地下鉄サリン事件から始まったオウム真理教がらみの大騒動だが、事態がひとめぐりして幕切れが見えてくるに連れて、改めて警察の過剰捜査についての批判が出始めている。それらは報道のあり方に対する批判とも複合しながら、実際のところ何が起こっているのかよくわからない、という今のこの国の情報環境に対する根深い欲求不満を醸成し、表層の大騒ぎだけで推移する水面下で深く響きあっている。
確認しておこう。過剰捜査についての批判はきちんとなされるべきだし、限度を超えた報道姿勢も厳しく問われるべきだ。だが、犯人が誰であれ未だ残りのサリンが発見されていない以上、この段階での批判にはそれなりの仕掛けや留保が最低限必要なはずだ。にも関わらず、すでに半ば自動化した陳腐な「権力」批判、メディア批判のもの言いを繰り出すだけで何かものを言ったと思い込む手合いがいる。自身の置かれた情報環境についてろくな留保もせず、時に「情報操作」とまで言いかねない彼らの思考はすでに立派な陰謀史観。「米軍が自分たちを攻撃している」と信じるオウム側の妄想と構造としては同じだ。
一方で、警察も同じ位置にいる。今回の一件は警察にとってもこれまでの経験則から図れない全く異例の事態だったのだろう、と僕は斟酌しながら眺めているつもりだが、だとしても、いや、だからこそなおのこと、警察はもっと情報を公開すべきなのだ。なのに、その身構え方は、陳腐な「権力」批判を持ち出す手合いの意識と対応した硬直したもの。
どっちもどっち、なのだ。
どんなけったいな信仰をしていてもそれは個人の自由、教祖の入った風呂の湯を高価な値段で買うなどという不条理な売買がなされていても当事者同士が納得して行っている以上他人がとやかく言う筋合いのものではない、という一見「民主的」な意見もある。なるほど、総論としては僕も全くそう思う。いかに「戦後民主主義」が問題をはらんでいるのだとしても、この最低線は守るべき一線だとさえ思っている。
だが、そのような「自由」を認めたとしても、それらの行為は世間の「常識」からすればやはりヘンなものになり得るし、また、そう見られることについて否定することはできないだろう。同じように、こいつらサリンを作っていたかも知れない、という疑いを持たれてしまうことについての責任というのもあるはずだ。何ひとつ証拠がないところでの「でっち上げ」も世の中にはもちろんあり得るだろう。だが、世間の「常識」から見て果してどのような疑いが自分たちに対して立ち上がり得るのか、そのことを落ち着いて自らフィードバックする知恵も余裕も宿らないままでは、「信教の自由」もヘチマもなかろう。
宗教や芸術とは本来反社会的なものだ、というもの言いもある。これは、かつてオウム擁護に回った宗教学者や評論家たちの依拠する論点でもあった。これも本質論としては異論はない。だが、だとしても、現実に家族を拉致され、身ぐるみはがれた人たちからすればそんなもの言いは何の救いにもならないのは言うまでもないし、何よりそれらの本質を内包しながら、なおこの世の現実とつきあいつつ何とかやってゆくことを決めたからこそ、宗教や芸術もまた法律で守られるのではないのか。とすれば、そのような内面を抱きながらこの世でうまくやってゆくための約束ごとをある最大公約数、守るべきスジとして押しつけてゆく、それもまた、共にこの民主主義社会に生きるわれわれの責任であるはずだ。
いずれにせよ、今この状況で捜査の当事者ならざるわれわれに求められているのは、右と左、権力と民衆、といった旧来の対抗図式にとらわれた空虚なもの言いを弄することなどではなく、といって、全てはメディアの舞台での物語である、といった主体性棚上げ、ポストモダン風味の無責任に超然とすることでもない。ここまで錯綜した情報環境を視野に収めながら眼の前の状況との距離においてなお有効な言葉を発そうとする、言わば〈いま・ここ〉から不用意に離れぬよう言葉を抑制する方法意識の鋭敏さと、その上で「誰もがおおむね事実だと思える」リアリティの水準を探って行こうとする真摯な態度である。いささか乱暴に言えば、そのような方法意識を抱えつつ新たな「常識」の構築へと向かう言葉を発そうとする、その身振りそのものの方が、発される言葉の中身よりも今や“言論”としては有効でさえある、何やらそんな難儀な事態にまでなっているかも知れないのだ。
改めて言っておこう。これは「宗教」弾圧でもなければ、「思想」弾圧でもない。
*1:おそらく、こちらが掲載時の最終稿かと。数日の間に結構な推敲その他のやりとりを、担当記者との間でやった記憶はあるし、またそれだけの大きなできごとではあった。