制度の運用のずさんさが露わになり、文科省出入国管理庁が協力して指導を行う事態になったことなどもあり、達成年度にあたっていた「留学生30万人計画」の事実上の「見直し」が文科省から発表されたのが今年の秋。加えて、安全保障面からそれら留学生も含めた在留外国人に関する政策の大きな方針転換が国策レベルでも打ち出され、いずれにせよ今世紀に入ってこのかた、わが国の大学や専門学校を中心に拡大してきた留学生ビジネスのあり方を洗い直し、健全化する動きが加速化されているのは確かです。

 なのに、ご当地北海道では、これまでもすでに中国・瀋陽に提携する日本語学校を設立、留学生ビジネスで大きく業績を伸ばしていた京都育英館という日本語学校が、苫小牧駒澤大学稚内北星大学を事実上買収、その他高校にも手を出して、いずれも中国人留学生の受け皿としての意味あいを強めた再編を始めていますし、また、これも関西を地盤とした滋慶学園という専門学校を中心とした学校法人が、札幌学院大学と協力して市内新札幌の再開発事業と連携、新たなキャンパスを作ってそこに相乗りのような形で進出の橋頭堡を作り始めています。さらには、同じく札幌郊外にある北海道文教大学も、既存の外国語学部を国際学部に改編したりと、どこも背に腹は代えられないということなのでしょうか、相変わらず外国人留学生を織り込んだ生き残り策をあれこれ講じているようです。

 そんな中、留学生を送り込むに際してブローカー的な動きをした国内外の人がたと共に、どうやら霞ヶ関界隈の影までもちらほらしているのは、この札幌国際大学の理事会のメンバーに、かの文科省天下り問題で物議を醸した前川喜平元文部次官の片腕だったとされる嶋貫和男氏の名前があることなどからも、期せずして明るみに出始めていますし、また、政権与党の二階幹事長周辺につながる公明党なども含めた中央政界のからみなども陰に陽に見え隠れしている。たかだか地方の小さな私大の内紛に等しいような騒動であるはずのできごとが、そこに端を発して、これらが北海道に対する外国勢力からの「浸透」政策の一環でもあるような可能性までも、どうやら考えねばならなくなってきているようにも思えます。

 単に自分の懲戒解雇の件に関してならば、法廷で公正な判断をしてさえもらえればしかるべき結果になるだろう、それくらい理不尽で論外な処分だと思っていますし、その意味で割と呑気に構えているつもりなのですが、ただ、はっきり言っておきたいのは、公益法人である大学という機関がこのような異常とも言える処分をくだすにいたった、その背景の詳細とその是非について、法と正義に基づいたまっとうな判断を下してもらいたいこと、そしてその過程で、いまどきの大学の中がどうなっているのか、そこでどれだけ無理無体なことがうっかりと日々起こり得るようになっているのかについて、世間の方々にも広く知っていただきたいと思っています。

 と同時に、自分が受け持っていた講義科目や演習の学生たちに著しい不利益が生じていることも、忘れずに言い添えておきます。今年に入ってからのコロナ禍でいわゆる遠隔授業が実施されていたことで、4月に入学したものの大学に顔を出すことも禁じられ、同級生やクラスメートとも顔をちゃんと合わせたこともないままだった1年生も含めて、あるいは他方、就職活動を行ない、卒業論文の執筆にもとりかかっていた4年生に至るまで、何の予告もそのための準備もないまま前期半ばでいきなり放り出されてしまった。その後もそれら学生たちに誠実な対応をしないままの大学側の態度と、それによって生じてしまった学生たちの不利益についてもまた、この場で明らかなることを、彼ら彼女らの名誉のためにも強く希望します。

 「大学」という場所が本来どのようなものであるべきか、そのイメージ自体がもう、監督官庁である文部科学省はもとより、当の大学の現場からもどうやら失われつつあるらしい。それは経営側と共に、日々学生に接し、彼ら彼女らと共に「大学」を更新し続けるべき教員や職員、教学側もまた同じく、それら理想の大学をもう見つめることができなくなっている。そのことを改めて自分ごととして思い知ることでもありました。

 まして、冒頭触れたように、上野理事長は弁護士でもあります。法と正義を司る法曹の仕事に就く者です。その弁護士が理事長職を務める公益法人の私立大学において、いかに経営状態を改善するためとは言いながら、定められた法や規則を公然と踏みにじり、教職員の間との、そしてそれらを介して最も尊重されるべき学生たちとの信頼を毀損して恥じることなく、思うままに教職員を解雇することが現実に起こっている。国立大学から転じてきた教員には「私立は国立とは違うんだ」と言い放ち、恫喝するのが口癖だったとも聞きますが、私立であれ国立であれ、「大学」という場所に求められるものが、そのような恣意や放埒であっていいはずはない。それは、最近問題になった日本学術会議の件でも期せずして露わになった、「戦後」のわが国の学術研究とそれを支える「場」のありようが、「学問の自由」などの大文字のもの言いの運用に当事者たちが日々、善意の当事者としての最低限の注意を払えなくなっているうちに想定外な蝕まれ方をするようになってしまっていたことと、おそらく同じ根を持つあらわれなのだと感じています。

 大学の規定でフルタイム雇用の定年は63歳。自分はいま61歳ですから、あと2年で自分は「時間切れ」。裁判の結果が出る頃には、自分は大学に戻れなくなっているかも知れません。今いる学生たちとももう大学で会えなくなっているかも知れない。そういう意味で今の自分に残されている時間はもう少なくなっています。なので、縁あって大学で出会って共に学ぶことになった、今の学生たちとの関係をまずできるだけ早く取り戻したいと考えていますし、そのために公正な判断をできるだけ早くいただきたい。そしてそれは、学生たちのため、という一点において、大学本来の目的ともきっと合致しているはずです。

*1:「弁護士ドットコム」というサイトからの依頼原稿の草稿。例の裁判に関して書いて欲しい、とのことだったので、これまでこの件に関してあれこれあちこちに書かせてもらってきたことと重複するところもあるけれども、まあ、媒体が違えば初見の人も多くなるだろうということで。 www.bengo4.com

「うた」と言葉について

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 「木綿のハンカチーフ」にしても「ウエディング・ベル」にしても、未だそこまで自分の内面、やくたいもないこのココロの銀幕に鮮烈な印象を残しているらしいのは、単にその「歌詞」、言葉としてそこで歌われている言葉の意味内容においてだけでなく、それが具体的な「声」として、肉声として生身のたたずまいを否応なく伴って現前していたからだろう。*1

 肉声を伴った言葉は、文字や活字と異なり、その向こう側に生身のたたずまいを察知させざるを得ない。それは聴き手であるこちら側が生きている現在、〈いま・ここ〉に共にピンポイントで現前し、こちらの生身である部分に感応し、その裡に何らかの情動、ココロの動きといった不定形であやしい領域を不断に生み出してゆく。そして、その〈いま・ここ〉であること、時間と空間が限定された「現在」の上演であることを引き受けて初めて、「うた」もその場にゆくりなく宿ってゆく。前回ほどいてみた「カバー」ということもまた、オリジナルの元の楽曲の別のヴァージョンというだけでなく、それらが元の楽曲が宿っていた時代や情報環境とはまるで違う〈いま・ここ〉にまた、その都度新たに「うた」として宿ってゆくということになる。その意味で、「うた」のヴァージョンとは、実はそれが耳にされるたびに常に更新され、それぞれの場で新たな現在として立ち上がり続けるものではあるらしい。*2

 とは言え、さはさりながら、それでも「うた」は言葉である。少なくとも、いまの自分たちにとっての感覚と、それに依拠した「そういうもの」という水準では。ただ、同時にそれが本当に普遍的な感覚なのかというと、どうやらかなりあやしくなってくる。

 たとえば、これは少し前から気づかされていて、自戒していることでもあるのだが、いまどきの若い衆世代、少なくとも20代から下くらいの人がたにとっては、「うた」とは必ずしもそのように言葉が最も前景にあるものでもなくなっているのが、むしろ普通の感覚ですらあるらしい。

 どんな楽曲でもいい、流行りのJポップであれアニソンであれ、いずれそこに歌詞として言葉が含まれている音楽の、その歌詞に耳が合焦しない。自ら好きといい、ダウンロードをしてスマホに入れて持ち歩いては繰り返し聴き、あまつさえこのCDがほぼ売れなくなっているご時世になお、ブツとしてのCDを買い求めて手もとに置いてあるような贔屓の歌手やバンドの楽曲であっても、そこに歌われている言葉としての歌詞を意識して聴いたことはほとんどなかった、とうっかり白状した学生若い衆に遭遇したのは、今からもう10年ほど前のこと。歌詞を糸口にしてある楽曲を語ろうとするこちらの言葉に耳傾けていた果てに、「なるほどねえ、彼ら、そんな意味の歌を歌ってたんですねえ」と表明した素直な驚き方に、こちらは違う意味で驚かされた。楽曲を構成している「音楽」としての要素、メロディなり、リズムなり、ビートなり何なり、そういう狭義の「音」と地続きに歌詞の言葉は聞こえているし、それ以上でも以下でもない――かいつまんで言えば、そういうことらしかった。同じくその頃、突出して現象化してきていたアニメの声優にだけ自身のフェティッシュを鋭敏化させてゆくような性癖などと共に、いまどき若い衆世代の五感のまとまり方とその結果否応なく現前しているらしい生身のありかた、身体性の現在を眼前の問いとして痛切に思い知らされた次第。

 しかし、そういう意味でなら、自分たちもかつて「洋楽」と呼ばれる音楽に初めて接した時、英語なりフランス語なり、いずれ「外国語」としてそこに含まれている母語の日本語ではない言葉によって発声されている歌詞の中身を理解できないまま、それらを音として、「音楽」の要素としてフラットに聴いていた。そんな中から、辞書をめくってそこで歌われている歌詞の意味を探る者も出てきたけれども、でもその一方、大方はそんなこととは関係なく、それでも、やれビートルズがどうのJBがこうのと、あれこれ能書きを言いあうくらいには素朴にそれら「洋楽」を楽しんではいた。まして、言葉による歌詞の介在しないジャズやクラシックなどになると、そのような言葉に耳が合焦することもなかったから、まずそこにある「音」だけを生一本で受容することにならざるを得なかった。戦前の旧制高校生などに代表される「教養」としての「音楽」にまずクラシックがあげられていたのは、それが学校教育としての「正しい」音楽とされていたからだけでなく、同時にそれが言葉が介在しない、しかも母語として即座に耳が合焦してゆき、いきおい意味がそこに生じてくるような聴き方をしなくてすむ、そんな種類の音楽だったからという面もあったのではないか。逆に言えば、母語としての日本語が即座に介在し、それに伴う意味の場が生成されてしまうような空間は「通俗」であり、それら「教養」が宿るべき場所ではないという、当時の生活文化的な文脈による棲み分けによるものだったということでもあるのだろう。

 歌詞という形であれ何であれ、楽曲を構成している「音楽」としての要素に、言葉が含まれるか含まれないか、どうやらそれは音楽を聴いて楽しむ上で、何も本質的で普遍的なものではないらしい。とすれば、音楽を聴く時にそこに含まれている歌詞、言葉の要素にまず耳が、意識が合焦してしまうような今のわれわれの習い性こそ、広い意味での言葉にあらかじめ縛られたものであり、むしろそちらこそが人間の本性、本質からすると、例外的で少数派なのかも知れない。



 「うた」と言葉の関係。殊に、その「うた」に関わってくる言葉が文字や活字であるのか、それとも生身を介した肉声という意味での「声」であるのか、その間におそらく孕まれ、埋め込まれている亀裂のようなもの。「うた」を考えようとする時に、考えるこちら側の生身に常に問いかけてくるおそらくは言葉の向こう側、この生身の昏がりに滞っている何ものかの気配の拠って来たる場所。

 たとえば、自分ごととして振り返ってみれば、「詩」と「短歌」がわからないという感覚がずっとあった。今でもある。これはもう拭い難いもので、いまさらどうしようもないらしい。だがしかし、これらも共に「うた」ではあるはずなのだ。だとすれば、詩や短歌がわからないということは、自分には「うた」がわからない、ということになるではないか。「うた」の宿らぬ生身のつづる言葉に、この世のほんとの広がりは見通せない。

 もの書きの肩書きに「詩人」というのもあった。いつの頃からか廃れた。少なくとも恥ずかしくて自ら名乗ることがはばかられるようになった。いや、そもそもその「詩」自体、恥ずかしいものになって久しい。最近では「ポエム」などとまで言い換えられ、ただ揶揄、嘲笑されるべきものにまでなっている。それが「うた」でもあったような境遇からすでにはるか遠く、「ポエム」にまで落魄した「詩」は、すでに21世紀のわれら同胞のことばの作法の裡に、その居場所を失っているかに見える。

 そのような「詩」とは、少し前までまだその姿かたちが見えていた頃までは、概ね口語の自由詩であり、時にその延長線上の散文詩でもあるようなものだった。思えば「短歌」もまた「和歌」と呼ばれて、「俳句」や「川柳」などとひとくくりに「五・七・五」「五・七・五・七・七」といった定型だけを暗記させられ、教室の机の上を「そういうもの」として通り過ぎるものだった。戦後の学校教育の文脈で取り上げられる「詩」とは概ねそんなものであり、散文による表現の代表として理解されていったらしい「小説」と共に、広い意味での「文学」として合切袋に放り込まれ、「国語」というさらに大きな箱の中に詰め合わせになっていた。そこに「うた」の居場所はなかった。

 学校教育での「うた」は、「音楽」という別の箱に納められていた。それは「唱歌」であり、言葉を楽曲のしらべに乗せて発声し、「歌う」ことを課せられていた。「唱」の文字に込められていたものは、そのように「人に先立って」声に出し、節をつけて歌うことだった。学校における音楽教育の来歴をあれこれひもといてみると、もとは当時の欧米、殊にアメリカの流儀で「音」そのもの、人間の音声のみならず自然天然にある「音」まで視野に入れ、それらの「感情」「情操」への影響などにまでお堅く真面目に考えていたようなのだが、しかし、ここでもわれら凡俗の理解の中心はなぜか「歌詞」であり、あらかじめ文字として与えられた言葉を間違いなく教えられた通りに「歌う」ことが自明の目的になっていったようだ。なので、ここ「音楽」においても「うた」は、本邦の世間にそれまであったかたちに沿った居場所を安堵されないままだったことになる。

「様々な音楽の効力は、「徳性の涵養」というただひとつの目標に収斂されてしまった。その理念を実現するための唱歌教育とは、音あるいは音楽よりも、歌詞の意味内容の伝達に重点を置くものではなかっただろうか。新しい音楽を創るという強い決意のもとで始められた唱歌創作において、音楽が決してなおざりにされたという意味ではないが、少なくとも音楽はことばの意味を運ぶ乗り物のような役割しか担っていなかったと言える。響きとしての音楽自体が人間の感情に喚起させる感動、「人心に感動力を発せしむ」という伊沢や目賀田の音楽観は完全に姿を消してしまっている。(…)こうした歌詞のみへの関心は、明治20年代から盛んになる、俗楽一掃の手段として唱歌を利用しようとする動きと表裏一体であり、俗楽への非難も、やはり歌詞の卑俗さに集中しているのである。」
(石田陽子「唱歌教育と童謡復興運動にみる初等科音楽教育への提言についての一考察」 2007年)

 文字や活字と、生身の肉声と、言葉のまとまりがそれぞれに引き裂かれてゆく中、「うた」もまた、それが本来宿っていた場所であるはずの生身の〈リアル〉から引き剥がされ、ひからびた標本のように水気も色気も枯れていったらしい。

*1:「うた」と「うたう」の現在 - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/10/01/000000

*2:「カバー」ということ - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/2020/11/01/093855

「カバー」ということ

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 「カバー」という言い方がある。特に音楽の、個々のうたや楽曲について言われるようになった印象ではある。元のうたや楽曲があって、それを元の歌い手やバンドとは別の人が歌ったり演奏したりする、そのことをさして言う言い方ではある、一応のところは。辞書的な間尺で言えば、主に流行歌や商品音楽、つまり著作権が「オリジナル」設定と共に確定され、保証されているような種類の楽曲、およびそれらジャンルの音楽に対して、この「カバー」というもの言いは最もなじむものになっているらしい。著作権やら何やらが意識されるようになってのこと、といった社会的背景などもあるのだろう。

 だが、この「カバー」、いわゆるクラシックではこういう言い方はされていないように見えるし、ジャズなどでも同様、せいぜいが「バージョン」という言い方で語られているように思う。同じ楽曲でも演奏者が違う、あるいは演奏日時が異なる、だから解釈その他も違ってきている、そのバージョンといった意味で。どうやら何かが微妙に違うらしい。

 「カバー」というもの言いに対しては、その対極に「オリジナル」というものが想定されている。ある種の原点、基準としての「オリジナル」が確固として存在する、だからこそそれに対する「カバー」なわけだが、とは言え、それは少し前まであったような「ほんもの」と「にせもの」あるいは「コピー」といった、かのベンヤミン流の図式そのままで理解されていいようなものでもなくなっていることも、また確かなようだ。

 それが証拠に、最近ではそれら「カバー」もまた「オリジナル」である、少なくともそういう感覚で楽曲に接する楽しみ方も新たな音楽の消費のされ方として受け入れられてきているように見える。元が、「オリジナル」が何であれ、自分が〈いま・ここ〉で接した楽曲なり作品なりがいいと感じられ、好ましいものならばそれでいい、「コピー」だから「にせもの」だから、といった背景の文脈や来歴についての説明の類は、とりあえず関係ない――そういう消費者としての潔さが、少し前までよりもずっと一般的になってきているようなのだ。そして音楽であれ何であれ、いずれ商品として日常に流通するようになっている文化コンテンツ(イヤなもの言いだが)に対する感覚にそのような風通しの良さがあたりまえに備わってきていることは、とりあえずいいことではあると思う。



 かつては「和製●●」という言い方もあった。いわゆる洋もの、「本場もの」のある意味「コピー」であり、日本人と日本語ベースの国内市場向けにアレンジされたバージョンを称しての冠つき話法。音楽に限らず「和製ベーブ・ルース」「和製ジェームス・ディーン」「和製ピカソ」など割と広く使われるようにもなっていた。あれも考えたら、「オリジナル」な「ほんもの」である「本場もの」に対する「にせもの」「コピー」という図式前提のもの言いになるだろう。ならば、その「にせもの」を当時の〈いま・ここ〉で楽しんでいたその頃の世間の感覚というのは、いまどきの「カバー」をそのものとして屈託なく楽しむようになっている昨今の気分とさて、同じものなのか、それともそうでないのか。

 たとえば、江利チエミの「テネシー・ワルツ」や、中尾ミエの「可愛いベイビー」、弘田三枝子の「夢見るシャンソン人形」……それら昭和20年代後半から30年代にかけて、日本語の訳詞を介して歌われた「本場もの」の楽曲たちは、それまで耳慣れなかった音楽をひとくくりに「ジャズ」と片づけ、同じ箱に放り込んでひとまず理解しようとしていたわれらニッポン人その他おおぜいにとって、その耳慣れなさを身近に感じてなじんでゆく過程で大きな役割を果たしたと言われている。それらも今で言えば「カバー」であるし、また実際、最近ではそれらの楽曲は「カバー」と普通に理解されているようだ。

 それらは後に、「和製ポップス」などと呼ばれるようにもなったが、その定義もかなりあいまいなまま、ジャンルの呼称としても定着しなかったし、まして個々の楽曲についてそのような呼ばれ方がされることはなかったように思う。「和製●●」と称され得たのは当時、主に歌手でありプレイヤーであり、いずれそれら生身の個性を伴った上演者の側だったわけで、彼らの歌う楽曲や披露する演技の類に直接、その冠がつけられることはまずなかったのではないか、当時の世間の感覚として。

 ということは、具体的な個性を伴う生身の形象、言い方を変えれば見てくれが優先される視覚的な部分については「ほんもの」と「にせもの」の区別が良くも悪くも色濃く伴ってきて、だからこそ「和製」という翻訳感のようなものが強調されてその「にせもの」性を裏返しに補填してもいたのに対して、そうでない部分、たとえば歌われる楽曲自体については、そのような区別はそれほど意識されなかったのかも知れない。なるほどそれは、いまどきの「カバー」をそのものとして、そういう解釈による「オリジナル」として楽しむことのできるいまどきの耳の習慣、音楽に対する聴き方の習い性ともどこか通じているとも言えるし、また、耳を介して入ってくる楽曲のうち、歌詞という「言葉」の要素以外の音そのものの領域に対するわれわれの受け取り方、受容の仕方について、「民俗」レベルも含めたところで立ち止まって考えておくべき何ものかを示しているように思う。

 落語で考えてみよう。古典落語は誰がどう上演しても「古典」であり、あるのは志ん生の貧乏長屋、米朝の親子茶屋であって、それをいちいち「バージョン」などと言わずとも受け入れられている。歌舞伎も同じ。あたりまえだ。演目演題は「古典」で基本変わらない(と認識されている)もので、それを演じる演者が違い、だから生身の個性が異なり、だから解釈や表現が違う。そこに〈いま・ここ〉の表現としてのかけがえなさがあるし、その意味でそれらは常に「オリジナル」でしかないとも言える。人間の関与する表現にとっての「上演」と〈いま・ここ〉の関係、関数というのはいかに時代が変われど、本質的にはそういうものだろう。

 この場合、「古典」は「オリジナル」としてあるのではない。「オリジナル」でないから「カバー」という言い方も成り立たない。なぜだろう。「古典」は、それらを上演する生身の個性を伴った演者の属性と紐付けられていない、だからそれ自体としては、表現として成り立たない。〈いま・ここ〉に生きている生身の個性伴った演者を介して初めて、それら「古典」は〈いま・ここ〉での「オリジナル」になり得るし、その時間と空間の交叉する領域が解消されれば、それはまた〈いま・ここ〉との関係も解かれた「古典」に戻る。このあたりはいまどきの電子化された情報環境における「クラウド」のあり方、オンデマンドでのダウンロードなどとの関係から、さらに敢えて大風呂敷を広げるならば、本邦「民俗」レベルでのカミとの関係などにももしかしたら関わってくるかも知れないと思っているが、まあ、それはひとまず措いておくとして。



 「木綿のハンカチーフ」という楽曲がある。言うまでもない、筒美京平松本隆という、ある意味本邦の商品音楽、通俗歌謡曲としての黄金コンビによる1975年の楽曲……といったことを書き綴っていたら、筒美京平の訃報が飛び込んできたから、ああ、時代というのはこういう配慮、縁のとりもち方をしてくれるものだな、と嘆息した。


★木綿のハンカチーフ★ 大田裕美/1975年(S50)

 この「木綿のハンカチーフ」、元の太田裕美ではなく、2002年に椎名林檎のカバーがあって、これはカバー曲でまとめた彼女のアルバムの中に1曲あしらわれていたのだが、やはり図抜けて印象深かったのだろう、この曲だけでそれなりに話題になったから覚えている向きも多かろう。まるで別の曲、いや、それはアレンジがどうとか編曲がこうとかでなく、もちろんそれらもあるにせよ、それら音楽そのものとしての要素よりもさらに前面に「うた」としての〈リアル〉のかけがえなさが突出して自己主張していた、そのさまによって鮮烈だった。

 70年代半ば、まだ「マチ」と「イナカ」の違いが否応なく現実の〈いま・ここ〉に織り込まれていた状況で、その違いを確かな足場に創作表現の成り立ちが輪郭をくっきりすることができた、その証明となったような楽曲だったのものが、それから四半世紀ほどたった後、それら前提となる足場がほぼ煮崩れてゆき、大衆消費のしかけのコモディティ化過程に呑み込まれる流れがほぼ全国的に均質に掩うようになっていた状況で、椎名林檎(と松崎ナオ)の生身を介した「うた」がうっかり導き出した〈リアル〉というのは、間違いなく〈いま・ここ〉と「オリジナル」の本質をその身に実装した「カバー」の本領だったと思う。「カバー」というもの言いに、ああ、こういう〈いま・ここ〉の「オリジナル」としての内実を宿すことが可能である証明。同じような鮮烈さは、例によっての半径身の丈極私的な体験で恐縮だが、シュガーの「ウエディング・ベル」を PUFFY がカバーしたバージョンにも感じたものだ。


Puffy AmiYumi - Wedding Bells ( Konkatsu! theme song ) Live

 ある種のクラシックやジャズなど、言葉を介した「うた」の要素のとりあえずないような音楽の場合は、こういう角度からの「カバー」の鮮烈さというのは、まず感じられないのではないだろうか。いや、これには当然異論百出だろうが、ただ、言葉と肉声を介した「うた」の要素が、その楽曲を組み立てている重要な位置を占めているからこそ、聴き手のこちら側にそのような鮮烈さを与えてくるという事情は、言葉とわれら人間との抜き差しならぬ関係を思えば、やはりどこかにあるのだろう。「うた」と言葉、そしてそれらを仲介する生身のこの個体との関係というのが、どうやらここで漠然と固執しようとしている「うた」の内実に合焦しようとする時のひとつ、とりあえずの補助線になってゆくらしい。せっかくなのでこのへん、もう少し立ち止まって手もとの日々のお題にしておきたい。

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