本邦いまどきの「ポリコレ」・考


 明らかに何かがおかしい。いや、前からおかしくなってきているのは確かでしたが、ここにきてまたそれが一段と加速、もはや何か取り返しのつかないところにまで事態の底が抜けて、見渡す限り何やら煮崩れ始めたような印象です。

 他でもない、昨今「ポリコレ」と丸められ、ぐっと扱いやすくなってこのかた猖獗を極め始めている、あの「政治的正しさ=ポリティカル・コレクトネス」をタテにしたさまざまないまどきのワヤの諸相であります。

 まずは、最近出来したその一連の事案、眼についたものをざっとおさらい気味に。
(引用は、web上含めた各種報道などから適宜抜粋)

■事例① 日本テレビ「スッキリ」。「アイヌ」を謎かけで「あ・犬」とやって炎上。
放送当日、夕方のニュースでアナウンサーが謝罪したが、翌13日、北海道アイヌ協会が「はらわたが煮えくり返るような気持ちで残念という他ない」と「激怒」した声明を出し、日本テレビに対応を求めていく方針を明らかに。「加藤勝信官房長官は16日の記者会見で、放送は「極めて不適切」「誠に遺憾」と述べ、内閣官房の担当部署を通じて当該放送局に厳重に抗議。政府としても再発防止に向けた対策を検討する考えを示した。」

■事例② 電通。オリパラ演出プランで渡辺直美を「ブタ」扱いしていたことがLINE経由で流出、炎上。
「3月17日、東京オリンピックパラリンピック開閉会式で演出の統括役を務めるクリエーティブディレクターの佐々木宏氏が「渡辺直美さんの容姿を侮辱するようなメッセージをチーム内のLINEで送っていた」と文春オンラインが報じた。翌日、佐々木氏が謝罪文を公表したほか、大会組織委員会橋本聖子会長も辞任の意向を受け入れた。」問題の事案は、去年3月5日、オリンピック開会式の演出担当者たちのLINE上で、渡辺直美をブタに例え「オリンピッグ」として演出する提案をしたもの。メンバーから猛反対されてグループ内で謝罪、この『オリンピッグ』案は却下されていたが、ここにきて週刊誌にほじくり返されて炎上ネタに。内容は、「ブヒー ブヒー/(宇宙人家族がふりかえると、宇宙人家族が飼っている、ブタ=オリンピッグが、オリの中で興奮している。)空から降り立つ、オリンピッグ=渡辺直美さん」「豚=渡辺直美への変身部分。どう可愛く見せるか。」「可愛いピンクの衣装で舌を出して『オリンピッグ』と。これで彼女がチャーミングに見えると思った。」
f:id:king-biscuit:20210417032049j:plain

■事例③ NHK「ハートネットTV」。盲目の弁護士が「障害者は女性より差別されている」発言で炎上。
(前記、「表」参照)*1 

■事例④ テレビ朝日報道ステーション」。web上のPR動画が「ジェンダー平等」関連で炎上。
「動画はテレビ朝日のユーチューブアカウントで30秒版が、「報道ステーション」のツイッターアカウントで15秒版が公開。」「東京新聞編集局や「しんぶん赤旗」の公式アカウントも反応、ジェンダー論の識者、国会議員などからも批判が相次いだ。テレビ朝日の公式YouTubeチャンネルでは、24日午後1時時点で約13万4000回再生され、高評価が約500に対し、低評価が約8450だった。同日、番組のツイッター公式アカウントは「幅広い世代の皆さまに番組を身近に感じていただきたいという意図で制作しました」「その意図をきちんとお伝えすることができませんでした」と投稿し、動画は削除された。」

 「アイヌ」「女性」「障害者」などをダシにして、「ポリコレ」の名の下に非難や糾弾が始まり、それに対して指摘された側はほぼ間髪入れずに対応し「なかったこと」にしてゆく一連の過程の右へならえ具合、実にわかりやすく看て取れます。

 特徴的なのは、標的となっているのがメディアの舞台での各種表現や言動であること、それに対して「炎上」と呼ばれるような非難や糾弾の集中砲火がなされるのが主にTwitterなどSNSを介した「ネット桟敷」であること、そして、いずれの場合もそれら「被害」なり「不利益」を蒙ったはずの当事者の顔が具体的に見えないままなこと、あたりでしょう。

 もちろん、この「ポリコレ」を利権化して自分たちの利害へ臆面なく誘導しようとする既存の「運動」界隈が、例によってあらかじめ仕込んだような姑息な動き方もしている。

 事例①などは、放送翌日から「北海道アイヌ協会」が「声明」を出していて、それに即応してマスコミ取材がかけられ、そこから政府が遺憾を表明するまでわずか3日。この迅速果敢さは偶然とは考えにくい。また、事例②にしても、昨今「文春砲」などと自称して派手に跳ねている『週刊文春』が仰々しく報道した事案ですが、現在進行形のできごとでなく1年前の、それもLINEを介した(ほら、またSNSだ)関係者のごく内輪のブレーンストーミング的な場での「発言」を今になってわざわざほじくり返して晒してみせたあたり、ことの内容とは別に、何かあらかじめ政治的な意図や仕掛けがあったのでは、という疑念も出てきます。

 これらの点に注目し、やはり何か背後に陰謀めいた策略が……といった方向に想像力を働かす向きがあるのも、まあ、わからないではないですし、それは同じく最近、それこそ「ポリコレ」と同じくらいことさらにあげつらわれる、あの「陰謀論」という定型の解釈ツールにも、いずれうまくなじんでゆくようなものでもあります。

 ただ、それらの眼前の現象とは違う水準でひとつ、この場で指摘しておきたいのは、仮にそれら既存の「運動」の類からの仕掛けがあったにせよ、それらの「意図」と、「炎上」をさせた「ネット桟敷」以下いまどき世間一般その他おおぜい水準の気分がはらんでいるものさしとは、一見対抗しているように見えていたとしても、その背後で双方気がつかないところですでにきれいにシンクロしているらしいこと、そして、それらの意識されざるシンクロ具合も含めて表現するのに、あの「ポリコレ」というもの言いが、これまたあまねく実に便利なものとして使い回されるようになっているらしいことです。*2

 「運動」も「忖度」も「炎上」も「ポリコレ」あるがゆえだし、またそれは同じからくりで「陰謀論」の培養基にもなってゆく。当事者ならざる「観客」たちが「ポリコレ」に「忖度」した動きを起こし、それがまた素早く媒体の現場から関係者、さらに地方自治体から政府筋の反応までも連鎖的に導き出して、事態の鎮静から処理、収拾にあたるところまでもがまるで一連の台本かプログラムのように粛々と行われてゆき、「炎上」から謝罪、弁解を経て、その表現の削除までがフルコース。起こったできごとをとにかく「なかったことにする」これらの顛末はもはや一連の様式美、まるでよくできた「おはなし」の上演に立ち会っているような気にさせてくれるほどの型通りです。

 この「そういうもの」から「なかったことにする」までの過程はほぼ自動的かつ無自覚、無意識的なものであり、だからその途中で、なぜ、どういう理由や根拠でそういう処理がされるのか、などについて言語化されず、記録されることも、まずない。事例①の「スッキリ」の場合など、「アイヌ」を引き金に即座に北海道庁(「アイヌ制作推進局アイヌ政策課」という部署がすでに中心で動くようになっている)が関与して鈴木知事と北海道アイヌ協会が共同メッセージを出し、そこから政府の「遺憾」発言まで脊髄反射的な対応でしたが、これは敢えて言うならまごうかたなく「公権力」による「表現・報道の自由」への介入事案でしょう。しかし、にも関わらず、ふだんからそれらの能書きを神輿のごとく担いで「反権力」ぶりっこに邁進している「運動」界隈から何ひとつ異議申し立てが見られなかったことに加えて、キャスターの加藤浩次が「北海道出身者でありながら即座に対応できなかった」という、これまた「ポリコレ」への「地元」を体した無意識買弁全開な阿諛追従を謝罪の中に組み込んでいたことなども含めて、本邦のテレビというメディアの現場が、すでにそのような「ポリコレ」ごかしの「抗議」「クレーム」の類に対する理性的な足腰など失っていることを、実に無惨なまでにわかりやすい見世物として晒すことになりました。

 そこでは、起こっているできごとの理由や根拠は全て言葉以前の「そういうもの」になっていて、「ポリコレ」はすでに自明の基準、だからこそ、理由や根拠をすっ飛ばして「合理的」「効率的」に事態をただ「そういうもの」として「前へ進める」ために最も便利なツールになっている。かくて、日本語化された「ポリコレ」は、かのジョージ・オーウェルが『1984』で描いて見せたあの「ビッグ・ブラザー」、誰も抗えない存在としてひびの行動の規範、価値の源泉となって現実の社会生活のあるゆる局面を支配してしまっているにも拘わらず、果してそれが実在のものかどうかもわからないまま自明のものにされている形象のごとく、この21世紀の本邦、令和の御代に君臨し始めています。

 一方で、非難や批判、罵倒などが表現されるのは、顔の見える個別具体の名前においてでなく、概ね匿名の場です。昨今の情報環境のこと、それはTwitterその他のSNSであったりするわけですが、いずれそれら匿名性を担保される回路を介して「世の中の声」として現場に届けられることになっている。ただ、それらは昨今、個々に是々非々で吟味され読まれるのでなく、一律にネガティヴな「抗議」「クレーム」として受け取られるようになっていて、現場の側にはそれを「合理的」「効率的」に「処理」しなければいけないというプログラムが、「おはなし」のように起動されるらしい。このへんの事情は、何もこれらメディアの現場に限ったことでもなく、それこそコンビニのレジからレストランやスナックその他各種外食産業などのいわゆる「客商売」「接客業」の小さな場所から、役所や各種公共施設、学校や病院や介護施設など、民間に限らず公的セクターも含めた「サービス」を提供する仕事の現場一般において、ほぼ全面的に「平等」に共有されるようになっています。

 かつてのような一次、二次産業主体ではなく、いわゆる三次産業が社会の生産過程の主流を占めるようになり、それに伴い「経済」もまた金融経済的な領域の比率が高まってゆくことで、そのような世間の「評価」「評判」がそのままカネの流れも規定する――前世紀の終わり頃このかた、そういう仕組みでわれらの社会は動くようになってたようです。そのように社会を動かす大きな仕組みが否応なく変わってきた中、いずれ商業メディアの、それも「マス」を相手取る媒体、「広告」「広報宣伝」という機能にまつわるゼニカネの流れが、世間一般その他おおぜいの「お気持ち」をタテにして、そのような社会のありかたに適応した「正義」としての「ポリコレ」を要求しています。「評判」「世評」の動向がそのままゼニカネに反映されるこの仕組みにおいて、これはたかだか個人の思想や思惑などとは別に、〈いま・ここ〉を生きる全ての同時代にとって、およそ抗いがたい「新たな自然」「もうひとつの生態系」として機能し始めているようです。


●●
 とは言え、これでは話がうまくまとまりすぎる。昨今の本邦「ポリコレ」沙汰、欧米海外本場のそれとはどうも違うところがありそうにも思えます。そのような事情は、この間のもうひとつの事例が、うっかりと象徴的に見せてくれていたかも知れません。

■事例⑤ NHK聖火リレー配信映像から「反対」の声を削除
「4月1日、NHK東京五輪聖火リレーを生配信している特設サイトの映像で、五輪への反対活動をしている人たちの近くをリレーが通過した前後の音声が約30秒消されて配信され、疑問の声が上がっている。「オリンピックに反対」といった声が聞こえてきた直後に音声が約30秒間途切れ、音声が戻った時には反対などの声は聞こえなくなっていた。」

 ここには、もう「抗議」「クレーム」もなければ、「炎上」もない。メディアの現場の側が先廻りして「忖度」して、あらかじめ意図的に音声を消して配信しています。

 生放送でなく、地上波やBSなどでもないweb配信映像だというあたりは、先のテレビ朝日のCM動画などと同じ。webだから後付けで加工することに意識としてそれほど躊躇せず、「つくりもの」としての手の入り方が既存のメディアよりも過剰になることに抵抗感も少ないといった、いまどきの映像・音声前提となったメディアの現場特有の事情もあるのかも知れませんが、いずれにせよ、リリースされた時点でそのような加工がされ、気づいた視聴者から指摘されて配信後に問題の所在が初めて表沙汰になりました。すでに表現は「公共」に流れた時点で整形され、「ポリコレ」準拠の「正しい」ものになっていたわけですが、さて、どうしてこれを「検閲」と呼ばないのか。外部の公権力の指示や視聴者・観客の具体的な抗議やクレームなどの圧力によるものですらない、外から見えない現場の自主的「検閲」による「報道・表現の自由」の危機であるとは、なぜ認識されないままなのか。

 あるいは、先の事例③でも、「ポリコレ」的に「正しい」側の属性とされ、共に「差別」される側として「忖度」される立場にあるはずの「盲人」と「女性」が、同じ「差別」の土俵でどちらがより「忖度」されるべきか、といった構図に巻き込まれるという、以前ならばそれこそ全盛時のビートたけし立川談志あたりに「お笑い」のネタにされていたような事態が、現実になっていました。実際、いみじくも松本仁志が『ワイドナショー』(フジテレビ)で、事例②の渡辺直美をあげつらった電通の事案に関連して「オレももう二人くらいハゲほしいな、とか言うてるし」「ジェンダー関連でわ~と言われたら謝るしかないってのは絶対良くない」と、割と深刻な調子含みのコメントをしていたこなどは、そのへんの危機感の反映だったでしょう。放送したNHKは「全ての差別は許されるべきではなく、比較することが不適切だった」といった趣旨の一般論での弁明をしていたようですが、これら本邦昨今の「ポリコレ」沙汰はもしかしたら国際的な標準からしても悪しき一歩先を行っている部分がすでにあるのかも知れません。

 アメリカにおいて、ポリティカル・コレクトネスを現実化するためには、BLMのような具体的な「運動」があり、またそれに対抗するカウンターの運動もあって、それらは「暴力」を伴うものになっていました。だが、「草食化」が進行したわがニッポンではその必要もない。そんなバグすら必要ないスムーズな適用が粛々と、「忖度」任せに行われ、なるほどアメリカのような社会秩序の急激な崩壊や、「公共」のモラルの危機がそのように具体化し、可視化されることは一見、ないように見えます。

 ゆえに、本邦での「ポリコレ」とは、「忖度」というエンジンで駆動する、世間ぐるみの「検閲」のからくりとして立ち現れる。この「検閲」、かつての20世紀のそれと異なり、わざわざそのための強面の組織やいかつい法律などを整える必要はないらしい。すでに世間に実装されている「そういうもの」というものさしによる「忖度」によって、それは自動的に行われ、その手口や仕事っぷりが言語化され表沙汰になることもない。それは無意識の裡に、言わばコンピュータのOSのように自然に抵抗なく「そういうもの」として粛々と稼動し、実にゆるふわで合理的で省力化された「検閲」を現実のものにしています。

 思えば、何も「ポリコレ」などの外来カタカナ用語を振り回さずとも、そのような事態はすでに以前から、本邦の社会に出来していました。ことばと眼前の事実との乖離、現実を編み上げてゆくための身の丈のもの言いの後退が、「私」と「公」の間のあるべき垣根をなめしてゆき、結果的に「公」の水準でのことばの合理性だけが優越するようになってしまった。その速度に歯止めをかけるべき「私」の領分は、その輪郭をくっきりさせてゆくような個別で具体的なことばや、半径身の丈の生身の実存に紐付いたもの言いを失い、「公」の領分と同じ語彙同じ話法でしか語れなくなっている。 *3

 「個人」主義が突出して称揚されてきた結果、個人が属する集団や組織など「社会」へつながり得る水準のイメージが希薄化してゆき、それがポリコレ談義においてもいきなりその属性に関する取扱いが突出する結果になっているように見えます。オンナであり障害者であり、いずれそれら「所属する集団」の属性を介して「政治的な正しさ」は規定されてくる。以前ならば「個人」ベースの「平等」や「自由」だけが称揚されていたところに、いきなりこの「集団」が意識されるようになったわけで、これは裏返して言えば、それほどまでに「個人」とは一個の個体である同時に何らかの集団に属するものであるという意識が疎外されてきた結果でもあるように思えます。もちろん、だからこそ抑圧は「私」の領分に堆積してゆくわけで、「ポリコレ」と釣り合うような形で最近、やたら使い回され「正義」の依代にされるあの「お気持ち」や「想い」といったもの言いは、おそらくその反映なのでしょう。「公」と「私」、近代このかた連綿と続いてきた本邦ゆえのその間の緊張は、「豊かさ」まかせにそれを考えなしに放置してきた戦後80年近くの経緯のなれの果ての〈いま・ここ〉において、そうと気づかぬ間にある臨界点を超えてきているようです。

 「心ゆかせ」というもの言いが、かつてありました。「心」を「ゆかせる」ということ。それは「気晴らし」であるようなものですが、そのためにはことばが必要だったわけで、ふだんのままだとわだかまってしまったり濁ってしまう、そんな残余の部分こそが「こころ」や「きもち」だったのでしょう。それらは決して表沙汰にことごとしく語られたり言い張られたりするものではなかったけれども、だからこそその分、存分に手当てをしておかないことには、何かの折りに予期せぬ復讐をしかけてくることもある。それは個人の、ただひとりのこころの裡ということでもなく、「みんな」の、「世間」のそういう気持ち、心延えということでもあったはずです。

 本邦の天地にずっと以前からささやかに存在してきた「ポリコレ」が、もしもあるとしたら、それは「お天道様」であり「世間」であるような、いずれそういうもの言いで表現されてきたものさしに準拠していたものかも知れません。そして、それこそが本邦「民俗」レベルも含めたところでささやかに受け継がれてきた、われらの「公共」の原風景だったのではないでしょうか。

*1:掲載誌上で別途、これら事例の内容の概略が一覧表として示されていたのでそちらに誘導。割愛した内容はこちら。「「3月22日、「盲目の弁護士」として知られる大胡田誠氏が出演し差別問題でコメント。「自分でもゆがんでいるなと思いますけど」と断った上で、「『女性差別』と世間が騒いでくれてうらやましいなと思います。障害者差別はもっとエゲつないことがたくさんあるのに、全然騒いでくれない」「視覚障害のある女の子が交通事故に遭ってしまったのですが、『健常者と同じ仕事ができないから損害賠償の額は7割』という判決が出ちゃったりしているんです」などとした上で、「女性差別なんて生っちょろいぞ、なんて思うんだけど、世間は(障害者差別については)あんまり騒いでくれないんですよね」と指摘した。」番組のTwitter上での内容紹介に対してSNS上で批判が殺到。番組サイドは謝罪し、内容紹介の部分を削除した。

*2:内容が抽象的になって読者にはわかりにくいだろう、とて最終的に割愛した部分。

*3:この部分も、雑誌掲載原稿としては抽象的にすぎる嫌いがあるとのことで割愛。持論であることばと現実、〈リアル〉の関係性の変貌を前提にして、高度成長期を介した偏差値世代あたりで全面的に可視化された「ことばと主体の乖離」のさらに延長線上