「保守」の再生って?

 

 「保守」の再生が、改めて叫ばれています。

 言うまでもない、わずか半年足らずでどうやら予想を超えてどうしようもないところにまで墜ちてしまった、昨年総選挙以降の今のこの「日本」の状況、「民主党ファシズム」とまで言挙げする向きまであるのも洒落にならないくらいのていたらくに対して、早く何とかしなければ、と腰上げようとする正気の志として、「保守」が改めてその旗印として期待されている、そのことはひとまず素朴に理解できます。

 いわゆる「論壇」系、思想沙汰をなりわいとする界隈はもちろん、安部元首相など自民党系の政治家の中でもそのような動きは活発になってきている。他でもないこのあたしとして、そのような「保守」の旗印に馳せ参じているひとり、といった風にまわりから見られているのでしょうし、及ばずながら自分自身それを甘受するにやぶさかではありません。

 総選挙以降の政権与党となった民主党内閣のていたらくに対して、さすがに「これはないだろう」という気分はみるみるうちにふくらみ、お手盛り世論調査でさえも鳩山内閣の支持率はつるべ落としに下がり続け、かの小沢幹事長の問題についてとなると「納得いかない」という声が8割近くを占めるくらいになっています。なのに、だからと言って野党自民党に対する支持がそれらに反比例して回復しているかというと、どうもそうではない。政党支持率といったものさしで計測すると、現内閣に対する信頼感の低下の著しさに比べて、民主党自体への支持率はまだ踏みとどまっている印象、調査によっては自民党の支持率も同じく下がり続けている数字が出ているくらい。その分、わずかではあっても共産党みんなの党の支持率が上昇している面もあったりして、政権、内閣の現状に対する不信感が募っているのと比べて、「政党」という単位での「民意」はなかなか微妙な推移を見せているのも、また確かな眼前の事実です。

 これはどういうことなのか。野党に転落した自民党のだらしなさを叱責し、政界再編も視野に入れたさまざまな構想を選択肢として提示したりすることなどとはまた別に、そもそも「保守」という旗印を敢えて掲げて現状打破を訴えることが、果たして今のこの混沌とした同時代状況で本当にこの「民意」を集約できるターミナルになり得るのかどうか、といった冷静な自省もまた、必要になってきます。

 

 

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 ことの本質、いまどきの「民意」に伏在している核の部分を見誤ってはいけない。

 「格差社会」というもの言いに象徴されるような、とにかく今のこの「日本」にもうこの先、明るい未来がないように多くの同胞が感じていた状況で、「この状況を何とか大きく変えて欲しい」といった漠然とした期待に対して、先の総選挙での民主党は例のマニフェストを提示した。たとえそれが何の根拠も目算も、背景になる政治的信条や哲学さえない、ただ目先の得票だけを考えたマキャベリスト的発想による支離滅裂なデマゴギーに過ぎなかったにせよ、それに吸い寄せられた「民意」が支えたあの民主党圧勝という現実は、そのような「現在」に対する不安と反感、違和感、不信感が「反自民党」「反・これまでの日本」といった気分に集約されて雪崩を打った結果でした。

 それは、これまで何度も指摘してきたように、小泉内閣下での「郵政」選挙に象徴された当時の「構造改革」を支えた気分と基本的に連続しているものです。そしてそれは今もなお、構造的に解消されていないどころか、さらに「気分」としては濃縮され、屈託し、一層複雑な表現をとるようなものになりつつある。

 もちろんその内実としては、細かく観察すればさらに考察が必要な要素は含まれています。たとえば、「戦後」の過程で世代を折り重ねながら結晶し、良くも悪くも通俗化してきた「民主主義」「リベラル」のある表現、という部分もそこにはありますし、それらが変貌しながら肥大していったメディア状況、情報環境の転変と複合しながら構造化していった過程もまた、改めて自省の対象にされるべきでしょう。けれども、それらはまた別の話。要は、今の鳩山内閣がかなりメチャクチャなのはさすがに見えてきた、けれどもだからと言って、またあの自民党に信頼を寄せるのかというとそうでもない、その現在を立場は異なってもとにかくまずじっと見つめる度量がどれだけあるか、そこだと思っています。

 思えば、これだけ前代未聞、政党政治史的にも例をみないような「衆愚」としか見えない「民意」の実直な反映ぶりを見せている政治状況であっても、なお民主党に何か期待をせざるを得ないような「民意」というのは、かなりせつないものです。それほどまでに「民意」は、何ものかに見切りをつけている。しかし、その何ものか、というのはさまざまな要素が重層、複合しているわけで、ひとことで言い切るわけにはゆかないのですが、ただ、この場の脈絡でひとつ言えることは、「保守」という旗印を掲げることは、その志がどうであれ、すでに自動的にその何ものか、の側に身を置く立場にあることを意識させてしまうものでもあるらしい、そのことです。

 「保守」は「自民党」であり、これまでの「日本」であり、さらに言うなら「戦後」で「昭和」な、すでに過ぎ去ってしまった黄金時代としての「日本」、である。そして、敢えて付け加えれば、その程度に後ろ向きで年寄りめいたわけ知り顔でしかない――そんな系列のイメージが立ちどころに連鎖してゆく「気分」というのが、確実に今の「民意」の背後にひそんでいます。

 

 

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 だからと言って、誰も「日本」をあきらめているわけではない。「反・これまでの日本」ではあっても、自分が生きるこの日本に対して、その来歴も今後も含めて評論家のように、あるいはそこらの知識人の習い性のように全否定してしまうのでは、どうやらない。ならば、この微妙なところをどこまで、政治なら政治の局面で具体的に引き受けてゆけるのか。たとえば、少し前、麻生首相が声を大にして言っていた「わたしは日本と日本人の可能性を、その底力をみじんも疑ったことがありません」というあの宣言、あれをどのように、どんな脈絡、どんな声でこの「気分」に響くように訴えることができるか。

 同じようなことを鳩山内閣の閣僚も、時に口にします。「政権交代」というもの言いにそのようなニュアンスを込める者もいる。そう言えば「日本をあきらめない」というのは、岡田代表時代の民主党のポスターに記されていたスローガンでもありました。

 汗牛充棟、さまざまな蓄積、流布されてきた「保守」に対するさまざまな定義や解釈、解説の類で、あたし的にすとん、と腑に落ちるものというのは、たとえばこういう言だったりします。

「保守的体験の確信は、現に存在する事物をその目的の見地からではなく、それ自体の生成と存在に即してみようとする態度であった。それは、その事物に対する深い内在的な理解の心の作用であり、そのものの個別性に対する「哀憐」の情を伴うものであった。」

 あるいは、それをこのように続ける脈絡になるとなおのこと。

 「彼は、現に存在するさまざまのものに対し、それがいかに些細な無意味と思われるものであれ、そのものの存在には必ず「今はなお明かになっていない小原因の多くが埋もれていることを認めること」という「同情」の心をもって接触した。その態度は「少し意外な事実に出逢うと、すぐに人民は無智だからだの、誤っているからだのと言ってしまう」いわゆる「社会科学」の方法とは全くことなっていた。(…) 彼はただ、無数の一般の日本人の心の中で、何がおこりつつあるか、それはどういう意味をもつかをその学問のすべてをあげて解明しようとしたにすぎない。そして、その結論は、(…)たとえいかなる悲惨の境遇におかれようとも、日本人の魂はその自らの心によって、未来の日本の形成のために回帰してくるであろうというものであった。」

 誰の、いつ頃の言なのかは敢えて言いません。*1ただ、ここで言及されている「彼」の志について、単に「保守」という旗印でだけ〈いま・ここ〉に生かしてゆくことは、もしかしたらあまりいい方法でもないらしいこと、その懸念についてだけ、改めて触れておきたかった、それだけです。

 

*1橋川文三です。為念。