もうひとつの現実、を織り込むこと



 19世紀末から20世紀にかけて、当時の近代化先進地域から始まった「大衆社会」へと向かってゆく様相というのは、それまでの社会にあたりまえにはらまれていた「違い」――個々の人間の持ち前の性質や体質から、その出自来歴、地縁血縁含めた逃れようのない規定要因、さらにそれらをとりまとめてゆく地域の風土や習慣、いわゆる文化の水準から、もっと社会科学的な文脈での「家族」や「階層」、果ては「政治」「法」「国家」といった、さらに大文字度合いの高くなってゆくたてつけに至るまで、縦横無尽にはりめぐらされている〈いま・ここ〉の内側の、それらさまざまで多種多様な「違い」を、とにかくまとめて一足飛びになかったことにすることができる程度に、とんでもないものだったようです。

 そのとんでもなさ、がどのような痕跡を、われわれの意識にあたえてきたのか。それが近年もうずっと、自分の中の問題意識としては、ある種基調低音のようになっています。「盛り場」と「モダニズム」をめぐる話や、それらが「市場」という広がりを相手取ろうとせざるを得なくなってゆく時に必然的に介入してきた「広告・宣伝」をめぐる話、そこからその「広告・宣伝」というのが、どうやら同時代的に意識されにくいステルス属性を持って、眼前の事実としての〈いま・ここ〉に、さまざまなかたちで潜伏していったらしい過程や、それらが「うた」のありようにも陰に陽に影響を与えていたらしいこと、などについて、あれこれ考えをめぐらせてきましたのも、背後にあるのはひとつ、そのような問いでした。そして、そこに「消費者」という、それまであまり表沙汰にならなかったような、新たな主体のありようが、〈おんな・こども〉という属性と共に、等しくわれわれに憑依してきたらしいことも、その基調低音に加わるもうひとつの音として。

 ただ、こういう方向での、いずれ茫漠とした問いを考えてゆこうとする時、本当に厄介なのは、これまでわれわれが「社会」を、そしてそこに必然的に関わってくる「歴史」や「文化」を考えようとする時に、当たり前にあてがってきた認識枠組みの類を、「そういうもの」として自明にそのままにしておいては、問い自体の輪郭自体、どうやらうまく浮び上がらせることすらできないらしいことです。

 たとえば、「情報環境」という言い方を、自分はかなり前から、応急処置的な意味あいも含めて、補助線的に使っています。それは、具体的なモノや個々のコトをベースにした、それまで自明にあってきたわれわれの現実理解のルーティンとは少し違うところで、それらルーティンを介して認識される現実を、われわれはどう見ているのか、感じているのか、意味づけているのか、といった、われら人間の等身大の認識のありように合焦した「もうひとつの現実」の側も、自明のものになっているわれわれの現実に対する認識枠組みの裡に、もうひとつ新たに意識的にでも組み込んで認めてゆく、そのことでわれわれの認識できる限りの「現実」というのも、おそらくこれまでとは少し違うありようで、より〈リアル〉なまるごとの〈いま・ここ〉として認識できるようになるのではないか、そんなささやかな目算に立ってのことでした。

 それは、もう少し違う言い方をするなら、「主体」と「客体」との明確な分離を前提とした認識のありかたを少し括弧にくくってみることで、「客体」もまた自分事として「主体」の裡に組み込まれてある、いわば入れ子のような構造としてわれわれの現実というのはあるのかもしれない、という問いを、手もとでできるだけ離さないようにすることでもありました。そして、それによって、これまで「そういうもの」として自明の相に置かれていた、だから本当に対象化され、自省されることも少なかった、これまであたりまえになってきたわれわれの現実に対する認識枠組みに、ささやかな留保を自ら試みてみる立場でもあります。あまりこのような大文字な能書きを振り回すことは、もうなるべくしないようにしてきていますが、敢えて言いましょう。人間存在とそれに関わる領域を対象としてきた、いわゆる人文系の営みの中で、ある時期からおそらく同時代的な必然としても前景化してきた、現実と記述に関わる問い、〈いま・ここ〉を認識し記述してゆく営みについての自省のモメントと、そこから発されるようになってきたその営みの主体そのものに対する留保と問いとも、それはおそらく同じ地平に立っているもののはずです。

 いわゆる自然科学的な意味での科学的認識の上に存在している、生身のわれら人間の存在のありようと共に、広義のことばと意味の綾なす水準の「もうひとつの現実」にもまた、われわれは存在せざるを得ないらしい。その二律背反的な宿命について、単なる認識論としての哲学的な、形而学的水準での大文字の考察にとどまらずに、実際の眼前の事実を介した現実認識、それらに立った「社会」や「歴史」、「文化」などの見方についての「もうひとつの選択肢」を敢えて示してゆこうとすること。おそらく、そのような留保の試みを意識的に方法として選択してみることで、それこそ「うた」のような生身に関わる曖昧模糊とした、しかし間違いなくわれら人間存在のある本質に関わっているはずの領域についての考察沙汰もまた、これまでの「客観的」とだけ片づけられてきた、全て他人事の整理箱に一律に、きれいに収められたようなものから、〈いま・ここ〉を生きるわれわれひとりひとりにとってのいきいきした自分事に、もう一度差し戻してゆけるようになるはずです。そしてそこからさらにもう一度、何らかのより大きな、この先生き延びてゆく上で必要になってくる、新たな現実認識の枠組みへと向かってゆくこともまた、できるかもしれません。

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 もちろん、人の身の考えること、こういう問いの立て方、認識枠組みも含めた本質的なものに至る作業にしても、これまでやられてきていないわけではない。たとえば、あの吉本隆明なども、半世紀以上前、まだ若い頃の粒々辛苦の中、おそらく同じようなことに気づいていたらしい。例によっての、こんなわかりにくい言い方ではあれど。

「日本の社会が、自己を疎外した社会科学的な方法では、分析できるにもかかわらず、生活者または、自己投入的な実行者の観点からは、統一された総体を把むことがきわめて難しいことを意味しているとかんがえられる。」

 これは、「転向」について彼が悪戦苦闘していた頃、どうして本邦では思想的な「転向」がどこか他人事の整理整頓、解釈沙汰にとどまり、本質的な意味での自分事としての自省や反省、主体も含めた知識人総体の共通の問いになってゆけなかったのか、といった自身の問いから発して、その理由や背景について考え詰めていった果ての一節です。この直前の部分には、「近代日本の転向は、すべて、日本の封建制の劣悪な条件、制約にたいする屈服、妥協としてあらわれたばかりか、日本の封建制の優性遺伝子的な因子にたいするシムパッシーや無関心としてもあらわれている」という前振りがされています。

 「日本の封建制」に対して、「劣悪な条件」や「制約」といった負の方向での表われに対しては正面から認識して意識できたので、「屈服」「妥協」といった具体的な反応となって現われてもいたのだが、しかし、それとは逆の方向での「優性遺伝子的な因子」については、どうやら正面から認識できていなかったらしい。なので、「屈服」であれ「妥協」であれ、そのような主体として意識的な反応の結果としてではなく、「シムパッシー」や「無関心」といった、主体としては無意識、無自覚に導かれる反応として現われている――ここでの彼の言っていることは、ほどいてみるならばこういうことでしょう。

 これはなぜか。「自己を疎外した社会科学的な方法」を「そういうもの」として自明の認識枠組みとしているからだ。だから、「分析」はできるけれども、そのような認識枠組みによってとらえられる対象としての「日本の封建制」は、おそらく全体ではない一部分に過ぎないらしい。〈まるごと〉≒「統一された総体」としての「日本の封建制」、さらに言えば「日本の社会」は、そのような「自己を疎外した社会科学的な方法」を「そういうもの」として自明の認識枠組みとしていない、そういうすることから「疎外」されている「生活者、または自己投入的な実行者」にとっては、「分析」する「対象」としてでなく、それ以前にまず否応なしに自明の「そういうもの」としてしか存在しないからだ。だから、その「統一された総体」としての「日本の社会」を、〈まるごと〉として把むためには、「自己を疎外した社会科学的な方法」自体を、「そういうもの」という自明の地位から切断し、カッコにくくっておく作業が主体の裡で必要になってくる。

「分析的には近代的な因子と封建的な因子の結合のようにおもわれる社会が、生活者や実行者の観念には、はじめもおわりもない錯綜した因子の併存となってあらわれる。(…)もちろん、けっして日本に特有なものではないが、すくなくとも、自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔りが、日本におけるほどの甚だしさと異質さをもった社会は、ほかにありえない。」

 独自の術語や論理展開によって素直に読み解きにくいのは吉本の仕事の通弊ですが、ここで言っているのはつまり、他人事として分析や考察の対象にだけなっている「社会」(「歴史」「文化」なども含めて)という客体は、主体としてそれら分析や考察を行なう側の自分事にならないままであり、だからこそまた、常に自分事としてまるごとの〈いま・ここ〉を生きている、そうするしかない世間一般その他おおぜいの人がた≒「生活者、または実行者」の現実認識のありようとは決定的に違うものになったままだ、だから、「日本の近代的な転向は、おそらく、この(現実認識の枠組みについての……筆者註)誤差の甚だしさと異質さが、インテリゲンチャの自己意識にあたえた錯乱にもとづいている」。

 うっかり文字の読み書きを身につけ、そしてその結果、接触するようになってゆく情報環境において、ある閾値を越えたあたりから半ば否応なく編制されていっただろう、それら「そういうもの」としての「自己を疎外した社会科学的な方法」が、自明の認識枠組みになっていることで、われわれにとっての現実もまた、その枠組みに制限されたものになっている。それらを介した現実は、「分析」されたものであり、その限りで明晰で整理されたものではあるだろうけれども、しかし、同じ同時代の〈いま・ここ〉の、〈まるごと〉としての現実というわけでは、どうやらない。なぜならば、そのような一定の閾値以上の切実さで文字の読み書きによって編制されてしまう「そういうもの」としての「自己を疎外した社会科学的な方法」を自明の認識枠組みにできない、していない世間一般その他おおぜいにとっての現実は、いくつかの因子に分節され、明晰で整理された像としてでなく、「はじめもおわりもない錯綜した因子の併存」として認識されている――だから、ということなのでしょう、吉本はその後、しつこくその「生活者」という言葉によって、その〈まるごと〉としての現実、自分の語彙での〈いま・ここ〉を、繰り返し巻き返し、ある時は溌剌と闊達に、そしてまたある時は、老いと共に訪れる解像度の低下やぼやけ具合などと共に、それでも常に、倦むことなく指し示そうとしていました。



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 「今日、人間の精神形成に参与するのは、何も読書に限られてはいない。昭和にはいってから、とりわけ戦後になって、ラジオ、テレビなどの電波媒体の普及はめざましく、いわゆるマスコミという和製英語の名称に包含されるマスコミュニケーションの包囲の中では、読書の人間形成力は相対的に弱まり、その有効範囲は狭められている。したがって、人間とは、その読むところのものであるに止まらず、その視るところのもの、聴くところのものである、と言い直すべきではないか、という文句がそれである。」

 そのように、文字・活字と手に手を取った紙媒体が先行して、「大衆社会」の幕をあげてゆきました。新聞であり、出版であり、いずれそれら文字・活字の紙媒体が、大量生産と効率的な流通の組み合わせによって、そしてそれらを「読む」ことのできる人たちを「学校」を介して産み出してゆく状況とあいまって、それまでと違う現実の意味づけかたを引き出すようになりました。

 しかし、それら文字・活字と紙媒体の組み合わせによる新たな現実の引き出し方よりも、さらに異なる飛び道具として「電波」媒体が出現してきました。それは、われわれの現実に対する認識枠組みを、それまでと異なるたてつけに期せずして変容させてゆくものでもありました。

「マスコミ」という丸め方をされるようになり始めた「マス・コミュニケーション」のイメージも、当初、ラジオやテレビなど新たな電波媒体の威力に規定されたものだったようです。それは「視聴覚媒体」といった言い方で映像的かつ音響的な、いまどきのもの言いに治すならば「ビジュアル」情報の圧倒によって印象づけられていったらしい。それはもちろん、文字・活字と紙媒体によって認識枠組みを形成されてきた意識にとって、ストレスフルなものになってきましたし、まただからこそ、その抑圧を足場にして、改めて自分たちのその認識枠組みについて留保してみることも始まったりした。

「それにもかかわらず、やはり私は「人は、その読むところのものである」という命題を、心の底ではうべないたいという思いを捨てきれない。というのは、読書という知的・精神的ないとなみが、当事者の心の襞に切りこんでゆく可塑力は、視聴覚メディアの一回・一過の影響力よりも、はるかに深く、永続的で構造的な性質をもっていると思うからである。」美作太郎『戦前戦中を歩む――編集者として』日本評論社、1985年、p.50

 ラジオやテレビ、映画やレコードなどが、一回性と一過性をその属性としていたことから、それに対して活字メディアを「読む」行為にまつわる記録性と反復可能性によって優越されるという考え方は、しかしその後、「視聴覚媒体」もまた記録され、反復可能性を持つようになることで大きく変わってゆくことになります。

 それまでの広告、不特定多数のその他おおぜいに大量に効率的に伝達されるような形態においては主に紙媒体、特に新聞主体であり、それらが「家庭」「お茶の間」に入り込んでくることはあり得たことでした。概ね明治の半ば頃から発現し、その後大正期にかけて新聞の販売部数の伸びと共に露わになっていった現象でしたが、とは言え、当時はまだ新聞を「読む」ことのできる層は限られていて、それは経済的な理由などだけでなく、何よりそれら文字を紙媒体で「読む」ための能力、いわゆるリテラシーの普及が追いつかないことには社会的な規模での影響というのはそれほど大きなものにはなりませんでした。

 それがラジオという電波媒体、話し言葉で「耳」から「聞く」ことが可能なメディアが普及してゆくことで、「読む」能力よりもずっと広汎にそれら不特定多数のその他おおぜいへの何らかの情報を受けとる能力が問われるようになった。当然、そこに宿ってゆく主体のありようは、それまでとまた違う意識や感覚を宿してゆくものにもなっていた。たとえば、こんな風に。

 「海太郎は何よりもまず和歌のスタイル(文体)を愉しんだ。その形式で遊んだ。それに盛込まれるべき情感なり内容などは、実は二の次であった。」

 長谷川海太郎です。大正末から昭和初年にかけて、谷譲次林不忘、谷逸馬と、三人三様の筆名とそれにふさわしい異なる才能の発露を、ひとりの主体の制御の下に成し遂げた、稀有でけったいな書き手。これは彼の評伝を書いた室謙二の評言ですが、こういう軽薄さ、ある意味での敏捷さみたいなものが、ものを書くという行為に向かう時に何らかの影響や痕跡を与えないはずもない。柳田國男が言ったように、vivaciousな感覚が近代の情報環境の変貌と共に、われわれに宿るようになった。それは確かに、「快活」で、「活発」で、「陽気」ではあるだろうけれども、しかし同時に、移り気で、落ち着きがなく、次から次へと関心を移してゆくようなものでもありました。それは、いわゆる近代文学の「内面」をうっかりと削り出してしまう文体と遭遇してしまったことでもたらされていった「懊悩」なり「葛藤」なりといった「心理的」なあれこれと生真面目、かつ自閉的に取っ組み合って七転八倒してきた過程とは、おそらく本質的に違うところから出てきた感覚であり、そのような生身の主体であったのだろうと、改めて思います。

 モダンとは、モダニズムとは、そのような軽薄で、敏捷な主体によって、深く考えることなく受容され、拡散されてゆくようなものだった。それは「流行」や「世相」「風俗」といった言葉で表現されるような、それまでの「社会」という言葉によって囲われていた手ざわりの領分とは少し違う、もっと不定形でいい加減でとりとめないものとしての局面を露わにしてくるようなものだったはずです。そしてもちろん、「うた」もまた、生身の人間の、そのような主体によって担われるようになってゆかないはずもありません。

続・阿久悠と都倉俊一――あたらしい〈おんな・こども〉の感覚


 阿久悠と都倉俊一の「出逢い」が、どれだけ互いに異質なもの同士の遭遇だったか。それは後世の後知恵でごくあっさり言ってしまうならば、「育ちの違い」というひとくくりな言い方に還元してしまっても、ひとまずいいようなものではありました。

 だがしかし、と、ここは踏ん張っておかねばならない。

 それは単に生まれた土地や風土、親兄弟親類なども含めた育った環境や、大人になり世間に出てゆく過程でたどり、経巡った遍歴の違いといった、いずれ個別具体、まさに人それぞれひとりひとりの生身に異なる道行きとして刻まれているもの、というだけのことでもない。そのような、履歴書や経歴といった公認されたたてつけで列記され得るような時系列に従って整序された事実の上にだけ、人はまるごとの生身としてあるわけでもなく、必ずそれら列記された時系列の裡で見聞きし、体験し、見聞したこと、経験したできごとなどが、常に生きてある個人、個体の裡に織り込まれ、いわば連続する構造体として常に転変しながら〈いま・ここ〉に生き続け、現前している、そういうもののはずです。そして、その「そういうもの」の部分に否応なくからんでこざるを得ないのが、「うた」に代表されるような不定形な官能の領域、常に予測不可能で、瞬発力を伴い突発的に現前化する、ある生の現われ方についての〈リアル〉なのだと思います。あの朝倉喬司が好んで使ってみせたもの言いとしての「芸能」などにもまっすぐに通じるはずの、この世に縛られ生きざるを得ない生きものとしてのわれら人間の、生身であるがゆえのあやしくも豊穣な、生きてある限り逃れられない領域。それは一方では、「宗教」や「信仰」などとくくられるような領域とも、地下茎のように連なっているものであり、また、きれいごとでラッピングされるなら「芸術」「表現」「創作」、あるいは今様に「アート」「クリエイティヴ」などと羽根飾りをつけてももらえるようなものでもあるようですが、まあ、そんなことはひとまずどうでもいい。話は、その「育ちの違い」と、その「違い」ゆえにうっかりともたらされてしまったらしい、未だ十全には姿を現わしていないある大きなもの、のことです。

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 なるほど、都倉俊一は阿久悠が逝去した2007年とその前後の時期に、阿久悠との関係について語ったり、あるいは文章としてあらわしたりしている。それまであまりそのような形で表に出てくることのなかった彼が、阿久悠とのからみでは割と積極的に個人的に発言したり、姿を見せるようになっていた印象があります。まあ、それだけ彼にとっても、阿久悠とのコンビで達成したものは大きいものだった、ということではあるのでしょう。

 阿久悠との初対面では、前回少し触れたように「一目惚れ」とまで表現するような、鮮烈な印象を彼、都倉俊一は与えていた。そのあたり、もう少し立ち止まって追いかけてみます。

「彼の姿を初めて見たのは、音楽制作会社のボン・ミュージックで、「学生なんだけど、なかなかいい曲を書くのよ」と説明された。説明したのは、元ビクター・レコードの武田京子ディレクターで、彼女とぼくの縁は、ぼくの作詞のデビュー曲とでもいうべき「朝まで待てない」を、ビクター時代に担当した人であった。」

 武田京子は、吉永小百合の担当なども努めたというディレクター。なぜかモップスのデビューにも関わっていたようで、「朝まで待てない」はそのモップスの最初のヒット曲。「小日向台町のおぼっちゃん」だった鈴木ヒロミツを擁したバンドで、タイガースやテンプターズなど、既成の芸能プロダクション仕込みのグループサウンズが全盛になっていた当時、それらと一線を画した小汚くもパワフルな、当時のアメリカ西海岸由来の「サイケデリックロック」的な方向性を示し、その頃のライブハウス活動から見出されてきた経緯はタイガースなどと同じでも、見てくれや音楽性、めざす方向性などは明らかに変り種。近年、若い世代の聴き手たちから、また改めて評価されてもいますが、当時としてはまさに「若者」の「反抗」の象徴としてとらえられていたような意味での「ロック」のテイストを既存の商業音楽の世界に持ち込もうとしていた、それこそ「アングラ」的な流れの一角に位置していた。広告会社の社員だった阿久悠が、ひょんなことから作詞に手を染めるようになったきっかけがこのモップスとのつきあいだったことは、彼自身述懐しているように、自分たち新しい世代の表現を模索してゆく熱っぽさで共通する感覚があったがゆえ、だったようです。


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「彼はその時何をしたのか。いや、何もしなかったに違いない。彼は、ごく自然にあるがままに、たとえば、ぼくの視線などはまるで意に介さない形で、音楽制作会社の中を歩きまわり、短い打合わせをし、それから、全く自分のペースで何の遠慮もなく、サッサと帰って行ったにすぎない。」

 この後に、前回引用した「路上駐車の真赤なフェアレディZ」のくだりが続くのですが、それを、初めて商品として作曲した「あなたの心に」(中山千夏)の印税で買ったこと、高校までドイツにいたから英語とドイツ語がペラペラでといったようなことを、その同席した武田が話してくれたことまで含めて、「ぼくの世代が渇望し、努力しても、到底手に入れることのできない種類の能力を、全く普通のこととして身に備えている世代で、本来ならば嫉妬の対象になるはずが、彼の場合、何故か嬉しく思えた」と表現していたことも、先に触れた通り。そしてさらに、その感懐を「真赤なフェアレディZが象徴していた」と受けた上で、そのフェアレディをあっさり買ってみせたことについての「いいわね、そんな風な金の遣い方ができて」という武田のもらした感想を間にはさんで、「1970年代に入ったばかりの頃の、一つ上の世代の実感だった」と引き取っています。

 これは、単に「育ちの違い」とそれに由来する「能力」についての強烈な認識というだけでなく、当時、自分も含めた「一つ上の世代」が遭遇してしまったそのような「新しい才能」のありようと、その背後にそれらの才能を宿した生身を介して広がっていた領域についての認識を、自分自身の出自来歴と引き比べて一瞬にして「わかる」水準にまで結晶させてしまったことのあらわれに他ならない。それは「音楽」を「聴く」側でなく「つくる」側、それも借り物ではない、他ならぬ自分自身の私的な表現としても創り出すことのできる技術を、それを縦横に駆使してくせる才能と共に、ごく自然に自分のものにしてしまっている、そのような生身が同じ時代、同じ日本人として現前に存在していることについての、新鮮な認識でもありました。

 「ぼくは、彼が作曲家であることに希望を感じていた。(…)作詞・作曲の世界で初めて出会ったタイプであった。そして、彼のような雰囲気の若者が音楽というものを語れば、日本の歌も変わるだろうし、体質も変化を起こすだろうし、それは同時に、ぼく自身が思い描いている歌の表現につながるかな、と感じていた。」

 一方、都倉俊一の方は、阿久悠との「最初の遭遇」をどう語っているか。阿久の追悼関連の企画のいくつかにも再掲されている、『文藝春秋』誌上での小林亜星との対談を見てみましょう。小林が阿久悠との初対面を1971年、「世界初のカップラーメン」(カップヌードルのことか)のCMソングの仕事で指名して手がけてもらった時と言ったのを受けて、その前年と言っているから、時は1970年。


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 「僕は大学生でしたが、すでに駆け出しの作曲家で、阿久さんもまだ超一流とまではいってなかった。東芝レコードの敏腕プロデューサー、渋谷森久さんに引き合わされました。(…)湯河原に変な一軒家を用意してくれて、僕と阿久さんに合宿しろというんです。いい作品を書き溜めてほしいと。そこで20曲ぐらい作って、いろんなアーティストに割り振られたけど、一曲もヒットが出なかった(笑)。一週間。阿久さんは寝なくても平気で、早朝から仕事するんでまいりました(笑)。(…)僕が用意してきた曲に阿久さんが詞をあてはめたり、新たにピアノで作ったり、あとは「飯食いに行こうか」というアトランダムな合宿でした。ひと回り近く年が違うんですが、朝から晩まで一緒にしても話題が尽きなかった。」

 この渋谷森久も、「禿げシブ」の仇名で知られ、クレイジーキャッツ越路吹雪などを担当し、後には劇団四季東京ディズニーランドでの音楽・音響関係の仕事にも関わったという敏腕ディレクター。阿久悠も、この渋谷森久を介した関係については言及しています。

 その渋谷から都倉の話を振られて会わないか、と言われた。それなら会おう、興味があるんだとすぐ答え、どうせ会うならたっぷりと話したいな、と応じた。「希望が実現して、ぼくらは、湯河原にある渋谷森久の家の別荘へ行き、たっぷりもたっぷり、24時間しゃべりまくり、終りには、数曲の曲も作った。」先に触れた、一瞬すれ違ったような阿久悠側からの「最初の遭遇」での鮮烈な第一印象を裏切るものでなく、「それどころか、決定的な気持ちのつながり、才能の評価を確認し得たものであった。」

 「面白かったのは、都倉俊一という23歳の青年を構築している精神の要素で、それは、たとえて言えば、ビートルズと乃木大将の同居といったものであった。反権力の形で誕生したビートルズのあり方や音楽を、まるで自分自身の生理のように受け入れるところがあるかと思うと、同時に、乃木大将の殉死についてとうとうと語るところもあって、ぼくらを混乱させた。」

 ドイツ育ちの外交官の息子で、いわば「銀の匙」組であった都倉が、警察官の子弟で「敗戦の子ども」だった阿久悠らより「ずっと愛国者で、日の丸に対しての愛着と感傷は想像もできないものがある。それなりにメロディを書くと、日本的な情緒や泣き節は皆無でヨーロッパの青年になってしまうのである。」モダニズムと身体性、生活文化レベルでの新しさと、しかしそれに同調しきれない生身の底、感覚の深いところにある何ものか、の相克。しかし、それは阿久悠ら「一つ年上の世代」のある種の人々にとってもすでに他人事ではなくなっていた、ある同時代感覚としての地続きの気配でもあったようです。だから、このようなまぶしそうな、あこがれも込められた言い方にもなる。

 「妙な話、一時期、都倉俊一の言動のすべてを、うっとりと見ているという時があった。それは、ぼく自身が思い描いている生き方、あり方の中で、世代のせいもあるし、生まれ育った環境のせいもあるし、どうしても果せない部分を、彼は平気で行うからであった。」

 出先で、オーデコロンが欲しいという彼をデパートに連れて行く。何本も見本を並べさせ、一つずつ手の甲に塗りつけては匂いを嗅ぐ。しかも、全部についてそれをやり、あげく気に入ったものがないから、と買わずに立ち去る。ビュッフェ式のパーティでは、実に要領よく美味しいものからさっさと食べる。気に入らないものは買わないし、食べない。そしてそのことを主張し表現することにためらうことがない。「やっぱり、彼は外国人かと思ったことが何度もあったが、それを引き戻したのは、乃木大将と日の丸と鰯味醂干しで、ヨーロッパ的なるものはすべて、日本人的屈託と躊躇を消す役に立っているのだと思ったのである。」

 そんな都倉俊一を、伝説の番組『スター誕生』の審査員として強く推します。まだ大学卒業間もない若僧であることがネックで難色を示す向きもあったようですが、たまたま阿久悠が歌謡大賞の収録とぶつかって審査員として出席できない回が生まれ、彼の代役として都倉が審査員の一員に加わったのをきっかけに、何度か番組に参加できるようになった。そうしたら、そのうち収録の会場に異変が起こるようになった。

「全く自然発生的に、都倉俊一親衛隊とでもいうべき少女たちが集まり、絶叫の声援やら「頑張れ!都倉俊一」の横断幕やら、アイドル以上の騒ぎになり、ついには、会場からの脱出に、ぼくらが人垣を作って彼を逃がすということにまでなった。」

 70年代前半、〈おんな・こども〉はそれまでと異なる「消費者」としての相貌を備えながら、時代の舞台の前景にその新たな姿を現わすようになっていました。60年代前半のロカビリーブームから、半ばから後半にかけてのGS(グループ・サウンズ)の流行、そしてこの70年代に入ると、それまでは言葉本来の意味での見世物でしかなかった女子プロレスに、それまでと全く文脈の違う少女ファンが殺到するようになり始めていましたし、その頃全盛を極めていた暴走族の間にも、のちに「レディース」と呼ばれるようになる女の子たちの姿が立ち交じるようになり始めていた。


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 また、これまた60年代前半から週刊誌ベースでの新たな市場を開拓、テレビアニメなどと複合しながら拡大の一途をたどっていたマンガ市場においても、いわゆる少女マンガと呼ばれてきた領域において、それまでと異なる表現技法や作風があらわれ、描き手と共にそれに応じた新たな読み手の存在が、その世代性と共に広く認められるようになり、あるいはまた、山梨県の絹製品などを扱う小さな販売会社だった山梨シルクセンターが、紆余曲折の後、たまたま、いちご模様を使った子ども向けの小物類が予想外に売れたことを契機に、いわゆるキャラクター商品の新たな市場の広がりを察知、サンリオと社名変更して本格的な全国展開を始めたのも同じ頃。その他、この70年代はじめの時期に、一見無関係のように見えながら、しかしのちになってみれば確かに何か共通の糸でかがりあわされていたような、これら世相風俗的なできごとの類は、ゆるやかな同時多発的な発現の仕方で、高度経済成長の「豊かさ」がこの列島の隅々にまでにわかに浸透し始めた時代の表層に、姿を現わすようになっていました。


 『スター誕生』が人気番組になっていた過程で、スポット的に審査員として登場していたにすぎなかったはずの都倉俊一に眼をつけた〈おんな・こども〉の視線と感覚もまた、それら当時の新たな「消費者」のありように支えられた広がりを持つものでした。そしてそれは、阿久悠がある種のあこがれと共に仰角で察知した、当時の都倉俊一の生身が発散していた何ものかの気配のはらむ、それら新たな「消費者」の感覚との同時代的シンクロニシティでもあったらしい。

 昭和12年に淡路島に、警察官の息子として生まれた阿久悠は、SPレコードを蓄音器で聴き、ラジオから流れる流行歌を耳にする生活習慣を持ってはいても、自ら楽器を持って演奏してみるという「音楽」に対するつきあい方を備えてはいなかった。一方、それよりひとまわり近く年下で、昭和23年に外交官の息子として東京に生まれた都倉俊一は、4歳からバイオリンを習い、7歳でドイツに渡ってそこで音楽の手ほどきを受け、自然にバンドにも加わり、作曲もやれるようになっていた。戦前と戦後、地方の警察官と東京の、それも外交官というエスタブリッシュメント阿久悠と都倉俊一の間に横たわっていた「違い」とは、それら社会的、生活文化的な変数として並列化できるものとしてだけでなく、しかし同時に、そのような「違い」があったからこそ、何かあたらしい共通のもの、共に〈その先〉をこの国、この世間で生きてゆく上での支えとなりそうな何ものか、についての共感もまた、あり得たのだろうと思います。そのような「公共」への糸口もまた、たまさかの遭遇からうっかりと拾えるような、そんな時代でもあったということも含めて、1970年代の社会と文化をめぐる本邦の状況は、まだかろうじて「豊かさ」の裡に抱かれていたということでしょう。

「統一協会」という名詞

 ああ、「暗殺」というのが、いまや実にこういう形で、平手打ちのように不意に眼前のものになるんだ――それがまず、最初の感想でした。奈良は西大寺駅頭における、安倍元首相遭難の一件です。

 手製の銃、それもひとりでこさえたものを携えて、参院選終盤のこと、街頭演説中の元首相の背後から近づいて発砲、それで見事に落命に至るほどの「戦果」をあげたというあたりのことも、すでに各種報道で知られるようになっている、事件の概要です。

 ただ、この重大事件、統一協会によって家族がバラバラにされた、その恨みがあった、といった内容の犯人の供述が、第一報に続いてすみやかにばらまかれたことで、事態は「元首相の暗殺」というところから、その「統一協会」という名詞をめぐっての乱気流を呈するように。警備の不備や、その後の捜査の不手際など、事件の核心に関わる報道はどこかに行ってしまい、統一協会と安倍元首相、そして例によって自民党との関係をいまさらながらに持ち回って政局化する野党の思惑と、それに波乗りするメディア・スクラムによって、事件後ひと月足らずの今のこの時点でさえ、「元首相の暗殺」というできごとそのものは、すでに無残な風化にさらされているようです。

 それにしても統一協会、自分などもう老境にさしかかっている世代にとっては、ある意味なつかしい名前です。かつて、大学の中で割と日常的に耳にしていた「近寄ってはいけない」団体のひとつ。いまからもう40年ばかり前、70年代後半から80年代にかけての時期の大学は、「学生運動」とひとくくりにされていたような、それこそゲバ棒にヘルメットスタイルでの街頭デモや内ゲバ暴力沙汰、といった様相はすでに影をひそめ、それら政治がらみの運動を掲げた組織や団体の類は、それがどんなものであれそれだけでうさんくさいもの、わざわざ言われずとも近寄ることもなくなっていた。一方その分、ちょっと見は穏やかで健全な風を装ったサークルが、学内に跋扈するようになっていて、それらの背後に「宗教」が、それもその頃までの常識的な語彙とはまた違う、カジュアルでなじみやすげな態と共に広まるようになっていた。「カルト」というまだ耳慣れなかった言葉が、それらカジュアルな新たな「宗教、のようなもの」に対して言われるようになっていたのもその頃から。のちのオウム真理教のような煮詰まり方に至る道筋もまた、思えばすでに地均しされ始めていたということでしょう。

 統一協会、はその中でも突出して目立っていました。何といっても、あの「共同結婚式」。見合いから結婚へと至る道筋自体、すでにあまり望ましくないものになり始めていた時期に、どこの誰ともわからない相手と、それも十把一絡げの集団見合いでいきなりつがいにされ、そのまま有無を言わせず結婚させるという荒技の鮮烈さは、単なるスポーツ紙やワイドショー的なゴシップとしても当時、われら若い衆世代の耳目を集めるに十分でした。なにしろそれに桜田淳子山崎浩子といった芸能人や有名スポーツ選手までが参加したというのですから、ただごとではない。その一方で、深入りすると身ぐるみはがされる、自分も友だちも家族も容赦なくカネを取られて、あやしい珍味や謎の壺などを訪問販売させられる、といった挿話もまた、統一協会にまつわる「こわい話」として流布されていました。政界との関わりについても、教団出自の「韓国」とのからみも含めて、当初からささやかれていた。たとえそれがゴシップや真偽不明の噂、まだ当時健在だった総会屋雑誌的な裏情報としても、先の「共同結婚式」や「こわい話」と併せ技で、統一協会は身近な「闇の組織」として、陰謀論や都市伝説といった、無責任でたわいのない「おはなし」の発信源のひとつでした。

 それにしても、どこかつかみどころのない事件ではあります。犯人の山上某にしても、統一協会への個人的な恨みが、なぜ安倍元首相「暗殺」にまでつながったのか、肝心のそのへんの理路は未だ不明のままですし、何より統一協会自体、ここ20年たらずの間に、法的な規制が整備されたこともあり、かつてのような派手な活動はできなくなっているらしいことが、今回の事件をきっかけに改めて知られるようにもなった。さらに、名前からもうとっくに統一協会でなくなっていて、今では「世界平和党一家庭連合」とか、そこらにひっそり店開きしてそうな泡沫宗教団体並みの凡庸なものになっていたのを知った時には、改めて時代の転変を感じたものです。

 だからこそなおのこと、どうしてここにきてまた「統一協会」という、カビの生えたかつての名詞をことさら表沙汰に振りかざしながら、政局沙汰に持ち込もうとしている向きがあるのか。できごとを制御する「おはなし」の側に、何やら未だ同時代に同調できないまま、あらぬ方向に都合のいいまぼろしを見ようとしている界隈があるように感じています。

阿久悠と都倉俊一――〈おんな・こども〉への合焦



 前回、最後に阿久悠の名前が出たので、彼の仕事を足場にもう少し、〈おんな・こども〉の領域が「うた」とそれに伴う日常の身体性とでも言うべき領域にどのように関わってきていたのかについて、続けてみます。

 阿久悠という名前は、「作詞家」という肩書きが、それまでの歴史の過程における有為転変も含めて輝いていた、その最後の時期の最も大きなひとつだったと言っていいでしょう。いまさら言うまでもない。70年代から80年代にかけての商品音楽、いわゆる「歌謡曲」「流行歌」と呼ばれる領域で、メガヒットを連発して質量共に縦横無尽の創作活動を展開した。彼自身、後年手がけるようになった小説やそれに類する読みものも含めて、その間の経緯を多様に書き残しています。ある時期から詳細につけていたという日記まで、確か母校の明治大学に寄贈されて残っていますし、2007年に亡くなって以降、さまざまな評伝や批評、論評などが出るようにもなっている。もちろん、そのような取り上げられ方をされ、各方面から素材にされるようになることにつきものの玉石混淆、いらぬノイズも乗ってくるしバグも生じるという致し方ない面もありますが、ただ、「歌謡曲」自体が、すでにその国民的記憶と共に「歴史」の相に繰り込まれつつあり、かつまた、かつてそれらを生産現場で支えていた人たちも鬼籍に入りつつある時期にさしかかるめぐりあわせともあいまって、近年なかなか賑やかな領域になっているそれら大衆文化、いまどきのもの言いでのサブカルチュア界隈において、改めて焦点化されるようになっているのも確かなようです。

 その彼は、山本リンダからフィンガー5にかけて、「絵空事」の世界を商品としての「歌謡曲」に意図的に持ち込んだことを語っています。いまから半世紀ほど前、1970年代始めのことです。

 もともと広告代理店の社員で、その立場から民放テレビの制作現場に、特に歌謡番組に関わり、『スター誕生』の立ち上げ当初からのスタッフでもあった彼は、高度成長期におけるテレビというメディアの上げ潮の〈リアル〉を肌身で感じ、日々呼吸して生きていたようです。

 それまで時間と空間とが交錯した〈いま・ここ〉と結びついて初めてなりたっていたさまざまな表現、創作のありようが、複製技術時代を迎えて以降、大きく変質してきた、そのことが本来「非日常の迫力と特異性が要求され、圧倒的なプロの意識と芸を持つ必要があり、その繰り返しと増幅で(…)ますます非日常的になっていった」はずの表現や創作に携わる者たちのありようにも影響するようになった。その上で、自らが関わっていた新興マス・メディアとしてのテレビについても、黎明期の混乱を経てそれなりの存在感を示し始めていた当時の状況を「テレビの時代といわれて久しくなっていたが、テレビの時代を自然な空気として呼吸しているタレントを、産み出す感覚もメカニズムも作られていなかった」と、素朴な言葉ながらも大枠として的確に指摘しています。

「テレビは日常であった。決心して出かける必要も、買いに走る情熱も無用に、歌や歌手やタレントを送り込んでいた。そのような状態では、非日常で成立しているエンターテインメントは、どこか不自然であった。めったに逢えないことを前提にした歌や芸は、それに応えるために強力で強烈な個性と方法論を身につけていたから、そのままの姿で、いつでも見られる日常のテレビの中に登場すると、異和感を覚えた。」

 これに、たとえば次のような認識を重ね合わせてみるのは、さて、どうでしょう。

「テレビに芸は必要ありませんから、上手下手はないのです。あるのは「テレビ映りが良いか悪いか」という観る側観られる側の「主観――即ち思い込み」だけです。テレビ以外のメディアには上手下手という「芸の基準」があるからこそ「芸能」ですが、観る側はテレビにもそれがあると思ってしまった。」

 橋本治です。共に同時代にありながら、全く違う世間で生きていた、もちろん実際に互いに顔合わせたこともなかったはずのふたりが、たまたまほぼ同じような、透徹した認識をメディアとしてのテレビに抱いている。少なくとも、これまでそれなりに蓄積されてきているテレビやメディアに関する折り目正しげな論考や言説の類が自明に依拠していたたてつけに沿ったものとは異なる、「うた」に関わってくるような生身を介した表現や創作の、いわば「芸能」としての位相にうっかりともたらしていたらしいのっぴきならない変貌のある本質について、ぐい、といきなりわしづかみするように。


「テレビは基本的に「報道」で「ニュース」でしかないようなものですが、これはテレビ放送の初期にはあまりよく分かられてなかった。何故かというと初期のテレビカメラには機動性と記録性がなかったからです。(…)そこにカメラを持って行きさえすれば遠くの受像機にそれが映る。テレビ局は何も作らなくていい。だからテレビは芸能でなく「報道」です。報道されたものを受け手が芸能としてとらえるから「芸能」になる、というようなものです。(…)でも、ニュースを報道できなかったテレビはちゃんと「娯楽」を報道していた。それが「プロレス中継」であり「野球中継」であり「舞台中継」だったりする「実況中継」でした。テレビは世間的には「娯楽」と位置づけられるものを報道していたがために、報道のメディアだとは思われなかったのです。」

 阿久悠が現場で肌身で感じていたらしい、マス≒大衆をいきなり相手にする、できる新興媒体としてのテレビが当時、高度経済成長をくぐった本邦の社会の〈いま・ここ〉に対して獲得し始めていた、それまで可視化されていなかったような、ある可能性の気配について、橋本治はこう語ります。

「テレビは「特殊な娯楽」なんです。観る側の態度如何によってそれが報道か娯楽か教養かを決定されてしまうような「特殊な娯楽」であるようなメディア、どんなものでも娯楽になり得るという、娯楽についての新しい考え方を作り出してしまった、それまでとは全く異質なメディアなんです。」

 テレビというメディアの出現は、単に新たなマス・メディアの登場という以上に、その「マス」との関係において等身大の〈リアル〉の成り立ちそのものから変えてゆくような、言葉本来の意味での文化史、文明史的な間尺でのできごとに関わっていたらしい。それは音声に特化したマス・メディアであったラジオともまた違う、映像を伴う音声が同時性を伴いながら、ラジオと同じく広汎に「放送」されるようになってゆくことで、それらが生身にどのように受け取られてゆくか、そしてどのように官能を介した〈リアル〉の編制にまで影響してゆくのか、といった過程の問題、〈いま・ここ〉と「芸能」の関係、生身を介した表現、創作のありようの否応ない変質に合焦されてゆくべきことにまで、阿久悠橋本治は共にうっかり反応していました。しかし、そのことの意味は、どうやら未だにうまくほどかれないままらしい。

     

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 60年代、おりからの高度経済成長によってもたらされ始めた「豊かさ」は、「うた」のありようも変え始めていました。商品音楽の市場でも、いわゆる「洋楽」の存在感がそれまでと比べものにならないほど大きくなってきます。「この時代、三つの大きな流れが世界に生まれ、日本に上陸しようとしていた。一つは、ザ・ビートルズが代表するリバプールサウンド、一つは、ベンチャーズアストロノウツのエレキ・インスツルメンタル・サウンド、もう一つは、PPM等のモダン・フォークであった」という阿久悠の認識は、ここでもまた素朴ながらも大枠で的確です。


「当時ブームであったフォーク・ソングは、テレビと対極の位置にあった。テレビに出演しないことが、一つの自己主張ともされていた。マスを拒んだ。肉声の届く範囲というのが本来であろうが、彼らはマイクも使い、アンプも使っていた。ただ、ナマの客に語りかけ、歌いかけるのを絶対の条件としているようなところがあった。」

 ここでの「フォーク・ソング」とは、それら「洋楽」の普及拡大に伴い草の根的に現われた、それこそ吉田拓郎などに代表されるような、当時の「流行歌」市場に新たに姿を見せ始めた若い世代を担い手とする商品音楽の形態をさしています。その意味で、先の「モダン・フォーク」の本邦における受容形態が、当時の商品音楽の市場にまでローカライズされて現われ始めたものと言っていいでしょう。彼らは当初、その出自から、そして当時のカウンター・カルチュア的な同時代的空気から、商業主義自体を敵視し、テレビやマス・メディアで紹介されることをことさらに拒む姿勢を見せていました。商品音楽に関わり、それを仕事としていながら、マスやマスにまつわるイメージを否定的にだけとらえる習い性は、その後も音楽業界、殊にミュージシャンやその周辺の人がたには根強くある種モードとして伝承され、近くは東北の震災後、反原発運動に加担して原発再稼働に反対する中、「たかが電気のことで……」と迂闊にも言い放った坂本龍一などにまで、未だしぶとく揺曳しているようですが、それはともかく。

「テレビ出演を拒むフォーク歌手に、「視聴率20%、全国ネット、およそ二千万人の人が見て聴いている。この同じ数の人たちに、つまり二千万人に、きみたちがコンサートで接していこうと思うと、毎日二千人の満員の状態を365日続けて73万人。二千万人に達するためには、それを27年間つづけなければならない」と言ったら、一瞬だが、え、そんなに、と心が揺らいだ顔をしたことがある。」

 見ようによってはマス・メディア的な商業主義の権化とだけとられかねない挿話ですが、当時のテレビというメディアの飛び道具性、少なくともその現場に関わっていた者の視野とそこに伴っていた感覚ぐるみに見通す大衆社会の新たな手ざわりが、このような表現になっていた、そのことにひとまず注目しましょう。この「量」と「速度」を可能にするメディアを介して拡がり始めていただろう、ある種の見晴らしの良さは、当然そのような新たに〈リアル〉に最前線で対峙し、同時にビジネスに繋げてゆくことが仕事になるような立場において、それまではあまり明確になっていなかった新たな消費者という客体を、いよいよ輪郭確かにくっきりと、見出してゆくことになったようです。〈おんな・こども〉がゆっくりと、その禍々しい様相も含めて立ち上がり始めていた。


「タレント・グッズが商売になったのは、本格的には、フィンガー5からではないかと思う。学用品から、子どもの日常の用品、ファッションに至るまで、フィンガー5の名前の入ったものが売れに売れた。」

 タレント・グッズと彼は言っていますが、要は子ども相手のおもちゃの類。「歌謡曲」「流行歌」がそれら「子どものおもちゃ」を売るための宣伝媒体のようになっていった時期、言い換えれば、歌手と共にパッケージ化され、市場に流通する大量生産商品となった「うた」が、〈おんな・こども〉を対象に狙い定めた「グッズ」≒「おもちゃ」の販促媒体化していったのが、概ねこの1970年代初頭でした。このフィンガー5や、もっと大きくはあの天地真理などを介して。おもちゃや文房具、日用品の類から、子ども向けの自転車などにまで、彼らの意匠が付与されたものが商品となり、また人気を博すようになっていました。

  

 それは、都倉俊一と組んで、初めて成り立ったことだったらしい。都倉俊一、現在は文化庁長官。

「決して日常的ではないものの、テレビという日常性を最大限に利用して作り出す非日常性、という方向にぼくの考えは絞られていた。(…)都倉俊一と組んでの、非日常性のエンターテインメント路線というのは、過去に相当な実績があった。ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化とも呼び、ふたりが開拓して、発見した路線だと、自信も誇りも持っていた。」

 この「相当な実績」と自負しているのは、山本リンダのカムバック曲「どうにもとまらない」以来、フィンガー5を立て続けに仕掛けた成功体験のことなのですが、この蓄積がその後、あのピンクレディーという、さらにケタはずれの社会現象にまで繋がってゆくことになる。


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山本リンダや、フィンガー5に書いた歌の路線を、絵空事ですよ、漫画、アニメーションですよと、ぼくは言っていたが、必ずしも本心からそう思っていたわけではなかった。絵空事のふりはしていたが、それは、世の中に対するいささかの遠慮であって、ある種の見通しとしては、やがてこうなるであろうと、確信していたのである。(…)だから、ぼく自身も、いや漫画ですよ、漫画、とニヤニヤしながら逃げていた。」

 なにげない言い方ですが、この「絵空事」の内実を説明するのに「漫画」「アニメーション」を比喩的に使っていることにも注意しておきましょう。阿久悠も含めた当時のおとなたち、商品音楽生産の最前線で仕事をし、新たな市場の気配に勇躍していた彼らの感覚として、相手にすべき新たな消費者を狙った表現をあらわすのに「漫画」「アニメーション」という言い方をしているのは、それが彼らにとって決して自分事ではない客体であり、いわば異物としての〈おんな・こども〉のものであることを示しています。

 阿久悠と都倉俊一、昭和12年生まれと昭和23年生まれ。戦前と戦後、明らかに違う世代体験を持ち、何より生まれ育ちからして全くと言っていいほど違っていたのにも拘わらず、なぜか彼、阿久悠はその初対面での印象を「男と女の関係でもあるまいに、まさに、一目惚れといった感覚で、ぼくに心地いい衝撃を与えた」と言い、「紹介されて一言挨拶を交わしたかどうか、その記憶さえ曖昧なのに、何やら視界をかすめた大きな鳥のように、いつまでも残像の消えない鮮やかさで、ぼくの気持ちを捉えた」と、どこか初恋めいた思い出のワンシーンとして語っています。

 「路上駐車の真っ赤なフェアレディZに、長身を折りたたむようにして乗り込み、急激な排気音を立てて去って行く姿を、まさに口を開けた感じで見送って(…)ぼくが半ば陶然としていたのは、その屈託のなさと、風のように淀みのない動きてあった。ぼくの世代が渇望し、努力しても、到底手に入れることのできない種類の能力を、全く普通のこととして身に備えている世代で、本来ならば嫉妬の対象になるはずが、彼の場合、何故か嬉しく思えたのが不思議だった。」

 中山千夏の「あなたの心に」の作曲者として名前は知っていた、さわやかな、きれいなメロディだった、初めて姿を見たのは、「学生だけど、なかなかいい曲を書くのよ」「ちょっと生意気な小僧がいるんだけど会ってやってよ、まあ、生意気とはいっても外国人だと思っていれば腹も立たないし、魅力があるといえばそういう魅力だからさ、作曲はなかなかいいよ」と、音楽制作のディレクターやプロデューサーたちに紹介された時。


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 この、本来なら出逢うはずのないような異質なもの同士の邂逅が、〈おんな・こども〉を市場の銀幕にくっきりと映し出してゆく大きな駆動力になったらしいこと。それを手がかりにこのあたりのこと、もう少ししぶとく続けてみたいと思います。

世相史は、いつも後知恵で

 自分の生きてある〈いま・ここ〉と地続きの時代の流れ、自分以外の他人を介してもなお未だ生身を介しての地続きではある「ほんのちょっと前」――only yesterdayな過去、いわゆる現代史、時には世相史や生活史と呼ばれもするような間尺の、それも日々の暮らしの些細な部分の、特に記録されることもない移り変わりが水の泡のように連なり、重なりあってゆくことで織りなされる、そんなとりとめないさまにおいて、その流れ方や速度がひとつ違うシフトにギアを入れたかのように変わっていったらしいことに、ふと、気づくことがあります。

 それはその時、その時代の只中を、日々生きている時に気づくものではない。あとから振り返って、ああ、つまりそういうことだったんだろうな、と思い至る程度のものでしかないのですが、しかしだからこそ、そうなった時点で初めて、あの「歴史」という無駄にもっともらしく、かつ、不必要にしかつめらしくもある言葉にも、肌身に沿ったある確かな内実が宿るような気もします。

 「高度成長期」とひと口によく言われるのも、そういう思い至り、あとになっての気づきをとりあえずわかりやすく指し示すための救急箱のようなもので、漠然と「あの時代」「あの頃」というイメージだけが、それを口にし、また耳にするわれら同胞の心の銀幕にぼんやり映し出されるという仕組みになっている。それは、経済的指標などから見れば1972年の第二次オイルショックまでのことになる、とか、いや、「三種の神器」と呼ばれた家電類の普及率から考えれば、とか、そういう「定義」沙汰とはひとまず別のところでの、使い回され方ではあるようです。

 同じように、昨今では「団塊(の世代)」というのも新たな常備薬として、そのような救急箱に入れられています。辞書的な定義としての世代を指し示す言葉でもなく、「高度成長期」が世間の大方にとって実際にその時代を生きていた体験を介してイメージできるようなものでもなくなってきたことで、同時代としてその頃を生きていた世代に対する距離感や違和感、隔靴掻痒な届かなさなどをひとことで表現しようとする必要が出てきた、改めて使い回されるようになったもの言いのように見えます。これもまた、元は堺屋太一の造語である、とか、世代的には戦後のベビーブームにあたる昭和22年から24年生まれまでにあたる、とか、そのような「定義」沙汰とは別のところで。

 「うた」について振り返ってみるならば、そのようにそれまでと違うシフトに入り始めたことが露わに感じられるようになったのは、やはりその「高度成長期」、1960年代半ば頃から1970年代にかけての時期、敢えて年号で言えば昭和40年代から50年代くらいになるでしょうか。まあ、ここはひとまず、1970年代にさしかかるあたり、と漠然と言っておきましょう。先の杓子定規な「定義」に従うならば「高度成長期」の末期、「団塊の世代」が10代末から20代にさしかかった頃、にあたります。

 それ以前から、何か大きな変化の兆しが見え隠れし始めてはいた。特に、この場でずっと副音声的に問題にしてきていた、「大衆」「その他おおぜい」という〈リアル〉をどのように同時代はとらえようとしてきたのか、という問いに関して、無視できない事態が少しずつ隆起してきていたらしい。

 先廻りして言うならそれは、〈おんな・こども〉の前景化と言っていいようなものでしょう。そしてそれは、「市場」と「消費」、そしてそれらが当時の新たに姿を整えつつあった情報環境と交錯する地点において、否応なしに意識せざるを得ないようなものになってきていた。おそらく、当時の同時代的な語彙としてなら、「若者」や「ヤング」といった言い方で表わされようとしていた変化だったのかもしれませんが、でも、その内実は単なる物理的な世代としての若者、それも主として想定されていたはずの「(男の)若者」ということの背後に、〈おんな・こども〉という意味あいが必然的にひそまされていた。

 「広告・宣伝」が、戦後新たに登場したマス媒体であった「民放ラジオ・テレビ」の「CM」を介して、音楽なども含めて「家庭・茶の間」にダイレクトに入り込み、新たな市場として想定され、だからこそ直接にグリップするべき対象として現前化してきた「家庭」の消費者としての〈おんな・こども〉に対して、読み書きから聴く、話すなどの身体感覚から、それらの上に宿り、それまでとは違うありかたに新たに上書きされてもゆく日常の生活感覚までもひっくるめて「組織・再編制」していった過程。お菓子やおもちゃ、歯磨きなどの日用品がその尖兵、飛び道具になっていったことは、この場でも触れてきました。「あるべき家庭」を前提に想定された「健全な〈おんな・こども〉」像が、「戦後」の情報環境&言語空間において、「広告・宣伝」と併せ技で醸成されていった過程と、その中で宿っていった感覚や価値観、美意識その他も含めたうねりはまた、同じく生身を介した「うた」のありようにも、どこかで影響を与えずにはいなかったようです。

 たとえば、ロカビリーブーム、というのがありました。戦後史の、それも世相史や生活史といった色合いの出版物なら、写真と共に記されることの多い事象のひとつ。当時の日劇の舞台に平尾昌晃やミッキー・カーチスなどが演奏しているその前で、熱狂し、紙テープを投げ、時に舞台にまで駆け上がる観客席はほとんどが若い女性ばかり。「若い女性」がそのように公共の場所に群れ集い、そしてあられもなく熱狂して興奮する――おそらくそれまでの本邦の世間が、あまりおおっぴらに見聞したことのない光景が、そこに繰り広げられていたはずです。


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 あるいは「ダッコちゃん」のこと。タカラが作ってツクダが売り出したビニール製のくろんぼ人形ですが、子ども向けのおもちゃとして売り出されたものが、「若い女性」がファッションとして、腕に巻き付けて街路を闊歩するさまが、同じく世相史的な脈絡で写真と共に紹介されるのがお約束。子どものおもちゃを身につけて往来に出て、世間の眼にさらされることを気にしない、いや、それ以上に敢えてそうして見せるような「若い女性」がそこここに見られるようになったこともまた、それまでの本邦世間のものさしからすれば、異様なものだったでしょう。



 それぞれの事象は、個別にはまるで別のものであるけれども、でも、概ね同じ時代の裡にあったモノやコトの背後に、その時代を生きていた生身の感覚や気分は常に横たわっている。それら「若い女性」を介して前景化していたらしいできごとが、その後のできごととの連絡をつけていったこともまた、後になって、ああ、そういうことだったのか、と、常に後知恵で気づいてゆくしかないようです。


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 その当時の、そのように「異様なもの」としても見られるようになっていた「若い女性」とは、言い換えればそのような〈おんな・こども〉とは、果たしてどのような存在だったのか。例によってとりとめない問いですが、その「異様」が当時のどのような視線の交錯の裡に現前化し、そしてそれらが「市場」と「消費」のからくりの裡に回収されてもいったのか、というあたりにまつわる小さな挿話の類をひとつひとつたどってゆくことは、こういう問いをほどいてゆく足場になり得るかもしれない。

 阿久悠という人がいます。言うまでもなく、少し前に触れた五木寛之などと並ぶ、戦後の高度成長の過程で、マルチライター的な活躍を八面六臂にしたひとり。彼もまた、五木と同じく、「広告・宣伝」の仕事の場でのキャリアを足場にして商品音楽の作詞家へと転身していったのですが、その彼が、森田昌子――のちの森昌子を見出した際のことを書き残しています。

 当時、のちに伝説的なタレント発掘番組となる『スター誕生』(日本テレビ)の立ち上げから制作現場に関わっていた、その体験や見聞をもとに語られる、ある時代の変化のさま。桜田淳子森昌子山口百恵ら、「スタ誕」が発掘して、後にアイドル歌手として大きく輝かせることになっていった経緯などを回想しながら、そのような「少女」を見出した側の当時の現場感覚について、こう言っている。

「そこそこに歌が上手く、そこそこに心をうつ魅力を備えていて、苦労もまた歌のコヤシと位置づけているタイプに、眩しい光を当てることもドラマチックな美談ではあるが、「スター誕生」が求めているものではなかった。」

 すでに、商品音楽を市場に送り出す手口が「歌謡曲」「芸能界」といったたてつけでできあがっていて、また、その中で商品として歓迎される楽曲なり歌手のありかたも、ある定型が想定されるようになっていた当時の状況で、それらのルーティンに素直に従うような歌い手は応募してくる人たちの中にもそれなりにいて、歌の上手下手ならばセミプロ級の者、まさに「そこそこに歌が上手く、心をうつ魅力も備えていて、苦労もまた歌のコヤシと位置づけているタイプ」の人たちは少なくなかった。けれども、そういう才能は必要ない、そうじゃない何ものか、を「スター誕生」の現場は求めていた。ただ、それがどのようなものなのか、現場の彼らもまだはっきりわかっていない。「いわゆる上手そうに思える完成品より、未熟でも、何か感じるところのあるひと、というので選んでいた」し、「できるだけ下手を選びましょう、それと若さを」とまで、番組スタッフや審査員に対して提案していたけれども、その基準は漠然としていたし、何よりそれが間違いないものさしかどうか、確信はない。そんな手探りで暗中模索していた、まだ番組立ち上げ間もない頃、第7回の番組で「森田昌子という13歳の少女が出場し、見事に高得点で合格した」。


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「地方の中学生にすぎない少女は、何一つ光るものは持っていなかった。胸ときめかせる幻想の美少女でもなかつた。また、個性という名の癖を感じさせるものもなかった。要するに普通であった。(…)要するに、歌を歌う直前までは、会場に場違いの子どもが紛れ込んだかのように扱い、、眼中になかった。(…)若さと下手さで計ると、若さだけはたっぷりともっていて、もう一つ、どういう下手かが勝負だな、と半ば投げたようなことを言っていた。(…)予備知識のあるスタッフはともかく、歌を一度も聴いたことのない審査員の中に、番組の救世主になる少女だと予感した者はいなかったと思う。」

 その時の審査員は、星野哲郎、鈴木邦彦、町田トシ、そして阿久悠。星野と松田が40代と50代ですでに名のある大御所だったのに対して、鈴木と阿久悠が30代そこそこの「新しい世代」。その前で、彼女が歌ってみせたのは「涙の連絡船」。都はるみの本格的な出世作で、その頃より少し前、1965年の楽曲。詞は、大正生まれで映画監督、脚本家、漫画家、写真家に作詞家と、多方面に仕事をこなした才人、関沢新一の作。いわゆる「演歌」調の正統派と言っていい楽曲でしょう。

 「その審査員が思わず腰を浮かし、一瞬表情を緊張したものに変え、やがて、深い深い溜息をついて微笑で顔を覗き合う状態になるまでいくらも時間がかからなかった。(…)それは全く見事な演歌で、あるひとは背中に寒さが走ったと言い、回状のざわめきを鎮めてしまうだけの力があった。(…)彼女は若さと下手さではなく、若さと上手さで合格したのであるが……」 

 このあとを彼、阿久悠はさらっと、こう表現しています。

「……歌い方ではなく、歌が上手なのであった。」

 単に年格好の若い女の子、というだけではない、それがすでに商品音楽の定型として認知され始めていた「演歌」をうまく歌ったこと、それによってそれまでの「少女」と異なる何ものかを、単に「うた」の歌い方というだけでなく、その「うた」が宿った生身のありよう、たたずまいなどから総合的に発散される何ものか、今ならさしずめ「キャラ」と丸められるのかもしれないような部分も含めて「商品」としての「うた」の価値に積極的に織り込もうとしてゆくことが、新たな時代の要求に応える意味で必要であり、またそれが可能であることを、審査員はもちろん、その場の聴衆も含めて何か直感的に感じ取ったようです。それはまた、先の審査員の年齢構成、そして歌った楽曲の質と共に、それらを「うた」として上演してみせた少女「森昌子」が13歳、高度成長ネイティヴの世代だったことも含めて、それらそれぞれの世代性と、そこに否応なく付随してくる生身のありようの交錯が、果してどのような「場」を現前させていたのか、というあたりに、何かひとつのカギがあったようにも思えます。

 商品音楽の作詞家としての阿久悠が当時、どれだけ「新しい」ものとシンクロナイズしていたのかについては、いまさら多言を要するまでもない。森昌子とまさに同世代、同学年でもある自分自身の記憶をさぐってみても、「また逢う日まで」や「ジョニィへの伝言」など、ちょうど小学生から中学生にさしかかるあたりの時期、テレビの歌謡番組やラジオなどを介して耳にしていた当時のヒット曲、後に彼、阿久悠の手による作詞だったことを知る一連の楽曲には、耳に立つ何ものかを確実に感じていましたし、「あ、何か新しいものだ」という感覚、自分たちの生活感覚にフィットするものを受け止めていたように思います。


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 彼自身、「スター誕生」に携わった頃の現場の雰囲気を、当時のナベプロ王国との確執の中で生まれた「反主流」の番組であり、「あれは、日本テレビ音楽班の有志が企てた壮大なクーデターで、ぼくはそれに巻き込まれ、あるいは、巻き込まれることを利用して自らの幻想を実現しようとした夢見る傭兵であったのかもしれない」とも言っている。「歌謡界の認識からいうとやはり、ハネっかえりの傍流で、主流は遠藤実であり、船村徹であり、市川昭介猪俣公章であった。この主流と傍流が交わることはあるまい、と考えていた。同じ歌、音楽を志向していても、入口も出口も違うものだと思っていた」と、これはその後、森昌子となった森田昌子のデビュー曲を、その大御所遠藤実とのコンビで依頼された際の戸惑いにまつわる回想ですが、ちょうど潮目のように、新しいものと古いものとが共にぶつかりあう界面みたいな時代とその中にあったひとつの局面が生み出した「場」のありよう。「高度成長期」にさしかかるあたりに、いくつかの世相として見え隠れし始めていた〈おんな・こども〉の「異様」が、「マス≒大衆」というその他おおぜいを相手どるメディアの生産点において、ある条件の下で「商品」化のからくりにうまく反映され、使い回されてゆく機会は、このように不意打ちに現われることもあったらしい。


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 高度成長ネイティヴ森昌子の当時13歳の身体に、同じく当時30代の阿久悠からすれば「古いもの」であり、自分たちの「新しいもの」の〈リアル〉とは相容れない表現だったはずの正統派「演歌」である「涙の連絡船」が憑依して、うっかりと現前化された「うた」のありよう。それは、現前化だけを本質とする表現だったはずの「うた」の身体に、「マス≒大衆」という形象の影が投映されざるを得なくなっていた1970年前後の本邦の商品音楽をめぐる情報環境と、それらが編制し始めたそれまでと異なる「市場」と「商品」の関係から、「うた」そのものが逆に規定されるようになってゆく変貌を、先取りして垣間見せてくれていたようです。