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「AI」という言葉を最近、あちこちでやたら目にするようになっています。
例によっていろんな説明は各所でされていますが、いまひとつその中身はよくわからない。わからないのはおまえがすでに老害化石脳、時代遅れのポンコツになっているからだ、と言われるのはごもっとも、その通りではありますが、しかし、何やら次の時代を切り開き、新たな未来をさししめす素敵な呪文のように取り沙汰され、メディアの舞台で賑やかに使い回され始めているのを眺めていると、こちとらすでに無駄に長生きしてしまい始めている身の上、その分こういう事態にはこれまでも遭遇してきたような気がして、何とも既視感が拭えません。
それに伴い、「エンジニア」というもの言いもくっついてきて、そこに「若者」「あたらしい世代」といった属性が相乗りしてきたら、なぜか政治の局面でもあれよあれよと頭角を現わし、それなりの議席も獲得してしまうような事態も出来。メディアの後押し、既存の政党や政治的勢力の思惑もからんでの底上げまでも、何やら同じ波乗りに浮かれているように見えるのは、いまどきの本邦の情報環境、特に世間一般その他おおぜいを相手取って動かそうとする際のからくりというのが、すでにしてそのような「気分」の上に浮遊するのが常態になった「広告・宣伝」ベクトルの資金によって駆動されていることのあらわれではあるのでしょう。
要するに、世間一般その他おおぜい的にはよくわからないけれども、でも何か新しい素晴らしい技術がすでに出現していて、それは若い世代の専門家の新しい頭脳や感覚によって先導されていて、その彼ら彼女らはキラキラした目と自信に満ちた口調とで自分たちから見たそれら来るべきわれわれの社会の明日のイメージを語ってくれているらしい、と。そんな彼ら彼女らが、何をめざしてわざわざ政治の世界に、しかも立法府の当事者として首を突っ込んできているのか、そこは胡乱に感じるところなのですが、でもまあ、メディアの舞台でもすみやかに許容されて好意的に扱われているようだし、だったらまあ、当面お手並み拝見、要継続観察案件にしておくか、とまあ、ざっとそんな印象ではありました、とりあえずのところは。
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ただ、年寄りゆえの既視感というのも、あまり馬鹿にしたものでもない。たとえば、かつての「インターネット」も、いまの「AI」と世間からの受け取られ方は同じようなものでした。すでにある通信手段の電話や無線などとどう違うのか、「ネットワーク」というけれどもそれはそんなに目新しい考え方なのか、など、「新しい技術」で「素晴らしい明日」を招来するということは喧伝されていても、それがいったいどういう点で「新しい」「素晴らしい」なのか、当時の感覚ではうまく理解できなかったものです。
パソコン同士をつないで世界中を「ネットワーク」にする、というあたりまでは何となくイメージできても、そもそもそのパソコン自体がその頃はまだなじみの薄い普及段階の黎明期、ワープロや表計算などの事務的な作業に使う実務的な機械というよりも、まだちょっと高級なゲーム機みたいなイメージがせいぜいで、その限りでは仕事でなく「趣味」「娯楽」に寄せた道具という印象でしたから、それをわざわざ相互につなげてゆくことで何がどう新しい、素晴らしい明日を招来するものか、世間一般その他おおぜいレベルに凡庸でボンクラな門外漢にとっては腑に落ちないままでした。
だから、「どこか胡散臭い」「騙されているのではないか」といった疑心暗鬼が、どうしてもつきまとっていた。だって、記憶の底をさらってみれば、たとえばこんなことを、実に滔々と語ったりしていたのですから。思えばいまどき跋扈する日焼けツーブロックの証券屋のセールスマンか茶髪ピアスの情報商材屋、はたまた聞き慣れぬカタカナ遣いを多用する何が本業なのかわからないwebコンサルのように、実に見事なまでになめらかな口調で身ぶり手ぶりも取り混ぜて。
「今のパソコン市場の伸び方ではインターネット市場の伸び方はフォローできないから、テレビとかゲーム機とか携帯電話とかカーナビとか、いろんなデバイスとインターネットをつないでゆく。炊飯器やエアコンとか……」
今から30年前、当時すでに一部界隈で売り出し中だった、それら「インターネット」に関連する輝かしい未来を標榜していた、その頃の「若い世代」のひとりの言。雑誌での取材インタヴュー記事の一端で、聞き手は他でもない自分だったのですが、この時開陳されていた、当時としてはSFにしか思えなかったその「インターネット」のもたらしてくれるという未来像に対して、「あの、炊飯器とインターネットをつないだら何かいいことあるんですか?」と真顔で返しちまっていたあたり、「どこか胡散臭い」と感じていた証拠ありあり。ところが、なんのこの御仁、その程度で動じるようなタマではなかった。
「だって、会社から炊飯器のスイッチを入れられるし、エアコンと連動して部屋の温度調整もできる。みんな気がつかないだけで、家の中の電気製品はインターネットとつなげば実はものすごく便利になるんですよ。」
「ヒゲソリだけじゃなくて風呂場や洗面所にあるものって医療関係とつながると、たとえば一日のヒゲの伸び具合で健康状態を教えてくれたり、血圧や体重を測ってくれて主治医のコンピューターにデータを入れてくれたりする。いや、もちろんプライバシーの問題とかあるけれども、でも、生活の中で自分の情報がどんどんコンピューターに蓄積されていって医者に行かなくても健康管理ができて便利でしょ。」(『EYE-COM』 1996年)
昨今、世界中を巻き込んでの騒動になりつつあるらしい、かのエプスタイン・ファイルに関連してにわかに注目を浴びることになっている伊藤穣一、その若き日のひとコマ、ではありました。
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いまから振り返ると、なるほどこの時、得々と語りながら大風呂敷広げられていたその未来予想図は、その後30年の間でそれなりに現実のものになってはいる。
リモート操作で自分の部屋、住んでいる家の中の照明やエアコンその他の家電製品を動かすことが可能になっているし、体重計や血圧計といった個々の道具を「つなぐ」どころか、そもそも腕時計のようなデバイスひとつ身に装着すれば、それが血圧でも脈拍でも何でも24時間途切れなく生身のバイタル情報を記録し、何なら外部へリアルタイムで送信までしてくれる。映像も音声も、今やどこでも望む場所にカメラを設置することで自由自在、その場を24時間監視することもごく安価にできるようになっている。それらを相互につなぐ「ネットワーク」はわれわれの日常生活のあらゆる局面、さまざまな水準において「もうひとつの現実」「並行世界的なヴァーチャルのリアル」を下支えするからくりになっているらしい――そう考えてみれば確かに、かつてのSF的想像力は見事に現実化した、と言いたくなりますし、またその未来予想図は「正しかった」とうっかり褒めそやす気分に傾くのもわからなくもない。


ただ、その大風呂敷がもたらすであろう現実について、30年前のご本人はというと、ただ「便利になる」としか言っていませんでした。その「便利」の内実、具体的にわれらの暮らしをどのように変えて、それによってどう「素晴らしい明日」になるのか、その点についてわかりやすく説明してくれることはないままだったし、そんなものなくても構わない、あるいはそこまでほぐして説明しなくてもわかるだろう、とでも言わんばかりに、全てはただひとつ「便利になる」という言葉だけ。そう、「便利」になるのだからいいじゃないか、だってその「便利」は世の中が良くなること、前へ進んでゆくことなのだから誰も文句はないはずじゃないのか、と。
これに対して自分は、「それって大きなお世話ですよ。医者ぐらいてめえで行きますって」とやり返していました。単細胞丸出しな反応でお恥ずかしい限りですが、ただ、そう自嘲したものでもなかったのかな、と思うフシもあるのは、その「便利」一辺倒の、それこそいまどきAIの自動生成のような何の衒いも戸惑いも感じられない「素晴らしい明日」の遠近法なき青写真に対して、どこまでも「自分」という、いつの時代どんな立場の人間であれ、生身を抱えてこの世に生きてある限りは逃げられないはずの足場を期せずして反射的に突きつけていたこと、かもしれません。


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「AI」という新しい技術と、それを介してもたらされつつあるらしいこれまで見たことのないような目新しい現実、それがもうすぐにでもわれわれの社会を大きく変えてゆく力になる――「AI」を「インターネット」に、あるいは何でもいい、新たに開発されている最先端の技術なり機器なりに置き換えても、悲しいかな、これはこれまでも結構普遍的に成りたってきている「まだ見ぬ明日」や「未来」についての話法であり、同時にまた、世間に対して有無を言わせぬある説得的な意図を伴った「おはなし」の語り口になってきました。そして、それは今でも基本的に変わっていないらしい。
新しい技術というのは常にブラックボックス、世間一般その他おおぜいの感覚や日常生活を送る意識にとっては概ねよくわからない、だからうかうかと信用できない、胡散臭いものととらえられるのが常で、それは洋の東西を問わず「そういうもの」ではありました。
産業革命が始まった頃、工場に導入された機械を打ち壊してまわったというラッダイト運動のように、新しい技術とそれがもたらす現実は、どうやら「そういうもの」という持続と安定によって支えられていたあたりまえの日常を無碍に無体に破壊してゆくようなものとしてわれらの眼前にいきなり立ち現れる邪悪なものでしかありませんでした。「便利」というもの言いで高圧的に見せつけられる未だ正体のよくわからない夢物語としての実利と、それに伴い変容させられ具体的な「不便」を強いられてゆく日々の現実の局面と、その双方を共に穏当に言語化し、比較衡量しながら身の丈の日常でのよりよいつきあい方を手間はかかるけれども模索してゆくということは、残念ながら多くの場合、できない相談でしかなかった。その結果、むしろ「便利」は夢物語の先物買いの担保も兼ねて新しい技術を問答無用で呑み込まされてしまうための呪文としてだけ使いまわされるようになってゆき、その一方、「不便」はなしくずしになかったことにされ、捌け口も失われたままのうしろ向きのルサンチマンにまみれて時代の推移に埋もれてゆくのが宿命になりました。

「AI」に関連してなら、「Web3.0」なんてことも言われ始めている。これはどうやらあの「仮想通貨」というやつにまつわって発想されてきた能書きらしいのですが、その根幹にある「ブロックチェーン」という考え方も含めて、頑張って理解しようとするよりも先に、そもそもきわめつけに胡散臭く信用ならぬものと感じてしまって、ああ、あわれ老害化石脳は、またも脳内ラッダイトを勇躍、開始してしまうのであります。
「現実の通貨をやりとりするには、銀行という寡占的な取引機関を経由するしかありません。お金のやり取りを把握しているのは金融機関だけといえます。しかし、仮想通貨がこれと大きく違うのは、ブロックチェーン技術が利用されていることです。この世界では、コミュニティー内の全員が、誰が誰にいつ、いくら送金したかという台帳を全員で共有しており、個人間のお金の流れをいつでも知ることができます。そしてこの台帳を改ざん不可能なものにしているのがブロックチェーンの技術です。第三者のお墨付きという形ではなく、コミュニティー全員が改ざん不可能な情報を共有することで信頼性を担保しているのです。」
「改竄不可能」な「信頼性の高い」情報を安全に担保できる仕組み。それは、その情報を「コミュニティー全員」が「共有」することで可能になる。これまでのインターネットのように、サービスのためのプラットフォームを提供する巨大企業にキンタマを握られることなく、誰もがそれぞれ個人のまま、信頼を互いに担保しあった安全な取引ができるようになる――あれ、これってかつて「インターネット」が当初ふりまいていた「ネットワーク」の夢物語と、「おはなし」のたてつけとしては何も変わっていないのでは?


「Web2.0の世界では、SNSの世界は自由なように見えて、プラットフォームはGAFAMといった巨大テックの寡占状態にあります。個人同士の情報の共有に見えても、そこにはGAFAMといった外部の存在があり、かつ、個人情報の収集もこれらのテック企業によって寡占的に行われています。しかし、このような巨大テック企業だけに頼るのではなく、プラットフォームそのものを個人が作り出すことが可能になる、というのがWeb3.0の概念です。」 (「新しいインターネットの形「Web3.0」の世界とは? キーワードは「ブロックチェーン」」https://www.nttbizsol.jp/knowledge/expansion/202303271100000839.html)

技術的なことやその真偽、本当に実現可能か否か、などについては全く無知だしわからない。けれどもそんな無知蒙昧な世間一般その他おおぜいの一部でしかない老害化石脳を抱えるこの身であっても、これが24時間リアルタイムでの「記録」が自動的におこなわれるような情報環境が現実のものになってきたことで、ここまで言語化され理論化された考え方なのではないか、ということくらいには思い至れます。干涸らびたもの言いを敢えて持ち出すなら、そのようないまどきの情報環境を「下部構造」として構築され、現前するようになった「上部構造」のあらわれの一端、とか。
われらの生きているこの現実は絶え間なく「記録」されている。映像でも音声でも、あるいはそれらから引き起こして文字化したテキストとしてでも、望む形式で「情報」として必ずどこかに「記録」され続けている。必要があればそれらにアクセスして引き出すことはできるし、それはひとまず「便利」けれども、あのAIが社会に実装されていったあかつきには、それらの「記録」を読み込んで新たな現実を編み上げてゆくこともまた自動的に、勝手にしてゆけるようにもなるらしい。「生産」や「製作」「創造」などでなく「生成」という、主語との結びつきが希薄になる動詞が使われる局面が静かに増えているのも、こういう情報環境の変貌とどこかで関わっているのでしょう。生身の側は具体的な作業としてそれら「記録」を触ることもしなくていい、「記録」が新たに「情報」をつむいでゆき、それら「情報」の水準で並行世界な現実の〈リアル〉が、常にヴァーチャルに紡ぎ出され続けている、そんな近未来。
それは、どこで誰が何のために、という主体との関係がどこにも見えないまま「記録」だけが「情報」として淡々と蓄積されてゆき得る情報環境でもあります。身の回りの現実が即座に「情報」に変換、分解され、そこに生きて動いている生身の生体の「情報」なども含めて、ほぼ自動的に「記録」されてゆく。これまでのように記録する者と記録されたものとが紐付けられて初めて「使える」ものとして存在する、というあたりまえから外れた「記録」のありようが、すでに静かに淡々とあたりまえに存在し続けるようになっているらしい。社会とは、われわれが日々生きているこの現実とは、少なくとも文明の位相においては、何らかの「記録」とそれらを一定の約束ごとの上に維持、管理し運用する仕組みを前提に成り立つものである、という認識が良くも悪くもうまく共有されてこないままのところがある本邦においてはなおのこと。文字の読み書きが早くから普及していた分、何らかの「記録」――書きつけ、書きものが身の回りにあたりまえに存在してきたところがあるらしかったから、それらを特別なものとして取り扱う感覚も鋭角的に宿ってゆきにくかったのかも知れません。


大方があたりまえだと思ったり感じたりしているようなことは、わざわざ「記録」されないものです。それどころか、わざわざ意識されたり見られたりすらされなかったりする。「記録」するということは、そのような記録する者、何らかの主体が必ず関わって初めて成り立つようなもの、だったはずで、他でもない、文字ないしは文字に準ずるような媒体を介した記録はそんなものでしたが、これが音声や映像、画像の「記録」が可能になって、生身の人間が主体として直接関わっての作業でなく何らかの「機械」「装置」が介在して初めて成り立ち得るようになって以来、主体なき「記録」もまた淡々と行なわれるようになってきました。
たとえば、街頭の監視カメラの、あるいはクルマに搭載されているドライブレコーダーの「記録」の主体とは、という問い。録画や録音をする機器は24時間、淡々と動いているけれども、それはどこの誰と、どんな主体と紐付けられている「記録」であり「情報」なのか。何か事件や事故が起きて、必要になった場合に初めてそれらは引き出されて「便利」に使われるのでしょうし、またそういう「何かあった時」のために「記録」を続けているのでしょう。でも、その「記録」をおこなった主体とは? それは時間と空間の座標軸に支えられるわれわれの〈いま・ここ〉の裡に、どのように存在し得るものなのか。それとも、もうすでにそのようなわれわれの生きる現実とは別の、それこそ並行世界的な別次元の空間に位置するようなものなのか。だとしたら、あの「仮想通貨」という胡散臭くもあやしげな発想を支える根幹らしい「ブロックチェーン」に支えられる「web3.0」の「ネットワーク」とは、われら限りある生を生きる生身の生きものとしての人間が存在するこの現実とは別の現実を手ざわりあるもののようにまことしやかに「生成」してゆく究極のフェイクを現出する仕掛けに過ぎないのではないか。

それら「記録」の意味、同時代の情報環境における位相の変遷と、そこに当然関わってくるはずのいわゆる「歴史」なり「社会」なりの認識のされ方の否応なき変貌。どこかで何かが――そう、誰かが、ではなくてもすでに構わない、何か得体の知れないものが〈いま・ここ〉のこの現実をどこかで勝手に「記録」しているものらしい、そんな感覚の静かな日常化。意識しないから「そういうもの」としてそれ以上意識的に自覚的に関わることも薄くなるわけで、かつてのテレビ番組を録画したビデオの集積のように、録画=記録されているということだけに安心して、それらを再度観る、反復して関わるということを忘れてゆくことが、日常生活のあらゆる局面であたりまえになってく。言わば「記録」の自然環境化なわけで、そのように「記録」の存在を意識しないようになった結果は、「人間」や「個人」、そしてそこに宿るべきものとされてきた「自由」や「主体」、あるいは「信頼」や「義務」、「契約」や「責任」といった派生的なたてつけなども全部ひっくるめて情報環境の裡に溶け込まされた「分散管理」に「安全」かつ「改竄不可能」な形で任されるようになり、それこそルネッサンスこのかた無邪気に信じられてきたようなこれまでの西欧文脈由来な「人間」像の約束ごとは、良くも悪くもそのフレームだけでなく、そこに長年込められ蓄積されてきた内実も含めてなしくずしに煮崩れてゆく。
それは、かつて言われたような「個人の解体」などと地続きのようでありながら、しかしまた少し違う難儀をはらんだ過程になります。「個人」という単位での「自分」という個体のまとまりが自明に前提にならなくなっていて、時間軸に沿った連続性や持続性をもとに維持されるべき「個」としての「自分」というたてつけにおける、その連続や持続そのものが保証されず、またそれでも別に不都合を感じないような状況。集中する、持続する、その連続性の裡に「個人」の内面もまた輪郭を確かめながら制御され、安定したものになってゆく、そういう一連の系が保証できなくなってきています。
昨今、文脈や背景を考慮しない、あるいはできない、だからその場その場に最適化した行動や言動を反射的にしてゆくことが最も合理的で生産的であり、時間軸に沿った整合性などに配慮することはない、といったルールに従って動く個体が増えてきているように見えるのも、そしてそれを「個人」の「信頼」といったこれまでのものさしで評価しようとしていともたやすく裏切られる不毛さも、同じ生身の生きもの、同じ母語のたてつけの裡に生きている個体であってもすでに並行世界の現実の側にうっかり転生してしまっている存在と、隣り合わせに日々暮らさざるを得なくなりつつあることの反映なのだと思い始めています。