渡辺京二と上野昂志、「思想史的知性」と主体の毅然



 渡辺京二が、亡くなりました。敬称や敬語の類を使うのはこういう場合、自分としては理路の調律にさわるところがあるので、敢えてそれらは割愛します。

 渡辺京二とは、「最後の人」でした。これは、自分が勤めていた大学で、彼が晩年、全国区の固有名詞として知られるようになるきっかけとなったあの『逝きし世の面影』を学生若い衆らと読んでゆく講義を足かけ10年ばかりずっとやってゆく中で、ゆっくりと確信するようになってきたことでもあります。

 何の最後か。「思想史的知性」の最終走者のひとりだった、という意味での。このへん、手前味噌になりますが、自分が書いたものから引いておきます。

「この国の母語を環境とした、時期的には先の戦争が終わって後、高度経済成長の豊かさに後押しされて出現した、良くも悪くもそれまでとは様相の異なる新たな大衆社会状況と、そこに宿ったその他おおぜいのリテラシーに支えられた読書市場を介して可視化されていったひとつの〈知〉のありかた。それをどう呼ぶべきか、立場により、また考え方によりさまざまにあり得るのでしょうが、とりあえずここでは仮に、思想史的知性と呼んでおきましょう。」

「この「思想史」という言葉は「思想」の「歴史」という字義通りの平板な意味ではなく、「思想」と「歴史」を共に主体の手もと足もとに制御できる限りにおいて統合しようとし、それを「文学」の相にできる限り開いてゆくような表現に託してゆく、そのようなアウトプットへの志向性をはらんだ内実も持っている。」

 このような「思想史的知性」自体、それこそすでに「逝きし世の面影」に組み込まれつつあります。それは概ね前世紀末、今世紀に入るあたりから淡々と、無情に進行していた、避けようのない時のなりゆきでもあるわけですが、いま、渡辺京二が逝去したという事実は、そのこともまた、ひとつの歴史的な画期として、確定したものとして認識しなければならなくなったということでもあります。

 新聞の追悼記事などには、例によって「近代史家」とあたりさわりのない称され方をされていましたが、そのように「家」を平然と尻にくっつけて恥じないような人がたの幻視する「歴史」のたてつけからは、おそらく本質的に異なる水準での歴史像をこそ、彼は自身との関係の裡に結像しようとしていました。『逝きし世の面影』で初めて彼の仕事にまとまって触れた、そしておそらく初めてまともに対峙したであろう多くのそれら「歴史家」族とそれに連なる折り目正しいとされてきた知性たちは、しかし自分たちと同じ水準で同じような「歴史」を見ているものとしか理解できなかったようです。それは、「思想史的知性」の栄光であり、と同時にまた、そのような知性が本邦に訪れた近代このかた、常に甘んじねばならなかった静謐な宿命でもありました。

 実際、『逝きし世の面影』が刊行された1998年という時点ですでに、それら「思想史的知性」が自然に呼吸し、息づくことのできる幸せな環境は失われつつありました。80年代的な、いわゆるポストモダン的知性の目新しいモードが、おりからの情報環境の変貌と共に商品として流通し、全てを等価に、等距離に把握し得るという野放図な認識のもたらす解放感が、それまでのあたりまえとしてあった知的な世界のさまざまなたてつけを一気になかったことにしていった、その流れがひと通りおさまりかかってはいた頃。しかし、世界の情勢は冷戦構造の崩壊とそれに伴う下部構造の「経済」もまた、それまでと異なるありようにシフトしかかっていた世紀末の過渡期のこと、日本語を母語とする環境での言語空間自体、大きく姿を変えてゆくらしいそれらめまぐるしい世界の現実に、さて、どう対応してゆくのか未だよくわからないままという、まあ、振り返ってみれば、ざっとそんな時期でもありました。

 そのような当時の同時代的情況(ここは、この吉本隆明由来な表記がなじむはずです)ごと、『逝きし世の面影』という書物の行論は射程におさめていました。当時、輸入もの最新モードとして流通していたサイードの「オリエンタリズム」をポストモダン的手癖で波乗りしながら振り回してみせる本邦の名だたる制度内知性の考えなしな自動筆記的生産物の破綻について隙なく言及してゆく筆致の向こうに、単なる予定調和の下での内輪の馴れ合い、社交や利害ありきの通り一遍な批判などではない、野育ちの素の知性としての生身の毅然がありました。その凄みを察知できなかったとすれば、それ自体もう、言葉本来の意味での知性、信頼される「村はずれの狂人」としての本願をどこかに捨ててきた単なる俗物でしかないことの、何よりも雄弁な証明になっていました。

 なぜ、その時点で渡辺京二が、ほぼ例外的で稀有な例として、そのような凄みある知性の主体としての存在感を示すことができたのか。そのことを繰り返し、教室で自分は問いとして投げかけ、その場の学生若い衆らと共に考えようとしてきたのですが、しかしそれはまた同時に、「思想史的知性」自体が「逝きし世の面影」に繰り込まれつつあることについての同時代的な自覚を、前向きなあきらめと共に自ら思い知ってゆく過程でもありました。このあたりのことは、また場を改めて、ゆっくり詳述しなければならないと思っています。

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 ともあれ、そのような「思想史的知性」の残してきた仕事は、残念ながらもう、穏当に読まれなくなっている。それは単に世代の違いや、読み手の質の変貌などよりもさらに本質的な、情報環境がそれら「思想史的知性」の存在し得る生態系からまるごと奪ってきたことにも大きく起因しているようです。

 もちろん、文字と紙によって記録され、物理的に残されているもの自体はいまも変わらず眼前に「ある」。図書館に代表されるようなアーカイヴスの仕組みも、情報環境の変貌に即した新たなかたちを模索しながらも、まだ安定的に稼動はしているし、何よりもそれらが社会の、そしてそこに宿るべき信頼し得る現実を編制し、維持してゆくための重要で主要なたてつけになっていることもまた変わりない。その程度に時代は未だ「近代」であり、その最も本質的な骨組みは変わっていません。

 けれども、その同じ「記録」を「読む」ことが、未だうまく自覚されていないらしい部分も含めて、大きく変わってきています。かつてと同じ文字、変わらぬ記録であっても、それに対峙してそこから引き出されるはずの「読み」の水準が、〈いま・ここ〉で想定外に別のものになってしまっている。何より、このような違和感からして、うまく伝わらなくなっているらしい。それは、たとえばこの場でこだわり続けている「うた」と「ことば」、「からだ」と「こころ」の絡みあいがどのような歴史文化的な経緯の裡に宿ってきているのか、といった問いに関わる近年の折り目正しい学術研究書や論文に接していても、問題意識は基本的に同じところに向いているはずだし、引き合いに出されている素材や資料についても重複しているところが多いのにも関わらず、どうしてそういう「読み」、そういう「わかる」しか引き出されないんだろう、と訝ることが日常態になってしまっていることを考えても、同じ文字や記録、資料から引き出される「読み」のありようが、自分などのように、おそらくはあの「思想史的知性」なるものに依拠して人となってきた身からすれば、すでに理解の及ばない領域にもってゆかれ、見知らぬものになってしまっているらしい。

 むろん、渡辺京二と同じような意味での「最後の人」は、まだいくらか残ってはいる。その意味では、そう、上野昂志などもまた、そのような意味ですでに忘れられかかっている名前のひとりかも知れません。「うた」と「ことば」と「からだ」「こころ」の絡み合いの〈いま・ここ〉についてのその執拗で濃密な手続きのたどり方などは、いまどきの折り目正しい「読み」の側からはおそらく、意味のないものとして見過ごされてしまうものなのでしょう。

 たとえば、こんな具合に、です。

「おそらく「アカシヤの雨が止む時」と安保闘争を結びつける意識が現われてきたのは、何年かたって、それをうたうようになってからのことであろう。つまり、1960年を振り返る意識のなかで、この歌は、そういう象徴的な意味を附与されるようになったということだ。それはいいかえば、そのようなものとして、改めてこの歌を聞き直すようになったということでもある。意味附与をしているのは、そのときの現在なのだ。1960年の現在ではない。」(上野昂志『肉体の時代――体験的60年代文化論』現代書館、1989年)


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 単に個人的な体験・見聞をもとにした印象批評にすぎない――いまどき若い衆世代ならそう一刀両断に片づけて「老害」話法、「団塊」人文系的構文、といったことで一顧だにしなくなりそうな、何でもない一節ですが、でも、そうじゃない、逆にそうやって一顧だにせずに見過ごしてしまうあたりにこそ、「思想史的知性」が棲息しにくくなっていった理由が根ざしているかもしれない。

 再びたとえば、先の一節のあと、このように続けるあたりの二枚腰、しぶとく何ものかに拘泥しようとする姿勢について、さて、いまどき若い衆世代は、どう反応し、評価できるのだろう。

「だが、すでに書いたように、絶えざる現在によって生命を吹きこまれるのが歌の常であってみれば、それはやむを得ない事でもある。それをあたかも1960年のことのように考えるのは嘘っ八だが、だからといって、そのような意味を与えようとした60年代のあるときをも否定し去る事は出来ないだろう。そして、1960年に聞いたときには幾つかの断片として沈みこんだこの歌が、ひとまとまりの姿で現われたのは、むしろそのようにうたったときなのだ。 」

 個人的で私的な体験・見聞をもとにした印象にすぎないことを、彼はそこからもう一度、それらの印象の自分の記憶の裡でのありようについて、立ち止まって探りを入れ、腑分けしてみようとします。常に現在でしかなく、その意味で〈いま・ここ〉で常に新たな意味と印象を附与され続ける「うた」の体験のある本質について、そうやってはっきりと狙いを定めようとする。だから、そこから引き出されてくる次のシークェンスは必然的に挿話のかたちをとる個別具体になってくる。どのような「普遍」も、そこへ早上がりすることを誘うような大文字のもの言いも、そこではもう必要がない。

「同じようなこととしていえるかどうかわからぬが、60年代末に、われわれの周辺で「再会」がちょっとしたリバイバルをしたことがある。これは、その頃のわれわれがよく通っていた新宿の小さな酒場で、むろんカラオケなどのないときだが、当時『現代詩手帖』の編集長をしていた桑原茂夫が、酔うとこの歌をうたうことから仲間に波及していったのだ。」


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 松尾和子の「再会」は、佐伯孝夫と吉田正という、当時の本邦流行歌、商品音楽としての「歌謡曲」生産体制における、いわばエース級コンビの作品です。何度でもよみがえる、その「うた」の記憶。自分自身のすでに玉石混淆、濃淡も遠近も一緒くたに雑然とスタックされているはずの記憶の裡からつまみ出し、腑分けしようとしたことから、次には、それは自分ではない他の誰かの身の裡にも起こり得たことではないか、という仮説から確信に思い至り、その地点からもう一度、自身の記憶の層へと改めて探りの垂鉛をおろしてみる。もちろん、そこからはもう、ひたすらに個別具体、細部と共に記憶の銀幕に投映される像を、眼前のものとして「描写」するしかありません。

「そして、〽ちっいちゃーな青空 監獄の壁を- あ-ああ-あ みいつめつつ というサビになると、われわれもつられて合唱するようになった。そして、そうやってうたってみると、監獄の小さな窓から見える青空がまざまざと感じとれて、わたしは改めて、これが流行したのが、安保闘争の年だったということを想ったりしたものだ。」

 「アカシアの雨がやむとき」や「再会」などの楽曲と60年安保をセットにして「世相」史のひとコマとして語る、これはそういうひとつのモードの発生地点の光景、ではあるのでしょう。

 ただ、ほとんどの場合、人はここから先もう一度立ち止まって留保することはない。ああ、そうだ、60年安保の頃には「アカシアの雨がやむとき」や「再会」が流行っていた、あの当時あの時代の気分になぜかうまくはまっていたものだ――概ねこんな感じのゆるい詠嘆調で、時に新聞の囲み記事や雑誌のコラムにそぐわしい文体で書き流される。それでひとつの「世相」は確定的なものになってゆき、型通りに採集された標本のように「そういうもの」として固定化されてゆきます。

webronza.asahi.com *1

 けれども、上野はしぶとく立ち止まり、そして自分の内側へ視線を向けてゆく。歴史の固定化、「そういうもの」化に対して常に自身という主体を定める足場を維持し、しょせんは流れうつろい続けるものという前提を置きながら、生身の自分との関係の裡にだけそれらを凝視し、なけなしの動態視力と共に合焦しようとしてゆきます。

「しかし、1960年にこの歌を聞いたときの記憶では、あくまでも愛の歌としてのみ、受けとっていたのである。もちろん、それでいい歌だとどこかで感じていたからこそ、断片的にではあっても記憶していたわけだが、監獄の壁には意識は届いていなかったのだ。それはほぼ十年近い時間をへて、にわかに意識の前面に浮上してきたのである。」

 自分だけではないらしい、そのような「うた」の、再浮上した〈いま・ここ〉におけるある「場」を介した光景。初発の遭遇の時点から一定の時間経過があったからこそ、それは可能だったのではないか。常に〈いま・ここ〉でしかない「うた」に触れた体験は、まただからこそ、時間の経過を味方につけることで、〈いま・ここ〉の現前性を越えた、もうひとつ別の水準での「普遍」の何ものか、をうっかりと獲得もするものらしい。

「われわれは、ノスタルジックに「再会」をうたい、べつにそんなことは口にしなかったが、この歌を1960年に結びつけたりしながら、しかし、それを眼の前の60年代末の状況に重ねたりはしなかったのである。考えてみれば、監獄の壁なるものは、60年よりはむしろ60年代末のそのときのほうが、はるかに現実的だったはずだ。そしてもしかしたら、そうだったからこそ、あのときそれほど熱心に「再会」をうたっていたのかもしれないのである。」

 けれども、彼らは最初からそのような「普遍」を意識したわけではない。その時は、そんなことは微塵も意識せずに、「ただうたっていたのである。」 そうして初めて、商品音楽として大衆社会状況下の市場に流通し、その上で「うた」本来の役回りも果していたような「歌謡曲」についての、ある本質的な「わかる」に思い至ることができた。もしかしたら、彼自身、そうとは気づかなかったかもしれないような、ふいにうっかりと立ち現れた、それまで見慣れない別の「普遍」として。

「そのずれ、というよりは、現状の暗合がずれとしてしか現われないようなあり方のうちに、歌謡曲の現実態とでもいうべきものがあるのだ。それを、暗合する面だけですくい取ったら嘘である。ずれによってしか顕在化しない歌謡曲の肉体が、見失われてしまうからである。」

 いわゆる折り目正しい公認された知性の「歴史」とは異なる水準の、名もない生身の主体との関係の裡にこそ合焦されるもうひとつの歴史の〈リアル〉。「うた」の初発の宿り場もまた、そのような位相においてようやく、あの「思想史的知性」との間にかろうじて取り結ばれるもののはずです。

 「この思想史的知性というのは、同時に匿名的でもあります。何を言う、知性は個人に宿るもので、何よりそのような個の主体によって表現されるものだ、と叱られるかも知れません。しかし、不思議なことに、ここで言う匿名的とはそのような主体としての輪郭確かさと、なぜかうっかりと共存する、できるようなものでもあるらしいのです。」

*1:「型通りに採集された標本のように「そういうもの」として固定化された」事例の、割と最近のもののひとつ。前田和男でさえも(と敢えて言うとく)。

「団塊の世代」と「全共闘」・余滴②――呉智英かく語りき・断片

創価学会

 創価学会は危険な組織か、とよく議論されるけど、創価学会に対して自由に批判があり得るうちは、さほど危険ではないと私は思ってる。この場合の批判というのは、何も高尚でお上品なものだけではなくて、野次や嘲笑、罵倒なんかも含めてのことだけどさ。

 学会への嘲笑はもちろんオーケーというか、むしろどんどんやれと思うんだよ。だって、どう見てもヘンじゃないか(笑)。と同時に、やはりこれまで学会が果たしてきた役割もある、という意見も当然あるよね。で、それも確かにある程度うなづけるんだよ。事実、彼らは左翼理論ではない方法で、やはり極貧の、底辺の民衆を救ってきているんだからさ。

――そのへんは呉智英さんらしい視点ですね。いや、あたしも高度成長期の創価学会については同じような視点を持ってます。

 本当の人の不幸とは、単純に左翼理論で説明できるものじゃなくて、資本主義の搾取云々とは少し違うんだよ。

――貧、病、争(人間関係)が、宗教に入信する最大の理由、と、ずっと言われてきましたからね。

 そうそう。「貧」とは貧乏だよね。昭和三十年頃だと、まだそういう貧乏、ってのは具体的にいくらでもあったんだよ。

 たとえば、お父さんが死んで小さな町工場が左前になる。そうこうしているうちに、兄貴はグレて刑務所に入り、二、三カ月臭い飯を食って出てきた、と。当然、近所でみんなに後ろ指さされるわけだ。そんな界隈で育った中学生の「僕」……というのがしたとして、その彼の不幸というのは、単に社会主義ならもっといい暮らしができるとか、資本主義の矛盾がどうとかいう問題じゃとりあえずないんだよ。だから要は、ああ、おれももうグレちゃおうかな、と途方に暮れていると、そこに学会の人がどこからともなくわらわらとやって来て、「お父さんの工場、駄目なら何とか信用金庫に口をきいてあげるから」とか何とか言って運転資金を十万円くらいふんだくってきてくれたから、オヤジもとにかく工場を再開する。次には、じゃあ、うちの学会系の企業の下請けするのがいいんじゃないか、とか仕事も紹介してもらう。刑務所から帰ってきたその兄貴だって、そんなもの当時だってどこも雇いにくいんだけど、でも、学会なら、というんで隣町の商店に勤めることになったりする。そんなこんなで日々の生活は何とか安定してゆくんだけど、次にはどうしても「でも僕、勉強できないや」という問題が出てくる。なんだ、そんなの、じゃあおれたちがちゃんと教えてやるよ、と、またまた学会の人たちが助けてくれて、ああ、ありがたいことに無事に高校へまで行けるようになりました、という……まあ、ざっとそういう子供が実際に、いくらでもいたんだよね。この場合、創価学会というのは明らかに彼ら貧困層、困窮層を「救っている」わけだよ。

――『キューポラのある街』とか『下町の太陽』とか、そういう世界ですね(笑)。まさに「名もなく貧しく美しく」。「社会派」なんてもの言いも、そういう境遇が具体的にあったからその分、燦然と輝くことだってできたわけですしね。「貧乏」が具体的に身の回りに見えていたから、共産党創価学会もある部分で共感を獲得できた。〈リアル〉に足つけてたんですよ、彼らもまた。


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 一方、「争(人間関係)」の例は、こんな感じかな。

 飲んだくれで仕事に行かない父ちゃんがいて、それを母ちゃんが殴ったりして、とにかく夫婦喧嘩が絶えない家がある。争いに疲れたところに学会に誘われて、集会に顔出してみたら「ちゃんと信心すれば、いいことがあるよ」と慰められて、「どうせ今のままでも青あざだらけなんだし」と、すでにこの時点で前向きになっていたりするわけだ(笑)。あとは案外簡単だったりして、酒飲みで仕事に行かないような自堕落な父ちゃんも、朝から仏壇の前で勤行すれば生活態度もぴしっとしてくるし、朝起きてごろごろしているわけにもいかなくなる。学会の仲間が工場へ仕事を紹介してくれれば取りあえず行かなきゃ格好がつかないし、仲間の眼もあるから昼間っから酒を飲んだりもしにくくなる。で、夕方帰ってきて「おい、母ちゃん、帰ったぜ」、「あれ、なんだ、きょうは魚があるのか。おまえ、煮たのか」、なんて夫婦仲も仲直りの兆しが表れる。「八時からみんなで集会に行きましょうよ」となって出かけて、集会で疲れて帰ってきて十時には寝る。すると、翌朝六時に目が覚めてしまうから、生活リズムもめでたく戻るわけだ。そうやって何となく毎日やってゆくうちに、ありがたいことに家庭内の争いがなんとなくなくなった……というようなケースが、これまたいくらでもあったんだよ、当時は。

――「貧」も「争」も具体的だった分、その当面の解決も素朴だったってことですかね。戦前の賀川豊彦なんかでも、あれはキリスト教が背景にあって貧民窟に入っていったわけですが、やっぱりそういう具体的な功徳が効果があることをさりげなく書いていたりします。でも、それはあくまでも方便だという理解なわけですが……

死線を越えて

死線を越えて

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 こんなのはもちろん、内側から見れば根本的な解決にはなっていないよ。単に生活習慣がついただけなんだけど、でも、その生活習慣という概念さえない最下層の人ってのも確かにいたし、今でも形を変えてやっぱりいるんだよ。創価学会がそういう人たちを救ってきた実績というのは、実はすごいもんだと思う。下町という舞台で学会と共産党仁義なき戦いを繰り広げてきたのも当たり前で、あれは高度成長期に顕在化してきた「戦後」の不幸というパイを食い合ってたわけだからさ。

 創価学会は、一応、日蓮正宗の教えだと自称しているわけだけど、昭和三十年頃からの彼らの考えは、基本的には困っている人のところへ言って、悪く言えば、その人たちから瞞着していたんだよね。ただ、ここで学会がすごいのは、当時ほかの宗派は、浄土真宗禅宗も、とにかく下層の民衆を相手にしなかった。ところが学会は、それを積極的に取り込むことによって、彼らを救うという仏道の功徳を成し、一方で、そこに実利をも組み込んだわけだ。

 さっき言った話で言えば、刑務所出の兄貴を学会系の商店で雇う時、実利というのは、たとえ前科者でも刑務所でお勤めを果たしていれば一票は一票だ、ということで、学会というのはそれくらい先のことを考えていたんだ。彼らが今、朝鮮関係のことをとりたてて問題にしているのも、在日朝鮮人投票権をうまく取り込めば公明党議席が増えると考えているに違いないよ。

――それはあるんでしょうね。政治のレベルでは。一方で、普通の人、常民にとっては「役に立つ」というのは、どうしようもなく具体的なんですよ。カネか、オンナか、名誉か、どれか。学会の活動を頑張れば、市営住宅に入れる、病院にも入院できる、学校にも便宜をはかってくれる……これは共産党も似たようなものなわけですが。

 そうだよ。これは何も思想とか宗教といった深い話じゃなくて、本当に徹底的に、ミもフタもない実利なんだよ。しかし、それくらいミもフタもない実利であったからこそ、今日の飯が食えないような人間が救われもしたんだよ。しかもそれを大規模に、あの時代からやってきたわけだ。

 今、逆に学会で問題になっているのは、四畳半のアパートに住民登録五十人もやって、そんなもの居住実態がないじゃないか、といった、選挙ごとの民族大移動に対する非難だったりするんだけど、でも、これに近い例はこれまでほんとに無数にあったはずなんだよ。四畳半のアパートは駄目でも、一戸建てならそこに八人が住んでてもおかしくないし、二家族二所帯で上と下で住んでても、山田さんと加藤さんに住んでもらって住民登録をしてしまう。それで都合八票入るんだから学会としては問題ないんだよ。

 場合によっては、学会員がその人たちに一円もやらなくても、彼らが生活保護を受ける道をつくってやればいい。無学文盲で貧困の中にいる人は、その程度のリテラシーさえないわけだし、とにかく学会員の懐はこれっぽっちも痛まない。そういう交渉に立てば行政側は「うわあ、また学会の人か、じゃあ、払うしかないですねえ」となる。そうすると、結局は「選挙に勝ってよかったねえ。この人たちがいてくれたからだよ」と、みんなの顔がめでたく立つわけだ。

――その「学会の人」を「解放同盟の人」や「共産党の人」、「総連の人」に代入しても成り立つわけですよね。

 そうそう。

 いま、学会ってのは、組織の構造としては、中心部にいる幹部については池田本仏論だよ。「私たちの立法は世俗を超えている。だから、世俗を支配しなければいけない」と本気で思っているわけで、地上の、世俗の論理はどうだっていい。東村山市での女性市議の自殺にしても、あれはどう見たって謀殺なんだけど、でも、あれさえも組織防衛のためには正しいこと、なんだよ。まあ、あれは結局、裁判では学会が勝ったけど、限りなくあやしいとは普通、思うよね。

 宗教的に言えば、法華教自体に一神教という性格があるんだよ。一神教は謀殺もするから恐ろしいんだけど、資金もなく、社会の底辺からはい上がってくる者は、当然多い。それは、組織の下の方の頭脳のキャパシティが小さいくせに狂信的な連中が、もう言われたとおりロボットのように働くからで、はっきり言ってそんなもの、連合赤軍と同じ構造だよ。

――最大のセキュリティは「食える」ってことで、もっと大きく言えば「豊かさ」でしかない。

 一般に、日蓮宗の中では、日蓮本仏論さえ否定されているんだ。つまり、釈迦本仏論だ。しかし、日蓮宗の中でも突出して日蓮原理主義的な経文は、日蓮本仏論を言いそうなところまで行ってたんだよ。でも、それが池田先生になると、もういきなり池田本仏論だからね。だけど、さすがにやはりそれは言えない状態で、今は政治の世界でも与党だし、と、現実にはかなり穏健派になっている。池田本人も否定しているけど、でも、現実にはもう喉まで出かかっているわけだ。「国立戒壇池田本仏論」、だよね。



心理的な問題と格差社会

 創価学会の動き自体は、団塊論と直接は関係ないよ。ただ、学会が一気に急成長するのは池田大作が会長になる昭和三十年以降だという、同時代的な連関は、ないことはない。つまり、高度成長と軌を一にして、その矛盾、たとえば、家族共同体が崩壊していくとか、そういう問題に対する救済という点ではどこかで繋がっていると、私は思ってるよ。

 バブル期になって、最終的にいわゆる貧乏人がいなくなって、創価学会の使命は終わったんじゃないか、なんてことも言われたんだけど、ここへ来てまた勢力が強くなってきているのは、やはり「格差社会」の問題と、もうひとつ、物質的な「豊かさ」では埋められない「心理的な慰安」の問題がこれまで以上に大きくなってきたからじゃないかな。つまり、民衆がアトマイズされ、砂粒になっているわけだから、個々人は不安や虚無感を埋める対象を宗教やオカルトに求めてしまう、と。組織的には、それまでの共同体にかわるものが求められる。これはある意味自然な流れとも言える。だって、それこそ一家で勤行をし、座談会や勉強会に行く、何となくそれで一家のまとまり、地域のまとまりが改めて出てくるところはあるわけだからさ。

 格差社会というのは、例によっていろいろ言われているけれども、あれは経済的実態よりも、実はメンタルな部分がかなり大きいんだよ。三浦展(評論家/一九五八│)も、そう言っている。これはもう、お金で解決する問題ではない、意欲の問題なんだ、と。生きる意欲をつくるノウハウ、これがない、持てない人たちが、新しい「下流社会」を形成しているんだよ。

 かつての横山源之助(ジャーナリスト/一八七一│一九一五)が言った日本の「下層社会」(一八九九)とは、もう決定的に違うんだよ。あれは、本当に貧しくて食えない、東京の下谷あたりの貧民窟をドキュメントしたものだけど、今は格差社会とは言っても、下流(意欲)と下層(金銭)とではその意味が違ってきているんだと思うよ。

――そのへんはあたしもかねがね問題にしているところでもあります。たとえば、「ドキュン」ってもの言いがネット周辺から出てきて、今じゃかなり普通に使われる言葉にもなってますが、あの「ドキュン」がいまどきの貧乏のある部分を反映しているんだと思うんですよ。

 それ、定義としてはどういうことになるの?

――微妙なんですが、要はもう少し前だと「ヤンキー」と言われていたような低学歴、低収入層、ってことなんでしょうかね。ただ、そんなにわかりやすくもなくて、生活のありようや価値観などがあまりに俗物的で流されるままだったり、そういう生活に対する違和感が表明されている、という感じですかね。

 それからもうひとつ、差別に絡む格差、というのもある。たとえば、東京の貧乏とは金がないことで、「宵越しの金は持たない」という浪費家も含めてまだ明るい、という人がいる。それが、関西の貧乏は差別などが絡んでくるから、底の深さが少し違うよね。それはインドにおいて、ヒンズー文化のカーストに対して、イスラムや仏教が対抗策としての意味を持ち得たのと同じことなんだと思う。つまり、人間の値打ちはカーストの問題ではないと言い切ったわけで、創価学会の関西などへの切り込みにも、基本にそういうところがあると思うよ。日本の東と西で、中世以来の文化的背景の違いというのは、未だにあるんだよ。

――去年、『ユリイカ』で西原理恵子と対談した時もその話になりましたよ。西と東、って未だに違う、でもその違いってやつがもう東京の人、少なくとも東京的なるものの中にいるとわかってもらえないらしい、ってことでした。彼女は西南日本の、それも海洋民というか漁村系のカルチュアを背景に出てきてるわけで、まさに近世以来の差別だの何だのの蓄積の上に現れる何ものか、を身近に見聞きして育ってきているわけですよ。それが何なのか、言葉としてわかんなくても、皮膚感覚として「違い」がある、ってことだけはわかっている。
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 東京は人の動きに流動性があるんだよね。社会階層的には、年収格差に所属しているかもしれないが、でも、地域には所属していない。だから、「うちの父ちゃん、稼ぎがないんだよ。がまんしな」で取りあえずすむんだけど、関西はもっと、根が深い。単にカネがない、貧乏だ、ってことだけにとどまらず、「あいつのじいちゃん、○○村の出じゃないか」と詮索される。

 それに付随して、被差別部落にも、それなりのコミュニティが、以前はまだ生きていたと私は思う。

 たとえば、農村部落なら食いぶちは農業だった、農村部落は基本的に小さいから、三戸、五戸の集落が田植えのときは互いに手伝いに来て、小さな田でも手伝う慣習があったはずだ。困っているときの相互依存体制もある。都心部は規模が大きくなるから別だけど。ところが、昭和三十年代頃になると、それがだんだん崩壊するように思える。たとえば、隠れて都会に働きに行くとか。そうすると、小部落同士の助け合いもなくなってくる。孤立してどうしようもなくなってくる。学会などが求心力を持っているのはそういう事情だと私は見ている。宗教団体として膨張しつつ、共同体の崩壊を各地、各階層で補てんしてもいたんだよ。

 表には見えてこない社会問題を、食い止め、解消する人が必ずいたはずで、日本の戦後について言えば、その一つは共産党であり、また学会だったのだ。社会といっても、個々人がどこかで横につながっていないと成り立たない。たとえ実利で考えても、行政にどう交渉するかは、個々人の能力を越えることだった。昔は村長や長老がいて「おれが行ってやろう」、「お願いします」と、彼を押し立てていく。「ここの堤防、いつも決壊して困るから、直して下さい」と訴え、行政が「じゃ仕方ない。やるか」と、動いていたわけだ。

「団塊の世代」と「全共闘」・余滴①――呉智英かく語りき・断片


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 一連のエントリー、上記であらかじめ経緯来歴について説明した通り、2005年から6年にかけての頃、呉智英夫子との対談本というか、インタヴュー本的な企画がお流れになった、その概ね9割方かたちになっていた作業中の草稿データを発掘してきたものをアップしたのだが、その後また例によって、作業途中での素材がいくつか出てきたので、補遺としてあげておく。テープを起こしたものから、モティーフやお題に従っていくつかの塊にいったんバラバラにしてゆき、それらの素材をもう一度、ある流れに沿って配列しなおし、全体を整えてゆくという作業の工程の中で、うまく本体に織り込めなかった、しかしモティーフ的に面白い内容が含まれているものを、ノートないしは備忘録的な断片として手もとに残していたものだと思っていただければありがたい。言うまでもなく、主な発言主体は呉夫子である。……221224


● 教養としての小説、理科系の教養書

 教養小説が消えてしまい、「青春と読書」というフレーズも聞かなくなった。理科系でもしかりだ。

 今、一部子供に理科離れがあるから実験をさせようという動きがある。悪いことじゃないからやってくださいとしか言いようがないんだけど、ただ私たちの頃は、中学三年頃になれば、たとえばポアンカレーの理論書を読んだ。教師に煽られて読んだわけだが、教師自体が今の教師とは違う。化学の教師とか物理の教師というのは、ボアンカレーとか、アインシュタインを読んでいた、そういう人たちだったんだよ。

 彼らは、アインシュタインは面白い、ボガーは面白い、と大きく影響を受けて自分もなれるかなと大志を抱いたが、就職できる研究施設が限られていたので、高校、中学の先生になった。その頃、私たちは普通に、文科系のフランス文学とか、アメリカの文学を読んでいた。ところが、物理の教師に授業で、「君たちの中で読書が好きな者は、漱石とかヘミングウェイとか読むだろうが、僕らは理科系だから、そういうのは読まなかった。でも、ボアンカレーの『科学と仮説』は読んだな」とか言われると、あ、これは読んでみなきゃと思って、帰りに本屋へ寄って買う。化学の教師には「ファラデーの『ろうそくの科学』は普通、高校生は読むよね」と言われる。「読むよね」と言われたら、読んでいないことがそれこそ恥になるんだよ、当時は(笑)。同輩同士の論争じゃないが、教師に「普通、気の利いた子はこのいうの読むんだよ、読んだ?」なんて言われると、読まなければプライドが傷つく。見栄なんだけどね、でもそれが原動力になって勉強したわけだ。

 翌日、学校へ行くと、本の話になる。うちは中学・高校が受験校だったこともあるが五十人中三、四人は読んでいた。机の上に置いて、おまえも買ったか、おれも買った、という話になる。

 中高生が教養のために読む本として、理科系教養書というのが確かにあったんだよ。寺田寅彦、宇宙物理の学者だが夏目漱石に弟子入りもしていた、野尻抱影、この人は今では大学生も読まないが、星の名前で有名な大佛次郎の兄、そして草下英明などなど。

 私が決定的に影響を受けたのは、ジョージ・ガモフ博士だ。『ガモフ全集』は白揚社から出ていて、相対性理論からビッグバン宇宙論の提唱にまで関わる物理学者の亡命ロシア人だ。つまり思想的には反共産党系なのだ、が、たとえば「共産ゲリラが機関銃を三百丁、輸入しようとしています」という例題など、表現も面白い。まだ高校一年頃で、闘争はあまり関係なかったが、この本は専門書ではなく、素人のための科学啓蒙エッセー集で本質的な部分に影響を与える内容だったから、将来物理学者になるかな、と考えたりさせられた。

 物理はもともと好きで普段からやっていたから、試験の前になるとノートとか本は読まず、ガモフ全集を読んだ。自分の中でエンジンの空ブカシ、アイドリングをバンバンやって、翌日、試験に臨むと、これが不思議とできてしまうのだ。読書によってエネルギーがどんどん膨らみ実力に変わる。それが私の試験対策だったんだよ。



● 活字の「教養」

 団塊関連の知識人像を何人か挙げてみたが、現在は魅力ある像がない。*1 また時に、若者がそれにオーソライズされなきゃいけないと思わないほど自我が肥大していいた。だから、以前の若者には見栄があって、それで戦わなきゃいけないという風潮だった。それがインターネットで一気に検索をかけて、情報がこれだけありましたよ、で勝ち負けが決まってしまう。そこには生き方としての魅力もなくなってくるし、ユニークな生き方自体を許容する柔らかさもなくなってしまうような気がするな。

 たとえば、「読書と青春」といった本が以前はたくさんあった。知識人論の本もあった。簡単に読める『寂聴般若心経 生きるとは』(瀬戸内寂聴中央公論社)からレベルの高い、たとえばサイードの講演をまとめた『知識人とは何か』(平凡社)などまで。

 でも、知識人自体に信頼性がもうない。すると若者は、自分がその予備軍であるかもというようなことを考えないですむ。そのほうが楽だからだね。かつては、吉本隆明といえば、一応、読まないまでも、買わなきゃ、というのがあった。買わなきゃいけないで出版社は支えられていた。

 出版人にも問題がある。出版業界が、実は見栄と強迫観念で支えられていたという認識がないんだよね。岩波書店なんかあれ、絶対にない。自分たちが正しいことをやっているから受け入れられた、と本気で思ってるよ。でも、それは違う。みんな見栄なのだ。情けないことだが現実だ、九割の人は見栄で本を買う。ブランド産業なのだ。しかし、その自覚はない。

 ただ、同じ商品でも、やはりブランド品はブランド品なりに手が込んでいるものでね。

 たとえば、ライカのカメラ。ライカを買っている人は、コレクターで見栄やブランド志向、金持ちだから買うのが八割か九割で、本当にライカを使っているのは一割しかいない。でも、プロが使えば、確かにライカは素晴らしい。頑丈で、戦場に行っても壊れないとか、映りがいいとか、やはりブランドを支える老舗、暖簾の力がある。だから、それは岩波もそうだが、九割はブランド信仰の見栄で売れていることを自覚し、その中で上手に客を満足させながら、本来のライカのボディをつくる技術を伝承させていくことが必要だ。その技術、ネジの精密さ、レンズの設計のよさを残す。

 ところが出版界は、全然それをやっていない。中途半端な岩波文化人でも、たとえば丸山眞男だったら今から三十年、四十年前のピーク時には(いろいろ批判もあったかもしれないが)、それなりに意味があった。今の岩波文化人たちは、何も考えていない、世代的に言えば、文学系の小森陽一高橋哲哉、政治の姜尚中とか。彼らはもう五十歳前後になっているわけで、今から四十年前だったら丸山眞男がやはり四、五十歳代だったわけだが、やはり思想的に意味を持っていた。当時、批判の基軸になり得た。

 最近、彼ら出版界の考えているところでは、小熊英二大塚英志たちが、一種の朝日、岩波文化人・サブカル系の今後の安全パイなんだよね。アカデミニズム系だったら、たとえば、政治学だったら姜尚中、文学なら小森陽一になり、サブカル系だと大塚英志香山リカになる。つまりはその手のものを、今なおサブカルチャー、マスカルチャーが重要であるといって、それを押さえている。要は誰であっても、椅子が埋まればいいんだからさ。この辺りが、ポップカルチャーの椅子、こっち五つはアカデミズムの椅子となっているわけだ。あとは社会派ルポルタージュ鎌田慧斎藤貴男。しかし、この手の人材が知的ヒーローでは、旧来の知識人像という感じにはならなくなるよね。しかも、彼らには蓄積、教養がまったくない。

 岩波新書は、私は現在に至るまで追いかけてモニタリングしているが、岩波新書が当初売れなかった頃でも、戦前の旧赤版が、終戦直後まで中谷宇吉郎の『雪』や、沼田多稼蔵の『日露陸戦史』などがまだ残っていたわけだ。

もちろん戦前のものの中で、それもふるいにかけて残った名著だが、そのほかに青版が出る、戦後の昭和二五、六年頃に。青版もずっと続くものは名著だった。それに対抗して、六○年頃から講談社現代新書中公新書が出てきて、やはりそれらも自分なりの良いものを出していた。青版がずっと続いて、次に黄版になった。それから、次、新赤になった。なるたびにレベルが落ちてくる。

 しかし、軟弱にするなかからベストセラーが出る。たとえば、永六輔の『大往生』。永六輔は、私は必ずしも嫌いではないが、そういうものが岩波で出版されて、当時、岩波は実はどんどん売り上げが落ちていたから、カンフル剤になる。あれが百万、二百万出るわけだ。

 売れる本を出さないと、もう駄目ですとなるわけだ。やがてそれが常態になってくる。レベルはどんどん落ちる。やはり名著だから、いまだに青版の五○、七○年代の半ばまでの本は、いまだに古本屋でも二千円ぐらいになっている。だから、青版の五百~七百番台は当時の名著の宝庫だ。

 最近、岩波新書で学生時代から三十代までに読んだものを、古本屋で買っては読み直したのだが、あの頃の岩波新書を十冊読むと、本が一冊書けるなと思った。それぐらい密度があったのだ。十冊読んで、オイシイところを取って、柔らかくパラレルにすれば、その辺のへなちょこ本なら一冊楽に書ける。それぐらいの値打ちがあった。今のシリーズはもう見る影もない。全然スカスカだ。

 それこそ知識人像が崩れているから、若い人が買わなくなってしまった。みんな長いのを読めなくなったが、その中で健闘しているのが、中公新書と現代新書。そういうのを目指した編集者がいるのか、時々いいのを出して、むしろ岩波よりも歩留まりがいい。

 結局、主力の本格的な単行本は読まないから、各社本が売れなくて簡単に読めるような新書の方にどんどん参入する。するとそこに負のスパイラルができて、もう新書以外、みんな読まなくなる。つぶし合いになって、クオリティはさらに下がる。

 同工異曲のどうでもいいものがまた出る。著者が、原稿用紙五百枚の本を出そうと思うと、編集から「もっと圧縮して、同じテーマで二五十枚の新書にしてください」と言われる。先生がこれをどこかでお出しになるならそれは結構です。でもそれでは、うちじゃ売れませんから、これをもう少し易しく、この辺を省いて、ここにイラストを入れて、みたいなことになる。

 書店に至っては、もうハードカバー書籍を置かない。NHKブックスも講談社メチエも講談社ブルーバックスさえ、ほとんど置かない。以前は選書があったが、選書も売れない。中公選書などもう二十年前から全然出ていない。角川選書だって、今五年に一冊ぐらい、思い出したように出る。時々間違って三年に一度ぐらい。ということは、選書として死んでいるということだ、五年に一冊出したって。ほかに棚がないから、角川選書の箱で、話が来たら出さなきゃいけないかなという程度。

 結論からいうと、もう出版社は駄目なのではないか、また物書きも厳しい。知識人像が崩れてくるわけだから、その知識人像を前提にして成り立っていた産業というのは全部駄目になった。今まで自分の産業がどう成り立っているか、考えないですんだというのは、まさに戦後の問題。

 それは甘えといえは、甘えなんだよ。偉い知識人が、東大教授だろうと在野だろうと、知識人でございますと言っていると、岩波なり何なりが、それをもてはやして「おまんまのことはご心配要りません。われわれがやります。文化を担う先生方はお金の心配などしないで、象牙の塔の中で研究に没頭してください」。それがよかったかどうかは別として、そういった構造があった。やはり普通の業界に比べると鎖国状態だったわけでね。

 今、データを集めようと思ったら、いくらでも集められるけれど、それと森銑三なんかが資料を収集するのとは違うんだよ。迫力、深みがぜんぜん違う。今はネットで調べれば、パーッと大量に、古文書でもなんでも出てくるかもしれないけどさ。食い付きの態度が違うんだよ。森銑三は、どこかのうちの土蔵から古文書などが出たと聞くと、出かけていって、ノートにすべて書き写したという。それによって自分の血肉となる回路が出来る。覚悟としては全体的な作業で、目も、耳、あるいは感触も含めて駆使し、資料を見ながら、手で、書いた人と同じ速度で書き写していくわけだ。そのときに文体のリズム感が伝わってくる。



● 辞書、塾、予備校

 私は辞書に関しては、パソコンは非常に便利だと思う。検索機能、項目の並べ替え機能にしても。しかし、そういう時代でありながら、いまだに大槻文彦の『大言海』が広く使われている。実は、大言海に書かれていることは、全部小学館の『日本国語大辞典』に全部入っている。『大言海』ではこの説であると。つまり辞書としては、『日国』を読めば『大言海』は必要ないのだ。なのになぜみんなが『大言海』を使うのかというと、大槻文彦の一つひとつの言葉の手触りを味わうのだ。というのは、そのエッセンス、大槻説によればこうであるという引用情報は、今言った『日国』にも出ているのだが、それは要約、凝縮されている。その説ではこうだと。そうではなく、なぜそうであるかということを、そこを大槻文彦は書いているわけだ。そこが読んでいて面白い。大槻文彦の言葉、発している発露がわかる。

 それは、大槻文彦に限らない。吉田東伍の『大日本地名辞書』もそうだ。今こんな分厚い県別の『角川日本地名大辞典』や『平凡社日本歴史地名大系』が出ている。それにもかかわらず、吉田東伍の『大日本日本地名辞書』は、いまだに名著として残っている。

 吉田東伍が山形県に行ったら思いがけない地名があった、その言葉と葛藤していく過程が滋味になって、行間にこぼれ出ているのが読み取れる。書き手の固有名詞との緊張関係に情報価値があるのにもかかわらず、辞書とか情報を写した作品になると、それらは全部捨象される。誰が書いても同じになれば正しいとなるわけで。それとは違う世界で活字文化が華開いたわけだから、そこから固有名詞が消え去ってくると成り立たない。

 極端に言えば、『大日本地名辞書』も角川の『地名大辞典』も要らない。たとえば○○という地名、これを引こうと思ったらネットの検索サイトで拾い、これは青森と高知にありました。長野ではここに三カ所、とわかる。論文は無理でも、学生のレポートくらいなら充分すむだろう。しかし機械も辞典もない時代に、吉田東伍先生があらゆる資料を集め、あちこち足を運んで必死になって情報を集めた、その格闘が紙面に見える。それが魅力なんだよ。

 今は逆に、そんなものは関係ないという理屈になっている。それは要らない。それは純粋論理で正しいことなのだという誤った考え方がむしろ今は普通になっている。だから、言葉は人格と関係ないんだ、と。そんなわけがあるはずはないじゃないか。それは、本として売られれば、個人から離れて、印税にしか過ぎないかもしれない。だけど、どこかにそれがあるだろうという、それが結局知識人像だ。知識人の姿が、固有名詞で自分の個人性がそこに刻まれてくる。

 そうすると、逆に今後、知識人像をつくり上げていく、あるいは、知識人たらんとするのは、ものすごく難しいことになってくるんだよ。

 昔なら、近所で竹棒を振り、スズメを捕って遊んでいたガキが、このままではおれは田舎のはな垂れで終わってしまう。これではいけないと思って、尋常小学校六年のとき親に、「父ちゃん、おれ、中学というところへ行ってみたいよ」と言う。親は、しかたないから勉強しろと言って、中学に入り勉強しました、と。図書館で、藤村読んだら感動したとか。そういう感じで行く。

 今なら、何の素養もない小学校四年生ぐらいで親に「四谷大塚(進学塾)へ行け」と言われ、最初からAは三とか、Bは一とか線で結ぶ。それをやっていると、自分の中で、知識人像って生まれにくい。

 困ったことに、四谷大塚の方が学校よりなじめる。そういう子供を見ていると、学校に帰属意識を持てない。数が多いし、気持ちはわからなくもないんだけど。塾が母校みたいになる。以前、予備校がそうだという話があったが、学校へ行くという言葉は、聞いていると彼らの中で決していい言葉ではなく、どうも塾へ行く方が楽しいらしい。

 予備校に関しては、また少し別の考えがあって、以前、河合塾がいろんな試みをやっていた。今から十五、六年前、河合塾牧野剛と付き合いがあった。言っていることはおかしいが、私は決して嫌いじゃなかった。教育の場合、基本は見識よりも情熱だから、往年の日教組の熱血教師と同じことなんだよ。たとえばグレそうになった生徒を励ますのも、日教組の教師だ。体制的な教師は、あんな生徒は早く退学させた方が学校のためだと考えるが、そこで「一人でも救わなきゃいけない」と、生徒にいろいろ聞いてみる。別に資本主義の矛盾でも何でもない、ただの家庭内不和だけど、「お母さんの気持ちもわかってやれよ」「この本読んでみろよ」と立ち直らせたりする。駄目になりそうなやつを、職務を離れても支えてやる、その多くは日教組の教師だった。

 それが、私ら団塊全共闘で、正規の道からドロップアウトしてしまった牧野みたいな人間が、知識人では食っていけないから、予備校へ流れ込んでいった。そこでやつらは予備校生をあおる。あおった内容はいろいろで、どうかというものも多いが、河合塾の連中だと、吉本や柄谷行人(文芸評論家・思想家 一九四一│)の本を紹介して推薦したり、とにかく青年たちに○か×かとか、Aと一を結ぶ技術とは違う世界があることを教えていたんだよ。

 もう一つには、受験という枷があった。受講者は全員、大学に受かるため必死で学ぶわけだ。当時、日本で一番知的な年代層は予備校生だと、よく言われたし、今もそうかもしれない。これは当然で、高校までの勉強を七十パーセントしかしていない生徒が、予備校では八十パーセントなり九十パーセントに上げる。高校の勉強を百パーセントやれば、日本で最高の知識人になれる。なぜなら日本史、世界史、現代国語、漢文、数学、物理と全部やるからだ。もし点数競争で十科目なら、千点取ればそれは日本で最高の知識人だというわけだ。しかも教師たちが、成績のいいやつには「勉強は基本でやっておけよ」と、授業を漫談に充てる。「おまえら、学校の勉強をやるのも大切だが、大学に行ったらどうする。こういう芝居は今観ておけ」とあおったんだよね。

 今では大学そのものの間口は広くなりすぎて予備校が駄目になっているから、予備校もそれをやる余裕がない。団塊には、そういう熱血予備校講師たちがいる一方で、金ピカ先生というのがいた。これは予備校で「東大へ行って、偉くなれば金がもうかる。おれみたいにプラダの時計をしてみろ!」と煽る講師で、どちらを選ぶのかも、子供たちの人生観の選択だったのだ。それがだいたい八五、六年頃、今から二十年ぐらい前、バブル経済前後だ。それさえ今はいないようだけどさ。



● 詰め込み式受験勉強

 詰め込み式受験勉強に対する批判は、私たちの頃からあったよ。たとえばプリントを配布して、左に「石川啄木夏目漱石森鴎外」と作家名、右には作品名が列挙されていて、それらを線で結ばせるようなものだよね。『蟹工船』の作者を記せとか、選択肢の中から選ぶ問題とか。そういう問題に対する答え方というのは訓練次第でできるんだよ。実際、今だと四谷大塚の小学生コースの段階からそういうことをやってるわけで、小学校の六年生にでもなれば名前を見ただけで『蟹工船』=小林多喜二、と線を結べるようになるだろうけど、でも、それは単なる反射神経の育成にしかならないよね。

 また小さいときからパソコンを使うから、インターネットの検索でファイルにアクセスすることは非常に得意で、ファイルの中身は見なくても、線を引くのと同じ感覚で情報を得たという感覚になってしまう。

 これはまずいのではないか。かつては、たとえば小学校六年で『蟹工船』を読んでも何もわからない、何か難しいことが書いてあるなと投げてしまうが、二十歳になって読んでみたら、あ、面白いではないかと思ったとか、やはりつまらなかったとか、自分がそういう対決をして、自分の中にそれを構築していかなければいけない。それが知識人の像だったんだよ。

 子供は無知でも仕方がない。成長に伴って、自分にとってどうかという判断をその場その場でしていって、その積み重ねで、人間像ができていくんだしさ。各人、情報の質も量も違うから百人百様の像が出来る。その意味では、情報が民主主義になって、全部等価になっている。それはネットと同じ、全部等価の社会、平準化社会になっている。それがクリエイティビティの水源に深刻な打撃を与えることに、いずれなるだろう。しかし私は、この五年、十年では影響がないと思う。五年、十年の場合は、日本の場合はアメリカと違って、資本主義がまだアメリカに比べれば甘いから、このビジネスが儲かればいいというカネ儲けの原理で何とかなると思う。

 金の力というのは、意外とばかにできない、金をつぎ込むと言えば、金をばらまけばみんな来ると思う、取りあえず。しかしそれは三十年たつと駄目だろう。つまり収奪農業と同じで、荒らしちゃうから根絶やしになって、次へ移れない。だけど、三十年は、取りあえず焼き続ければ、次にパイナップルができる。でも、未だそのツケはまわってはいない。だから未だに焼き畑農業をやっている連中がいて、出版界なんかにはほんとにそれが顕著だと思うよ。



●大人になれない子供たち――児童文学

 独り暮らしが可能になったシステムも、一般化したのは団塊の世代からで、その後ずっとベルトコンベアーのように進み続けている。今の若い人だってその上に乗って暮らしているわけだ。それはこの団塊論の大テーマ「そこからターミノロジーは変わっていない」と同じこと。

 「大人=気持ち悪い」を最初に言いだしたのも団塊だよ。それも完全に同じパラダイムで、「Don't trust any one over 30. 大人(三十歳以上)を無条件に信ずるな」。「無条件に」は「信ずる」じゃなくて、「な」の方にかかる。絶対に信じちゃいけない、ということを言いだしたのは団塊で、六七、八年頃か。アメリカから入ってきたスローガンで、ヒッピーなどの系統だ。

 その英語のキーワードが、今に至るまで残っていて、しかも大人というとき、当時は三十以上だった。今はもう変わってきているだろう。今は三十ってまだ子供みたいなものだ。

 その感覚自体もやはり女につながってくると思う。少し違うか。今のところ、違うな。いずれにしても大人を信じちゃいけないと言われて、私はもう全共闘の頃から、そういう考えに違和感を持っていた。私は、子供の頃、大人の方が好きだった。子供であることが嫌で、早く年寄りに見られたかった。

 別に子供に対して、深い思い入れもないが、六○年代後半、今ちょうど版権切れで問題になっている『星の王子さま』辺りとの絡みで、よく聞く「少年のような瞳、無垢な美しい心」とかが出てきた気がする。サン・テグジュペリをどう評価するかは、フランス文学の中で考えるべき、一つの課題だ。

 サン・テグジュペリを、私は中学時代に読んだ。最初に読んだのは『夜間飛行』(一九三一)、そして『戦う操縦士』(一九四二)で、『星の王子さま』ではない。新潮文庫だった。リリシズムのある格好よさみたいな、詩のような感じで読んでいた。六○、六一年頃の話だ。そのうち同じ人が『星の王子さま』(一九四三)を書いているのを知り、読んだのが大学時代、二十歳か二二の頃。『星の王子さま』は最晩年にアメリカで書かれたが、日本で翻訳されたのは、今版権がどうのこうのって言っているから、そのころだろう。


 当時だと、多少早熟な子供はアルベール・カミュサルトル、そういうのを読む。実存主義が入っているから、ドイツだったらヤスパース哲学書とか。それにあの頃は、ハンガリー実存主義から生まれたルカーチとか、今の学生は読まないが、でも、今もまだ専門家のために本が出ていると思う。そして、とにかくその流れの中で読むわけだ。新潮文庫の目録などでフランス文学のくくりに目を通し、現代作家として読むべくして読んだんだよ。

 しかし日本で『星の王子さま』は、作者のある一部門が異様に肥大した、別の読まれ方で定着してしまった。サン・テグジュペリの異色作とは言えないし、実際『星の王子さま』の中にも「子供のような心が」とか「人はみんな最初少年だった」というような文句はあるが、その部分だけが、拡大されて読まれている。児童文学の作家とさえ思われている。

 児童文学には、戦前戦後を通して、また別の流れがある。日本の場合、生活綴り方運動があって、自分の足元を見つめ直しましょうという、自然主義的な発想がある。その後、『にあんちゃん』(安本末子)などの系統に流れていくが、あれは、児童文学ともまた違う。明治末から大正以来の、たとえば小川未明とか「赤い鳥」の、そっちが伏流水になって上がってきた。子供の童心主義が曲折を経て、そこにつながる。


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 赤い鳥でも先頭を切ってやった人たちは、それなりの覚悟があった。つまり当時は、それこそ徒弟制度で、子供は十五、六になれば職人になるような日常に、突然夢みたいな話が出てきて、「子供はいつも夢を見ながら生きている」、「無垢な犬の中に生命がある」という本が出る。しかし実社会は、犬殺しもいて、犬の生命は飯のタネでもある。それを「すべてのものに小さな慈しみを持って」と、金子みすゞ(詩人/一九○三│一九三三)のような作家が声を上げる。金子みすゞを、みんな今になって素晴らしいと言うが、実際若くして自殺しているわけで、原因はほかにあるのだが、つまり辛いのだ。彼女も先頭切ってやって来たのだし。それを「金子みすゞの本を読んで癒やされました」ではない。癒やしている方は、それは百倍辛い。

 児童文学は、戦後また変な伸び方をして松谷みよ子(一九二六年)の民話運動などに絡んだりもするが、とにかくここで、いわば子供・少年純粋主義が生まれてくる。生まれてきて、しかも強調され、増大する。それが、あの頃のヒッピー文化、また団塊文学になって、たとえば「戦争を知らない子どもたち」という歌ができる。みんな大合唱していたが、私は、あんな屈辱的な歌はないと苦々しく思っていた。

 だいたい戦争を知らないことが、なぜ偉いのか? 自慢になるのか? 自分で戦争を知り、敵を憎んで殺すか、または軍人に対して平和を唱えるか、この二つしか選択肢はないはずだ、それでこそ大人だと思っていたから「戦争と戦いました」、あるいは「戦争に行きました」は、これはどちらも自慢になる。しかし「知らない」ということが自慢になるか。しかも「僕らは子どもたちだ」って、当時二十七、八歳で、恥ずかしくないのかと思っていた。

 彼らは「きれいな子供」と「汚れた大人」という線を引き、自分たちを子供の側に置いたわけだ。しかし私は、大人が正しいと思った。

 当時、野坂昭如も、フォークの歌詞はひどいと怒っていたが、野坂は、焼夷弾が落ちてくる中を逃げまどい、妹の持っていたお菓子を取り上げて、それで餓死させたという状況まで知っているから「何が子どもたちだよ、知らないって何だ、それですむのか」はあるだろう。

耳の〈リアル〉と「事実」の関係


 大正12年の秋、というと、あの関東大震災が起きた年の、まさにちょうどその頃、ということになります。ただし、これは被災地東京ではなく大阪でのこと。当時、朝日新聞社企画部にいた高尾楓蔭が、ひとりのアメリカ人を会社に連れてきました。この高尾楓蔭という御仁、教会を介して高野岩三郎とも交流があり、社会的には箕面を根城として活躍する童話家として「お伽芝居」の興行に尽力、宝塚歌劇の黎明期にも参加したという、その頃の大阪の文化人のひとりでなかなか面白い人なのですが、それはまた別の話。ともあれ、その彼の連れて来たアメリカ人、「ラジオの放送機と受信機」をそれぞれ1台ずつワンセット、持ち込んできたそうです。

 「ラジオ」といいますが、当時はまだ、第一次大戦で一気に実用化の進んだ一対一の無線電話(無電)から、不特定多数の受信を想定する本格的な放送局形式のラジオ放送がアメリカでようやく可能になって間もない頃。「この頃の受信器といえば、長さ二尺余、幅一尺ほどの長方形の大型箱で、その箱の上に直径一尺ほどの朝顔型ラッパの拡声器が置かれてあった。価格は一台三千円ともいわれていたから、大阪で所持するものはホンの一部の富豪か研究家に過ぎなかった」そうですから、このアメリカ人もこの「ラジオ」機械のセールスに訪日したものの、売れずに困った挙句、伝手を頼って先の高尾に、無料で貸すから試しに使ってみてくれ、と頼み込んだ。条件は、電気代だけそっち持ちで半月ばかり。その頃の電気代で2~300円だったそうですが、これを朝日新聞社が好奇心まかせに使ってみることになった。


「三階の社員宿直室前の廊下に放送機械を据付け、東側に隣接する大広間に受信器を設置し、社屋中央の高塔時計台にアンテナを張って受信することにした。今から考えると馬鹿げた話で、扉一枚開けば受信器も放送機もなく肉声で聞けるものである。」

 つまり、廊下にマイク側を置き、アンテナはわざわざ建物の外の高所に張り、それでいてスピーカー側はその廊下に隣接する大広間に置いたということですが、このあたりは「無線」で「通信」できる、ということ自体が、興味関心としてまずあり、そして次に、一対一の「対話」でなく、スピーカーを介して不特定多数に「同時に」伝わるのが重要だったということでしょう。

 そうしたら、果してどういうことが起こったか。

 「夕刊の編集が終るころからこの急設の放送局へ有志が参集した。いずれものどに満々たる自信のある連中ばかりで、流行歌、俗謡、都々逸、端唄、常磐津、浄瑠璃、軍歌、唱歌、詩吟、浪花節などが順次選手によって放送され、これを広間で社員が聴いてヤンヤの拍手を送った。」(篠崎昌美『浪華夜ばなし』朝日新聞社、1954年)

 つまり、社内の廊下でかわるがわる、宴会の隠し芸大会みたいな事態が自然発生的に出来し、またそれを社内の人間たちが聴いてうれしがった、というお粗末。

 その具体的な範囲や人数はともかく、そして社内の人間限定であったにせよ、まずは不特定多数の「みんな」に対して何か聞かせねばならない、という状況になった場合、「ことば」ではなく、何であれいずれ芸ごとにあたる表現、それこそまさに「うた」の係累でなければならないという縛りが、どうやら無意識のうちに「そういうもの」として当時の人々の間にあったらしいことがうかがえます。と同時に、「隠し芸」とひとくくりにされて、昨今ではもう忘れられかかっている身ぶりにひそむ、かつて「そういうもの」としてあり得ていた背景や理由についての何らかの「歴史」についても、また。

 「芸」を介することで初めて、個人の私的な表現も何らかの社会性を持つようになるものだし、それをひらたく言い習わす語彙として「うた」もまた、あったらしいこと。そして、「おはなし」というのも、ことばによる表現が想定されてはいても、どこか「芸」や「うた」と同じ種類の属性も含まれる語彙として認識されていたらしいこと。だから、「芸がない」「話にならない」といった慣用的なもの言いにも、立ち止まってほどこうとしてみるならそのような茫漠とした「民俗」レベルも含めた経緯来歴が、眼前の〈いま・ここ〉にひそむ「歴史」としてはらまれているらしいこと、などなど、問いの種は広がります。

 この趣向の企画、「初めの四、五日間は大入満員であったが、一週間も続くと、歌手は疲れるし、聴取者は同じものばかり聴かされるので、興味も薄れて次第に社員の足はまばらになった。」 「もっともこの間の機械の操作は米人がやっていた」そうなので、使用料として彼の日当込みで三千円を要求され、社内ですったもんだになり、持ち込んだ責任をとって先の高尾氏が退職金で払うとタンカを切って辞表を出す出さないの騒ぎにまでなったとか。結局、当時の社長、村山龍平の鶴の一声で支払うことになり一件落着したといいますが、しかし、その後、さらに思わぬおまけが。

 「ほどなく外国航路の郵船、商船の船長から「これまで本船の無線電話に入るものは、ペラペラの英語か訳のわからぬ洋楽ばかりであったところ、数日前から突如として夢にも思わぬ日本の俗謡が聴えてきた。槍さび、奴さんをはじめ地方の民謡俗歌、とりわけ浪花節に至っては船員達を狂喜せしめた。(…)末尾に朝日新聞放送といったが、大阪の本社か、外国にある支社か、いずれにしても満腔の謝意を船員一同に代って述べる」という書簡や電報が届いた。この宛名はいずれも社長宛であったから忽ち社内上層部の大問題となった。」

 新聞社の身内・内輪による、それこそ宴会の「隠し芸」のノリでうれしがっていたものが、うっかり船舶無線に受信されていた、と言うことらしい。これが果して本当だったかどうか、この時持ち込まれていた「ラジオ」機器がどれくらいの強度の電波を発するものだったか不詳ですし、そもそも技術的に当時、そのようなことが可能だったのかなど、いろいろと要検証な挿話ではありますが、仮に事実だとしたら、直接でなくとも外洋を行く船舶無線で受信できるような「放送」になったということにはなる。そういう意味ではその際、「朝日新聞放送」という自称のコールサインまで勝手に名乗っていたらしいのは、新聞社員の隠し芸大会程度のものであれ、その現場では「ラジオ」を介した「放送」という認識はすでにあったのか、その洒落っ気も含めて、なかなか愉快ではあります。いずれにせよ、これが期せずして「放送」を介した「素人のど自慢」の嚆矢になった、ということらしい。

 「ことば」よりも「うた」が、「芸」こそが、表現においては先行していたこと。個人の私的な表現もそういう形式に変換しなければ、不特定多数の世間一般、つまり「社会」に対して何らかの有意義なものにはならないという認識があたりまえに共有されていた、そんな時代の趣きある挿話だと思いませんか。

 この後、無線放送の通信機関としての有用性を認識した朝日新聞は、大正13年1月、今度は正式に社の主催で「無線電話大展覧会」を開き、さすがにこの時は社員の隠し芸では恰好がつかないというわけで本職の女義太夫浄瑠璃を呼んで、一日三回、一時、二時、三時に「放送」させています。送信所は本社三階大広間、聴取所は長堀橋高島屋八階演芸場に設定したといいますから、直線距離でざっと2㎞半。いずれにせよ、このように「居ながらにして、まるでその場に居合わせるかのような」体験のできるある種疑似体験の道具、言わば「耳の見世物」といった体で「ラジオ」もまた、世間一般その他おおぜいを相手どる新しいからくりとして周知されていったことは、これまでもさまざまな挿話や逸話を貸して触れてきていますが、ここでもまた、その時その場で稼動していた「耳」とは、「うた」に、そして「おはなし」や「芸」に、まず鋭敏に合焦してゆくようなものだったこと、を改めて確認しておきましょう。


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 同時にまた、「ことば」から「うた」の側へと身を寄り添わせてゆく道筋もありました。それも、多くはあの「おはなし」というたてつけを介して、話し言葉としての「ことば」が「おはなし」のたてつけに沿って整えられてゆく。いわゆる「民話」と雑にひとくくりにもされ、いずれある定型として流通していたさまざまな口承伝承の渾然一体な貯水池から、上演に際しての輪郭が整序され、「語りもの」と呼ばれるようにもなってゆく。その意味で、それら「語りもの」もまた、そのような耳にとっては「うた」として響くものでもありました。それはいま、それら「語りもの」を理解しようとする場合に当然のように媒介される「物語」というあの鹿爪らしい漢字二文字に鋳固めてしまうには、とりとめなくも豊かな拡がりや、かけがえのないふくらみを、われらの日々の生にもたらしてくれるものでした。

 とは言え、そのような「語りもの」的な「おはなし」の話法、文法というのは、必ずしも話し言葉を介してだけ稼動するものでもない。書き言葉もまた、それら「語りもの」の骨法を下地に「おはなし」に整えられてゆくところがあった。なぜなら、書き言葉もまた、それを操るのは他でもないこの同じ生身、「自分」という意識を持つ主体でしかないのだから。「語りもの」に対する感受性を宿してしまった耳を持つ、感情や官能も共に同じ生きものとして「ことば」の縛りの裡にある、このおのれの身を頼りにようやくかたちになり、表現として眼前にあらわれてゆくものなのだから。

 ですから、あの「言文一致」という術語で引き出される膨大な「歴史」の問いの領域にしても、書き言葉としてできあがった文字列というだけでなく、それらを手と筆記用具とを介して紡ぎ出していった生身の書き手の、その営みの刹那の身の裡の感覚や感情、そこに宿っていった〈リアル〉の過程などまで含めて「まるごと」の対象として敢えて見据えてほどいてゆこうとするならば、問いの根は同じところにあることに、必ず理会するはずです。

 いつも事例は具体的な方がいい。たとえば、「語りもの」の代表格かもしれない「講談」について、とあるSNSでのやりとりの断片。

「戦時下の新聞は、一緒に戦争を盛り上げた側面も大きいです。戦意高揚の事業もありましたし。負け戦でも題材を探し虚構でも盛り上げるのが使命という人も多かったと感じます。(…)当時の戦況報道は講談そのものですね。玉砕した部隊の記事など(目撃者が残っていないのだから)書けるはずがないのに。思い出したのは、先日話題になったアナウンサーの「テレビが安心を伝えるメディアじゃダメなんですか」という発言です。当時の新聞は作り物の安心だけを届けていたわけで……」

 かつてのマスメディアであった新聞は戦時中、「講談」のような「作り物の安心」だけを届けていたじゃないか、その結果、当時の国民は事実を知らず「安心」するだけだったから、あんなひどい敗戦に導かれることになったのだ――ざっとこのようなトーンが背後にあるらしかった。

 ならば、その「安心」とは何だろう。「世間一般その他おおぜいに対して納得ゆくように説明、ないしは解釈を提供してもらう」ということでもあるのなら、それは常に「作り物」という意味での「おはなし」から逃れられないのではないか。いや、そうじゃない、どこかに「本当の」安心があるはずだ、という発想は、それ自体ある種のイデオロギー、まさにその「講談」という比喩で明らかにネガティヴに設定された考え方の裏返しを自明の正義としてフリーズさせることになってゆくのではないか。「講談」という比喩で「おはなし」をネガティヴにだけとらえるこのような気分は、「ことば」と「うた」、そしてこの場合は「ジャーナリズム」と「芸能」の地続きにも連なってゆくだろう、われら人間存在のあやしくもとりとめない領域について、その感受性を鈍麻し、遮断して行くことにしかならないように思えます。

 問いの焦点は、「事実」から書き手の記者の内面、ココロの裡に、あるひとつの光景なり情景が「自然に」広がってくるからくりであり、ことばとそこから想起される個人の裡のイメージの「歴史」についてです。そして、そのようなイメージが宿ってゆく過程で、それまでの情報環境において醸成され、伝承もされてきたらしい「語り」の話法や文法に、それまでと異なる「力」を、言わばある種の不用意な喚起力を付与していったかも知れないことも。

 それは、個々の文字や言葉が辞書的な理路に沿って導き出してくるイメージというだけでなく、それより素早く瞬間的に「浮かぶ」シーン、情景としてのイメージの鮮烈さと、それが書き言葉の側にまでもたらす強制力でもあります。ある意味詩的でもあり、その限りで審美的でもあり、さらにその先にはおそらくあの「うた」などとも隣接してくるであろうココロの動きの領域。それこそ、浪曲浪花節を「眼をつぶって」聴くのが作法となっていった、おそらくは大正末期から昭和初期あたりを境とした、本邦常民その他おおぜい的なココロの作法の変貌の過程などとも関わってくる問いになります。

 うっかりと瞬間的に「浮かぶ」視覚的な情景、というのがその「感動」をそれまで以上に強くしてゆき、文字のリテラシーを介して表現してゆくことを半ば自動的に要求してゆくようになる過程。それまでならば「夢見がち」程度のその場の状況的な、そしてその分個人的に「処理」されてもいたような種類のココロの傾きが、視覚的な情景を介してうっかりと誰にも共有される領域に通底し、その結果、ただの「夢見がち」に収まることのない現実への環流の回路までもが広汎に開かれてしまってゆく情報環境の問題。眼はいらない、ココロに「浮ぶ」情景と、「おはなし」そして「うた」に合焦する耳があれば、そのような官能を実装した生身がその場にいれば、それだけでかけがえのない〈リアル〉は、ほら、そこに目の当たりに立ち上がる。

 「大和の沖縄特攻の記事では、大和が敵艦を攻撃して撃沈する様子を見て喜んでいる沖縄の兵士の談話とか載っています。すさまじいばかりです。そりゃ、兵隊が「天皇陛下万歳」と叫んだことになっていても全然おかしくない。こうだろうとイメージした記事のなんと多いことか。」

 そのような〈リアル〉には、すでに時も場所も必要ない。だから、この世の生身に付随する名前など、個別具体の要素や属性が後景化してゆくのは必然です。たとえ、書き手がそのように意識してのことでないにせよ、結果としてこのように。

 「ガダルカナル島の記事を見て思ったんですが、主語(部隊名とか)も日時も伏せ字なら、何だって書けるということですよね。検閲とか言論統制という面からしか考えたことがありませんでしたが、ある意味で全能感を持って、本気で講談を書いてもいたのかも。国民の不安を取り除くのが仕事だと思って。」

 伏字で匿名性が保証される、ということは、単に「事実」との紐付き方を制限することで重要な機密が漏れないようにする、という現実的な実利のレベルだけでなく、それによって「おはなし」の話法・文法が「語り」の方向へと解き放たれてしまうことを許容するトリガーにもなったでしょう。匿名だから「事実」との紐付き方も自由度が高まる。だから、もともと内包されていたにも関わらず、「事実」や「報道」に関する現実的な実利の約束事が拘束具として働いてもいたものが、一気にその内包されていた「語り」の方向へと動き始める。「おはなし」は「語り」の調子、それらの呂律に動かされ始め、書き言葉が話し言葉と融合した「語りもの」の領域に遷移してゆく。つまり、「講談」になってゆく。

 「事実」と「報道」という実用性の枠内で自らの仕事を律することを求められていた現場の記者たちにとって、のっぴきならない現実にまるごと身体ごとで直面し、「事実」を全身で受け止めようとし続けてゆく中で、同じ生身の中の官能や身体性などもひっくるめた領域が実用性の枠内にだけ収まっていられるものでもなかっただろう、というところに、さて、どれだけ留保してゆけるか、それがおそらく「歴史」という干涸らびたもの言いに新たな息を吹き込み、〈いま・ここ〉の日常性身体性の水準と身近に切り結んでゆけるようないきいきとした相貌を垣間見せてやるために、重要な試金石になってくる。単に「報道」の話法・文法だけの問題ではないこと、言うまでもありません。

作家の音読と朗読、「読む」と「書く」の関係


 いわゆる作家が自分の書いた作品を同人誌の仲間に披露する時、自ら原稿を朗読する習慣が、かつてあたりまえにあり、そしてそれはずいぶん後まであったらしいことは、以前も何度か触れました。それは小説であっても、それこそ流行歌の歌詞においても、それが「作者」と「作品」という組み合わせで、ある特別な意味を附与されている限りは同様だったらしいこと、さらに、それは詩や短歌など、広義の「うた」にまつわる「民俗」レベルも含めた何らかの「そういうもの」という認識の上のことだったらしいことも。

 今のように黙読があたりまえになる以前、「読む」には音読が伴うもので、明治以降の近代の過程でそれが黙読へと移り変わっていった――これはもう、広く共有されている知見だと思います。そして、かつてあたりまえだった音読は、それを「聴く」耳のリテラシーを介して社会性・共同性を組織するものであり、黙読へと移行してゆく過程でそこから社会性が引き剥がされ、自省的な「個」の内面を伴う自意識が晶出されてくるようになった、というあたりもまた、本邦の近代の来歴を考える上で共有されている理解でしょう。たとえば、こんな具合に。

 「こうした吟誦は学校、寮、寄宿舎などの共同体で集団的に享受され、連帯意識の高揚に役立っていたと考えられる。文章を暗記し、人前に披露する吟誦は音読のさらに一歩進んだ形であり、唄に近い性質を持っている。実際、土佐自由民権運動では土佐民権唄という唄も存在しており、吟誦と唄は同様の目的で享受されていた。」(森洋久「明治の声の文化」、木下直之吉見俊哉・編『ニュースの誕生』所収、東京大学出版会、1999年)

 音読には、近世以来の漢語・漢文脈での素読など、教育的な意味あいから、「人前に披露する」というある種芸能的な「関係」と「場」に向かう目的までも身体技法として引き受けてゆく幅があり、その限りで「唄」にもなだらかに連なってゆくところがあった。「吟」も「誦」もそのような文脈で、あらかじめ音読に含まれ得る要素、属性でもあったということになりますし、この場でずっとこだわっているような意味での「うた」もまた、それら全てをゆるやかに包摂したものとして考えようとしています。

 ただ、それでもなお、まだよく見えてこないところはある。

 たとえば、作者がその原稿を雑誌なり単行本なりの担当編集者との間でやりとりする場合は、相手に単に紙媒体を手渡すだけで、その場で原稿を朗読して見せたといった挿話は、あまり見かけたことがない。もちろん、これはこちらが不勉強、本邦「文学」と呼ばれてきた領分の広大無辺で茫洋とした蓄積の、そのごくごく一端を、それも好き放題勝手次第にあれこれ千鳥足でつまみ喰いしてきただけの身の上ゆえの、単なるもの知らずであるかも知れないことを十二分に踏まえた上でのこと、ではあるのですが、それにしても、音読から黙読へという過程が近年、分野を越えた本邦近代の来歴にまつわる問いとして共有され、またそれに伴う仕事も着実に蓄積されてきているらしい中、「読む」と「書く」、そして「聴く」と「話す」も含めた、生身の身体を足場にした「関係」と「場」におけるそれら身体技法の「まるごと」のありようについての、可能性も含めた問いの補助線は、未だ十分に引かれているとは言えないようです。

 例によってのささやかな挿話から、敢えてまた立ち止まってみます。

 明治10年代末、巌谷小波は早熟で、10代半ばですでに湯島聖堂の中にあった帝国図書館に入り浸って手当たり次第に濫読していたそうです。「読む」という作法における黙読の習慣があたりまえになってゆく、未だその揺籃期だった当時、世間ではまだ音読が一般的だったはずですが、ならば、そこでの彼は、果して黙読の習慣をすでにどのようにつけていたのか。

 「我が国最初の官立図書館として明治五年に湯島聖堂内に開設された書籍館では、雑談と音読が禁止された。開設当初からの「書籍館書冊借覧人規則」には「館内ニ於テ高声雑談不相成者無論看書中発声誦読スルヲ禁ズ」とある。そして、その後に開館したすべての図書館に音読禁止の規則は受けつがれていった。 しかし、音読に馴染んだ学生が黙読することは難しかったようで、音読の違反に対して、徹底した取締りを行う図書館もあった。実際、音読規制があるということは、逆に音読の文化がいかに大きかったかを示していると言えよう。」

 同じくその時期、彼は手すさびの創作を試み始めていて、草稿も残っているのですが、ならばそれを「書く」段においては、自ら音読しながら書いていたのだろうか。むろん、朗々と詠じるようなものではなかったにせよ、その頃の世間一般その他おおぜいのように、脳裏に浮ぶ文言を口もとで低く唱えつつ書いていたりはしなかったか。図書館という、黙読の習慣を世に先駈けて根づかせようとしていた当時最先端の施設において、その場にふさわしい身ぶりとしての黙読を励行し、またある程度習慣化していたとしても、同時に幼い頃から寄宿制の漢学塾をいくつか転々とし、近世以来の素読から始める音読主体の教育を受けていた彼の生身の裡にすでに始まっていただろう「読む」の分裂が、「書く」の側にもさて、どれくらい対応し、反映されていたものだろうか。

 その小波はまた同じ頃、人目に触れては困るような内容のことを兄に手紙で伝える際、ローマ字で書いたという挿話が伝えられています。これも時期的には、ローマ字による日本語表記の運動が立ち上がったそのごく最初、まさに黎明期にあたり、10代の彼がその頃からローマ字による表現を自然に試みていたことは、後年、作家として本格的に活躍してゆく中でも積極的にローマ字表記への関心を示していたことなどを考えあわせても、その非常に早かったことに驚きますが、ただ、そこでの「書く」は、同時にその書かれたものに対して想定されていただろう「読む」も含めて、当時まだあたりまえだった音読を介したものとはちょっと考えにくい。

 ローマ字による日記ということならば、少し後の石川啄木のものはすでに有名ですし、また考察や分析その他も汗牛充棟の感がありますが、あれもまた、「日記」という個人の内面との照応によって成り立つような形式の表現において、しかも性的生活も含めた内的日常を記録するという極めて私的な領域に関わる内容ゆえに選ばれたもののはずで、「書く」段でも、またそれを「読む」際においても、啄木が音読を想定していたとは思えません。なぜなら、音読されてその「場」で聴かれることを想定していたら、そこで秘匿されるべき中身が露わになってしまう。「日記」という形式自体、黙読の習慣がある程度浸透していた情報環境を担保にして成り立っていった、と考えていいでしょう。


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 小波にとっての「書く」という身体技法のありようは、昨今の「読み聞かせ」にまで連なるとも評価される、彼の「お伽噺」「口演童話」との関係を補助線にして考えると、作家による原稿の音読の習慣に関する問いにもヒントを与えてくれるように思えます。

 彼も若手として加わっていた硯友社は、いわゆる同人誌の始まりともされる「我楽多文庫」をつくったことでも知られますが、その体裁はどのようなものだったか。


 「詩、俳諧、短歌など、一首一類に偏することなく、およそ文筆の技に属するものは全て網羅し、小説、戯曲、詩歌、都々逸、川柳、冠付けに至るまで、遍く同好の士を集め、隔月に1回これを雑誌形式のものに編集して投稿者同士回覧し、(…)回覧の際は、どんな批評も勝手ということに決まった。」(巌谷大四『波の跫音――巌谷小波伝』、新潮選書、1974年)

 「文筆の技」とくくられていますが、要は当時の彼ら若い世代が新たに手にした「文学」という西欧由来の解釈枠で、身のまわりにある言語表現を個々のたてつけの違いを越えて得手勝手に、それこそ何でもありに試み、束ねることにした、そしてそれを「雑誌」というこれもまた当時新たな紙媒体の形式に盛り合わせ、互いに「回覧」し「批評」しあうことにした、ということでしょう。ならばさて、そこでの作品はどのような過程を踏んで、紙媒体の上に形にされていったのか。後の同人誌などで普通になったらしい原稿の音読、朗読を編集の席上行なうといった作法は、果して「我楽多文庫」の段階で、すでにあり得たのか。

 このあたりは、書き手によるところもあったようではあります。明治の硯友社「我楽多文庫」の時代からはだいぶ下りますが、たとえば吉行淳之介あたりになると、こんなことを言っている。

 「神田小川町の目黒書店ビルの屋根裏部屋に行ってみると、数人の眉目秀麗な青年たちが、意気軒昂とした態度でたむろしていた。彼らは、屋根裏の天才と自称し、ほとんどそう信じている様子にみえた。(…)同人の原稿の採否は、屋根裏部屋での朗読によって決定された。自分の原稿を朗読することは、私にはくすぐったい気持がつきまとったが、他の同人たちはむしろ気負って朗読していた。もっとも、それが最も簡便な方法に違いない。」(吉行淳之介『私の文学放浪』、講談社、1965年)

 昭和21年のおそらくは始め頃、当時の『世代』の編集会議の場でのこと。彼らは同時に「懇談会」と称して読者との相互関係を意識的に設定していましたが、それは同人誌の「合評会」をさらに開いたものにしようという意図だったようです。

 「集まった原稿を前にして、その採否を討議する編集会議も同様である。そこではそれぞれの読書目録を背景として、話芸と討論の技巧が優劣を決める。場数を踏み、社交性に富んだ都会秀才は、そうした場面で圧倒的強みを発揮する。逆に頭の回転ののろい口下手な田舎者は、それだけで圧倒され気おくれのために自信を喪失し、また内心反撥する。」(粕谷一希『二十歳にして心朽ちたり』、新潮社、1980年)

 その誌面に掲載するものは、創作だけでなく、翻訳であっても朗読して披露されることになっていたようです。

 「あるとき、ラモン・フェルナンデスの翻訳の朗読がおわり、一瞬座が静かになり、いいだ・ももが発言する気配になった。彼の発言は、一種ご託宣のおもむきがあった。開口一番、彼はこういった。「誤訳はないようだね」 私はおもわず笑ったが、同時にうーむとうなる心持だった。」(吉行、前掲書)

 こういう「場」、それを編制している「関係」とは、果して何か。素朴に、たとえば大学のゼミ、演習の「場」に親しいもののようにも見えますし、あるいは、カラオケルームでの親しい関係の「場」のようにも思えます。いずれにせよ、その限りである種の権力構造が内包されていることもわかる。ならば、明治の「我楽多文庫」の編集の「場」は、果してどうだったのか。当時としては明らかに恵まれたごくひと握りのエリート層の子弟たちであることは、社会的な文脈においては同じでも、「作者」が「作品」を音読、朗読して「みせる」ことが自明に「そういうもの」として成り立っていた背景にも、すでに何らかの歴史的過程、「民俗」レベルも含めた生身の身体性とからんだ「まるごと」の来歴もまた、あたりまえに隠されているはずです。


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 「印刷の発達によって語り部たちはつぎつぎと世に躍り出た。円朝の語りが速記に写しとられ、さらに印刷で「高座」を読むことができるようになった。その円朝の語りを評価した坪内逍遙は小説の新たな理論を打ち立て、新潮流をもたらそうとした。その逍遙に傾倒する二葉亭四迷が世に問うた『浮雲』に連動するがごとく、賤子の『小公子』が誕生したのである。かくして出版物が影武者のように語り部となって読者のもとに参上することになるのである。賤子の『小公子』を逍遙がつぎのように認めたのは「伝達」のメディアを考えた場合、また意を尽すという言語確立の時代の流れの中でとらえた場合、必然の動向であった。」(高橋康雄「子どもへの眼差し――若松賤子『小公子』」、『冒険と涙――〈童話以前〉』所収、北宋社、1999年。)

 早逝したものの、その残された仕事の可能性は、その後の情報環境と言語空間においてその豊穣が改めて証明される高橋康雄の炯眼。女性の語り文体が後の「童話」へ連なっている可能性について言及された一節ですが、「言文一致」の時代の情報環境において、立体的かつ複合的なメディア相互の関係や、読み手を介した「読み」の「場」の浸透なども含めて、すでに視野に入っています。

 このような「おはなし」を主眼とした語りもの文芸を見ようとする際、まずその「語り」という部分に対するパースペクティヴが方法意識と共にある程度しっかりと輪郭確かなものになっていないことには、旧来の文学研究、とりわけ文学史や文芸批評といったたてつけを介したもの言いの、茫漠とした分厚い蓄積の側に容易にからめとられることになりますが、高橋はそうはならない。

 「福澤はその口調をそらんじ、これに倣って全編を七字五字の体裁に綴ったので、初学の児童にも朗誦しやすく、非常な歓迎を受けて夥しい売れ行きを示し、そのうちに一種のメロディが生まれ、子守唄にまで謡われるようになったという。そのメロディが後に軍歌調の濫觴となったと伝えられている。またこの書の売れ行きの盛んなのに着眼した書肆が、この口調を模倣した「何々づくし」「何々往来」と題する類書を夥しく出版し、七五調の口誦本の流行を生じ、それがやがて明治十四年頃の新體詩出現の素地を成したと見られている。」

 彼は巌谷小波を評価するに際して、子どもの記憶に利するために七五調を、講談などの語りもの文芸の文体や話法を積極的に取り入れたと言います。つまり、語りものは記憶のために有利な形式であり、そのように語ることは今日のわれわれが前提とする「記録」とはまた別の「記憶」が、人々の社会性を編み上げる際の重要な紐帯になっていた情報環境のことを思い起こさせてくれます。

 また、この「記憶」というのは、「写実」「写生」とも親しいものだったらしい。「記憶」による備忘の仕方には、細部の個別具体の正確さや実証性などへの配慮は二次的なものとして後景化している代わりに、「記憶」という備忘の仕方に独自に属している定型としてのたてつけの裡に宿る個別具体が、必然的に前景化されます。加えて、さらにそれら個別具体がそのまま、眼前の実体と重ね合わされるものでもなく、定型としてのたてつけの裡にある〈リアル〉を立ち上げてゆくための、言わば触媒のような役割を与えられて初めて、そこにあるような形をとります。

 たとえば、犬が二匹、という個別具体とおぼしき描写があったとしても、それは個体の犬が二匹いるという「事実」としてよりも、「おはなし」の裡で立ち上がるイメージとしての犬二匹という色合いが濃いものになる。その眼前の犬二匹がそれぞれどれくらいの大きさなのか、オスなのかメスなのか、毛色はどんなものか、黒いのか茶色いのか、それともブチか、毛足は長いのか短いのか、顔つきはどんな感じか、など、眼前の犬の個別具体の特徴その他は現実にあったとしても、その描写に接する側、読み手の裡に〈リアル〉の立ち上がる最初の水準はあくまでも「おはなし」であり、その限りでの定型としてのたてつけと、それに対応することばを介した舞台であるはずです。例によってまた面倒なことを言っているようですが、このように生身の裡に〈リアル〉が実際に立ち上がってゆくであろう過程と経緯について、しつこく立ち止まりながら確認してゆく作業は、われらの裡の「うた」の原初的発生地点を探ってゆく上で必要であり、また重要です。

 絵画の「スケッチ」「写生」についても、おそらく事情は同様でしょう。眼前の事物をそのものとして紙の上に描き出すことは、眼に映ずる事物をそのものとして見る以前に何らかの定型、それゆえに「おはなし」に収斂してゆくようなフォーマットを介してまず見る訓練を日常からしてきたであろう当時の多くの人々の意識にとっては、眼前の事物の「写生」とは、それらすでに自身の裡にインストールされている「おはなし」ベースのフォーマットをあらかじめカッコにくくって機能停止させねばならなかったはずです。その意味で、それは異文化理解の際の手続きに等しいものだったでしょう。文字よりも絵が、いまどきのもの言いでいうなら「ビジュアル」が、より具体的に「見える」分、想像力を刺激したという事情もあるにせよ、生身の身体の裡に宿る何らかのものの、その初発のありようというのを改めてことばにして取扱可能な形にしようとすることは、かように手仕事的な迂遠を必然として求めてくるもののようです。