「民度」があがって「いい人」が増えた?

 「民度」という言葉があります。個人的にはあまり好きではないもの言いなのですが、近年、本邦はこの「民度」があがった、ということが言われていたりする。

 人あたりが柔らかくなり、やたらキレて怒ったりしない。大声で怒鳴り合ったり威圧したり、ちょっと肩がぶつかった、目線があったというだけで諍いになったり、あるいは道行く見知らぬ女性相手にも露骨に声がけしてナンパしたりといったような、まあ、少し前までなら路上でも駅頭でも、あるいは職場や学校といった場所でも、それなりに珍しくもなかった世間一般その他おおぜいな普通の人の身ぶりや言動、とりわけ男性にまつわって可視化されてきたあれこれの立ち居振る舞いが、なるほど言われてみれば、すっかり角の取れた穏やかなものになっています。

 何も10代20代の若い衆だけでもなく、40代50代のいい大人まで概ねそんな感じ。そこから上、60代を越えて70代以上の高齢者になると、さすがに長年の生活習慣、日々の暮らしの裡に育まれてきた習い性はそうそう漂白されるものでもないらしく、個体差はあるにせよ、未だうっかりかつての身ぶりやもの言いを繰り出してしまって、またそれは見事に「老害」しぐさとして認識され、あがった「民度」の真綿にくるまれ何事もなく淡々と「処理」されることになっているようです。

 以前は「草食化」などと言われ、「男らしさ」が減退している、といった揶揄含みの冷笑を伴う嘆き節で語られていたのが、今ではそれがあたりまえ、ことさら目に立つこととも思われなくなっていて、むしろ良い傾向、望ましい変化として肯定的に受け入れられている。「世の中、良くなっている」「日本も捨てたもんじゃない」といった、是非はともかく明日に向かって腰上げることのできる前向きな気分にうまく棹さしてくれる素材としても、また。

 逆に、最近急速に社会問題化してきて、「日本はどんどんダメになっている」という後ろ向きな気分をブーストしてくれる素材もたくさんあって、その最たるものが、近年新たに流れ込んできた外国人をめぐるさまざまな軋轢。表のメディアでは抑制されていてもその分SNSなどで日々取り沙汰され、手もとに伝えられてくる彼ら彼女らの荒っぽい挙動や言動、およそ文明国の住人とは思えない野蛮な所業のあれこれも、でも、もしかしたらそれをことさら異様なものとして受け止める感覚が以前に比べてあたりまえになってしまった、そんなわれら同胞のこちら側の事情というのも同時に絡んでいるのかも知れない。でも、そういう留保の立ち止まりもしなくてもいい程度に、そのような「民度」の右肩上がりは昨今、すでに「そういうもの」として本邦世間のあたりまえの日常感覚になってはいるらしい。

 ひらたく言えば「いい人」が増えた。表向き、そんな人ばかりになったようにさえ見える。道行く人がたはみんなひとまず穏やかでにこやかで、小ぎれいで清潔であたりさわりなく、なるほどここに「外国」からその住人たちが生一本の「異人」まま紛れ込んだら、この環境自体が何かの被膜、天然自然の生身の「生きる」をきれいにくるむラッピングのように感じるかもしれない。かつての「豊かさ」以前、半世紀ほど前までの本邦の〈リアル〉もまた、すでにそのように何かの被膜の向こうに制御された「歴史」へと織り込まれつつあるように。

 敗戦後、男女平等がうたわれ、婦人参政権が認められ、いわゆる「家父長制」も改正民法で是正され、なんだかんだで戦後80年以上。思えば、あの男女雇用機会均等法も施行されてすでに40年。その間、あの高度経済成長を原資とした「豊かさ」の達成と、その後のバブル崩壊からの「失われた30年」も伴走して、ああ、かつての野放図なまでに勇ましく、身の程知らずに荒っぽく、多少乱暴で傍迷惑ではあってもとりあえず「生きる」ことにだけはひたむきでがむしゃらな本邦世間一般その他おおぜい、といった、これまで国の内外、自他共におおよその共通了解事項としてあり得てきたような「日本」と「日本人」のありようも、時の流れ、世代の移り変わりと共にゆっくりとまた、時代の後景へと退場しつつある過渡期のようです。

いまどきの「リベラル」へと至った経緯


「きみはリベラルだから」

 そう面と向かって言われたのは、「保守」論壇の重鎮と目されていた御仁から。その頃勤めていた大学、というか研究所を辞めて、入れ替わりに加わっていた、とある団体を理不尽に追い出されることを申し渡されようとする現場で、その団体のボスだったその人から直接言われたのですから、まあ、ちょっと忘れられぬ思ひ出ではあり。*1

 所属している組織や集団から理不尽に追い出される、という仕打ちは、その後20年ほどたって、その後新たにもぐりこんでしばらく身を落ち着けていた小さな大学から、今度はさらに「懲戒解雇」という金看板だか刺青だかまでご丁寧にも背負わされてもう一度がっつり喰わされることになるのですが、それはまた別の話。*2

 とは言え、つらつら思い返してみれば、そうだ、そんな風に腰おろしてひと息ついていた場所から理不尽に追い立てられ、放り出されるといった事態は、これまで70年近く生きてきて、それなりに結構な回数、自分ごととして遭遇してきているような。

 こういう仕打ち、昨今は「キャンセル・カルチャー」などと呼ばれるようです。

「「社会的に容認されない言動を行った」とみなされた個人が、「社会正義」を理由に法律に基づかない形で排斥・追放されたり解雇されたりする社会的制裁の文化のこと」(Wikipediaより)

 まあ、こんな感じの例によってもっともらしい定義沙汰が、すでにこってりついてまわっています。これを振りかざして気に入らない相手を正義ごかしにレッテル貼って居場所を失わせてゆくという南蛮渡来のバテレンの秘法としてある種の界隈中心に持ち回られているようではありますが、なに、偉そうにしたところで早い話が、いじめ、シカト、ハブり、のこと。いにしえの言語空間の語彙ならパージ、粛清、シベリア送り、ポスモ風味だと第三項排除、何でもいいですが、つまりはざっくりそういう種類の人の世にありがちなけったくそ悪い仕打ちではあります。そんな陳腐で月並みな人でなしの手口が「文化」とまで装われて正当化されているのだから始末が悪い。まあ、実際のところはというと、いきなり「なかったことにされる」から始まったりするのですが、なるほど、そういう意味でなら恥ずかしながら自分などはこの「キャンセル」されることについての経験値をこれまであんな職場、そんな現場で相当に積み上げてきていたらしい。だって、どんな場所であっても、どんな人がたとどんな仕事をしていたとしても、結局最後はいつも必ずそんなもん、だったのですから。

 無職老害隠居脳の繰り言などどうでもいい。君はリベラルだからこの場にいるべきではない――つまり、追い出されること、「キャンセル」される理由として「リベラル」と言われた、まずはその話です。

 それまでそんな風に自分のことを考えたことは、正直あまりなかったし、また語彙としてもそこまで立ち止まって吟味してみることもなかった。通り一遍、教科書的な理解としての自由主義という程度の、それ以上でも以下でもない認識で過ごしていたのですが、それが他でもないこのおのが身の属性として対面で指摘され、しかも、だからここから追い出すのだ、という理由づけとして使われていたからこそ、このシーン、それなりに鮮烈な印象を残してくれていたのでありました。

 この「リベラル」、昨今ではまたひとつあれこれ紆余曲折を経て、かつての左翼や進歩的思想信条のなれの果てとして融通無碍に使い回されるようにもなっている。前回取り上げた「インテリ」「知識人」と同じような、もとの定義沙汰などどこ吹く風で、手にして使い回す際の気分次第の何でもありに意味や内実を盛り込んでも構わない、だからどんどん漠然とふくらんでゆくばかりで、いまや誰もが眼にし耳にするようになっているけれども言葉としては何も確かな意味を担わせることのできない、まあ、ざっとそんな空虚で頼りない語彙にすでになっています。

 思えば、もう30年近く前になる。東西を隔てていたベルリンの壁にうっかり風穴があいてしまい、それ以来ドミノ倒しに続いたいわゆる冷戦構造の崩壊。それによって、それまでそれなりにくっきりと二分法で理解されていた右と左、右翼と左翼、保守と革新、東と西、社会主義と資本主義、統制経済と市場経済、これまた何でもいいですが、いずれそういう政治的イデオロギーをものさしにしたあっちとこっち、敵味方の色分けの図式が、一朝にして「そういうもの」という自明の前提で使いにくくなった。特に、程度や文脈、濃淡の違いなど事情は種々あったにせよ、それなりに自他共に認められていた「左翼」という立ち位置は、ソ連という一方の親玉を軸にした世界のありようが目の前でみるみる煮崩れバラバラになっていったことで、それまでのように脳天気かつ考えなしに標榜してゆくことがさすがにしにくくなってしまった――前世紀の末、90年代から今世紀の初めにかけての時期、本邦の言語空間に起こっていた事態は、およそそんなものではありました。

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 本当ならそこで、その「そういうもの」と化して昨日まで自らの身の裡にあった認識枠そのものをあらためて取り出し、おのが思考の俎板の上に置いて、眼前の激しくうつろいゆく現実とつきあわせつつ、さて、これにどのように手を入れ、必要ならバージョンアップしてゆけばいいのか、まずは謙虚に自省し、つぶさに言語化して考えようとする、それこそが〈知〉の側にあることを前向きに標榜してきた者の矜持であり本領、そしてスジの通し方であったはず、でした。しかし、残念ながらどうやら事態はそのようには転変してゆけなかった。

 もはや、のほほんと「左翼」でござい、と収まったままではいられない。その存在理由の根幹にあったマルクス主義という教義をいきなり全否定するわけにもゆかないけれども、しかしだからと言って、そうはっきり表明することはどうも時局柄後ろめたいし、何より世間体がよろしくない。なので、ひとまず別の看板にすり替えて世の眼を欺き、姑息に当座をしのごうとした。その際、たまたま便利に拾われてしまったもの言いが、この「リベラル」だったようです。*3

「リベラル、というもの言いは、未だによく使われる。進歩派とか良識派、というのはさすがにもう古色蒼然、まして自由と民主主義を正面から唱えてみせるには、昨今その対極にあったはずの社会主義や共産主義の類があまりにグズグズになり過ぎてしまった。思想や信条の対抗軸がぼやけて見えなくなってしまった現在、党派であれ個人であれ、その拠って立つ立場というやつを説明し、説得してゆこうとする場合のもの言いの不定型さというやつは、戦後六十年あまりの経験の中でも、思えばかなりめんどくさく、また厄介な状況を生み出してきている。」(拙稿「「リベラル」考」2006年)*4

 そう言えば、「ラディカル」というもの言いも、それよりさらにまたふた昔ほど前、60年代の終わり頃から70年代あたりにかけて、ちょっと流行った時期がありました。

 実際、その頃書かれたもの、とりわけ思想や批評、評論といった分野に関わるものの中には、何かというとこの「ラディカル」が顔を出してきます。人により、また版元や媒体にもより一概には言えないものの、何かその当時、同時代的な価値観や美意識がその一点に集中している重心のように扱われていたらしい。何というか、あれこれ面倒を一気にすっ飛ばして早上がりしてしまえる呪文のように、熱っぽい昂揚感と共に使い回されていたりする気配。時には、とにかくその「ラディカル」という言葉を使ってみたいがために、そういう気分にうまくなじみそうな理屈や能書きをあれこれ拾ってかき集めて見てくれ体裁を整えました、といった物件さえあったりする。

 「60年代後半における世界的規模でのラディカリズムの登場は、われわれに、世界文化大革命の開始を告げ知らせた。それは〈戦後〉の構造的ナショナリズムの世界体制に対する、ラディカリズムの挑戦であった。(…)ラディカリズムがラディクス(根底)からの変革であるならば、それはラディクスそのものの止揚でなければならない。すなわち(農耕的あるいは工業的を問わず)労働からの解放。しかしこれはユートピアにすぎない。われわれの現存において、根拠の止揚を妨げる具体的条件性としてのスタイルとモード(ナショナリズムの二「要因」)を、解体の対象として提示することができないなら、ラディカリズムはアナキズムとして、ヘーゲル主義=スターリニズムの補完物となる。」

 今から半世紀と5年前、1971年に書かれたものからですが、書き手の固有名詞はこの際どうでもいい。ここで「ラディカル」は「イズム」として紹介され、ナショナリズムやアナキズム、スターリニズムなどと同じ種類の乾いた文字列に組み込まれています。その意味で、まずは論理的で知的であろうとする、そんな純粋まっすぐな主体によって編制されている文章というわけですが、しかし、このような生硬な思想沙汰のお堅い装いから、「ラディカル」は自在にひとり歩きを始め、場と機会に応じて多様な意味を自在に詰め込まれ得る、今で言うバズ・ワードへとうっかり昇華されてゆきます。

 「リベラル」同様、この「ラディカル」もまた、もとは「根源的に」といった程度の何でもない普通の語彙のはずでした。けれども、時代の気分に波乗りしてうっかり広く使い回されるようになったもの言いの常、そんなもとの意味などとうにぶっちぎって、「過激」で「戦闘的」で「破壊的」な事柄やできごと一般から、はねっかえりの型破りな行為や若気の至りで短慮な暴れっぷりの形容としてまでも、大方は前向きで好意的な意味で便利に使い回されるようになっていたようです。

 そのように言葉本来の意味や内実に対して使い回される文脈が野放図に多様化し拡散させられることで、その言葉を手にして使う側の意識もまた、言葉を手もと足もとで制御してゆけるだけの輪郭のぼやけたものになってゆき、〈知〉を担保し得る主体としてはみるみる擦り切れてゆく。生身の自分と、便利に使いまわしているつもりの言葉との間が気づかぬうちに乖離してゆき、そうこうするうちそれら言葉の側でだけ互いに勝手な連携を始めて社会的な意味を構築するようになり、ある閾値を越えるとその構築された社会的な意味を後ろ楯にした言葉の側から逆にこちらが便利に使い回されるような本末転倒の事態が公然化すらして……あれ? これって昨今のAIをめぐる状況とも何やら既視感が、といういらぬ枝葉も繁ってゆきそうな。*5

 ともあれ、「左翼」を「リベラル」と雑にすり替えて当面の難局をやりすごそうとするような、言葉本来の意味での自由主義ベースの「教養」――それこそが「リベラル」という語彙の初発の内実だったはずなのですが、そのような認識からすれば無惨な煮崩れ棚落ち頽廃に他ならぬ知的な横着がおおっぴらに、恥知らずにまかりとおるようになっていった事情というのも、すでにそれ以前、「ラディカル」をめぐって起こってもいたような、大衆社会化をそれまでと異なる位相へ遷移させることを可能としていった情報環境の変貌とそれに伴う言語空間の変質に関わるものだったようです。

 「「リベラル」というもの言いも時代によってかなり中身が変わってきてますが、昨今使われるような罵倒語侮蔑語としてのそれは、先に言った「戦後」の言語空間で醸成されてきた、閉じられた場での「正義」がそのまま温存され腐敗しきった現状に対してのものだと思います。学校やメディア、ある種の役所などもそうでしょうが、そういう限られた場に潮だまりのように残った「戦後」価値観の煮詰まった果て、という感じですね。」*6



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 でも、これは「リベラル」が悪いんじゃない。たまたま「リベラル」という語彙が気の毒な役回りをわかりやすく振られてしまっただけのこと。言葉自体に罪はない。

 およそ言葉一般、少なくとも本邦日本語を母語とする環境における言語空間と同時代の情報環境の複合において、すでにその頃、そのような言葉と自分、生身を背負った「個」としての輪郭ある主体という自意識との間の落ち着いた意味を介した関係をさまざまに紡いでいた回路はズタズタに切断されつつありました。それはある意味で社会に余白が――ほどいて言うなら表立って流通する言葉と意味の水準に収納されきることのできない〈それ以外〉の部分が見失われ「なかったこと」にされてゆき、一律に概ね「学校」的な空間の側に呑み込まれ、結果として「公共」的なるものごとフラットに再編制されてゆく過程だったと共に、社会的な資源であり、またそれを統合してゆく本質的な媒体でもあるはずの言葉というインフラが流通する環境自体から変貌してゆくさらに大文字の過程でもありました。

 由来、左翼と言えばやたらめんどくさい論争沙汰がつきもので、それはそれでまた別の難儀な性癖でした。それは一方では、それだけ言葉と現実との紐付け具合に考えなしの前のめりに熱中してゆくような純朴でおバカな主体のありようがあたりまえになっていたがゆえでもあったのですが、しかし、いずれそのような思想と主体、ものを考えることと自分自身の存在理由との緊密な関係といった約束ごとまでが、単に言葉としての「左翼」が色褪せてすすけたものになったというだけでなく、その背後の生身のありようの変質などまでもひっくるめて、冷戦構造崩壊の頃にはもうすでに希薄になっていたようです。

 同時代の同じ過程の裡にある以上、マルクス主義(的なるもの、も含めて)を良くも悪くもそのたてつけの、大黒柱とまでゆかずともまずは基本的な構造を支える太めな柱のひとつとして頼りにもして持ち回ってきた明治このかたの本邦「教養」の、それを引き受けるだけの生身の主体もまたうっかりと劣化、空洞化してしまっていた。だから、「ラディカル」、つまり根源的かつ本質的に事態と向かい合い格闘してゆくという、めんどくさくも純朴でおバカな態度もまた支えられなくなった。全て等しく意味がない、と嗤い飛ばすことがとにかく正義となった「相対主義」と「軽チャー」の時代の到来。あらゆる選択肢が目の前に広げられ、どれもお好み次第に選ぶことができる、と誰もが平等に思えるようになった「豊かさ」の果実。ああ、そうだ、本来は「生産」と併せ技で論じられるものだったはずの「消費」が、その縁を勝手に切って、ひとりどんどん空中浮遊していったのも同じ頃でしたっけ。*7

「ある時期以降、メディアの舞台で流通する「左翼」的もの言いというのは、まず背景に実存の伴わないコピーライティングのようなもので、書いたりしゃべったりしている当人にしても深く考え抜いた上のことなどでなく、単に「そういうものだから」というだけで習い性としてやっている程度のこと、それには間違いなく世代性も介在している、そういう意味です。」

 自由主義であり個人主義でもある、本邦文脈ではそれこそ大正期の一部にようやく胚胎したような概ね西欧由来のものの見方や考え方、それが本来の「リベラル」の最大公約数な内実だったはずです。その後、昭和初期あたりからは北米アメリカ経由の大々的な工業化によるケタ違いの生産力に起因する大衆社会化を介した新たなバージョンも合流し、さらに敗戦後の占領政策による社会文化的な土壌改良を奇貨として一気にまた増幅、「戦後」の言語空間と情報環境、そして高度経済成長でブーストされた「豊かさ」をエンジンとして、それまでのような選ばれた一部の特権的な遊民層、知識人や文化人層だけでなく、世間一般その他おおぜいの水準まで広く含めて浸透していった、そんなある心の習慣であり、案外余力のあった「豊かさ」まかせにうっかり「そういうもの」の自明性にまで日常化、透明化していった価値観や美意識なども含めたありよう。

 「なるほど、学校とその延長線上に連なる空間で、世渡りの作法としてのサヨク/リベラル系言説というのは、まあ、必須でした。少なくとも、ある時期までは確実に。世間から、言い換えれば通俗のまかり通る場所から良くも悪くも隔離され、別天地として約束ごとが設定されていた「学校」、およびその係累の場であるマスコミ周辺などにおいては、そのような世渡り作法は長い間温存されていました。それは、実利があればこそ温存されていたわけで、そのようなサヨク/リベラル系言説を身につけておけば、ひとまずいらぬ摩擦や軋轢を回避しながら、あたかも超伝導のようにあらかじめ設定されたチューブの中を滑走してゆくことができる、そういう実利をもたらしてくれるものでした。」(拙稿「「論壇」の行き着く先」、2009年)

 言葉というのは、辞書的な定義やあたりまえの意味を穏やかに収納し、時間空間を越えて保存してくれるお行儀の良い道具というだけではありませんでした。本質的にその場だけ、放たれてははかなく消えて行く話し言葉でなく、何らかかたちになり残されてゆく書き言葉の文字や活字であっても、それが同時代を生きる生身らが求めて紡いだものである以上、たとえ見てくれは一見フラットで平板な、はい、こちとら印刷物でござい、という顔でたたずんではいても、こちらからきちんと「読む」を介して切実なナマの関係を繋ぐことができれば、その背後にじっとひそんでいた同時代的な躍動や闊達、かつて生きてそこにいた生身たちのまとっていた生の気配すら〈いま・ここ〉に召喚することもできる、そんな動態的で融通無碍な「動く」メディア。たとえ「書かれた」言葉であってさえも、その本質としては話し言葉であり、生身を介して〈いま・ここ〉で発声され、音や呂律を伴いその場に放たれてゆく「話され/語られ」、時に「うたわれる」ものであるような、そのように何ものかを再び〈いま・ここ〉に召喚するための触媒としての、この言葉というやつのもうひとつの相貌。

 はじめの一歩、初発の時点で、およそ表現へと向かわされるものは、常に身の裡であらかじめ理路整然と整えられたものとして始まっているはずもなく、言葉へと至る以前の何ものか、現前化を求めてこの身の裡に確かにうごめいているあやふやでかたちにならない領分も含めてのことであり、それは単に自分ひとりだけでなく自分以外のまわりの生身たち、同時代を生きる同じような境遇似たような設定下にある「みんな」にもまた確かに宿っているはずの切実さを同伴しているものでもありました。あらわれとしては書きとめられた静かな文字列に封印されているにせよ、でも「読む」を介せばそれは当時の〈いま・ここ〉の呂律に沿って解凍され、現在の〈いま・ここ〉に召喚され得る。

 そう、だから表現というやつはいつだって、眼にみえて表現されているもののかたちそのまま、ではなかったりする。「読む」こちら側がどのように関わり、縁を紡いでゆくか、それによって自在にありようを変え、思いもしなかった内実をうっかり垣間見せてくれたりもするもののようです。


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 かくて、そのように「リベラルだから」と面と向かって言われ「キャンセル」認定されてしまってから30年あまり、今度はなぜか「ネトウヨ」と呼ばれるようにもなりました。*8

 こちらは特定の誰かに言われたわけでなくゆるく世間の評判、web環境も含めた概ね今世紀に入るあたりから新たに輪郭整え編制、整備されてきた情報環境において、それとなく取り沙汰されるようになったミームを実際の具体例をあげて裏打ちしてゆく、そんな過程におけるわかりやすい事例のひとつとして、ではありましたが、ただ、そのように認識してひとくくりにしてくる側は、あの「リベラル」を自他共に許す属性として自ら前向きに、なにがしかの誇らしさと共に実装しているようでした。それこそ、かつて冷戦構造健在だった頃の「左翼」のように。

 不思議な話です。少し前にリベラルと認定されたはずなのに、今度はそのリベラルと自他共に許しているらしい側から、ネトウヨと呼ばれるようになっている。それはこちらを「なかったこと」にしてゆくための、キャンセルすべき対象をわかりやすく雑に可視化させるためのもの言いのようでしたが、でも、なぜだろう、そのような人がたは、その操る言葉やもの言いにその人なりの生身の気配や信頼するに足る人格のたたずまいといったものがとても薄い。こちらから言葉を介して声をかけ、話をし、何らか関係を紡いでゆこうと思う、そんな気持ちさえ初手から微笑みと共に拒絶しているような。*9

 違う言い方をするなら、「うた」から遠い人。「うた」でしか引き受けようのない生身の切実を、この世に生きて棲みながらなぜか身にしみていない人。なのに、「うた」をどこかで必ず必要とする、そんな言葉本来の作法をうわべだけなぞってみせることばかりうまくなってしまった主体なき言葉のホログラフィと、そこに身も心も等しく平等に並列化されて取り込まれてしまっている、いずれそんな印象のゆるふわキラキラな、多幸症めいた「いい人」に見える人がた、そして界隈。

 「どうも日本の詩人の詩をみてると、みんな、あまりにも詩的口調にとらわれて書いている。(…) 日本の詩てものはだいたい、むかしの活弁の口調、ないしは新劇のあのおかしげな、とってつけたような口調だからね。この間も昼間のテレビで、伊藤信吉君がとりもって新劇のいろんな人が朗読してるんですよ、長岡輝子とかがね。だけど詩の朗読てものは止めてくれっていいたくなるね。それがね、笛を吹いたり、ピアノ弾いたりしてやるからね。(…) むかしはまるで詠嘆調でね、かなわんですよ。昔の弁士がね、……春や春、春、南方の物語、メリーさんとロバート青年とは……、なんて、ああいった調子ですよ。朗読だけじゃなくてね、詩という奴はああした調子だ。いまの二十代の詩人でも、結局はね。」(金子光晴『新雑事秘辛』濤書房、1971年)

 柳田國男に、近代になって自分たちはさまざまな本をさまざまに読むようになったことでvivacious になった、という表現があります。これも「快活」「明朗」といった辞書的な意味あいだけでもなく、おそらく「軽薄」であり「はしゃぎがち」であり、ある意味女性的でもあるような性格を実装するようになったという含みを持ったものでもあったのだと思っています。論より証拠、英英辞典を引っ張るとこんな説明もされている。

A vivacious person, especially a woman or girl, is attractively energetic and enthusiastic.

 多方向に興味関心を素直に向け、素朴に明朗で快活で、オンナのコのようにキャピキャピした性格を持つようになったと言うことは、それまでの「書を読む」読み方で鍛えられていたような、今よりもさらに集中と内向に鍛錬されていたような〈知〉とそれを宿した生身のたたずまい――それはその頃の、ほぼ男の属性だとされてきていたもののはずですが、しかし、いずれそれらがみるみるうちに近代と共に煮崩れていった痕跡を、この柳田の表現から読み取ることもできます。 

 それは、今のわれわれにつながる「個」や「自由」を遍く可能にしてゆく流れの底にあったものでもある。しかし、と同時に、言葉と意味のつながり方、さらにそれを手もと足もとで制御しながら、眼前の現実に何らか確かな手ざわりの水準をまわりと共に宿してゆくための道具として使う器量ある主体との関係をも相対化して分断してゆくものだったのではないか、という問いもまた、あらためて目の前に。ゆるふわキラキラで微笑みながら「キャンセル」を淡々と仕掛けてくる「いい人」、といったいまどきの「リベラル」界隈のあの多幸症なたたずまいの背後にも、すでにそんな必然性をはらんだ経緯来歴もまた、「読む」を介して初めて〈いま・ここ〉に召喚、現前化され得る歴史として横たわっているようです。

「インテリ」「知識人」の現在


 「インテリ」あるいは「知識人」、そういう呼び方でくくられる、そういう人がたがおりました。

 「おりました」と、きっぱり過去形にしたのは、実質もう意味ある語彙ではなくなっていることと、それ以上に、にも関わらずそれらが使われていた頃の痕跡だけはさまざまに、いまどき本邦世間一般その他おおぜいの意識や感覚においてもなお、主は孤独死した部屋の脂染みのように屍臭と共に未だ残り、漂っているらしいことから。それこそ専門の特殊清掃業者を召喚しなければならないくらい、そうしなければもはや日常生活に支障すらきたし始めている程度に。

 「インテリ」、正しくはインテリゲンチャであり、もとはロシア語由来の横文字言葉として流れ込んできたもので、ロシア語のキリル文字では интеллигенция と綴るらしい。

 とは言え、外国語をひとつでもふたつでもそれなりに「読める」ことが高等教育をくぐり抜けていっぱしの人となった身に必須の条件とされていた時期からすでに遠く、義務教育から十数年も学校の教室でむりやり学ばされてきたはずの英語ですら、かつての先輩がたのように「読める」と堂々胸張れるまでには至らず、まして昨今の情報環境、自動翻訳がほぼ全面的に実装され始めている現状では、少なくともweb介して流れてくる各種のニュースサイトや電子化された雑誌記事、同じく昨今粛々と公開されるようになった公的文書や各種企業体発のビジネスレターといった類の書きもの一般、およそそれらの大意をざっとつかむ程度に「読む」ことならば誰もがそれほど苦労せずできるようになってしまい、凡夫の悲しさそれに便々と流されもはや自ら鍛錬しなおす気概も気力もどこかに消え失せ、同じあまたカタカナ化された日本語の語彙の中でもすでにきれいにフラットで平板で、それこそ同じ水準に平たくなめされ「情報」化された記号といった程度にしかこれらの言葉にかつてまつわっていた微妙な気分の襞を感知できなくなっている現状に、あわれのんべんだらりと呑み込まれつつある昨今のていたらく。

 なるほど、確かにある時期からこっち、ある種の人がたをわかりやすく指し示すために普通に使われてはいた言葉ではあります。と同時に、自分自身も大なり小なりそんなものにうっかりなり果てている部分もあるのかもしれないけれども、でも、そうはっきり正面切って自称できるほど確信あるわけでもなく、また、気恥ずかしさもどこかにひっかかり、だからずっと自分ごとのような他人ごとのような、何にせよどうにも居心地のよろしくない距離感必須な言葉として中途半端に中空に浮んだままといった、まあ、そんな気分だけは漠然と喚起させられるという意味においてすでに輪郭確かな内実などほとんど伴わなくなっている、もはや通俗まみれで空虚な記号の類、ではあります。

 でも、以前はそうでもなかった。「インテリ」であれ「知識人」であれ、かつてならおそらくそれを言葉として目にし、口にするその際には、それなりの重みや質感、かすかな緊張感さえ必ず伴ってはきていたような。それがはて、どこでどうしてこうなったのか。

 近年のここまで激しい本邦言語空間の不可逆な煮崩れ状況、言葉やもの言いと現実との関係がどんどんぼやけて希薄になり、また、それを手にして使い回す側の生身の実存、確かな主体との結びつきもあまりに多様に複数化し、かつまたそれらを機会に応じて局面ごとに自在に選んで平然としているご都合主義上等マルチ対応仕様な二枚舌三枚舌の立ち居振る舞いまですでにあっぱれ常態化、結果として個々の局地的な言語空間のみならず、その背後に控えるわれらそこに日々生きて棲息している母語を下地とした情報環境そのものから根こそぎ汚染し煮崩れさせてゆく悪疫めいた症状がいつの間にやら全面展開、パンデミックのごとき昨今の本邦世間のありさまとも、こりゃどこかで通底しているのかも、となにげにうっかり感じてしまうほどに。

 そもそもの話、社会の中に生きる個人としての自分、その立ち位置を定めてゆくための方策というのは、時代に応じ、また社会とそれを規定する母語のたてつけにも即しながら、さまざまにあり続けてきているものでしょう。また、それこそが多様性含めての最も広い意味での「文明」のありようでもあったはず。

 実社会に設定されている法や政治、経済といった具体的な制度に規定される現実の水準のみならず、広義の想像力、それが個人的であれ社会的であれ、さらにそこにまた歴史文化民俗的な背景をも伴う文脈においてであれ、それこそ「おはなし」としての現実までも含めて人はどのように〈リアル〉を構築、編制しながらその裡にけなげに棲息してゆく生きものであるのか、という問いについて、自分ごととしてまず言語化できる本邦の文脈においてあれこれ考えをめぐらせてゆく。すると、そのような個人と社会、その関係の裡にある自分、という時間と空間をある一定のパースに従い整序してゆく一連の系のその要の部分に、このもはや薄っぺらな記号として頼りなく漂うようになってしまっている「インテリ」「知識人」という語彙が案外陰に陽に、これまでの「歴史」の相においてにわかに見過ごすことのできない剣呑な翳りや偏りをわれらの自意識、「自分」というたてつけの成り立つ過程にもたらしてきたらしいことを、嫌でも察知せざるを得なくなる。

 それはまた例によって、大衆社会状況下での「個」、つまりこの「自分」と、それを穏当に自覚し認識しながら日々の日常を淡々と生きてゆく上での方法的な意識の仕方され方、およびそれにまつわる言葉本来の意味での「歴史」についての、例によってまた茫漠とした問いに向かって開かれてこざるを得ない感慨でもあるのですが。


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 古くからある平たいもの言いならば、たとえば「もの知り」というのが、概ねそういうインテリや知識人的な存在について世間の抱くイメージの原型だったところはあるのかも知れません。

 むかしのことや〈いま・ここ〉にいたる経緯来歴について、生きながらよく見知ってきている土地の古老や仕事場のベテランなどがその典型。また彼らには、個人としてのそれゆえの信頼や敬意もそれなりに伴っていました。「年寄りを大事にする」という、これも昨今、急激に進行しつつある世代間の分断によって根太板から揺らぎ始めている、でも少し前までは「そういうもの」程度で概ね了解、さほど軋轢なく運用されてもきていた本邦同胞のココロの習慣にしても、そういう「もの知り」であることに対する敬意が、長く生きて経験を積んできていることによって概ねそのまま担保されて成り立っていた環境に下支えされて、一定の実利と共に通用していたところがありました。

 と同時に、一方でそれは、年長や先輩の言うことにはとにかく拳々服膺、それまでのやり方や考え方に唯々諾々として従うだけで、「進歩」や「変化」「改革」などへの動きを妨げる悪しき習い性として認識されるようにもなってきた「歴史」もまた、すでに伴っていたりもする。

 「変化」が「進歩」と結びつけられ、「個人」が「自由」と紐つけられ、日常的なガイドラインとして「年寄りを大事にする」で運用されてきた「これまでやってきたことをとりあえず尊重する」という「持続可能性」を前提とした約束ごとも、その「役に立つ」実用性の部分での評価すらうまく見定められなくなる事態にまで追いやられてゆく。後輩や配下の者たち、後発の若い世代のものの見方や考え方、別の角度からは「個人」から発する新たな創意工夫などまで含めて、何らか「変化」へ向かうベクトルをそれが芽吹く徴候の段階からあらかじめ封じてしまう頑強な抑圧の元凶、言わばラスボスとして、この「年寄りを大事にする」を運用基準とした「これまでやってきたことをとりあえず尊重する」という約束ごとは、それこそ「ムラ社会」や「身分制度」、「封建制」「家父長制」から「天皇制」に至るまで、思えば実にさまざまな術語、多様な語彙を自在に駆使されながら、否定的な属性を附されてもきました。

 また、だからこそ逆にその分、「そういうもの」化していた「これまでやってきたこと」に対する異議申し立てや反抗、叛乱といった動きについては、そこへなだれ込んでゆくココロの傾きなども含めて過剰に正当化もされてきたし、何ならその後の歯止めも利きにくくなっていた。あの「造反有理」という言挙げにしても何も毛沢東とその紅衛兵の専売特許でもなく、構造的な変動を経験しつつある動的な社会状況と同時代的な情報環境の相関において、どうやらそのように半ば必然的に現前してしまう文明史的な一連の過程の、ある段階ひとつの局面でのあらわれのようではあります。

 「慣習的社会制度の一環として存在していた「若衆宿」における「どんちゃん騒ぎ」が、社会的慣習上の「制度的けじめ」によって時間的にも空間的にも一定の限定を無自覚的にそれ自身の中にもっていたのに対して、社会組織上の基礎を突然に喪失した場合の「どんちゃん騒ぎ」は、その点を自分で自覚して「限定規準」を自分で作ろうとしない限り、「躁宴」は何処でも手取り早く開き易い時と処で開催される。その意味で、それは一面で「随意・臨時的」なものとなり、同時に他面では、「どんちゃん」が面白くてたまらぬうちは、くたくたになって自分でへたばるまで、際限なく続くという意味で「随欲・永続的」となって了う。そうなると、「若衆宿」にあった「躁宴」以外の側面、つまり「社会的訓練」の部分とのハッキリした区別が取り払われて了って「社会的訓練」の場に「どんちゃん騒ぎ」が「融通無碍」に流入して「若衆宿」の本来の機能は無茶苦茶になって了う。 」

 ならば、それはこの場で延々とこだわり続けるあの「うた」の領分、つまりこの有限な生を抱えて〈いま・ここ〉を日々生身で生きるわれら凡俗凡庸な生きものが、この世にある限り逃れられない〈それ以外〉の、普段はあまり意識もせず気にもかけぬままにしている「もうひとつの現実」と、さて、どのように関わってくるのか。

 「それは現代的次元に翻訳して言えば、「社会運動」の内部構成に必要な一定の「仕切り」が、「運動」自身の内側から崩壊している姿である。その時には「運動」は「騒動」の次元にだけ収斂し陥没する。そこには、ヘーゲルの言葉を借りれば、「心情という無規定で漠然とした全体性」が支配するか、それはまだ良い方でもっと進むと、「目標への熱狂」(目標によって規定された熱狂)ではなくて唯の「体軀の熱狂」が支配するようになり、「体軀の熱狂」は当然自然にさめるので、その場合には「体軀の熱狂」に代って唯の「感官的享楽」が支配するようになる。」 (藤田省三「第二版まえがき――題記」『維新の精神』みすず書房、1974年、pp.4~5。)

 いたいけなまでに誠実な、だから迂遠に見えもするだろうこのような逡巡も含めた自省を踏まえて投げかけられる問いの、この静謐で確かなたたずまい。言葉とそれを「読む」ことをなけなしの武器として、よりよい未来を選択できるようにしてゆこうとする日々の業もまた、半世紀以上前のこのようなささやかな問いからも縁の繋がる見えない糸に、思わず知らず導かれているところがあるようです。

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 とは言え、それらとはまた別の「もの知り」のありようもまた、かつての現実にはぬかりなく抱かれていました。

 生まれ育ったムラ、何らか地域や職場にうまく根づけなかった分、〈それ以外〉の世間をさまざまに渡り歩いてきて世の中のことを広く見知っている、そういう種類のちょっと変わり種の「もの知り」。宮本常一によって広まった「世間師」などはまさにそれにあたるのでしょうが、ただ、それは往々にして「口先三寸で人を騙す」詐欺師やペテン師にも通じる存在でもあり、「口がうまい」「弁が立つ」というのも概ねその特徴として認識されていました。

 土地や人間関係に縛られて生きている、そうせざるを得ない大方の人がたにとっては、〈それ以外〉の見知らぬ世間の、よくはわからないけれどもどうやら自分たちよりは確かに豊富で広汎らしいその見聞によって意外な知識や見知らぬ技術をもたらしてもくれる、その意味では確かに「役に立つ」存在であり、なるほど〈いま・ここ〉の間尺とは別の「広い世間」の手ざわりをあらためて実感させてくれると共に、世の中そのものが大きく移り変わってゆく時代においてはなおのこと、その「新しい」動きについても向かっている方向くらいは何となく示唆してくれる、重宝な水先案内人の役割にもなり得るものでした。

 それは、「市場」的な〈リアル〉の拡がりをどのように認識し、ムラなり地域なりでそれなりに完結していた〈いま・ここ〉の懐で新たに言語化し、共通の資産として内面化してゆくのか、という生存に関わる大きな問いに対応するために、それら社会の構造的変動期に同時代を生きる人がたに課せられる通過儀礼的なエチュードを期せずして提供し、体験させる役割も担ってもいました。「異人」や「異界」、「他者」や「他界」、さらには「聖」と「俗」にまで関わるであろう意識や感覚のそれ自体としては跡づけにくいゆるやかでとりとめない変遷など、これまでの思想史や精神史、あるいは宗教や信仰、信心などの経緯来歴を広く考えようとする際に必ず付随してくる「そういうもの」化したココロの習慣にまつわる「歴史」を〈まるごと〉として可視化しようとする場合、このような「世間師」的なもうひとつの「もの知り」の働きにうまく合焦できるだけの闊達な視野と、上演的に現前する〈リアル〉について感応できる器量とが共にこちら側にも求められてくる。

 されど、そんな「世間師」は、そのムラや現場の正規の成員にはなれませんでした。なろうとしない、ということも含めて「なれない」。なぜか。当人たちの意向や思惑などと別に、彼ら彼女らはその存在の本質として「異物」であり「丘の上の狂人」であることを、そのムラや現場の〈いま・ここ〉にとっては判断以前の「そういうもの」として察知され得る、それだけの見えないものさしもまた「歴史」的に自明に刷り込まれ、その場の世間一般その他おおぜいな人々の価値観に刻印されてきていたから。

 そう、理屈じゃない。それが〈まるごと〉であるような、そうでしかあり得ないような〈いま・ここ〉に生きる側から見える〈それ以外〉など、どんな装いやたたずまいで眼前に立ち現れていたところで、ことの本質として「あの世」と同じ。そんな見知らぬ現実との間を平然と往き来し、目新しい見聞や時に不思議にしか思えない体験をもっともらしく目の当たりに語って現前させるような者は、たとえ同じ生身をまとっていてもすでに〈いま・ここ〉とは別の存在、異なる実存として認識されるしかありません。まして、その「語り」が何らか意味のやりとりの可能な言葉やもの言いを介して〈リアル〉に感じられてしまうならなおのこと。時にそちらに過剰に傾く者も出れば反発する向きも現われ、そこから予期せぬ諍いや分断も露わに生起してしまう。実際に何かが変わった、具体的に目に見え体感できる変化が日常に現れたということはなかったとしても、「そういうもの」として「これまでやってきたこと」によって概ね覆われ、ひとまず平穏に推移してきていたはずの〈いま・ここ〉に異なる〈リアル〉が介在してきて、穏やかに連続していた「そういうもの」としての〈まるごと〉が明らかに揺らぎ始めている。一線を引いて遠ざけておく理由としては、それだけで十分です。

 だから「世間師」は、何も意図して動いたり働きかけたりしなくても、ただそこにそういう存在として身を置いているだけで「異物」であり、それゆえにこそ、同じ「もの知り」ではあっても、あの「年寄りを大事にする」で一律〈いま・ここ〉の裡に自明に保護されるような身の程では到底あり得ない。「丘の上の狂人」としてしか存在しない、できないものであり、また事実そのように「異物」「異人」としてどこまでも遇されるべき運命の裡にあるものでした。

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 他方、そんな「もの知り」も、いまのわれわれの思うような「インテリ」「知識人」の方へと痩せ細り、上へ向かって堕落していった過程も、また始まっていたらしい。

 それは、自分以外の存在を「その他おおぜい」としてひとくくりに認識してあらかじめ距離を置いて見るようになり、事実その感覚のままに接することができるような意識の持ち方を「そういうもの」として生まれ育ちから自然に実装している、そんな人々が前景化してゆく経緯に関わってきます。まあ、いわゆるエリートと呼ばれるような、銀の匙を咥えてこの世に生まれてきたかの如き恵まれた境遇の人がたにとってあたりまえになっていった、そういう自意識の歴史的な形成過程ということでもあったのですが。

 「「民衆の中へ(ヴ・ナロード)」とは農民の中へ行くことを意味した。しかるに、ロシアは資本主義を経過せずにして社会主義を実現しうるという彼らの希求に反して、ロシアは資本主義の発達過程に入り込んでいたのであり、彼らの学説の拠り所となった農奴解放後の土地所有形態そのものがすでに資本主義の所産であり、都市プロレタリアートの急速な増大と、ロシヤにおけるマルクス主義の台頭はナロードニキの民衆概念を著しく混乱に陥れた。」

 「その他おおぜい」の方へ。「異人」も「世間師」も存在しない顔のない「そういうもの」化した形象に一律に合焦され結像している銀幕を透かして見える向こう側の壮大な形象の側へ。「知恵」へと編制する可能性をあらかじめ諦めさせられた、抽象化された観念ありきな大文字の記号としての「情報」ならではの目新しい〈リアル〉と、それらに駆動され動き続けることにさして抵抗もなく、むしろ快適に対応できさえしてしまう、そんなそれまではあまりいなかったような新しい「自分」という意識や感覚を宿し始めた生身と手を携えながら諸共に。

 そのように認識され得るようになった「その他おおぜい」としての「民衆」は、それら新しい「自分」と本質的に関係のない、無縁な存在ではあります。しかし、日々の現実においては眼前の生身として、個別の顔すら伴って確かにそこに「いる」し、同じ時代に生きている限りは何らかつきあってゆかねばならない相手にもなる、そういう関係にもある「他者」。そういう意味でなら、相互に具体的な利害も発生するしその限りでの関係もある。一方的に銀幕を透かして見える向こう側の、見てくれ体裁万端きれいに整えられた形象というだけでもなく、一歩間違えたら実際こちらが襲われたり不利益を蒙るかもしれないというミもフタもなく具体的な可能性も含めて、それなりに否応ない実存として常に身近に多様に。誰であれ、いつの時代であれ、生身を抱えながら生きて暮らしている以上、〈いま・ここ〉にはそれらの水準の〈リアル〉が必ず共に、同時に併走しながら流れていますし、それがまた、彼我それぞれの「自分」とそれを支える「みんな」の関係をも、途切れなく織りなし続けているものです、そのように意識する/できるか否かとひとまず別に。

 「ナロードニキの運動は、今日では誤謬の明らかになったミール共産体を中心とするユートピア説に明瞭に示されているように、民衆(ナロード)という抽象的な言葉のもとにただ農民だけを、それもプガチョフ的農民だけを念頭に置いて推進されたものであり、ナロードニキは労働者すなわち近代プロレタリアートを考慮の外においていたばかりでなく、都市貧民の存在にも大して注意を払っていなかった。」(関根宏「ロシヤ革命の裂目」、初出『綜合文化』1948年2月、『水先案内人の目』所収、現代評論社、p.18、1959年。)

 このような自他の関係についての認識の転回は、どうやら同時代的なあらわれだったらしい。ならばさて、およそ19世紀半ばあたりに横並びに現前し始めていたらしいこのような人間的な自意識とそれに伴う現実認識のありよう自体の変容というのは、どのように洋の東西を越えたところでの世界史的な、もっと言えば文明史的な間尺での現象になっていたのか。また、その理由や原動力とは何だったのか。たとえば、明治初期の自由民権運動の渦中に当事者として身を置いて東奔西走していた「志士」たちの意識や感覚として、ほぼ同時代のこういうロシアの「ヴ・ナロード」的な「民衆」認識、自分たちとは本質的に異なる存在としての「他者」に対する視線は果してあったのか。あったとしてどこがどう違ったのか、あるいは共通するありようも含まれていたのか。

 あらためて痛感します。やはり思想史とは、そしてそれらの知的たてつけと不即不離に編制されていた「哲学から思想、歴史といった領域に軸足を置いた「人文書」の市場が拡大していったことで、専門的な学術研究の外側に、そのような一般の「読書人」という広がりが、ある種のフリンジのように分厚く取り巻くようになってゆき始めていた」、そのことによってうっかりと下支えをしていた「読書人」を介した本邦の世間一般その他おおぜい準拠な「教養」というのは、このまま放置して忘れ去られてしまう前にできる部分での再生利用、この先なお役に立ちそうな要素を「読む」を道具に抜き出しておく必要がある。たとえ、もはやすでに実社会での実効性は失われ、にも関わらず未だ各所に散乱している往生し切れぬゾンビのごとき老残の廃棄物件から発する腐臭が特殊清掃が必要なほどの惨状をさらしている現状が、世間一般その他おおぜいの間ですら問題にされ始めているにせよ。

 「若きツアー、アレキサンドル三世をモスクワが迎えたとき、交通整理の不備から、クレムリンの前で、歓迎に押寄せて圧死した多数の民衆、その後いくらも経たぬ1905年1月9日、ガポン僧正に率いられた宗教労働組合を先頭として戦争中止の嘆願をもちクレムリンの前に集合したとき、ツァーの兵士の銃声から「血の日曜日」の惨事を惹き起した民衆、それとこれとの民衆の間にはいかなる相違があるのであろうか?」(関根、p.21)

 このようなそれ自体としては相当に誠実で、当時としても群を抜いた水準の自省的な考察が「民衆」という表象をめぐってうっかり飛び出してくるのも、その程度には敗戦直後の時期、すでに戦前以来、当時はまだ一部でしかなかった「インテリ」「知識人」ベースの「読書人」世間における「教養」の基礎的な滋養になり得ていた本邦のマルクス主義、いわゆる「左翼」的な知識の蓄積が寄与していたところがあったゆえ、と言っていいのでしょう。

 しかし、それは同時にまた、同じ「民衆」を足場としながら、その「インテリ」「知識人」という語彙の内実を考えなしに肥大、膨張させた空虚な自画像を臆面なく得々と描いてみせる培養基にもなっていました。

 「知識人は一つの極では社會の頭腦となり、他の極では支配者の道化者となる。この二つの極の間には無数の段階がある。知識人は革命家にも、大臣にも、代議士にも、ブローカーにも、スパイにもなりうる。(…)知識を生命とする知識人は知識によつて自己の出身から來る事物の感じ方の誤謬を訂正することができるはずであるし、また訂正すべく努力することは知識人の義務でもあり、權利でもある。(…)ただ一瞬間も忘れてはならないことは、この社會の頭腦は社會の全肉體をなす勤労大衆のためにこそ必要なのであることである。」(徐村吉太郎「個人の努力について」、『世界評論』1946年7月号、『文學とインテリゲンチャ』所収、日本評論社、pp.152~3、1948年。」

 この双方が共に同じ言語空間、共通の情報環境に宿った当時の現実認識の、ある意味での双極のありようだったこと。これらどちらも含めた絞り全開放の焦点深度での「歴史」像の〈いま・ここ〉に即した可視化、具体化は、すでに半ば厄介者扱いになりつつある本邦人文社会系の「教養」の責任において、この先やってゆかねばならない未来への大事な地固め足堅めの仕事の一端、既存の「教養」とそれに介在してきた「インテリ」「知識人」という自意識に由来する〈知〉の環境汚染に対する特殊清掃の手始めにもなってゆくはずです。

「しらべもの」の現在


 世の中のこと、社会のありようについて何か疑問を持ったり、わからないことがあった場合、それについてそれなりの「答え」を求めようとする。わからないからわかろうとする、そのための作業はさまざまにあれど、ごくおおざっぱに「しらべもの」と言っていいでしょう。

 その「しらべもの」の結果、必ず納得ゆく「答え」に到達できるとは限らない。多くの場合はさらに問いが問いを呼び、とめどなく枝分かれをしてわけがわからなくなったりするものです。まただからこそ、「しらべもの」は面白かったりもするのですが、ただ、たとえ満足ゆくような結果は得られなかったとしても、少なくともどこかで納得したい、あ、そういうことなんだ、と「わかる」になっておきたいという欲望だけは、ある種の人間にとってその後も身の裡に熾火のように宿りつづけるものらしい。

 そういうところに「わかる」ための秘訣、といった代物がうっかりと手招きしてきます。「思想」だの「哲学」だの「文学」だの、いずれ大文字で抽象的で、またそれだけ大風呂敷で世界まるごとひっくくって包み込んでしまえるかのように思わせてくれる、そんな「わかる」へ早上がりするためのさまざまな言葉たちが各種取り揃えられ、しかもそれらは概ね本のかたちで待ち受けていて、そこへ導き寄せられてゆくことは、たとえ予後がどのようなものになったにせよ、人が人となっていまどきの世の中に出てゆく上で、大なり小なりくぐり抜けねばならない通過儀礼のようなものではありました。

 そういう秘訣を出会い頭にいくつか拾って見よう見まね、格好つけられそうな程度にまで何とか身につけて、さて、あらためて世の中を見回してみれば、あら不思議、それまでとりとめない個別具体のモノやコト、いろんな利害や思惑や権謀術策、欲と本能とが生身を介してドグラマグラに絡み合いつつあたりに充満して蠢いているばかり、いずれそのどこかに身を置かねばならぬ運命らしいにせよ、あまりに茫洋、ただ漠然として、とにかく始末に負えない厄介な混沌としか見えなかった眼前の風景が、一気に何やら整理がついてすっきりくっきり見えるようになっていた。そうか、こういう「わかる」が自分にも宿るようになるんだ、とそこはそれ、若気の至りとは言え、まずは素直に感動したりもするのであります。

 けれども、厄介なことに、そういう「わかる」は直ちに自己増殖し始める。早上がりできるだけの飛び道具的な射程距離の長さと足の速さを兼ね備えている言葉だけに、それに見合った似たようなタチの言葉たちをたちどころに呼び寄せて、みるみるうちに互いに手を組み、仲良く結びつきあって、何やら透過膜のようなものを頼みもせぬのにこの身のまわりに分泌、生成し始める。その内側から見透かしている限り、世界は常に明快で理にかなった造りになっていて、パースの狂わぬ見事な像をそれこそ解像度高く目の当たりに合焦、現前させてくれるという次第。

 たとえば、それまでさまざまに論われていた個別具体の事象なり眼前の世相風俗なりの多くも、要は「資本主義」によってそうなっているのだ、と決め打ちされれば、その透過膜を介して見る限りすべて一律「資本主義」に粛々と収斂してゆく明快かつ鮮明な映像として映し出されもする。

 しかし、それは要するに通俗凡庸その他おおぜいの問題、つまり大衆社会化状況に伴って必然的にもたらされる現象のこと、だったりもするのではないか。ここは資本主義社会における大衆社会化状況と、定石通りに言い換えてもいいですが、要はそのうしろの部分、大衆社会化状況によってもたらされている部分が大きいようなものなのではないか。それを資本主義の問題、経済をまわしてゆくたてつけの問題としてだけ見てしまうことが、もしかしたら間違いの元だったのではないか。なんの、何を言う、それでは下部構造と上部構造のたてつけが逆、その大衆社会がそもそも資本主義(的な生産様式)に規定されて初めて出現し得たのではないか――ああ、ないかないか、の張り手の応酬、確かに問いは問いを呼び、いつ果てるともわからぬ言葉の無限連鎖に巻き込まれてゆくばかり。こういう大文字の問いの空中戦もまた、あの透過膜を介してあたりまえに生成され、その内側の世間に流通してゆくものでありました。

 だが、これもまた、「資本主義」というくくり方からではなく、むしろ「市場」という〈リアル〉の問題として考えた方がわかりやすいのではないか。この自分がおのが生身を抱えて日々棲んで生き永らえている世界は、「意味」を介して編制されている現実でもあるのがわれら人間の宿命であるらしい。である以上、それは生身の器官を介して直接に認識できている範囲にとどまらず、眼によって見る、耳で聴く、それらあまたの感覚によって引き寄せられる個別具体の間尺を越えた〈それ以外〉の現実も、「意味」という共通の土俵においていくらでも編制されてゆくことができる。そのように、「市場」という身の丈を越えた拡がりの現実もまた、同じ生身の裡に〈リアル〉としてひとまとめに宿してゆける。それは、カミやホトケといった超越的で普遍的な形象およびそれに付随するイメージ共々、シームレスかつ融通無碍に融けあってもゆくものになり得ます。要は、われら人間にとっての想像力というのは、そのように本質的に飛び道具、実にあやしくもうっかりと胡乱な厄物らしい、ということなのですが。

 そうなってくると、日本語の語彙としての「大衆」よりも、もともとのmassの内実にまで問いの射程を伸ばさねばならない。 

 mass――つまり「たくさん」「大量」という意味あいになりますが、これはそれこそ数の認識が人類に宿るようになっていった過程でも意識されてきていたことなのでしょう。しかし、われらがいま生きるような大衆社会段階での「たくさん」とは、単に無機質でフラットな数の認識においてというだけでなく、この「自分」と同じ存在がこの世の中に「たくさん」あるらしい、という認識、いわば自分自身を対現実認識の基本におく態度が自然に介在できるようになって初めて、いかにもいまわれわれが日々感じ、そして考えるような大衆社会における「大衆」の内実に近いものになってゆけます。

 自分のような「個」が横並びに「たくさん」存在する、しかも間違いなくこの自分ではない別の異なる存在として、という認識のありよう。つまり、「個」としてのこの自分自身が明確に「自分」という輪郭を、まず獲得できるようになっておくこと。それとの対抗的な関係で「たくさん」もある種の不気味さや恐ろしさ、自分自身との関係における根源的な不安のようなものを伴って立ち現れる。「自分」を確立してゆくに伴い、〈それ以外〉としての「他者」もまた顔の識別できる等身大の個体として存在する、という認識と共に、同時にそれは不特定多数の、かつ顔の見えない匿名性を伴った「たくさん」「大量」としても立ち現れてくるという、それこそ弁証法的な認識のからくり。「存在の根源的不安」などと賢しらにまとめてしまえばまたそれまでのことでしょうが、それでも身の裡に宿るこの何やら底知れぬ不気味な感じは、透過膜になじんだそのような言葉や文字にきれいに収まりきるものではないし、まただからこそ、思想だの哲学だの文学だのという、世の中の割り切れぬ残余、〈それ以外〉としか言いようのない部分を受け止めるたてつけの養いにもなってゆける。なおその一方でまた、そのような不気味な「たくさん」は、同時に信頼するに足る「みんな」だったりもしてきたのではないか、という問いも姿を現します。このように、「市場」的な拡がりの〈リアル〉というのも、その本質としてそのように両義的で、突き詰めてゆけばそれこそ「聖/俗」の属性を表裏一体として備えているようなものになってもゆくようであります。

 家族親族から半径身の丈、顔の見える範囲での日常接触する間尺程度のあつまり、それは「ムラ」でも「身内」でも共同体でも何でもいいのですが、いずれそのような範囲の「みんな」に対する信頼は、「マス」「大衆」的な「たくさん」とはまた別のカテゴリーになっていたのではないか。だとしたら、その場合の「みんな」とは、数量としての意味あいならば地続きであろう「たくさん」とはむしろ対抗的なカテゴリーにもなり得るはず。数でカウントするなら同じものさし、数字の多寡でだけ測って連続的にプロットすることもできるけれども、でも、その間にはどこかで決定的な不連続、生身の認識としては越えられない違いも確実にはらまれている。これは、どこまでを「みんな」という切実な「身内」「内輪」と認め、どこから先を〈それ以外〉の縁無き衆生、つまりひとしなみの「大衆」「マス」「その他おおぜい」と認識するのか、という線引きの問題にもなってきます。そして、あのhumanity という語彙が歴史・文化的に宿してきた、常に一定の熱っぽさをはらんだ内実にも、おそらくはまた。

 「自分(たち)」と〈それ以外〉、という対抗図式。これもまた、言語の基本構造などに規定されているという、あの「パンツをはいたサル」としての本質的な認識の枠組みかもしれません。ただ、それでもその図式の「自分(たち)」のスケールをどのへんまで自然に、それこそ資本主義経済が成立して拡散浸透してゆく以前の社会において、人は拡大してゆけるものだったのか。そしてまたその場合、想定されている「たくさん」なりの側はどのようにイメージされ、あるいはまたどのように〈それ以外〉になっていたのかいなかったのか、などがまた次なる問いとして連なってくる。「その他おおぜい」という雑でひとくくりな想像力もまた、それら〈それ以外〉の中には「自分(たち)」もまたまごうかたなく含まれ得る、という自己認識のありようと背後で秘かに通底しています。複製技術の進展が大衆社会状況を下支えしていた、というのは例によってベンヤミン経由の能書きになりますが、それはわれわれの現実認識、殊に自分も含めた人間認識にもどれくらい影響を与えていたのか。そう、人間もまた複製できるかもしれない、「科学」の力によってそれが可能になる「未来」があり得るのかもしれない。「自分」は確かに他でもないこの自分自身ひとりだけれども、だとしてもある意味で同じ人間、同じ個体という意味での自分なら世の中にいくらでも、それこそ無尽蔵に近い規模で存在しているらしい。

 ただ、いまどきの若い衆世代、そう、ざっと30代くらいから下、概ね平成生まれと言ってもいいあたりの同胞にとって、こういう類のしちめんどくさくも逃れがたいある種の「教養」によって刷り込まれた自意識の自覚というのは、すでにもうかなり他人ごと、ありていに言って「昭和」「戦後」にたまたま生まれ、折りから降って湧いた「豊かさ」にあぐらをかいて好き勝手な能書きや思い込みを気分次第にまき散らしながらうかうかと世を過ごしてきた年寄り老害世代のやくたいもない繰り言としてしか響きようのないものになっているようです。彼ら彼女らにしたらそれこそ、ああ、それは結構なご身分でしたねぇ、と口もとのひとつもひん曲げながらうしろ向きに吐き捨てるしかなくなっているような類の、自分たちがこの先、生きてゆく上ではすでに役に立たない過ぎ去った過去のめんどくさい作法として。


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 たとえば、先日ふと目にした、とあるブログの一節。おそらくはそんな若い衆世代のひとりであろう書き手による何でもない書評めいた内容の一節に、こんなコメントがつけられていました。

 「小難しい書き方をされている文章を頭の中で変換したり、読み返して咀嚼しなきゃならないのでほんとに疲れます。内容は、よく調べてあると思うところもありますが、自説に合わない事例を無視して論を進めているところが散見されるので大変モヤモヤします。」

 この「モヤモヤします」という部分に、さて、どういう違和感が宿っているのか。それが気になって立ち止まった。

 評されているのはオカルト番組についての本らしいのですが、そこに取り上げられている70年代や80年代、かつて放映されていたテレビ番組の評価や、当時確かに存在して人気もあった番組が拾われていないことなど、同時代として見聞してきた体験からしても、資料の偏りや抜け落ち、視野の狭さや決めつけが気になる、どうしてこんなことに――ざっとまあ、こういう文脈での「モヤモヤします」でした。

 ありがちな「おたく」気質、個別具体の細部へのマニアックな執着ゆえの違和感とだけ見ればそれだけのことになりますが、ただ、どうもそれだけでもない違和感の気配、書き手自身もうまく言語化できていないようだけれども、他でもないこの自分の裡でも日々鈍く感じていた根深い問いと共通する何ものかが、その「モヤモヤします」の背後にちらり、垣間見えたような気がしたゆえの敢えての立ち止まり。

 「よく調べてあるところもある」と前向きな評価もしています。「よく調べてある」になるにはそれなりの能力が必要ですが、しかし、その能力は、文字に限らず映像でも音声でも一律に「情報」化されデジタイズされてなめらかに水平化、フラット化してゆくいまどきの情報環境においては、少し前までの情報環境において求められ、ある程度まで否応なく生身に宿らされていた能力と比べて、〈知〉のありようとして本質的に別のものと言うしかない不連続をはらんでいるのかも知れない。その程度に、およそ今世紀にさしかかるあたりからこのかた、ざっと30年ばかりの間に日々少しずつくぐもり続けてきていた、身の丈の「読む/書く」に関する所作、「そういうもの」としてあってきたはずの作法の変貌についての、とろ火にかけられゆるく煮崩れてゆくような違和感は、自分ごととしても根の浅からぬ問いになっています。

 そう、「よく調べてある」と言う、その「調べる」の内実とは?

 「自説に合わない事例を無視して論を進めている」と感じているのは、その「自説」に向かってきれいに整序されているのとは別の、〈それ以外〉の「情報」も持っているはずなのに、それらをあらかじめ除外することで「よく調べている」が成りたっているように見えた(と、評者であるこの書き手が感じた)からでしょう。眼前の「自説」に反映されてはいないけれども、そのような〈それ以外〉の「情報」もまた背後に持っているはず、という何らかの気配がその直感を裏づけているからこそ、彼はそのように感じたのだろう、ということと共に。

 もちろんいまどきの情報環境のこと、それらもまた同じように等しく「コンテンツ」化された「情報」であるのでしょう。それらは共に一律にフラットに平面的に「情報」として一望できるようになっている(と感じている)がゆえに、それらを同じ水準で「資料」として、つまり「自説」のための「パーツ」「素材」としてどれだけきれいに整理し、取捨選択した上で「自説」を完成形として見せることができるか、という結果が、その本の紙面上に示されている。そして、その著者の手もとにあるだろう実際には使われなかった「資料」もまた、眼前に現前する「自説」を組み立てている「資料」と同じ水準、フラットな「コンテンツ」「情報」として存在しているだろうことも、この評者も共に前提にしている。そのようないまどきの情報環境における「資料」のありようについての認識はすでに自明に共有されていて、いわば互いの手の内を舞台裏の道具立てごと素通しに見透かすことのできるという認識は、ひとまず地続きになっているようです。

 でも、この評者の書き手も、同時代を生きて見聞し、体験してきた生身の領域も抱えて〈いま・ここ〉を生きている。その本に取り上げられた「情報」としてのかつてのテレビ番組たちの多くを当時の〈いま・ここ〉で彼は見ていたし、そのことのかけがえのない感覚、まさに “I was there”――「自分はその時、間違いなくそこにいた。いて確かにこの身で見聞きし体験した」と昂然と宣言したいほどの主体感の確かさは、単なる「情報」としての字ヅラに立体的な遠近感を即座に与えてくれます。紙の上の理路、「情報」としてのフラットな平面においてそのようにうまく処理されている限りの印象がなめらかで整っているものであればあるほど、おのが身の裡の〈いま・ここ〉感覚、それを介して立体化した同時代的な手ざわりを回復し、紙面からそれこそ地湧の菩薩のように平板な文面のそこここから立ち上がってくる〈まるごと〉の記憶や印象にドライヴされての「情報」の変容は、おそらく彼の裡で切実だったのでしょう。しかし、その切実さをそのまま言葉に変換する回路は、評者の彼にあってもすでに自覚されないものになっているらしい。だからこそ、それは「モヤモヤする」違和感として、ぶっきらぼうに放り出してみせるしかなかった、と。

 これは、前々から言っている「情報」化「コンテンツ」化や、それらを前提にしたいまどきの「しらべもの」――「調査研究」でも「取材」でも構いませんが、それらの作業に特徴的になっている「スキャン」的、2次元的かつ平面的な検索の視線など、近年の情報環境の変貌とそこに宿る〈知〉のありようの変質に直接関わってきます。そこで自明の前提になっているのは、同じ水準で素材を「情報」として共有する/できる状態で、それらを取捨選択してどれだけきれいに整った「自説」を生成してゆけるか、という種類の「競争」のイメージです。マウンティング前提での勝ち負けでしかものごとを考えられないゲーム感覚の上での「論破」こそが正義であり、言葉をやりとりする目的である、といった感覚が薄く広く実装されているらしい事態と共に、これはいまどきの本邦同胞の間に静かに浸透し、支配的になってゆきつつある情報環境の変化に伴う社会相らしい。

 しらべものの結果、自分の手もとに資料として立ち現れたものは、しかし自分以外の誰かにとっても同じように役に立つ資料になるとは限らない、という感覚はおそらくここにはない。「コンテンツ」化された「情報」は誰にとっても等しく意味を持ち、平等にアクセスすることが可能なものである、という新たな情報環境の前提からは、しかしそのように処理される手前の段階、いずれ生身の主体が時間をかけ、手間もカネもかけ、図書館に通ったり古本をあさったり、事情を知る者を探して会いに行き、アポをとって話を聞き、必要なら写真や映像、音声もまた記録し、資料としてフィルムやテープ、何らか具体的なブツとしての媒体を紙の文書資料と同じように手作業でハンドリングしてゆき、いずれそのような一定の問いの文脈と必要とに応じたあれこれ試行錯誤の結果の雑多で多様でそれ自体は客観的にはやくたいもないガラクタの集積である、という前向きなあきらめを伴う理解が、その過程へのつぶさな認識と共にきれいに抜け落ちています。

 昨今眺めている限り、このような世の趨勢に対する素朴な違和感や不信感の類を感じたそのままに表明することは案外少ないようで、むしろそれを「しない/できない」ように抑制されている印象すらある。いや、さらに一歩進んで、そのような違和感などはらみそうになった瞬間から即座にキャンセル、「自説」とは別の自前の「自説」を手もとの〈それ以外〉の「資料」含めて駆使して即座に構築、とっとと体裁整え勇躍反撃に向かうという、まさに「ロンパー」モード、表面的な「論破」だけを第一義のミッションと心得た言語活動の即時始動が半ばプロトコルとして「しらべもの」に従事する生身の間に実装されているようにさえ感じられます。「モヤモヤする」ことなく、常に明快かつ鮮明に隅々まで見通せる素通しになったつもりの同じ土俵でどのように反撃するか、という悪い意味でのゲーム的な認識と感覚にドライヴされた半ば自動的で反射的なやりとりの連続。もちろん、その結果はそれらの過程で生成されるそれぞれの「自説」の横並び半自動生成の連鎖という、ある種ヴァーチャルな「正義」のぶつけあいによる不毛なものにしかならないのも含めて、言うまでもなく。

 そういう意味ではこの書評めいた一文の書き手、「モヤモヤする」と言語化して表明できる、その程度に「立ち止まる」「おりる」という手続きがとれるという一点において、ひとまず貴重なのかもしれません。それらいまどきモードの対話なり議論なりのプロトコルに従った結果がロクなものにならない、という認識も漠然とであれそれなりにあった上で、自分が見切ったそれら〈それ以外〉の「資料」についてはどう考え、どのように扱ったらいいのかなどの〈そこから先〉も含めて、当面は「モヤモヤする」というあたりで立ち止まるしかないことも含めて。

 他の誰でもない、この自分との関係において初めてその資料はある特定の意味を持つようになる、という感覚の後退。これはおそらく、紙やその他媒体を介して、さらにはそこから「デジタイズ」化された「情報」として、現在の情報環境における極限にまで客体化された「データ」としてしか資料を考えられなくなったことにもどこかでつながっている。それは、「科学」「論理」「データ」「客観的」といったもの言いの組み合わせで何となく理解されている〈知〉に対するある種通俗的な認識としても、また。これは、「コックピット的一望監視感」の全面化とそのような環境での「個」という意識のありようなどとも当然、関わっているはずです。

 取材や聞き書きなどで得られた資料は単にそういう「データ」ではない、ということ。他でもない自分がその日その時その場所で取材し、話を聞き、その関係と場において解釈し理解した、その〈いま・ここ〉のまるごとの感覚が否応なくわが身の裡にあって初めて、それら取材や聞き書きの結果としての「データ」も資料として十全に存在し得る、といった感覚の留保ができなくなっている状況。昨今、すでにバンザイクリフの如き状況を呈しつつある本邦日本語環境におけるいわゆる人文社会系の「教養」としての守るべき一線というのも、煮詰めてゆけば、しょせんこのような留保による「おりる」の方法化を介してしか存在し得ないはず、なのですが。

イメージとしての「キリスト教」

 同じ信仰、宗教沙汰とは言え、キリスト教というのは、思えばどこか行儀良く、育ちも良く、ありていに言って良家の子弟、関西で言うところの「ええし」の子のもの、という感覚がありました。それも大方は女の子。コール天のワンピース着て、髪にはリボンなんか飾って、まだ珍しかった自家用車で幼稚園に父親が送りにくるような。

 何の間違いか1年ほどだけだったとは言え、一応キリスト教の学校附属の幼稚園に通わされていたことがあって、バザーやキャンドルサービスなんていかにもな催しにも参加させられ、賛美歌も手ほどき程度に歌わされていた記憶があるのですが、単にそれだけのことで、カトリックとプロテスタント、神父と牧師の違いすら全く知らぬが仏、日曜学校に通う習慣があるような敬虔なご家庭とのつきあいはついぞないままでした。いや、もしかしたらこちらが知らないだけで、あのリボンをつけた女の子などはそういう家の子だったのかもしれませんが、こちとらもちろん縁なき衆生、その子の持って来るお手製サンドイッチと瓶入りヨーグルトの弁当がうらやましかっただけ。思えばもう60年以上前のことです。

 どうやら本邦、特に戦後において「キリスト教」は他の「宗教」(仏教系や新宗教その他)とはまた一線を画した別枠で、それこそどこか「ええし」のもので、要は「民主的」で「リベラル」で「ハイカラ」で「意識高い」っぽい色づけのアイテムとして何となく受け取られてきたところが、一般的なイメージとしてあるようです。

 まあ、それはクリスマスだの、教会での結婚式だのがなしくずしに生活習慣化して入り込み、本来キリスト教に裏づけられた行事だったはずのものも、これからはすべて「洋式」に変えてゆくのが「民主的」で「正しい」ふるまいなのだ、と健気にもうっかり思い込んでしまったわれら同胞、当時のおとなたちの雑な心の習慣に下支えされていたゆえではありますが、それにしてもお寺や神社に関わる信仰や宗教が、割とひとくくりに「古い」「遅れた」「保守的」なものと意味づけられてきたことと、イメージとしては見事に裏表、同じ「宗教」という語彙におさめて語ってしまうのも実ははばかられるような感覚がどこかにどんより漂っていたらしい。

 文科省が教育基本法に抵触するという判断を正式に出したことをきっかけにようやく表沙汰にされ始めた、同志社国際高校の沖縄は辺野古の修学旅行における死傷事故の件も、地元の米軍基地反対運動のいささか常軌を逸した偏り方やそれとなしくずしに癒着してきたらしい高校側の責任が問われる局面になっていますが、自分などからすれば、それと共に、生活習慣化してきた戦後の本邦のキリスト教の、イメージ含めた経緯来歴までも、いまいちど言語化して振り返ることもこの際、なされるべきだろうと思います。

 同時に、「平和教育」ということも言及されるようになっています。その中身があまりに偏向していて極端なものになっている、という指摘がされ始めているわけですが、これって他の宗教、それこそ仏教系や新宗教系でも同じようにやられているのかどうか。

 なるほど、キリスト教と「平和」の組み合わせは何となくおさまりがよろしい。「民主的」で「リベラル」で「意識高い」から「平和教育」やってると聞いても不思議に思わないし、むしろ「そういうもの」程度でそれ以上深く考えないでいられる。これがキリスト教以外、何でもいいですが、たとえば日蓮宗や浄土真宗、本願寺が「平和教育」やっているとなると、素朴に「え、どうして?」くらいの軽い違和感は生じるような。まして、神社関係、それこそお伊勢さんやお稲荷さん、靖国神社が「平和教育」なんてことになったらもう、申し訳ないが冗談にしか聞こえません。

 仏教や神道、要はお寺や神社にまつわる「宗教」は「古い」もの、戦後の価値観においては「封建的」で「保守的」で、だから積極的に評価されない、カッコ悪いものでしかなく、そのせいか戦後にできた新宗教系にしても、元は大方仏教なり神道なりに根ざしたものであっても、そういう出自来歴はできるだけ目立たないようにしてきたフシがあるような。それに対して、キリスト教だけは別枠で、それらネガティヴなイメージの対極にあるものとして、無条件に「良い宗教」的な意味が付与されてきたところはあるようです。

 統一教会に「解散命令」を出してしまったことで、ムスリムその他これまで意識されなかった、する必要のなかった「宗教」までもが身近な問題として考えざるを得なくなった最近の本邦のありようから、「良い宗教」として「ええし」の特別席に坐ってきていたキリスト教もまた、無関係でいられるはずもありません。