ネットの「悪意」嘆く前に

オールスターのファン投票で中日の川崎憲次郎投手が、インターネット経由の大量投票で一位になりました。本人は辞退しましたが、FAで高額の年俸をもらいながらここ数年、故障で活躍できない選手をわざと一位にするのはネットの「悪意」を感じる、といった意見も出ているようです。

けれども、そんな組織票は以前からありました。そこにネットが介在していたというだけで一方的に「悪意」と解釈してしまうのはいささか了見が狭い。

ならば、アメリカのオールスター投票でヤンキースの松井選手が三位に食い込んだのはどうでしょう。日本からの「悪意」が介在した結果でしょうか。韓国人大リーガーが上位に食い込んでいたことも、やはりネットを介した国際的な「悪意」のしわざでしょうか。

川崎投手に投票した気分は基本的にシャレであり、いたずらです。その限りで無責任なのは言うまでもない。けれども、それは川崎投手個人に対するだけでなく、そんな投票方式をこれまで維持してきた主催者側に対する側面もあります。また、あの数十万票には「川崎、頑張って給料分働けよ」という叱咤激励も確かに込められていたはずです。

インターネットが普及し始めた頃、理想の民主主義がこれで実現できる、選挙もネットを介してやればいい、といった意見がよくありました。俗に「リベラル」「民主的」と言われるような立場に多かった。ネットを介して「本当の世論」が動けば、いまの自民党政権も倒せるし「民意」を反映した政治ができる――そんなことも言われました。

けれども、ネットを介した「民意」はそんな都合のよいだけのものではないことがだんだんわかってきた。反戦を当て込み、石原都知事批判を期待して行われるネットの世論調査がことごとく主催者の期待に反した結果になるのは、すでにお約束です。明らかに示されている民意(でしょう、やはり)を「反動的」「右傾化」とレッテル貼りし「悪意」とだけとらえるのは、自分たちの思惑通りに世間が動かないことへのいらだちでしかありません。予断を持った調査や投票にたいして、ネットの世論はいまやまっとうに敏感です。声なき多数のメディアリテラシーは、ネットの普及によって間違いなく高まっています。

それを「悪意」と言うなら、世間にそのような悪意は平然と存在する、それだけのことです。悪意も恨みも、ひがみもねたみもやっかみもあたりまえにある。それをむやみに表沙汰にせずうまくいなしてゆく仕掛けがあって世間は成り立っていますが、どうやらインターネットという装置はそれをうっかりと表沙汰にし、増幅さえしてしまうところがある。世間とはそういうもの、という前向きなあきらめがうまくできない人にとっては、それはただ「悪意」にしか見えない。

 長崎の12歳少年による殺人事件でも、容疑者の実名がネットに複数、早くから流れていました。ネットのモラルのなさを批判し、「悪意」を嘆くのは簡単です。ただ、マスコミや警察だけが特権的に情報を入手できるわけでもない環境に、すでにあたしたちは生きている。そのことの意味を特権にあぐらをかく側ほどよくわかっていません。

「悪意」の中に「善意」もまた見ようとする器量。放っておけばすさむばかりにも見えるネット時代の世間に、新たな制御の知恵が宿り得るとしたら、そんな器量をそれぞれが持とうとすることからのはずです。「民意」はますます、ひとすじ縄ではいかないものになっています。