鳥山明逝去、に寄す



 今こそ、ドラゴンボールを集めに行かねばならん――わが国のみならず、世界中がそう思ったようです。

 鳥山明急逝の報がweb環境を介して瞬時にかけめぐりました。享年68。急性硬膜下血腫とのことでしたが、その衝撃は国内もさることながら、むしろそれ以上に世界規模での反応の大きさが伝わってくることによって、戦後の過程で高度経済成長の「豊かさ」を原資として結実させていった、でも、実はそれらについて本気でそう深く考えてもこなかったある種の「文化」が、知らぬ間に持ってしまっていた現実的な力量について、われわれ日本人に思い知らせることにもなりました。

 鳥山明というと、自分などは、どうしても「まんが家」としてまず認識してしまっています。「ドラゴンボール」以降の、ジャンルも国境もかろやかに超えたすさまじい確率変動ぶりと共に育った若い世代にとってはそんなこじんまりした印象ではないらしいのですが、さりとてこちとら旧世代、いまさらそれを今風にそうそうアップデートする気にもなれず、またその必要も正直、切実に感じていなかったのでそのまま放置で推移。ただ、そんな老害化石脳であっても、単なるマンガ家どころではない、さまざまなメディアを介して転生してゆく「おはなし」世界のはじまりを創出したある種創生神話の創造神のような存在になっていたことくらいは、さすがに理解していました。そういう認識のズレについての現実を、今回その逝去によって、ほれ、少しはちゃんとその前世紀的化石脳丸出しな「まんが家」イメージを修正しとけよ、と、あらためて現在形で突きつけられた感じではあります。
 
 敢えて昔語りとして言うならば、もちろん「Dr.スランプ」の鳥山明としての存在が大きかった。連載開始が1980年。まんが自体が単なる子ども向けのおもちゃなどでなくなっていたどころか、同時代ののっぴきならない表現として存在するようになっていたものの、当時すでに学生だった自分などには直接刺さることの薄くなっていた『少年ジャンプ』の、それもその頃の基準としても相対的に低年齢向けなしつらえにはなっていた作品ではありました。

 それでも、初めて接した時の感覚はそれなりに覚えています。あ、イラストっぽいな、というのが最初の素朴な印象。と同時に、おしゃれだな、というのも、また。

 その頃、そのような表現はまんが作品にもちらほら現われ始めていて、自分としては、当時新たに創刊されてよく読んでいた雑誌『ビックコミック・スピリッツ』の「軽井沢シンドローム」(たがみよしひさ)や 「裂けた旅券」(御厨さと美) などと同じような、同時代気分に根ざした親しさ、好ましさを感じたものでした。

 ただ、それが『少年ジャンプ』という「少年まんが」の牙城であり王道を行くとされていた雑誌の誌上にいきなり出現したことは、なんというか、「友情・努力・勝利」と揮毫された巨大な扁額の掲げられた男子校の校庭に、当時すでに大きな市場を獲得していたファンシーグッズと呼ばれる子ども向けの文房具や雑貨、それこそかのサンリオ系の「かわいい」キャラクターのついたキラキラ感あふれる小物類を身にまとった「少女マンガ」的世界がいきなり降臨したような場違い感があって、だからこそ、そのおしゃれなポップ感みたいなものも余計に際立って読み手の側に印象づけられたように思います。

 今回の逝去の報に際して、これとほぼ似たような印象を衝撃と共に受けとった当時の読み手たちの追想や思い出などがさまざまに流れてきて、その言い方などさまざまなのは当然としても、単なる一般の読者、商品まんがの消費者としてだけでなく、すでにその頃、現役のまんが家であったり、何らかそのような現場で仕事をしていた人たちも含めて、ある同時代体験として鳥山明とその表現の出現がひとつの事件でもあったらしいことを再確認できました。そうか、やはりみんな、あの時同じような印象を受けていたんだ。

「鳥山くんが登場して、プロがみんな驚いた。こんな描き方があったのかと驚いたのだが、それは鳥山明だから描けたのだ。俺は、指を咥えて見てたな。」

鳥山明が現れたときの衝撃というのは、物心ついた時にはすでに鳥山明がいた世代の方には想像しづらいかもしれないが『Dr.スランプ』の連載がはじまる前週の少年ジャンプ表紙を見れば、当時のジャンプキッズが受けた衝撃をわかっていただけるのではないだろうか。」

「初連載のDr.スランプの第一話から、もしかするとジャンプで一番絵が上手かったので、何この新人⁈ と驚いた。最初期からあんなに絵が上手かった漫画家というのは他にいなかったと思う。画力面での当時のライバルで、鳥山明と共に日本の漫画を変えてしまった大友克洋でさえ最初からああではなかった。」

 そして、こういうシンプルな、でも貴重な断片も、また。

「あられちゃんがかわいくて、女子でも好きな少年漫画になりました!」

 「少年まんが」「少女まんが」という区分けが厳然としてあって、相互に読み手も棲み分けしていた、少なくとも「そういうもの」とされてきていた、それが実質的に煮崩れてゆく過程が概ね1970年代に入る頃から始まってゆき、最終的にその流れが決定的になったのが、ちょうどその頃80年前後。そんな当時の空気を支えるささやかな証言です。

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 手塚治虫という「(日本の)MANGA」の定型として海外からも受容されてゆく「ストーリーまんが」の創造神を介したトキワ荘系統の描き手たちの表現は、そもそもが「児童まんが」であり、また、そこから派生してその後、昭和30年代以降、高度成長期を通じてみるみるうちにその市場を急激に拡大していった紙媒体ベースのまんが市場に躍り出てさまざまに活躍していった多くの描き手たち自身の価値観・世界観もまた、概ねそこから動かなかった。それは当時、まんがだけでなく、子どもを相手にする商品市場が多様に、急激に拡大、伸長していった戦後の過程で、「おとな」が「子ども」のためによかれと思う創作物を商品して市場に送り出してゆく際の言わずもがなに守られるべき一線として、まさに「そういうもの」として自明に共有され、また、ある時期までは実際に準拠枠として、市場を持続可能なものとして穏当に制御するプロトコルとして機能していたものでもありました。「少年まんが」「少女まんが」という区分が、戦後のまんが市場において自明のものになっていたのも、戦前の子ども向けの雑誌市場以来の流れが出版業界に引き継がれていた下地と共に、戦後に新たに輪郭を定めていったそのような「児童まんが」という前提の上に新たな責任ある立場における子ども向け商品となったまんが市場と向き合う現場の論理に後押しされたところもあったのかもしれません。

 とは言え、その「児童」に当初込められていた意味や内実も、みるみる変わっていった当時の時代相と共に補助線にしておかないと間違いのもと。たとえば、手塚の造形したあの鉄腕アトムは、巷間割とそう思われているような「少年」ではなく、作品世界を介した社会的な意味あいにおいては、むしろ「児童」だったでしょう。もちろん、当時の「児童」は、その内実にまだ自明に男の子が前景に配置されているところはあったわけで、その意味では世間的な理解の水準として男の子の手軽な置き換えとしての「少年」へと横転してゆくのもわからないではないですが、しかし、描き手である手塚の意識としても、そしてまんがを世間に認められるものにする、そうせざるを得なくなっていた状況も含めて当時そのような立ち位置にあった出版業界の事情としても、「児童」のための「役に立つ」商品としての属性を前面に出して主張してゆく必要があった、それゆえの「児童まんが」という言挙げというところはありました。

 事実、その頃の「児童」の意味や内実には、それに対応していたはずの「大人」の意味や内実と共に、その当時の意識や感覚、価値観などに即したものがありました。特に、敗戦後間もない頃の言語空間においては、敗戦国日本の将来を託すべき存在として、そして占領軍がGHQ主導でもくろんだ本邦「民主化」の目標における重要な項目のひとつとして、それは「教育」と併せ技で大きな社会的な意味を背後に背負わされた語彙でした。「憲法教育基本法児童福祉法など子どもの人権を定めた戦後の民主的改革のながれの結晶として、それらを踏まえて日本の子どもを総合的に守り育てる社会の課題と大人の役割を明らかにした」という児童憲章が制定されたのが昭和26年5月5日。戦後の日本国憲法の「民主化」関連部分を、少し前まで「少国民」であった子どもに向かって下位互換したかのような、言わば「民主化を将来支えてゆく新生日本国民のためにわざわざ誂えた憲法」のごとき内容は、〈おんな・こども〉の主体化という戦後レジュームの未だうまく合焦されぬままの隠しテーマを現在の地点から言語化してゆく上でも興味深いものです。そんな「児童」はその後、なしくずしに「子ども」という言い方に開かれてゆくのですが、そしてそのことでぼやけていったものも「民主化」という脈絡においてその初志と乖離してゆく過程としてあれこれの問題が実は膨大にあったりするのですが、それはまた別の話。

 そのような当時の「児童」に対応する「大人」と、その後の過程で開かれていった「子ども」に対応する「大人」との間にもまた、明らかに別ものになってゆく経緯がありました。共に「大人」という自明の存在が前提にあって初めて輪郭の定まるようなことばではあったにせよ、「児童」が「子ども」へと一見わかりやすくなり、世間一般その他おおぜいの理解力に近づいていったかのように見えてゆくのに見合って、その背後の準拠枠であったはずの「大人」もまた、その内実を変えてゆきます。

 「戦後、強くなったのは女と靴下だ」などと当時、自嘲気味に言われたというもの言いに象徴されたように、戦争に負けた「敗戦」の責めを日常において良くも悪くも引き受けざるを得なかった社会的存在としての「男」とほぼ重なる表象だったそれまでの「大人」は、その輪郭を支えられるだけの内実を自らそのまま維持することが難しくなりました。「恐妻」というもの言いがこれまた半ば自嘲気味に、それでもまだなおかろうじての余裕と共に韜晦的に使われるようになったのも同じ頃。*1 同様に、「父親」「父性」などといった「大人」としての男に必然的に求められていた属性もまた、「戦後」の「民主化」による意識や価値観の変貌に伴い、それまでのような自明の権威を失ってゆきます。その結果、戦後の大人は、それまでのような意味での社会的存在である男というだけでなく、同時に「親」であり「保護者」であることも当然に要求されるようになり、そのため必然的に「家庭」に依拠したものにもならざるを得なくなってゆく。そして、そうさせてゆく原動力となったのは、戦後のそれまでと違う位相での大衆社会化の現実であり、その中で〈おんな・こども〉を新たな社会的主体として組み込んでゆく動きとしての、当時の同時代を生きた人がたにとっては「そういうもの」としての〈いま・ここ〉であった戦後的な過程でした。*2

 つまり、「児童」に対応する「大人」は社会的存在であり、むしろその社会的存在という部分だけで規定されているようなものでした。そのような意味で「児童」というのもまた、主に社会的存在としての属性に重心のかかった意味づけになっていて、社会的な文脈において語られる場合にこそうまくなじむ語彙だったようです。

 それら社会的存在としての「大人」に「家庭」は意識されていなかった。いや、実際に世帯はあったし、だから家庭だって現実に存在してはいたのですが、でも、当時の「大人」というたてつけにとってそれは第一義ではなく、あくまでも社会的存在としての輪郭を背後で、まさに「内助の功」的な意味で「支える」のが「家庭」であり、行政的な、また家計経済的な視線からの「世帯」でした。戦後、そのような背景となる社会的環境の変化に伴って「大人」もそれまでと異なる内実を宿すようになってゆく。その新たな戦後的大人に見合うべき存在として、「児童」もまた「子ども」へと、より開かれた語彙へと転生してゆきました。*3
 たとえば、「児童」では男女の性差はさほど前景化されていませんが、「子ども」になると男の子、女の子という区分けがくっきりしてきます。「少年」「少女」というもの言いも同じように、戦前までのそれらの語彙と異なる内実を宿しながら「子ども」に包摂される男の子/女の子に対応した場所に再配置され、その結果、「少年まんが」「少女まんが」というもの言いもまた、ようやくいまのわれわれが普通に理解するような内実と共に整うことになってゆく。*4
 かつて、江口寿史に取材で話を聞く機会があった時に、「子どものために描くという意識はありますか?」という趣旨の質問をしたら「ありますよ」と、あたりまえじゃないですか、と言わんばかりの表情で、かるく口をとがらせ気味に昂然と応じられたのをよく覚えています。ああ、鳥山明と同じ時期に、まさにおしゃれでポップでイラストのような新たなまんが表現を切り開き始めていた旗手のひとりだった彼にもまた、そういう「児童まんが」由来の使命感や責任感みたいなものがやはりあるんだな、と、その時は我が意を得たり的にひそかに納得したものでしたが、ならばさて、それからすでに30年ほどたった現在、いまの若い世代のまんが家たちの裡に、そのようなかつての「児童まんが」由来の「子ども」への使命感や責任感みたいなものは、果たしてまだ宿っているのかいないのか。宿っているとしたら、それはどのような内実を伴っているものか。

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 このように考えてゆくと、鳥山明が「まんが家」として世にあらわれた80年代初頭という時期は、「少年まんが」「少女まんが」の区分けが10年ほどかけて実質的に煮くずれてゆき、その結果、期せずして「児童まんが」への回帰が、敗戦後のそれとはまた違う位相で不可逆的に起こりつつある時期だったのでしょう。

 思えば、イラスト的でおしゃれでポップ、という鳥山明の描く作品から抱いた第一印象は、違う方向から言うなら、そのまんがのひとコマを単体の絵としてイラスト的に賞翫できる、ということでもありました。それだけのクオリティが彼の描く絵にはあったし、自分が好ましく読んでいたたがみよしひさ御厨さと美などの作品も基本的に同じこと、先の江口寿史にしてもまんがからイラスト的な方向に転生ないしは脱出していったことなども考えあわせれば、当時あちこちに出現し始めていたそれら新しいまんが表現を擁する作品群を介して、まんが作品を手塚由来な「ストーリーまんが」としてだけでなく、そのように単体としての絵として観る/読むリテラシーの普及と拡散がすでに静かに始まっていたらしい。それは、まんがという創作表現に対する新たなある種の美的鑑賞眼が、広く世間一般その他おおぜいの間に涵養されてゆく過程でもあったんじゃないか。

 とは言え、そのような読み方は、実はいわゆる「少女まんが」の小さな読み手たちは、すでに自然にしていたようです。何もまんがに限らずそれ以前、たとえばぬりえなどおもちゃ類にも広く流用されていた、ファッションや小物といった個別具体に合焦したいわばスタイル画的な女の子向け一枚絵の定型表現との関わり方の経緯来歴は、焦点を拡げれば戦前の竹久夢二の小物も含めた創作物市場の展開や消費のされ方から、『それいゆ』などの媒体を介して市場を獲得していった戦後にかけての中原淳一らの仕事の拡がりなども視野に入ってきます。また一方で、飛行機や戦車から自動車などのいわゆるメカものから怪獣などに至る男の子向け一枚絵の定型表現、雑誌の口絵や絵物語の挿絵、プラモデルの箱絵から、その後さらにグラビアやピンナップ的なポスターなどに至るまでの拡がりもまた、同じく日本語を母語とする環境において未だうまく合焦されていず、だから言語化にも連携していない広大な未発の「歴史」の地平につながってゆくはず。いずれにせよ、当時の鳥山明の出現というできごとも、それらの過程の中の大きな変異点のひとつとしてプロットするのが、まずは穏当な評価なのでしょう。

 そういう意味で、鳥山明という描き手は「児童まんが」へひとめぐりしたような、結果的に回帰する/できるようになった80年代以降の本邦のまんがをめぐる状況の中で、手塚以来の「児童」への責任感みたいなものを素朴に誠実にアップデートしながら、なお健気に抱き続けることのできた人だったのだと思います。藤子・F・不二雄が、彼の「Dr.スランプ」を、かつて自分たちがめざし夢見たような意味での「児童まんが」の後裔として高く評価していた、という挿話もありましたが、のちに世界的な拡がりを持つ創世神話的のような「おはなし」の創造神となっていった彼も、はじまりは本邦の「まんが家」として世に出たこと、そしてそれも正しくあの敗戦を介して結果的に現前化した「豊かさ」を後ろ楯にしながら成長していった戦後由来の「(日本)のMANGA」の歴史のふところに抱かれて初めてあり得たことの、それは何よりも雄弁な証言でした。

 「いま、藤本先生が注目しておられる、認められている児童まんがには何がありますか?」と尋ねたところ、「鳥山明さんの『Dr.スランプ』は凄く面白いです」という返事が返ってきました。「今、自分の考える“児童まんが”が描けているのは、鳥山さんだけなんじゃないかな」ともおっしゃって、ほめてらっしゃいましたね。」

「掟」ということ


 「掟」というと、なぜか耳もとで必ず再生される一節がある。

「光あるところに影がある…まこと、栄光の陰に数知れぬ忍者に姿があった…命を掛けて歴史を作った影の男たち…だが人よ、名を問うなかれ…闇に生まれ闇に消える…それが忍者の定めなのだ…」

 むかし、テレビアニメ「サスケ」の冒頭、オープニングに流れていたナレーション。いまどきの情報環境のこと、手もとのちっぽけな飛び道具からあれこれ掘って確認できるありがたさは言わずもがなだが、あらためて確かめてみると放映されたのが1968年というから、ああ、もはや半世紀以上も前、良くも悪くも物情騒然の世相真っ只中の昭和43年、こちとらときたらまだ小学生の真ん中くらいの頃だ。

 子ども向けのアニメ、いや、当時はまだテレビまんがと呼ばれていて、すでに夕方から夜の7時台、そろそろ高度成長の上げ潮に巻き込まれてくたびれ始めていた親父たちが、それでも何とか家にたどりつく時間を守ろうとはしていた端境の逢魔が時、われらガキ向けのそれらテレビまんがが、あれこれどのチャンネルにも同工異曲で並び立つようにはなっていたのだが、しかし、この「サスケ」のオープニングだけは、いささか様子が違った。

 あれは当時流行っていたマカロニ・ウエスタン調と言えばいいのか、番組が始まり、導入部分に主題歌が入る前に、まるで歌謡番組の前説のように、まずこのナレーションが男性の声、それもニュース映画のアナウンサーのような調子でしぶく入り、またそのバックの音楽が、重々しくも厳めしい琵琶だか何だか太い弦の響きが低く合の手を入れてくるような代物で、なぜかよくわからないけれども、あ、これは明らかにおとなが本気出して作っているものであるな、ということがこちらの幼心にもビンビン伝わってきた。

 まだ正しく子どもだましだったその頃のマンガの世界に、あらたに劇画というたてつけが前景化してきた頃のこと、そもそも原作の「カムイ伝」自体、そういう劇画の代表的な作品とされてもいたから、そのへんの影響もあったのだろうが、いずれにせよ、当時のガキどもにとっては妙におとなっぽく、まただからこそガキならではの背伸び気分にもうまく呼応してくる、そして、ようやく人としての輪郭がいくらか整い始めた程度の未熟な耳にもくっきりと残る、まあ、それくらいの名調子ではあったのだ。


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 見ての通り、もとのセリフは「定め」となっていたのだが、この際それはどうでもいい。その頃、まごうかたないガキだった自分の脳内で、この「定め」は確実に「掟」と変換されていた。そして、その変換された先の「おきて」という発音、発声の響きも諸共にひっくるめて、このわれながらいい加減な記憶メモリーにいまなお色褪せずにくっきり書き込まれているのだから、この「サスケ」冒頭の朗読を介した一連のくだりの刷り込み加減、まずは大したものだったと言わざるを得ない。

 今回、何かのご縁でこんな折り目正しげな文学作品の、それもアンソロジー企画に関わらせてもらうことになった時、版元からもらったメイルに「掟」というお題を発見した際、まず思い起こしたのがこのことだった。

 マルクス史観だ唯物論だと、おとなたちからあれこれ取り沙汰されてもいたもとの劇画の「カムイ伝」はともかく、テレビまんがの間尺に移植された「サスケ」は、さすが子どもだましの王道よろしく少年忍者という設定だったから、当然、その「おきて」も「忍者」のものになる。忍者の掟――おお、なんといかめしくもおそろしい響きではないか!

 忍者という形象自体、戦前の立川文庫の猿飛佐助や霧隠才蔵などの水脈をたどりながら、当時また新たなブームになり始めていて、それは戦後、商業的に脚光を浴びるようになっていた時代小説・歴史小説に反映されたある種のモダニズム、ハードボイルド的なミステリー風味のヒーロー像の翻案のようなところもあったのだろう。司馬遼太郎出世作梟の城』や山田風太郎の『柳生忍法帖』以下のシリーズものから、果てはなんと『赤旗』までが連載していた村山知義の「忍びの者」でさえもあっぱれ映画化されるほどのある種見境なしの人気を博していて、それらの同時代的な熱気は当然、その頃新たな市場として存在感を示し始めていた子ども向けの読みものや絵物語、マンガその他の「おはなし」商品にまで影響を与えていた。そんなこんなで「サスケ」の忍者イメージもまた、そのような拡がりを背景にわれらガキの心にもリアルに映っていた。ひとりひとりは名も無い匿名の、陽の当たらぬ集団というそのありようは、後のショッカーや人間モドキなど、怪獣ものからライダーものや戦隊ものへと至る「おはなし」につきものになる匿名の悪役集団のイメージにまで揺曳してゆくことになるのだが、それはともかく。

 そのような形象として前景化していた忍者は、同じ「おはなし」空間の融通無碍を介して、おそらく「やくざ」や「愚連隊」や「軍隊」に、そして「不良」や「族」に置き換えてもおおむね成り立つようなものだった。おとななら「組合」や「党」もあり得ただろう。つまりそういう集団、そういう組織、そういう人の集まりを下地にして初めて〈リアル〉であるような形象。「忍者」に重なる「掟」という語彙との複合で立ち上がってくるのは、そういう種類のどこか禍々しく、窮屈なおっかないイメージでもあった。

 とは言うものの、当時すでに身の回りに、そのような「おきて」の響きに見合うような、逃げられない決まりや約束ごと、まさに「定め」と言うしかないような宿命的で、個人の都合や思惑、意志や気持ちなどでどうこうなるようなものでもないきつい縛りの類は、実際には影を潜めつつあった。

 いや、そりゃいまどきから比べたらまだ体育会系の部活には無理偏にげんこつの上下関係がしっかり生きていたし、「しぼり」と称する旧軍由来とおぼしき理不尽なしごきも各種健在だった。外を歩けばこわい年上、ガタイからしてまるで違う体力まかせで剣呑ないきものたちがどんよりとたむろして濁った目線を向けてくる暗がりもあったし、何より小学校の教室でさえも、ちょっと度を超えたはっちゃけ方をすれば、おとなである教師からの平手打ちも普通に飛んでくる、まあ、そんな状況ではあったのだが、けれでも、少なくとも当時それら眼前の現実と共に、それとは裏腹に「そういうもの」にもなりつつあった別の約束ごとからすれば、「個人」の意志、「自分」の判断によってそのような不条理や理不尽は避け得るもので、時と場合によっては決然と抗っても構わない――そういう感覚もまた、すでに相当に共有されるようになっていた。「民主主義」というその頃最も輝いていた「そういうもの」の、最もわかりやすいわかられ方の個別具体なたとえとして。

 おとなたちの世間においてもそうだったろうし、まして子どものこと、おとなの世間以上により濃縮され、蒸留されたかたちでそのような、「個人」の「自由」こそがあるべき正義、という考え方が、主に「学校」を介して、そして家の中に入り込み始めていたラジオやテレビなどからも後押しされながら、その頃の日常にあたりまえに呼吸され始めていた。実はそれが現実にはどれくらい大変な、誰もがおいそれと享受できるものでもなく、また何よりそうしていいものでもないかもしれない、といったあたりの本来あるべき留保や思慮、あとあと齢を重ねてゆくうちにあちこち頭をぶつけ、背中をこづかれたりしながら思い知ってゆくおとなの事情なども含めて味わえるようになって初めて十全なものになるはずの「おきて」という響きに本来ふさわしい奥行きや陰翳については、もちろんその頃思い至れるはずもない。

 だからこそ、だったのだろう。その「掟」という言葉には、その響きの聞こえてる拠って来たる先に、少し前まであたりまえに現実であったらしい世の中のありよう――それは「ムラ」であり、農山漁村であり、あるいは「戦前」の「軍隊」であり、いずれ眼前のおとなたちがおとなになってきた過程で確かに生きてきたらしいonly yesterdayな現実の一部であり、同時にそれは「個人」の「自由」など平然とないがしろにされるような〈リアル〉でもあった現実を、数珠つなぎにぞろぞろと引きずり出してくる触媒みたいなところもあったのだ。

 自分たち子どもの知らない、まだ生まれる前の現実。親やまわりのおとなたちは確実にそこを生き、呼吸しながら〈いま・ここ〉に至っている、でもわれらガキにとっては絶対に届くことのないままになっていて、断絶と連続が共にはらまれてある、そんな〈リアル〉。「掟」がその背後にうっかりと垣間見せてくるもののおっかなさの来歴は、たどってゆくとどうやらそんなあたりに重心がかかっているらしかった。

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 音からしておっかないだけではない。「掟」は漢字にしても、またひらがなに開いてみても、眼にもどうにもいかめしい。

 字引きを繰れば、ざっとこのような意味が並んでいる。

  1.  守るべきものとしてすでに定められている事柄。その社会の定め。決まり。また、法律。法度 (はっと) 。
  2.  かねてからの心づもり。計画。
  3.  取りしきること。処置。処分。また、指図。命令。
  4.  様式にかなったものの扱い方や配置のぐあい。
  5.  心のもち方。心構え。心ばせ。

 「そういうもの」という言い方を自分はよくするけれども、まさに理屈ではない、とにかく自明にあたりまえにそうすべきという約束ごととしてある、そんな感じ。そして当然、その約束ごとはそれが律する先にある世間、具体的な集団なり組織なり、生身の人間たちが肩寄せ合って生きる具体的な関係と場に、しっかり紐付けられている。

 法律の世界で慣習法などとくくられる領分なども、ごく広い意味では「掟」ということになるのだろうが、それも同じこと、ひとり個人としてのこの自分にとっては不自由をもたらす根源であり、好き勝手にわがままに振る舞い、行動することを厳しく制約してくるもの、という意味では、なるほどこれは「個人」の「自由」を無上の価値と定めてきた戦後民主主義的な言語空間においては否定されるべきいやなもの、あってはならないもの、といったネガティヴな意味しか付与されまい。

 人が生きてゆく上で所属せざるを得ない、自ら選んだものでなくても「そういうもの」としてそこに「ある」集団や組織を前提に共有されているルール。もちろんそれは文字になり、紙に記されるものでなくても構わない。その場の誰もが「そういうもの」として認識し、だからそれに従うことは理屈以前のあたりまえであり、逃げられないものである、と思っているのならば、それで立派に「掟」は成り立つ。成り立って、眼には見えない規範としてその場の人間の行動を、その内心の都合や思惑などとは別に、ある一定の枠に揃えて流し込んでゆく力を持つ。

 だが、人ひとり、ただ生物的な個体としてあるだけならば、「掟」は成り立たない。成り立つとしても、それはその個体の裡にある何らかの縛りでしかない。それは生物的な側面からは単なる自然の法則、本能と呼ばれもするようなものに規定されているのだろうし、それらの水準をひとまず措くにしても、単に胡乱な信仰であったり信心であったり、どのような契機からであれその人が自ら決めたごく私的なルール、他人には関係のない内的な軌範でしかなくなる。そのように外側から強制されるモメントが欠落した「掟」は、その個体であるひとりの執着や妄念、今風に言えば「こだわり」であったり手前勝手な思い込みによるゲンかつぎのようなものであったり、いずれそんなものにしかならない。それは個体の内面に関わるものであるかもしれないが、しかしまだ個体の制限を越境してゆくような、人としての「個人」の生成にはつながってゆかない。

 つまり、こういうことだ。自分以外の個体が複数寄り集まっている「集団」が前提になって、その相互の関係と場とに共有されているからこそ、「掟」は社会的規範となり、個人としての自分の内面との対抗軸を形成するようになる。個人の私的な規範としての「掟」は、どこまでいっても内的規範のまま、そのままでは社会的な縛りにはならない。社会的な縛りが個人の内的規範と通底してゆくことがあって初めて、「掟」は個人を否応なく縛るものになる。社会と個人、集団と自分、群れと個体、いずれ西欧近代的な、あるいは文明的と言い換えてもとりあえずは構わないとされているような、あのくっきりとした二分法を前提にすれば、このような区分けと説明になるのだろう。

 とは言え、近代的な成文法というニュアンスは、そこではまだ薄い。あくまでも慣習法として、理不尽と思えるような不合理や不条理も含みながらもなお、その社会、その世間においては何らかの実利、実際的な必要に根ざして機能しているもの。「伝統」であり「慣習」であり、何でもいいが、しかし実はそのように言語化もあまりされていないような、まさに「そういうもの」。それが「掟」という語彙が常にまつわらせているあの不気味な剣呑さの、最も核の部分になってくる。

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 たとえば、「むら」の掟、といったもの言い。「いなか」でも、あるいは「いえ」でもいい。いずれ先祖代々としか思えない昏い因習の裡にまどろんだまま、いまだ唯々諾々とそれに従って生きる「遅れた」「開かれない」人たちの形象。昨今でも「地方」という言い方で、それらかつての「掟」と地続きと見られるその土地ならではの習い性がなにかのきっかけで明るみに出てしまい、巷のニュースを賑わせる。

 マチから入り込んだ人間を排除する。いまどきのものさしからすれば理不尽で何の得があるかわからない習慣や行事を強制される。それによって「自由」な「個人」の、あるいはそれらのフラットな集合体であると素朴に思っているようないまどきの「家族」の行動にあらぬ制約が加えられ、いずれ何らかの葛藤が生じて、あげく地元の人々との間に問題が現前化してゆく。新聞や雑誌などメディアに捕捉されれば、型通りに「掟」は悪者に据えられ、そのように「おはなし」が紡がれてゆくし、あるいは、学者や研究者に捕捉されれば、その裏返しとしそれらは尊重すべきもの、是非はともかく立ち止まって忖度されるべき「文化」として「伝統」「伝承」として、また別の「おはなし」に流し込まれてゆく。しかし、いずれにせよ「掟」そのものの全き現前、〈いま・ここ〉の裡に根を張る「逃げられない」現実のそのまるごとのありようについては、それらの「おはなし」では十全に表現されることはなく、ゆえに「掟」の現在は常に〈それ以外〉の領分を包摂しながら疎外されてゆくしかない。

 しかし、そのような「掟」に類する縛りや「逃げられない」現実というのは、かつてある時期までなら誰であれ、どこか必ず自分ごととして感じとれる身近なものだったはずだ。何の関係も場も共にしないよそものの意識と感覚とで被害者的にだけ受け止めたり、あるいはそもそもが無関係な観客目線でテーマパークのアトラクションのようにただ賞味することのできるようなものには絶対になり得ないものだった。どのような形であれ、他でもないこのおのれの生身の出自来歴から実存にまで否応なくからんできてしまう、できれば避けておきたい領域にまであつかましく侵入してきてしまう、「逃げられない」現実というのはそのように疎ましくもぼってりと重い、この世に生きてある上で必ず隣り合わせのものではあったはずなのだ。

 ならば、その疎ましくもぼってりと重い「掟」というもの言いに見合うほどの、現実の人間関係からもたらされる生きづらさ、どうしようもない閉塞感といったものと、しかし結局はその縛りの裡でしか生きられないこの矮小な個体としての自分、という双方の間の距離感を、さて、どのような形で昇華し、心ゆかせにしてゆけるのか。実はそれが本邦近代の表現のひとつの宿命、それこそもうひとつの見えざる「掟」になっていたらしい。それらの縛りからいかにそれぞれが逃れてゆけるのか、それが個々の処世や具体的な世渡りとはひとまず別のところで、だからその分だけ抽象度の上がった「おはなし」の水準において、身にしみるだけの何らかの処方箋を示してくれるところもあったのだろう。巷間「文学」と呼びならわされてきたような、いずれとりとめなくもさまざまな表現の背後には、そのような現実の「掟」と合わせ鏡のように宿っていたもうひとつの見えざる「掟」が共に、あるまるごととして必ず横たわっている。

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 「掟」と呼ぶしかないような縛りが「逃げられない」現実としてあり、その内側で忍耐を重ね、日々をやりすごしてゆく――それが常の人の生であり、生きることの内実だった。「苦労」や「辛抱」、「修業」といった言葉で表現されるしかないような、それ自体は間違いなく不条理で理不尽な過程であり、生身の個にとって逃げ出せるものならば逃げ出したい環境。しかし、それはどのような世間で生きるにせよ概ね「人の世の習い」であり、「そういうもの」で回収されるしかないような現実でもあった。だからこそ、それ以上の言語化や表現は必要とされず、そちらへ向かおうとする気配すら同じ「掟」の間尺で事前に巧妙に抑圧されることになっていた。少なくともある時期までの本邦においては。それは社会的存在として一人前の道筋が明確に示されていた男にとってだけでもなく、「家」の中に縛りつけられるのがそれこそ「掟」であった女にとっても、基本的に同じこと。かつて、福田定良は「踊る宗教」の教祖として戦後、一時期世間の注目を集めた北村サヨについて論じた際、こんなことを言っている。

 「私の知人に東京の下町そだちの夫人がいるが、彼女は結婚すると、三年間、どんなに無理なことでも、はいはいと辛抱しぬいた。だが、三年たつと、彼女は夫や彼の両親を前にして開きなおり、これからは私も言いたいことを言わせてもらいます、と宣言した。彼女も、もともと陽気な娘であったが、その明るさをとり戻すには三年間の辛抱と家事の熟達が必要だったのである。」(福田定良「北村サヨの神聖な喜劇」)

 繰り返す。男も女も同じこと。この世に生まれ、生き延びてゆく上において、人にはわけへだてなく「苦労」「辛抱」の過程が必ずあるもので、それに耐えて忍んで初めて何らかの自意識もつくられてゆくものである。そして、その先には「一人前」という目指すべき出口があり、そこに至って初めて人は「個人」となり得る――味気なくほどいてしまうならおよそそのような理解が本邦常民の「民俗」レベルも含めた認識にまずあって、それを遵守しなければならないものにしておくためにこそ、確かな規矩として「掟」や「さだめ」もあるのだ、と解釈されていたらしい。

 それはなるほど「法」と言い換えてもいいようなものかもしれない。しかし、われわれがいま、普通に理解しているような意味での法律や規則といったものでもない。もっとそれ以前の、もしかしたら人の造りしものでもない、半ば自然環境と地続きであるかのようにずっとそこにあたりまえに「ある」もの。人の意志や思惑ごとき容易に変えたり操作したりできないし、してはいけないもの。「逃げられない」ということは、単に縛りがきついとか制裁が厳しいといったことではなく、何かそれくらい根源的で本質的なものに密接に関わっている、少なくともそのように感じられるものだったたらしい。だからこそ「掟」というもの言いの、あの剣呑な窮屈さにもなる。

 それら「逃げられない」現実に周囲を取り巻かれたこの場所でしか生きてゆけない、少なくとも当人たちはそう思っていたし、まただからこそ、その場その関係への忠誠心や執着も生まれてこざるを得なかった。なるほど個体としての「個人」は存在するし、その裡にそれなりの意識や感覚、感情もそれぞれ宿るけれども、しかし人はそれだけではない。それ以外の関係においてもまた、「個人」は身の丈の間尺を平然と超えてゆるく拡がり得るし、また融通無碍に場に共有されてもいる。その程度に、「個人」というのは生物的な個体の間尺とは、また別なものらしかった。

 なればこそ、言葉もまた、そのような拡がりに支えられてしか存在しないし、その限りでその届いてゆく範囲も響いてゆく空間も、また身の丈をあたりまえに超えてゆく。そのような〈いま・ここ〉のまるごと、人としての実存と紐付いた現実は、その意味において言語化の過程からも本質的に疎外され続ける。まただからこそ、そのような場所に生きる人々の表現も、それがどのようなものであれ、そのようなまるごとの共同性に向かってゆるやかに開かれた「おはなし」という現われを介してしか現前化し得ない。個人と紐付いた表現が基本的にあり得ず、常に不特定多数の匿名による創作でしか現前化し得ないという、文字以前の口承と話し言葉ドミナントな民俗社会における表現のありようとされる議論そのままに、表現もまたそのような生物的な個体と文化的な個人の間の関係性に規定され、個人と紐付いた主語と主体においてでなく、「逃げられない」関係と場の共同性の裡にこそ宿るものになっていた。

 だが、そういう「逃げられない」現実に囲繞された場所から、何らかの契機で、あるいは何らかの覚醒を経て、自分も含めたそのような現実をある距離をもって見ることができるようになることも、人にはある。たとえ鈍く、漠然としたものであれ、〈それ以外〉を見ることのできる視線が宿るようになって初めて、それら「逃げられない」現実もまた、何らかの表現のモティーフとして「そういうもの」から初めて対象化し得るものとなる。「逃げられない」関係やしがらみのまるごと複合体のようにしか思えなかった「掟」もまた、それまでと違う相貌で立ち現れ、また別の新たな読まれ方、受け取られ方をされてゆくようになる。その結果、「おはなし」も初めて「個人」の存在し得る現実に紐付けられ、対象化された「掟」の形象と共に、〈それ以外〉の明るみにようやくその姿を見せてくるし、それに伴い「個人」もまた、晴れていまのわれわれになじみのある装いで現前化する。

 どうしてか、って? だって、その「掟」に従うしかないという諦念しかないなら、そういう自分しか今後の生の可能性としてあり得ないのがほとんど全てだと思っているのなら、その「そういうもの」としての「掟」に従うことが望ましいことであり、無難な生き方にしかならないじゃないか。それを疎ましく思い、縛りと感じるこちら側が人としてある程度の新たな輪郭を獲得できるようになって初めて、その「掟」もまた、否定し反抗し、乗り越えるべき障害として、言わば悪役ラスボス的な形象として異なる輪郭をあらわにしてゆける。そうなってようやく「掟」は、「おはなし」のたてつけの中で、人の使い回せる素材として使い回せるようになる。そう、「掟」をそれなりに否定的媒介にすることができるだけの意識が人に宿るようになって初めて、「おはなし」の舞台での「掟」もまた、「個人」としての輪郭を確かにしてゆく足場として活用できるようになる。
「文学」と呼びならわされてきたような多様な表現も、そのような文学以前、「そういうもの」という自然から人として「個人」として晶出されてくるような主体のはじまりの過程をくぐって初めて、いま、われわれが意識し、捕捉することのできるような「おはなし」という形式を伴いつつ、誰にも見えるものとして現前化してきたのだと思う。

 だがそれも、たかだか常にまるごとの〈いま・ここ〉のある一部でしかないような表現なのだ。だからこそそれは、同じ〈いま・ここ〉の裡に棲み、生きる主体としての「読む」を介して、人としての「個人」の輪郭を維持し、持続可能なものにしてゆく営みに益するという「おはなし」本来の役割に正しく復員し得る。すでに「そういうもの」と化してしまって久しいように見える、日本語を母語とする範囲での「文学」の間尺においても、そのような可能性をまだ諦めることのない向日性ある主体が闊達に関わってゆくことで、本来そこに埋め込まれてあるはずの「おはなし」の〈いま・ここ〉における新たな相貌に相まみえることもまだできる、そのことはいま少し、信じておくことにしたい。

「国際情勢」を語る話法、その静かな変貌

 一時期、やたら取り沙汰され、とにかく理屈抜きにいいもの、正しい方向として喧伝されてきていた、あの「国際化」とか「グローバル化」といったもの言い、スローガンも、さすがにもう胡散臭いものというイメージがつきまとうようになってきたかも知れません。ウクライナへのロシアの侵攻に始まった戦争、ハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃とそれに応じたガザ地区へのイスラエルの反撃、紅海での通商破壊行為……いや、そんな海外ニュースレベルの話でなくとも、国内における外国人犯罪の増加や治安の悪化など、考えてみれば半径身の丈のごく身近な範囲から「国際化」「グローバル化」の〈リアル〉は否応なく、平等に日常に浸透してきています。そういう意味で、これまでと違った身近さ、日々の生活意識や感覚のレベルで 「世界」を意識せざるを得なくなっている。

 そういう状況に対応するという意味もおそらくあるのでしょう、テレビや新聞、雑誌などでそれら「国際情勢」を解説する専門家としての学者、評論家といった人々にも、これまでとは違う新しいタイプが、若い世代を中心に出現し始めています。

 たとえば、学者・研究者系でも、国際関係論、地域研究、軍事研究といった分野に足をつけた人たちが主流になっている。これまでならどこかあやしいもの扱いされていた地政学的な知見でさえも、割とすんなり混ざってくるようになっています。ウクライナの一件がひとつきっかけだったところがあるらしいのは、そもそもロシア自体がこれまでのそういう「国際情勢」報道においても盲点というか、かつてのソ連時代以上に実状がうまく見えなくなっていたところがあった上に、前世紀的な絵に描いたような「侵略」をいきなり始めたあたりで、本邦国内における「国際情勢」報道のこれまでのルーティンではもう何もうまく説明できないことが、さすがに明らかになったことが大きかったのでしょう。

 もちろん、それが商売に直結していた商社や輸出入に関わる仕事の関係、さらには外務省や防衛省その他、国政に関わる政策立案や安全保障の関連部署などは言わずもがな、「国際情勢」をできる限り正確に把握しようとすることが命綱だった仕事はこれまでもあったし、今もある。そのような立場にとって「国際情勢」を知るための手立ては、技術の進展や情報環境の変化に伴い、常にアップデートされているものなのでしょうが、ただ、それらとは別に、われら世間一般その他おおぜいレベルでの「国際情勢」というのは、たとえ「報道」などマジメな態をしながらであっても必ず娯楽、エンタメ的な消費を旨とする、いわば「おはなし」のコンテンツでした。そして、そういう舞台で「国際情勢」を語ってくれる専門家というのは、必ず「文化」や「芸術」を下地にしたそれら外国理解、世界の手ざわりを提供してくれるのがお約束だったように思います。

 ソ連ならばロシア文学、それこそドストエフスキートルストイからソルジェニーツィンなどに至る間尺で、もちろんマルクス主義や左翼思想も必須の素材でしたし、それらをもとに「文化」として、時には「民族性」や「国民性」として対象を理解する下地があった上に初めて、「政治」や「経済」「軍事」など時事的話題がトッピングされる。フランスだとフランス文学から芸術、美術の類、あるいはイギリスであれドイツであれアメリカであれ、はたまた中国やベトナムその他の非欧米圏であっても、「文化」や「文学」経由の「国民性」的な理解の文脈は、「国際情勢」の主役である「海外」「外国」を知ろうとする際、必ず前提になっていた印象がありますし、また事実、そのような語り口を持つ専門家や評論家がメディアの舞台では主流でした。

 なのに、昨今、メディアに露出するようになった新しい世代のそれら「国際情勢」の専門家や学者たちの語り口やたたずまいなどには、そういう「文化」「文学」的な下地はどうも感じにくい。それは、彼ら彼女らが立脚する国際関係論や地域研究といった分野自体の属性なのかもしれませんが、メディアを介した「おはなし」として「国際情勢」や「海外」「外国」を受け止める世間一般その他おおぜいの側にしても、それら「文化」「文学」的な下地の受容体がこれまでのように機能しなくなっているのかもしれません。それはおそらく、外国についてだけでなく、他でもない本邦国内の情勢に対する理解の仕方、わかり方、説明の仕方についても、同じような変化が起こりつつあると考えていいのでしょう。

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*1:このへんのお題とも関わってくる話、だとは思う。king-biscuit.hatenadiary.com

読み書きと「わかる」の転変



 最近、おそらくは老化がらみでもあるだろう事案ですが、あれ、これはひょっとしたらヤバいかも、と思っていることのひとつに、「横書き」の日本語文章が読みにくくなっているかもしれないこと、があります。

 いや、読むのは読めるんだけれども、腰を据えて精読してメモを取りながら読む、といった作業がどうもうまくできない。そのような本腰入れた「読む」、つまり「読書」と仰々しく呼ばれてきたような「読む」の作法は、やはり「縦書き」の、それも具体的なブツとしての紙媒体に印刷された文字列を相手取らないことには、慣れ親しんできた調子を伴う仕事にならないらしい。

 むろん、昨今の情報環境のことであり、それら読まれるべき文字列は、モニター画面に映し出されるテキスト情報だったりするのが大方なわけですが、これまで紙媒体の「横書き」もそりゃ読んではきたし、精読やメモ取りつつの作業にもそれなりに対応してきたつもりで、またそれで特に不自由を感じた記憶もなかったけれども、それがモニタ介して映し出される「横書き」の文字列になると話が違って、単に眼を通して流し読むくらいが精一杯になる。こちとらの脳みそとやりとりしながら行ったり来たり、時に気づいた単語や事項から脳内であれこれ枝葉を繁らせてみたり、そこから他の資料をあたってみたり、そしてまた眼前の文章に立ち戻って意識を合焦したり、といった、いずれ単線的な過程には決してならないような千鳥足あたりまえの「読む」が、うまく自然にできない。

 じゃあ、「書く」方はどうかというと、それはもうとっくに「横書き」でないとできなくなっている。もちろん、それも手書きでなく、キーボードを介したタイピングという作業を介して打ち込まれる文字列をモニタ上で確認しながら、ですが、そりゃあ、いまどきソフトやアプリの設定次第、縦書きの表示もできるし、モニタもくるっと回転させれば横長表示に対応できるのだけれども、でも、やはりモニタ上の縦書きというのもどうにもすわりが悪いもので、他の人は知らず、少なくとも自分はうまくなじめないまま。ならば、手書き肉筆での「書く」はどうか、となると、ああ、こちらも横書き、それももっぱらメモやノート、現場仕事の走り書きくらいになっていて、ある程度まとまった分量の文章を手書きで書きつづることは、思えばもうしなくなってずいぶんになる。ましてそれを縦書きで、と言われれば、ごめんなさい、ご勘弁を、と言わざるを得ません。その一方で、「読む」、それも精読的に自己言及的な過程も含みながらの千鳥足の道行きで読む方だけは昔ながらの「縦書き」の、それも紙媒体ベースの文字/活字を介してでないとうまくできない、という現在。こうしてあらためてほどいてみると、われわれの読み書きのありよう自体、個体差や環境適応度の違いなども含めて、いろいろとねじれてゆかざるを得ない状況にあるようです。*1

 確かに、単に目を走らせてさっと読む程度の「読む」、いわゆる速読的なものさしからすれば効率的だろう読み方についてなら、こんな自分ですらすでに横書きの方がスムースな気はします。まさに「速度」優先、単なる表面的な情報摂取の効率性で考えるのなら「横書き」の方が合理的ではあるのでしょう。このあたりでもう「読む」の意味が違ってきている。なにせ是非はともかく「行間を読む」なんてことが小学校以来、国語の授業で言われてきた世代でもあり、まさにそういう眼光紙背に徹するような読み方、眼前の紙媒体の文字/活字に正対し、時間も手間もかけて精読してゆくことが「読書」の本義である、といった考え方が骨がらみにこの身にも刷り込まれているらしいことに、いまさらながらに思い至ったりしました。

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 いまどきの若い衆世代の読み書き――この場ではとりあえず「読む」の方に合焦しておきますが、そのようなわれわれが身に刷り込まれてきたような「読む」とはまた違う文字/活字の読み方をしているらしいことは、学生たちとつきあう中で、以前から何となく気づいてはいました。それは単に文字/活字の読み書きだけでなく、身体を介して摂取する外部情報一般に対する解読の仕方の違いにも関係しているようで、それによって現実の編制から〈リアル〉のありようにまで、そうとはうまく可視化されないまま、でもかなり深刻な違いがすでに同じこの日本語を母語とする同時代環境にはらまれていて、そのことはそろそろ日常あちこちで、さまざまな形で指摘され始めています。

 たとえば、これは、とあるSNSでの書き込みの一端。

「頭の良くない人って、テキスト読ませると「書いてないことを読み上げる」んだよね。てにをは、接続詞、助詞など細かいところまで丁寧に拾って読めないの。雰囲気で読んでるの。だから私は家庭教師や塾講師、知人の子の勉強を見る時はまず一番最初に「教科書声に出して読んでみて」って学力チェックする。」

 「雰囲気で読む」というのは言い得て妙ではあります。でも、その程度のことならば、小学校の頃でも、よくわからない漢字や意味を知らない単語の混じる文章を読まされる時、適当に飛ばしたり、あるいは自分勝手に意味を想像して文意をつないでみたり、といったことはやっていた。いや、ある程度成長してからも、似たようなその場のとりつくろいは、黙読であれば脳内でそれなりに要領よくやってもいたでしょう。「わかったような顔をしてやりすごす」というやつですが、ただ、それをそのままほったらかしにしないで、あとで辞書を引いたり、他の資料とつきあわせて穏当な意味を知ったり、まあ、事後に不具合部分にパッチを当てるように修正してとりつくろってゆくことを、日々生きてゆく中である程度自然にやってゆく、そしてまわりも陰に陽にそうさせてゆくような空気を共有していたのも、少し前までのわが国の世間ではありました。

 けれども、昨今の若い衆は必ずしもそうではない。その「雰囲気で読む」を修正してゆく過程をちゃんとくぐることもなく、むしろその手癖がうっかり温存されたままになっている。精読的な「読む」の稽古を一定の時間をかけて積み上げてゆく過程が、それをよしとする空気と共に、どうやら学校はもとより、家庭も含めてわれわれの社会そのものから失われつつあるのかもしれない。だから、声を出して読ませる、音読させて読み上げさせてみる。すると、つっかかったり、口ごもったり、書かれてある通りに読めていないことがその場で可視化され、同時に本人にとっても、どこがどのようにブラインドになっていて、その文章の「わかる」から遠ざけられているのかも見えてくる。なるほど、これまでも何度か触れてきた、音読、朗読による自省の効果、ではあり、これをさらに教育手法として尖鋭化させれば、未だ言葉も意味も宿らない「頑是無い」頃から先生の発する音声としての漢文脈の、定型詩的な「うた」の響きも伴う『論語』などをただひたすら繰り返し復唱させていたという、あの「素読」にも通じてくるわけですが、それはともかく。

「「頭のよくない人は文章を『書いてある通りに』読み上げられない。」これねえ、「絵を描けない人が『見たままに』描けない」とか「運動音痴の人が『お手本通りに』体を動かせない」とか「音感リズム感が壊滅的な人が『聴いた通りに』歌えない」とかに近いものがあると思うんだよ。「書いてあるとおりに読みあげることができる」は確かに理解度のバロメーターではあるのだけれど、「理解していれば必ず書いてあるとおりに読み上げができる」とは限らないことは「見たまま描けない」や「手本通りに踊れない」と似たようなものだからさ。文章の読み上げって「楽譜を見て歌を歌う」みたいなもので「正しく読み取りができるからと言って必ずしも正しく歌える(読み上げができる)とは限らない」し、「正しく歌えた(読み上げができた)からと言って必ずしも『楽譜(文章)を理解できている』とも限らない」からややこしいんだよ。」

 これ、つぶやいているご本人は無意識だったかも知れませんが、うっかりと大事なことを言っている。ここで言われている「読み上げ」は単なる音読というよりも、朗読に寄せた内実を持っているもので、「身体を動かす」「歌う」「踊る」と並列に語られています。ということは、この場合の「読む」は単なる平板な音読ではなく、身体的なリズムや調子、もしかしたら音声的なピッチやトーンといったものも含んだ意味あいの、まさに「うた」と地続きの所作であるという認識を示しています。だから、同じく言われている「理解」もまた、静態的な活字/文字の文章の意味をフラットに解釈することだけでなく、それらも含めてさらに豊かな、複合的、重層的な意味を多様にはらんでいる上演的な「読む」を介して、「うた」とも地続きな動態的な特性を引き出し得るものである、という内実を含んだものになる。そう、「読む」とは単なる音声化ではなく、それを読む生身の主体の個別具体のありようと常にどうしようもなく紐付けられた所作だったはずなのです。

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 このような「理解」――あるいは「わかる」と開いた方がよりしっくりくるかもですが、それはしかし、そこに至る過程やそれを支える情報環境などのたてつけも含めて、いまどき若い衆世代の読み書きのリテラシーに最適化されたそれとは、すでにもう別のものになっているようです。

 たとえば、ラノベと呼ばれるジャンルの創作物の文体の、何というか、あのすっ飛ばし具合。まあ、いまやそのラノベすら読みもの商品として過去のものになりつつあるという話も転変激しい出版業界的にはあるようですが、少し前、まさにそのラノベ世代の学生たちに手ほどきされながら、臆さず首を突っ込んで七転八倒してみた自分など老害化石脳世代に実装されて久しい「読む」と「わかる」からすれば、そこで文字化されている文章の向こう側にあるはずの作品世界は、まず圧倒的にスカスカに感じるというのが第一印象でした。でも、そのスカスカ具合、すっ飛ばし具合によって獲得されているらしい「速度」のようなものに何か感じるものもあるらしい、それもまた、ふだん見慣れぬ場所につれてこられた保護猫のように固まっていた彼ら彼女らが珍しく饒舌になる、その口吻から察することができました。それは、その頃からすでに少しずつ言われ始めていたような、若い衆世代のリテラシーの特徴として「おはなし」が読めなくなっている、あるいは「先の読めない、見えない」筋書きに対する拒否感、嫌悪感が蔓延し始めている、といった現象ともからんでいたように思います。

 確かに、文字のテキストではある。でも、いわゆる文章というわけではなく、書き手の脳内に何らかの映像的な情報に依拠した「流れ」があらかじめあって、それを要所要所でうまく「流してゆく」ために文字が使われている、うまく言えませんがそんな印象でした。つまり、映像的な情報――イメージであれビジョンであれ、とにかく「素材」としての「ビジュアル」的な情報が一次的なものとして、たとえ漠然としたものであれ複数浮遊していて、それらを適宜並べ替えたり挿入したりしながら何らかの「流れ」を作ってゆくことが創作作業の本体らしい。その限りにおいて、文字で書かれたテキストは創作の本体ではなく、言わばひとつのパートに過ぎず、むしろイメージ群の「流れ」をうまく加速し、煽り、必要に応じて統合してゆくための補助的なツール、といった感じに位置づけられているようでした。

 かつて、雑誌の誌面がデザイン先行になって、写真やイラストなどの「ビジュアル」的情報を中心に誌面が「デザイン」され、文字情報は「キャプション」「コピー」的な扱いになっていった時期を思い出しました。あるいは、テレビで池上彰が語っているニュース解説番組とか。あれもまた、いまどきの「わかりやすさ」に適応した文法・話法で作られています。映像的というか、視覚的な「パッと見て全体把握」っぽい認識力が前提で、これを伝えるためにはここと、ここと、このへんをだいたい「おさえておけば」「何となく全体の雰囲気」は「わかる」といった感じのゆるさに沿ってまとめられている、言ってみればそういう種類の「わかりやすさ」。それが、いまどきの視聴者側との間に最大公約数的に共有されている限りでの「わかりやすい解説」になっている。

 これはあるいは、かつて「テレビ的」という言い方で雑に表現されてきたようなものとも、時代を超えて地続きなのかもしれません。

「テレビの用いる話法で最も苦手なのが説得である。テレビの基本的なレトリックは視聴者が全て同類で均質だという前提で成り立っている。なので、テレビでの説得は、現在テレビで主張されていることは全ての視聴者に承認されているという前提でなされている。しかし、これは広告の手法としては有効だが、説得とは何の関係もない。テレビの説得はまず視聴者の承認を得ようとすることから始まり、結局そんなことは不可能だし威信にも関わるから、彼らを刺激して忘れられぬようにできればいいというところに譲歩して落ち着くのが常である。」(R.デニー「「リアル」と、より「リアル」」、『ミューズのおどろき――大衆文化の美学』所収、紀伊國屋書店、1963年)

 そのいくつかの「おさえておけば」のポイント以外の隙間の部分は、スカスカでも構わない。全体の「絵」としての「雰囲気」と輪郭程度がわかればいい。そのスカスカ部分にもあるはずの細部をいちいち言語化して詰めてゆくようなリテラシー――ポイント同士の「関係」がどうとか、まだ別のポイントがたくさんあるのでは、とか、そうやって「絵」の「解像度」をそれこそピクセル単位な細部の個別具体を積み上げてゆきたがるような文字/活字ベースの精読的な「わかる」リテラシーはノイズでしかないし、第一そのようなところにいちいち焦点を合わせて処理してゆくのは時間も手間もかかって非効率的、それこそいまどきのもの言いで言うところの「コスパ/タイパ」がよろしくない。だから「関係」≒「文脈」は後景化させるし、その瞬間その瞬間での反応ごとに「わかる」になる「絵」が明滅し続ければいい。「コツコツ」「地道に」「積み上げる」ような過程や時間といった軸もまた希薄化してゆく道理で、瞬間だけバズればよし、それが持続可能かどうかは関係ない。

 だから要するに何なんですか、早く結論だけ教えてください、といった要求を、さも正しいことを言っているといった賢しら顔で口にする学生が、ある時期から毎年、一定数出てくるようになりましたが、そういう彼ら彼女らの意識と、それら「わかりやすい」を支える意識はまず同じもの。結論や結果、そういう「正解」さえ手っ取り早く手に入れられるなら、それが一番「賢い」やり方だし、そうしなければ競争に負ける。

 「つまり、効果として最も優れたテレビの広告宣伝というのは、とにかく悪目立ちするほどに恥ずかしく破天荒な代物に多くなる。このように、テレビの説得は「みんな≒その他おおぜいという視聴者像」をあまりに信じすぎていて、人間を越えたものの存在を信じるエネルギーを失ってしまっている。」

 そういう意味では、とにかく文字「だけ」で「描写」する、といった一点集中的で時間をかけた精読と積み上げを前提として形成される文字/活字のリテラシーがあたりまえに主流だった情報環境から、若い衆世代はすでに離脱し始めているわけで、「うた」もまた、その転変に伴って、姿かたちを思いもかけぬものにしているのでしょう。

八代亜紀「うたに感情を込めない」、のこと

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 1月10日のスポーツ紙朝刊、八代亜紀の訃報が、まるで阪神優勝の勢いで特大の色刷り活字の見出しの乱れ打ちと共に右へならえ、横並びの潔さで躍っていました。

 ああ、それほどまでに、本邦スポーツ紙の想定読者層にとっての八代亜紀、いや、より丁寧に言うなら、八代亜紀に代表されるような「うた」の記憶は、いずれ十人十色、それぞれのお好みのままに散りばめられたプロ野球の贔屓球団の優勝沙汰と同等ほどに大事だったということであり、そしてスポーツ紙各社とも、世間一般その他おおぜいの心映えを相手の稼業としての矜持と共に、その手ざわりを輪郭確かに未だくっきりと持っていたということなのでしょう、令和6年、来年は昭和百年を迎えるといういまのこの時期この時代、この情報環境においても、なお。

 こういう有名なよく知られた、それも芸能人が亡くなると、メディアの舞台に追悼企画がたくさん出る。テレビはもちろん、新聞や週刊誌なども含めて、昨今だとweb上の媒体も同じく。そんな中、彼女にまつわる挿話や発言が断片的にいくつも目の前を通り過ぎてゆきます。

「私は今の若い人の音楽はすごくかっこいいし、すごいとと思うの。ただ今のヒット曲というのは、世代ジャンルが細かく分かれていて、かっこいいし嫌いじゃないけど歌えないのよね。私たちの時代は、世の中が歌っていた時代だから。

ひと昔前までは日本でも街中に音楽が溢れていたのよ。ほら、おじさんたちが、酒の力を借りて歌いながら歩いていたでしょう(笑)。日本のおじさんたちにも、もうちょっと街中で「うぇ~い」って音楽を奏でて欲しいわ。」

 「うた」と世相の移り変わりについての把握、認識が、身についた的確さです。断片的だからこそ、余計にそれが際立ってくる。不特定多数のその他おおぜい、つまり「大衆」ですが、それらに生身を介して対峙し続けることが稼業となっていた人がた特有の、そういう種類のもの言いの確かさ。そんな中で、こんな断片も流れてきました。

 「八代亜紀さんと言えば「歌に感情を込めない」が信条。「感情を込めると、歌は歌手自身のものになる。しかし感情を込めず曲の世界観だけを伝えると、聴き手がそこに自分を投影する」。銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが泣き出したという。

 これは彼女の直接的な発言でなく、何らかの伝聞、記事その他の報道を介して知った匿名子による間接的な挿話という形です。元の記事など参照元がわからないので、どこまで正確なものかは不明だし、何よりいまどきのSNS環境で日常のおしゃべりのように「つぶやかれた」言葉、挿話としてのまとまりにどれだけ確かな背景があるのかなどは探るだけ野暮というもの。ただ、この匿名子によって「感情を込めず曲の世界観だけを伝える」と「翻訳」されたこと、そこに期せずして込められた何ものか、というのも「うた」の現在を考えるひとつの糸口にはなるような気がして、少しいろいろ手繰ってみました。すると、元になった情報が何となく、これもまた匿名のたわいないおしゃべりの中に。

 「八代亜紀が歌唱について「歌に自分の感情を乗せすぎては駄目。プロの歌は聞く人のものなので、聞いた人が自分の感情乗せられるスペースを空けておかないと」って言ってて、実際に感情をすごい乗せた歌と普段の歌を歌い分ける、ってのをテレビでやってて、本当に普段の歌の方が感動的だった。これテレビで見た記憶があるので、僕の生活にテレビがあった時期を考えると20年以上前なんだけど、番組名とかわかる人いないかなあ。どっかに動画がないかなあ。」

 新聞や雑誌の活字の記事でなく、テレビの番組だったらしい。すると、ああ、これもいまどきの情報環境のありがたいところ、別の匿名子がこんな情報を投げてくれていた。

「歌に感情は込めない。八代亜紀「感情を入れると、自分の心も出ちゃうわけですよ。歌手の人の人生観とか出ちゃうわけですよ」「歌は代弁者じゃなきゃいけないと私は思うのね。聴く方の代弁者。自分のことを歌ってくれてありがとう、って思われちゃわなきゃいけない」/『先輩ROCK YOU』2/21 」

 番組名とおぼしき部分などからさらに手繰ると、どうやら日本テレビ系列の『心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU』という番組に行きあたった。2010年から5年間ほど、土曜日の夜11時台に放映されていた30分番組らしい。ちなみに、同じ帯の前番組が『恋のから騒ぎ』で、あと番組が『マツコとマツコ』だそう。その放映期間の最後の方、2015年2月21日に八代亜紀が登場していた記録があった。

「演歌SP!ベテラン八代亜紀VS大注目若手の山内惠介▼意外すぎる八代「歌に感情は入れない!」▼こぶしって何なの?大きく回したい派?▼哀しい女の裏の顔で…歌の心知る【MC】大東駿介木南晴夏/加藤浩次 【ゲスト】八代亜紀山内惠介 演歌SP!ベテラン八代亜紀VS大注目若手の山内惠介▼意外すぎる八代の「歌に感情は入れない!」感情入れると気持ち悪い?をスタジオで実証!」

 いくつか放映時の動画とおぼしきものがあげられているサイトも複数あったのですが、権利関係からクレームがついたのか、残念ながらリンク切れしていたので動画自体では確認できませんでした。ただ、周辺の断片情報を総合すると、この番組の中で「感情は入れない」という趣旨のことを彼女自身、言っていたらしい。いわゆる演歌につきものとされる「こぶし」について話題にした部分があり、「歌の間に挿入される音の波、余韻でしょうかね」と彼女が持ち歌の「舟歌」の一節を歌って例示、でも彼女自身は、「こぶし」が苦手、との発言もあった由。そこでは、古賀政男の譜面には「こぶし」が反映されていて、譜面通りに歌えば「こぶし」になった、とかの挿話もあったようで、このへん、もともと浪曲における演者の個人的な「味」として、いわば余白的な部分に許されていたアドリブ風なフシだったことや、それを「個人」としての演者の属性として認識してゆくようになっていった聴き手の側の「耳」のありよう、あるいは、秋田實の漫才「台本」のつくりなどと引き比べての同時代的な符合などいろいろと連関想起され、これはこれですごく興味深い話なのですが、それはともかく。

 歌に感情は込めない、という意味のことをこの番組で彼女が発言したとすれば、おそらくその「こぶし」の段のあと、下積み時代に銀座のクラブ歌手をやっていた時のことが話題になったあたりだったのでしょう。これはそれまでも彼女の一代記的なインタヴューで必ず語られる「おはなし」になっているのですが、でも、「感情は込めない」というような踏み込んだ言い方は、少なくとも活字の情報の範囲ではこれまで彼女はしていない。でも、番組紹介のコピーに前掲のように「意外すぎる八代の「歌に感情は入れない!」感情入れると気持ち悪い?をスタジオで実証!」とまではっきりうたわれていることからすると、自身で歌い方を比べてみせるシークェンスまで含めて、当日のスタジオであったのでしょう。確かに、ものすごく見たい、そして聴いてみたいものです。

 「こぶし」が苦手、というのが本当だとすれば、なるほど、そういう意味で演者、歌い手「個人」としての必要以上の顕示欲のようなものは、意識的に抑制していた可能性も含めて彼女、八代亜紀には薄いままだったということかもしれません。「感情」とは、そのような「個人」としての意識的、自覚的な表現の領分だと仮に解釈しておくならば、彼女の「うた」とは、つまり商品音楽として市場を相手にしていた楽曲の上演に際してのありようとしては、そのような「個人」の領分を捨象したものだったということになります。

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 だからこそ、「代弁者」という言い方にも、また少し別の何ものか、が含まれてくる。

 先の番組紹介のコピーの部分、「歌は代弁者じゃなきゃいけないと私は思うのね。聴く方の代弁者。自分のことを歌ってくれてありがとう、って思われちゃわなきゃいけない」というのも、番組内での彼女の発言を概ね切り取ったものだと思われますが、自分は「代弁者」に過ぎない、いわゆる表現者というよりも代弁者なんだ、というような意味のことは、確かに彼女自身、違う場所でもそれ以前から割と言っていたようです。たとえば、こんな具合に。

「私の歌は「代弁」なんです。「私と境遇が似ている。よし、頑張ろう」と思ってもらいたいし、「自分が幸せだってことを忘れていた。この幸せを大事にしなきゃ」とも思ってもらいたいんです。」

 あるいは、これは今回、逝去が表沙汰になった後、新聞の追悼記事の一節。

 「彼女の歌手としての背骨を作ったのはクラブ歌手時代の経験だった。つらい境遇の女性たちと身近に接してきた八代亜紀さんの歌声に、彼女たちは涙したという。「そんな女性たちに寄り添い、『しんどいね』って慰めたり、励ましたりという気持ちで歌っています。私は歌の主人公になりきるのではなく、代弁者のようなものだと思っています」。生前のインタビューで語っていた言葉が印象に残る。」

 近年の彼女のインタヴュー記事で語られる自身の経歴は、どれも概ね「おはなし」としての骨子が整っていて、それは事務所のマネジメントのなせるわざということもあるでしょうが、それ以上に不特定多数の評判を糧に世渡りする玄人衆としての芸能人のこと、ましてその中でも長年、トップクラスに君臨してきた頂点のひとりの言うことですから、当然、何度も繰り返され、語り直されてゆくうちに「おはなし」としてのあるまとまりができていて、それは、たとえ元になる何らかの見聞や実体験があったとしても、その上で芸能人としての立ち位置を介して何度も語られてきた挿話は「おはなし」としてのたてつけを備えている、そのように考えるのが穏当でしょう。

 にしても、です。この「代弁者」という語彙を、幾多の個別具体のさまざまな境遇を受け止めて表現する立場という一般的な解釈を超えて、「(歌い手個人の)感情を移入しない」という意味も含めて彼女が言っていたとすれば、いろいろと話は重層的になってゆかざるを得ない。

 芸能表現としての抽象、あるいは普遍へ向けての手続きとして、そのような「感情を移入しない」という経過があり得るのだとしたら、そしてそれが世間一般その他おおぜいを市場として相手取る稼業としての持続性を担保する条件の重要なひとつだとしたら、「うた」が本来個人のものでなく、その個人が属する共同性、それこそ「皆の衆」と共にある表現だという場所に期せずして立ち戻ることになっていないだろうか。そしてそれは、時の大きな流れの中で、聴き手それぞれが自分自身の「個人」の表現としてだけ「うた」を受け止めるようになってゆくとりとめない過程と並行し、伴走しながら、でもやはり「皆の衆」の、「みんな」の表現としての「うた」の本来もまた、同時にこのような形で同時代に担保されるようになっていた、そういう牧歌的で楽天的な理解もまた、許されるようになっているのではないか。

 「自分がこういう歌を歌いたいとか、歌で自分自身を表現したいとか、そういうことは今まで一度も思ったことはないの。私は、表現者というより代弁者でありたい。自分の歌を聴いた人が、「これは私の歌だ」と、そう思ってもらえたら、そこに私が歌う意味があるような気がするの。」

 「お客さんは八代亜紀の歌を聴きたいだけなの。だから私はステージの上では、その歌の心を伝える代弁者であって、私はスゴいわけでもなんでもないの。歌う時は完全に八代亜紀。でも、トークのときは「あきちゃん」でいいと思う。世の中の人が見ている「八代亜紀」は「私」とは違うものだということは自覚しておかないとダメよね。」

 ありがちな有名人の、自分自身を見失わないための稼業上の知恵、人生訓的な自己認識とだけ受け取れるようなものですが、でもここは、先に見てきたように「歌に感情は込めない」とはっきり方法的に認識していたらしい彼女の「歌い手」としての自覚に敬意を表す意味でも、敢えてもう一方踏み込んだところで、「うた」という表現に関わる芸能者としての自己認識の水準も含み込んだ上での言明、ととらえるべきでしょう。「うた」としての感情は、自分という個人の敷居などを平然と越えて、聴き手である「みんな」の感情に連なるものだし、また、そうあるのが本当だ――無粋にほどいてしまうなら、そういう認識。


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 もっとも、これもまた、わずかな断片からの気ままな当て推量でしかないですが、この「感情を込めない」ことを自覚してゆく過程では、女子刑務所へ慰問に行くようになった際の体験がひとつ、契機になったフシもあります。

「初めて女子刑務所に行ったとき、私は歌えませんでした。サンダルを履き、番号で呼ばれる彼女たちが、私を一目見て嗚咽している。こちらも涙がこみあげてきて、なかなか歌えない。初回は散々でしたけど、感情移入しているだけではいけない、それよりも支えることを徹底しないと、と思い直しました。」

 最初にあげた匿名子のつぶやきに含まれていた「銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが泣き出した」という挿話は、むしろこの後年、女子刑務所での体験が色濃く複合してのことなのかもしれません。「うた」が個人的な表現でなく、聴き手の側の共感や思い込みと共にある、つまり「皆の衆」の意識や感覚、情感などと共にあるものだ、というこの認識の仕方には、その聴き手の側に彼女が提供する楽曲に感応するだけの何らかのリテラシー、「うた」を共に立ち上げてゆけるだけの条件が備わっていて初めて可能だったことでもある。銀座のクラブ時代の聴き手として、フロアのお客よりもむしろホステスたちの方によりはっきり合焦して意識していたように見えるのと同じく、女子刑務所の女性受刑者たちを聴き手として眼前にした時に思い知った「感情」の無力が、彼女の「うた」に対する方法的自覚を覚醒させる引き金になっていたかもしれない。そう考えれば、かつて10代の頃、バスガイドをしながら夜は地元のクラブで歌っていたのが発覚し、父親の「勘当だ」というのを振り切って熊本から上京、親戚の家に寄宿しながら音楽学院に通うも挫折、銀座のクラブで歌っていた頃の、彼女の「おはなし」の中でもひとつの山場として定型になっていた挿話群も、また違った相貌で眼前に立ち現れてきます。


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 「よそのクラブのお姉さんたちが「あきちゃんの歌を毎日聴きたいから」って、自分のお店を辞めて、私が歌っているお店に移ってくるぐらい(笑)」

 「ホステスのお姉さん達がレコードを出しなさいと強く後押ししてくれたの。「あきちゃん、私たちはあきちゃんの歌を毎日タダで聴けてうれしいけど、でも、世の中には私たちみたいな悲しみを背負った女性がたくさんいるからそういう人たちにあきちゃんの歌を届けてあげてほしい。だからレコードを出さないとダメよ」って。」

 「表ではとてもキレイなんだけど、裏にまわれば、給料を取り立てに来るお父さんや彼氏がいてね。そんな女性たちに「アキちゃん、私たちみたいな女性があちこちにいるの。だからさ、レコードを出して、そういう人たちにもあなたの歌を届けて」って言われたんです。」

「銀座で歌っていた18歳のときから、ホステスのお姉さんたちが『自分のことを歌ってくれているよう』と泣きながら聴いてくれていたの。涙を見て『これが女心なのか』と教わりました。そのときからかな。私は表現者じゃなくて、自分の経験を重ねて聴いて下さる方の代弁者でありたいと思うようになりました。」

 聴き手として前景化されて語られているのは、どうやら常に女性であること、その上での聴き手それぞれの境遇や感情が「うた」という媒体を介して彼女の側に投げ返され、合焦されるようなたてつけになっていること……巷間思われているような「演歌」の歌い手としての八代亜紀の持ち歌の多くが、まさにその「演歌」のある時期以降の定型としての「男と女のこと」を主題としたものだという概ね世間の理解通りのものだとしても、同時代の商品音楽としての彼女の楽曲たちが「うた」本来のありようとして本邦の「みんな」の裡に宿してきたものは、それら通りいっぺんの通俗的なわかり方とはまた別の、より民俗的な水準も含めた歴史――いや、ここは敢えてそんな野暮な語彙でなく「経緯来歴」と意図的に言い換えましょう、そのようなとりとめない領分にまでうっかりと手を伸ばしていたようです。


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 追伸。今回、それら八代亜紀をめぐる断片をあれこれ手繰り寄せている中、こんな断片にも遭遇しました。

 「以前、マーティ・フリードマンさんにインタビューした際、ギターソロで八代さんの“舟唄”などの演歌をプレイする理由について聞きました。マーティは「演歌の間奏には、必ず歪んでいるギターがある。メタルと演歌は、その歪み方が似ているんだ」と言っていました。」

 遠くちらちら灯りがゆれる――寿々木米若「佐渡情話」三門博「唄入り観音経」*3を引き合いに出しつつ、その気分を「スイング」に、あるいは「ロック&ロール」に重ねてみせた、とある先達たちの仕事をあらためて思い出させてくれたのも、彼女のおかげ。ひとまず、合掌ということで。*4

*1:個人的には、かつて宅八郎が当時の森高千里のフィギュアに入れ込んでいたことや、「おたく」第一世代的心性にとっての「アイドル」のある意味空虚さ≒「内面」や「感情」といった「個」をうっかり具体的に想像させるような要素を消去している形象、のこと、さらには、それらの心性が個体に「内面」「心理」を「読む」ことが、そのようなリテラシーの大衆的・通俗的実装過程と共に、それに対する否定的媒介wとしてそれら「おたく」的心性もあった可能性、などなど、これまでのあれこれお題群とどこかで連携してゆくような気がして、要継続審議のお題のひとつにとりあえずしておく……240112

*2:上記関連、ゆるくご参考的に。 king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*3:さっそくご指摘あり、訂正訂正。こういうボーンヘッドの凡なポカ、相変わらずである。自省自省。

*4: