文化としてのライブドア――“ほりえもん”の問いかけるもの

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 ああ、時代が変わる、というのはこういうことなんだ――しみじみ、そう実感しています。

 ライブドアによるニッポン放送買収とそれに始まる一連の騒動は、ターゲットにされたフジテレビ側が「第三者割り当てによる新株予約権の発行」というなりふり構わぬ掟破りに出て、それに対してライブドア側が差し止めを求める仮処分申請を行い、とうとう決着は司法の場にまで持ち出されることになりました。

 商法その他、関連するさまざまな法律や制度のからみでこれが果たしてどう判断されるのか、そういう「ムツカシい問題」については、ひとまずどうでもいい。株だの企業買収だの、いずれしちめんどくさい問題がからむ今回の騒動に、世間がこれほどまでに反応しているのはなぜか? それは、そもそもライブドアっていったい何やってる会社なの? そして、フジテレビはどうしてあんなに必死にライブドアを潰そうとするの?――そういう素朴な疑問からです。

 そう、フジテレビの日枝会長に代表される「まっとうなオトナ」たちは、どうしてあそこまで執拗にライブドアを排除しようとするのか、それがいま、誰もが知りたい“謎”です。ネクタイもしめない不作法な若者だから、なのか。何を本業としているかわからない“あやしい”会社だから、なのか。ポッと出の成り金だから、なのか。それとも、一部でささやかれているように何か外国の勢力とつながっているらしいから、なのか。それとも、それとも……

 それら全部がそれぞれ理由になり得る、と同時に、それら全部あわせても本当に納得する理由になるわけでもない。だからこそ、みんなが知りたがっています。なぜなんだ、と。

 ひとつ言えそうなことはあります。彼ら「まっとうなオトナ」たちはライブドアを、そしてライブドアと“ほりえもん”=社長の堀江貴文に象徴される何ものか、を、本質的に自分たちのいまの立場や地位を脅かす存在である、そうとらえているようなのです。そしてそのことを理屈でなく直感的に、皮膚感覚で察知している、それゆえにあそこまでなりふりかまわず潰そうとしています。大きな生き物が未だ見知らぬ病原菌を恐れるように。

 本来ならば、そういう得体の知れない若い世代、異なる価値観を持った勢力が台頭してきた時に、既存の「まっとうな大人」との間をつなぎ、翻訳してゆく立場の人間が、どんな形であれ出てくるはずですし、社会が健康体ならばそうあるべき、でしょう。なのに、今のニッポンにはもはやそういう文化的な緩衝装置というか、間をとりなす立場というやつからして、どうも失われてしまっているらしい。いや、そもそも「メディア」というのは字義通り、そういう「仲介役」や「コンバーター」として働くべきものだったと思うのですが、今回、もはやその当の「メディア」自身が既存の「まっとうな大人」ぶりっこに足とられ、右往左往しているのですからお話になりません。

 なるほど今後、司法の場での決着はそれなりについてゆくのでしょう。それはそれ、です。けれども今回、一連のことのなりゆきをじっと黙って眺めている同時代の〈その他おおぜい〉の視線を、さて、その「まっとうな大人」の側はどのように織り込んでゆけるのか。そういう自らへの静かな問いかけを失った「大人」など、もうこの先、世間から何の信頼も得られなくなっているということをこそ、強く思い知るべきだろう、そう思います。

 今回の騒動、ネット空間での反応がまた熱っぽいものになっていますが、そんな中、先日こんな発言に行きあいました。いずれ無名の誰かの言葉、ではありますが、このなんでもないもの言いの中に含まれている〈リアル〉について、どれだけ誠実に察知し、そして謙虚に引き受けてゆけるか――この先、なお「まっとうな大人」を構築しようとするのならば、どんな立場の者であれ、それが必須の条件になるのだろうと感じています。

堀江社長のことは個人的にはどうでもいい。好きでもなければ嫌いでもない。日ごろ数万円、いや数千円のお金にも困ったことのあるような俺たち庶民にとっては、一連の「騒動」とて別世界の話でしか、ない。けれど、何か時代が変わろうとしていることだけは肌で感じている。」