1994-01-01から1年間の記事一覧

「言葉狩り」をする立場、とは?

『マルコポーロ』一二月号に『「言葉狩り」徹底追及』と称した特集が掲載された。てんかん協会との「合意」の後、目立つ場所でまとまった発言のなかった筒井康隆のインタヴューを中心に、解放出版社事務局長へのインタヴューなども交えた力の入った企画。だ…

照葉、バーのママになること

束の間の女優稼業の後、再び大阪へ舞い戻った照葉はバーのママになった。店の名前は「テルハの酒場」。前述『照葉始末書』(昭和四年)の記述によれば、昭和三年の五月末頃らしい。 尾羽打ち枯らして帰ってきた古巣関西で借金がらみのいざこざに巻き込まれ、…

大学「改革」待ったなし?

大学の「改革」が、いよいよどこも“待ったなし”になってきている。 ところが、いろんな大学の事情を耳にすればするほど、何をどのように「改革」してゆくのか、「改革」の方向性がどのように意思決定されてゆき、どのように実行に移されてゆくのか、その間の…

芸者と女優の間

前回、大正初めの大阪で、旦那への自分の気持ちの証しとして小指を切って送りつけた若い芸者、照葉のことを書いた。 文字にしておくということは実にありがたい。この照葉が本名の高岡辰子の名前で書いた『照葉始末書』(昭和四年)という本が残っている。 …

言い寄られるセンセイ、の無防備

そもそも、どうして「センセイ」は自分の近くへ寄ってくる生徒、あるいは学生に対して常に無防備なのだろう。そしてその無防備なるがゆえに、嫌われたり疎まれたり不愉快に思われたりすることに憶病なのだろう。 僕自身には経験がないから、間違っていたら教…

広沢瓢右衛門。浪曲師。 悪声ゆえに我、長命す。

声は悪かった。 いや、声が悪いのは浪花節の常、別に発声の基礎を学校で折り目正しく習うような芸でもない。潮風に向かってまず声をつぶすのが入門当初の弟子のやることという時代。にしても、彼の声は悪かった。 その悪声のおかげで、決して大看板の人気者…

日本の大学どこがダメか?

今さらながらに大学の空洞化が言われ、改革があちこちで唱えられているが、最近出た『日本の大学どこがダメか』(メタローグ)には、現在の大学教師たち四六人による赤裸々な現状告白が集められていて、これがなかなか興味深い。 大学教師と言っても常勤、非…

テレビに言論は不要だ

テレビもまた、新聞や雑誌といった活字メディアと同じように「言論」機関であるべきだ、という田原さんの主張、これは、あらゆるメディアは「言論」機関たり得る、という意味において、総論として支持します。 ただ、テレビが本当に「言論」機関として機能す…

予備校と学校の間

ともあれ予備校とは、同じ「学校」でもそのようにちょっとズレた空間ではあった。 「センセイ」の側には、いわゆる「学校」とは違う輝かしさを勝手に当て込んだ無防備が、そして生徒の側にも、その通常の「学校」との距離感によって保証される何か奇妙な「学…

「百貨店文化」の現在

「百貨店文化」ってのは確かにあったと思いますし、それなりの歴史もすでにある。でも、「文化」が百貨店本来の流通機構の端末としての機能とまるで別に存在した、と思うのは大間違いです。百貨店に限らず昨今の経営者の方々は、ともすれば「文化」を提供し…

小指の誓い

カラオケのマイクでもいい。喫茶店のコーヒーカップでもいい。持つ手の小指をちょいと立てる、あのしぐさはかなり目に立つもので、キザったらしいしぐさの代表のように言われたりもする。だが、あれは他の指ではない小指ならではの、何か微妙な雰囲気という…

大塚英志、許すまじ

大塚英志がサントリー学芸賞を受賞したという報を耳にした。しかも、こともあろうに漫画をめぐる仕事で、だ。 このような賞にまつわるあれこれを外野がガタガタ言うのは、どんな正当な理由があっても、見てくれとしてみっともいいものにはならない。ならない…

かつて「残酷」と名づけられてしまった現実

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)作者:宮本 常一,山本 周五郎,揖西 高速,山代 巴発売日: 1995/04/12メディア: 文庫*1● 初版発行は昭和三十四年十一月三十日。僕がこの世に生まれてまだ十ヵ月足らずの頃です。定価三百五十円。この値段のボール紙製箱入り…

『日本残酷物語』解説

河童、焼跡闇市を跋扈す

*1 敗戦直後、昭和二十年代というのは、どうも河童の跋扈した時期だったらしい。 まず、美空ひばりの、確かデビュー曲が『河童ブギ』。今ではCDにも収められていると思うが、少し前まではよほどのマニアでもなければ知らない曲だった。もっとも、今聴いて…

大江健三郎「ノーベル賞」の無惨

大江健三郎のノーベル文学賞受賞は、やはり大きなニュースとして報道されました。 仕方のないことなのでしょう。彼の出身地の人たちにまでコメントを求めるのは、昨今のニュース報道の紋切り型ですから別にどうということもありません。その地元の人たちが「…

「センセイ」という幻想

幻想があくまでも関係性の中で立ち上がるものである以上、「センセイ」幻想も単なる一方の勘違いというだけのものでもない。生徒の側がそのような幻想を作動させてゆく事情というのも、ことの半分として充分に存在する。 これまで述べてきたような予備校の場…

バッカじゃねェの、中島みゆき

文春の女性誌『クレア』で、中島みゆきロングインタヴューという企画があった。インタヴュアーをやってくれないか、と言われて乗った。 で、結論から先に言う。トラブった。 野外でのグラビア撮影が六時間あまり、その後インタヴューが三時間、都合十時間ほ…

夕刊紙の古色蒼然

タブロイド版の夕刊紙というのは、つい習慣で買ってしまうものだ。たいていは駅売りのキヨスクかコンビニあたり。宅配もやっているらしいが、わざわざ自宅に配達してもらっているという人の話は寡聞にして知らない。メディアとしてはあくまでも家の外で斜め…

川の記憶

*1 育った土地に小さな川があった。 たいした川じゃない。六甲山系からいく筋も流れ出る小さな流れの、もう少し下流へ行けばいくつか他の流れを集めてちっとは川らしい川になってゆくという、そのまさに「川らしい川」になる前の川だ。 だから、特に意識はし…

予備校のセンセイというヒーロー

予備校の教員室にたまっていた「センセイ」たちの自意識のありようは、関係性の動物である我ら人間の常のこと、彼ら彼女ら自身の内側だけで決まってきているものでもなかった。彼ら彼女らを「センセイ」と呼ぶ側、たとえば最も身近なところでは生徒の側から…

花田清輝。負けた、ことの剛直。“若さ”は万能ではない。もちろん、今も。

こいつは負けた、と若い男が叫んだ。叫ばれた方の男は年かさだったが、“若さ”のまぶしさにただ目くらまされるほど単細胞でもなかった。その程度には修羅場をくぐった知性だった。だから、血の気の多さを諌めるような、はぐらかすような調子でその“若さ”をい…

村山内閣「評価」の構造

村山政権に対する評価が変わってきた、と言われる。 確かに、発足当初と違って支持率も上昇してきた。最近どこかの新聞で眼にしたところでは、何でも『発言者』と『週刊金曜日』が共に村山政権に前向きの評価をし始めているとか。なるほど、時代も変われば変…

CDと書物の間

CDのリバイバルが甚だしい。 とりわけ、洋モノよりも和モノに顕著だ。七〇年代あたりのフォーク、ロックはもちろんのこと、最近では八〇年代のものまでもすでに「リバイバル」の対象になっている様子。しかも安い。一枚千五百円から二千円弱といったところ…

「夏」の風景、「海」と「青春」

「ああ、海に行きてぇなぁ」 誰かがそうつぶやいた。赤坂は寿司詰めの六畳ひと間、何人もの若い衆が男女混成、仕事もないまま真夏の暑さの下、あぶられるような日々を下宿に送っていた。石井獏、内山惣十郎、小松三樹三、岩間百合子、沢モリノといった面々。…

予備校の教員室から

予備校の教員室には専任の教員だけでなく、非常勤の教員として「食えない」大学院生がたまっていた。博士課程の単位だけは取ってしまって職がないので籍だけ残している、俗にOD(オーバードクター)と呼ばれる連中がほとんどだったが、日常の教務の大部分…

たけし、を葬る論理

ビートたけしの「事故」をめぐる報道のさまは、彼がどのようにマスメディアの中でその影響力を行使しているかが如実にわかるものでした。それは彼自身が意図したものであるかどうかはわかりませんが、少なくともビートたけしという存在をめぐるマスメディア…

「学問」する身の信頼性

*1 人の書いたものを読む。その書いたものに対して、あるいはその達成の上に、また何か新たな言葉をある条理に沿って書きつづってゆく。紙の上の文字を介したそのようなやりとりの辛気臭い蓄積の中に、何かのっぴきならないものが宿り始め、関係が、場が発熱…

「旦那」と「いろ」と「まぶ」の間――あるいは、日常の“どうでもいい”部分についてのささやかな考察

*1● 先日、とある人から電話をもらった。 某官庁の財団法人として作られたという団体の、まだ若い研究員だった。「遊び」を対象とした共同研究を組織しているのだけれども、民俗学から見た「遊び」といったことについて何か教えてもらえないだろうか、といっ…