池田大作が出てこない


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 池田大作が国会に出てこないというのは、はて、一体どういう理由からなんだろう。

 わかったようで実はよくわからない。選挙をにらんだ創価学会潰しだからとか何とか、理屈は確かにいくつもつけられているけれども、今や「宗教法人ってのはロクに税金も払わないで何かうまいことやってやがんじゃないの?」という世間の最大公約数の疑いが問題の中心になってるんだから、そんな永田町の論理の一点張りじゃラチがあかない。国家による信教の自由の侵害うんぬんといった大文字の憲法論も同様。「理屈はそうかも知れないけど、だからってこのままほったらかしとくのはなんだか納得いかねえぞ」という世間の気分を本質的に解消することにはならない。まして宗教家なんだから、そのあたりの世間の気分にはなおのこと敏感なはず。いくら理屈をつけても、「何か都合の悪いことがあるんで逃げ回っている」という印象を拭えないことくらい充分わかっているだろう。

 なら、いっそあっさり出てくりゃいいのに。

 どうも、そういう「エラい人」をいたずらに人前にさらすのは「恥」だという感覚がオヤジたちにはあるみたいで、だからこそ出す・出さないのかけひきもおこってるんだろうけど、でも、そりゃ逆だ。仮りに理屈の上で問題はあっても、敢えて人前に出てきて貫禄を示す。出て、官僚的な答弁などでなく、宗教家としての説得力を見せる。嘘か本当か、ノーベル平和賞をめざしてるってんなら、そういう「政治」をさらりとやってのけるくらいの器量がなくちゃ。何より、「名誉会長、理屈はともかくここは敢えて国会に出て堂々と世間を説得して下さ」と進言できない創価学会の信者の人たちの価値観ってのもたかだかその程度ってことになると思うんだけど。

 「政治」ってのは、どういう価値観をその社会が共有しているのか、上に立つ「エラい」人間というのはどういう身の処し方を期待されているのか、リーダーシップのありようを映し出す舞台でもある。大揺れだと言われる韓国の盧泰愚元大統領の政治資金疑惑に対する姿勢も、あの国の「エラい」の条件を裏返しに見せてくれている。

 ひるがえってわがニッポンはというと、これはもう「エラい」の条件が完璧に複数化しちまってて、と言って新しい「エラい」の最大公約数も見えない現状。おかげで、わざわざ自転車で国会にやってきたり、ミニスカートの電波芸者がそのまんま議員になっちまったり、といった勘違いがそのまままかり通る情けなさ。「パフォーマンス」なんて軽薄なもの言いがまかり通るようになったのも、そういう公認された「エラい」の行方不明と深く関わっている。ことは結構根深いのだ。

*1:初出日時が不明。95年9月~97年2月まで『サンデー毎日』に連載されていた一連の原稿のひとつ、であることは間違いないのだが。なので、日付はダミーということで。