「コスパ」と「タイパ」、集中と持続そして反復


 本というやつ、残念ながらやはり、時代のうしろへと繰り込まれてゆきつつあるようです。

 書物といい、書籍と呼び、いずれそれら漢語の画数の多い語彙にするとなおのこと、何やら重々しさも感じる字ヅラにもなるわけですが、日常的にはまず「本」、これ一発。それらを売る店は「本屋」であり、少し体裁をつけるなら「書店」である、そういうものでしょう。それが次々と姿を消してゆき、日々を生きる風景から「本」を商品として商う場所が粛々と削除されてゆく現在が、ニュースとして報じられることに慣れっこになってしまってすでに久しい。

 文字その他、何らか印刷され刷り上がった紙を適切な大きさに裁断し、ページとしてめくることのできる形にして整序し、綴じて表紙をつけて「本」にする――つまり「製本」という工程ですが、「本」と呼ばれるものの本質というか、ブツとしてのそもそもの本態はこの「綴じられて製本された紙の束」という形態にあったりします。前にも少し触れた、少し前まで普通にあったカラオケの場での分厚い歌詞本を「カラオケの本」と呼ぶ呼び方が期せずして表現していたように、そこにどのような内容が印刷され盛られているものであれ、世間一般その他おおぜいの日常感覚における「本」というのはまずそのかたち、「綴じられて製本された紙の束」において認識されるものでした。

 それらの基本的な認識の上に、主として文字を読む、そのための媒体という意味あいの層が重なっている。媒体だからブツであり、そういう形態の物理的な存在であるわけで、本来それ以上でも以下でもないはずなのですが、けれども、その本であり書物であり書籍であること、その形態自体にもどうやらすでに拭いがたくある感情やこだわりや、その他言うに言い難い何ものかもまた、まつわってきてしまっているらしい。それは単なる個人の性癖というだけではなく、もっと大きな歴史・民俗的な相にまでおそらく根を張ってしまっているもの、ではあるのでしょう。

 たとえば、このような挿話は、戦後の過程でさまざまな人により、繰り返し語られてきました。

「戦後世代は、昔にくらべ本を粗末にする、という声をよく聞く。本の扱い方が手軽になったのは確かだ。しかし、それは子供の頃教え込まれた馬鹿々々しい書物崇拝の反動であるかもしれない。勅語ののっている修身教科書や教練の本などは、読む前に拝まねばならなかったし、ほかの本でも人間より貴いみたいに取り扱い、足でまたぎでもしたら大変だった。」

 実際、戦後の高度経済成長ネイティヴ第一世代の自分などでも、特にそのようにしつけられたわけでもないはずなのに、日常の挙措や立ち居振る舞いといった水準の「そういうもの」として刷り込まれた生身の癖のようなものとして、この「本を踏む」ことに対する禁忌の感覚は身の裡に確かに宿っています。それはレコードなどにまで何となく揺曳していて、カセットテープやCDが身の回りにあたりまえに出現するようになってようやく少し薄れていったような。まあ、同時にそれらのプラケースの壊れやすさという物理的要因が伴うようになって、そういう意味で「踏む」ことを避けるようにもなりましたが、ケースから出された裸のカセットやCDに対してはやはりそのような忌避の感覚はほとんどなくなっていった印象はあります。もっともその間、畳敷きの和室から椅子と机の洋室へと日常生活空間の主なしつらえが変わっていったことや、それら空間の違いによる、ものを「散らかす」という状態に対する日常の感覚の変遷など、さらに深めて考えてみるにはいくつか補助線を引かねばならないのでしょうが、それはそれとして。

 ここで言われている「書物崇拝」というのは、一応はその「ブツとしての本」に対してのもので、その「崇拝」の拠って来たるところを際立たせるために「勅語」が持ち出されてきている。戦前という時代、天皇や皇室に対する崇拝を強要されたように、単なる「ブツとしての本」もまた崇拝されていた――これは、あの御真影とも併せ技にして一連の文脈で語られる「戦前」の媒体「崇拝」のくだらなさを主題とする「おはなし」の、ある定型でもありました。

 けれども、本というブツ、書物そのものに対する「崇拝」とまで言わずとも、日常生活におけるそのような尊重の感覚も含めてのことならば、それ以前からもあったこともまた、いくらでも語られてきている。それは何らか信仰や宗教と複合しての、いわゆる「偶像崇拝」などとも地続きに論じられることもあり、また、おそらくこちらがこの場では大事だと思うのですが、文字そのものに対するそのような尊重の感覚の文明史的な間尺での経緯来歴ともからんでくるお題ではあるのでしょう。

 字ぃの書かれとるもんは、粗末にしたらあかん――明治30年代の生まれだったばあちゃんがそのように諭していた声は、何となく今でも、耳の底に残っています。



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 本と文字、という組み合わせが「崇拝」なり尊重の根元に横たわっていたものだったとして、ならば、それを「読む」という営みにもまた、時代による変遷が投影されていました。例によって、あまりまともに意識されてはいないことではあるようですが。

 昨今、若い衆世代がよく口にする「コスパ」や「タイパ」というもの言い。かけた時間や費用に対する効果、という程度の意味のようですが、もともとおそらくビジネスの現場で使われていた、その意味できわめて効率重視の味気ない考え方に根ざしたもの言いだったはずなのに、これが日常全般から人生設計にまで使い回されるようになり、日々の情報収集というか、各種媒体と接する際にもフラットに適用されるようになっている。

 文章を「読む」よりも、映像や動画を見る方がコスパやタイパを稼げる――たとえばこのような考え方ですが、それはスマホに代表されるモバイル端末の高性能化と常時接続環境の普及によって、文字と本(という形態)の組み合わせによって成り立っている媒体である書籍、書物が、もはや「崇拝」はもとより日常感覚からの尊重もされなくなったいまどきの情報環境ならではのものではあるのでしょう。「まとめサイト」と呼ばれるような概説的で一見わかりやすい絵説きや読み解き系コンテンツの簇生、あるいは翻訳ソフトなど日々新たになるIT技術を介した通言語的な環境の整備に伴い、世界的な規模で広まり続けているYouTuberによる動画と音声による情報発信なども含めて、文字と文章もまた、それらさまざまな情報コンテンツのひとつ「でしかない」ことを否応なしに思い知らされ続けている現状。と同時に、それらの発信が、情報の信頼性を担保する背景となる専門性の濃淡、社会的立場やそれに伴う責任などの発信する「主体」の属性と乖離したところでどんどん可能になってきていることなども、また。

 文字だけでなく言葉やもの言い一般が必ず伴うはずの文脈、さらにそれらをつづる「主体」とのつながりを切り離されたところで流通し得るようになり、その分、一見軽快に効率的に、消費者感覚からすれば「便利」に受けとることだけができるようになっていて、またそのような方向に整序されてゆきつつあるように見えるいまどきの情報環境。けれどもその一方で、文字を操り文章をつづるその営み――「情報」「コンテンツ」の「発信」と今様に言い換えてもいいですが、少なくとも文字を介しての従来のような「書く」についてはむしろどんどん不自由に、日常から縁遠いものになりつつあるような。「主体」がぼやけて意識されにくくなっている昨今の情報環境においてはなおのこと。映像や動画、音声といったその他の「情報」と横並びに受容され、消費されてゆく環境においては、文字を「書く」、まして文章をつづってゆくことは、かったるくめんどくさく、まさに「コスパ」「タイパ」において遅れを取るものとしか受け取られなくなっているようです。

 「近頃の若い者は本をとばし読みする、読者百遍意自ずから通ずと言った精読の習慣がない。文章を熟読玩味して、暗誦するぐらいにならなくてはいけない。(…)またこういう苦言もよく呈される。この頃の青年は、昔にくらべ、余り本を読まないと。しかしそれは近頃の青年が怠けているためではない。映画やラジオやテレビが盛んになったために他ならない。まだるっこしい解説書やルポルタージュを読むより、ニュース映画やテレビニュースを見る方が、百聞一見にしかずで的確に事態を把握できる。くどくど書いた見聞録や案内書より、外国映画の方が、彼の地の風俗を直截に示してくれる。筋だけの大衆小説を読んで時間をつぶすより映画の方が余程楽しい。つまり今まで読書によって得ていた知識や娯楽が、より効果的な映画、ラジオ、テレビによって得られるようになった。読書が減るのは当然と言ってようだろう。」(奥野健男「戦後世代の読書」、『財政』1957年10月号、『二刀流文明論――戦中派の抒情と毒舌』所収、冬樹社、1964年)

 かつて「視聴覚文化」論が花盛りだった頃の、ある意味典型的な言説ではあります。このあと、「その代わり読書は、本によってしか味わえないものに精選される。テレビや映画では表現することのできぬ、深い思想を書物にもとめるようになる。他で代用できるものは、代用してしまうほど、かえって書物の独自性が、より厳しく認識されて来るのだ」と、逆説的に本と読書を擁護してみせているあたりまで含めて、それなりに良識的でバランスもとれてもいる、当時のひとつの定型ではあるのですが、しかし、その前提としてその頃の「読む」の一端としてあげられるのが次のような例だったりもするあたりも含めて、すでに60年ほど前という時間の経過、〈いま・ここ〉と地続きの「歴史」の手ざわりを〈リアル〉につなげて「わかる」に至ることの難しさをあらためて感じさせられます。

 「今の学生はつまらない小説は読まないが、古典への欲求は決して減っていない。戦前派から難解だ、高踏的だ、と批判されている『世界』『中央公論』など総合雑誌の読者の平均年齢は、23歳ということである。つまり殆どの読者は戦後世代なのだ。そして戦前世代は、読み終わったら屑籠に捨ててよいような、週刊誌や娯楽雑誌ばかり読んでいる。いつの時代でも難しい固いものを読むのは青年であり、やさしい、くだらないものを愛読するのは中年以上なのだ。」

 総合雑誌の時代が事実上終焉を迎えて久しく、いやそれより何より、いまや総合雑誌どころか、その「週刊誌や娯楽雑誌」も含めて、そもそも「雑誌」というたてつけの媒体自体が商品市場としてもう干上がりかかっている現在、眼前のこのような情報環境とどのようにつきあってゆくのか、それこそ言葉と文脈、あの「主体」と〈知〉のつながりをあらためて手ざわり確かなものにしておくための方策を自分ごととして模索してゆくためにも、文字と本の組み合わせで成り立ってきた書物、書籍という形態の媒体そのものの拠って来たる経緯来歴から、根こそぎ静かに考えなおしておく必要があると思っています。


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 本という形態と文字の組み合わせによる媒体に対する、このどんよりとした忌避感。「コスパ」「タイパ」を気にするいまどき若い衆世代の気分に敢えて寄り添うならば、それは文字によってつづられた文章を読むことのかったるさについて心底嫌気がさしているところに根ざしてもいるようにも思えます。

 なるほど、文字の文章はそれを読む段において、一行ごとに視線を集中させて、文脈をリニアーにたどりながら、それに合わせて思考もまたぐっと集中させながらの作業にならざるを得ない。「精読」の奨励、「行間を読む」といったもの言いなども、「学校教育」という実践の場においては、いずれ視線と意識とを一点集中的に凝縮して合焦させるような方向での生身の調律を強いるものではありました。そしてそれは、「読む」だけでなく「書く」においても地続きに求められる作法でもあった。ていねいに書く、きれいに書く――「浄書」「清書」といった、それまでからの「そういうもの」に規定されていた「書く」は、おそらく書道などから由来してもいたのでしょうが、「学校教育」の場においては、授業中にノートをとることを「板書」を「筆写する」ことと理解する/させてしまうような心得違いを、新たに「そういうもの」としてこの国の世間の人々の心の習い性の裡に繰り込んでゆきました。

 「集中する/させる」ことが、おそらくは眼目だったところもあったのでしょう。ひとつことに専心して、その場で脇目も振らず、ただひたすら何かを誠実に、倦まず弛まずずっと続けてゆく――それは、「辛抱」や「苦労」といったもの言いで奨励されてきた本邦世間での処世訓の盤石の教えともそれは重なってくる身ぶり、日常の作法でもありました。いや、もしかしたらことの順序はさかさまで、「辛抱」「苦労」という処世訓が盤石だったからこそ、「読む」も「書く」もそのように強いられるようになっていたのかもしれませんが、いずれにせよ、生身を介した粒々辛苦、日々の手作業としての反復に耐えてなじんでゆくことが、この世を生きてゆく上で最も効率的で合理的な作法であった時代の、そういう社会のありように即した一連の、誰にとっても概ね役に立つと思われていた身体を養成してゆくための日々の稽古の一環でもあったのでしょう。

 けれども、いまはそのような稽古は忌避される。同じ文字、変わらぬ文章であっても、それを「読む」作法からそれら「集中」という属性は剥落し始めているようです。「読む」という意識から「集中」が薄くなってゆき、ことの必然として「連続」もまた失われてゆく。持続して集中して「読む」ことから、断続的に刹那の合焦の連鎖として文章に接することへの静かな遷移。それが共に同じ「読む」なのかどうか、教室で教科書を前にし、図書館で調べものをする眼前の若い衆世代のたたずまいは一見、変わらずとも、その身の裡で作動している情報処理の過程は、これまであたりまえだと思われていたような「読む」とは、実はもう違うものになっているのかも知れません。

 「書く」もまた同じこと。筆記用具をおのが手指で持って眼前の紙に向かうのでなく、スマホフリック入力やキーボードのタイピングを介してモニターの画面に向かう時点で、身の裡の意識の構え方から感覚まで、すでにかつての「書く」ではなくなっていることは、自分ごととしても認めざるを得ない。「読む」に比べるとまだこれまでのような「集中」も「持続」も必要なのは、リニアーにテキストを、まさに「織物」のようにこつこつとつむいでゆかざるを得ない文字媒体の特性ゆえでしょうが、しかし、それさえもかったるくめんどくさいと感じてしまう〈いま・ここ〉というのも、また厳然としてあるらしい。

 なんの、すでにしゃべったことをそのまま文字に起こしてくれるアプリはいくらでも転がっていて、口述筆記なんて苦労話も今や昔、そのままひと手間かければあたかも手作業で書いたかのような文章は「コスパ」「タイパ」良く「出力」できる。いやいや、よくわからないけれども、なんでもChatGPTとかいうバテレンの秘法のごとき最新技術を使えば、これこれこういう主旨の文章をこういう文体、こういう感じでこさえてくりゃれ、と命じるだけで、あら不思議、たちどころにそれらしい文字列を吐き出してもくれるようになっているとか。「集中」も「持続」もあらばこそ、そもそも文字の文章をいまどきの情報環境に即した平明でフラットな「コンテンツ」として生み出すためには、そんなしちめんどくさくかったるい修業をせねば使いものにならん生身の主体など、もう用なしのお払い箱になりつつあるような気配。

 たくさん読む、早く読む、をよしとするあの「速読法」的な「読む」でなく、あるいはまた、世にある書物をできることなら全部完全に読み尽くしたいという方向での無限に肥大するばかりなとりとめない欲望まかせの「読む」でもなく、たまたま手もとにやってきた一冊を繰り返し読む。場所を変え、時も隔てて、古い友達やなじみきった恋女房などと「つきあう」ように読む。そのような「読む」のフェイズも鷹揚にひっくるめて初めて、退屈でかったるい修業めいた反復とばかりイメージされてきたあの「持続」も「集中」も、本当に生きる上での役に立つよう身につくものだったはず。別に活字の本に限ったことでもなく、たとえば音楽とて同じこと、網羅的に読み尽くし聞き尽くすという方向ではない、「集中」と「持続」の過程で同じものを反復して刷り込んでゆくような媒体との接し方というのが確かにあったし、その豊かさもどこかで担保されていた。それが本邦のリテラシーのありようだったはずなのに、いまやそれももう時代遅れ、平板な現在だけが時計じかけのごとき味気なさで切り替えられてゆく現実に、「主体」も「文脈」もまた、本来の〈いま・ここ〉の迂遠な包容力から見捨てられてゆきつつあるもののようです。