「私小説的読み方」の習い性、について



 晴耕雨読、と言えば何やら優雅にも響く日々、すでに死語になっている「悠々自適」「楽隠居」といった語彙と共に、馬齢を重ね、紆余曲折を経てきた果てにおのれを知った身の、ある意味理想としての日常を想起するでしょうが、当然、昨今はそんな呑気なものでもなく、長年性懲りもなく貯め込んだ古書雑書やくたいもない資料紙切れ備忘の類も含めて、いまは訴訟係争中の大学に拉致されたまますでに二年と八ヶ月、致し方なく手もと寓居にたまたま囲ってあったものを日々の求め、おのが気分に応じて手にとっては、ためつすがめつ拾い読みしてゆく蝸牛の歩みが実際。それでも、当面どんなに目算の立たない、おのれですら何をやっているのかいまひとつ明確に意識もできにくい営みでも、淡々と続けていればそれなりの功徳はあるもので、たとえば、かつておそらく眼を通したことのある本、どこかで記憶にひっかき傷くらいは残していた一節などが、たまたまの邂逅からあらためて新しい「読み」を引き出してくれることもあれば、そこからまた、〈いま・ここ〉の自分を介して無碍無体に引きずり出されてくる問いの風景の新鮮というのもあったりする。なるほど、「読む」という営みは、その程度には未だに何かの武器になり得るもののようです。少なくとも、まだそう信じる者にとっては。

 かつて確かに読んではいた、そのはずなのに、〈いま・ここ〉だからこそまるで初めて読んだかのように合焦してしまう、たとえばそんなちょっとした断片、何でもない個所。

「その人は鳴りもんが好きでね。わたしも今は歌うたったりラジオ聞いたりするのが好きですけど、その頃は鳴りもんは好かんやったんですよ。好かんというよりも生活に余裕がないもんで、気持ちにも鳴りもんを聞くくらいの余裕がなかったんでしょうね。」

 「鳴りもん」というこの言い方。いわゆる楽器、音の出るもの一般にあたる言い方ではありますが、その「鳴る」という表現のされ方にもおそらくは、かつての身体、ある時期まで確かに生きて〈いま・ここ〉にあった生身の感覚の気配が込められていたはず。それは人が関わり、扱うことで初めて「鳴る」ものではあっても、でも、そこにもの言いとして込められているものの中には、そのもの自体が自ら「鳴る」、そんな感じも確かにはらまれているような。

「その男は三味線、二丁太鼓、ハモニカ大正琴、尺八、バイオリン、なんか弾くんですよ。なんでも弾きこなしよりましたよ。三味線は二日ならい行って三つ覚えてきました。安来節、さのさ節、木曽節。琵琶がないだけでね、そんな鳴りもんをつぎつぎに集めます。古ぼけたのをどこからか手にいれてよろこんでかえってくるのですよ。」

 とある婆さんの、大正初年から半ばにかけての記憶の聞き書き。通俗楽器として市中に流通していた「鳴りもん」が、すでにこれだけ多様にあったらしいことと共に、それらが「古ぼけた」中古品として「どこからか手にいれ」ることも可能だったらしいこと。舞台は北九州、福岡県中間市は深坂炭鉱。「その男」というのは、十五の時から母親と一緒に坑内で働いていた彼女が、十九の時に「いっぺんも会うたことも見たこともないひとといっしょになった」その相手。坑内の仕事からあがって「上におるときはしょっちゅう弾いとる」ような、まあ、ヤマの道楽者の類だったようです。

「わたしがおこりよったとですよ。「やかましい。土手のほうさへいって鳴らしない。やっと坑内からあがったとおもたらベンベンベンベン鳴らして。頭がいたいわい。鳴りもんどころじゃなかろ」」

 「趣味」というもの言いが、いまのようになめされた一律の手ざわりでなく、ある限られた境遇の恵まれた条件と環境にある「個」を前提にようやく許される個別の誂えものでしかあり得なかった時代。炭坑夫が「鳴りもの」にうつつを抜かすことは、たとえ課業外の時間ではあっても「道楽」でしかなかった。ああ、そういえば「余暇」という語彙もまた、そのような課業外の時間について言われ得るようになっていったのも、まだそれからしばらく後のことだったはず。「労働」は最初に輸入、翻訳されて使われるようになっても、そしてその新たな言葉を道具として、ある水準で言語化され、理解されるようになり始めてはいても、それ以外の領分についてはまだ意識はされていなかったし、何より、それまで世間で使われていた「しごと」や「はたらき」といったひらたくもささやかな語彙との間の連絡まで考えをまわしてもらえませんでした。

 「労働」の外、〈それ以外〉としての「余暇」もないところに「趣味」などあるはずもなく、「娯楽」や「慰安」でもなかなか難しい。まして「レクリエーション」や「レジャー」など、まだはるか異世界の話。せいぜいがゆるく「あそび」か、でなければ「道楽」とだけくくられ呼び捨てられるようなものだったはずで、そして、その枠組み自体も、おとこやおんな、こどもや若い衆、それぞれの社会的な立ち位置と役まわりに従って、割と窮屈に決められていました。

 「金がなくなるとそれをすぐ質にいれてね。なんもかもいれてしまって、もうなんもないと、ひしゃくに三味線の糸をつけてそれはうまいぐあいに弾きよりましたよ。誰でも鳴りもんの天才じゃというとりました。いまのわたしだったらよろこんだでしょうにね。祭りのときなんか、二丁太鼓たたくのにやとわれていきよりましたよ。ぎゃっともいわずに一日中たたいて気持よさそうでした。碁は一級で炭坑の青年に教えよったし、野球は選手でキャッチャーしてました。」

 種類を問わない「鳴りもん」の収集、それを使った素人演奏だけではない、碁や野球まで嗜んでいたこの道楽者の炭坑夫。おそらく、彼にとって「鳴りもの」は、「うた」を自分の代わりに現実化し、響かせてくれるものだったのでしょう。ひしゃくに三味線の糸、の創意工夫は、あのウォッシュタブ・ベースと似たようなもの。いや、単に発想が似ているというだけでもなく、発祥の時期もまた大きくは同じ頃、20世紀初頭。ああ、「近代」とはかくも平等に、分け隔てなく、ある種の普遍を、その最も切羽に立ち至るしかなかった地上の生身にうっかりもたらすものでもあったらしいことの例証、ここでもまたひとつ。

 そしてまた、同じその「近代」がうっかりともたらす運命もまた、同じある種の普遍を規矩とされながら唐突に訪れます。

「ひょいとその男は水非常(水没事故)で死にました。若死ですたい。二年しかそうとりませんでしたね。それじゃあ情も深くはならんですよね。十九やそこらじゃね。男がうるさいくらいのもんでしたから。」

 この婆さんにとって、この最初の夫はそのような縁でしかなかった。もちろん、年老いてその記憶をたどってみるがゆえに、当時許せなかった「鳴りもん」道楽の所業に対しても、その老年の生身を介して「かわいそうなねぇ、二十三の青年でしたからね、上にあがってほっとして鳴らしよったのでしょうに。しんから好いとったとでしょうね」といった回想譚のたてつけで語ることもできたようですし、またそれを何度も「同じ話」として語ってみせたことを、聞き手自身、別の場所でこう言っている。「同じ話を私はこの人から何回もきいていましたが、話のたびにその頬を涙がつたいました。」

 けれども、このもうひとつの機会での彼女の語りは、同じ細部を散りばめながら、また異なる響き方をしています。なんでも器用にできる男で炭鉱にゃ珍しい男だった、音楽きちがい、鳴りもんはなんでも上手、三味線からバイオリンまで弾きよった、キャッチボールの選手、唄も天才じゃったね……等々、同じ細部を連ねながら、「けれど、女あつかいが下手たい。女をあつかいきらん。悋気ばっかりして、いっときもわたしをひとりにしきらん」とつけ加えている。

 父親の手慰み、要はこれも「あそび」「道楽」で作った30円の借金のために「ただ親を助けたいが腹いっぱい」「親孝行したいの一心しかなかろうが、泣く泣く盃した。」「わたしは男のこと考えたこともないおくてじゃ。30円借銭した相手はヤモメの人だった。二十四を頭に男ばかり子が三人おった。二十四の頭息子の嫁になった。なって、たまがった。なし、こんなことするんじゃろうか。」加えて、嫁ぎ先のやもめの父親も夫の弟たちも、共に彼女に「おんな」であることを求めてきた。でも、そのことを誰にも伝えず、夫にも言わなかった。「逃げて帰りたかった。ほんに、うぶだったとばい。今どきの人がきいたら、あほか、というばい。けど、体ができとらん。」

 二年しか一緒に暮らせず、坑内の出水事故で突然いなくなった道楽者のこの夫は、そのような日常の昏いしがらみの中、だからこそ「鳴りもん」にかろうじて託してもいただろうその自らの「うた」への傾きについて、彼女と共有することはできなかった。彼女も、晩年にいたってようやく「かわいそうなねぇ」と感慨を抱けるようにはなってはいました。でも、と同時に、当時その頃の自分の記憶を介せば、「女をあつかいきらん」「悋気ばっかりして、わたしをひとりにしきらん」という、おとこの道楽者に対するもうひとつの〈リアル〉もまた、確かに手放せない。その一見矛盾するかにも聞こえる同じ生身から発される双方を、書き手は重心をずらしながら、ふたつの場所に別の記述として現前化していました。

 書き手は森崎和江。初版1961年6月の『まっくら』からの断片。いまからもう60年以上前、実際の聞き書き作業はそれ以前、昭和20年代後半から30年代始めにかけての時期とおぼしき記述群。19世紀末、明治の後半に生まれただろうこの話し手の婆さんは当時、60代半ばから70代そこそこ。いまとは違う「年寄り」のものさしだった時代、「近代」は生身の記憶としてそのようにたどれるものだったことの手がかりとして、文字の記述は〈いま・ここ〉に、「読む」の器量にしたがってそれなりになお、つながり得るもののようです。

 ただ、注意深くあらねばならない、と思うことも同時に、また。

 ここにあげた『まっくら』にしても、書き手の森崎和江にしても、すでにそれらにまつわるさまざまな記述が蓄積しています。それらは「評価」であり「批評」であり、「感想」であり、あるいはまたそれらを横断的に自在につむぎなおしたいわゆる「二次創作」という意味での考察や研究の類も含んだものになっています。まして、書き手自身がこの世を去る時期にあたり始めてからはなおのこと、生身の書き手とのつながりごとこの世から縁が切れてしまうことによってさらに、それら蓄積されてきた記述類もまた別の意味をそれぞれ発し始める。そのような事態はまごうかたない〈いま・ここ〉において、記述の背後に当初控えていたものとはまた別の異なる情報環境において、現前化しています。

 もとの記述、書かれたものは全く同じ文字列のままでも、その後に蓄積されてきたさまざまな言わば「二次創作」の類が別途独自に相互に連関しながら存在してきていることによって織りなされている「読み」のモードがある。それは言わば見えないヴェールのようなもので、それを介して初めてもとの記述は「そういうもの」として自明に、そうと意識しないまま読まれるようになっている。そのたてつけは言葉本来の意味での「歴史」へと連なってゆくはじまり、初発の萌芽のはずなのですが、しかし、ここで敢えて注意深くあらねばならないというのは、その「歴史」へと連なってゆくはじまりのたてつけ自体が、〈いま・ここ〉を生きるわれわれの「読み」にとってはまるごとノイズとして働き始めるものでもあるらしい、そのことです。

〈いま・ここ〉の情報環境の内側で自明化しているそのような「読む」から自ら「おりる」ことを方法的に仕掛けるという、それが何であれ、この世をより良く生きてゆく上での何らかの武器を取り出そうと志して文字を読もうとするほどの者ならば、概ね誰もが自ら課していたはずの「読む」作法について、もはや立ち止まって顧みる余裕すら失われつつあるらしい昨今の日本語環境をめぐる現状からすれば、このような留保はなおのこと、切実に求められるものになっているように思います。

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 日々このような「読む」を飽きず続けているうちに、ひょっとして、という程度ではあるのですが、このところ新たに宿ってきたまだ茫漠とした、でもかなり大きな問いがまたひとつ。走り書き程度ですが、今後のための覚え書き代わりに書きとめておきましょう。

 世の中に対する見方や考え方、起こったできごとや事件、あるいは日々身の回りのありふれたよしなしごと、つまりは〈いま・ここ〉の現在についてどのように見たら、考えたらいいのか、といった角度から書かれたものを読む習い性というのが自分にはいつの頃から身についてしまっているらしい。それは相手が小説であれ随筆であれ、コラムやエッセイ、新聞や雑誌の記事などのいわゆる報道ものであれ、基本的にそう変わらないようなのですが、そのような「読み手」としての習い性を省みると、どうも書かれたものに対してはまずその背後に必ず何らかの生身の書き手を想定し、その書き手がどのような人間か、どういうものの見方や考え方をするのか、何のために何を思ってそのようなことを書いたのか、などといったことを併せて考えながら「読む」ことが習い性になっていて、それは同じ生身の自分、〈いま・ここ〉を生きる読み手としての意識や感覚と紐付けられて、その間に眼前のその書かれたものと対峙しているといった感じ。これをいま仮に、記述を私小説的に読む習い性という意味で、「私小説的読み方」とでも呼んでおきます。

 言うまでもなく、この私小説をめぐる議論というやつも、主に書かれた「作品」をめぐって推移してきていて、それは当然ではあるのでしょうが、ただ、同時に読み手の側がどのようにその書かれたものを「私小説」と意識、ないしは自覚した上で読んでいたのか、といったあたりの考慮は、未だ薄いままなようにも思えます。ざっくり言ってしまえば、読み手のその「読む」ことの習い性がもうすでにある段階から「私小説的な読み方」一択になっていた可能性はないのか、殊に「作品」としての私小説のあり方が固まってゆく過程ですら、もしかしたらそのような「私小説的な読み方」の習い性の広がりの方が先行していて、そのような「読み」が逆に書かれた「作品」のあり方を、つまり書き手である作者の側も含めて規定していった面もあったのではないか。

 こういう場合、書き手もまた読み手である、という視点が含まれるわけで、書き手の側にもそのような「私小説的な読み方」が習い性的に実装されていったことで、そのような自分自身の「読み」を足場にしながら「書く」へと向かっていった経路はあり得たでしょう。自分がものを書く時にどんな「読み」を想定して「書く」に向かっていったのか。その際、すでに自分の裡に「私小説的な読み方」を自明に発動してしまう、そのような習い性を身につけた読み手がひそんでいて、そしてそれはその書き手だけのことでもなく、ある程度同時代の情報環境の内側に広汎に宿り始めていた「読み」のひとつのモード、「民俗」的なレベルも含めた意味での何らかの集合的な意識や感覚を規定する習い性として宿り始めていたのではないか。

 あらゆる「書かれたもの」は「私小説」である――こういうと端折りすぎ、かつ言い過ぎだとするならば、あらゆる「書かれたもの」は「私小説的な読み方」にさらされることを前提にうっかり生産されてしまってきたものである、でもいいかも知れません。少なくともある時期からこっちの〈いま・ここ〉の裡においては。*1

 散文とそれ以外、詩や短歌などの場合はどうか、文字ではなくビジュアル表現、さらにはそれこそ「うた」などの身体的表現だとどうか、など、さらにいくつもの補助線や仮説は必要ですが、同時代の情報環境に良くも悪くもそのような「私小説的な読み方」があたりまえな「書かれたものに対する読み方」として宿り、広汎に実装されていったかもしれない過程というのは、単に文学史や文芸批評その他、タテ割りタコツボ化が極相化している現在の日本語環境における「専門性」の不自由自体から自ら解き放たれようとする意志が生身に伴わないことには、おそらくうまく意識すらできないものではあるのでしょう。

*1:「書かれたもの」は、基本的にその書かれた同時代の「読み」の水準に即して書かれるはずだ。意図的にそれら同時代的な縛りを越えた記述を書き手が心がけたとしても、その書き手の生身の主体自体は否応なくその同時代的な縛りの裡にある。そのような同時代的な「読み」のありようから、「書かれたもの」はそれが書かれた瞬間から引き剥がされてゆき、当初書かれた時点では書き手も読み手も共に想定すりしなかったような、次の時代、異なる情報環境に宿ってゆく新たな「読み」の前に身を置き続けることになる。「書かれたもの」の「転生」というのがあるとしたら、おそらくそのような意味においてだろう。……230616