「国際情勢」を語る話法、その静かな変貌

 一時期、やたら取り沙汰され、とにかく理屈抜きにいいもの、正しい方向として喧伝されてきていた、あの「国際化」とか「グローバル化」といったもの言い、スローガンも、さすがにもう胡散臭いものというイメージがつきまとうようになってきたかも知れません。ウクライナへのロシアの侵攻に始まった戦争、ハマスによるイスラエルに対するテロ攻撃とそれに応じたガザ地区へのイスラエルの反撃、紅海での通商破壊行為……いや、そんな海外ニュースレベルの話でなくとも、国内における外国人犯罪の増加や治安の悪化など、考えてみれば半径身の丈のごく身近な範囲から「国際化」「グローバル化」の〈リアル〉は否応なく、平等に日常に浸透してきています。そういう意味で、これまでと違った身近さ、日々の生活意識や感覚のレベルで 「世界」を意識せざるを得なくなっている。

 そういう状況に対応するという意味もおそらくあるのでしょう、テレビや新聞、雑誌などでそれら「国際情勢」を解説する専門家としての学者、評論家といった人々にも、これまでとは違う新しいタイプが、若い世代を中心に出現し始めています。

 たとえば、学者・研究者系でも、国際関係論、地域研究、軍事研究といった分野に足をつけた人たちが主流になっている。これまでならどこかあやしいもの扱いされていた地政学的な知見でさえも、割とすんなり混ざってくるようになっています。ウクライナの一件がひとつきっかけだったところがあるらしいのは、そもそもロシア自体がこれまでのそういう「国際情勢」報道においても盲点というか、かつてのソ連時代以上に実状がうまく見えなくなっていたところがあった上に、前世紀的な絵に描いたような「侵略」をいきなり始めたあたりで、本邦国内における「国際情勢」報道のこれまでのルーティンではもう何もうまく説明できないことが、さすがに明らかになったことが大きかったのでしょう。

 もちろん、それが商売に直結していた商社や輸出入に関わる仕事の関係、さらには外務省や防衛省その他、国政に関わる政策立案や安全保障の関連部署などは言わずもがな、「国際情勢」をできる限り正確に把握しようとすることが命綱だった仕事はこれまでもあったし、今もある。そのような立場にとって「国際情勢」を知るための手立ては、技術の進展や情報環境の変化に伴い、常にアップデートされているものなのでしょうが、ただ、それらとは別に、われら世間一般その他おおぜいレベルでの「国際情勢」というのは、たとえ「報道」などマジメな態をしながらであっても必ず娯楽、エンタメ的な消費を旨とする、いわば「おはなし」のコンテンツでした。そして、そういう舞台で「国際情勢」を語ってくれる専門家というのは、必ず「文化」や「芸術」を下地にしたそれら外国理解、世界の手ざわりを提供してくれるのがお約束だったように思います。

 ソ連ならばロシア文学、それこそドストエフスキートルストイからソルジェニーツィンなどに至る間尺で、もちろんマルクス主義や左翼思想も必須の素材でしたし、それらをもとに「文化」として、時には「民族性」や「国民性」として対象を理解する下地があった上に初めて、「政治」や「経済」「軍事」など時事的話題がトッピングされる。フランスだとフランス文学から芸術、美術の類、あるいはイギリスであれドイツであれアメリカであれ、はたまた中国やベトナムその他の非欧米圏であっても、「文化」や「文学」経由の「国民性」的な理解の文脈は、「国際情勢」の主役である「海外」「外国」を知ろうとする際、必ず前提になっていた印象がありますし、また事実、そのような語り口を持つ専門家や評論家がメディアの舞台では主流でした。

 なのに、昨今、メディアに露出するようになった新しい世代のそれら「国際情勢」の専門家や学者たちの語り口やたたずまいなどには、そういう「文化」「文学」的な下地はどうも感じにくい。それは、彼ら彼女らが立脚する国際関係論や地域研究といった分野自体の属性なのかもしれませんが、メディアを介した「おはなし」として「国際情勢」や「海外」「外国」を受け止める世間一般その他おおぜいの側にしても、それら「文化」「文学」的な下地の受容体がこれまでのように機能しなくなっているのかもしれません。それはおそらく、外国についてだけでなく、他でもない本邦国内の情勢に対する理解の仕方、わかり方、説明の仕方についても、同じような変化が起こりつつあると考えていいのでしょう。

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*1:このへんのお題とも関わってくる話、だとは思う。king-biscuit.hatenadiary.com

読み書きと「わかる」の転変



 最近、おそらくは老化がらみでもあるだろう事案ですが、あれ、これはひょっとしたらヤバいかも、と思っていることのひとつに、「横書き」の日本語文章が読みにくくなっているかもしれないこと、があります。

 いや、読むのは読めるんだけれども、腰を据えて精読してメモを取りながら読む、といった作業がどうもうまくできない。そのような本腰入れた「読む」、つまり「読書」と仰々しく呼ばれてきたような「読む」の作法は、やはり「縦書き」の、それも具体的なブツとしての紙媒体に印刷された文字列を相手取らないことには、慣れ親しんできた調子を伴う仕事にならないらしい。

 むろん、昨今の情報環境のことであり、それら読まれるべき文字列は、モニター画面に映し出されるテキスト情報だったりするのが大方なわけですが、これまで紙媒体の「横書き」もそりゃ読んではきたし、精読やメモ取りつつの作業にもそれなりに対応してきたつもりで、またそれで特に不自由を感じた記憶もなかったけれども、それがモニタ介して映し出される「横書き」の文字列になると話が違って、単に眼を通して流し読むくらいが精一杯になる。こちとらの脳みそとやりとりしながら行ったり来たり、時に気づいた単語や事項から脳内であれこれ枝葉を繁らせてみたり、そこから他の資料をあたってみたり、そしてまた眼前の文章に立ち戻って意識を合焦したり、といった、いずれ単線的な過程には決してならないような千鳥足あたりまえの「読む」が、うまく自然にできない。

 じゃあ、「書く」方はどうかというと、それはもうとっくに「横書き」でないとできなくなっている。もちろん、それも手書きでなく、キーボードを介したタイピングという作業を介して打ち込まれる文字列をモニタ上で確認しながら、ですが、そりゃあ、いまどきソフトやアプリの設定次第、縦書きの表示もできるし、モニタもくるっと回転させれば横長表示に対応できるのだけれども、でも、やはりモニタ上の縦書きというのもどうにもすわりが悪いもので、他の人は知らず、少なくとも自分はうまくなじめないまま。ならば、手書き肉筆での「書く」はどうか、となると、ああ、こちらも横書き、それももっぱらメモやノート、現場仕事の走り書きくらいになっていて、ある程度まとまった分量の文章を手書きで書きつづることは、思えばもうしなくなってずいぶんになる。ましてそれを縦書きで、と言われれば、ごめんなさい、ご勘弁を、と言わざるを得ません。その一方で、「読む」、それも精読的に自己言及的な過程も含みながらの千鳥足の道行きで読む方だけは昔ながらの「縦書き」の、それも紙媒体ベースの文字/活字を介してでないとうまくできない、という現在。こうしてあらためてほどいてみると、われわれの読み書きのありよう自体、個体差や環境適応度の違いなども含めて、いろいろとねじれてゆかざるを得ない状況にあるようです。*1

 確かに、単に目を走らせてさっと読む程度の「読む」、いわゆる速読的なものさしからすれば効率的だろう読み方についてなら、こんな自分ですらすでに横書きの方がスムースな気はします。まさに「速度」優先、単なる表面的な情報摂取の効率性で考えるのなら「横書き」の方が合理的ではあるのでしょう。このあたりでもう「読む」の意味が違ってきている。なにせ是非はともかく「行間を読む」なんてことが小学校以来、国語の授業で言われてきた世代でもあり、まさにそういう眼光紙背に徹するような読み方、眼前の紙媒体の文字/活字に正対し、時間も手間もかけて精読してゆくことが「読書」の本義である、といった考え方が骨がらみにこの身にも刷り込まれているらしいことに、いまさらながらに思い至ったりしました。

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 いまどきの若い衆世代の読み書き――この場ではとりあえず「読む」の方に合焦しておきますが、そのようなわれわれが身に刷り込まれてきたような「読む」とはまた違う文字/活字の読み方をしているらしいことは、学生たちとつきあう中で、以前から何となく気づいてはいました。それは単に文字/活字の読み書きだけでなく、身体を介して摂取する外部情報一般に対する解読の仕方の違いにも関係しているようで、それによって現実の編制から〈リアル〉のありようにまで、そうとはうまく可視化されないまま、でもかなり深刻な違いがすでに同じこの日本語を母語とする同時代環境にはらまれていて、そのことはそろそろ日常あちこちで、さまざまな形で指摘され始めています。

 たとえば、これは、とあるSNSでの書き込みの一端。

「頭の良くない人って、テキスト読ませると「書いてないことを読み上げる」んだよね。てにをは、接続詞、助詞など細かいところまで丁寧に拾って読めないの。雰囲気で読んでるの。だから私は家庭教師や塾講師、知人の子の勉強を見る時はまず一番最初に「教科書声に出して読んでみて」って学力チェックする。」

 「雰囲気で読む」というのは言い得て妙ではあります。でも、その程度のことならば、小学校の頃でも、よくわからない漢字や意味を知らない単語の混じる文章を読まされる時、適当に飛ばしたり、あるいは自分勝手に意味を想像して文意をつないでみたり、といったことはやっていた。いや、ある程度成長してからも、似たようなその場のとりつくろいは、黙読であれば脳内でそれなりに要領よくやってもいたでしょう。「わかったような顔をしてやりすごす」というやつですが、ただ、それをそのままほったらかしにしないで、あとで辞書を引いたり、他の資料とつきあわせて穏当な意味を知ったり、まあ、事後に不具合部分にパッチを当てるように修正してとりつくろってゆくことを、日々生きてゆく中である程度自然にやってゆく、そしてまわりも陰に陽にそうさせてゆくような空気を共有していたのも、少し前までのわが国の世間ではありました。

 けれども、昨今の若い衆は必ずしもそうではない。その「雰囲気で読む」を修正してゆく過程をちゃんとくぐることもなく、むしろその手癖がうっかり温存されたままになっている。精読的な「読む」の稽古を一定の時間をかけて積み上げてゆく過程が、それをよしとする空気と共に、どうやら学校はもとより、家庭も含めてわれわれの社会そのものから失われつつあるのかもしれない。だから、声を出して読ませる、音読させて読み上げさせてみる。すると、つっかかったり、口ごもったり、書かれてある通りに読めていないことがその場で可視化され、同時に本人にとっても、どこがどのようにブラインドになっていて、その文章の「わかる」から遠ざけられているのかも見えてくる。なるほど、これまでも何度か触れてきた、音読、朗読による自省の効果、ではあり、これをさらに教育手法として尖鋭化させれば、未だ言葉も意味も宿らない「頑是無い」頃から先生の発する音声としての漢文脈の、定型詩的な「うた」の響きも伴う『論語』などをただひたすら繰り返し復唱させていたという、あの「素読」にも通じてくるわけですが、それはともかく。

「「頭のよくない人は文章を『書いてある通りに』読み上げられない。」これねえ、「絵を描けない人が『見たままに』描けない」とか「運動音痴の人が『お手本通りに』体を動かせない」とか「音感リズム感が壊滅的な人が『聴いた通りに』歌えない」とかに近いものがあると思うんだよ。「書いてあるとおりに読みあげることができる」は確かに理解度のバロメーターではあるのだけれど、「理解していれば必ず書いてあるとおりに読み上げができる」とは限らないことは「見たまま描けない」や「手本通りに踊れない」と似たようなものだからさ。文章の読み上げって「楽譜を見て歌を歌う」みたいなもので「正しく読み取りができるからと言って必ずしも正しく歌える(読み上げができる)とは限らない」し、「正しく歌えた(読み上げができた)からと言って必ずしも『楽譜(文章)を理解できている』とも限らない」からややこしいんだよ。」

 これ、つぶやいているご本人は無意識だったかも知れませんが、うっかりと大事なことを言っている。ここで言われている「読み上げ」は単なる音読というよりも、朗読に寄せた内実を持っているもので、「身体を動かす」「歌う」「踊る」と並列に語られています。ということは、この場合の「読む」は単なる平板な音読ではなく、身体的なリズムや調子、もしかしたら音声的なピッチやトーンといったものも含んだ意味あいの、まさに「うた」と地続きの所作であるという認識を示しています。だから、同じく言われている「理解」もまた、静態的な活字/文字の文章の意味をフラットに解釈することだけでなく、それらも含めてさらに豊かな、複合的、重層的な意味を多様にはらんでいる上演的な「読む」を介して、「うた」とも地続きな動態的な特性を引き出し得るものである、という内実を含んだものになる。そう、「読む」とは単なる音声化ではなく、それを読む生身の主体の個別具体のありようと常にどうしようもなく紐付けられた所作だったはずなのです。

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 このような「理解」――あるいは「わかる」と開いた方がよりしっくりくるかもですが、それはしかし、そこに至る過程やそれを支える情報環境などのたてつけも含めて、いまどき若い衆世代の読み書きのリテラシーに最適化されたそれとは、すでにもう別のものになっているようです。

 たとえば、ラノベと呼ばれるジャンルの創作物の文体の、何というか、あのすっ飛ばし具合。まあ、いまやそのラノベすら読みもの商品として過去のものになりつつあるという話も転変激しい出版業界的にはあるようですが、少し前、まさにそのラノベ世代の学生たちに手ほどきされながら、臆さず首を突っ込んで七転八倒してみた自分など老害化石脳世代に実装されて久しい「読む」と「わかる」からすれば、そこで文字化されている文章の向こう側にあるはずの作品世界は、まず圧倒的にスカスカに感じるというのが第一印象でした。でも、そのスカスカ具合、すっ飛ばし具合によって獲得されているらしい「速度」のようなものに何か感じるものもあるらしい、それもまた、ふだん見慣れぬ場所につれてこられた保護猫のように固まっていた彼ら彼女らが珍しく饒舌になる、その口吻から察することができました。それは、その頃からすでに少しずつ言われ始めていたような、若い衆世代のリテラシーの特徴として「おはなし」が読めなくなっている、あるいは「先の読めない、見えない」筋書きに対する拒否感、嫌悪感が蔓延し始めている、といった現象ともからんでいたように思います。

 確かに、文字のテキストではある。でも、いわゆる文章というわけではなく、書き手の脳内に何らかの映像的な情報に依拠した「流れ」があらかじめあって、それを要所要所でうまく「流してゆく」ために文字が使われている、うまく言えませんがそんな印象でした。つまり、映像的な情報――イメージであれビジョンであれ、とにかく「素材」としての「ビジュアル」的な情報が一次的なものとして、たとえ漠然としたものであれ複数浮遊していて、それらを適宜並べ替えたり挿入したりしながら何らかの「流れ」を作ってゆくことが創作作業の本体らしい。その限りにおいて、文字で書かれたテキストは創作の本体ではなく、言わばひとつのパートに過ぎず、むしろイメージ群の「流れ」をうまく加速し、煽り、必要に応じて統合してゆくための補助的なツール、といった感じに位置づけられているようでした。

 かつて、雑誌の誌面がデザイン先行になって、写真やイラストなどの「ビジュアル」的情報を中心に誌面が「デザイン」され、文字情報は「キャプション」「コピー」的な扱いになっていった時期を思い出しました。あるいは、テレビで池上彰が語っているニュース解説番組とか。あれもまた、いまどきの「わかりやすさ」に適応した文法・話法で作られています。映像的というか、視覚的な「パッと見て全体把握」っぽい認識力が前提で、これを伝えるためにはここと、ここと、このへんをだいたい「おさえておけば」「何となく全体の雰囲気」は「わかる」といった感じのゆるさに沿ってまとめられている、言ってみればそういう種類の「わかりやすさ」。それが、いまどきの視聴者側との間に最大公約数的に共有されている限りでの「わかりやすい解説」になっている。

 これはあるいは、かつて「テレビ的」という言い方で雑に表現されてきたようなものとも、時代を超えて地続きなのかもしれません。

「テレビの用いる話法で最も苦手なのが説得である。テレビの基本的なレトリックは視聴者が全て同類で均質だという前提で成り立っている。なので、テレビでの説得は、現在テレビで主張されていることは全ての視聴者に承認されているという前提でなされている。しかし、これは広告の手法としては有効だが、説得とは何の関係もない。テレビの説得はまず視聴者の承認を得ようとすることから始まり、結局そんなことは不可能だし威信にも関わるから、彼らを刺激して忘れられぬようにできればいいというところに譲歩して落ち着くのが常である。」(R.デニー「「リアル」と、より「リアル」」、『ミューズのおどろき――大衆文化の美学』所収、紀伊國屋書店、1963年)

 そのいくつかの「おさえておけば」のポイント以外の隙間の部分は、スカスカでも構わない。全体の「絵」としての「雰囲気」と輪郭程度がわかればいい。そのスカスカ部分にもあるはずの細部をいちいち言語化して詰めてゆくようなリテラシー――ポイント同士の「関係」がどうとか、まだ別のポイントがたくさんあるのでは、とか、そうやって「絵」の「解像度」をそれこそピクセル単位な細部の個別具体を積み上げてゆきたがるような文字/活字ベースの精読的な「わかる」リテラシーはノイズでしかないし、第一そのようなところにいちいち焦点を合わせて処理してゆくのは時間も手間もかかって非効率的、それこそいまどきのもの言いで言うところの「コスパ/タイパ」がよろしくない。だから「関係」≒「文脈」は後景化させるし、その瞬間その瞬間での反応ごとに「わかる」になる「絵」が明滅し続ければいい。「コツコツ」「地道に」「積み上げる」ような過程や時間といった軸もまた希薄化してゆく道理で、瞬間だけバズればよし、それが持続可能かどうかは関係ない。

 だから要するに何なんですか、早く結論だけ教えてください、といった要求を、さも正しいことを言っているといった賢しら顔で口にする学生が、ある時期から毎年、一定数出てくるようになりましたが、そういう彼ら彼女らの意識と、それら「わかりやすい」を支える意識はまず同じもの。結論や結果、そういう「正解」さえ手っ取り早く手に入れられるなら、それが一番「賢い」やり方だし、そうしなければ競争に負ける。

 「つまり、効果として最も優れたテレビの広告宣伝というのは、とにかく悪目立ちするほどに恥ずかしく破天荒な代物に多くなる。このように、テレビの説得は「みんな≒その他おおぜいという視聴者像」をあまりに信じすぎていて、人間を越えたものの存在を信じるエネルギーを失ってしまっている。」

 そういう意味では、とにかく文字「だけ」で「描写」する、といった一点集中的で時間をかけた精読と積み上げを前提として形成される文字/活字のリテラシーがあたりまえに主流だった情報環境から、若い衆世代はすでに離脱し始めているわけで、「うた」もまた、その転変に伴って、姿かたちを思いもかけぬものにしているのでしょう。

八代亜紀「うたに感情を込めない」、のこと

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 1月10日のスポーツ紙朝刊、八代亜紀の訃報が、まるで阪神優勝の勢いで特大の色刷り活字の見出しの乱れ打ちと共に右へならえ、横並びの潔さで躍っていました。

 ああ、それほどまでに、本邦スポーツ紙の想定読者層にとっての八代亜紀、いや、より丁寧に言うなら、八代亜紀に代表されるような「うた」の記憶は、いずれ十人十色、それぞれのお好みのままに散りばめられたプロ野球の贔屓球団の優勝沙汰と同等ほどに大事だったということであり、そしてスポーツ紙各社とも、世間一般その他おおぜいの心映えを相手の稼業としての矜持と共に、その手ざわりを輪郭確かに未だくっきりと持っていたということなのでしょう、令和6年、来年は昭和百年を迎えるといういまのこの時期この時代、この情報環境においても、なお。

 こういう有名なよく知られた、それも芸能人が亡くなると、メディアの舞台に追悼企画がたくさん出る。テレビはもちろん、新聞や週刊誌なども含めて、昨今だとweb上の媒体も同じく。そんな中、彼女にまつわる挿話や発言が断片的にいくつも目の前を通り過ぎてゆきます。

「私は今の若い人の音楽はすごくかっこいいし、すごいとと思うの。ただ今のヒット曲というのは、世代ジャンルが細かく分かれていて、かっこいいし嫌いじゃないけど歌えないのよね。私たちの時代は、世の中が歌っていた時代だから。

ひと昔前までは日本でも街中に音楽が溢れていたのよ。ほら、おじさんたちが、酒の力を借りて歌いながら歩いていたでしょう(笑)。日本のおじさんたちにも、もうちょっと街中で「うぇ~い」って音楽を奏でて欲しいわ。」

 「うた」と世相の移り変わりについての把握、認識が、身についた的確さです。断片的だからこそ、余計にそれが際立ってくる。不特定多数のその他おおぜい、つまり「大衆」ですが、それらに生身を介して対峙し続けることが稼業となっていた人がた特有の、そういう種類のもの言いの確かさ。そんな中で、こんな断片も流れてきました。

 「八代亜紀さんと言えば「歌に感情を込めない」が信条。「感情を込めると、歌は歌手自身のものになる。しかし感情を込めず曲の世界観だけを伝えると、聴き手がそこに自分を投影する」。銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが泣き出したという。

 これは彼女の直接的な発言でなく、何らかの伝聞、記事その他の報道を介して知った匿名子による間接的な挿話という形です。元の記事など参照元がわからないので、どこまで正確なものかは不明だし、何よりいまどきのSNS環境で日常のおしゃべりのように「つぶやかれた」言葉、挿話としてのまとまりにどれだけ確かな背景があるのかなどは探るだけ野暮というもの。ただ、この匿名子によって「感情を込めず曲の世界観だけを伝える」と「翻訳」されたこと、そこに期せずして込められた何ものか、というのも「うた」の現在を考えるひとつの糸口にはなるような気がして、少しいろいろ手繰ってみました。すると、元になった情報が何となく、これもまた匿名のたわいないおしゃべりの中に。

 「八代亜紀が歌唱について「歌に自分の感情を乗せすぎては駄目。プロの歌は聞く人のものなので、聞いた人が自分の感情乗せられるスペースを空けておかないと」って言ってて、実際に感情をすごい乗せた歌と普段の歌を歌い分ける、ってのをテレビでやってて、本当に普段の歌の方が感動的だった。これテレビで見た記憶があるので、僕の生活にテレビがあった時期を考えると20年以上前なんだけど、番組名とかわかる人いないかなあ。どっかに動画がないかなあ。」

 新聞や雑誌の活字の記事でなく、テレビの番組だったらしい。すると、ああ、これもいまどきの情報環境のありがたいところ、別の匿名子がこんな情報を投げてくれていた。

「歌に感情は込めない。八代亜紀「感情を入れると、自分の心も出ちゃうわけですよ。歌手の人の人生観とか出ちゃうわけですよ」「歌は代弁者じゃなきゃいけないと私は思うのね。聴く方の代弁者。自分のことを歌ってくれてありがとう、って思われちゃわなきゃいけない」/『先輩ROCK YOU』2/21 」

 番組名とおぼしき部分などからさらに手繰ると、どうやら日本テレビ系列の『心ゆさぶれ!先輩ROCK YOU』という番組に行きあたった。2010年から5年間ほど、土曜日の夜11時台に放映されていた30分番組らしい。ちなみに、同じ帯の前番組が『恋のから騒ぎ』で、あと番組が『マツコとマツコ』だそう。その放映期間の最後の方、2015年2月21日に八代亜紀が登場していた記録があった。

「演歌SP!ベテラン八代亜紀VS大注目若手の山内惠介▼意外すぎる八代「歌に感情は入れない!」▼こぶしって何なの?大きく回したい派?▼哀しい女の裏の顔で…歌の心知る【MC】大東駿介木南晴夏/加藤浩次 【ゲスト】八代亜紀山内惠介 演歌SP!ベテラン八代亜紀VS大注目若手の山内惠介▼意外すぎる八代の「歌に感情は入れない!」感情入れると気持ち悪い?をスタジオで実証!」

 いくつか放映時の動画とおぼしきものがあげられているサイトも複数あったのですが、権利関係からクレームがついたのか、残念ながらリンク切れしていたので動画自体では確認できませんでした。ただ、周辺の断片情報を総合すると、この番組の中で「感情は入れない」という趣旨のことを彼女自身、言っていたらしい。いわゆる演歌につきものとされる「こぶし」について話題にした部分があり、「歌の間に挿入される音の波、余韻でしょうかね」と彼女が持ち歌の「舟歌」の一節を歌って例示、でも彼女自身は、「こぶし」が苦手、との発言もあった由。そこでは、古賀政男の譜面には「こぶし」が反映されていて、譜面通りに歌えば「こぶし」になった、とかの挿話もあったようで、このへん、もともと浪曲における演者の個人的な「味」として、いわば余白的な部分に許されていたアドリブ風なフシだったことや、それを「個人」としての演者の属性として認識してゆくようになっていった聴き手の側の「耳」のありよう、あるいは、秋田實の漫才「台本」のつくりなどと引き比べての同時代的な符合などいろいろと連関想起され、これはこれですごく興味深い話なのですが、それはともかく。

 歌に感情は込めない、という意味のことをこの番組で彼女が発言したとすれば、おそらくその「こぶし」の段のあと、下積み時代に銀座のクラブ歌手をやっていた時のことが話題になったあたりだったのでしょう。これはそれまでも彼女の一代記的なインタヴューで必ず語られる「おはなし」になっているのですが、でも、「感情は込めない」というような踏み込んだ言い方は、少なくとも活字の情報の範囲ではこれまで彼女はしていない。でも、番組紹介のコピーに前掲のように「意外すぎる八代の「歌に感情は入れない!」感情入れると気持ち悪い?をスタジオで実証!」とまではっきりうたわれていることからすると、自身で歌い方を比べてみせるシークェンスまで含めて、当日のスタジオであったのでしょう。確かに、ものすごく見たい、そして聴いてみたいものです。

 「こぶし」が苦手、というのが本当だとすれば、なるほど、そういう意味で演者、歌い手「個人」としての必要以上の顕示欲のようなものは、意識的に抑制していた可能性も含めて彼女、八代亜紀には薄いままだったということかもしれません。「感情」とは、そのような「個人」としての意識的、自覚的な表現の領分だと仮に解釈しておくならば、彼女の「うた」とは、つまり商品音楽として市場を相手にしていた楽曲の上演に際してのありようとしては、そのような「個人」の領分を捨象したものだったということになります。

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 だからこそ、「代弁者」という言い方にも、また少し別の何ものか、が含まれてくる。

 先の番組紹介のコピーの部分、「歌は代弁者じゃなきゃいけないと私は思うのね。聴く方の代弁者。自分のことを歌ってくれてありがとう、って思われちゃわなきゃいけない」というのも、番組内での彼女の発言を概ね切り取ったものだと思われますが、自分は「代弁者」に過ぎない、いわゆる表現者というよりも代弁者なんだ、というような意味のことは、確かに彼女自身、違う場所でもそれ以前から割と言っていたようです。たとえば、こんな具合に。

「私の歌は「代弁」なんです。「私と境遇が似ている。よし、頑張ろう」と思ってもらいたいし、「自分が幸せだってことを忘れていた。この幸せを大事にしなきゃ」とも思ってもらいたいんです。」

 あるいは、これは今回、逝去が表沙汰になった後、新聞の追悼記事の一節。

 「彼女の歌手としての背骨を作ったのはクラブ歌手時代の経験だった。つらい境遇の女性たちと身近に接してきた八代亜紀さんの歌声に、彼女たちは涙したという。「そんな女性たちに寄り添い、『しんどいね』って慰めたり、励ましたりという気持ちで歌っています。私は歌の主人公になりきるのではなく、代弁者のようなものだと思っています」。生前のインタビューで語っていた言葉が印象に残る。」

 近年の彼女のインタヴュー記事で語られる自身の経歴は、どれも概ね「おはなし」としての骨子が整っていて、それは事務所のマネジメントのなせるわざということもあるでしょうが、それ以上に不特定多数の評判を糧に世渡りする玄人衆としての芸能人のこと、ましてその中でも長年、トップクラスに君臨してきた頂点のひとりの言うことですから、当然、何度も繰り返され、語り直されてゆくうちに「おはなし」としてのあるまとまりができていて、それは、たとえ元になる何らかの見聞や実体験があったとしても、その上で芸能人としての立ち位置を介して何度も語られてきた挿話は「おはなし」としてのたてつけを備えている、そのように考えるのが穏当でしょう。

 にしても、です。この「代弁者」という語彙を、幾多の個別具体のさまざまな境遇を受け止めて表現する立場という一般的な解釈を超えて、「(歌い手個人の)感情を移入しない」という意味も含めて彼女が言っていたとすれば、いろいろと話は重層的になってゆかざるを得ない。

 芸能表現としての抽象、あるいは普遍へ向けての手続きとして、そのような「感情を移入しない」という経過があり得るのだとしたら、そしてそれが世間一般その他おおぜいを市場として相手取る稼業としての持続性を担保する条件の重要なひとつだとしたら、「うた」が本来個人のものでなく、その個人が属する共同性、それこそ「皆の衆」と共にある表現だという場所に期せずして立ち戻ることになっていないだろうか。そしてそれは、時の大きな流れの中で、聴き手それぞれが自分自身の「個人」の表現としてだけ「うた」を受け止めるようになってゆくとりとめない過程と並行し、伴走しながら、でもやはり「皆の衆」の、「みんな」の表現としての「うた」の本来もまた、同時にこのような形で同時代に担保されるようになっていた、そういう牧歌的で楽天的な理解もまた、許されるようになっているのではないか。

 「自分がこういう歌を歌いたいとか、歌で自分自身を表現したいとか、そういうことは今まで一度も思ったことはないの。私は、表現者というより代弁者でありたい。自分の歌を聴いた人が、「これは私の歌だ」と、そう思ってもらえたら、そこに私が歌う意味があるような気がするの。」

 「お客さんは八代亜紀の歌を聴きたいだけなの。だから私はステージの上では、その歌の心を伝える代弁者であって、私はスゴいわけでもなんでもないの。歌う時は完全に八代亜紀。でも、トークのときは「あきちゃん」でいいと思う。世の中の人が見ている「八代亜紀」は「私」とは違うものだということは自覚しておかないとダメよね。」

 ありがちな有名人の、自分自身を見失わないための稼業上の知恵、人生訓的な自己認識とだけ受け取れるようなものですが、でもここは、先に見てきたように「歌に感情は込めない」とはっきり方法的に認識していたらしい彼女の「歌い手」としての自覚に敬意を表す意味でも、敢えてもう一方踏み込んだところで、「うた」という表現に関わる芸能者としての自己認識の水準も含み込んだ上での言明、ととらえるべきでしょう。「うた」としての感情は、自分という個人の敷居などを平然と越えて、聴き手である「みんな」の感情に連なるものだし、また、そうあるのが本当だ――無粋にほどいてしまうなら、そういう認識。


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 もっとも、これもまた、わずかな断片からの気ままな当て推量でしかないですが、この「感情を込めない」ことを自覚してゆく過程では、女子刑務所へ慰問に行くようになった際の体験がひとつ、契機になったフシもあります。

「初めて女子刑務所に行ったとき、私は歌えませんでした。サンダルを履き、番号で呼ばれる彼女たちが、私を一目見て嗚咽している。こちらも涙がこみあげてきて、なかなか歌えない。初回は散々でしたけど、感情移入しているだけではいけない、それよりも支えることを徹底しないと、と思い直しました。」

 最初にあげた匿名子のつぶやきに含まれていた「銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが泣き出した」という挿話は、むしろこの後年、女子刑務所での体験が色濃く複合してのことなのかもしれません。「うた」が個人的な表現でなく、聴き手の側の共感や思い込みと共にある、つまり「皆の衆」の意識や感覚、情感などと共にあるものだ、というこの認識の仕方には、その聴き手の側に彼女が提供する楽曲に感応するだけの何らかのリテラシー、「うた」を共に立ち上げてゆけるだけの条件が備わっていて初めて可能だったことでもある。銀座のクラブ時代の聴き手として、フロアのお客よりもむしろホステスたちの方によりはっきり合焦して意識していたように見えるのと同じく、女子刑務所の女性受刑者たちを聴き手として眼前にした時に思い知った「感情」の無力が、彼女の「うた」に対する方法的自覚を覚醒させる引き金になっていたかもしれない。そう考えれば、かつて10代の頃、バスガイドをしながら夜は地元のクラブで歌っていたのが発覚し、父親の「勘当だ」というのを振り切って熊本から上京、親戚の家に寄宿しながら音楽学院に通うも挫折、銀座のクラブで歌っていた頃の、彼女の「おはなし」の中でもひとつの山場として定型になっていた挿話群も、また違った相貌で眼前に立ち現れてきます。


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 「よそのクラブのお姉さんたちが「あきちゃんの歌を毎日聴きたいから」って、自分のお店を辞めて、私が歌っているお店に移ってくるぐらい(笑)」

 「ホステスのお姉さん達がレコードを出しなさいと強く後押ししてくれたの。「あきちゃん、私たちはあきちゃんの歌を毎日タダで聴けてうれしいけど、でも、世の中には私たちみたいな悲しみを背負った女性がたくさんいるからそういう人たちにあきちゃんの歌を届けてあげてほしい。だからレコードを出さないとダメよ」って。」

 「表ではとてもキレイなんだけど、裏にまわれば、給料を取り立てに来るお父さんや彼氏がいてね。そんな女性たちに「アキちゃん、私たちみたいな女性があちこちにいるの。だからさ、レコードを出して、そういう人たちにもあなたの歌を届けて」って言われたんです。」

「銀座で歌っていた18歳のときから、ホステスのお姉さんたちが『自分のことを歌ってくれているよう』と泣きながら聴いてくれていたの。涙を見て『これが女心なのか』と教わりました。そのときからかな。私は表現者じゃなくて、自分の経験を重ねて聴いて下さる方の代弁者でありたいと思うようになりました。」

 聴き手として前景化されて語られているのは、どうやら常に女性であること、その上での聴き手それぞれの境遇や感情が「うた」という媒体を介して彼女の側に投げ返され、合焦されるようなたてつけになっていること……巷間思われているような「演歌」の歌い手としての八代亜紀の持ち歌の多くが、まさにその「演歌」のある時期以降の定型としての「男と女のこと」を主題としたものだという概ね世間の理解通りのものだとしても、同時代の商品音楽としての彼女の楽曲たちが「うた」本来のありようとして本邦の「みんな」の裡に宿してきたものは、それら通りいっぺんの通俗的なわかり方とはまた別の、より民俗的な水準も含めた歴史――いや、ここは敢えてそんな野暮な語彙でなく「経緯来歴」と意図的に言い換えましょう、そのようなとりとめない領分にまでうっかりと手を伸ばしていたようです。


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 追伸。今回、それら八代亜紀をめぐる断片をあれこれ手繰り寄せている中、こんな断片にも遭遇しました。

 「以前、マーティ・フリードマンさんにインタビューした際、ギターソロで八代さんの“舟唄”などの演歌をプレイする理由について聞きました。マーティは「演歌の間奏には、必ず歪んでいるギターがある。メタルと演歌は、その歪み方が似ているんだ」と言っていました。」

 遠くちらちら灯りがゆれる――寿々木米若「佐渡情話」三門博「唄入り観音経」*3を引き合いに出しつつ、その気分を「スイング」に、あるいは「ロック&ロール」に重ねてみせた、とある先達たちの仕事をあらためて思い出させてくれたのも、彼女のおかげ。ひとまず、合掌ということで。*4

*1:個人的には、かつて宅八郎が当時の森高千里のフィギュアに入れ込んでいたことや、「おたく」第一世代的心性にとっての「アイドル」のある意味空虚さ≒「内面」や「感情」といった「個」をうっかり具体的に想像させるような要素を消去している形象、のこと、さらには、それらの心性が個体に「内面」「心理」を「読む」ことが、そのようなリテラシーの大衆的・通俗的実装過程と共に、それに対する否定的媒介wとしてそれら「おたく」的心性もあった可能性、などなど、これまでのあれこれお題群とどこかで連携してゆくような気がして、要継続審議のお題のひとつにとりあえずしておく……240112

*2:上記関連、ゆるくご参考的に。 king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

*3:さっそくご指摘あり、訂正訂正。こういうボーンヘッドの凡なポカ、相変わらずである。自省自省。

*4:

和解成立に際して (記者会見リリース)

*1
 2020年6月29日付けで、札幌国際大学より「懲戒解雇」を申し渡されました件について、本年2023年2月16日に札幌地方裁判所で出された一審判決を不服として大学側が提訴していた控訴審ですが、本日、大学側との和解が成立しました。

 和解内容、および和解に至る過程については口外しないこと、という項目が和解条項に含まれており、詳細はお話しできませんが、自分としては満足とまでは言い難いものの、地方裁判所での一審の判決内容や、控訴審となった高等裁判所でのこれまでの審理の経緯、さらに、すでに3年6ヶ月という長い時間をかけての係争になっていること、また、どちらにしても来年3月末で正規の定年期日を迎えることになるという事情などを踏まえれば、現時点ではそれなりに納得のできる内容だと判断し、和解に同意したと思っていただいて構いません。

 あのいきなりの「懲戒解雇」以来、すでに3年6ヶ月もの時間がたち、当時大学に在籍していた学生たちのほとんどは卒業していなくなり、また、教職員も多くが入れ替わっていて、あの頃、学内で何が起こっていたかを知る者ももう少なくなっています。さらに、当時自分が在籍していた学科さえもその後いきなり廃止され、現在はその清算の最後の段階にあるようです。それでも、当時、学長としてこの留学生入試をめぐる問題に全力であたられていた城後豊さんの名誉の実質的な回復という意味でも、この和解は意義があると思いますし、また、自分ごととしても、これで長い間大学の研究室等に置かれたままだった本や資料などをようやく手に取ることができ、大学教員としての自分のささやかな経歴の最後の後始末のための3ヶ月という時間ができたことについて、ひとまず喜んでおくことにします。

 これまで代理人として弁護していただいた房川・平尾法律事務所の房川樹芳弁護士、平尾功二弁護士、また、陰に陽にご支援いただいた北海道私大教連や北海道大学教組、京滋私大教連他、全国の大学教職員組合の方々、さらに、直接間接問わず、さまざまな機会に激励していただいた教え子たちや、未だお眼にかかったことのない方も含めた全国の多くの方々に、この場をお借りして深くお礼を申上げます。本当にありがとうございました。*2

「詩」とは、あたりまえに「うた」であった



 前回、「美術」「芸術」に対して、ずっと抱いていた敷居の高さのようなものについて、少し触れました。せっかくなので、そのへんからもう少し、身近な問いをほどきながら続けてみます。

 あらためて思い返してみれば、同じような敷居の高さ、距離感といったものは、そもそも「文学」に対してもありました。

 なに言うとる、おまえ、かつて大学へ行こうと思った時に文学部志望しとったやろ、というツッコミが自分自身に即座に入るようなものですが、でもそれは、当時のケツの青い地方のボンクラ高校生だった自分にとって、正直まだ正体もよくわからない「大学」という場所に行こうと思った際、選ばねばならなくなった志望先として目の前に並んでいた法学部だの経済学部だのといった、なにをどう勉強するところかもよくわかっていなかった大文字の看板掲げていたその他の学部よりは、まだかろうじて居場所がありそうな気がしたのがそこだった、というだけの話。

 同じく、その「文学」という看板そのものに何か仰角の視線を抱けていたわけでもありません。そもそも部活動からして、文芸部だの美術部だの文科系のそれとは、そこに素直に身を置いている、置けてなじめているような人たちへの疎外感含みの距離感と共に、しょせん縁なき衆生でしかなかった。要するに、単に気の向くまま、興味関心の趣くまま勝手に本を読み、その中にはいわゆる小説その他、文芸作品も混じってはいたけれども、だからといってそれをそのまま「大学」に掲げられていたような「文学」という大文字のもの言いと重ねて考えていたわけでもなく、ましてそれを自分の進路や将来と結びつけて想像するような大それた下地は、自分の中にはほとんど持ち合わせがなかったということになります。

 それとどこか似ているのかな、と思うのは、「うた」が広い意味での詩歌――この語彙自体、学校で教えられて初めて知ったものでしたが――であることは漠然と教えられていても、学校のたてつけで習う短歌や俳句なども同じ「うた」であることは自分事として考えられなかったこと。「音楽」の時間の唱歌や合唱、その延長線上にあると思ったそれこそ流行歌や歌謡曲、アニメ(当時は「テレビ漫画」)の主題歌などまでが普段接してそのように認識している「うた」であり、それは自分自身が実際に声を出すことも含めて想定され得るようなものでしたが、でも、だからといって「国語」の時間に教えられ紹介される短歌や俳句、漢詩といった表現を自分が発声することは想定外、授業の枠内で促されたとしても、それは教科書に書かれた文字をそのように「よむ」ことの一環であって、「うたう」ではありませんでした。

 一方で、それら詩歌は「文学」という箱に収納されるもの、ということも教えられて知ってはいた。だから、文学史の間尺で短歌や俳句の定型詩も、教科書に載っていてそういうのが「詩」だと普通に思っていた口語自由詩も、「文学」という箱を置いてみればみんな同じく詩歌である、と機械的に覚えてはいました。けれども、それを本当に地続きのものとして、わが身の表現として考える素地は宿っていなかった。それはたとえば、いわゆる芝居や踊りといった領分、ダンスであれバレーであれ、あるいは舞踊や舞踏の類であれ、基本的に同じことで、これはおそらく自分ひとりのことでもなく、つまりどうやら「うた」に限らず広い意味での身体表現、われとわが身を使って何ごとかを表現することについてはいつしか他人ごとになっていたのが、なぜか本邦、われら同胞の習い性だったということのようではあります。

 そう言えば、舞踊やダンスなどでそれなりの仕事をなし、名を残すくらいの人がたには、北の出身が多いような印象があります。いや、印象だけでもないらしい証拠に、そのような言い方は当の舞踊やダンス方面の当事者たちの間でも言われている。多くは、それら北方の方言の縛りがことばでしゃべり、表現することへの障害になり、その分、うまく言い表せないものを「踊る」という身体表現へと転化していったからだ、といった一見わかりやすい説明つきなのですが、その説明がどこまで妥当かどうかはともかく、その意味では詩もまた、それら訥弁の、ことばによる表現に何らかの理由で疎外感を持ってしまっているような人がたの間から、手近に可能な自己表現の形式のひとつとして拾い上げられてきたところがあるのかもしれない。だとしたら、声に出し生身を介して実際に「うたう」ことも含めて、詩もまたあったはずですし、実際、かつてある時期までの詩人たちは、自らそれを発声して朗読することをあたりまえに行なっていたようです。それこそ、以前何度かこの場でも触れたような、小説が朗読されるものだったのと同じように。

 短歌などの伝統的な定型詩の縛りがほどけてゆく過程で、新体詩を経由して口語詩や自由詩の流れも出てきて……といった説明が、教科書的な文学史ではされています。なるほど、だとしたら、そのような過程の背後には、それらの流れに従って解放されていった意識や感覚もまた、ある時期ある時代からこっちの本邦常民間での眼に見えない変化としてあったはず。それはまた、同じ生身を足場にした解放という意味では、視覚や聴覚、その他生身の五感の統合された身体まるごとのありようにも何らかの痕跡が記されていったと考えて不思議ない。それらの視点こそが「うた」の転変と抜き差しならず関わってくる、言葉本来の意味での等身大の歴史に相渉る大事な脊髄になってゆくはずです。

 時期にしてざっくり大正半ばから末にかけて、大きくは第一次大戦後の「戦間期」と呼ばれる時代。経済的には大戦を契機に成金を続出させたほどの急激な成長を示して、でもその後また一気に凋落していった波乗りのような時期。その中を生きていた人々の生身の解放が期せずしてさまざまな分野、複数の領域で同時多発的に起こっていた形跡は、ひとまず「文学」という箱に一緒くたに放り込まれている表現にまつわるさまざまな分野の経緯来歴をざっと眺めてみただけでも、あれこれ察知できます。

「わたしはこれまで、はじめて会った人から、御商売は? ときかれると、文学をやってますといつも答えてきた。詩を書いてますなどというと、え? とけげんな顔をする人も、文学というと、なんとなくなっとくできるらしい。」

 小野十三郎、アルスの「大杉栄全集」を買ってほしいと、大阪の素町人の庶民の出でいたって温厚だったという父に無心したら、「わたしが生れてはじめてきいた怒り心頭に発する声」で「このバカめ!」と一喝されたのをきっかけに故郷をあとに上京したという、のちに新しい世代の「詩人」のひとりに数えられるようになる御仁の述懐。 

 「やる」ものとしての「文学」。それも「詩」だと怪訝な顔をされるから代わりの方便として使える程度に、「商売」としても漠然と世間的な了解を一応はしてもらえるようになっている、そんな便利な乱れ箱として活用されるようになった「文学」。それは、理由や動機、そこへ向かうモティベーションは個々にさまざまであったにせよ、それまでよりずっと多くの、そしてずっと幅のある広汎な階層から何らかの自己表現、創作と呼ばれるような出力へと向かうようになっていたことのひとつの反映でもあるでしょう。 

 ならば、そのような御仁にとっての「詩」とは、どのように自覚されるものだったのか。

「詩とは、ムホン気と想像力が、現実生活のある時間の中で、自分を捲き込んで決定的な行動を起こしたなら、一度の爆発ですべてのエネルギーをあとかたもなく消尽してしまうものを、あまり純粋とは云えないなんらかの要素で緩和させ、それを持久的一つの心的秩序に組み代えさせる力のようなものなのかもしれない。」(小野十三郎『奇妙な本棚――詩についての自伝的考察』第一書店、1964年)

 確かに、作品・創作物としての詩は、文字に記され、活字になって紙媒体に印刷されたものとして制御され、流通するものではある。しかし、だとしても、表現としての初発のありかたとして本来含まれているはずの「うた」の現われは、最もプリミティヴで民俗的な水準も含めた生身の身体表現という特質をあっさり手放すものでもない。「ムホン気と想像力」が、主体としての自らもろとも「行動」と「爆発」を起こすこと。その意味でそれは芝居や舞踊、ダンスなどと地続きのものであり、劇場や舞台といった上演の枠組み、物理的・空間的な制限の約束ごとの内側においてだけでなく、何かのはずみに突発的にうっかり発現してしまう野生の上演、いまどきのもの言いに従うならパフォーマティヴな表現を本質としている。だからこそ個人でなく集団のものとしても平然と成り立つし、時にはそれこそ騒擾や暴動などといったありかたなどにまで間違いなく連なっている何ものかをはらむ可能性を持っている――あの「文学」という乱れ箱に突っ込まれているさまざまな表現の出自も、たとえばこのようにあちこち立ち寄りながらたどっていって初めて、「うた」の原初の輪郭もようやくおぼろげながらに見えてくるもののように思えます。

 これらは、「文学」や「芸術」「美術」などの歴史について教科書的な間尺で語る作法においてなら、大正デモクラシーリベラリズムの機運を背景に勃興した白樺派的な芸術至上主義を経由して、経済的な豊かさにも後押しされて、フランスなど主としてヨーロッパの海外のさまざまな同時代的な芸術・文化運動が一気に入ってくるようになり、生硬で性急な翻訳調ではあれ、それらの潮流を素直に受け入れることのできる新しい若い世代が台頭することで、ダダイズムだのシュールレアリズムだの何だのといった目新しい意匠と共に、創作・表現のそれぞれの分野において活発な試みが広汎に繰り返されてゆくようになった――まあ、ざっとそのような大文字の歴史の書き割りの一端、単なる一挿話として回収されてしまうようなものでしょう。もちろん、それは間違いではない、だろう。けれども、そのような手癖で処理されることで取り落とされてしまうものも必ずある。あるに決まってるし、なきゃ困る。

 「うた」の初発のありかは、それら大文字の歴史のためにしつらえられた「文学」や「芸術」「美術」などの乱れ箱を取り払ったところに息をひそめ、今もまだ確実にうずくまっています。

●●
 そんな「うた」に結晶してゆくかもしれないあるひとつの場、そこに宿る何ものかを及ばずながら少しずつでも言葉にし、かたちにしてゆこうとする道行きで、酒の場というのも必ず欠かせないものになってくる。酒を呑み、いい気持ちに酔いがまわる、すると必ずと言っていいほど「おうたのひとつ」も出てくる、自ら出てこなければ促されてでもそうなるのがあたりまえ、うまいかヘタかなど関係なく、いったん酒を口にしたら最後、そのように「うた」が伴ってくるのはある時期までは疑うまでもない、本邦日常の風景でもありました。

 その酒を呑むのも多くはひとりではない、何人か複数の人間が集まる「関係」と「場」において呑む、その果てに必ず「うた」が伴ってくる。わざわざ芸者を侍らすことのできるような正式の、型通りな宴席でなくても、その場の口三味線なり手拍子なりで「うた」を導き出すしかけはいくらでもあるものでした。それらは後にあの流しのギターやアコーディオンなどから、敢えて雑に言っていいならカラオケ機器の登場以降もしばらくはまだ、本邦日常の習い性的に「残存」していた。そのように、「うた」は酒の場のもたらす興奮と不可分のものでもありました。あるいは、かつて観光バスのバスガイドに求められていた技倆のひとつが、それら「うた」に長けていることであったことなどを思い起こしてもいい。何らかの集団、ある程度の人数の集まった「場」において、その場の心持ちをある方向に誘導し、まとめてゆくための効率的な道具として「うた」は自在に、便利に使いまわされるもので、単なる歌唱というだけでなく、それによって醸成される気分や感覚、生身の高揚感なども含めて、正しく暮らしの裡にありました。

 特に、高らかに「うたう」――「高歌放吟」、あるいは「放歌高吟」とも言うようですが、それはどちらでもいい、いずれそのような大声でなにごとかを「うたう」行為、それはひとりであっても構わないものの、しかし基本的に想定されていたのは複数の人間が群れて何らかの興奮状態、日常ならざる心的条件下にあることでした。

 何らかの興奮状態の果てに現前化してくる、この高歌放吟という身ぶり。往々にして酒による酩酊状態と共にあらわれるそれが、個人的なものでなくある程度の集団、生身の身体が複数たむろし、何らかの「関係」と「場」が成立しているところで成り立つのならばなおのこと、さらに「騒ぐ」「暴れる」といった動詞でくくられるような現前にもまた、地続きのものではありました。

 むしろ、「騒ぐ」さらには「暴れる」まで可能性として視野に入れた上での行為が「酒を呑む」だった。これも、すでに忘れられかけているわれら同胞の日常の記憶でしょう。そのような場に確実に伴っていた「うた」は、ひとり歌うものでもなく、複数の人間が声をあわせて同調して歌う、あるいは怒鳴る、叫ぶ、といった破調のものにもなる。「灰皿やビール壜がとび、椅子が投げられ、物が破壊される音、乱闘する人間の怒号の満ちる渦の中」という、まさに落花狼藉、どうにも荒れた場で、それでも「酔いがまわると、あたりかまわず、ふいに音頭とりとなって歌い出す岡本のジンジロゲ節や、飄々とした辻潤が奏でる尺八の音はいまでもわたしの耳の底に残っている」というのは、先の小野十三郎が記述した、文学史・思想史的な脈絡で今では無駄に有名になってしまったフシもある南天堂での乱痴気騒ぎのひとコマですが、酔いにまかせた乱闘沙汰の描写に、ぬかりなく「うた」の要素が差し挟まれていることに意識して立ち止まっておきましょう。つまり、酒の酔いだけでなく「うた」の要素も介在して初めて、このような「場」が十全に立ち上がっていたらしいという意味において。*1


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 そして、そのような「うた」の場とは、喧嘩の場でもありました。

「わたしたちは金もないのに、夕方になるとよくそこへ出かけていった。そして酒を飲んではよく喧嘩をした。別にこれといって喧嘩をせねばならぬ理由があったわけでもないのに、何かちょっとしたきっかけで喧嘩になったのである。つまりいい気持で酒を飲むというのでなく、爆弾でも腹の中に隠しているような険しい顔つきで、ガブガブと飲んだのだ。」(壺井繁治『激流の魚・壺井繁治自伝』)

 彼ら大正期後半を生きていた「詩」と「詩人」の同時代の空間での動き方、つきあい方をそのような視点と解像度とであらためて眺めてゆくと、それら生身の解放、何らかの自己表現に直接的な身体行動をとにかく伴わせることへ向かう衝動が、当時の若い世代に集中的に見てとれるようになっていたらしいことに気づかされます。そしてそれはもちろん、当時のいわゆる政治的な運動、思想的な行動などにも通じていたものであることは言うまでもない。詩でも小説でも、「文学」というくくられ方をしていた表現の形式はそれ自体でそれぞれ完結していたわけでもなく、同じく「芸術」や「美術」といったくくられ方をしていた中の絵画や彫刻、建築、さらには音楽や演劇、舞踊といった領域ともあたりまえのように重なりあいながら、何らかの自己表現を求めるようになっていた、それを望むことが可能になっていた層にとっての福音として受け取られるようになってゆきました。それは今日、学校的な枠組みの「文学」や「芸術」「美術」などのたてつけに縛られがちなわれわれが想像してみる以上の鮮烈さで、わが手に取れると思える手段になり始めていたらしい。

 「詩」にも「詩人」にも、そしてもちろん「文学」にも、どうにもなじめぬものを感じたまま遠巻きにして生きてきた自分のような縁無き衆生の外道にも、「うた」を足場におぼつかぬ道行きを続けてきたことで、どうやらそれらすでに記述されている歴史の向こう側に未だひそんでいる何ものかののっぴきならぬ気配を、少し自分事として感じられるようになっている気がします。

 ああ、そうだ、吉本隆明谷川雁も「詩人」、だったんですよ、ねぇ。