「ハラスメント」沙汰の横行とその背景

 姜尚中氏が「ハラスメント」疑惑、だそうです。

 え、それ誰だっけ?という向きももはや少なくないのかも。自分も正直、しばらく忘れていたお名前でした。

 かつては東京大学教授の肩書きとあいまって、『朝まで生テレビ』などテレビの討論系番組にもよく顔を出し、いずれキャンキャン騒いで目立ちたがるが常の出演者の中で、その低めの声での語り口と落ち着いた態度とで「信用できる知識人」という雰囲気を全身から発して、そういう信頼度のせいかNHKのお堅い番組などでも安定の登板回数を誇り、もちろん新聞や雑誌など活字媒体でも重宝されていた、まあ、そういう「有名な文化人」のおひとり。専門も政治学、政治思想史という硬派なたてつけで、自ら「在日」であることも悪びれず公表し、お身内の不幸を題材に「小説」もものし、ああ、こりゃそのうち選挙にでもご出馬かな、と思っていたのですが、いつのまにか故郷熊本にお戻りになっていたようで、鎮西学院大学の学院長兼学長といういまの肩書きで、なぜか「ハラスメント」沙汰になっていた、と。

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 詳細は報道でしかわかりませんが、ことは昨年の2月というからすでに1年以上前のできごと、しかも私立大学の経営陣内部のいざこざのようで、経緯そのものも「大学を運営する学校法人の理事会で監事だった弁護士に「大学生以下だ」などと発言し、法人設置の第三者委員会が調査報告書で「極めて不当」と認定していた」(報道より)といまひとつ要領を得ないのですが、要は内部の権力争いの一環で起こった「有名な文化人」の「ハラスメント」ということで表沙汰になったのかな、という印象ではあります。

 とは言え、この「ハラスメント」というもの言い、「第三者委員会」などと併せ技で近年やたらと眼にするようにはなった。「セクハラ」はすでに普通に使われるキラーワードですが、何も下半身がらみだけでなく、何でもかんでも「●●ハラ」と称して揶揄的かつ恫喝的に使い回されるようになっています。特に、大企業やお役所、大学、マスコミといった「ちゃんとしている」はずのお堅い組織においてのそれが、報道ともあいまってやたら頻発している印象は、未だにすったもんだのフジテレビや兵庫県知事をめぐる騒動だけでもなく、むしろその「ちゃんとしている」はずゆえに、過剰に意識されているフシも。

 「ちゃんとしている」というのは「信用できる」「頼りになる」という意味あいでもあります。なのにそれを裏切るような行為があると、その「裏切られた」という気持ちは一気に増幅される。その鬱憤のわかりやすい受け皿として「ハラスメント」というもの言いは便利なところがあるのでしょう。

 「ちゃんとしている」は「エラい」と裏表でもあります。「エラい」という敬意を世間から普通に受ける立場になると、それに見合った「エラい」身ぶりや言動もそれなりに必要にはなる。かつてよく言われていた「肩書きが人をつくる」というのもそういう意味だったのでしょうが、ただ、昨今はそういう「人をつくる」ような関係からして、そもそも成り立たなくなっているらしい。

 「即戦力」を求めてできあいの「人材」を鵜の目鷹の目で探してきては、先行きその他まで深く考えずに「とりあえず」嵌め込んで行き、ダメならまた速攻で「切る」――会社であれ何であれ、人の手当てがそういう近視眼的なやり方でしかできなくなってきていることは、近年、誰もがそれぞれの立ち位置で思い当たることではないでしょうか。

 「ちゃんとしている」「エラい」はずの組織や集団であるほど、それに見合った身ぶりや言動というのは、その組織や集団の内側に対してだけでなく、〈それ以外〉の外側の世間に対してもそれなりに制御された形で実装されているはずが、そういういわば「タテマエ」的なガワを装い演じてみせる、日常生活を持続的に保ってゆく上での知恵としての、言葉本来の意味での「政治」が足もとから煮崩れてゆくような昨今。

 「セクハラ」も「パワハラ」も、その他何であれ「ハラスメント」と大文字ひとくくりに断罪するのが正義とでも言わんばかりの昨今というのは、実はそういう半径身の丈日常生活の間尺での「政治」の知恵で制御されていた領域――それはまた言葉本来の意味での「公共」との関係で成り立っていた「私」の領分だったはずです――が失われつつあることの反映のように、自分などには見えています。