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今回のオウム真理教がらみの事件についての一連の報道のありようは、紙のメディアに限って言えば、まず夕刊紙とスポーツ紙の圧勝、次に週刊誌のお祭り騒ぎ、といったところが最大公約数でしょうか。
「全てがワイドショーになった」という言い方もされました。この「ワイドショー」の比喩は言うまでもなく「報道」に対置されているわけで、煽情的で興味本位で無責任で付和雷同で、それらの帰結として品位に欠けていて、といったあたりが想定されているもの言いのはずです。芸能レポーターが決してジャーナリストとして扱われないように、「ちゃんとしていない」「真面目でない」といったものなのでしょう。
しかし、その「ちゃんとしていない」「真面目でない」文法を介してしか「知る」ことも「わかる」こともしにくい、という世間も今や厳然とあります。そして、そのことは誰もがもうよく思い知っている。にも関わらず、メディア批判、報道批判のモードの中ではみなひと通り「ワイドショー」化を嘆いてみせたりもする。それを真にうけて、「そうだ、やはり読者も責任ある報道を求めているのだ」といった勘違いを野放しにすると、行きつく先はまたぞろあの「社会の木鐸」意識のテルミドール、果てはそれこそ政見放送のような無味乾燥にたどりつくしかないわけで、そんな「報道」などもはや商業的には受け入れられないのは明らかです。と
すれば、メディア批判のもの言いとそのもの言いを発する世間の内実との矛盾を静かに考えてみることが必要です。少なくとも、「ワイドショー」にも質はある、という論点が示される必要があるはずですが、どうやら状況はまだそこまで成熟していないようです。
確認しておきましょう。高度情報化社会と言い、メディア社会と言い、名づけ方は人により、また文脈によりさまざまですが、いずれそのような力ずくにひんまげられてゆくような情報環境の激変の結果、われわれの社会は間違いなく大きな、ある種の批判力を持ちました。「情報」に取り囲まれた状況における中庸なバランス感覚の育成という意味では、それはこれまでにな
かったほどの広汎な社会的訓練だったと思いますし、まただからこそ、それ以降のこの国の大衆社会は、従来の古典的な大衆社会論が言ってきたような一義的で単線的な「情報操作」などそう簡単にできないような構造を持ち得てもきました。それが今日の「観客民主主義」の内包する健康な部分かも知れない、ということをこれまでも僕は何度も繰り返し言ってきましたし、
またそのことをきちんと評価してゆく言葉もつむぎ出せずに昔ながらの「衆愚」論で裁断するだけでは、「観客」の中から信頼するに足る発言主体の輪郭を立ち上げることもできない。それは最も悪い意味での「民衆」万歳論と全く同じ、主体性を放棄する無責任です。
メディアがいかに発情し“物語”に盛り上がろうとも、そしてそれに人々がいかに好奇心を刺激されて熱発したとしても、つまるところあくまでもメディアの舞台上でのつくりごと、どこかで「それってちょっとやりすぎなんじゃない?」というバランス感覚を回復してみせる程度には、今のこの国の「観客」というのはひと筋縄ではいかなくなっています。オウム報道に誰もが熱中していることは事実だとしても、個々の内実を問うてみればまるごと本気で入れあげているわけでもない。その間でバランスをとってゆく世間のスタビリティには前向きに考えていいところがあるはずです。でなければ、横浜駅異臭事件の際にガスマスクして走り回る捜査関係者の横でテレビカメラに向かってニコニコ顔でVサインを送る野次馬たちがたくさんいたことや、あるいは教団幹部の追っかけが出現したり、上九一色村にあれだけの“観光客”が殺到して、しかし報道陣がマイクを向けるとだれもが「いやあ、こんなことやってちゃまずいんですけど」と頭かきかき苦笑いくらいはしてみせたりする事態は説明できません。
これらを単純に「無知」ゆえの行動としか読めないのでは、今のこの国に生起する眼の前のできごとは常に「衆愚」以上の意味を持てない憂欝なものになってしまいますし、そこから引き出される態度は「衆愚」の「無知」という枠組みに対応するくらいに大文字でひとくくりな「啓蒙」か、さもなければ浪漫主義的自閉に後押しされた知識人特有のニヒリズムでしかありません。そして、そのどちらもが今のこの「観客民主主義」状況下では「なにカッコつけてんだよ、おめーは」と即座にツッコミを入れられる存在でしかなくなる。もちろんそれは容易に「観客」の無責任に連なり得るし、その無責任が肥大してゆくと「人それぞれ」という「民主主義」にあぐらをかいたニヒリズムになってもゆくのですが、ひとまずそのような視線の前でどのような立場を選択することが上演としてあり得るのか、それを考えないことには、「報道」がもう一度何らかの信頼を回復してゆくことは難しいと思います。
どのように評価するかとはひとまず別に、素朴な認識としてまず持たねばならないのは、そのような「知る」こと、知って「わかる」ことについての回路の言わば複数化は、オウムの信者たちが立っている側と構造としては変わらない、ということです。その程度にこの国の大衆社会というのは「平等」らしい。 その意味で、印象的だったのはオウムの被害者弁護団の人々の身振りでした。「こっちへ戻ってらっしゃい」とテレビカメラに向かって手招きする、それほど「こっち」を前向きに信じてみせられることの強みが、今回ほど世間に示されたことはないでしょう。「報道」にもかつて幸せにあり得たようなあっけらかんとした一枚岩の「正義」を、今のこの状況であれだけ正面から演じてみせられ、なおかつロクにツッコまれもしないままでいられるというのは、なるほど希有なことでしょう。別な言い方をすれば、そこまで今回の事態は例外的なものだった、警察の捜査だけでもなく報道の文法にしたところでそのようなツッコミを許容しないほどに非常事態だった、ということです。
たとえば、少し前までひと山いくらでいたような「報道」オヤジが若返ってよみがえったかのようなたたずまいの江川紹子さんにしたところで、実年代としてはオウムの幹部と同じ世代であるはずなのに、彼女に向かって「若い世代がオウムに入信する理由」を問うメディアは、僕の知る限りひとつもありませんでした。彼ら彼女らが独自の「調査」で到達したゆるぎない「事実」の地平と、そこに依拠することで今回示し得た「正義」については深く敬意を表します。しかし、前代未聞の非常事態においてゆるぎなさを示しえたそれらの立場は、事態がひと段落した後には再びより広い世間に向かって示してゆく時に翻訳し直す必要がある。そこについてのケアのなさが今後露呈してくるように思えます。
オウムの信者たちが宗教へと吸い寄せられる原因を、彼らは未だに貧・病・争の脈絡でしか見ようとしない。「家庭に問題があるから」以上の言葉は出てきません。貧・病・争といった「問題」から自らは全く縁遠いということへの圧倒的な自信があるからこそ「事実」への肉薄も可能だったのですが、「家庭に問題がある」と言いながら、何かそのような「問題」があるから宗教へゆくのだ、という古典的な見方はかくて微塵もゆるぎません。「問題」というのがあるからこそ「宗教」があり得るということを認めるにしても、もはや「問題」がそのようにわかりやすい形でばかり存在するものでもない、ということ、あるいは、そんな「問題」などなくてもいくらでも宗教へ行ってしまうということの意味が受け止められない。果ては、エリートであるから、と偏差値教育に「原因」を求めようとする。ゆるぎない立場、確固とした「正義」を示そうとすると、おのれについての自省を棚上げした身振りにならざるを得ない。一律にオヤジに見えたのも理由のないことではないはずです。
「現場」が「知る」こと「わかる」ことに近づく契機である、というのは、これまでの「報道」を支えてきた重要なパラダイムのひとつでした。けれども、その「現場」が物理的な場所とわかちがたいものとして認識されるようになると頽廃が始まります。「書斎」や「デスク」といった対立項目が設定されるようになるのもその現われでしょう。非常事態であること、これまでのルーティンでは対応しきれない事態であることを穏当に説明し、納得させてゆく術は、別に警察だけでなく、メディアの内側にもまた宿りにくいようです。非常事態であることは何度も声高に語られていたけれども、結局のところ現場の特権的経験を説得してゆく前提がここまで蒸発してしまっていると、その声高さでひとり歩きしてしまい、何が「非常」なのか、その中身について立ち止まって言葉にしておく自制ごと流されていってしまいかねない。
いずれみな同じ人間のこと、個々の内面でどのようなことを考えていてもいい、しかしその考えにもとづいて関係ない人間を拉致監禁するのは困るし、ましてサリンみたいなとんでもないものを勝手に作ってばらまくのやめてくれ、ということのはずです。言い古された物言いを弄せば「世間に迷惑をかけない限りにおいて」の自由である、ということを認知すれば、「世間」という「一般的な視線」とうまくやってゆく、その枠組みというのは最低限あるはずです。それをも「自由」一発で乗り越えるというのなら、やはりそれだけの軋轢は覚悟するのが当たり前。その意味で、彼らが過剰に「法律」に依拠したがるのが僕などにはどうにも理解できま
せん。きっと裁判の結果、都合の悪い判決が出れば彼らは「裁判批判」を繰り返すに決まっている。自分たちの信じるリアリティを何か超越的な価値が正当化し救ってくれる、と思い込む意味では、「法律」や「裁判」に対する視線がすでに宗教と変わらないものになっています。唯一無二の超越的価値を信奉する傾向は、冷戦下のイデオロギーや昨今のカルトを批判する側に置いても同じ、ある意味で「個人」教に陥っているのではないでしょうか。
いかに一枚岩の「正義」がなくったとしても、メディアのある部分がこれから先も約束ごととしての「正義」を背負う役回りを果たさねばならない面があることは否定できません。だとしたら、このような状況でなおそのような「正義」を背負うことについてのバランスシートを冷静に作成しておかねばならないでしょう。それは、声高にものを言う、主体的かつ啓蒙的にふるまうことに対する留保抜きの違和感の表出の方こそが社会に共有された正義となってしまっているポスト相対主義のこの現状で、なお今回のような掟破りの前に誰かかが「正義」を背負わねばならなくなった場合に、果たしてどのような上演があり得るのか、というすぐれて方法上の問題を提示してもいます。もはやそのような方法意識を棚上げしたままどのような「正義」もあり得ないし、さらに言えば、どのような「事実」もあり得ない。「事実」もまたそのような同時代の情報環境の内側に埋め込まれてしか存在できない、ということについて、もっともっと認識するべきではないでしょうか。それが、おそらく相対主義のもたらした効果の部分を前向きに生かしてゆくことでしょう。単一な「正義」、ゆるぎない「事実」をかつてのように求める方向にまた引き戻されるのは、それはまた別の不自由、新たな拘束の培養基にしかなりません。