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万歳三唱、がまだ生きていました。かろうじて、ではあるにせよ、でもまあ、ひとつの「かたち」としてなぞられている、その程度には。
それは、日々の暮らしの水準に降りて身の裡にまで食い込んでしまった習い性というやつは、どれだけその中身も内実も空虚になってしまったところで、その姿かたちだけはおいそれと消えてなくなってしまわないもので、それどころかその空虚なかたちのまま、また別の習い性へとのめのめと転生してしまいもするらしいことを教えてくれていました。
すでに物理的にも世渡り的にも「世に遠いひとつの隠居」と化しているこの身のこと、浮世世間のよしなしごとからは良くも悪くも心身共に遠ざけておくのが日々の習い性になって久しく、テレビだの新聞だのラジオだの、それら少し前までの「文明の利器」もとうに縁遠いものになり、いまはただ掌中のスマホと眼前のパソコンにつながるモニター画面だけが世の中とのなけなしの窓口になっている日々。とは言え、それでもこのたびの総選挙のような何らか時代の節目になるできごとについては否応なしに飛び込んでくるのが、電網介した新時代の耳目のいまどき。当選確実から確定になって喜ぶ選挙事務所の光景に、それぞれお約束のように概ねなされる万歳三唱の声、そして身ぶり。一見昔ながらに見えるその光景にも、しかし少し立ち止まってこの場所から遠く眺めてみると、違いは確かにありました。
「ばんざ~い」と両手を全力で振り上げ発声する、そのかたちが本当にただの型通りでしかなくなっている。感極まって、身の裡から湧き上がる何らかの力が表沙汰になることを求めてほとばしらんとする、ふだんなら意識して自覚の下に選ぶこともできるかもしれない日常での表現の型のあれこれをあわてて手探りしてみる暇もなく、とにかく全身全霊生身の摂理、〈いま・ここ〉にはらまれた呂律任せに身をうち震わせるしかない昂ぶった状態でのまさに「お手上げ」の切実、それがない。たとえわずかな気配としてさえ、ないのであります。

むろん候補によって、事務所によって、あるいは所属する派閥や政党、さらには地元の地域などによって、それぞれあらわれ方の濃淡もあれば、「万歳」の音頭取りとそれに唱和してみせる声や調子にも違いはある。けれども、その「万歳」にも「三唱」にも、一連の逃げようのない切羽詰まった「かたち」の表出というギリギリ刹那の熱気や生気、活気などは本当に薄く淡いものとしてしかそこに漂っていない。敢えて大文字のもの言いを弄せば、歴史や文化へと滔々と流れ、連なってゆくはずの日々の暮らしの持続性に裏づけられ紐つけられたあらわれ、それこそ「生活の古典」の一端としてなどではすでになく、最も痩せた貧しい意味での形式、形骸化して漠然となぞられるだけの型、になっているのでした。

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異例の短期決戦、しかも厳冬下の選挙戦という触れ込みだった今回の総選挙。むろん全国津々浦々、それぞれの政党や派閥の主義主張や趣向に応じて街頭での演説会、集会なども数多く開かれ、またそれもいまどきの情報環境のこと、随所で各種メディアが刺さり込んであれこれ報じられていたようですから、それらを介した二次創作ならぬ二次報道的な回路であっても、web環境介した手元の端末にその場の様子は映像や音声も含めて、断片的にせよ縷々届けられる。まあ、こちとら単にそれらを呑気にのんべんだらりと気ままに啄んでいただけなのですが、そんな中、もうひとつ気がついたことも。
これまでの既存の組織や政党、支持団体が主催したり、あるいは明らかに動員をかけて空気を入れたような成り立ちの集会では、その最後の締めみたいな形で「がんばろう」「やり抜くぞ」、さらにはいまどきまだ生き残っていたのかと驚かされた「エイ、エイ、オー」といった古色蒼然な文句も含めて、いずれそれらスローガンの類を仕切りのリーダーなり司会者の音頭取りに従ってその場の皆で「三唱」するのがひとつの型通りで、それもまた万歳三唱のように両手を上げるのでなく、握りこぶしを固めて片手を突き上げるポーズまでが伴うもの。もともと労働組合などに自然発生的にできあがっていった集会作法あたりから由来する、いわゆるシュプレヒコールの分解、頽廃形態なのかもしれませんが、何にせよこのあたりもひっくるめて、これは昨今の本邦「政治」がらみの集まりの定型になっています。
なのに、こういう類の定型が、今回東奔西走、獅子奮迅の全国巡幸で選挙戦の台風の目となっていた高市総理が登場する集会の現場では表だって目につかなかったらしい。その代わり、手に手にスマホを掲げ、概ね「おとなしく」壇上の演者の話に耳傾ける人がたのたたずまいが目に立ち、印象的だった、と。

これ、何も自分ごときがひとり気づいたからと偉そうに言うのではない。同様のことはSNSその他いまどきの情報環境でも割と目敏く指摘されていて、特に現場に実際に参加していた人がたからも、その実況報告と共に「証言」があれこれ出ていましたから、あれ、やっぱりそうなんだ、単にweb越しの断片経由な自分だけの印象というわけでもないんだ、とあらためて思い直したくらい。是非はともかくとして、これまで一般的に考えられるような選挙がらみの集会や演説会の現場にありがちな様子とは、良くも悪くも違っていた、と。
「二子玉川公園とんでもないことになってる。もはやサナフェス。」
「支持者の中からは、好きなアイドルなどを応援する「推し活」ならぬ「サナ活」という言葉も生まれた。」
ご承知のように今回、高市総理が応援にやってくる現場には、どこも想定以上の人数が押し寄せていました。ということは、あらかじめ動員かけられ、集められる人数を主催者側でそれなりに想定した規模を超える不特定多数の「その他おおぜい」が集まってしまっていた。そのような場では予定された集会の組立てや当日の流れも徹底できず、あらかじめ期待したような統制がとれなかっただろうことまでは、まず普通に想像できます。実際、定型的な何らかの「三唱」なども会場によってはやっていたようですが、それらにおとなしく従ってくれるような想定内の聴衆・観客でない〈それ以外〉の「その他おおぜい」が数多く集まった現場では、その「数」に紛れてそれもうまくかたちにならない。いきおい、予期せぬ事故や偶発的な事態が起こらないようその場を統制することが、現場の主催者としては最優先事項になるのが自然なわけで、結果的に目についたのは、多くがそれぞれ片手にスマホを掲げて写真や動画を撮影したり、あるいは録音したりといった、まあ、いまどきの事故現場やイベントなどに集まる「その他おおぜい」にありがちな、良くも悪くも野次馬的な自由気ままな身ぶりばかりで、何らか意図や目的、方向性などを想定してその場のみならず対外的にも示威的にアピールし、具体的に実演してわからせる――つまりdemonstrationを目的とした演説会や集会としては、概ね散漫でまとまりのないように見える、少なくともそのような印象を与える現場になっていたことは、ひとまず確かなようではあります。
とは言え、実際に何かひどい混乱があちこちで起こったような話にもなっていない。
そりゃ予期せぬ人数が押し寄せたのだから、それに見合った混雑はあっただろうし、「サナ活」と呼ばれもした「推し」や「追っかけ」に等しい場違いなムーヴも含まれていたでしょう。また、選挙運動ではこれも定番、候補者への握手など身体的な接触の要求もそれなりに激しく、そんな中、持病の関節リウマチもものかは、果敢に聴衆へと歩み寄ってサービスこれ努めていた高市総理があるところで握手していた片手を無理に引っ張られたとかで急遽治療を要する事態にもなった。
ただそれでも、それらを別にしたら概ねみんな「おとなしく」演説に耳傾け、それなりに熱心に話を聞こうとしていたらしいのは、いかにもいまどき本邦の集合体「その他おおぜい」しぐさというか、若い衆世代だけでもない天然自然な統制ぶり。総理自身に対してはそれこそいまどきのアイドルさながら「サナ~」だの「こっち向いて~」だのの声がけから、手作りの応援ボードやタオルなどを掲げる人がたもいて、そのへんもまた本邦芸能系イベントでの聴衆や観客の「その他おおぜい」身ぶりの定型ではあれど、少なくとも選挙がらみの政治的な方向性が明確に定められざるを得ない集会での聴衆や観客のそれとは違う。まあ、そういう意味では「政治」に対して生真面目な「おとな」の人がたの感覚からすれば、眉をひそめられるような現場にもなっていたのでしょう。
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そもそも、不特定多数の「その他おおぜい」が「集まる」こと、それ自体は制御の必要な状況である、と考えるのが、警察なり行政なり、いずれ「秩序」を維持する役回りの側の自然な発想ではあります。
特に、いいトシしたおっさんや、すでに社会で働く現役勤労青年など、いずれたてつけが「おとな」のおとこ衆の群れなら、軍隊や学校その他既存のホモソーシャルな集団での制御のノウハウもその経験値も応用可能だったところはあるだろうし、そういう意味でまだしも想定内だとしても、未だ世に棲む「おとな」になりきっていない10代も含めた若い衆世代が主体の不特定多数、ましてや女性までもが一緒くたに予期せぬ規模でうっかり集まってしまう事態のヤバさというのは、こういうお題設定の際に割と想定されがちな「政治」がらみのデモや集会のそれよりも、たとえばロカビリーからグループサウンズに至る「芸能」関連の現場の熱狂ぶりなどの方が、本邦の戦後の過程においてはより深刻な問題を提起するものだったようです。それこそ「ミーちゃんハーちゃん」と呼ばれ始めていたような軽佻浮薄、世の中に対して「おとな」としての責任を持たなくても良く、だからそれだけ当事者性も薄いままで「そういうもの」として許されている〈おんな・こども〉ならでは、好き嫌い任せのふわふわした存在で、だからそれまでそのような不特定多数の「その他おおぜい」として具体的に「集まる」ことが特に正面から想定されてもいなかった形象。1964年のビートルズ来日の際の演奏会場となった日本武道館の警備ぶりなどは、そのようなそれまで具体的に現前化していなかった新たな「その他おおぜい」に対する現実的な制御、現場での統制のノウハウを蓄積しなければならないという問題意識の上で、初めて意識的に計画立案され、実行されたものだと言われていますが、それはまた別の話。




いずれにせよ、選挙がらみの「政治」的な集会、演説会においても、いまやそのような「その他おおぜい」の集まり方がうっかりと現前化し得るということ、それは少し前まで半ば年中行事化しかかっていた渋谷のハロウィーンや、あるいは近年「民俗文化」的な扱いで海外から評価されるようになったこともあり、ある「かたち」の側にそれなりに回収する道筋が立ったようにも見える近年の各地の成人式での暴れっぷりなどが好例でしょう。とは言え、こと選挙に関わる集会の類でそのような「その他おおぜい」の集まり方、それも若い衆世代も平然と混じる想定以上の数を具体的にはらんだ事態は、主催者はもとより警備担当者、報道などの立場においても、実際に〈いま・ここ〉のできごととして現前化することは果してどれだけ想定されていたでしょうか。
形骸化し、外形だけなぞる「万歳三唱」や「がんばろう」のコールの身ぶりは、それがいくら空虚なものであり、またその声や響きも含めて生身の現前性から乖離してしまったものになってはいても、なるほどそれはそれで整然とまとまった現前を示すものだし、それによって一定の数の人間がそこにいるその場の雰囲気をある方向へと予定調和的にわかりやすく意味づける上での手助けにはなる。また、その程度には生身の現前ゆえの最低限の熱っぽさや真剣みなども、ひとまずその場の〈まるごと〉の〈リアル〉の位相に組み込まれもするし、だからこそそこに身を置く当事者たちにとってもそれなりの意義をひとまず感じることができるようにもなるでしょう。
その場に参加して、現場に立ち会えてよかった、という印象を当事者的に身の裡に残すことができる、これもまた「政治」という意味での大きな効果、敢えてむくつけに言えば「実利」ではあります。それらの「実利」は当然、その集会を仕事として、稼業のルーティンとして取材し報道するメディアの話法や文法の水準においてもなめらかに接続されてゆく。そうして、商品として流通可能なかたちに調整済みの情報に変換され、それらの集会の事実もあまねく無難に「そういうもの」の水準に落とし込まれて、世間に広まってゆくことにもなる。
かくて世は何ごともなし、現場で起こっている〈いま・ここ〉の事態、〈まるごと〉の〈リアル〉も淡々と定められた間尺で制御されてゆきます。「秩序」の維持、制御のからくりというのは何であれ概ねそんなもの、日々の流れの「そういうもの」としてことさらに意識されることのないようまるく収め、回収してゆくのがその本領であり、本質です。

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けれども、その制御の文法の外側から、〈それ以外〉がうっかりと訪れてしまう想定外も、現実にはあったりする。
選挙がらみの「政治」の集会に、そういう「その他おおぜい」がそれなりに大挙して押し寄せてしまった。だからその集会の「場」は想定されていた当事者間尺の「関係」の完結性を崩されてしまい、流通可能な調整済みの情報のありようもまたうまく保ちにくくなり、という次第で、かくて今回の選挙戦における高市総理の応援街頭演説の全国巡幸は、「人気」「熱狂」「盛りあがり」といった通りいっぺんのもの言いの系で収めようにも収まりきれない、どこか微妙な違和感を報道の字面にも雑味のように漂わせながら、語り継がれていったもののようでした。
確かに、人数は多かった。普通に1,000人規模、大きめの場所や激戦区の候補への応援、選挙戦的に節目のタイミングだとそれ以上、中には一万人近く動員したという観測さえありましたし、またその中身についても、これまでのこういう集会の例からすると、若い世代や女性の姿が確かに目立ってもいた。そういう意味でもいわゆる選挙がらみの「政治」の集会としては異質な場が現前していた、それはひとまず確かだったらしい。なのに、微妙な違和感がその場の印象としての語られ方ににじみ出していたように感じたのはなぜか。
おそらく、でしかないのですが、その理由のひとつには、その場に立ち会っていたそのような〈それ以外〉も含めた「その他おおぜい」のうち、果してどれくらいが実際の投票行動に結びつくのだろう、という生真面目な懸念、ないしは不安みたいなものが、漠然としたものではあれ、言語化以前の戸惑いと共にあったように自分は感じています。

これまでの「政治」集会としては異質な人がたが想定外に集まってはきたけれども、でも、だからと言ってこれらの「その他おおぜい」は来るべき投票日に実際に投票所に足を向けてくれるような人がたなのか、その点について確信持った判断ができない。それがその場に仕事として赴いていた主催者側や警備、報道陣などはもとより、同じ「その他おおぜい」として制御される側に身を置いていた「現地実況」「証言」勢であるSNS上の名無したちまでも含めて、鈍く共有していた感覚だったのではないか。
なるほど、みな一様にスマホを掲げ、動画の撮影をしていた。応援グッズを手にしながら、ただじっと前方を見つめていた。安倍元首相の「暗殺」以降、この種の選挙がらみの街頭演説や集会での警備状況は厳戒化されているから、演者からは一定以上の距離を置かれる会場のつくりになっているし、現場周囲の見晴らしのいい場所も用意周到に立ち入り禁止、お目当ての高市総理の顔はおろか姿でさえもどうかしたらまともに肉眼では見ることのできない、そんなその他おおぜいの群れにモブとして巻き込まれるだけの可能性が高いのに、それでも静かに、おとなしくその与えられた場所で「推し」の語りに耳傾けているように見える。
「主婦の佐々木瞳さんは3日、「さなえさんありがとう」と書かれたボードを掲げながら、高市氏の演説に耳を傾けていた。」
「 「高市氏には「信念があるし、政策が明確であること、日本を他の国から守ってくださる強い意志がある」と言う佐々木さん。「全面的に応援していこうと思っている」と語った。」

でも、だからと言ってそこに何か生身の裡の何ものかが動く気配はそれほど感じられない。生身は確かにその場にいるのに、でもそこにしっかりと「いる」ようにも見えない、そんな感じ。演説の声を実際に耳にしているだろうに、うなずいたり同意したり、あるいは首をかしげたりといった具体的な反応も乏しい。かつての演説会なら「ノウノウ」「ヒヤヒヤ」などと横文字由来の直訳の合いの手が入ったようだし、あるいは「異議なし」「ナンセンス」などの少なくともこれまでのいわゆる「政治」の集会においてあり得てきたような、そして「そういうもの」として理解されてきたような種類のわかりやすい「熱狂」や「興奮」、あるいは「支持」や「共感」などをはらんだ共同性、何よりもその場に具体的な「関係」を取り結んでいることがくっきりと見えるコール&レスポンス的な応答の筋道が現前していただろう。なのに、そういう理解に自然に収斂してゆかせることが可能になるような何らかの糸口も、その眼前の「その他おおぜい」からは探り当てにくい。
これらの「その他おおぜい」は高市の「支持者」なのか、それとも単なるミーハー、アイドルの追っかけや推しと同じ「ファン」でしかないのか。生真面目に「政治」を考え、各政党や候補者の主張や政策、人となりを理解し、自分の頭で考えて主体的に判断する、そんなあるべき一人前の「おとな」の有権者とはどうも言いにくい。だとしたら、ここに足を運んでいるからと言って投票所に行くとは限らない。その程度にいい加減で無責任な、選挙において常に〈それ以外〉の余計ものとして扱われてきた「無党派層」のいまどきであり、たとえ投票したとしても「浮動票」の一部でしかないのではないか。街頭演説でいくら人気を博し、湧き立つような歓声に迎えられていても、いざ開票となったら全く掌返しな結果にしかなっていなかった、そんな悲喜劇はこれまでの選挙でいくらでもある。「選挙は水もの」というのはまさにそういうことで、いまこういう想定外の「その他おおぜい」が押し寄せていても、そのまま票として獲得されるわけでもないのが通例。だからこの先、想定される事態というのは……
「(ある専門家は)「一気に好きか嫌いかになってしまうので、そこがやはりSNSの推し活化選挙の危ういところだ」と指摘。若者は飛びつくのも早いが、「去るのも早い」と語った。」
そして、それら微妙な違和感に対するひとまずの答え合わせは、あの開票結果がとりあえずこれ以上ないほどわかりやすく、何かを思い知らせてくれるかのようにくっきりと示してくれていました。


あの結果をどう〈いま・ここ〉の〈リアル〉として穏当に受け止めることができるのか。何も選挙や「政治」に関わる場だけでもない。この生身を介して「関係」をつむぎ「場」を編み上げ、何らか「上演」を介して「現場」の〈まるごと〉を同時代の現実に織り込み続ける、いずれそのような「当事者」としての主体、「市民」でも「個人」でも「人間」でも名前など何でも構わない、そのような実存がいま、どのようにこれまでと異なるかたちをこの情報環境下にうっかりと具体的に現前させ始めているのか。
「高市さんの街頭演説を聞きに行ったが、人が多すぎて姿は見えない、声は聞こえないと雰囲気を味わっただけだった。若い人が多い。人気の高低は置いといて、政治への関心を高めてくれればいい。
一般人だろうか、決して婦警ではない女性がしきりと声をあげて交通整理をしていた。こんな人もいていい。」
