「あの戦争」の引き継ぎ方

 「敗戦」から79年、ざっと80年という時間が経過したことになりました。1945年から2024年――なるほど、われらが生きるこの21世紀というのは、そのように淡々と、ある種冷酷なまでに〈いま・ここ〉、であります。

 この時期、毎年、新聞やテレビで「あの戦争」に関する特集企画などが出されるのも、すでに年中行事のようになって久しいですが、実際に当時をわが身で体験、見聞されてきた当事者の人がたが、もうほとんど鬼籍に入られるか、少なくともそのように一人称で語ることのできる「語り部」として表に出てこられないようになっている、すでにそういう時期でもあるらしい。そう思って眺めれば、それら「あの戦争」譚の話法や文法も昨今、だいぶ様変わりしてきてはいるようです。

 たとえば、「特攻」ひとつとっても、その語られ方はすでに戦後このかた、さまざまに蓄積がされていて、自分などの眼からみると、見事なまでにある種の「民話」としての語りの定型が、その読み取られ方も含めてできあがっているように見えます。

 もちろん、それが本来やってはいけない戦い方だったことは言うまでもなく、「統率の外道」であることは、特攻を採用した海軍中将大西瀧次郎自身が認めている。それは「若者」を「無駄死に」に追いやった「あの敗戦」に至る民族的規模での悲劇である。だから、なにも「あの戦争」に限らず、そのような悲劇をもたらす「戦争」自体、絶対的な悪であり、われら日本人は二度とその当事者になってはならない――ざっと概ねそのような流れで理解されるのがお約束でした。

 事実、親兄弟から親戚身内の半径で、実際に戦場へ駆り出されて戦死したり傷ついたりした者は必ずいたし、「銃後」のおんな子どもでも、都市部なら空襲の被害は広く受けていたわけで、それらも含めて国民的な間尺での「あの戦争」の「被害者」としての当事者意識を国民間で共有し、担保するための大事な足場の役割を、期せずして「特攻」は持たされてきました。かくて、「戦争はいけない」という「正しさ」と同じくらいに、「特攻はいけない」もまた、戦後のわれら日本人にとって、問答無用の「正しさ」になってきました。

 ただ、だからこそ、でもあるのでしょう。「特攻」が旧日本軍の、それも航空特攻だけに特化したイメージに固められ、その分、それによって輪郭を定められてきた国民的間尺での「被害者」という当事者意識にとって、そろそろ「特攻」は他人事になりかけている。「あの戦争」自体の体験や見聞が当事者の一人称を介した語りとしては存在できなくなってきたことともあいまって、「特攻」は、ますますモニターや銀幕に映し出された解像度の高い一連の動画、敢えて言えば他人事の「おはなし」としてだけ受けとられるようになり始めている。

 「戦争体験」を語り継ぐ、という名目で、その「語り部」を新たに作ろうという動きまでも最近、あからさまに出てきているのも、「あの戦争」が当事者による体験、見聞の語りを介した〈リアル〉の水準から否応なくひきはがされてきて、むしろそこから一歩距離を置いた対象、それこそフラットで予定調和的に安定した「コンテンツ」として粛々と「歴史」の側に織り込まざるを得なくなりつつある、そういう転換地点に〈いま・ここ〉という現在がさしかかっていることのわかりやすい証左でしょう。「忘れてはならない」「風化を食い止める」といったもの言いで、「あの戦争」を何とか国民的記憶として受け継いでゆこうとする、そのモティベーション自体は確かに真摯で「善意」に動かされてのものでしょうし、またその限りにおいて、にわかには否定しにくい「正しさ」をすでにまとったものになりつつある。

 ただ、そのように一人称の体験や見聞を超えたところで「語り」を固定化してゆく、それも一定の解釈の仕方、読まれ方まで直線的に想定した話法、文法でやろうとすることは、さて、本当に「あの戦争」をわれら同胞にとって受け継いでゆくべき「歴史」の相で穏当に記憶してゆくことに本当に繋がるのか。そのように新たにつくられてゆく「語り部」のその語りに、あらかじめ漂白され整えられた「コンテンツ」としての「正しさ」もあたりまえのように粛々とまぶされてゆくだろうことへの違和感、不信感もまた、すでにほぼ80年を経過してしまった「あの戦争」の、「歴史」への転換地点としての〈いま・ここ〉には、明日に向かう心の平衡を保つために必要な底荷なのではないでしょうか。