通俗としての「保守」

 田母神騒動、こんなにいろんなところで尾を曳くとは、ちょっと予測していませんでした。

 まず、ひと筆描きで言ってしまえば、これは「通俗としての保守」という水準を、いまどきうっかりと表沙汰にしてしまったできごとだ、ということです。

 あたし個人としてはほぼその一点においてのみ、同時代における意味があると思っていますが、でも、どうやらそういう視点は火事場の真っ只中で切った貼ったをやっている「ジャーナリズム」の現場では一顧だにされないものらしく、他でもない本誌の編集部などは、田母神徹底支持が今回の基本方針の由。まあ、そのへんは渡世の事情ってやつもあるんでしょうから、何も言いますまい。

 ただ、もう一度、ことの本質はただひとつ、「通俗」ということ、のはずです。「思想」が「通俗」として流通しているその現実を、当の「通俗」の側はもとより、肝心の「思想」に信心のあるはずの人たちさえもがきちんと受け止めてこれなかった、そういう「戦後」の情報環境に規定される不自由をここまでほったらかしてきたツケが、今回の事件ではからずもうっかり露見してしまった。

 ですから、あの「論文」の「内容」については、とりあえずどうでもいい。いや、どうでもいい、などというといらぬ誤解を招くでしょうから言い添えると、あの「内容」そのものをまず問題にしてしまうと、ことの本質である「思想」の「通俗」化ということがわからなくなる、そういう意味において、です。そして、その限りにおいて断じてこれは、やれ右だ左だ、という問題でもありません。

 もちろん言うまでもなく、サヨク/リベラルの側の「通俗」というのも、これまたこってりとした分厚さと広がりとで「戦後」の過程で堆積してきています。昨今言われるようになったマスコミの「偏向」という問題も、そういう「通俗」としてのサヨク/リベラルがどのような仕掛けの中で温存され、未だ延命しているか、という部分でのつぶさな理解が不可欠ですし、また、そのようなサヨク/リベラルの「通俗」と相互に作用しあい、釣り合いながら、「保守」の「通俗」もまた「戦後」の内側に堆積してきている、という冷静な認識も同等に必要です。でないと、マスコミは具体的なサヨク/リベラル勢力に支配され、操作されている、といった方向に「だけ」解釈を発動することになってゆき、「保守」とは常にそれらから疎外された一枚岩の「正義」であり続けるように思い込まされ、ひいては最も怠惰な意味での陰謀論から陳腐な政治戦術論といった隘路に自ら陥ってしまいかねません。

 いずれにせよそのような意味で、これは正しく民俗学の考察の対象であり、またそうあるべき内実をはらんだできごとなのだと思っていますし、さらに言えば、そのような視点を介在させないことには、どれだけ口角泡を飛ばして議論をかわそうとも、おそらく何の実りももたらさないような事件でもあるはずです。

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 かの「論文」の「内容」自体は、思いっきりおおざっぱに言えば、これまで「戦後」の過程でえんえん積み重なり、めでたく「通俗」化してきたいわゆる「保守」の世界観、歴史観をある最大公約数の部分でコンパクトにまとめたようなもので、その意味に限っては、なるほど「よく勉強されている」という評価もしていいものではあるでしょう。それこそ、審査員として名を連ねていた名のあるセンセイ方の多くもそういう視点での評価はゆるやかに共有されていたはずし、現役の自衛官のそれも幕僚長などという多忙な人が、自分なりに勉強してものを言う、そのこと自体はたいしたもの。こういう言い方が妥当かどうかはともかく、たとえば大学に通ってくる社会人の聴講生の努力をほめるような、保守論壇誌投稿欄の「読者からの手紙」を見るような、言わばそんなキモチもどこかにあったのかも知れない。何より、「思想」の「通俗」とのインターフェイスとは、案外そんなところに限定されてうまく隔離されていた、それが左右を問わず、「戦後」の「思想」「論壇」の仕組みだったりしたわけですから。

 また、あのようなものの見方や考え方、それこそ「思想信条」「自分の意見」を「個人として表明したい」という欲望を持つ、それは誰であれ、どんな立場であれひとまず正当です。けれども、今回の騒動で一点、どうしようもなく動かし難いことは、現役の軍人として幕僚長として、その個人名を掲げて政府見解と異なることを公然と表明してしまっていたこと、です。それが政治的な意味をはらむことは自明であり、シビリアンなんたらをいちいち持ち出さずとも、そこまでやるからには何かその先に別の思惑でもあるのだろうか、と勘ぐってしまうのもある意味、自然でしょう。そういう立場、そういう職責にある人であることは言うまでもないわけで、だからこそ、もちろんそのことをわきまえ熟慮した上での「論文」発表だったのだろう、と。

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 でも、どうやらそんな背景はなかったらしい。ご本人が早々に「個人」の「言論の自由」といったもの言いを持ち出して抗弁しようとした時に、まず、拍子抜けしました。さらに、それまであれこれつきあいのあること明かな民間企業の懸賞論文として応募し、あまつさえ部下周辺にも応募することをすすめていた、ということになれば、痛くもない腹探られるのも当然。せっかくの勉強の末の「意見」も、そのようにいらぬ誤解や誤読を招くしかない状況で犬死に同然に放り出されたわけで、ましてやその結果、ご本人が後輩への配慮として教育課程に組み込んでいた歴史認識に関する講座までもが自粛、閉鎖されたりする余波まで出てきてはまさに本末転倒、そのへんの配慮の薄さはとにかく、不用意としか言いようがない。

 ただ、同時に言っておかねばならないこともあります。かの「村山談話」に象徴される政府見解が不合理なものであり、でも、仕事としてはそれに従うしかない立場にあり、だからきっと本当はいろいろ言いたいことが山ほどあるんだろうなあ、といった想像力、それが世間の側に足らなかった。「みなまで言うな」「わかっているよ」という暗黙の了解、そういう無言の支えを幕僚長でさえも、今のニッポンの世間からはもはや感じ取ることができなくなっていたらしい。その部分の「責任」というのは、等しくわれら同胞が感じねばならないことでしょう。

 その一方で、「内容」が「通俗」に堕しているからくだらない、質が低い、といった「批判」が出てきます。いわゆる専門家からマスコミまで含めて、そのような十字砲火は事件の後からずっと続いている。それはそれとして、「通俗」に対する「思想」本丸からの異議申し立てであり、それが正当な批判か否かもまた、それ自体として検証されるべきではあるでしょう。

 ただし、それを言うのならば全く同等に、そのような「通俗」の水準であれ、なおそのように敢えて言挙げせねばならなかった“想い”や至情というのはどのようなものだったのか、という部分も穏当に斟酌されねば片手落ち。専門家やマスコミからのこの種の批判には、得てしてこういう部分への同情ある解釈は欠落しています。まただからこそ、「通俗」の側は「思想」本体に対する不信感を無意識のうちに募らせてしまう。同時代の〈リアル〉として「思想」が本当に力を持ってゆくために共に不可欠なはずのメカニズムは、このように分断され、いびつにねじれたままです。

 専門家から見て間違っていたり、ずさんだったり、都合の良い解釈すらしているような「通俗」の「信仰」「信心」が、どれだけくだらないものであり「科学的」な手続きで検証できないようなものであったとしても、それを信じてしまう人たちが一定数存在し、なおかつそのような「信仰」「信心」を持ち回ってさえも何ものかを表明しようとしてしまう、その眼前の事実自体は微塵もゆるぎもしません。「通俗」とは、そういう内実をも常にはらんでしまう現実の水準です。

 サヨク/リベラル「信仰」に覆われたかに見えるいまのマスコミの現場の「信仰」「信心」と、今回の田母神「論文」をめぐってあらわになった「通俗」としての「保守」の水準でのそれとを、そのような意味においては等価に見ようとする視点こそが必要なはずです。それは、現代社会のこのような情報環境における「民話」の現れとしてどう考えるのか、ということでもありますし、わが土俵に引き寄せて言うならば、とっくに古びてしまっているあの「民俗学」というもの言いをもう一度どのように「現代社会」に、〈いま・ここ〉にいきいきと連接させてゆけるのか、という実践的課題とも連なってゆく問いでもあります。

 是非はともかく、そのような「民話」の様相をすら平然とはらみつつ「真実」は、そしてわれらの〈リアル〉というやつは共有され、同時代のものになってゆく。かつての時代と比べても、そのような〈リアル〉をめぐるからくりの必然性はもしかしたら、ずっと強まっているのかも知れない。

 どうやら、「思想」や「論壇」と言われるような世界もまた、実はそのような「民話」としての、通俗と化してゆく営みの中で生まれてきた「民俗」としての表象をめぐって右往左往するようになっているらしい。表象される現れが「保守」であれ「サヨク/リベラル」であれ、基本的には同じこと。問題はそのような「通俗」をめぐるからくりをも同時に横目でにらみながら、なお「思想」や「論壇」沙汰にどのように有効に、志深く関与してゆけるのか、というあたりなのだと覚悟を決めています。