世渡り「保守」の行く末は?

 「保守」が昨今、ようやく恥ずかしいものになりつつある。それもかなりはっきりと。

 もともと恥ずかしかったじゃん、というツッコミは却下。同様に、じゃあサヨク/リベラルはどうなんだよ、といった抗弁も。それらはすでに陳腐化している。問題は、未だそういうやりとりを半ば自動的に引き出してしまうようなサヨク/保守(ウヨク)図式そのものの頑強さを、その来歴含めてどう穏当に認識できるかどうか、なのだからして。

 メディアの現場、学校の教室がサヨク/リベラルに支配されていた、だからそれを利用して世渡りする営業サヨク、商売リベラルってのも、以前から当たり前に棲息していたし、プロ市民なんてアマチュアまでうっかりと大量に湧いた。それと同様、状況がひとめぐりした昨今、「保守」もまた世渡りのネタとして十分に使い回されている。かつてメディアの現場が「左翼」「リベラル」に染め尽くされていたのと比べれば、「保守」がある程度市場化したのは健康っちゃ健康だが、でも、「左翼」がサヨクになったように、「保守」もまた世俗化/大衆化、世渡りアイテムと化しちまってることも、そんな今だからこそ、ことばにしとかないことには、おさまりが悪い。

 改めて「後出しじゃんけん保守」というもの言いをもう一度、味わっておこう。90年代初めの冷戦崩壊後、「保守」を標榜することがそれまでに比べて格段に緊張を伴わなくなってから、これ見よがしに「保守」をうたって、すでに混乱を始めていた論壇/文壇を中央突破、あっぱれ時代の寵児となった手合いのこと。ま、要は福田和也のことだったのだが。ちなみにこれ、言い出しっぺは葦原骸吉こと、佐藤賢二。最近は地味に職人ライターやってるようだけれども、改めて、彼の名誉のために明記しておく。

 福田和也のやったことってのは、実は何のことない、言わば「保守」ブランドの田中康夫化で、要はワインと美食で広告資本のゼニ食い散らかし「文壇」利権の浅草弾左右衛門となる程度のこと。能書きは何であれ「おいしい生活」ができりゃいいわけで、その「おいしい」も、メディアのまわりで踊ってあぶくゼニかっぱげればそれでよし、という程度の実にチンケな代物。嘘でもおのれの筆、言論沙汰でいっちょ世の中風通しよくして、わが同胞の未来まとめてよりよいものにしてやらあ、てな勘違い含めたインテリ/知識人ならではの気宇壮大などすでになし。だから「後出しじゃんけん保守」というのも、なんだよ、「保守」もヘチマもあるかよ、本気で身体を張って何ごとかを為そうという気概もない、口先だけの思想ごっこじゃねえか、という深い軽蔑を込めたもの言いだった。

 つまりは世渡り上のギョーカイ「保守」、ないしはコスプレ「保守」。それが今やさらに退廃、かの勝谷誠彦宮崎哲弥レベルにまできれいに包茎化、活字メディアで『WILL』、テレビなら『そこまで言って委員会』や『TVタックル』、ないしはかの『嫌韓流』で釣り合っちまう程度に凡庸化。なんの、是非もない、それがあたしらの生きている現在、らしいのだ。

 かつて、80年代に呉智英が「封建主義」と言った時、ある種の諧謔、ひらたく言ってギャグという部分が間違いなくあった。同じく、西部邁が「保守」の看板掲げてメディアの舞台に再登板してきた時も、保守反動を敢えて持ち出す、という昂ぶりがあった。その程度にまだ「左翼」「リベラル」は活字の世間で問答無用の「正義」だった。その分、「保守」とは世の大勢から受け容れられず、その鬱屈を発散もできず、たまに陽の当たるところに引っ張り出されようものなら一気にルサンチマン全開、まともなこと言っててもとてもそう受け取られないようなキチガイぶり、デンパキャラを生身で開陳してしまっていた。それこそが「保守」キャラのおいしいところとして、存分に消費もされた。

 思え、小室直樹がテレビに迷い出てしまった時の衝撃を。西尾幹二が、中川八洋が初めて『朝生』に招かれた時の異物扱いを。または、浅羽通明が新聞に取り上げられた時の照れくさいような場違いを。

 湿った日陰に棲息していた異形の虫が、いきなり昼日中にうっかり迷い出てしまったような見世物ぶり。それが、かつての「保守」にはまつわっていた 実際、左翼インテリにはその手は少なかった。少なくとも、ある時期までは。いや、等身大の生身は似たようなものだったはずだが、それがバレないような構造というのがメディアの生産点に暗黙のうちに共有されていた。はっきり言えばデキレース。でも、それをよしとして受容する観客の同時代も厳然とあった。

 だから、「保守」に勝ち目はなかった。常に悪役、いじめられっ子。意味なくバカにされる存在、ではあった。

 さしたる考えもなく当時の雰囲気に従って「サヨク」になっていた手合いも、いくらでもいた。菅直人江田五月田英夫など、今なお民主党周辺にしがらんでいるオヤジたちの世渡りを思えばいい。個々に測定してみりゃ大方はそんなもの、世間ってのはいつの時代もその程度、気分にかぶれて軽挙妄動、なのにあたかもおのが思想のように振る舞ってみせる俗物たちが平均にうごめいているわけで、それ自体はどうということはない。ただ、いまやそれが「保守」の側にめでたく移った、それを正面から認識するかどうかだ。 この夏の参院選、あの丸川珠代が「保守」っぽいもの言いを平然とやらかしているのを見て、改めてその感を強くした。いや、少し気をつけていれば、そこらのキャスター、お笑いタレントの類まで、ちょっと世渡りに敏感ならば、通俗化した「保守」気分がそのもの言いに反映されていることが見てとれる。

 入り口はやはり、北朝鮮拉致問題だっただろう。「人権」を媒介に、割とスムースに賛成しやすい構造があったことも勝因。次に、かの日韓ワールドカップか。教科書問題だの改憲だの、論壇系のマストアイテムなどは、実はこの間の「保守」の世俗化には直接の影響を与えなかったと言っていいかも知れない。

 小林よしのりと『ゴーマニズム宣言』の影響は、って? うん、言うまでもなくあの薬害エイズ騒動から『戦争論』のあたりまでは確かに大きかったし、多くの若い世代を「保守」の側に誘導していったのは事実だった。しかしその後、そこから動かなくなった層は、北朝鮮拉致問題やワールドカップをきっかけにより大きな範囲で「保守」誘導が果たされた大衆層にのみこまれていったと見ていい。これは同時期、「おたく」が世俗化/大衆化の果てに表層化してきた「ドキュン」に包囲され、のみこまれていった経緯と、図式としてはパラレルだろう。世俗化/大衆化というのは常にそういう過程だ。

 「保守」も世俗化しちまった以上、ある種の「政治的正しさ」を身にまとい、誰もが平然と口にするモードになる。かつてあった呪文としての効力が薄れ、ありがたみもなくなる。陳腐化する。その流れに舵を当てつつ、なお何か新たな確かさの足場を模索するのがインテリ/知識人の本分のはずだが、流れの中でおぼれぬだけで精一杯、口先だけで身についた志もない俗物たちにはそんなことは思慮の外。上滑りな世渡り「保守」ぶりばかりが自己模倣されてゆくばかり。

 「格差社会」というのがひとつ、転轍機になっているように思う。コスプレ「保守」を弄んでいられるうちはともかく、実際におのが暮らしに窮屈さが迫ってくる、事実はともかくそういう感覚がせり上がってくれば、「保守」であれ「リベラル」であれ、大文字の思想や能書きは後退せざるを得ない。

 かつて「左翼」が後退していったのも、あさま山荘その他の事件で世間の側が「こいつらこんなものだったのか」というのがバレたと同時に、高度成長の「豊かさ」が現実に、広い範囲に浸透していったことが最大の理由だった。労働運動の現場で地道な活動を継続したり、何かの運動に邁進したり、といった「生活に即した左翼」はどんどん少数派になってゆき(当然だ)、何よりそのような活動を評価する観客の視線自体が衰退していった。日常の側、生活の個別具体の水準から、そのような思想沙汰、活字の論理は常に侵犯される。メディアの舞台で形骸化した「保守」モードがこの先、どのように現実から復讐されてゆくのか。身の丈忘れた阿呆踊りに汲々とするいまどきの世渡り「保守」の面々から、まずその血祭りにあげられてゆくことを、ここは静かに予測しておこう。