瞑目して「うたう」こと、の来歴

 先日、ヘンな夢を見ました。ふだん、あまり夢は見ない方なのですが、だから余計に印象に残ったらしい。

 手もとの紙に書かれた詩のようなものがあって、それらを実際に「うたう」ことを求められている場に自分が居合わせていて、しかもそれをカラオケのようにそれなりの人数の聴衆、観客がいる前でいきなり振られてやらねばならなくなっている――うまく伝わるかどうかわかりませんが、まあ、ざっとそんな状況でした。しかも、半ばコンペというかコンクール的な場だったようで、ということは、自分はそれら観客の側でなく舞台めいた場所にあげられ、あらかじめ注目されている何人かのうちのひとりのようで、ただ、そこで同席していたのが、どうやら小椋佳ともうひとり、どこか小林よしのりみたいな風貌の御仁だったのはわれながら意味不明でしたが、いずれにせよ、自分が作ったのでもない、与えられたその「詩、のようなもの」をとにかく自分なりの解釈で「うたう」ことをしなければならなくなった、まあ、とにかくそういう夢でした。

 手もとの、その詩めいたものの中身も、なにせ夢のことゆえ定かではない。よくある歌謡曲の歌詞みたいなものだった気がしますが、ただ、とにかく最初の部分に「ああ」といった感嘆詞がついていた、それだけは憶えています。なので、いざ自分の番がやってきて、嘘でもそれを「うた」にしなければならない局面に立ち至った時、意を決して最初の発声、下腹に力をこめてその冒頭の部分、「あああああ~」と一発やってのけた、その時の昂揚した感覚や、多数の眼と自意識に注目される身構えた気分だけが、夢の中なれど、妙にくっきり残っていました。

 それは、「うた」を自分ごととして行為する、動詞の「うたう」に連携して現前化させてゆく体験にまつわっている生身の感覚に深く根ざした、ある種の原体験みたいなものが、そのような妙な場面を介した夢としてあらわれたもののようにも思えました。身近な日常の中から近いものを探してみるならば、そう、たとえばカラオケの場での体験などが近似値だったかも知れない。

 カラオケも昨今、コロナ禍の影響が深刻なこともあり、いわば貸し部屋的な業態へとなしくずしに変貌してゆきつつあるようですが、同時に、それらを利用する側の「うたう」身ぶりの変遷もなにげに大きい。マイクを握って自己陶酔的に歌う、という身ぶりがある時期、ある世代まではあたりまえに身に刷り込まれていました。時には眼を閉じ、自分の内面に没入するかのような表情と共に、そのような状態の自分の生身を仲間の前にさらすという自己表現の体験が、カラオケで「うたう」ことの核心にあったのが、世代が変わり、「うたう」ことがそのような自己陶酔的な、没我的な身ぶりや表現にそぐわないものになってきた。自分自身、大学という職場から引き剥がされてもう2年になるので、いまどき若い衆世代のカラオケ作法にじかに接する機会もなくなっていますが、たとえば、若い衆世代の好むいまどきのアニソンなどは、旧世代のあの自己陶酔的な歌い方にはなじまないようですし、また声の出し方、高低や調子なども、それまでとはかなり別のものになっています。

 思えば、初期のカラオケの光景というのも、もはや記憶の底を意識して掘り返さないことには、うまく合焦しなくなっています。「歌の本」、あるいはただ単に「本」とだけ呼ばれていた、あのカラオケの機器に収録された楽曲がリストとして掲載された持ち重りする分厚い冊子になる前は、確か歌詞カードのようなものも置かれていたような気がする。でないと、歌うべき曲の歌詞をあらかじめ全部そらで覚えていないことには気軽にマイクを持てないわけで、それがその後、カラオケが単に伴奏を提供するだけでなく、映像含めたレーザーディスクを媒体とする機器になって、歌い手の視覚を収斂させるモニターが導入され、歌詞が画面上に映し出されるようになったことで、イメージ映像を背景に字幕として流れる歌詞を眼で追って確認しながら「うたう」という形になってゆく。そのことで、また「うた」も「うたう」も、カラオケの体験として別のものになっていったはずで、いずれこのあたりの経緯の細部も、われらの「うた」と「うたう」に関わる体験がどのような環境で宿っていたのかについての民俗/精神史に関わってきます。

 

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「僕はね、要するに歌なんだよ。やっぱ歌を思いっきり歌いたいっていうね、まさにそういう風に思ったんです。毎日中年男性の繰り言のようにですね、『歌で突破だ、歌で突破だ』ってもう1日37回ぐらい言ってますよ。『歌だ、俺は歌だ』。『俺は宇多田』じゃないですよ。」

 宮本浩次の言、だそうです。

 「く~だらねぇ~とぉ~、つぅ~ぶやいてぇ~」という、冒頭の歌い出し一発で同時代の耳をとらえた『今宵の月のように』(1997年)で名を挙げたバンド、エレファントカシマシの卓抜な歌い手。いずれどこかのインタヴューに応じたもののようですが、いまどきすがすがしいほどの「うた」への信心の告白として、このもの言いそれ自体に眼のさめるような「うた」の気分が横溢しています。


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 眼を閉じて、自己陶酔的に内攻的な気分と共に「うたう」のが、カラオケの場に典型的によく見られた、本邦同胞にとっての「うたう」作法としてまだあたりまえに存在していた時期、宮本は眼を閉じずに開いて、でも、この世代らしい隠せないシャイネスをその視線に絶えずはらみながら、それでも前方をはっきり凝視するという意志を明確にそこに織り交ぜながら、そんな表情と共に肉声化されることばを「うた」として表現していた。鮮烈な印象を与えていたのは、その楽曲そのものだけでなく、他でもないそれらを「うた」にして提示していた彼、宮本浩次の生身のたたずまいも併せてのことでした。

 文字で書かれた作物として認識されているいわゆる文学作品、たとえば小説にしても、作者がそれを仲間や同人などに初めて披露する時、声に出して朗読するのがあたりまえだったことは、以前にも触れました。小説だけでない、詩作の同人の現場でも、作品を作者自ら声に出して朗読してみせて、詩ですから当然それは「うたう」になっていたようです。現代詩以外、それこそ短歌でも、自作は当然「うたう」ことが前提だったそうですし、俳句であっても同じこと。それら「吟ずる」ことも広義の「うたう」に含まれるのがあたりまえの感覚だったようですから、なるほど、本邦根生いの定型詩も概ねそうやって「声」にして「うたう」ものだった。となると、読経や祝詞などとの関連も問題になってくるわけですが、坊主の読経にしても、あの「文句」を言葉として理解し、耳から意味を受けとるような聴き方を多くの人びとがしていたとは思えない。文字の読み書きのリテラシーの薄い人がたにとって、楽曲的な音楽の「文句」「歌詞」はどのように聞こえていたのか。文字の歌詞を読むように意味を受けとっていたはずはないとして、ならば、そこで耳を介して響いていた話し言葉は、その音楽のその他の要素、楽器の音色や節、調子などと併せ技で、さて、どのように聞こえていて、さらにそれは「うた」とどのように交錯するものだったのか。

 「うた」は一般的に肉声を介するもの、生身の「声」が必ず媒体になっている表現です。ならば、同じ「声」を介した話し言葉との違いはどのへんにあるのか、あるいはどのように地続きになっているのかいないのか。「ことば」を全ての現実認識の前提として考えることが習い性になってしまっている今のわれわれからすれば、単なる音声、音響としての肉声という部分に意識がなかなか及ばないところがある。と同時に、音声一般をそのものとして、「まるごと」に聴く、受け止めるということ自体も、すでにできなくなって久しいようです。

 たとえば、かつてマチなかにたくさんあったという寄席、落語であれ講談であれ浪花節であれ、「はなし」から「語りもの」に至るまでの芸能に接する態度として、「寝っ転がって聴く」というのがあったことは、いろんな記録に残っています。そこにただ横になるだけでもない、備え付けの箱枕さえ抱え、眼すら閉じて半ば居眠り、のんびりと昼寝をしながら「聴く」。これらの挿話に対しても、多くは単に微笑ましい「逝きし世の面影」のひとコマとだけとらえて、それ以上考えないのが常だったように思いますが、しかし、ここもまた敢えて立ち止まってみれば、あの「聴く」態度というのは、その場の眼前の〈いま・ここ〉で上演されている「はなし」や「語り」を、まるごとの音声、音響として耳傾けるのに最適化された態度だったのかもしれない。

 落語や講談だけでもない、「語りもの」にくくられるとは言え、曲師の三味線がついて賑やかな音曲的な要素が強い浪花節でも、桟敷のある寄席だけではなく劇場規模の上演があたりまえになった時期でさえ、演者が舞台に登場して一応の様子を眼でひと通り確認してからは、眼をつぶって腕組みでもして聴き入るのが作法だった、という話があります。

 もちろん、浪花節の場合、もとはちょんがれ、ちょぼくれ系の路上の芸能だったわけで、ヒラキと呼ばれた野外、青天井での上演形態の頃から、そのような眼を閉じて耳傾けるような「聴く」作法が確かに成り立っていたとはちょっと思いにくい。そこではあくまで「見る」ことも含めた、まさに「見世物」として芸能という性格が主だったはずで、ならばそれが寄席に入る頃から、語りものとしての眼を閉じて聴く作法が前景化してきたのか、それとも、もともと本邦の世間、常民の間に民俗的により広くあったそのような作法が、ヒラキの「見世物」的な属性から切り離された屋内の寄席空間での上演形態になったことで、強調して提示されるようになったのか、そのあたりの経緯はよくわかりませんが、いずれにせよ、眼を遮断し視覚を制限することで、耳が研ぎ澄まされ聴覚が際立つ、その結果、耳から入る音声だけを愉しむことができる。それは一見、自己陶酔的に眼を閉じて歌ったあのカラオケ的な「うたう」身ぶりと地続きのようにも思われますが、さて、果して本当にそれだけだったか。

 「それは私の曾祖父が、母の父に店をゆずって隠居してから、東京深川の家のすぐ裏にあった永花亭の昼席で、肘枕して講釈を聴いたり、母が曾祖母に連れられて常盤町の娘義太夫の寄席に通ったりした話から私が想像していた雰囲気とも、おそらく通じるものだったろうと思うのですが(…)端の席の人は横向きに坐って頬杖などして聴きいっている。それでいて、彼らの耳がたいそう肥えていることは、場内の空気からはっきり感じとれました。そこにはたしかに、演奏する者と聴く者とのあいだに、あるアンチームな(親密な)交流があったし、演奏後の節度のある拍手にも、演奏者への共感や慰労の心が籠められているようで、気持がよかった。(…)そこには、世界的かも知れないが、抽象化された物差しで音楽一般を測るのとはちがう、たとえ地方的なものにすぎないにせよ、自分たちの好みにあった音楽を育てようとする雰囲気があった。」(「抽象としての文化を越えて」『世界』1978年6月号、武満徹川田順造『往復書簡 音・ことば・にんげん』所収、1980年)

 日本語を母語とした人文系学者の中でも、言葉本来の意味での「文化」と「歴史」の相に深く根ざした仕事を、早い時期に成し遂げた数少ないひとりであるだろう川田順造が、その若い頃、フランスで経験した、とある小さな音楽会での体験について記した一節。深川育ちの彼も幼少の頃、見聞きしていたらしい、あの寝そべって眼を閉じて「語りもの」を聴くような作法は、その場に即した見えない共同性と共に、音声、音響としての表現をまるごと受け入れる態度として、本邦のみならず、人類一般にすでにあったものかもしれません。

 その後、「サバンナで新内や平曲を聴きながら、「ことば」と「ふし」について改めて考えるようになった」彼は、彼の調査地である西アフリカはモシ族の「語り物の性格の強い歌や、「太鼓ことば」や、ことば尻の声調あわせをする子どもの遊びなどに接したことが、大きな刺戟になった」ことで、「西洋音楽のいわゆるクラシック曲や邦楽の語りものにはまったく興味を示さない私の村のモシ族の人たちが、平曲やおしら祭文には関心をもった」ことに反応し、「「ことば」が見事に「ふし」になっているという点で、彼らの歌や踊りと共通する美意識を満足させるのかもしれません」という仮説的な理解を足場に、「「ことば」そのものが「いき」となって吐かれるときすでに、「ふし」の形をとっているというべきなのかもしれません」という、さらに大きな発見的な推測へと足を踏み出すことになってゆきますが、われら凡骨はひとまず先のお題、カラオケでの「眼を閉じる」自己陶酔的な「うたう」身ぶりにひとまず立ち戻りましょう。

 眼前で上演される表現を受け止める態度として、寄席の桟敷にねそべって「眼を閉じる」ことが、本来、そのように寛いだ生身の状態で、音声をまるごととして受容するためのものだったとしたら、カラオケでマイクを握って「眼を閉じる」身ぶりは、機器を介して聞こえてくるカラオケの伴奏やそこに乗る自分の声などをうまくモニターし、自分の「うた」と「うたう」を調整する規準にするためがひとつ、そして同時に、「うたう」自分の意識を内攻的に集中させて、何らかの心象風景的なイメージの中に自意識ごと溶かし込んでしまう目的があったでしょう。そこに臨場しているカラオケの聴衆は切断され、「うたう」意識は自己陶酔的に、言わば近代文学的な「個」の自意識として制御されることで、「うた」本来の、その場の共同性へ向けて開かれた表現としての機能は、減衰されざるを得ない。

 冒頭の妙な夢、とにかく何か「うた」にしなければならないとて、とにかく「あああああ」~と発声してみせた際の、どこか落ち着かない昂揚感みたいなものには、そのような共同性の側へと開いてゆける確信からすでに隔離されてしまった、「うた」と「うたう」の現在が、どこかで影を落としていたような気がしています。

更新される「ロシア」

 ウクライナをめぐる事態が、この数ヶ月の世界を一気に、これまでと違うものに染め上げているような印象すらある2022年の春、です。ここは何か少しはもっともらしいことを言わねばならないのかもしれない、でもさて、敢えて言うべきことは何か。

 現在、現地で何がおこっているのか、それはいまどきの情報環境のこと、さまざまなメディアを介して、それこそ時々刻々、真偽ごったにされて手もとにやってくる。そんな現状で、自分の裡にあった「ウクライナ」や「ロシア」のイメージ自体がみるみるうちに書き換えられ、更新されてゆくのを感じます。そういう意味では、これまでも正直、ごく漠然とした印象でしかなかったウクライナよりも、むしろロシアの方が、そういう既存のイメージの変貌については気になったりもする。

 もっとも、そのロシアにしたところで、自分に限らず、おそらく本邦世間一般その他おおぜいにとっても、それほど輪郭確かなイメージが抱かれていたわけでもないでしょう。今回の事態で、改めて地図上で眺めてみればわかるように、北方領土などほんとについ眼と鼻の先、日本海はさんだ沿海州ウラジオストクあたりでも驚くほど近い「隣国」であるはずなのに、意識の裡でそういう感覚は稀薄でしたし、休暇めがけた海外旅行の対象として考えられることも、まずなかった。

 日露戦争は教科書で習う語句以上でなく、ロシア革命マルクス主義も、戦後冷戦下の立ち廻りもその後の崩壊も、単なる知識・情報としてなら断片的にあったにせよ、それが相互に関係づけられて、〈いま・ここ〉に存在する具体的な「隣国」として合焦する機会はありませんでしたし、何も戦後圧倒的なイメージとしてわれら同胞の脳内に君臨することになったあのアメリカほどでなくても、それこそ韓国や中国、東南アジアの国々ほどさえも、ロシアというのははっきりイメージできない、実にぼんやりとした形象でしかあり得ませんでした、ついこの間までは。

 それが今回、ウクライナの事態をきっかけに、一気に「ロシア」が前景化した。軍事的に強いロシアというイメージが見事に覆されたのに始まって、同時に、それまで単なる断片としても記憶の奥に押し込められていた第二次大戦前後の「ソ連軍」にまつわるさまざまな記憶が、一気に意識の水面に湧き出てくるようになった、そんな印象があります。

 自分が北海道にいるから余計にそう感じるところがあるのかもしれませんが、樺太やシベリア抑留の記憶や、そこに抜き難くまつわるラーゲリ(強制収容所)での苛酷な体験などが、ふだんはもうほとんど語りなおされることなどもなかったはずなのに、ここにきて、ほんとに市井の普通の人たちの何でもない日常会話の中にも、ちょいちょいうっかりと顔を出すようになっている。

 「ロスケ」という語彙が、はっきり混じるようになりました。もちろん、おおっぴらにというより、まだ声も表情もひそめてのことですが、でもだからこそその分、間違いない感覚の根っこの気配と共に、低いくぐもった調子で。「いやぁ、やっぱロスケはロスケさぁ」といった相互に確認しあうような気配と共に。

 ご当地北海道名産と銘打たれ、観光客はもとよりデパートの物産展などでも大人気のカニイクラなどの海産物の多くは、すでにロシア産になっていますし、そういう界隈ならば、仕事としてロシアとつきあいのある向きもそれなりにある。小樽あたりだとロシア人の船員相手の商売も、ひと頃ほどでなくても、地元のなりわいになっていますし、何も海産物だけでもなく、中古車や中古家電に関わる業界などでも、ロシア相手のビジネスは成り立っています。そんな状況ですから、眼前の現在形としてのロシアは生身のロシア人を介しつつ意識にあった、そのはずなのに、ここにきて一気に、「ロスケ」という響きに籠められるある種の怨恨含みの感情の隆起と共に、過去の記憶の裡にくぐもっていた「ロシア」のイメージが、具体的な「ソ連軍」の所業や抑留体験に紐付けられた記憶のかけらたちを介して期せずして21世紀、令和の御代を生きる生身の人がたの〈いま・ここ〉の意識の水面に、海底から湧いて出るガスの泡のように湧いてきているようです。

 眼前の同時代のできごととしてのウクライナの事態の推移と共に、そういう二次的、派生的に起こっているらしい、「ロシア」という表象の本邦日本語環境での書き換え、更新のありようもまた、注意深く見つめておかねばならない、たまたまであれ、北の国境地帯に蟠踞している身だからこそなおのこと、と思っています。

 

ウクライナの「うた」、五木寛之の記憶

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 いまどきの情報環境のこと、無職で隠居に等しい身の上で、外へ出て人と会う用事なども基本的になく、それこそ日々ひきこもりに等しい生活をしていても、世の動きや動静は文字に限らず画像、映像、動画に音声、いずれそれら各種「情報」として平等に、なんだかんだ言いつつ四六時中行動を共にするようになってしまった手もとのちっちゃなハコや、世に生きる上でとりあえず持っていないと頬返しもつかない道具になっている電脳端末の画面を介して、あっちから勝手にどんどん流れてくる。

 だから、ウクライナのことにしても、これまでそれなりに体験してきたはずの遠い国の紛争沙汰とは段違いに生々しく、かつ距離感のとりにくいいまどきの「戦争」の風景として、これだけ日々入ってくると、全く関係ないことにして日々の習い性、いつものように自分の仕事だけをすることも、案外難しくなっているところがあります。

 「情報」の密度も速度も、そしてそれらの質も、みんなケタ違いにあがっている以上、致し方ないことであり、かつ、それらに対する個々の反応もまた、人それぞれのそのあり方自体も含めてつぶさに「情報」として投げ返されてくる。専門家と称する人がたから、会ったことも見たこともないどこかの無名の市井人、世間一般その他おおぜいのひとりひとりに至るまで、ほんとに誰もがあれこれ論じたり語ったりわかろうとしたり、そのさままでもが、いちいち小さな「情報」として手もとに送られてくる。なるほど、そういう時代、そういう情報環境を生きざるを得ない現在のこと、それはそれでどんどんやればいい。

 ただ、そんな近頃の日々に、ふと、思ったことがひとつ。

 あのウクライナの人がたもまた、かつてソ連軍として戦った世代は当然、ご存命のはずだし、実際いま、戦火の下にも生きとらすはず。モニタにいくらでも流れてくる惨状と現地の人がたの「情報」としての映像の中に、そんな経験もまた確かに織り込まれてある、そういう視点はどこかに担保されているだろうか。そして、他でもないこの本邦の国土にも、かつて満洲北方領土から引揚げてきて、ソ連軍に蹂躙された体験ある方もまだご存命のはず。だったら、そういう人がたに〈いま・ここ〉のウクライナのことを、分断されたロシア軍に蹂躙されている現在のことを、たとえ断片の感想でも印象でも尋ねてみる、そんな発想の足場もまた、本邦いまどき商業メディアのどこかにまだ、確保されているのだろうか。

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 あるいはまた、国際政治や軍事戦略の専門家という人がたが、メディアの舞台ににわかに多く登場するようになっていて、またその多くが40代から50代そこそこ、いわゆる氷河期世代と呼ばれるようなあたりの年まわりで、これまで表に出てきてなかった新鮮な面々になっているのも、昨今ウクライナ情勢をめぐる新たな現象です。それは同時に、これまで連綿と惰性と共にメディアに登場し、コメンテーターとして単なる個人の感想に等しいことをもっともらしく垂れ流すのが仕事になっていたような文化人や評論家といった「タレント」立ち位置の人がたが、彼らの操ってきた言葉やもの言いなどと共に、一気にその信頼性を失い居場所もなくしつつあることと表裏一体らしい。いわゆる人文社会系とくくられてきたような学術研究、いや、そこまで大層なものでなくても、いわゆる「教養」と何となくされてきた知識や知見の群れが、もう〈いま・ここ〉を説明する道具として役に立たないものになっている、そのことが、このたびのウクライナをめぐる「戦争」という決定的な〈リアル〉を前にして、世間の眼に最終的にあらわになっているということかもしれません。


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 ただ、だとしても、ここでもまた、敢えての留保を加えておかねばならない。

 彼ら彼女ら、ここにきて新たに姿を現わしてきた若い世代の専門家たちの知見には、世代性や育った環境――90年代の大学院重点化以降、海外の大学や大学院に留学して博士号を取得したような人がたが多いことなど――もあるのでしょう、旧来の本邦「教養」系の、それこそ「文化」や「文学」「歴史」といった要素を大黒柱と頼んだ戦前このかたのたてつけからは良くも悪くも自由で、解き放たれたような肌合いが強いように見えます。それは、同じ眼前の〈いま・ここ〉のできごととしてのウクライナをめぐる「戦争」についての彼らの理解や説明の枠組みには、こちら側旧世代的な「戦後」「昭和後期」設定の「教養」からは半ば自明であった補助線が、初手から引かれないままになっているような印象につながっています。

 いや、もちろん優秀な彼ら彼女らのこと、「文化」も「歴史」も「文学」も当然、織り込んでいるでしょう、彼らの語彙において。そしてその語彙の文脈において、彼らの眼に映じている〈いま・ここ〉のウクライナ情勢もまた、いまどきの情報環境に見合った「そういうもの」としての〈リアル〉を必要十分なほどに湛えている。それはそれ、時代が変わり、それに応じて世界の現われ方、現実の輪郭もまた手ざわりと共に移ろってゆくことの表現でしょうし、それらがこれから先、新しい時代と情報環境における本邦日本語を母語とする間尺での〈リアル〉を紡ぎ出してゆく、標準的な文法になってゆくのかもしれない。いや、おそらくそういうこと、なのでしょう。

 けれども、それらの前提の上でなお、確かに言っておかねばならないと思うのは、もはや旧来の枠組み、役立たずであることがあらわにされてしまっているらしい「戦後」「昭和後期」設定の「教養」の枠組みの側から、同じ眼前の〈いま・ここ〉を見てゆこうとした際に、やはり見えてしまう風景というものも、同時代の現われとして未だ確かに「ある」ということ。そして、それが見えにくくなってゆくだろう、その分「なかったこと」にもされかねない何ものかについてのさささやかな記述と、そこに託され得るだけの、それらを自明に生きてきた事実についての存在証明です。

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 かつて敗戦前後、火事場泥棒のように満洲北方領土に押し寄せたソ連軍の兵隊たちは、ズダボロの服でだらしなく歩いていたが、彼らが行軍しながら歌を歌い出した、その歌声がすさまじく力強く美しいものだった、といった趣旨のことを、どこかで誰かが書いていたような記憶があります。五木寛之だったかもしれない。でも、五木寛之の書いたものなどもうずいぶん忘れていたので、試しに手もとの雑書の山を、すでにおぼつかなくなっている記憶をたどりつつ、暇にまかせて少しあさってみていたら、ありがたい、出喰わしました、記憶そのものにあたるものかどうかはあやしいながらも、どうやら似たような記述に。

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「私はあるひの夕方、宿舎に帰ってゆくソ連兵たちの隊列と出会った。連中は自動小銃をだらしなく肩にかけ、重い足どりでのろのろと歩いてゆく。服装は粗末を通りこしてボロ布にちかく、どう見ても物乞いの集団としか思えない一団である。」

 この「物乞い」は正しく「乞食」と書きたかったところだろうな、と思いながら、肝心なのはその先。

「突然、その隊列のなかのいく人かが、低い調子で歌をうたいだした。すぐに何人かが加わり、たちまち全員がそれに和して歌声が大きくなった。」

 ああ、こういう「うた」の歌われ方、「うた」になってゆく瞬間というのが、確かにあった、本邦にも。どうやら最近はもう、忘れられてしまった「うた」の宿り方なのかも知れないけれども、かつてある時期までは間違いなく。歌いながら歩く、遠足でもハイキングでも、あるいはそこまでゆかない少人数の散策めいた足どりの中でも。

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 ただし、五木は、こう続けていました。

「なんという歌声だったろう!それは私がかつて聴いたことのない合唱(コーラス)だった。胸の底から響くような低音。金管楽器のような高く澄んだ声。いや、声を通りこして心に響いてくるなにか奥深いもの。私は体がしびれたようになって、その場にたちすくんだ。」

 合唱だった、もしかしたらハモりながらですらあるような、「行進曲とはまったくちがった哀しく暗い歌声」での。こちらがうっかり想起したような、歌いながら歩く時に歌われるような「うた」とは、少し違っていたらしい。

 「私はあたりが暗くなっても、まだその場を動けないでいた。アタマのなかでえたいのしれない混乱と疑問が渦巻いて、いまにも卒倒しそうな感じだった。地面にひざまずいて祈りたいと感じた。そして同時に、こんなことがあっていいのか!と大声で叫びたい気持ちでもあった。そして、おれは絶対許さないぞ、と心のなかでくり返した。こんなことは認められない、と、私は感じたのだ。毎晩のように女たちを連れさりにくる強姦者たちが、こんな美しい歌をうたうことができるのなら、おれは絶対に歌なんて許さないぞ、と。」(五木寛之「許せない歌」『オール読物』2月号、1992年)


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 言うまでもなく、五木寛之はもともと「広告・宣伝」の場から、それも60年代の高度成長期、それら「広告・宣伝」の領分が世間に否応なく可視化され、具体的な影響と共に存在感を示すようになってきた経緯の中、世に出てきた書き手です。それこそ他でもない、あの三木鶏郎のまわりにも身を置いたこともありますし、ラジオの放送作家やCM制作の現場なども広く経験、作詞家としてクラウンレコード専属だったこともある。いわゆる「文学」前提の作家というより、自身認めているように「エンターテインメントとしての読みもの」のライター的な意味あいの強い書き手であり、広義のマルチ・クリエイターでした。そういう意味で「うた」については人一倍鋭敏ですし、また、プロとしての関わり方も含めて、五木寛之という書き手の経歴の裡でも重要な位置を占めてきています。

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 その彼が、この時のソ連兵たちの「うた」から受けた衝撃を、強く引きずっていた。

「その記憶は、いまだに消えないこだわりとなって、私のロシア民謡に対するルールとなっているらしい。私はある断念を誓ったのだ。歌をして抒情の域にとどめせしめよ、というのがその決心である。そこから一歩も踏みいるまい、と、きめたのだ。」

 この「抒情の域」という言い方の、その内実とは何か。その後、職業的な作詞家として商品音楽の歌詞を、そしてCM制作の現場担当者としてそのコピーやジングルなどを、いずれ「広告・宣伝」を介したメディアと「大衆」という「市場」との関係を計測する作業として、それぞれやってゆくことになった彼のキャリアの裡において、日常的な間尺でのキモチやココロといった不定形な領域に、人々の手にあったノズルを与えるけれども、しかし決してそれ以上に踏み出させない制御の効いた範囲にそれら不定型な領域を収納しておく有用な道具としてのことば、といったものだったのではないか。だとすれば、それはまた、そのようなことばに付随する彼にとっての「うた」のイメージの原型にまでつながるものでもあったはずです。

「かつて〈うたごえ喫茶〉のブームがあった時代も、学生の私はついに一度もその種の店に足を踏み入れたことがなかった。いろんなロシアの歌を愛唱することはあったが、それはあくまで抒情の小道具として愛したにすぎない。」

 高校時代からツルゲーネフなどロシア文学に興味を持ち、大学で露文科に属した彼が、しかしロシア民謡に対してこのような縛りを自ら課していたということは、「うた」をめぐるこの場の道行きにとっても、ちょっと備忘として加えておきたい示唆になります。

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 そう言えば、シベリア抑留から帰還した元日本兵たちが、みんなで革命歌を歌いながら上陸した、という話が、かつてありました。それもまた当時のニュース映像に残っているのだけれども、そして、その彼らの身ぶりや歌い方のたたずまいはその後、シベリアで「洗脳」されていたからだ、という説明で語られてもいった挿話なのだけれども、ただ、それらのことを別にしても、当時のその復員兵である彼らの、その「うたう」感覚の共同性とは果してどんなものだったのか。たとえば、旧軍の軍歌演習などでの「うたう」とどう違っていたのか、あるいは地続きだったのか。

 「帰還者の中には、夢にまで見た帰国を果したにもかかわらず、岸壁で待っていた家族にも会わないで、赤旗を掲げて隊列を組み船を降りると、桟橋から東舞鶴駅まで「インターナショナル」や共産党の歌を歌いながら徒歩で行進し、列車で東京へ。そして代々木にあった共産党本部に行って全員が入党手続きをした集団もあった。彼らは「人民の敵である「天皇の島」に帰って来た」という意気込みで帰国したのである。」(細川呉港『舞鶴に散る桜――進駐軍と日系アメリカ情報兵の秘密』飛鳥新社、2020年)

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 これらの問いは当然、「うたごえ」運動など含めた戦後の「ロシア経由のうたその他、文化一般」の受容過程にも関わってきます。たとえば、こんな細部からでも。

「酒場「どん底」では、どん底歌集というのを売っていて、ある歌を一人が歌い出すと、期せずして若人の大合唱となる。喚声と音楽が一しょになって、なまなましいエネルギーが、一種のハーモニィを作り上げる。何んともいえぬハリ切った享楽場である。」(三島由紀夫「世界的水準」『どん底歌集』所収、1961年)

 この「合唱」は、「ハーモニィ」と言いながらも、「一種の」と限定されているように、いわゆるコーラスではなかったようです。同じ頃、砂川闘争の現場で、警官隊と対峙していたデモ隊の隊列の中から、半ば自然発生的に「赤とんぼ」の歌が歌われるようになった、という挿話も、戦後の思想史的脈絡で繰り返し語られる定番のひとつになっていますが、この時の歌もまた、単に声を合わせて同じ歌を歌うという意味での合唱ではあっても、きれいに分節されたコーラス的なものではなかったはずです。なるほど、そんなことを考えてゆけば、ロシア民謡が戦後の本邦世間一般にとっての「うた」のあり方に与えたであろう痕跡、というのも、まだうまくとらえられていないのかもしれません。


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 いま、ウクライナに侵入してきた21世紀のロシア軍は、モスクワやサンクトペテルブルグその他の、彼の地の光り輝く「文明」の場所、マチからはるか遠い辺境から連れてこられた者が多いと言われています。どうかしたら少数民族なども混じると言われているあの兵隊たちは、かつて五木が平壌郊外で耳にした「うた」のように歌うのだろうか。いや、ロシア軍だけではない、かつて同じソ連軍でもあったはずのウクライナ軍の兵隊たちもまた、やはりそのように歌うのだろうか。

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 ……などと、またとりとめないことを考えていたら、ウクライナ軍が歌っている映像がありましたよ、と教えてもらった。なるほど、あった。オデッサの、あ、今はオデーサと呼ぶようになったのか、港町の防禦陣地つくり、市民も共に混じっていましたが、土嚢を手に手に手渡してゆく、かつては本邦でも「天狗取り」と呼んでいたやり方で作業をしながら、何やら大きな声でみんなで歌っていました。それは作業歌になっていたように聞こえたし、何より、軽くハーモニーを取ったコーラスとしての合唱にちゃんとなってもいました。また別のところではchantから、サッカー場のようにcall and responseを促すシーンもありました。

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 なるほど、「うた」と「うたう」は、ウクライナの人々の間に、まだ確かに活きているようです。

「みんな」と「大衆」・小考

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 ラジオやレコードなど、「飛び道具」の登場してきた情報環境における「うた」の転変の周辺を、例によっての千鳥足で経巡ってきていますが、今回はちょっと迂遠な話を。それらの千鳥足の道行きの背景、書き割りの部分の整理という感じで。

 「広告・宣伝」が、その働きかける向こうに見据えているのは、社会であり、世の中であり、世間であり、いずれそのような言い方で指し示されている茫漠とした拡がりを持つ何ものか、ではありました。その中にひとりひとり、個々の人間がいるのは確かですが、それらがとにかくたくさん、無慮膨大な形象として存在している、そういうイメージ。敗戦までなら「国民」とか「同胞」と呼ばれていたような、そしてそれは戦後には「みんな」と開かれて、気易く口語的に使い回されるようにもなっていったような。

 「みんな」の気持ち、感じ方、考え方、そういうものが改めて、これからの日本には大事なんだ、それらをそれぞれ言葉にして、表現してゆくことが「民主主義」の第一歩なんだ――ある日を境にいきなりそういうことが、否応なしの「そういうもの」として君臨するようになった、それがとりあえずの「戦後」の本邦世間にとっての、自己認識の舞台の新しい書き割りになりました。

 以前、自分は、巷間「無法松の一生」として知られる物語が、元の小説から映画、舞台その他、さまざまに作りかえられ、同時代の情報環境を介して「伝承」されてゆく過程を追いかけてみることで、本邦世間に宿っていた「男らしさ」をめぐる想像力の転変を跡づけようとしたことがあります。その際、戦後上演されるようになったバージョンでの新劇の舞台、原作になかった役回りとして加えられた松五郎に心を寄せる芸者の、これもまた絶対に原作にはあり得なかったはずの「みんな、松さんが好きなのよ」というせりふ、その「みんな」が戦後の「無法松の一生」にかなり決定的な屈折を与えていたらしいことに気づかされ、嘆息しました。詳述は避けますが、そのような「みんな」にうっかり担保されるようになった「民主主義」が、どのようにわれわれの想像力に、それこそ「民俗」レベルも含めての、いわば「聖痕」を残してきているのか、それ以降、眼前の事象を考えようとする時には考えざるを得なくなりました。「戦後民主主義」などとひとくくりにされ、一時期からは軽侮嘲笑の対象にもされていたものの内実は、しかしその嗤い飛ばしの勢いごかしに、つぶさに自分ごととして「歴史」の位相で省みる契機も吹き飛ばされてしまい、だから、役立たずになったものをきちんと成仏させることもできなかった。結果、その形骸だけが、それこそゾンビのように、いまの本邦のwebも含めたこの新たな情報環境に浮遊しています。

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 話しことばでの「みんな」は、活字のとりすました場では「大衆」という言い方になったようです。もともと茫漠としたイメージでしかないようなものでしたが、それをわかりやすく流通させてゆくための、いわば公式的な呪文として、「大衆」は戦後の言語空間に流れ、認知されていったらしい。ただ、それが当初はまぶしさを伴った真新しいもの言いとして響いていたことは、今となってはもうわからないかも知れません。

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 たとえば、そう、あの昨今はもうほとんど見かけなくなった「大衆食堂」と染め抜かれたのれん、そこらの街頭のメシ屋の店先にすすけながらもひるがえっていた威風堂々を思い起こしてもらえば、少しは伝わるのかも知れない。あそこに染め抜かれていた「大衆」の字ヅラは、かつて、ほぼそのまま「われわれ」という一人称複数として伝わるようなものでした。「みんな」を包摂する新たな主体、腹式呼吸でまっすぐに発音できる主語としての「大衆」。だから当然、「大衆的」というのは無条件にいいことであり、好ましいことであり、この先この国の世間がめざすべき境地ですらありました、戦後のある時期までは間違いなく。

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 「大衆」をテコに、さらにもっともらしく学術的な装いをさせた「大衆社会」という言い方も、脚光を浴びるようになりました。これらのたてつけは、概ねアメリカの方向から流れてくる「新しい学問」、社会学社会心理学などの意匠と共に広まってゆきました。

 同じ時期、「マス・コミュニケーション」というのも同様に目につくもの言いになっていました。じきに略して「マスコミ」と丸められるようになり、新聞・雑誌やラジオ、テレビなど媒体そのものを指す言葉へと横転してゆきましたが、もともとは「コミュニケーション」に重心がかかっていて、それに新たな「マス」という形容がくっついた、成り立ちとしてはそういう言葉として輸入されたもの。何よりその「コミュニケーション」自体、それまでの本邦近代の習い性、あの漢語系熟語一発で置換しにくいものだったので、カタカナ表記のまんま使わざるを得なかったという、割と屈折した来歴を持つもの言いではあったようですが、ともあれ、その「大衆社会」も「マスコミ」も、戦後間もない頃、昭和20年代から30年代にさしかかるあたりまでの時期、社会の転変、世相風俗のありようなど〈いま・ここ〉を説明しようとする際の基本的な背景、書き割りとして、とりあえず便利に使い回されるようになってゆきました。

 とは言うものの、そういう便利に使い回されるもの言いの常、内実は常に揺れ動く。まして、カタカナ表記の語彙のこと、特に意識せずともファッション的に、単なる装いとして軽々と流通してゆき、どんどんその輪郭はぼやけてゆきます。

 「周知のように、「マス・コミュニケーション」ということは、「同時に、或る事柄について、多くの人々に、知らせる手段」(具体的には新聞、出版、ラジオ、映画、テレヴィ)ということである。多くの人々といっても、一万人とか二万人とか言うのではない。可能性をいうなら無際限の人々であるといってもいいだろう。」(扇谷正造「教育手段としてのマスコミ」『現代のマスコミ』所収、1957年、春陽堂)

 ここでもうすでに「マス・コミュニケーション」が、それらを可能にする媒体そのもの、つまりいまの「マスコミ」的もの言いと見分けがつかなくなっています。「意志疎通」「情報伝達」といった意味での「コミュニケーション」こそが、もともと基本にあって、そのありかたが「マス」という、とりとめなく大量に、かつ同時的に可能になったことが問題の中心だったはずが、日常的に現れた目新しい媒体としてのラジオやテレビなどの個別具体に引きずられたところもあるのか、そのような「マス」の「コミュニケーション」でなく、それらを可能にしている媒体そのものを指し示す言葉へと、横滑りさせられています。

 実際、この扇谷正造あたりが流布していった「マスコミ」や「大衆」に関する定義は、相当根深くその後の戦後インテリ世間での「常識」として浸透していったように見えます。特に、活字を自明に中心に置いたリテラシーを前提にして「普通に大衆といわれる人々は、「活字に親しみ」を持っていない」と断定しておきながら、同時に「我々とは何だ。それはその中に、私も身を置くところの大衆ということだ」と臆面もなく言い放つ、このあたり、先に言った「みんな」の融通無碍に通じる、インテリ・知識人の戦後的自意識が如実に露頭しています。

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 一方、同じ時期、これまたカタカナ表記でしかうまく移植しにくい、このようなもの言いも入ってきていました。

マーケティングという言葉はもちろん戦前には日本には存在せず、大学で教えるのは「商業学」、「販売管理論」で、おそらく戦前の軍国日本では軽んじられた分野だっただろう。したがって、戦後の日本でも実務家の方がはるかに勉強していたようで、壱岐の『証言』でも、森永製菓の五老新吉、東芝の浜野毅、松下電器の藤尾正といった実務家たちが、アメリカの文献を読みながら“マーケティングとは何か”を模索してきた様子が描かれている。書籍では 1952 年に浜野毅・上岡一嘉『マーケッティング』(ダイヤモンド社)が早い方か。当時は“マーケッティング”と書くのが普通だった。上岡一嘉は当時、青山学院講師だったかと記憶している。」(猪狩誠也「日本の経営ジャーナリズム」『広報研究』2018年)

 「大衆」や「みんな」にあたるような、同じとりとめない茫漠さを伴う形象を、こちらは具体的な商売の対象として把握してゆく必要があった。それに対して、新たに海の向こうから輸入されてきたのが「マーケティング」。でも、それらの現実は敗戦以前からあたりまえに現前していたはずですし、商売だけでない、さらに具体的な「生産」の現場においても、また別の対応をそれなりにしていました。

 「日本能率聯合会と日本工業協会が合併して「社団法人日本能率協会」(会長伍堂卓雄)が設立されたのは、昭和17年3月30日のことである。(…)この日本能率協会が最初に取り組んだのは、期間3ヶ月に及ぶ「生産技術者養成講習会」の開催であり、教えたものは「宿敵アメリカ」の生んだ「テーラリズム」そのものであった。」(壹岐晃才『証言・戦後日本の経営革新』日本経済新聞社、1981年)

 あの「近代の超克」と同じ昭和17年です。否応なく流入してくる新たな社会の様相――当時は「モダニズム」「アメリカニズム」として理解されていた「大衆社会」の現実に対する、不安や懸念やうしろめたさや、その他もろもろ何となくのモヤモヤ感、落ち着かない感じを率先して鋭敏に感受する層としての、当時の『文学界』界隈に蝟集していた尖端的インテリ知識人、文化人衆が、まず前のめり気味に当時のその空気や気分を言語化し、その頃の知的枠組みで何とか説明し、意味づけようとした、戦後に改めて注目を集めて思想史上の大きなトピックにもなっていった座談会。同じその頃、総力戦を戦う「生産」の現場では、このような理解を、輸入した道具だてを作って何とかやろうとしていたのですが、でもそれは、「近代の超克」的な理解の水準とはまた別の、異なる文脈で行われていたらしい。

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 一般的に、このような「モダニズム」「アメリカニズム」的な枠組みは、文化の表層、それこそ大衆文化・消費文化的な世相風俗の水準から合焦され、それらを足場に語られてゆくのが大方の通例になっていたようで、それは先に触れた、戦後の「大衆社会」論、そしてそれと対になった「大衆文化」論へと連なってゆくのですが、しかし、そのような「モダニズム」「アメリカニズム」の現実が同時代、「生産」現場においても同様に視野に入れられていたことは、なぜか人文社会系の視野からはうまく意識されていないようです。同じ時代、同じ社会の裡にありながら、異なる言葉、別のものさしによってそれぞれ解釈されていた「大衆社会」という現実。

「(これら生産管理工程の改善の)前史は99%まで技術者集団が受け持っていた。特に現場の作業改善などはそうだった。人文・社会科学者の欠如ということに何か意味があるように思われる。」

 興味深いのは、当時ドイツ流の生産管理論も入ってきていたにも関わらず、陸軍工廠以下、アメリカ流のテーラーシステム的な生産管理論が採用されていったらしいこと。三菱あたりはドイツ流にかなり注目して勉強研究していたにも関わらず、ですから、このへんは当時の技術者たちの眼前の現実に対する視線と、それ以外の人文社会系インテリたちの認識との乖離が如実に反映されているように見えます。と同時に、まるごとの現実として立ち向かわねばならないはずの同時代の現われに対して、このような分断が、依拠すべき外来のものさしの違いによってくっきりとあったことにも、いまさらながらに。

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 ともあれ、そのような乖離をそのままにした果てに、「生産」現場にも敗戦が訪れます。

「敗戦は政治的・経済的壊滅と同時に、強烈な文化的ショックを伴ってやってきた。企業内においては、この文化的ショックは、最も直截に言えば、人事・労務問題として噴出した。半ば強制的にヒロポンを配給して深夜労働に少年工を駆り立てていた現場に、アメリカの教育訓練システムが入ってきた。そのアメリカ式の教育訓練システムは、アメリカの経営者が持ち込んだのではない。ほんの少し前までわれわれの頭上から火の雨を降らせていたアメリカ空軍がもたらしたものだった。」

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 「生産」を制御し、管理するやり方に新たに要請された、「民主主義」というたてつけに即した対応を、という難題。当然、今度は一転、アメリカ由来の、それも直接に占領軍としてのアメリカからの指導が、新たに「生産」現場に降ってくる。

「「ヒーフの教育方法とは……」といった言葉が、戦後間もなくから企業内教育訓練に携わっていた人々から自然に出てくる。「ヒーフ」とは「FEAF」(Far East Air Force=極東空軍)のことで、アメリカ占領軍の中核である。(…)「昭和24年から26年にかけて、アメリカ占領軍の指導のもとで、アメリカ式経営管理技法が等々と流入し始めた。まず第一線監督者訓練方式であるTWI(Training within Industry)がGHQによって紹介された。」

 一般的に、「大衆社会」は「アメリカニズム」「モダニズム」と紐付けて理解されることが少なくないですし、また事実、大衆社会的な現実は、そこに宿る〈リアル〉も含めて、戦前からの「アメリカニズム」「モダニズム」を大きな下地とした枠組みの上でしか、われわれは認識できずにきたらしい。しかし、それは大文字の言葉でものごとを一括して一望しようとする際の、言わば上澄みであって、それらの水面下に拡がっていた多様で個別具体の現実においては、眼前の事実をどのようにとらえて認識してゆくかについて、知られざるさまざまな動き方もあった。「うた」の転変を考えてゆく道行きにおいても、個々の挿話や事実の背景に、それらに即した小さな現実認識の作法がひっそり寄り添っていたかもしれないことを、忘れないようにしたいと思っています。

三木鶏郎にとっての「うた」の戦後

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 「広告・宣伝」に使われる音楽と、「流行歌」として半ば自然発生的な過程も含めて作られてくる音楽との間には、当時の同時代気分として大きな違いが、それなりに感知されてはいたようです。そしてまた、それらと「歌謡曲」として作られる音楽との間にも、また。

 戦後初めて「CMソング」として、ラジオの民放開始当初に一般に向けて募集されたのが「童謡」と「歌謡曲」であり、「流行歌」というくくりではなかったことをもう一度、思い出しておきましょう。敢えて線引きがされていたとしか思えない、その間の「違い」とは、さて、何だったのか。

 世間一般その他おおぜいの気分や嗜好に向かって働きかけてキモチやココロ――つまり「情動」を喚起してゆくような属性を、それまでの媒体と情報環境のありようから比べても必然的に強く伴わざるを得ないラジオのような新しいマス・メディアが登場した新たな情報環境。そこでは、同じ「流行ること」をめがけた創作であっても、そこに至るメカニズムやからくりには、それまでの「流行歌」とくくられて片づけられていたものとは少し異なる要素があったはずです。少なくとも、CMソング以下、戦後の民間放送を規定する「広告・宣伝」を目的のひとつに設定されていた音楽には、そのような性格を示す何ものかが重要な隠し味としてまつわっていたらしい。そして、どうやらその配合の匙加減にこそ、その頃の「盛り場」に戦前以来、未だ当時はそれなりに野放図に流れてはいられたはずの「流行歌」とは微妙に異なる何ものかが、当時の同時代気分には察知されていたようなのです。

 それは具体的な音としては、たとえば、このようなものでもあったらしい。

「その時である!三越の階下の中央から天来の妙音が湧き上ってボクの運命のサイコロをゆすぶったのは!あの元気のいいスーザのマーチをブラスバンドが始めたのである。ボクは復職願をかきかけたまま、飛び出して廊下の手すりによって下をのぞいて見た。キラキラとスーザホンや銀メッキしたサキソホンが光り輝いて、何年ぶりかの明るいアメリカの音楽なのである。この音楽を聞いている内に、今まで頭の中にもやもやしていた敗戦ボケがふっ切れて、光がさし始めたのである。それは直覚的といおうか衝動的といおうか、理性では判らない或る力にひっぱられて、ふり向きもしないで階段を下りて行った――フランクキャプラ的転向であり「我が道を行く」であった――気分としては。」


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 三木鶏郎です。敗戦後の一時期、ラジオと共に広告・宣伝も股にかけ、民間放送の黎明期にそれまでとは違う経路での新たなかたちの「流行歌」を多数作り出して、当時の同時代気分を煽り、ブーストをかけてもいった戦後大衆社会状況に対する意識せざる工作者となったひとり。彼は、自身の内なる「音楽」の意味が敗戦によって一大転回した体験をこのように語っています。

「ボクは再び焼跡に立った。音楽家になると云う決心が決まっていた訳ではない。只、自分の足の上に立って、自分の主人公になって次の時代が要求する何ものかを創造しようという決心だけであった。それは何ものであるか――どういう形を取るのか――何ンにもはっきりしてはいなかった。」(三木鶏郎「冗談半生記」『モダン日本』1948年11月号、『冗談党宣言』実業之日本社、1949年所収)

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 この天啓とも言い得るような、ある種の感動と回心の告白。少し前に触れた、電通の吉田秀雄が奇しくも同じ1948年(昭和23年)に草していた「広告」に憑依したかのような高調子のマニフェスト、「常に到る所で我々の身辺を、我々の生活を囲繞する処のもの、政治も、文化も、経済も、それなしには成長と、発展を、否その存在をすら脅かされる所のもの、謂って見れば社会の紐帯とも称せらるべきもの、宣伝とは、広告とはこうしたものであろう」というくだりと同じ気分、よく似たある種の高揚感が、ここにも横溢していることが感じられないでしょうか。

 もちろん、ここでの三木鶏郎の意識は、吉田のように「広告・宣伝」自体に直接に合焦しているわけではない。けれども、自分自身も含めた戦後の新たな、生まれ変わらなければならないと深く感じた日本の国民に対して、彼らが要求する、彼らに必要な音楽をつくるべき使命を明確に察知している限りにおいて、それら国民一般に働きかける創作――彼にとっての「音楽」の、その後とるべき方向性を自覚していることがよくわかります。敗戦後3年、1948年(昭和23年)の〈いま・ここ〉の〈リアル〉とは、このような側面もはらんでいたらしい。

 そのような「国民一般」といった大文字の訴求対象を明確に設定した以上、それはまさに「大衆」と二重写しになり、眼前の同時代に生きる彼らに確実に届くための技法に求められるものとして、「広告・宣伝」は必然的に入り込んでくるべき属性になる。ゆえに、彼にとっての「音楽」は、それら「広告・宣伝」属性と切り離すことのできないものとして戦後の情報環境に、にわかに「民主主義」に沸き立つ同時代気分の公会堂に朗々と、おそらく彼自身が考えていた以上に広く、力強く響き渡ることになりました。それは確かに、それまでになかった味わいの音楽として、当時のわれら同胞その他おおぜいのキモチやココロを、それまでと違う興奮に誘ったものらしい。


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 その三木鶏郎、岩波文化と講談社文化の分断を糸口に、当時の本邦「大衆」のありようについて、このように語ってもいます。

「日本には二つの種がいるのである。その人種は、言葉も、食物も、住宅も、衣服も、讀む本も、歌う歌も全部異なる。かたや直譯的なレトリックをもち、かたやべらんめェの論理の飛躍がある。かたや毎日コーヒーをのみ、かたや茶漬けにたくあんをつける。かたや四畳半に長火鉢を備えつければ、かたやイスと机にスタンドを用意する。長火鉢の前に『講談倶楽部』がよみさしで伏せられ、スタンドの前の岩波文庫にはリボンのしおりがはさまれる。(…)一言で片づければインテリと俗衆である。この差がはなはだしいだけではない。この兩者が壓倒的多數で、中間が空白な事である。理論と実践が――精神と肉體が平均に発達した人間がいないのである。」

 図式的と言えば図式的ですが、しかし、当時の大衆社会状況に対する理解の水準としては悪くない。いや、杓子定規な概念や理論で説明されるのでなく、的確な比喩で「分断」を語ってみせるあたり、「冗談音楽」の始祖であり、『日曜娯楽版』『ユーモア劇場』などの番組で、ラジオを足場に占領下の同時代を一気に駆け抜けた早すぎた異才、三木鶏郎の面目躍如でしょう。

 そして、こう続けている。

「この兩極端の間に中間文化を作るということ、指導性あり價値ある大衆文化を作るということは、理論的にはインテリに了解され唱導されていたが、例によつてアタマでつかちで實践を伴なわないものであつた。その證據にはいつまでたつても試作品さえできない。たまに、「これが價値ある」大衆文化であると料理臺に出されたものをかんじんの大衆が食いつかなかつた例がいくつもある。」

 「中間文化」という言葉が出てきます。だが、これを過去の雑誌記事索引類を集大成した『明治・大正・昭和前期 雑誌記事索引集成』(120巻)を基に作成されたデータベース「ざっさくプラス」に放り込んでも、1955年以降のものしかヒットしない。おそらく、1957年(昭和32年)に刊行された加藤秀俊出世作『中間文化』(へいぼんぶっくす 平凡社)あたりを介して、インテリ知識人世間におおっぴらに流行するようになった形跡なのだろうと推測されますが、それ以前の1949年(昭和24年)の段階で三木鶏郎が、それもこのような的確な文脈で「中間文化」という語彙を持っていたことが、自分には興味深い。

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 もちろん、当時としては間違いなくインテリ知識人としての知的形成過程をくぐってきていた彼のこと、まして、NHKに草鞋を脱ぐきっかけを作ったのが丸山真男の兄、丸山鐵男だったことなどを得手勝手に結びつけるならなおさら、これは丸山真男的な脈絡での社会科学的な術語だったのでは、と憶測されるのも、まあ、いまどきならば致し方ないのでしょうが、しかし、何もしちめんどくさい考証沙汰などせずとも、そういう社会科学的な術語としてこの場の彼がこの「中間文化」を使っていたとは、自分にはちょっと思いにくい。岩波文化と講談社文化、本邦の大衆社会状況の「分断」を象徴するふたつの文化的ありようの「中間」の、質的にも穏当な中庸さを身につけた新たな文化を創り出すことがこれからの日本を支える主体の創出につながってゆくはずだ――彼の内心を斟酌しながらほどくならば、およそこのような内実が込められた、ごく素朴なもの言いだったのだろうと思います。

 そのような意味でなら、「三木鶏郎が音楽家として台頭する経緯が示しているのは、平時ならば社会において支配的な地位につくことによって後退(少なくとも個人のうちに潜在)してゆく文学青年的な芸術趣味に基づく音楽活動が、敗戦にともなう価値転倒のなかで特異な形でオーヴァーグラウンドに浮上し、一躍メディアの寵児になってしまった、という事態ではないだろうか」(輪島祐介「戦後放送音楽の「ホームソング」志向と三木鶏郎」、2011年)といった、一見きれいに整理されたように見え、そして総論的な意味での一般性の水準においては合格点かもしれない彼に対する近年の評価のもの言いについてもまた、異なる「読み」の足場を構築しながら相対化してゆけるはずです。


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 たとえば、こういうところ。レコード会社におけるそれら「分断」の実際を引き合いに出しながら、彼はこんな言い方もしています。

浪花節や講談が邦楽部に属するのは當然だが、和製洋楽のたぐいである流行歌や歌曲もこの部分に入る。」

 この「歌曲」というのは、「歌謡曲」の誤植ではないかと思われますが、ここでの「流行歌」とは、先に触れてきたような、マス・メディア以前の情報環境から民俗的な経緯で「うた」として「流行」してくる経緯までも包摂し、さらに加えて新たにレコードやラジオを介した商品音楽までもが等しく同時代の眼前の「うた」として渾然一体、茫漠としたまるごととして現前している総体といった意味ではなく、レコード会社が生産する商品音楽として「流行」してきた楽曲、という限定的な意味においてでしょう。

 この場で注意しておきたいのは、当時の「流行歌」や「歌謡曲」は、先の構図で言えば岩波文化的なものではない講談社文化的なものに属する通俗「大衆」の嗜好に投ずる「邦楽」の受持ちになってはいるけれども、しかしそれは「和製洋楽」である、と、さらりと言っていることです。マス・メディアに乗じてゆくことを属性として生産される商品音楽は「和製洋楽」、つまり「洋楽」のたてつけをとってはいるけれども、それはあくまでも「大衆」の嗜好に投ずることに役立つ言わば味つけ、隠し味としてのものであり、正真正銘生一本の洋楽ではない、という認識に立っての言い方らしい。ならば、自分はそこにもうひとつ、レコード会社の生産する商品音楽である以上、否応なしにまつわらせられてくる「広告・宣伝」の属性を加えることで、このなにげないもの言いのはらむ可能性を拓いてみたい。


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 彼が天啓を受けた、三越でスーザのマーチを奏でていたブラスバンドは、アメリカ軍の軍楽隊だったかもしれません。その響きは、「音」としてはそれまでにも帝国陸海軍の軍楽隊が演奏していたものと、そう変わらなかったでしょうし、昭和初年あたりまでなら、軍楽隊ならずとも民間の吹奏楽団が同じスーザのスコアを使って演奏することもあり得たかもしれない。何より、彼自身がスーザの名前と楽曲を聴き知っていた程度に、戦前、昭和初年の情報環境で「マーチ王スーザ」とそのマーチは、「モダニズム」「アメリカニズム」の一環として知られるようになっていたのでしょう。けれども、それは単に物理的な「音」だけでなく、それを聴いた敗戦後の三木鶏郎の耳にとって、それはある種の「うた」として、ココロやキモチを深いところで動かしてゆくような質を伴い響いていたはずです。そう、「音」もまた「うた」のかけがえのない要素であり、〈いま・ここ〉に現前してゆくために欠かすことの出来ない構成部品でした。

「ラジオというマス・コミュニケーションは、政府とか、与党とか、資本家とか、さては労組とか、特定の階層の代弁であった時、聴取者はそっぽを向く。それが国民全体の問題を取り上げた時に、大衆は絶対的にラジオを支持するのである。」(吉本明光「思い出の放送」、毎日ライブラリー『ラジオ・テレビ』月報、1954年)

 彼の事務所には、のちに若き日の永六輔野坂昭如らが集うようになっていったことも、すでに戦後史の挿話として知られています。その野坂自身、トリロー流の「広告・宣伝」流儀のCMソングをかたっぱしから引き受け、それらの歌詞を書き飛ばしていた頃のことを、こう言っています。

「芸術的衝動にかられたり、苦しい胸のうちを託したりして作詞しません。このことを忘れると、あなたはたちどころに栄光あるCMソング作詞者の座から堕ちて単なる詩人と化します。」

 「詩人」ではない、いや、むしろ「詩人」ではいけないのだ、CMソング作詞者は――これは当時のそれまで自明だっただろう「文学」一般、それらを雛型にした「芸術的」創作の作法自体を否定するマニフェストです。ある程度韜晦もあってのこととは言え、敗戦後一気に現前化したそれまでと異なる大衆社会化状況と、そこに確かに立ち現れている世間一般その他おおぜいのキモチやココロを真正面から相手取り、それらの意を迎えることを稼業とする立場にとって、従来の「芸術的」創作に規定された自意識は鈍重で、ものの役に立たないものに見えていたのでしょう。「うた」もまた、そのような情報環境の転変の裡に、水が器に沿うように姿を変えてゆきます。