作家の音読と朗読、「読む」と「書く」の関係


 いわゆる作家が自分の書いた作品を同人誌の仲間に披露する時、自ら原稿を朗読する習慣が、かつてあたりまえにあり、そしてそれはずいぶん後まであったらしいことは、以前も何度か触れました。それは小説であっても、それこそ流行歌の歌詞においても、それが「作者」と「作品」という組み合わせで、ある特別な意味を附与されている限りは同様だったらしいこと、さらに、それは詩や短歌など、広義の「うた」にまつわる「民俗」レベルも含めた何らかの「そういうもの」という認識の上のことだったらしいことも。

 今のように黙読があたりまえになる以前、「読む」には音読が伴うもので、明治以降の近代の過程でそれが黙読へと移り変わっていった――これはもう、広く共有されている知見だと思います。そして、かつてあたりまえだった音読は、それを「聴く」耳のリテラシーを介して社会性・共同性を組織するものであり、黙読へと移行してゆく過程でそこから社会性が引き剥がされ、自省的な「個」の内面を伴う自意識が晶出されてくるようになった、というあたりもまた、本邦の近代の来歴を考える上で共有されている理解でしょう。たとえば、こんな具合に。

 「こうした吟誦は学校、寮、寄宿舎などの共同体で集団的に享受され、連帯意識の高揚に役立っていたと考えられる。文章を暗記し、人前に披露する吟誦は音読のさらに一歩進んだ形であり、唄に近い性質を持っている。実際、土佐自由民権運動では土佐民権唄という唄も存在しており、吟誦と唄は同様の目的で享受されていた。」(森洋久「明治の声の文化」、木下直之吉見俊哉・編『ニュースの誕生』所収、東京大学出版会、1999年)

 音読には、近世以来の漢語・漢文脈での素読など、教育的な意味あいから、「人前に披露する」というある種芸能的な「関係」と「場」に向かう目的までも身体技法として引き受けてゆく幅があり、その限りで「唄」にもなだらかに連なってゆくところがあった。「吟」も「誦」もそのような文脈で、あらかじめ音読に含まれ得る要素、属性でもあったということになりますし、この場でずっとこだわっているような意味での「うた」もまた、それら全てをゆるやかに包摂したものとして考えようとしています。

 ただ、それでもなお、まだよく見えてこないところはある。

 たとえば、作者がその原稿を雑誌なり単行本なりの担当編集者との間でやりとりする場合は、相手に単に紙媒体を手渡すだけで、その場で原稿を朗読して見せたといった挿話は、あまり見かけたことがない。もちろん、これはこちらが不勉強、本邦「文学」と呼ばれてきた領分の広大無辺で茫洋とした蓄積の、そのごくごく一端を、それも好き放題勝手次第にあれこれ千鳥足でつまみ喰いしてきただけの身の上ゆえの、単なるもの知らずであるかも知れないことを十二分に踏まえた上でのこと、ではあるのですが、それにしても、音読から黙読へという過程が近年、分野を越えた本邦近代の来歴にまつわる問いとして共有され、またそれに伴う仕事も着実に蓄積されてきているらしい中、「読む」と「書く」、そして「聴く」と「話す」も含めた、生身の身体を足場にした「関係」と「場」におけるそれら身体技法の「まるごと」のありようについての、可能性も含めた問いの補助線は、未だ十分に引かれているとは言えないようです。

 例によってのささやかな挿話から、敢えてまた立ち止まってみます。

 明治10年代末、巌谷小波は早熟で、10代半ばですでに湯島聖堂の中にあった帝国図書館に入り浸って手当たり次第に濫読していたそうです。「読む」という作法における黙読の習慣があたりまえになってゆく、未だその揺籃期だった当時、世間ではまだ音読が一般的だったはずですが、ならば、そこでの彼は、果して黙読の習慣をすでにどのようにつけていたのか。

 「我が国最初の官立図書館として明治五年に湯島聖堂内に開設された書籍館では、雑談と音読が禁止された。開設当初からの「書籍館書冊借覧人規則」には「館内ニ於テ高声雑談不相成者無論看書中発声誦読スルヲ禁ズ」とある。そして、その後に開館したすべての図書館に音読禁止の規則は受けつがれていった。 しかし、音読に馴染んだ学生が黙読することは難しかったようで、音読の違反に対して、徹底した取締りを行う図書館もあった。実際、音読規制があるということは、逆に音読の文化がいかに大きかったかを示していると言えよう。」

 同じくその時期、彼は手すさびの創作を試み始めていて、草稿も残っているのですが、ならばそれを「書く」段においては、自ら音読しながら書いていたのだろうか。むろん、朗々と詠じるようなものではなかったにせよ、その頃の世間一般その他おおぜいのように、脳裏に浮ぶ文言を口もとで低く唱えつつ書いていたりはしなかったか。図書館という、黙読の習慣を世に先駈けて根づかせようとしていた当時最先端の施設において、その場にふさわしい身ぶりとしての黙読を励行し、またある程度習慣化していたとしても、同時に幼い頃から寄宿制の漢学塾をいくつか転々とし、近世以来の素読から始める音読主体の教育を受けていた彼の生身の裡にすでに始まっていただろう「読む」の分裂が、「書く」の側にもさて、どれくらい対応し、反映されていたものだろうか。

 その小波はまた同じ頃、人目に触れては困るような内容のことを兄に手紙で伝える際、ローマ字で書いたという挿話が伝えられています。これも時期的には、ローマ字による日本語表記の運動が立ち上がったそのごく最初、まさに黎明期にあたり、10代の彼がその頃からローマ字による表現を自然に試みていたことは、後年、作家として本格的に活躍してゆく中でも積極的にローマ字表記への関心を示していたことなどを考えあわせても、その非常に早かったことに驚きますが、ただ、そこでの「書く」は、同時にその書かれたものに対して想定されていただろう「読む」も含めて、当時まだあたりまえだった音読を介したものとはちょっと考えにくい。

 ローマ字による日記ということならば、少し後の石川啄木のものはすでに有名ですし、また考察や分析その他も汗牛充棟の感がありますが、あれもまた、「日記」という個人の内面との照応によって成り立つような形式の表現において、しかも性的生活も含めた内的日常を記録するという極めて私的な領域に関わる内容ゆえに選ばれたもののはずで、「書く」段でも、またそれを「読む」際においても、啄木が音読を想定していたとは思えません。なぜなら、音読されてその「場」で聴かれることを想定していたら、そこで秘匿されるべき中身が露わになってしまう。「日記」という形式自体、黙読の習慣がある程度浸透していた情報環境を担保にして成り立っていった、と考えていいでしょう。


●●
 小波にとっての「書く」という身体技法のありようは、昨今の「読み聞かせ」にまで連なるとも評価される、彼の「お伽噺」「口演童話」との関係を補助線にして考えると、作家による原稿の音読の習慣に関する問いにもヒントを与えてくれるように思えます。

 彼も若手として加わっていた硯友社は、いわゆる同人誌の始まりともされる「我楽多文庫」をつくったことでも知られますが、その体裁はどのようなものだったか。


 「詩、俳諧、短歌など、一首一類に偏することなく、およそ文筆の技に属するものは全て網羅し、小説、戯曲、詩歌、都々逸、川柳、冠付けに至るまで、遍く同好の士を集め、隔月に1回これを雑誌形式のものに編集して投稿者同士回覧し、(…)回覧の際は、どんな批評も勝手ということに決まった。」(巌谷大四『波の跫音――巌谷小波伝』、新潮選書、1974年)

 「文筆の技」とくくられていますが、要は当時の彼ら若い世代が新たに手にした「文学」という西欧由来の解釈枠で、身のまわりにある言語表現を個々のたてつけの違いを越えて得手勝手に、それこそ何でもありに試み、束ねることにした、そしてそれを「雑誌」というこれもまた当時新たな紙媒体の形式に盛り合わせ、互いに「回覧」し「批評」しあうことにした、ということでしょう。ならばさて、そこでの作品はどのような過程を踏んで、紙媒体の上に形にされていったのか。後の同人誌などで普通になったらしい原稿の音読、朗読を編集の席上行なうといった作法は、果して「我楽多文庫」の段階で、すでにあり得たのか。

 このあたりは、書き手によるところもあったようではあります。明治の硯友社「我楽多文庫」の時代からはだいぶ下りますが、たとえば吉行淳之介あたりになると、こんなことを言っている。

 「神田小川町の目黒書店ビルの屋根裏部屋に行ってみると、数人の眉目秀麗な青年たちが、意気軒昂とした態度でたむろしていた。彼らは、屋根裏の天才と自称し、ほとんどそう信じている様子にみえた。(…)同人の原稿の採否は、屋根裏部屋での朗読によって決定された。自分の原稿を朗読することは、私にはくすぐったい気持がつきまとったが、他の同人たちはむしろ気負って朗読していた。もっとも、それが最も簡便な方法に違いない。」(吉行淳之介『私の文学放浪』、講談社、1965年)

 昭和21年のおそらくは始め頃、当時の『世代』の編集会議の場でのこと。彼らは同時に「懇談会」と称して読者との相互関係を意識的に設定していましたが、それは同人誌の「合評会」をさらに開いたものにしようという意図だったようです。

 「集まった原稿を前にして、その採否を討議する編集会議も同様である。そこではそれぞれの読書目録を背景として、話芸と討論の技巧が優劣を決める。場数を踏み、社交性に富んだ都会秀才は、そうした場面で圧倒的強みを発揮する。逆に頭の回転ののろい口下手な田舎者は、それだけで圧倒され気おくれのために自信を喪失し、また内心反撥する。」(粕谷一希『二十歳にして心朽ちたり』、新潮社、1980年)

 その誌面に掲載するものは、創作だけでなく、翻訳であっても朗読して披露されることになっていたようです。

 「あるとき、ラモン・フェルナンデスの翻訳の朗読がおわり、一瞬座が静かになり、いいだ・ももが発言する気配になった。彼の発言は、一種ご託宣のおもむきがあった。開口一番、彼はこういった。「誤訳はないようだね」 私はおもわず笑ったが、同時にうーむとうなる心持だった。」(吉行、前掲書)

 こういう「場」、それを編制している「関係」とは、果して何か。素朴に、たとえば大学のゼミ、演習の「場」に親しいもののようにも見えますし、あるいは、カラオケルームでの親しい関係の「場」のようにも思えます。いずれにせよ、その限りである種の権力構造が内包されていることもわかる。ならば、明治の「我楽多文庫」の編集の「場」は、果してどうだったのか。当時としては明らかに恵まれたごくひと握りのエリート層の子弟たちであることは、社会的な文脈においては同じでも、「作者」が「作品」を音読、朗読して「みせる」ことが自明に「そういうもの」として成り立っていた背景にも、すでに何らかの歴史的過程、「民俗」レベルも含めた生身の身体性とからんだ「まるごと」の来歴もまた、あたりまえに隠されているはずです。


●●●

 「印刷の発達によって語り部たちはつぎつぎと世に躍り出た。円朝の語りが速記に写しとられ、さらに印刷で「高座」を読むことができるようになった。その円朝の語りを評価した坪内逍遙は小説の新たな理論を打ち立て、新潮流をもたらそうとした。その逍遙に傾倒する二葉亭四迷が世に問うた『浮雲』に連動するがごとく、賤子の『小公子』が誕生したのである。かくして出版物が影武者のように語り部となって読者のもとに参上することになるのである。賤子の『小公子』を逍遙がつぎのように認めたのは「伝達」のメディアを考えた場合、また意を尽すという言語確立の時代の流れの中でとらえた場合、必然の動向であった。」(高橋康雄「子どもへの眼差し――若松賤子『小公子』」、『冒険と涙――〈童話以前〉』所収、北宋社、1999年。)

 早逝したものの、その残された仕事の可能性は、その後の情報環境と言語空間においてその豊穣が改めて証明される高橋康雄の炯眼。女性の語り文体が後の「童話」へ連なっている可能性について言及された一節ですが、「言文一致」の時代の情報環境において、立体的かつ複合的なメディア相互の関係や、読み手を介した「読み」の「場」の浸透なども含めて、すでに視野に入っています。

 このような「おはなし」を主眼とした語りもの文芸を見ようとする際、まずその「語り」という部分に対するパースペクティヴが方法意識と共にある程度しっかりと輪郭確かなものになっていないことには、旧来の文学研究、とりわけ文学史や文芸批評といったたてつけを介したもの言いの、茫漠とした分厚い蓄積の側に容易にからめとられることになりますが、高橋はそうはならない。

 「福澤はその口調をそらんじ、これに倣って全編を七字五字の体裁に綴ったので、初学の児童にも朗誦しやすく、非常な歓迎を受けて夥しい売れ行きを示し、そのうちに一種のメロディが生まれ、子守唄にまで謡われるようになったという。そのメロディが後に軍歌調の濫觴となったと伝えられている。またこの書の売れ行きの盛んなのに着眼した書肆が、この口調を模倣した「何々づくし」「何々往来」と題する類書を夥しく出版し、七五調の口誦本の流行を生じ、それがやがて明治十四年頃の新體詩出現の素地を成したと見られている。」

 彼は巌谷小波を評価するに際して、子どもの記憶に利するために七五調を、講談などの語りもの文芸の文体や話法を積極的に取り入れたと言います。つまり、語りものは記憶のために有利な形式であり、そのように語ることは今日のわれわれが前提とする「記録」とはまた別の「記憶」が、人々の社会性を編み上げる際の重要な紐帯になっていた情報環境のことを思い起こさせてくれます。

 また、この「記憶」というのは、「写実」「写生」とも親しいものだったらしい。「記憶」による備忘の仕方には、細部の個別具体の正確さや実証性などへの配慮は二次的なものとして後景化している代わりに、「記憶」という備忘の仕方に独自に属している定型としてのたてつけの裡に宿る個別具体が、必然的に前景化されます。加えて、さらにそれら個別具体がそのまま、眼前の実体と重ね合わされるものでもなく、定型としてのたてつけの裡にある〈リアル〉を立ち上げてゆくための、言わば触媒のような役割を与えられて初めて、そこにあるような形をとります。

 たとえば、犬が二匹、という個別具体とおぼしき描写があったとしても、それは個体の犬が二匹いるという「事実」としてよりも、「おはなし」の裡で立ち上がるイメージとしての犬二匹という色合いが濃いものになる。その眼前の犬二匹がそれぞれどれくらいの大きさなのか、オスなのかメスなのか、毛色はどんなものか、黒いのか茶色いのか、それともブチか、毛足は長いのか短いのか、顔つきはどんな感じか、など、眼前の犬の個別具体の特徴その他は現実にあったとしても、その描写に接する側、読み手の裡に〈リアル〉の立ち上がる最初の水準はあくまでも「おはなし」であり、その限りでの定型としてのたてつけと、それに対応することばを介した舞台であるはずです。例によってまた面倒なことを言っているようですが、このように生身の裡に〈リアル〉が実際に立ち上がってゆくであろう過程と経緯について、しつこく立ち止まりながら確認してゆく作業は、われらの裡の「うた」の原初的発生地点を探ってゆく上で必要であり、また重要です。

 絵画の「スケッチ」「写生」についても、おそらく事情は同様でしょう。眼前の事物をそのものとして紙の上に描き出すことは、眼に映ずる事物をそのものとして見る以前に何らかの定型、それゆえに「おはなし」に収斂してゆくようなフォーマットを介してまず見る訓練を日常からしてきたであろう当時の多くの人々の意識にとっては、眼前の事物の「写生」とは、それらすでに自身の裡にインストールされている「おはなし」ベースのフォーマットをあらかじめカッコにくくって機能停止させねばならなかったはずです。その意味で、それは異文化理解の際の手続きに等しいものだったでしょう。文字よりも絵が、いまどきのもの言いでいうなら「ビジュアル」が、より具体的に「見える」分、想像力を刺激したという事情もあるにせよ、生身の身体の裡に宿る何らかのものの、その初発のありようというのを改めてことばにして取扱可能な形にしようとすることは、かように手仕事的な迂遠を必然として求めてくるもののようです。

「団塊の世代」と「全共闘」㉝ ――本で人生は変わり得る、か


 実は最近、本が読みたくなくてしょうがないんだよ。このところ母親の面倒を見たり、忙しかったりしているから余計にそうなってるんだろうが、でも、そんな中でも特に小説は読みたくない。するすると頭に入って面白いものはないかなと思って、あ、そうだと思いついたのが、足立巻一の『やちまた』。この間から読み出して、少しずつしか読まないんだけど、これが楽しくてねえ。

――呉智英さんから足立巻一の名前が出てくるのは、やっぱりと思うと同時に、なんかうれしいですね。あたしなんかは立川文庫の研究の方でよく知っている人ですが。大学の講座の○○学といった枠組みとは別に自生してきた民間の知性、のひとりですよね。まあ、作家ですから当たり前なんでしょうけど。

 できれば何もしないでこれだけ読んで人生を終わったらいいな、なんて思わせられるね。三十一年前に出ている本だけど、でも、気をつけないと、人生を誤らせる。私がこういう評論の道に入ったのは、この本のせいだよ。当時からプロ筋ではものすごく評判がよかった。でも、私が編集者なんかに「何か面白い本ないですか」と言われれば勧めるんだけど、それから少しして会って「どうだった?」と聞くと、たいてい、いやー、と生返事が返ってくる。うっかり感動してしまったらえらいことになる、というか、だいたい感動できないらしいんだな。でもね、これを読んで面白いと思えるような人はそれだけで異常な人だと思うよ。

 いくつかの話が縦糸に三つぐらいあって、そこに横糸が織りなすように進行していく。だから、なまじ学者の本より難しい。しかも文法学の本だから、「江戸時代に文法学?」と、普通の人は五ページ読んだら投げるだろうね。でも、私的にはサプライズで、舞台が三重から静岡まで、それこそ松坂辺りから環伊勢湾的に、だいたい静岡の辺までつながっているから、学者があちこち行ったり、子供が病気になって医者に連れていったとか出てくると、余計面白い。

 著者はもともとはビデオ系のジャーナリストだ。どこかのテレビ局か映画制作会社で飯を食いながら本を書いていた。こんな作品が書ける人は今いないよ。素養がないと書けないんだから。で、そういうものが書ける人がない。若い人にはもうこういう素養がないからね。それはとても寂しいことだと思う。

 大正の初め頃の生まれで、これを書いた時点で六一歳、八十歳になるかならないかで亡くなっている。これは彼の集大成、つまりこれを書くために生まれてきたような人なわけだ。『立川文庫の英雄たち』、『夕刊流星号』、『虹滅記』、みんな名著なのだが、『やちまた』は名著ではない。そういうものを超えた異常な本なんだよ。ところが、もう絶版になって久しい。こういう本が評価されるのは、芥川賞直木賞じゃなくて、基本的に大佛賞、毎日出版文化賞で、これは芸術選賞なんだね。一冊の本が、人生を変えるメディアになり得たんだから。

――本で人生が変わる、というもの言いも久しぶりに聞いたような気がします。これもう、今やギャグにしか聞こえないというのも、考えたら情けない話なわけで。

 そういう意味じゃ、民俗学者の大月君におもねるわけじゃないけど、『月と不死』(東洋文庫)も面白いよ。ニコライ・ネフスキーは亡命ロシア人。一時民俗学で話題になったが、もう誰も興味を持たない。歴史に翻弄された人物というのはこういうものかなと思う。この本の解説を大きく書いたのが加藤九祚で、それを基にして『天の蛇』という伝記を書いた。

 沖縄とか民俗学に興味がある人には、今も面白いはずだけど、これも「知識人像」が見えていた時代の本だと思う。ネフスキーの面白さはというと、革命前のロシアの知識人の話なのだ。青年たちは理想を持ち、しかも自分の知識を社会に生かすのが役割だと思って頑張っている。そしてシベリアの小数民族の伝記などを研究し、民俗学的な関心で、次に日本に渡ってくる。日本の、たとえば北海道のアイヌの小説だとか、あとは沖縄/琉球だね。沖縄は特殊な神話、伝承があるから、その研究をやった。柳田國男らとも付き合いがあったしね。

 ところが一九一七年、ロシア革命が起こる。すると「先生方、申し訳ない。私はロシアに帰ります」と言い出す。「こんな混乱期に、ロシアに帰ってどうするつもりだ」、「いえ、われわれロシアの青年は、この革命を待ち望んでいたのです」と言って帰国するんだけど、結局は数年後には粛正にあって死刑になっちゃう。

 彼は日本で正式に結婚している。現地妻じゃない。その日本人の奥さんもその後子供を連れて向こうへ行き、殺されてしまう。その遺児はすでに八十いくつ。その人のインタビューも含めて、これはいい本だよ。天の蛇というのは沖縄の虹のことだけど、蛇が水神系だから、雨とも通じていて、また沖縄だからニライカナイ常世)の関係が出てくる。、一冊の本が人生を変えるメディアになり得た、そんな時代の一冊だと思うよ。

――あと、これは個人的な関心で聞くんですが、竹内好はどう見てましたか? あたし的にはかなり好きな人で、今のこういう状況でもっと読み直されていい人だと思ってるんですけど。

 竹内好は小説家ではないが中国文学者だね。右翼の人などは今、批判しているし、批判はもちろんあってもいい。しかし、こういう素養を持った知識人が、最近は思想家の中でも出てきていないのも確かだね。インターネットで資料を集めて、どういう資料があってと列挙することはできるが、この時代にそれを自分の中に組み込んで思想として再構築して唱えたというのは、やはり竹内たちだった。つまり、本と活字によって自己形成、知的構築みたいなものをゆっくりとしていった、そういうやり方しかなかった世代だったんだよ。


――そのネットに代表されるような、ここ十数年ほどの情報環境の変貌が、それまでも見えてきていた知性の世代間落差みたいなものを、より一層はっきりと際だたせていると思いますね。思いっきり図式的に言えば、いわゆる「おたく」の問題の使用前/使用後、という感じになるんですが。


 「おたく」は高度成長の「豊かさ」の中で育った世代のある部分に典型的に宿ったものであり、それは大きく言えばもちろん、近代化の過程でさまざまに転変を繰り返してきたニッポンの知識人のココロのありようとも連なっていて、その限りで歴史的な連続性の中にあるわけですけど、でも、と同時に、呉智英さんが今回もずっと説いてきているように、まさに「戦後」の、とりわけ高度成長の「豊かさ」のもたらした急速な大衆化ゆえに特化された特徴という、それ自体限定的な性格もあると思うんですよ。それが前世紀末、九十年代になってネット環境が出現して拡大してゆくと共に、「おたく」が成り立っていた文脈とはまた違う位相での大衆化が始まってゆく、と。いわゆる「教養」、文科系的な世界観自体その中で溶解してゆくわけで、「おたく」がそれ以降の新たな位相の大衆化によって出現し始めた新たな常民像みたいなものに包囲され、呑み込まれてゆく過程というのが、少なくとも前世紀末からこっちの状況だと見ています。これは唐突に聞こえるかも知れませんが、大学の解体、特に「教養」を支えていたさまざまな幻想が制度ごとバラバラにされていった過程は、そういう意味でかつてトンガっていた「おたく」のありようが、ネットの出現を媒介にした情報環境の変貌によってなめされて埋没していった風景と重なるんですよ。


 結局、ネットの普及によって情報処理は加速されたし、それこそそこらのシロウトでもそれまでとはケタ違いに効率的に検索できるようになったわけですけど、でも、その便利さをうまく使えるのはやはりそれまでの活字がドミナントな情報環境で知的形成をしてきた経験を持つ世代なわけで。最近よく言われるネット掲示板その他でのやりとりにしても、中核になってそのカルチュアを形成してきたのは明らかに活字世代のリテラシーですよ。それがここにきて携帯電話を介してネットにアクセスしてくる新たな若い世代が進出してきて、また違う意味でのディバイドが見え始めていると言われてます。


 ともあれ、活字がドミナントであった頃の、言わば自分が生きる速度で情報を血肉化してきたのがかつての知識人だったのが、今のこういう情報環境ではそのような知性の形成は良くも悪くももう望めないでよすね。単に活字世代、ネット世代、という図式的な分け方でなく、少なくともかつて知識人と言われていたような知性のありように連なるような自意識、自己形成がどういう条件、どういう環境であり得るのか、またもうあり得ないのか、というあたりを広く見渡した上での論議というのが必要だと思います。

「団塊の世代」と「全共闘」㉜ ――大江健三郎、高橋和巳

大江健三郎

――三島なんかとは格が違うとは思うんですが、未だに朝日新聞以下、後がなくなってるリベラル陣営の守護神というか貧乏神みたいになっている、大江健三郎はどうでしたか?

 大江健三郎は、私たちの頃は尊敬の対象ではなかったし、私も大江健三郎を読んで、一度として面白いと思ったことはない。

 ただし大江健三郎は、いま君も言ったように戦後の、今はもうほとんど崩れ果てかけている何ものかの、最後の拠り所にはなっている。何と言ってもノーベル賞をもらったのが大きかったんだと思うけどね。

――というか、それがほとんど全て、という認識なんですが、あたしなんかは。何より、大江の本を読んでいる人ってのを見たことがない。

 大江の本はどんどん売れなくなってきたんだよ。それは、本人もエッセーで書いてる。ある時期から、自分が新刊を書いても、昔なら三万とか五万とか売れたのに、最近では八千ぐらいしか売れない、と。ところがノーベル賞を取ってから、突然それが、二、三万ではあるけれど、売れるようになったらしいんだな。つまり、ノーベル賞を獲らなければ、彼は戦後の一時期少し人気があった作家、で終わっていたよ。

――そう思います。うっかりとっちまったから勘違いが増幅されたわけで。

 もしもノーベル賞を獲っていなければ、彼の講演料は五十万円程度だったはずだけど、それが今は百万円だ。でも私は、これをもってして大江はいけない、などと言う気はないよ。そんなことを言えば、欧米のノーベル賞作家、たとえばソルジェニーツィンなら、日本に呼んだとして百万じゃすまないと思うし。南米の『百年の孤独』のガルシア・マルケスが来たら、やっぱりギャラは百万どころではないだろう。だから大江の講演の相場の百万円に関してはおかしくないんだけど、ただね、それによって彼が生き延びてしまったのが残念なんだよ。ほんとに、彼の言っていることはどうでもいいことだけで、また、巷間よく言われもするけど、大江健三郎を引用して何かものを言ったら、それだけでバカにされるだろ。大江がこう言っている、などと引用して何か言おうものなら、それだけで「こいつはバカだ」にしかならないのに、その彼自身は生き延びている。それはまあ、無惨だよね。

 もう一つには、特に七○年代以降の、村上龍村上春樹などの新しい傾向の文学の流れがあるわけで、彼らは団塊後期から団塊の嵐が過ぎる頃の世代だけど、昔ながらの、それまでの教養としての文学とは全然違うところから出てきている。漱石、鴎外を読むとか、きちっと独文の教養小説を読むとか、ではない形で、戦後のアメリカ的な文化から出てきたわけだ。たとえば、小島信夫の『抱擁家族』(講談社、一九七○)が最後の私小説だと言われてるんだけど、実際谷崎賞を獲ったはいいけど、二百人ぐらい集まった授賞式の関係者で、その作品を実際に読んでいる人は一人もいないのではないか、と噂されるような代物になっちゃってるんだよね。

――まあ、ミもフタもなく言ってしまえば、文学自体がもうそういうものでしかなくなって久しいですからねえ。

king-biscuit.hatenablog.com

 かつて文学は、教養の代表だった。履歴書の趣味欄に堂々と「読書」と書けたし、恥ずかしくもなかった。そういう状況を前提とすれば、大江もまあ、権威であったわけだ。彼だけじゃない、石原慎太郎もそうだよ。石原慎太郎は、古い権威に対して対抗意識があった。それらに対する挑戦として、障子に男根を突き立てるような、「古い文学者、何するものぞ」と刀で斬りつけるような意識があったわけだ。

 でも、それがある時期から変わり出す。文学のパラダイムが変わり、小説は教養ではなくなってしまう。また、その頃から出てきた村上龍たちには、それを崩してやろうという意識もあまりないしね。

king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com

――いわゆる文学がその命脈が尽きてしまっても、なんというか、さしたる自覚もないままにうっかりと自意識を持った、持たされてしまった近代常民のその自意識のもだえ具合を吸収してゆくメディアというのは、どこにでもあり得たわけで。良くも悪くも日本の近代文学のある中核に位置してきたとされる私小説なんかまさにその典型で、それこそマンガでも音楽でも、ですよね。

king-biscuit.hatenablog.com
king-biscuit.hatenablog.com

 そうそう。面白いもので、そういう私小説的なメンタリティーは、私小説が消えるときに、生きた化石のようにマンガに残ったところがあるんだな。そのひとつがたとえば、つげ義春だ。つげの『無能の人』なんか典型的な私小説だよ。現に彼は、嘉村磯多や葛西善蔵なんかを読んでるわけで、それが実に伏流水のようになって見えないまま、十数年して表にわき出てきた。

 本流は小島信夫で、そういう流れは実質七○年に終わったにもかかわらず、でも八四、五年頃、十数年してマンガという別のところから出てきたんだ。なんというか、本質としての近代的自我はまだ繋がっていて、そのパラダイムが変わらない限り、本家の井戸がなくなってもどこかにちょろっと出てくる。ただまあそれがマンガに出てきたのは面白いな、と思ってるんだけどね。

 本家の文学、特に日本の場合は私小説が文学の王道だと言われていたのが完全に崩れて、私小説以外でもいろいろなものが出てきた。たとえば、野間宏の社会派長編『青年の環』みたいなものもあるけど、あれだってもう誰も読まないよね。結局、あれは部落解放同盟とくっついていることで利権屋さんなんだよ。だから、押さえのために野間先生の本を出しておけば、解同から抗議が来ても安心だ、というわけで、思えばあの時期、野間宏全集という売れない本が出たのは異常な事態だった。それも講談社と筑摩の二社から出ているんだよ。つまり、部落大鑑みたいなもので、買ってくれれば文句は言いません、という要は一種の同和利権だ。

――芸術一般も(文学も映画も音楽も演劇も踊りも)、左翼パラダイムで価値づけられていた時期があったわけですよね。でも、それももう実質崩壊してしまった。

 日本の場合、その崩壊の第一段階は、六○年代後半の高度成長とアメリカ文化的な享楽主義でガタガタッっと来る。次が、七二年の連合赤軍、それから、その後の石油ショックによってまたぐらぐらになり、最終的に八九年のベルリンの壁崩壊、でとどめをさされたわけだ。

 戦後、荒廃した日本にあって、通産省が産業界を優遇して経済成長を成し遂げたように、左翼思想が一つの大きな支柱としてあって、文化、芸術を庇護して進むという一種の護送船団方式が功を奏していたんだね。時には石原慎太郎などの批判もあったけど、でもこれも、この軸はおかしいでしょう、という批判だから、こういう軸自体はまだ立派に存在し機能していたわけだ。

 ところが七○年代を過ぎると、アメリカ的な、別の言い方をすれば戦後的な文化をみんなが身に纏っていく過程で、その軸自体を無視するような連中が出てくる。戦後=左翼護送船団体制であったということが、やがて忘れられ、それに気付かない世代が出てきたってことだね。これは何も政治の話だけではない。芸術全般が、そういうフィルターを通して描かれていた、それこそが戦後という時代だったんだと思うよ。


高橋和巳

――さらにもっとマイナーというか、今や忘れられている名前ですが、高橋和己なんかはいかがでしたか?

 高橋和巳は文学の例として挙げておくけど、世代的には大江健三郎と近い。一九七一年に三十九歳の若さで死んだけどね。団塊の私たちから見れば完全におじさん世代で、生まれが昭和六年。考えたら私なんかより十五歳も上になる。京大で、助手共闘をやっていて、立命館に行って白川静先生の弟子になったりしていた。全共闘側に味方して、同時に、中国文学で李商隠の研究などをしていた人だ。高橋和巳全集の別巻でも李商隠研究が収録されていて、その研究は専門家の間でも評価が高いようだけど、中身が専門的なので私には正直、よくわからない。と同時に小説も書いていたわけで、小説の中でも、私が大学時代に『朝日ジャーナル』を読んでいた頃には『邪宗門』だな。学者で小説を書くという手すさびでは柴田翔なんかもそうだったけど、柴田のは非常に恥ずかしい青春小説だしね。今になるととてもじゃないけど読めたものじゃないし、当時学生時代に読んでさえ「何だかなあ」としか思えなかった。その程度だよ。

 でも、高橋和巳の場合には、もう少し小説としての結構がはっきりしている。『憂鬱なる党派』だったら、共産党批判がきちっとあるし、共産党員の人間像でも陰険なやつ、官僚的なやつ、わりとさばさばしたやつと、いろいろ出てきてテーマもはっきりしている。それから、その『邪宗門』の場合には、これは大本教をモデルにして、大本教二・二六事件を絡めた一種の社会派歴史小説だし、堂々たるもんだよ。

 しかもこれは、高橋和巳のうちが天理教だったということもあって、天理教とアナロジーする形で大本教の話が展開するから、土俗的なものと西洋的なもの、自分自身の体験と近代国家との葛藤など、さまざまなものを入れ込んで、大げさに言えば一種の全体小説のような趣があるよ。

――その「全体小説」ってもの言いも最近ではほとんど使われなくなってますねえ。

 確かにそうだね。私自身この間、大西巨人の本がマンガになったんで発言を求められて、二十年ぶりぐらいに使ったくらいだ。それはともかく、まあ、かつてはそういう大きな構成の文学があったわけで、でもそれは今ではまったく見られない。小説的なメンタリティーは取りあえず崩れて、ただし伏流水のように、ぽこっぽこっとマンガとか、音楽とか、そういう分野に出てくるけれど、でも、全体小説的な結構、大きく社会とか歴史を語るとなると、それはもう出てこなくなってる。

 司馬遼太郎的なものでは、たとえば宮城谷昌光みたいな形のものはあるけど、あれは別として、自分の訴えるものを明らかに持ちながら、全体小説的に仕上げた作品となるとやはり見あたらないよね。だから、野間宏的なもの、それから大西巨人的なもの、それから、ここに述べる高橋和巳は若くして亡くなったが、素養があったから、それを書けた。でも、今ではそういう素養は本当になくなっている。だから、私は、近頃の小説など読む気がしないんだよ。素養がないから内容がない。あるのは私小説としての自意識がぽろっと出るという程度のもので、そんなものはマンガや他のジャンルにひょっこり出てきたものの方がまだはるかに質の高い表現の場合が多いから、そっちをちゃんとフォローしていればいいや、と思ってるよ。

「団塊の世代」と「全共闘」㉛ ――三島由紀夫、連合赤軍、「学生」の東と西

 

三島由紀夫

――あと、呉智英さんの世代、いや、もう少し下まで含めていいと思いますが、吉本と共に三島の影響ってのも大きいことに驚くんですよ。あたしらにとっちゃ、少なくとも同時代の印象としては、単に自衛隊に突入して腹切っちゃったヘンな作家、程度でしかなかったわけで。後になって著作を読むようになっても、もう「文学」自体が棚落ちが決定的になってた80年代的空気の中じゃ、申し訳ないですけど、その自己中な美意識がなんだかなあ、というところがすでに先立ってしまって、上の世代が熱っぽく語るその前提からしてもう共有できなかったんですよ。むしろ冷静に読めるようになったのはもっと後ですね。

 三島には、私は全然影響を受けていないよ。それは私だけじゃなくて、いわゆる団塊の世代にとっては、そんなに大きくはないんじゃないかな。でも、私より下の世代になると、三島ってのは結構大きい存在みたいだね。

 ついこの間、大阪大学で講演した時、その後の打ち上げで、大阪大学の某教授と初めて会って話した。私より少し下で、京大で学生運動をしていて、その後紆余曲折を経て院に入ったそうなんだけど、その彼と。今まで人生の中で一番衝撃的なことは何だ、という話になったんだ。

 私は、何と言っても連合赤軍だ、人生においてこれほどの衝撃はなかった、と言った。ところが彼は「おれは連合赤軍なんかより三島だよな」と言ったんだよ。私は驚いて「おれ、三島こそ、全然大したことなかった」と言い返したんだけど、でもこれは、一つには関西という土地のこともあると思うね。彼は京大で赤軍系のやつと実際に付き合いがあったから「赤軍の流れで言うと、あんなものは京浜安保に踊らされただけで、本来の赤軍は違うとみんな思っていた」と言う。まあ、それは確かにあったかも知れないけどね。

――東と西の地方差、ってのは確かに今思う以上に大きかったんですよね。それは単に日常生活においてだけでなく、思想や教養の成り立っていた前提においても当然そうだった、ってことで。

 で、何を言いたいかというと、三島由紀夫が衝撃的だった、という人間は実際にいた、ってことだよ。

 でも、これもまた非常に単純なことなんだよね。三島は本気だった、という、この一点なんだ。また身も蓋もない、単純過ぎると思うかもしれないが、人間、六十になると、そういうことも改めてわかってくるものなんだよ。

――「本気」の衝迫力、ということですか。そりゃなあ、実際に言葉と行動を一致させて、なおかつ腹まで切っちゃったんだから、まずその一点で「うわあ、こりゃ勝てんわ」になったんでしょうし。

 そう。でも私は、三島事件には驚かなかった。七○年前後で、まわりにはぼちぼち爆弾関係に行くやつもいたし、それから、これも今となっちゃお笑い草なんだけど、三月には北朝鮮にハイジャックが飛んでいっていたし、三島事件が起こったのはその年の秋だったんだよね。

 確かに三島は本気だったけど、でもその本気ってのは程度の問題で、当時は誰もがそうだったとも言えるんだよ。私は当時、党派にも入っていないし政治的には組織運動には関わっていなかった。三島は全部を「改憲」に賭けたわけだけど、でも、私はというと、まだ本気の程度は六割くらいだったかな。

――ああ、ベクトルは180度違ってても、改憲」でも「革命」でもその「本気」が必要だという認識に置いては当時、同等だった、と。

 こっちだって本気だったんだよ、その頃は

 実際に六七年の羽田のデモでは、京大の山崎博昭が死んでいるし、それはもちろん何千人のうちの一人ではあるんだけど、でもその頃、気の利いた者は「デモに行くときはパンツを替えていく」と言っていたもんだ。警察に捕まった時、下着が汚いのはみっともない。どうせ服はぼろぼろにされるし、放水車の水も浴びるだろうけど、パンツにうんこの跡がついていたら、それはちょっと嫌だな、と、みんな本気半分、冗談半分で言っていた。その程度のことは誰もが普通に考えていたんだ。

 それは実際に死ぬ可能性があるからで、そう考えれば、三島が本気だったと言われても、そりゃ腹を切るくらい思い詰めてたんだから大変だったろうけど、でも、こっちもこっちで覚悟はあったわけだし、そんなこと言われてもなあ、という気持ちだったね。

 ただ、こっちは、結果が実現できるならばそんな敢えて死ななくてもいいだろう、憲法を変えたいのなら、言論で、それこそ区議から始まって都議、そして代議士になって、二十年ぐらいかけて国会でやればいいだろう、と思ってたけどね。だから、そういう意味で、三島事件は私個人にとっては全然ショックではなかったな。

 むしろ、ショックだったのあさま山荘事件だよ。あれはその本気さが衝撃なのではなく、ネガティブさが衝撃だった。早稲田の友人もみんな、あれはショックだったな、と未だに言う。それは、起きないはずのことが起こってしまった、というショックだったね。

――以前から一貫して、呉智英さんはそっちを強調しますね。オウム事件に対するスタンスも、これは世代は違うけどもうひとつのあさま山荘じゃないか、みたいな側面をはっきり言ってましたし。一部のバカはその前、例の宮崎勤事件をあさま山荘に見立てるのもいますが、あたし的には宮崎勤事件は前哨戦で、あそこで問題を共有して始末する見通しを立てられないままだったから、結局オウムにまでつながっちゃった、下っ端キャラ相手にぬるいことやってたから、ほらみろ、もっとレベルアップした厄介なのが出てきやがったじゃないか、って認識です。


 あの頃、私たち全共闘とか当時の新左翼は、旧来のスターリン主義的な共産主義に対しての批判はもう十分に出ている、と思ってたんだよ。しかもそれは、スターリンに対するトロツキーの思想だけではなく、トロツキーが喚起したようなメキシコにおける芸術運動とか、あるいはフリーダ・カーロ自身がトロツキーの愛人だったんだけど、そのカーロの旦那のリベラなどがやっている芸術運動なんかともつながってゆき、またフランスにおいては、当然当時のシュール・レアリズムの前後まで含めてトロツキー的な共産主義につながっている、という認識だったわけだ。

さらに、当時のソ連において弾圧されていたドストエフスキーの問題もあったしね。少なくとも私たちは『悪霊』は読んでいたし、その問題も、ドストエフスキー的な人間の罪の深さも知ったその上で、敢えて新左翼に対して共鳴、共感しているぞ、という意識だったんだよ、少なくとも主観的には。

 ところが、それがあさま山荘の事件で一気にひっくり返され、冷めてしまったんだ。

 なんだ、こいつらは結局スターリニズムと同じことをやっているんじゃないか、というわけだ。しかもそれが非常に矮小な形で起きている。実際、あさま山荘の最初の銃撃戦の頃はまだ、テレビの前で「赤軍派もここまでやるか」というだけだった。共感というほどじゃないけど、「おお、やってるな、やれ、やれ!」ぐらいの感じだった。でも、その後、あの仲間殺しが発覚して初めて「ああ、こりゃスターリンと同じだ」と、そう思った。絶対起きるはずのないことが起きた。その衝撃はほんとにすごかったよ。

 その後、少し心が落ち着いてきて、さらに永田洋子の手記を読んで、「なんだ、永田洋子ドストエフスキー読んでないのか、つまりこいつはただのバカだったのか」ともう一度びっくりしたんだけどね。要は、何も勉強していなかったんだ、と納得したんだけどね。それは今で言えば、それこそあの辻元清美並みで、「民衆は苦しんでいる。私は怒らなければいけない」と、ほんとにただそれだけ、なんだよ。

――左翼が大衆社会の中でサヨクと化してゆく過程がはっきり見え始めていたってことなんでしょうね。いまのプロ市民にまで退廃してどうにもにならなくなってゆく道でもあるわけですが。そのへんは、あの大塚英志の数少ない評価できる仕事にも関わってますね。永田洋子の獄中日記が、そこに付されていたイラストなんかも含めて、なんともはや、トホホな代物だった、ってことにやっこさん、さすがに反応してますが、でもあれ、当時あたしらの世代はみんな思ったんですよ、おいおい、あのイラストはないだろう、と(苦笑)



 それも、さっき言った京大出身の教授に言わせれば、「仲間殺しをやったのは、永田を始めとした京浜安保の連中じゃないか」ということになるんだけどさ。

――あ、うちらとは違う、って意識なんですか、やっぱり京都の人たちは。

 そう言うんだよね、一応。京浜安保共闘ってのは、日本共産党革命左派という一団の中の、自分たちは日共の分派のつもりでいるグループで、毛沢東を信奉し、これが赤軍と連合して「連合赤軍」を名乗っていた。要するに、自分勝手に日共の正統を争う異端分子だと思っているに過ぎないわけだ。一方、赤軍の方はというと「自分たちは世界革命を目指している」と、これも塩見孝也新左翼活動家・元赤軍派議長/一九四一│)が言っているんで、どうせ法螺に過ぎないんだけど、それでも、全然違う組織だと、関西の彼は思っていたみたいだね。

――その塩見孝也の「世界革命」ってのがどの程度のものだったか、ってことも、後にこれまた本人の告白なんかによってバレちゃいましたからねえ。

 ただ、これは個人的な推測でしか言えないんだけど、ああいう精神性は、京都の勤王佐幕の頃からどこか時代がかった感じがあるような気がする。塩見孝也なんてまさに法螺吹きと天下国家が一遍にくっついてくるような人物だしね。なんというか、幕末の勤王佐幕の行動などとの類似性を感じるんだよなあ。清河八郎みたいな山師や訳のわからない魑魅魍魎が、その場の野心で「きのう勤王、あしたは佐幕」とやってて、そして肝心のところでは裏切る、と。そういう風土的な土壌、地霊を京大や同志社にも感じるんだよ。

――それは呉智英さんらしい印象論ですね。いい意味で、ですが。でも、そういう部分はあるのかも知れない。少なくともそう思わせる程度に、京都の学生カルチュアって昔っからヘンですよ。学生とか大学の特権性が旧制高校的なまんま温存されてるような感じで。少し前までの京大の語られ方が典型的ですけど、それが大衆化で周辺の私大などにも拡散したんでしょうかね。そう言えば、京大西部講堂伝説、とかもありますねえ。

 関西、特に京都の学生文化は特殊な生成をしているし、学生がやんちゃで許されるということ自体はどこでもあることだけど、でも、京都は特に異様だよ。よそ者を排除するわりには「学生さんやから」と京都出身じゃなくても、学生を例外扱いする。多少無茶をしても何となく許してくれる、というような傾向があるんだよね。なんというかなあ、京都は全体的に、学生はんはあれぐらいはやんちゃした方が将来大物になりはるんとちゃいますか、みたいな感じがあったんだよ。

――東京で「学生さん」と言われる時と、関西弁のアクセントで言われる時の微妙な違い、ですね。あたしも育ったのが関西だったんで、大学で東京へ出てきてそのへんのニュアンスの違いは当時から敏感に感じてました。70年代後半でもまだありましたよ。

 うまく言えないんですけど、関西だと「学生」というのがそれ自体でモラトリアムとして公認されてる、って感じなんですよ。学生か、それやったらまあ、ブラブラして好きなこと言うとってもええわ、みたいな。でもそれって同時に、学生じゃなくなったらそうはいかんで、という暗黙の前提も含まれてるって感じでもあるんですよ。四年たったら世間出るのが当たり前で、その世間ってのは否応なしに商売の〈リアル〉の世界なんだぞ、という圧力っていうのかな。東京だと、良くも悪くももう標準語になめされちまってましたから、「学生」ってのがもっと漂白された印象だったんですけど、関西での「学生さん」の距離感ってのは別のものがありましたね。

 だからそのせいもあるんでしょうけど、やっぱり京都の学生カルチュアってのは、80年代半ばくらいまでまだ、東京の感覚でいうと70年代のまんま、ってところがあったんですよ。それこそ自治会とか左翼セクトとかが平然とまだ生きてて、年格好はこっちと同じような世代なのに、使ってる言語とかはもう未だに70年代、ってのに、びっくりしたことがあります。大きく言えば「書生」以来の学生カルチュアのありようにからんでくるんでしょうけど。

 東京でそういう学生文化が許されていたのは、せいぜいいくつかポイント、地域で残っていたに過ぎなかったしね。そのへん、ひとつには、東京と京都の大学の密度の違いがあるんだと思う。

 たとえば、早稲田なんかの大きな学校の場合、地元に金を落としてくれるから学生街が形成されるという面があるよね。もう一つは、これは今はもうずいぶん変わったけど、六○年代、七○年代あたりまでなら、たとえば上野の町で東京芸大の学生がクロンボ祭りをするわけだよ。体を黒く塗って、酒食らって町でストームをやっても、芸大生だから、しょうがないなあ、で許されちゃう。

――ストームね(笑) いやもう、すでに歴史的用語ですが。旧制高校以来、全寮制のホモソーシャル文化の最たるもの。東京農大大根踊りとか、日体大のエッサッサも同じようなもんで。


www.youtube.com


www.youtube.com

 そういうやつだよね。で、学生っていうのはああいうやんちゃをするもんだ、でも、あいつらは別に女を転がしたり、そういう街の愚連隊みたいな悪さはしないし、あれもまあ、学生らしいエネルギーの発露だ、というふうに街の側が、世間が認めてくれていたよね。早慶戦だってかつてはそういうものだったんだし。でも、それがいまやもう、あのスーフリとかになってしまったから、世間の側から学生ということでの信頼は得られなくなっちゃってる。

――書生から始まった近代の学生カルチュアがワンサイクルめぐって、90年代に至って終焉を迎えたんだと思います。それって、おそらく大学の自治会が溶解していったのとシンクロしてますよ。以前は文化祭なんか、自治会の財源だったわけで、それもまたお目こぼしだったのに、90年前後からどんどんそれが摘発の対象になってった。もちろん左翼セクトの資金源になってたわけで、そんなものもっと以前から片づけなきゃいけなかった問題なんでしょうけど、でも、そのことによって文化祭にあったある種の勘違いというか、世間と違うんだ、という約束ごとも一気に押し流されちゃったな、という印象があります。世間と大学の側が同じ水位になった。だもんで、それ以前は学内の統制は自治会なりセクトなりがからんで何とかなっていたものが、タガがはずれた分、そこらの街と同じようなことになって、だからスーフリみたいなサークルがのしてきたんだろう、と。ああいうのはかつての軟派と似てるようで、でも違ってるのは、学生カルチュアの約束ごとから全く離れてしまっている、その意味で街の不良と同じなんですよね。興行やってカネ稼いで、オンナ転がして、で、それをイベント屋まがいのところに上納までして利権化してた。自治会とセクトがなくなって、ただのチンピラやヤクザと同じのが跋扈し出した、ってのは、風営法や暴対法をいじったせいで街の治安がおかしくなってったのと、大枠ではよく似てると思ってます。

「団塊の世代」と「全共闘」㉚ ――吉本信者への違和感、草の根の共産党員のこと

――思想なり発言なりに何らかの抵抗値が設定されてないと、その輪郭も自覚できないままってところはありますね。あたしが年来便利に使っている「あと出しジャンケン保守」というもの言いと同じことで。福田恒存江藤淳がかつて、ああいう論陣を張っていたのは、左翼/リベラル系言説がデフォルトだった当時の状況を考えれば、まずそれだけで評価はできるしするべきだと思うんですよ。呉智英さんだって「封建主義」と言い始めた頃は、そのもの言いの響きだけで耳に立つところがあったからこそやっていたはずですよね。でも、近年の「右傾化」とひとくくりされている流れの中での発言は、完璧にもう安全地帯からものを言っているわけで、そういう自覚があまりにないままというのは、あたし的にはどうにも居心地が悪いですね。何かものを言う、自分の責任で発言する、ってことが良くも悪くも敷居が低くなっちまってて、事前に構える、緊張するってモメントがどんどんなくなってるって感じはします。

 これはどういうことなんだろうね。いまや、自分は若者だから、大人は汚いから、という言い訳が、学生だけでなくいい大人にまで生きているしね。

 たとえば、ひとつ言えるのは、さっき少し触れた金子みすゞなんかの「美しい小さなものへのまなざし」のような、「本音で語ることへの許し」「傷つきやすい心に対する癒し」とかが(彼女は彼女で命がけで表現したものなのだが、そこは見ずに)、学校教育を通して、成長期にすり込まれているんじゃないかと思うね。

 だから、吉本隆明の場合も、弟子たちのゆがんだ部分が徐々にそれを増幅していく場合があるんだよ。たとえば、私はこのところずっと芹沢俊介を批判しているけど、あれはもう本当にペテロみたいなやつでどうしようもない。吉本先生の説を拳々服膺して、さらに吉本の三を五にし、六を八にして言う。要するに、吉本のおかしい部分が余計にゆがめられ、デフォルメされ強調されるわけだ。

 彼がそういうミッションをやり、頑張れば頑張るほど、それは教祖である吉本の肯定であるがゆえに、吉本の悪いところが一層際立つんだよ。彼は四、五年前、子供について考えるときのキーワードは「イノセンス」だと言いだしたんだけど、耳を疑ったね。この二十一世紀の今になって、いまさら子供にイノセンスって言うか、と。しかし、それも結局、吉本の言葉を増幅しているだけだから始末が悪い。あの「大衆の原像」と同じことで「おれは子供の原像を知っている」、「大衆の原像を繰り込まなければ政治は成り立たない」というわけだ。「何も汚されていない、タブラ・ラーサ(白紙還元)としての子供がいる」とは、吉本の「原点としての大衆がいる」と同じことだからね。

 同時に芹沢は、市民運動は嫌いだとか、社民的な運動は嫌いだ、とか言うんだよ。でも、実は吉本も同じ枠でものを見ている。私は吉本を民主主義・原理主義だと言うけど、民主主義という意味ではまったく相似形なのだ。子供はすばらしい、大衆はすばらしいと言っているだけなんだよ。それは、端なくも芹沢俊介の言動を見ていると、本当によくわかる。

――「無垢」としての子ども、ですか。大正時代の童心主義あたりからそういう縛りは結構キツいですからねえ。「戦後」の言語空間がそれをさらに歪めて増幅してきたところもありますし。芹沢さんは典型的ですけど、やっぱり吉本シンパから出てきた人って、どこか辛気くさい(笑)。生真面目というか、荒っぽい言い方するとノリがよくないんですよね。小浜逸郎さんなんかも思想的には吉本のふところからとっくに脱してるはずなのに、文体その他はどこか吉本的なところが未だにある。抜けないんだなあ、と思います。

 吉本はそういう風に六○年頃から、思想的な意味でのヒーロー、若者にとってのヒーロー、代弁者だったから、多くの者が追随していった。でも、たいていはあるところで離れていくんだよ。

 たとえば、平岡正明も、最初吉本に対して「吉本さんって、いい人なんだ」といって信奉して、大衆の原像論をさらに別の形で深く推し進めたわけだろ。平岡は、大衆の原像の典型とは何か、それは犯罪者だと言ったわけだ。その構図は全部吉本のものだが、「大衆というものを繰り込まなければ政治も思想も成り立たない」と言ったとき、しかし「大衆というもの」といっても、何が大衆か具体的にはわからない。だったら「大衆とは、(吉本が言うには)知識人が思っているように美しいものではないんだ、何でもやる」人たちのことだから、それに煽られた形で、平岡などは「じゃ犯罪者はもっと悪いことをする。そうか、これこそ大衆だ」という理解をするわけだ。「あらゆる犯罪は革命的だ」となる。

――そのあたりについては、平岡正明シンパのあたしも否定しません(苦笑)『地獄系24』の頃は、吉本に解説書いてもらって喜んでましたし。犯罪と革命を結びつける発想そのものが当時は新鮮だったんでしょうね。そこから竹中労さんなんかと共闘した「窮民革命論」までもうすぐそこ、なわけで。あれもそれまでの代々木的な「前衛」論とか、ルンプロ批判みたいな文脈を知ってないと、当時のノリがよくわからないと思います。

 吉本の場合は、さらにさかのぼると親鸞で、悪人正機につながっていく。だから、『最後の親鸞』なんて書いているし、若い頃から親鸞についてあれこれ言っていたからね。

――五木寛之も、親鸞から真宗のことにえらくこだわってますよね。あれはその吉本なんかとの同時代的シンクロニシティがどこかにあるのかな。

 あるかも知れない。ただまあ、そういう吉本を受け取った、吉本より少し下のまさに団塊の世代、私たちの世代の学生層というのは、それまでの大学生の情報環境と微妙に違ってきてたところがあるんだよ。

 六○年当時、それまでだったら、たとえば、松本健一が吉本を知らなかったように、知識人同士の議論の中に吉本の名前なんか出てこないよ。東京でさえ松本健一は戸惑っていたわけだから、多くの学生には初耳だった。議論するとなると、たとえば、丸山眞男的な意味での日本の後進性、ということを言ったりとか、あるいはもっとマスコミなどに出てくる知識人の受け売りで言うとか、進歩的文化人は、それこそ憲法学者の清宮四郎(一八九八│一九八九)、宮沢俊義(一八九九│一九七六)などがその頃言っていたような、ものすごい建前的なことを言っていた、そのレベルだった。学生と言っても、まだそういう水準でしか議論が出なかったんだよ。

――それが呉智英さんたちの少し上、先輩たちの情報環境だったんですか。わずか数年でそれくらいの落差があったってことですか。

 そういうことだろうね。ある意味天下国家であり、やんごとない話、大文字の議論しかしなかった、できなかったのが知識人で、その予備軍としての学生ってのもそういうものだったんだけど、吉本がその著作を介してそれをもっと身の丈のところに戻してくれたというのはひとつ、確かに功績としてあったと思う。

 しかも、それを本音で言っていいんだ、ってことだよね。五○年代の終わりから六○年頃は、吉本に準拠して議論してもそんなものはまだ知られていなかったけど、だんだん浸透してくるから、私たちの学生時代は「でも、吉本はこう言っているぜ」と言えば、それなりの押さえになった。神通力がついてきたわけだ。

 同時にそこで、吉本に限らず、あの頃に本を読んだ人は、その読んだ本の中に仮に否定的、批判的に捉えたとしても、たとえば引用で柳田國男っていう人が出ていたな、とかでそちらを読んだ。二十歳の頃読めば、どんなカスでも学問なんだよ(笑)。極端に言えば、竹村健一を読んだって、中にキーワードや具体的な事例が出てくる。「ガルブレイスって偉い人がいるらしい、それって本当に偉いんだろうか、と思えば、中には実際にガルブレイスを読んでみるやつも出てくるだろ? 落合信彦を読むと、ドイツが二つに分裂して、国家がどうのこうの、ってあるから、あ、そうか、ドイツは分裂してたんだ、知らなかった、そうなのか、というのを、何も知らない高校生だったら学ぶわけだよ。

――どんなトンデモ本にも効用があり得る、ってことですね。

 そう。何でも勉強に無駄がない、というとこれは年寄りの繰り言になるけど、でも、ほんとにそうなんだよ。当時、思想界で考えたら、吉本なんかはそういう意味では学問だったんだよね。私は柳田國男を読み出したのはその後で、やはり一九か二十歳のときに、そのころ角川文庫で柳田國男が一五、六冊出ていたので、それで全部読んだ。その後、これだけでは足りないだろうというので、筑摩の全集を買った。

――あの箱入りのバージョンですね。でもあれ、ご存じのように索引が使えないし、中身についても結構遺漏があるんですよ。ただ、あれが普及したことで柳田の仕事は一般に広く知られるようになったのは間違いないですね。今や古本屋でひと揃い一万円台まで値落ちしてますが。


 吉本によって知識人の名前とか、言葉の由来を覚えたという意味においては学恩があるけど、でも、私は全然吉本にはひかれなかったな。客観評価はしたんだけれども、最初から最後まで、今に至るまで全く信奉していない。それははっきり言えるよ。それでも敬意は、以前はまだあった。今は、全くなくなった。批判点もなければ、侮蔑の対象でもない。

――明快だなあ。

 吉本をどう評価するかは、これは十五、六年前から言っていることだが、思想がどうのという複雑な議論ではなく、肝心な点は、実はあれは民主主義、原理主義じゃないかということなんだよ。

――そのへん、もう少しくわしくお願いします。

 私は子供の頃から民主主義に対して漠たる違和感、批判を持っていた。中学、高校の自己形成の初めの段階で、読書が好きで、少しはものを考えるようになると「なぜ民主主義なのか?」という疑問が頭をもたげてきたんだよね。
 私の学校には、論文くらい書くようなわりと優秀な教師がいたんだけど、その人たちと議論をすると、基本的な疑問は必ずそこに行ってしまう。しかし彼らは、それに対して答えられなかったんだよ。

 むしろ保守系の、確信を持った先生がいたとしたら、仮に私が学年で五番くらいの成績だったなら、「それは当たり前のことだ。建て前は民主主義でも、実は、社会はエリートが動かしている、おまえのような生徒こそ東大に入って、官僚になり、みんなを引っ張って変革をするべきだ」と言ってくれたかもしれないけど、でも、幸か不幸かそういう教師もいなかったし、私もまたそんなに優秀な子供じゃなかったから、そういう議論にはならなかったな。

 あの時、「世の中なんて、いくら言っても変わらない。そんなに言うんなら、おまえがエリートになれ」という選択肢は、ひとつ確かにあった。でも、教師にも私にも、その資質がなかったんだよ。論文を書く優秀な教師はいたが、その資質のある教師はいなかった。なぜならば、当時、悩める生徒と真剣に話す情熱を持っていたのは、基本的に共産党系の教師だったからね。

――ああ、わかります。当時の左翼って、基本的に「いい人」でしたからね。別の言い方をすれば、愛嬌もあったし。思想信条はともかくとして、最低限その部分では尊重できる人格ってのは、まだある程度の共通項としてあったような気がします。

 だから、私は彼らに対していまだに嫌悪感もないし、ましてや侮蔑なんてしていない。今も愛着があるよ。

 ある教師は、共産党の中でも異端分子で、最近三十年ぶりに会ったんだけど、何か口ごもってるんだよ。なんだろうと思ってると、「えっと。おれ、もう除名されたんだよ」。ああ、じゃあ、あの事件のときかなと、こちらも気を使う。

 実名を挙げてしまうけど、国語の宮崎先生ってのがいて、その先生が最初に赴任してきたのがうちの高校だった。私たちが高校一年だか二年の頃、当時はまだ若い情熱家で、やる気満々でね。

 彼は下町の出身で、家は牛乳屋さんという、いかにも庶民の出身なんだ。親父の店を助け、牛乳配達をしながら名門の両国高校に通い、何としても早稲田の露文に行きたいと考えたらしい。でも当時、早稲田の露文に行ったって就職なんかない。しかも彼は、英語で受ければ簡単に入れたのに、露文に行くからというんでわざわざロシア語で受けた。だから放課後、ニコライ堂へ通ってロシア語を勉強する。二度手間になるわけだ。そんなことしたって二浪ぐらいしないと、突然始めたロシア語で受験したって受かりっこないんだよ。でも、そういうことをやる。そんな愛すべき教師がたくさんいたな。

 大学に入って知った水野忠夫さんって人がいて、ロシアのフォルマリズムをやってたんだけど、これもいい人だった。学生時代、好きだったんだけど、でも、さっきの宮崎先生の前でその水野さんの名前を出したりしたら、さあ、大変だ。「あの軟弱者が!」と怒鳴られる。大っ嫌いなんだよね。

 水野さんは卒業後、院に残って教授になった。結局、高校の先生になった人との違いが出てしまうんだけど、宮崎さんはというと、そこまでして早稲田の露文に行き、大学院まで行ったのに、水野さんのような秀才タイプじゃないから大学に残るコースからははじき飛ばされて、地方の高校で熱血教師になった、と。ところが下町の庶民気質が残っているから、悲しいかなゴリゴリの共産党員にもなりきれないんだよ、これが。どこかで歯止めがかかっちゃう。

――わかるなあ。インテリ培養基の純粋培養みたいな共産党員と、もともとそういう庶民系の人との距離って、それはもうニッポンの共産主義社会主義運動に骨がらみの構造じゃないですか。いま、呉智英さんは「熱血教師」って言いましたけど、その「熱血」のありようってのも、ほぐしてゆけばもうそれなりに歴史も来歴もあるんですよね。何も70年代のテレビドラマだけで「熱血」という幻想が成り立ってたわけじゃない。それはきっと、さっき言ったかつての左翼の「いい人」感覚みたいなものにも通底してるように思ってます。

 まあ、ある意味、彼も不幸だったんだよね。もしも、ゴリゴリの共産党員なら、今頃は愛知地区委員長ぐらいにはなっていただろうと思うよ。それくらいの人物だった。

 宮崎さんは地元で、映画の上映運動などもやっていて私たち生徒にもその話をしてくれたんだよ。いかにも共産党的なストーリーかな、と思うと、ソ連の新しい映画や、イギリスのリンゼイ・アンダーソンのアングリーヤングメンなどという感じのものも勧めてくれるわけだ。で、実際に観に行くと、先生が授業で言っている歴史、社会の内容と全然違う、でも、ナマの人間の生活が映っている。後で感想などいろいろ話していると、ひょこっと党に対する本音の部分が出てきたり、魯迅の話になったり、まあ、そんなつきあい方をしてくれたし、またできたよね、当時は。だから、大学へ入ると、やはり共産党はちょっとな、となって、党に批判的になっていったわけだ。